唐代中期の被葬者の学際的研究
唐代中期の被葬者の学際的研究(Zhao et al., 2023)が公表されました。本論文は、唐王朝の庶民の墓地と推測される遺跡の被葬者3個体について、その形態と同位体とDNAを分析しました。この3個体は、遺伝的には中原の古代人集団との類似性を示します。なお、本論文の表題では唐王朝は中世とされており、かつて中国史の時代区分論争が激しかった日本で生まれ育ち、その関連本(関連記事)も複数読んできた私にとっては興味深かったものの、本論文の表題は日本における中国史の時代区分論争を踏まえたのではなく、英語論文なので、同時代のヨーロッパが中世とされていることに合わせただけなのかもしれません。
●要約
ヒト遺骸の学際的研究は、歴史における人口動態や文化拡散や社会組織や慣習についての重要な情報を提供できます。本論文では、学際的分析が中国史において最も繁栄した王朝の一つである唐王朝(618~907年)の、双照(Shuangzhao)墓地の合葬(M56)で行なわれ、唐王朝の遺伝的特性および社会文化的側面に光が当てられました。考古学的調査では、この埋葬は唐中期に属し、一般市民により使用された、と示唆されました。骨学的分析はM56から発掘された3個体の性別と年齢と健康状態を特定し、この3個体は安定同位体データから推測すると同様の食性を共有していました。ゲノム証拠から、これらの共同埋葬個体には遺伝的親族関係はないものの、全員、仰韶(Yangshao)文化および龍山(Longshan)文化の個体群などにより表される、中原の古代の人口集団の遺伝子プールに属していた、と明らかになりました。考古学および歴史学の記録と、化学および遺伝学の分析を含む複数の一連の証拠は、夫婦の家族合葬である可能性がひじょうに高い、と示唆しました。本論文は、唐王朝の埋葬習慣と社会組織への洞察を提供し、歴史時代の中国における市民生活の仮定的状況を再構築します。
●研究史
唐王朝(618~907年)は、中国史で最も繁栄した王朝の一つでした。その政治および経済制度は、社会的慣習とともに、その後の中国およびより広くアジアの社会にさえ大きな影響を与えました。唐王朝の首都として、長安(Chang’an)は中原に位置しており【一般的には、長安は関中地域とされ、中原には含められないと思いますが】、好適な自然条件の地域でした。秦から隋王朝の継続的な開発と建設は、この期間までに長安が最高水準の社会および文化的繁栄の国際的大都市になったことを意味しました。唐王朝中期には、経済的発展は帝国の試験制度(科挙)や新たな税法の継続的な実行とともに、貴族により保持されてきた政治および経済的資源の独占を壊し、社会階級の階層化と再編成が起こり始めました。その結果、一般市民が社会の主要層となり、経済および政治的生活においてますます重要な役割を果たしました【唐代でここまで「一般市民」の成長を断定するのはかなり問題のようにも思いますが】。しかし、公的な歴史記録は重要な人物や出来事にのみ焦点を当てる傾向にあります。唐王朝と関連する多くの公的な歴史資料があるにも関わらず、一般市民の生活と慣習に関する詳細な記録はほとんどありません。
近年では、古代DNAと生物地球化学から歴史学および考古学の研究まで、複数の種類の情報が継続的に統合され、学際的手法が古代社会の知識を大きく増やし、歴史物語を活性化しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。ゲノム規模データにより研究者は、さまざまな地域の人口集団もしくは個体群の祖先の要素の推測が高精度で可能となり、人工遺物や生物組織の地球化学的分析は、ヒトの移動および交易経路の研究にとって重要になってきました。
たとえば2020年の研究(関連記事)では、ゲノムと考古学と歴史学と生物地球化学のデータが統合され、ペルー南部の2ヶ所の墓地で発掘された6個体が調べられ、後期層準(Late Horizon)人口集団がペルー北部からチンチャ渓谷(Chincha Valley)に移動したことを裏づける、一貫した結果が得られました。さらに、環境データ、古食性の安定同位体の代理、有機残留物の分析、コラーゲン指紋法や古プロテオミクス(タンパク質の総体であるプロテオームの解析手法)など多くの新たな科学的手法(関連記事1および関連記事2)が、ヒトの歴史のより包括的な情報の解明に用いられています。
墓の碑文や壁画など唐王朝には多くの歴史資料があり、それらは考古学的研究に有益な情報を提供できますが、唐王朝の人骨資料は稀です。本論文が把握している限りではこれまで、ゲノムや自然人類学や古食性の分析を含む、唐王朝の生物考古学的研究で刊行されたデータはありませんでした。2019年に、陝西省咸陽市の双照墓地(図1A)での咸陽市文物考古研究所による発掘中に、考古学者が保存状態良好なヒト遺骸のある唐王朝の墓(M56)を発見し、唐王朝における平民個体の生活への最初の手がかりを得るための貴重な機会が提供されました。唐王朝の首都である長安に隣接する咸陽は、唐王朝の京兆府(Jingzhaofu)の管轄下にありました。多数の帰属と一般市民がそこに埋葬されました。以下は本論文の図1です。
考古学と人類学と同位体化学と分子生物学の分野の学際的な研究者で構成された研究団が、双照墓地の歴史時代の個体群の学際的調査を実行しました。この双照墓地の葬儀慣行や物質文化や年代順や社会組織への洞察を提供するために、考古学的分析が使用されました。埋葬された個体群の性別と年齢と身体的特徴および健康状態を説明するため、骨学的分析が実行されました。唐王朝の人々の食性に光を当てるため、炭素(C)および窒素(N)の安定同位体データが生成されました。ゲノム証拠により、双照遺跡個体群の親族関係と遺伝的構成に関する情報の取得が可能になりました。本論文では、唐王朝中期の市民階級の社会的慣習の最大限の再構築と、現代の学際的な考古学的研究の新たな手法の確立が目指されます。
●資料と手法
