縄文時代の人類集団の遺伝的構造と非縄文文化圏への遺伝的影響
縄文時代の人類集団の遺伝的構造と非縄文文化圏への遺伝的影響に関する研究(Jeong et al., 2023)が公表されました。本論文は、新たな縄文時代の人類(縄文人)のゲノムデータを報告しているわけではありませんが、既知の「縄文人」や「縄文人」的な遺伝的構成の古代人のデータを再検証し、「縄文人」集団の遺伝的構造を明らかにするとともに、非縄文文化圏の「縄文人」的な遺伝的構成の個体の起源を推測しています。ただ、こうした縄文文化圏外の「縄文人」的な遺伝的構成要素を有する個体が、実際に「縄文人」の子孫であるとは限らない可能性も考慮しておくべきでしょう(関連記事)。本論文の見解は、今後「縄文人」や日本列島およびユーラシア東部大陸部の時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータの蓄積により、さらに洗練されていくのではないか、と期待されます。また本論文からは、ゲノムや片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)と文化(および自己認識や帰属意識)とを安易に結びつけてはいけないことも改めて窺えるように思います。
●要約
「縄文人」は日本列島の先史時代の住民で、16500~2300年前頃にかけて日本列島に居住していました。「縄文人」の古代ゲノムとゲノム規模データの最近の蓄積は、「縄文人」の遺伝的特性および現在の人口集団への寄与に関する理解をかなり深めてきましたが、時間にして14000年間、距離にして2000kmにわたる縄文時代の日本列島における「縄文人」の遺伝的歴史は、ほとんど調べられていないままです。本論文は、刊行されている「縄文人」23個体と「縄文人」的な個体群の古代のゲノム規模データ間の遺伝的関係の分析に基づく「縄文人」の遺伝的歴史を解明する、複数の調査結果を報告します。第一に、9000年前頃となる四国の縄文時代早期個体は残りのその後の縄文時代個体に対して共通の外群を形成し、西日本における人口置換が示唆されます。第二に、琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島(Yokjido、Yokchido)で見つかった、縄文時代の考古学的状況外の遺伝的に「縄文人」的な個体群は、四国の縄文時代後期の1個体と最も近い遺伝的類似性を示し、時空間的にその起源を絞り込みます。本論文は、日本列島内外の「縄文人」の動的な歴史を浮き彫りにし、古代の「縄文人」のゲノムの大規模な調査を必要とします。
●研究史
「縄文人」は、日本列島に16500~2300年前頃に居住していた集団です。「縄文人」はその生計戦略においておもに狩猟と採集と漁撈に依存していましたが、定住生活様式を発展させ、土器を製作して使用し、この土器はその縄目文から縄文土器と命名されました。縄文土器の様式の時間的変化に基づいて、縄文時代は草創期(16500~10500年前頃)と早期(10500~7000年前頃)と前期(7000~5500年前頃)と中期(5500~4500年前頃)と後期(4500~3250年前頃)と晩期(3250~2500年前頃)に区分されてきました。
「縄文人」の起源と遺伝的歴史は、「縄文人」自体の理解だけではなく、日本列島の現在の人口集団の遺伝的多様性の理解でも、学術的に強い関心を集めてきました。たとえば、日本列島の北端地域のアイヌは、日本列島中央部の(本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする)「本土」日本人とよりも、日本列島最南端の琉球諸島民の方と遺伝的に近く、それは、アイヌが「本土」日本人よりも「縄文人」関連の祖先からより高い割合の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を継承したからです。
「縄文人」に関するほとんどの考古遺伝学的研究はおもにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)を対象としており、mtHg-N9b1およびM7aがそれぞれ北方の「縄文人」と南方の「縄文人」で代表的と分かったので、「縄文人」における内部の人口分化が示唆されています(関連記事)。過去数年間で、ついに「縄文人」の古代ゲノムもしくはゲノム規模データが報告されてきており、高解像度で「縄文人」の人口構造と遺伝的歴史を調べる機会が提供されます(関連記事)。とくに、最近の研究では、5000年間(8800~3800年前頃)を網羅する「縄文人」9個体のゲノムが報告されており、長期的で均質な「縄文人」の遺伝的特性が確証されました(関連記事)。