双照墓地は中華人民共和国陝西省咸陽市に位置し、2019~2020年に咸陽市文物考古研究所により発掘されました。唐王朝の埋葬1ヶ所(M56)と漢王朝の埋葬58ヶ所の、合計59ヶ所の埋葬が発掘されました。双照墓地のM56(1268~1072年前頃)は長さ6.76mで、双照墓地の北側に位置し、傾斜した羨道と玄室で構成されています。M56は唐王朝中期(8~10世紀初頭)の特徴を示しており【10世紀初頭は唐代中期というよりは唐代末期だと思いますが】、真っすぐな背の刃型の平面構造で、羨道と玄室の東壁が同一平面上にあります。玄室は長さが2.06m、幅が1~1.37m、高さが0.9~1.3mです。ヒト遺骸と唐王朝の典型的な人工遺物である蓋付の塔型の壺3組が玄室の西側で見つかり、R1がR3の上、R2の西側に位置します(図1C)。R1骨格は無傷で、元々の解剖学的位置にあります。R2はR1よりわずかに下に位置していました。R2の上腕骨と股関節と大腿骨と肋骨は、元々の解剖学的位置にありませんでした。R1の発掘後にR3が露出し、R3の骨は散乱していました。これは、R2およびR3が攪乱もしくは二次埋没を経た、と示唆しています。墓の建築構造から、M56は二次使用の兆候がなく、元々の構造を維持している、と示されました。したがって、M56の3個体の埋葬は同時でした。この3個体の骨格配置と唐王朝の遺骸を戻す葬儀慣行を考えると、R1はがおもにM56に埋葬され、R2およびR3は元々の埋葬地からM56に移された、と推測されました。
唐王朝の首都として、西安(長安)の領域およびその周辺地域には、多くの一般市民と貴族が埋葬されました。M56では成人3個体が発見され、その性別はおもに骨盤と頭蓋の形態により判断されました。この2個体の年齢は、恥骨結合の形態、腸骨の耳介表面の形態学的変化も頭蓋縫合の消滅、歯の摩耗に基づいて、一般的に推定されました。M56の各個体について、四肢骨および肋骨両方で、炭素(C)および窒素(N)の安定同位体データ分析が実行されました。
古代DNAについては、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが抽出・解析され、常染色体では124万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)一式から7万のSNPが選択されました。30塩基対より短い読み取りは破棄されました。常染色体とX染色体の読み取り数の比率(Rx比)から、遺伝的性別が判断されました。mtDNAについてはハプログループ(mtHg)が決定されました。集団遺伝学的分析では、アフィメトリクス(Affymetrix)社ヒト起源(Affymetrix Human Origins)配列の現代人の公開データセット(常染色体の593124のSNP)と比較され、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました。刊行されている「ヒト起源」データセットかに、ユーラシア現代人の遺伝的差異に古代人標本が投影されました。ADMIXTUREはK(系統構成要素数)=2~20で実行されました。双照墓地の3個体間の遺伝的近縁性は、常染色体のSNP全体の半数体遺伝子型の不適正塩基対率(pairwise mismatch rate、略してPMR)の計算により推定されました。
●M56の年代決定
M56のR3の骨で行なわれた¹⁴C年代測定分析から、遺骸の年代は1268~1072年前頃(682~878年頃)と示され、唐王朝の高宗(Gaozong)期から僖宗(Xizong)期までさかのぼるかもしれません。この結果は、M56が唐王朝中期~後期(8世紀~10世紀初頭)に一般的だった埋葬様式である、という考古学的調査結果と一致します。さらに、M56で発掘された蓋付の塔型の壺(図1D)は、形状と細工の観点では唐後期のものとは異なっていました。これらの証拠を統合すると、M56は唐中期、つまり徳宗(Dezong)期~文宗(Wenzong)期にさかのぼる可能性があります。
●M56に埋葬された個体の社会的地位
唐王朝の中期後期には、長方形の土製横穴墓が下級官吏や一般市民の埋葬に通常は使われていました。M56の構造は単純で、長さは2.06m、幅が1~1.37mで、玄室の面積は9 m²未満です。1点の粗放な塔型の壺が、副葬品として被葬者とともにありました。埋葬様式と副葬品の量および特徴から推測すると、M56に埋葬された個体の社会的地位は一般市民と特定されました。
●M56のヒト遺骸3個体の骨伝記学的分析
M56には、R1とR2 R3という3個体の骨格遺骸が含まれていました(図1B・C)。R1は成人男性で、死亡時年齢は40~45歳でした。R1の身体は少し右側に位置していました。R1の頭蓋は脊椎の右側にあり、初期の解剖学的位置から少し動いていました。R1の右腕は右側肋骨および脊椎骨の下で圧迫されていました。R1の骨格は無傷で関節がつながっていたので、R1が一次埋葬と考えられます。R2は死亡時に20~25歳の成人女性で、下層でR1の左側に位置していました。R2の遺骸は元々の解剖学的位置になく、椎骨と肋骨と四肢骨と鎖骨の一部が失われており、これは攪乱もしくは二次埋葬に起因しました。
R1の発掘後に、R1の下に位置するR3の遺骸が露出しました。R3は成人女性で、死亡時年齢は40~45歳です。R3の四肢骨はほぼ元々の解剖学的位置にありましたが、他の骨は乱れており、たとえば、下顎は足の近くにありました。R2同様に、部分的な椎骨や肋骨や腓骨など、R3の一部の骨も欠けていました。R3も攪乱もしくは二次埋葬を経たかもしれません。これら3個体の骨格は墓の底部に位置していませんでしたが、墓の上部で土壌層の崩壊から生じた堆積物に積み重なっていました。
この3個体は玄室の隅に位置していました。これは、水の流入過程が墓で発生し、ヒトの骨を流し、重ね合わせた、と示唆しています。R2とR3は元々、R1のどちらかの側に位置していたかもしれません。化石生成論的情報によると、M56は二次使用の兆候がない一次埋葬遺跡でした。唐王朝のこの地域における平和な社会的状況下では、この3個体が同時に死亡した可能性はひじょうに低そうです。R2とR3の乱れた状態、および特定の骨の欠如を考えると、R2とR3はR1ととともに、M56へと元々の埋葬地から移転させられた、と推測されます。M56に埋葬後、この3個体は墓の上部の崩壊と浸水のため別の転移を経ました。R1の位置を参照すると、この転移は個体の骨の相対的位置に大きな影響を与えませんでした。
骨計測分析は、個体と人口集団両方の身体的特徴の理解に重要です。遺伝子と環境の役割のため、類似の頭蓋顔面形態を示す集団は、異なる形態を示す集団と比較して、より密接な関係があるかもしれません。R1の身体的特徴は、中程度の頭長(中頭、頭長指数は78.75)、高い頭蓋(高頭、指数は76.40)、中程度の頭幅(中頭、指数は97.01)と要約できます。これらの特徴は、中原と中国北部の古代の住民に典型的でした。女性2個体の頭骨の頭蓋顔面形態の特徴は、長頭(指数は74.93と72.76)と高頭(指数は77.58と78.30)と狭い頭蓋種類(指数は103.53と107.61)の点で、ひじょうに類似していました。これらの女性2個体は、より高く比較的平らな程度の顔面を有していました(正顎、指数は87.90と87.00)。頭骨の頭蓋計測と外観は、アジア東部人との類似性を示唆しています。そのあり得る起源をさらに調べるため、双照墓地および中国の他の歴史時代集団から得られた女性頭蓋の頭蓋計測データに基づいたユークリッド距離分析が実行されました。その結果、双照集団は唐王朝の中原(鄭州)集団と最も距離が近い、と示されました。R1とR2とR3の身長はそれぞれ、165.04cm、158.61cm、162.09cmと推定されました。他の中国の歴史時代集団と比較して、双照集団は性的二形が比較的弱かった、と示されました。
R1とR3の骨格では、死亡時に比較的高齢だったため、老齢期と関連する疾患のいくつかの兆候が観察され、たとえば、歯の喪失、歯の過剰な摩耗(図2A)、肋骨や甲状軟骨の骨化(図2B)などです。R1では大腿骨の膝蓋表面で骨皮質肥厚像が顕著に観察され、膝蓋周辺の骨増殖体や、骨関節炎の予備診断につながる関節表面の明らかな骨の再吸収が伴っていました(図2C)。滑らかな縁とほぼ完全な閉鎖を特徴とする小さな開口部がR2およびR3両方の眼窩で発見され(図2D)、これは恐らく治癒段階の眼窩篩の存在を示唆しているかもしれません。さらに、下顎切歯および犬歯の唇側表面には、エナメル質形成不全の指標となる横線と溝がある、と観察されました(図2E)。R1とR2の脛骨では骨膜炎の兆候が観察され、層状骨の存在は長期の再構築された状態を示唆しました(図2F)。生物考古学の観点からは、さまざまな要因がエナメル質形成不全や眼窩篩や骨膜症の形成につながるかもしれず、これらは不可に耐えていることの指標として一般的に認識されています。以下は本論文の図2です。
●安定同位体分析
同位体分析は、肋骨と四肢骨で行なわれました。これらの標本は、コラーゲン抽出の使用に成功しました。同位体分析の結果から、双照墓地の3個体のδ¹⁵N値の範囲は8.6~8.8‰(平均8.8±0.1‰)と示され、比較的少ない動物性タンパク質の消費が示唆されました(表1)。この3個体のδ¹⁵N値はひじょうに類似しており、性別の偏りは観察されませんでした。肋骨から得られた平均δ¹³C値は15.0±0.81‰、四肢骨から得られたδ¹³C平均値は15.3±1.42‰で、C3およびC4両方の植物の消費が示唆されました。歴史的記録によると、唐王朝では、コムギと雑穀が寛容では主要な作物で、イネも植えられていました。肋骨から得られたδ¹³Cおよびδ¹⁵Nデータは、死亡する2~5年前の食性情報を反映していますが、四肢骨から得られたδ¹³Cおよびδ¹⁵Nデータは、死亡する約10年前の状態を反映しています。双照墓地の3個体の肋骨および四肢骨から得られたδ¹³Cおよびδ¹⁵N値は、わずかに異なっていました。
●古代DNAの証明と汚染の評価
M56の3個体の古代DNA解析が実行されました。古代DNAの証明と汚染の評価。M56から発掘された3個体は、ショットガン配列決定されました。配列決定された断片の証明のため、末端の置換率が計算されました。5’末端におけるシトシンからチミンへの取り込み過誤、3’末端におけるグアニンからアデニンへの取り込み過誤という、典型的な二本鎖の古代DNAライブラリのパターンが観察され、これは古代DNAの特徴を論証しました。さらに、得られたDNAの平均長は65~76塩基対で、古代DNAの平均ながの一般的特徴と一致しました。mtDNA汚染の程度は、1~2.5%の範囲と推定されました。男性個体でのX染色体の汚染検定は情報をもたらさず、それは、少なくとも2点の配列により網羅されたX染色体のSNPの数が限られていたからです。
●性別決定と片親性遺伝標識分析
唐王朝住民の遺伝的特性を調べるため、標本の全ゲノム配列が平均網羅率0.005~0.03倍で回収されました(表2)。Rx比の評価により、生物学的性別決定が行なわれました。その結果、R1は男性に分類されましたが(Rxが0.506)、R2とR3は女性に分類され(R2のRxは0.995、R3のRxは0.926)、人類学的性別特定の結果が確証されました。片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)については、まず溶液中濃縮によりミトコンドリアゲノムが再構築され、双照墓地の3個体の母系での近縁性が調べられました。ほぼ完全なミトコンドリアゲノムが得られ(96.9~99.6%)、その平均網羅率の範囲は193~1508倍でした(表2)。これら3個体のmtDNAゲノム配列は同一ではなく、それぞれmtHgのG1a1とD4a1eとM9aに属しました。mtHg-D4はアジア東部において優勢で、新石器時代の龍山および仰韶文化人口集団において比較的高頻度です。mtHg-M9aは、アジア東部本土と日本とチベットとその周辺地域に広く分布しています。mtHg-G1a1は、シベリアとアジア東部で検出されてきました。さらに、mtHg-G1a1およびM9aは仰韶文化人口集団で見つかりました。
●常染色体の遺伝学的分析
PCAが実行され、双照人口集団と他のユーラシア集団との間の遺伝的関係が、それらをユーラシア現代人のさいに投影することにより、評価されました。双照墓地の3個体はユーラシア東部人の差異内に収まり、龍山および仰韶文化人口集団など新石器時代中原人口集団とクラスタ化し(まとまり)ました(図3A)。次にADMIXTURE分析が実行され、祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)構成の詳細な概要が得られました。K=10で最小交差検証誤差が観察されました。PCAと一致して、双照墓地の3個体は古代中原人口集団と類似している遺伝的特性を示しました(図3B)。