最近刊行された「縄文人」のゲノムは、「縄文人」の起源と現在の人口集団における遺伝的遺産についての主要な問題について、大きな進歩をもたらしました。たとえば、「縄文人」の遺伝子プールは大陸部の近隣人口集団と異なっており、それは、「縄文人」が現在の人口集団により適切に表されない深く分岐したユーラシア東部系統と強い遺伝的つながりを有していたからです(関連記事)。「縄文人」と他のアジア東部人口集団との間の分離は、「縄文人」の小さな有効人口規模(1000人未満)で25000~20000年前頃と推定されました(関連記事)。また、日本人の起源に関する、伝統的な二重構造モデルの拡張版である三重構造モデルが、古代の縄文時代と弥生時代と古墳時代の個体群の遺伝的比較に基づいて最近提案されました(関連記事)。
興味深いことに、考古学的研究は、「縄文人」と遺伝的に関連する個体群を報告してきましたが、縄文時代の考古学的な文化および縄文時代の考古学的状況の範囲外で見つけてきました(関連記事)。これには、琉球諸島南部の島々(たとえば、宮古諸島や八重山諸島)や朝鮮半島南岸が含まれます。しかし、これらの研究は「縄文人」の共通起源、および「縄文人」と非「縄文人」との間の比較におもに焦点を当ててきましたが、「縄文人」内の人口史はほぼ調べられていないままです。
本論文では、「縄文人」関連個体群の刊行されているゲノムもしくはゲノム規模データの詳細な再分析を行ない、そうした個体間の関係に焦点を当てました。これらは合計23個体で、縄文時代早期~縄文時代後期までの範囲で、全体的に均質な「縄文人」遺伝子プール内の豊富な動態についての証拠を提供します。具体的には、四国の縄文時代早期の1個体は日本列島全域のその後の縄文時代個体群に対して外群を形成し、この地域における人口置換が示唆されます。伝統的な縄文文化地域外の遺伝的に「縄文人」的な個体群の起源を、縄文時代中期/後期の西日本(中国と関西と四国と九州が含まれます)に絞り込むこともできます。
●資料と手法
日本列島およびその近隣地域の既知の古代人のゲノムデータが編集され、祖先系統の情報をもたらす124万(1233013)の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)一式で、ゲノム規模の遺伝子型データが得られました。これら古代人のデータは、既知の他の古代人および現代人のゲノムデータと統合され、現代人のゲノムデータでの主成分分析(principal component analysis、略してPCA)に、古代の個体群が投影されました。「縄文人」関連個体間の近縁性は、常染色体のSNPで計算された不適正遺伝子型塩基対率(pairwise genotype mismatch rate、略してPMR)に基づいて推定されました。
検証対象の2集団間の共有される遺伝的浮動を測定するために、コンゴの熱帯雨林狩猟採集民であるムブティ人を用いて、外群f₃統計が計算されました。ムブティ人はf₄統計でも外群として用いられました。「縄文人」関連集団内の人口構造を理解するため、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)の全ての組み合わせが計算されました。「縄文人」集団間の遺伝的対称性検証、もしくは世界規模の人口集団での追加の混合供給源を探すために、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;縄文人1、縄文人2)が計算されました。
hapROHを用いて、124万のSNP一式のうち40万以上のSNPを網羅する「縄文人」個体の同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)が調べられました。ROHは両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にあると推測され、人口集団の規模と均一性を示せるとともに、ROH区間の分布は有効人口規模と1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。各「縄文人」のゲノムの疑似半数体遺伝子型呼び出しと、参照として1000人ゲノム計画3期のハプロタイプデータが用いられました。
●刊行されている「縄文人」関連個体群のゲノム規模データ