f3形式(ムブティ人;検証対象、双照個体)の外群f3統計が適用され、双照墓地の3個体とユーラシア人口集団との間の遺伝的関係がさらに調べられました。f3統計の結果から、双照墓地の3個体はアジア東部北方人と密接な関係があり、龍山文化人口集団と最も密接な類似性を共有していた、と示唆されました(図3C)。これらの観察は、ADMIXTURE分析および対称f4統計によっても裏づけられました(図3B)。双照墓地の3個体と現代中国の人口集団との間の遺伝的関係も比較されました。f4形式(ムブティ人、X;漢人、双照個体)の対称f4統計から、双照墓地の3個体と比較して現代の漢人は、アミ人(Ami)やタイヤル人(Atayal)や傣人(Dai)など、中国南部およびアジア南東部の人口集団との有意な遺伝的類似性を有している、と示されました。この遺伝的パターンは、PCAおよびADMIXTURE分析でも観察されました。以下は本論文の図3です。
ゲノムデータに基づくと、M56の3個体はアジア東部人の遺伝子プールへと収まり、龍山文化個体群などの古代中原人口集団や、漢人やナシ人(Naxi)やラフ人(LaHu)やイ人(Yi)やチベット人やトゥチャ人(Tujia)など(これらの集団は全てシナ・チベット語族話者です)の現代の中国の人口集団とクラスタ化する、と分かりました。中原以外からの外来の遺伝的構成要素の兆候はありません。
●遺伝的近縁性推定
双照墓地から標本抽出された3個体(男性1個体と女性2個体)は、同じ墓に埋葬されました。これら3個体の潜在的関係の調査は、唐王朝の葬儀の理解にきわめて重要でした。常染色体を使用して、これら3個体の遺伝的関係の推定が試みられました。比較的少ない内在性DNA含有量のため、7万SNP濃縮一式を用いて、溶液中DNA捕獲が実行されました。R1とR2とR3についてそれぞれ、52333と65400と40360のSNPの回収に成功しました。一方で、中原の遺伝的に親族関係の有無両方の古代人標本の刊行されたゲノム配列から、これら7万のSNPも遺伝子型決定されました。古代DNAの高い欠失率に起因する人為的偏りを最小限とするため、少なくとも1万の重複SNPのある個体の組み合わせに分析が限定されました。双照墓地の3個体の親族関係は、PMRを通じて推測されました。双照墓地の3個体の組み合わせのPMR値の範囲は0.3018~0.3035で、親族関係にない組み合わせの基準と近似していました。この結果からさらに証明されるのは、双照墓地の3個体が、同じ墓に埋葬されたにも関わらず、相互に親族関係を共有していない、ということです。
●考察
厳密な現場発掘と分類と研究により確証された堅牢な枠組みに基づいて、分野を横断した協力は、家族の埋葬慣習や婚姻慣行などを含めて、文化拡散と社会組織と文化慣習さえのより包括的な理解を提供できます。双照墓地は咸陽に位置しており、咸陽は唐王朝において、有名な絹の道(シルクロード)と他の重要な宿場道をつなぐ交通の要衝でした。したがって、国際的な大都市として、咸陽には多様な人口集団がいました。地元市民と政府役人に加えて、咸陽に住むようになった外国使節や商売人や職人もいました。したがって、M56の双照個体群の社会的身元の理解は重要でした。唐王朝の社会的地位の特定に一般的に用いられている、副葬品と墓の様式から、双照墓地は貴族もしくは社会の高位の人々ではなく、地元の市民により使用された、と明らかになりました。双照墓地の3個体のゲノム特性の分析から、墓に埋葬されたこの3個体は中原の典型的な遺伝的特徴を有しており、共に埋葬されたこれら3個体間に親族関係はなかった、と示されました。さらに、同位体分析の結果から、この3個体の食性は類似しており、おもにC3およびC4植物に依拠しており、動物性タンパク質の摂取は比較的少なかった、と示唆されました。これらの証拠の断片を組み合わせると、M56に埋葬された人々は唐帝国の一般市民だった、と確証されます。
合葬は唐王朝において一般的な葬儀形式でした。合葬の最も一般的なパターンは、夫婦がともに埋葬されることです。両親や子供やキョウダイや義母や義理の娘など牟田の家族の構成員も、単一の墓に埋葬されている、と分かりました。M56では、ともに埋葬されている男性1個体(R1)と女性2個体(R2およびR3)との間の関係は、たいへん興味深いものです。唐王朝の婚姻法によると、男性は合法的な妻を1人しか持てませんでした。再婚は最初の妻の死後にのみ許され、後妻(二番目の妻)の家族での地位は先妻(最初の妻)の地位と同じでなければなりませんでした。唐王朝の男性は内妻を娶ることが許可されており、内妻の地位は妻(合法的な妻、正妻)の地位より劣っており、ともに埋葬されることは許可されませんでした。
これらの手がかりから、M56は夫とその先妻および後妻の合葬と推測されます。その位置と年齢と全個体の同位体データに基づくと、M56の埋葬過程を推定でき、R2が男性の先妻(最初の妻)のはずです。残念ながら、R2はひじょうに若くして死亡し(約25歳)、暫定的な場所に埋葬されました。R2の夫(R1)の死後、R2の子孫はR2の遺骸を合葬に移しました。それは、唐王朝における遺骸移転の慣行と一致します。後妻のR3も夫(R1)の前に死亡し、夫の死後に合葬に改葬されました。夫のR1は、死後直接的に墓(M56)に埋葬されました。
この複葬の事例から、唐帝国の葬儀慣行の調査が可能となります。夫の死後に改葬された2人の妻は、唐王朝の家族における父方居住の社会組織と夫の支配的立場を反映していました。一方で、夫婦の間において、副葬品や葬儀や食性の構造では区別するような違いがありませんでした。これは、唐社会の社会政治的経済および人口源の多様性と関連しているかもしれず、それは、唐帝国の女性の地位が中国史において他の王朝よりも比較的高かった、という事実につながりました。
●まとめ
要約すると、本論文は学際的手法を用いて、双照墓地を調べ、中国史において最も輝かしい王朝の一つである唐王朝への社会文化的洞察を提供しました。統合された一連の証拠に基づいて、共同埋葬された個体の社会的地位と関係を推測し、唐王朝の埋葬慣行と社会組織を調べることができます。この場合、歴史時代の中国における市民生活の仮定的状況が復元されました。唐帝国についてのさらなるより正確な情報を得るためには、さまざまな遺跡からのより多くの標本が研究者にとって役立つはずである、と考えられます。
参考文献:
Zhao D, Chen Y, Xie G, Ma P, Wen Y, Zhang F, et al. (2023) A multidisciplinary study on the social customs of the Tang Empire in the Medieval Ages. PLoS ONE 18(7): e0288128.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0288128
●要約
ヒト遺骸の学際的研究は、歴史における人口動態や文化拡散や社会組織や慣習についての重要な情報を提供できます。本論文では、学際的分析が中国史において最も繁栄した王朝の一つである唐王朝(618~907年)の、双照(Shuangzhao)墓地の合葬(M56)で行なわれ、唐王朝の遺伝的特性および社会文化的側面に光が当てられました。考古学的調査では、この埋葬は唐中期に属し、一般市民により使用された、と示唆されました。骨学的分析はM56から発掘された3個体の性別と年齢と健康状態を特定し、この3個体は安定同位体データから推測すると同様の食性を共有していました。ゲノム証拠から、これらの共同埋葬個体には遺伝的親族関係はないものの、全員、仰韶(Yangshao)文化および龍山(Longshan)文化の個体群などにより表される、中原の古代の人口集団の遺伝子プールに属していた、と明らかになりました。考古学および歴史学の記録と、化学および遺伝学の分析を含む複数の一連の証拠は、夫婦の家族合葬である可能性がひじょうに高い、と示唆しました。本論文は、唐王朝の埋葬習慣と社会組織への洞察を提供し、歴史時代の中国における市民生活の仮定的状況を再構築します。
●研究史
唐王朝(618~907年)は、中国史で最も繁栄した王朝の一つでした。その政治および経済制度は、社会的慣習とともに、その後の中国およびより広くアジアの社会にさえ大きな影響を与えました。唐王朝の首都として、長安(Chang’an)は中原に位置しており【一般的には、長安は関中地域とされ、中原には含められないと思いますが】、好適な自然条件の地域でした。秦から隋王朝の継続的な開発と建設は、この期間までに長安が最高水準の社会および文化的繁栄の国際的大都市になったことを意味しました。唐王朝中期には、経済的発展は帝国の試験制度(科挙)や新たな税法の継続的な実行とともに、貴族により保持されてきた政治および経済的資源の独占を壊し、社会階級の階層化と再編成が起こり始めました。その結果、一般市民が社会の主要層となり、経済および政治的生活においてますます重要な役割を果たしました【唐代でここまで「一般市民」の成長を断定するのはかなり問題のようにも思いますが】。しかし、公的な歴史記録は重要な人物や出来事にのみ焦点を当てる傾向にあります。唐王朝と関連する多くの公的な歴史資料があるにも関わらず、一般市民の生活と慣習に関する詳細な記録はほとんどありません。
近年では、古代DNAと生物地球化学から歴史学および考古学の研究まで、複数の種類の情報が継続的に統合され、学際的手法が古代社会の知識を大きく増やし、歴史物語を活性化しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。ゲノム規模データにより研究者は、さまざまな地域の人口集団もしくは個体群の祖先の要素の推測が高精度で可能となり、人工遺物や生物組織の地球化学的分析は、ヒトの移動および交易経路の研究にとって重要になってきました。
たとえば2020年の研究(関連記事)では、ゲノムと考古学と歴史学と生物地球化学のデータが統合され、ペルー南部の2ヶ所の墓地で発掘された6個体が調べられ、後期層準(Late Horizon)人口集団がペルー北部からチンチャ渓谷(Chincha Valley)に移動したことを裏づける、一貫した結果が得られました。さらに、環境データ、古食性の安定同位体の代理、有機残留物の分析、コラーゲン指紋法や古プロテオミクス(タンパク質の総体であるプロテオームの解析手法)など多くの新たな科学的手法(関連記事1および関連記事2)が、ヒトの歴史のより包括的な情報の解明に用いられています。
墓の碑文や壁画など唐王朝には多くの歴史資料があり、それらは考古学的研究に有益な情報を提供できますが、唐王朝の人骨資料は稀です。本論文が把握している限りではこれまで、ゲノムや自然人類学や古食性の分析を含む、唐王朝の生物考古学的研究で刊行されたデータはありませんでした。2019年に、陝西省咸陽市の双照墓地(図1A)での咸陽市文物考古研究所による発掘中に、考古学者が保存状態良好なヒト遺骸のある唐王朝の墓(M56)を発見し、唐王朝における平民個体の生活への最初の手がかりを得るための貴重な機会が提供されました。唐王朝の首都である長安に隣接する咸陽は、唐王朝の京兆府(Jingzhaofu)の管轄下にありました。多数の帰属と一般市民がそこに埋葬されました。以下は本論文の図1です。
考古学と人類学と同位体化学と分子生物学の分野の学際的な研究者で構成された研究団が、双照墓地の歴史時代の個体群の学際的調査を実行しました。この双照墓地の葬儀慣行や物質文化や年代順や社会組織への洞察を提供するために、考古学的分析が使用されました。埋葬された個体群の性別と年齢と身体的特徴および健康状態を説明するため、骨学的分析が実行されました。唐王朝の人々の食性に光を当てるため、炭素(C)および窒素(N)の安定同位体データが生成されました。ゲノム証拠により、双照遺跡個体群の親族関係と遺伝的構成に関する情報の取得が可能になりました。本論文では、唐王朝中期の市民階級の社会的慣習の最大限の再構築と、現代の学際的な考古学的研究の新たな手法の確立が目指されます。
●資料と手法
双照墓地は中華人民共和国陝西省咸陽市に位置し、2019~2020年に咸陽市文物考古研究所により発掘されました。唐王朝の埋葬1ヶ所(M56)と漢王朝の埋葬58ヶ所の、合計59ヶ所の埋葬が発掘されました。双照墓地のM56(1268~1072年前頃)は長さ6.76mで、双照墓地の北側に位置し、傾斜した羨道と玄室で構成されています。M56は唐王朝中期(8~10世紀初頭)の特徴を示しており【10世紀初頭は唐代中期というよりは唐代末期だと思いますが】、真っすぐな背の刃型の平面構造で、羨道と玄室の東壁が同一平面上にあります。玄室は長さが2.06m、幅が1~1.37m、高さが0.9~1.3mです。ヒト遺骸と唐王朝の典型的な人工遺物である蓋付の塔型の壺3組が玄室の西側で見つかり、R1がR3の上、R2の西側に位置します(図1C)。R1骨格は無傷で、元々の解剖学的位置にあります。R2はR1よりわずかに下に位置していました。R2の上腕骨と股関節と大腿骨と肋骨は、元々の解剖学的位置にありませんでした。R1の発掘後にR3が露出し、R3の骨は散乱していました。これは、R2およびR3が攪乱もしくは二次埋没を経た、と示唆しています。墓の建築構造から、M56は二次使用の兆候がなく、元々の構造を維持している、と示されました。したがって、M56の3個体の埋葬は同時でした。この3個体の骨格配置と唐王朝の遺骸を戻す葬儀慣行を考えると、R1はがおもにM56に埋葬され、R2およびR3は元々の埋葬地からM56に移された、と推測されました。