本論文では、刊行されている古代の「縄文人」もしくは「縄文人」的な23個体のゲノム規模データが用いられました(図1、表1)。これら23個体のうち17個体は、縄文時代の考古学的状況と直接的に関連する日本の本州もしくは四国の「縄文人」です。残りの6個体は「縄文人」的な遺伝的特性を有しているものの、縄文文化と直接的に関連しない考古学的状況に由来します。このうち6個体は琉球諸島の宮古島にある長墓遺跡で発見され(長墓_2800年前および長墓_4000年前)、残りの1個体は大韓民国慶尚南道統営(Tongyeong)市にある欲知島(Yokjido、Yokchido)遺跡で発見されました(欲知島_4000年前)。この23個体では近い関係の親族は検出されなかったので、分析にはこの23個体全てが含められました。この23個体は、遺跡と年代の情報に基づいて11の分析集団に分割されました(図1、表1)。
使用されたこれらの個体のうち、2個体には低品質のため目印をつけました。一方の欲知島個体(TYJ001)は軽度の汚染(ミトコンドリア捕獲データに基づくと6%の汚染)の可能性があり、もう一方の最古の長墓遺跡個体(NAG016、長墓_4000年前)は重度の汚染があり、低網羅率(1233013のSNPのうち27652が網羅されました)でした。未知の汚染物質が現在の個体群にもはや存在しない「縄文人」起源である可能性は先験的に低そうなので、この2個体は汚染が定性的方法で検証に影響を及ぼさないだろう分析の部分集合に含められました。「縄文人」との遺伝的類似性を有すると報告された朝鮮半島南岸の追加となる先史時代4個体も使用されました。それは、大韓民国釜山(Busan)市の獐項(Janghang)遺跡の新石器時代墓地の2個体(獐項_6700年前)と、統営市の煙台島(Yeondae-do、Yŏndaedo)貝塚遺跡の2個体(煙台島_7000年前)です(関連記事)。以下は本論文の図1です。
PCAが実行され、現在のユーラシア人口集団との比較で「縄文人」関連個体群の遺伝的特性が視覚的に要約されました。「縄文人」関連個体全体の均質な遺伝的特性を報告した先行研究と一致して、「縄文人」関連個体群は他の人口集団から分離された緊密で明確なクラスタ(まとまり)を形成します。このクラスタから逸れる2個体は長墓遺跡で発見され(NAG012とNAG016)、両者とも低網羅率で、一方(NAG016)は重度の汚染があります。
「縄文人」関連個体群内での詳細な遺伝的階層化を調べるため、「縄文人」と欲知島および長墓遺跡の個体群のみでPCAが実行されました。この分析では、欲知島遺跡と長墓遺跡の個体と他の「縄文人」個体群からの分離が観察されます。欲知島および長墓遺跡の個体群を除いて、PCAを日本列島「本土」の「縄文人」個体群のみに適用すると、西日本の「縄文人」と東日本(中部と関東)の「縄文人」と北海道との間の分離が観察されます。
ほとんどの「縄文人」関連個体の低網羅率の性質を考慮して、個体間のPMRの計算により、各「縄文人」関連集団内での遺伝的多様性の水準が測定されました。さまざまな「縄文人」集団間のPMR値(平均で0.191)は全体的類似しており、漢人や日本人などアジア東部現代人よりずっと低く、「縄文人」メタ個体群(metapopulation、アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)内の全体的な遺伝的多様性現象を示唆します。興味深いことに、長墓_2800年前個体群はより減少したPMR値(平均で0.154)を示しており、長墓_2800年前に特有の強い人口ボトルネック(瓶首効果)が示唆されます。ROH断片の分布は、類似のパターンを提供します。つまり、「縄文人」関連個体群は全体的にROH断片の蓄積を示しており、これは遺伝的多様性現象の痕跡で、長墓遺跡個体群は他のほとんどの「縄文人」個体よりも多いROH断片を有する傾向にあります。
●縄文時代早期個体はその後の全ての「縄文人」個体にとって共通の外群です
「縄文人」関連集団における人口構造を調べるため、f₃形式(ムブティ人;縄文人1、縄文人2)の外群f₃統計を用いて、「縄文人」関連集団の各組み合わせ間の遺伝的類似性がまず測定されました。アフリカ中央部の熱帯雨林の狩猟採集民人口集団であるムブティ人が外群として用いられ、汚染のため長墓_4000年前と欲知島_4000年前を除いて、「縄文人」関連11集団のうち9集団に分析が適用されました。この2集団を含めると、一貫して他の組み合わせよりも低い外群f₃値が示されました。四国の縄文時代早期の1個体、つまり9000年前頃となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡個体(JpKa)は、他の「縄文人」個体と比較的低い遺伝的類似性を示します。すべての組み合わせのうち、本州西部の縄文時代早期の1個体、つまり5600年前頃となる岡山県倉敷市の船倉貝塚個体(JpFu)と、四国の縄文時代後期の1個体、つまり3800年前頃となる愛媛県南宇和郡愛南町御荘の平城貝塚個体(JpHi)の組み合わせが最高の値を示します。