唐王朝の首都として、西安(長安)の領域およびその周辺地域には、多くの一般市民と貴族が埋葬されました。M56では成人3個体が発見され、その性別はおもに骨盤と頭蓋の形態により判断されました。この2個体の年齢は、恥骨結合の形態、腸骨の耳介表面の形態学的変化も頭蓋縫合の消滅、歯の摩耗に基づいて、一般的に推定されました。M56の各個体について、四肢骨および肋骨両方で、炭素(C)および窒素(N)の安定同位体データ分析が実行されました。
古代DNAについては、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが抽出・解析され、常染色体では124万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)一式から7万のSNPが選択されました。30塩基対より短い読み取りは破棄されました。常染色体とX染色体の読み取り数の比率(Rx比)から、遺伝的性別が判断されました。mtDNAについてはハプログループ(mtHg)が決定されました。集団遺伝学的分析では、アフィメトリクス(Affymetrix)社ヒト起源(Affymetrix Human Origins)配列の現代人の公開データセット(常染色体の593124のSNP)と比較され、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました。刊行されている「ヒト起源」データセットかに、ユーラシア現代人の遺伝的差異に古代人標本が投影されました。ADMIXTUREはK(系統構成要素数)=2~20で実行されました。双照墓地の3個体間の遺伝的近縁性は、常染色体のSNP全体の半数体遺伝子型の不適正塩基対率(pairwise mismatch rate、略してPMR)の計算により推定されました。
●M56の年代決定
M56のR3の骨で行なわれた¹⁴C年代測定分析から、遺骸の年代は1268~1072年前頃(682~878年頃)と示され、唐王朝の高宗(Gaozong)期から僖宗(Xizong)期までさかのぼるかもしれません。この結果は、M56が唐王朝中期~後期(8世紀~10世紀初頭)に一般的だった埋葬様式である、という考古学的調査結果と一致します。さらに、M56で発掘された蓋付の塔型の壺(図1D)は、形状と細工の観点では唐後期のものとは異なっていました。これらの証拠を統合すると、M56は唐中期、つまり徳宗(Dezong)期~文宗(Wenzong)期にさかのぼる可能性があります。
●M56に埋葬された個体の社会的地位
唐王朝の中期後期には、長方形の土製横穴墓が下級官吏や一般市民の埋葬に通常は使われていました。M56の構造は単純で、長さは2.06m、幅が1~1.37mで、玄室の面積は9 m²未満です。1点の粗放な塔型の壺が、副葬品として被葬者とともにありました。埋葬様式と副葬品の量および特徴から推測すると、M56に埋葬された個体の社会的地位は一般市民と特定されました。
●M56のヒト遺骸3個体の骨伝記学的分析
M56には、R1とR2 R3という3個体の骨格遺骸が含まれていました(図1B・C)。R1は成人男性で、死亡時年齢は40~45歳でした。R1の身体は少し右側に位置していました。R1の頭蓋は脊椎の右側にあり、初期の解剖学的位置から少し動いていました。R1の右腕は右側肋骨および脊椎骨の下で圧迫されていました。R1の骨格は無傷で関節がつながっていたので、R1が一次埋葬と考えられます。R2は死亡時に20~25歳の成人女性で、下層でR1の左側に位置していました。R2の遺骸は元々の解剖学的位置になく、椎骨と肋骨と四肢骨と鎖骨の一部が失われており、これは攪乱もしくは二次埋葬に起因しました。
R1の発掘後に、R1の下に位置するR3の遺骸が露出しました。R3は成人女性で、死亡時年齢は40~45歳です。R3の四肢骨はほぼ元々の解剖学的位置にありましたが、他の骨は乱れており、たとえば、下顎は足の近くにありました。R2同様に、部分的な椎骨や肋骨や腓骨など、R3の一部の骨も欠けていました。R3も攪乱もしくは二次埋葬を経たかもしれません。これら3個体の骨格は墓の底部に位置していませんでしたが、墓の上部で土壌層の崩壊から生じた堆積物に積み重なっていました。
この3個体は玄室の隅に位置していました。これは、水の流入過程が墓で発生し、ヒトの骨を流し、重ね合わせた、と示唆しています。R2とR3は元々、R1のどちらかの側に位置していたかもしれません。化石生成論的情報によると、M56は二次使用の兆候がない一次埋葬遺跡でした。唐王朝のこの地域における平和な社会的状況下では、この3個体が同時に死亡した可能性はひじょうに低そうです。R2とR3の乱れた状態、および特定の骨の欠如を考えると、R2とR3はR1ととともに、M56へと元々の埋葬地から移転させられた、と推測されます。M56に埋葬後、この3個体は墓の上部の崩壊と浸水のため別の転移を経ました。R1の位置を参照すると、この転移は個体の骨の相対的位置に大きな影響を与えませんでした。
骨計測分析は、個体と人口集団両方の身体的特徴の理解に重要です。遺伝子と環境の役割のため、類似の頭蓋顔面形態を示す集団は、異なる形態を示す集団と比較して、より密接な関係があるかもしれません。R1の身体的特徴は、中程度の頭長(中頭、頭長指数は78.75)、高い頭蓋(高頭、指数は76.40)、中程度の頭幅(中頭、指数は97.01)と要約できます。これらの特徴は、中原と中国北部の古代の住民に典型的でした。女性2個体の頭骨の頭蓋顔面形態の特徴は、長頭(指数は74.93と72.76)と高頭(指数は77.58と78.30)と狭い頭蓋種類(指数は103.53と107.61)の点で、ひじょうに類似していました。これらの女性2個体は、より高く比較的平らな程度の顔面を有していました(正顎、指数は87.90と87.00)。頭骨の頭蓋計測と外観は、アジア東部人との類似性を示唆しています。そのあり得る起源をさらに調べるため、双照墓地および中国の他の歴史時代集団から得られた女性頭蓋の頭蓋計測データに基づいたユークリッド距離分析が実行されました。その結果、双照集団は唐王朝の中原(鄭州)集団と最も距離が近い、と示されました。R1とR2とR3の身長はそれぞれ、165.04cm、158.61cm、162.09cmと推定されました。他の中国の歴史時代集団と比較して、双照集団は性的二形が比較的弱かった、と示されました。