外群f₃の結果と縄文時代早期個体の存在に触発されて、「縄文人」の人口構造に関すして競合する二つの仮説が明示的に比較されました。それは、(1)JpKaの最古の「縄文人」個体がその後の「縄文人」個体全てにとって共通の外群を形成するか、(2)西日本の「縄文人」集団(JpKaとJpFuとJpHi)が5000年間にわたる人口継続性を示す、というものです(図2)。以下は本論文の図2です。
この二つの仮説を区別するため、「縄文人」関連集団の全ての三者の組み合わせで、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)のf₄統計が計算されました(図3)。仮説(1)では、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は全ての組み合わせ(縄文人2と縄文人3)でゼロと予測され、それは、JpKaがその後の全「縄文人」集団にとって共通の外群だからです。対照的に、仮説(2)では、JpKaはその後の西日本「縄文人」集団(JpFu/JpHi)の方と他の「縄文人」よりも近いので、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は「縄文人3」を西日本のその後の「縄文人」集団(つまり、JpFuとJpHi)とすると、有意に正になると予測されます。同様に、f₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)は仮説(1)では正となり、仮説(2)では負となるでしょう。以下は本論文の図3です。
f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)については、「縄文人」集団28通りの組み合わせのうち1組だけが|Z|>3となり、それはf₄(ムブティ人、JpKa;北海道礼文島の船泊貝塚の3700年前頃の個体、JpFu)=3.187でした(図3A)。さらに、f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、縄文人3)は多くの組み合わせにおいて有意に正で(縄文人1と縄文人3)、一般的にその値は正となる傾向があり、仮説(2)よりも仮説(1)の方が選ばれます。
2番目の統計であるf₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)はほぼ|Z|<3となり、どちらの仮説の予測とも一致しません。f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、JpFu/JpHi)によるJpKaおよびJpFu/JpHiとの他の「縄文人」集団の類似性を比較すると、結果は統計的に有意ではないものの、ほぼ正です。縄文時代前期のJpFuは近隣地域のより古い個体であるJpKaとの部分的な遺伝的つながりを有しているかもしれない、と推測されますが、この混合仮説の家司的検定は、統計的検出力を高めるために、より多くの古代人のゲノムを必要とするかもしれません。したがって、最古の「縄文人」個体であるJpKaは、西日本の「縄文人」を含む利用可能な「縄文人」集団にとって、共通の外群を表しているかもしれません。
最後に、同じ分析が2番目に古い(6000年前頃)縄文時代前期の本州中央部北方となる富山県富山市の小竹貝塚遺跡個体群(JpOd)に適用されました。JpKaを含む場合以外では全ての「縄文人」の組み合わせにおいて、平均標準誤差3以内でf₄(ムブティ人、JpOd;縄文人2、縄文人3)の観察によりJpOdと非対称的に関連する「縄文人」の組み合わせは見つからず、f₄(ムブティ人、JpOd;JpK、縄文人3)は東日本(中部と関東と北海道が含まれます)のその後の全ての「縄文人」集団で平均標準偏差3超です。
●西日本の縄文時代後期個体と「縄文人」関連個体群の遺伝的類似性