R1とR3の骨格では、死亡時に比較的高齢だったため、老齢期と関連する疾患のいくつかの兆候が観察され、たとえば、歯の喪失、歯の過剰な摩耗(図2A)、肋骨や甲状軟骨の骨化(図2B)などです。R1では大腿骨の膝蓋表面で骨皮質肥厚像が顕著に観察され、膝蓋周辺の骨増殖体や、骨関節炎の予備診断につながる関節表面の明らかな骨の再吸収が伴っていました(図2C)。滑らかな縁とほぼ完全な閉鎖を特徴とする小さな開口部がR2およびR3両方の眼窩で発見され(図2D)、これは恐らく治癒段階の眼窩篩の存在を示唆しているかもしれません。さらに、下顎切歯および犬歯の唇側表面には、エナメル質形成不全の指標となる横線と溝がある、と観察されました(図2E)。R1とR2の脛骨では骨膜炎の兆候が観察され、層状骨の存在は長期の再構築された状態を示唆しました(図2F)。生物考古学の観点からは、さまざまな要因がエナメル質形成不全や眼窩篩や骨膜症の形成につながるかもしれず、これらは不可に耐えていることの指標として一般的に認識されています。以下は本論文の図2です。
●安定同位体分析
同位体分析は、肋骨と四肢骨で行なわれました。これらの標本は、コラーゲン抽出の使用に成功しました。同位体分析の結果から、双照墓地の3個体のδ¹⁵N値の範囲は8.6~8.8‰(平均8.8±0.1‰)と示され、比較的少ない動物性タンパク質の消費が示唆されました(表1)。この3個体のδ¹⁵N値はひじょうに類似しており、性別の偏りは観察されませんでした。肋骨から得られた平均δ¹³C値は15.0±0.81‰、四肢骨から得られたδ¹³C平均値は15.3±1.42‰で、C3およびC4両方の植物の消費が示唆されました。歴史的記録によると、唐王朝では、コムギと雑穀が寛容では主要な作物で、イネも植えられていました。肋骨から得られたδ¹³Cおよびδ¹⁵Nデータは、死亡する2~5年前の食性情報を反映していますが、四肢骨から得られたδ¹³Cおよびδ¹⁵Nデータは、死亡する約10年前の状態を反映しています。双照墓地の3個体の肋骨および四肢骨から得られたδ¹³Cおよびδ¹⁵N値は、わずかに異なっていました。
●古代DNAの証明と汚染の評価
M56の3個体の古代DNA解析が実行されました。古代DNAの証明と汚染の評価。M56から発掘された3個体は、ショットガン配列決定されました。配列決定された断片の証明のため、末端の置換率が計算されました。5’末端におけるシトシンからチミンへの取り込み過誤、3’末端におけるグアニンからアデニンへの取り込み過誤という、典型的な二本鎖の古代DNAライブラリのパターンが観察され、これは古代DNAの特徴を論証しました。さらに、得られたDNAの平均長は65~76塩基対で、古代DNAの平均ながの一般的特徴と一致しました。mtDNA汚染の程度は、1~2.5%の範囲と推定されました。男性個体でのX染色体の汚染検定は情報をもたらさず、それは、少なくとも2点の配列により網羅されたX染色体のSNPの数が限られていたからです。
●性別決定と片親性遺伝標識分析
唐王朝住民の遺伝的特性を調べるため、標本の全ゲノム配列が平均網羅率0.005~0.03倍で回収されました(表2)。Rx比の評価により、生物学的性別決定が行なわれました。その結果、R1は男性に分類されましたが(Rxが0.506)、R2とR3は女性に分類され(R2のRxは0.995、R3のRxは0.926)、人類学的性別特定の結果が確証されました。片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)については、まず溶液中濃縮によりミトコンドリアゲノムが再構築され、双照墓地の3個体の母系での近縁性が調べられました。ほぼ完全なミトコンドリアゲノムが得られ(96.9~99.6%)、その平均網羅率の範囲は193~1508倍でした(表2)。これら3個体のmtDNAゲノム配列は同一ではなく、それぞれmtHgのG1a1とD4a1eとM9aに属しました。mtHg-D4はアジア東部において優勢で、新石器時代の龍山および仰韶文化人口集団において比較的高頻度です。mtHg-M9aは、アジア東部本土と日本とチベットとその周辺地域に広く分布しています。mtHg-G1a1は、シベリアとアジア東部で検出されてきました。さらに、mtHg-G1a1およびM9aは仰韶文化人口集団で見つかりました。
●常染色体の遺伝学的分析
PCAが実行され、双照人口集団と他のユーラシア集団との間の遺伝的関係が、それらをユーラシア現代人のさいに投影することにより、評価されました。双照墓地の3個体はユーラシア東部人の差異内に収まり、龍山および仰韶文化人口集団など新石器時代中原人口集団とクラスタ化し(まとまり)ました(図3A)。次にADMIXTURE分析が実行され、祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)構成の詳細な概要が得られました。K=10で最小交差検証誤差が観察されました。PCAと一致して、双照墓地の3個体は古代中原人口集団と類似している遺伝的特性を示しました(図3B)。
f3形式(ムブティ人;検証対象、双照個体)の外群f3統計が適用され、双照墓地の3個体とユーラシア人口集団との間の遺伝的関係がさらに調べられました。f3統計の結果から、双照墓地の3個体はアジア東部北方人と密接な関係があり、龍山文化人口集団と最も密接な類似性を共有していた、と示唆されました(図3C)。これらの観察は、ADMIXTURE分析および対称f4統計によっても裏づけられました(図3B)。双照墓地の3個体と現代中国の人口集団との間の遺伝的関係も比較されました。f4形式(ムブティ人、X;漢人、双照個体)の対称f4統計から、双照墓地の3個体と比較して現代の漢人は、アミ人(Ami)やタイヤル人(Atayal)や傣人(Dai)など、中国南部およびアジア南東部の人口集団との有意な遺伝的類似性を有している、と示されました。この遺伝的パターンは、PCAおよびADMIXTURE分析でも観察されました。以下は本論文の図3です。
ゲノムデータに基づくと、M56の3個体はアジア東部人の遺伝子プールへと収まり、龍山文化個体群などの古代中原人口集団や、漢人やナシ人(Naxi)やラフ人(LaHu)やイ人(Yi)やチベット人やトゥチャ人(Tujia)など(これらの集団は全てシナ・チベット語族話者です)の現代の中国の人口集団とクラスタ化する、と分かりました。中原以外からの外来の遺伝的構成要素の兆候はありません。
●遺伝的近縁性推定
双照墓地から標本抽出された3個体(男性1個体と女性2個体)は、同じ墓に埋葬されました。これら3個体の潜在的関係の調査は、唐王朝の葬儀の理解にきわめて重要でした。常染色体を使用して、これら3個体の遺伝的関係の推定が試みられました。比較的少ない内在性DNA含有量のため、7万SNP濃縮一式を用いて、溶液中DNA捕獲が実行されました。R1とR2とR3についてそれぞれ、52333と65400と40360のSNPの回収に成功しました。一方で、中原の遺伝的に親族関係の有無両方の古代人標本の刊行されたゲノム配列から、これら7万のSNPも遺伝子型決定されました。古代DNAの高い欠失率に起因する人為的偏りを最小限とするため、少なくとも1万の重複SNPのある個体の組み合わせに分析が限定されました。双照墓地の3個体の親族関係は、PMRを通じて推測されました。双照墓地の3個体の組み合わせのPMR値の範囲は0.3018~0.3035で、親族関係にない組み合わせの基準と近似していました。この結果からさらに証明されるのは、双照墓地の3個体が、同じ墓に埋葬されたにも関わらず、相互に親族関係を共有していない、ということです。
●考察
厳密な現場発掘と分類と研究により確証された堅牢な枠組みに基づいて、分野を横断した協力は、家族の埋葬慣習や婚姻慣行などを含めて、文化拡散と社会組織と文化慣習さえのより包括的な理解を提供できます。双照墓地は咸陽に位置しており、咸陽は唐王朝において、有名な絹の道(シルクロード)と他の重要な宿場道をつなぐ交通の要衝でした。したがって、国際的な大都市として、咸陽には多様な人口集団がいました。地元市民と政府役人に加えて、咸陽に住むようになった外国使節や商売人や職人もいました。したがって、M56の双照個体群の社会的身元の理解は重要でした。唐王朝の社会的地位の特定に一般的に用いられている、副葬品と墓の様式から、双照墓地は貴族もしくは社会の高位の人々ではなく、地元の市民により使用された、と明らかになりました。双照墓地の3個体のゲノム特性の分析から、墓に埋葬されたこの3個体は中原の典型的な遺伝的特徴を有しており、共に埋葬されたこれら3個体間に親族関係はなかった、と示されました。さらに、同位体分析の結果から、この3個体の食性は類似しており、おもにC3およびC4植物に依拠しており、動物性タンパク質の摂取は比較的少なかった、と示唆されました。これらの証拠の断片を組み合わせると、M56に埋葬された人々は唐帝国の一般市民だった、と確証されます。
合葬は唐王朝において一般的な葬儀形式でした。合葬の最も一般的なパターンは、夫婦がともに埋葬されることです。両親や子供やキョウダイや義母や義理の娘など牟田の家族の構成員も、単一の墓に埋葬されている、と分かりました。M56では、ともに埋葬されている男性1個体(R1)と女性2個体(R2およびR3)との間の関係は、たいへん興味深いものです。唐王朝の婚姻法によると、男性は合法的な妻を1人しか持てませんでした。再婚は最初の妻の死後にのみ許され、後妻(二番目の妻)の家族での地位は先妻(最初の妻)の地位と同じでなければなりませんでした。唐王朝の男性は内妻を娶ることが許可されており、内妻の地位は妻(合法的な妻、正妻)の地位より劣っており、ともに埋葬されることは許可されませんでした。
これらの手がかりから、M56は夫とその先妻および後妻の合葬と推測されます。その位置と年齢と全個体の同位体データに基づくと、M56の埋葬過程を推定でき、R2が男性の先妻(最初の妻)のはずです。残念ながら、R2はひじょうに若くして死亡し(約25歳)、暫定的な場所に埋葬されました。R2の夫(R1)の死後、R2の子孫はR2の遺骸を合葬に移しました。それは、唐王朝における遺骸移転の慣行と一致します。後妻のR3も夫(R1)の前に死亡し、夫の死後に合葬に改葬されました。夫のR1は、死後直接的に墓(M56)に埋葬されました。
この複葬の事例から、唐帝国の葬儀慣行の調査が可能となります。夫の死後に改葬された2人の妻は、唐王朝の家族における父方居住の社会組織と夫の支配的立場を反映していました。一方で、夫婦の間において、副葬品や葬儀や食性の構造では区別するような違いがありませんでした。これは、唐社会の社会政治的経済および人口源の多様性と関連しているかもしれず、それは、唐帝国の女性の地位が中国史において他の王朝よりも比較的高かった、という事実につながりました。
●まとめ
要約すると、本論文は学際的手法を用いて、双照墓地を調べ、中国史において最も輝かしい王朝の一つである唐王朝への社会文化的洞察を提供しました。統合された一連の証拠に基づいて、共同埋葬された個体の社会的地位と関係を推測し、唐王朝の埋葬慣行と社会組織を調べることができます。この場合、歴史時代の中国における市民生活の仮定的状況が復元されました。唐帝国についてのさらなるより正確な情報を得るためには、さまざまな遺跡からのより多くの標本が研究者にとって役立つはずである、と考えられます。
参考文献:
Zhao D, Chen Y, Xie G, Ma P, Wen Y, Zhang F, et al. (2023) A multidisciplinary study on the social customs of the Tang Empire in the Medieval Ages. PLoS ONE 18(7): e0288128.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0288128
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