遺跡と地域は直接的に考古学的な縄文文化と関連していないものの、「縄文人」的な遺伝的特性を示した、長墓遺跡(長墓_2800年前)と欲知島貝塚遺跡(欲知島_4000年前)の個体群のあり得る起源が調べられました。その結果、四国の縄文時代後期個体(JpHi)が長墓_2800年前と最も近い集団と分かり、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpHi)はほぼ有意に正(Z=2.5~4.9)でした(図4A)。本州西部のより古い縄文時代前期個体であるJpFuは長墓_2800年前と2番目に密接に関連しているものの、その違いは統計的に有意ではなく、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpFu)はJpHi(Z=-2.5)を除いて平均標準誤差は0.1~2.3でした。より古い長墓遺跡個体(長墓_4000年前)の明確な「縄文人」との類似性を考えると、「縄文人」関連集団は4000年前頃までにはすでに長墓遺跡に存在したでしょう。まとめると、JpFu/JpHiと関連している西日本の縄文時代後期人口集団は、南琉球諸島の「縄文人」関連人口集団の供給源だった可能性が高そうです。以下は本論文の図4です。
同様に、JpHiと長墓_2800年前は欲知島_4000年前との最も近い「縄文人」関連集団と分かり、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;縄文人、JpHi /長墓_2800年前)は平均標準誤差が2.3~5.4で、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;長墓_2800年前、JpHi )は平均標準誤差が0.1でした(図4B)。先行研究は、朝鮮半島南岸の先史時代集団(煙台島_7000年前と獐項_6700年前)における「縄文人」祖先系統の寄与を報告しました(関連記事)。同じ分析を繰り返すと、JpHiがそうした朝鮮半島南岸集団と最も近い「縄文人」関連集団のようだ、と分かり、f₄(ムブティ人、煙台島_7000年前;他の縄文人、JpHi)は平均標準誤差が1.2~2.7でしたが、小さな標本規模と低網羅率のため、検定はどれも統計的に有意でありません(つまり、Z<3)。
要約すると、それぞれ4000年前頃と2800年前頃に観察される朝鮮半島南部および琉球諸島への「縄文人」関連集団の拡散は、西日本起源である可能性が高そうで、これらの地域の地理的近さと一致する、と示唆されます。これらの地域においてそれ以前(つまり、朝鮮半島南部の獐項_6700年前および煙台島_7000年前と、宮古島の長墓_4000年前)の個体で見られる「縄文人」祖先系統は、同じ供給源に由来していたかもしれませんが、現時点で利用可能なゲノムデータはさまざまな「縄文人」供給源間を区別する解像度が不足していることに要注意です。これらの地域や日本列島全体での将来の古代ゲノムの標本抽出は、これらの地域における「縄文人」祖先系統の時間窓と真の供給源を絞り込むのに役立つでしょう。
●考察
日本列島に14000年以上居住してきた「縄文人」の起源と歴史は、考古学者と遺伝学者により長く調べられてきました。考古遺伝学における最近の進歩は、数十個体の古代の「縄文人」のゲノムの解読により大きな躍進を遂げました。これらの研究は「縄文人」の独特な遺伝的起源とその全体的に均質な遺伝的特性を明らかにしましたが、「縄文人」における遺伝的多様性と関係の再構築にはさほど焦点を当てませんでした。本論文は、これまでに利用可能な「縄文人」のゲノムの編集に基づく包括的な方法で、経時的な「縄文人」の人口構造を調べます。
四国の縄文時代早期個体(JpKa)は西日本と東日本両方のその後の「縄文人」集団にとって共通の外群を形成するものの、西日本の近隣地域のその後の集団と剰余の類似性がある、と分かりました。対称性を破る「縄文人」集団の唯一の組み合わせはJpFuと船泊貝塚の個体で、これはJpKaとJpFuとの間のこの剰余の類似性に起因するかもしれません。あるいは、これは船泊個体特有の遺伝的つながりに起因するかもしれません。つまり、オホーツク海周辺のつながりで、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;船泊、JpKa)のf₄統計による、現在の世界規模の人口集団のうちアジアのエスキモーと樺太島のウリチ人(Ulchi)がJpKaとよりも船泊個体の方と近い、という観察により示唆されます。先行研究は北海道のアイヌとオホーツク海周辺の人口集団との間の動揺のつながりを報告しましたが(関連記事)、この兆候は両者間のより最近の遺伝的交流に起因するかもしれません。
次に古い「縄文人」集団である縄文時代前期のJpOdは対照的に、東日本のその後の全ての「縄文人」との明確な遺伝的類似性を示します。節約的な仮定的状況は、東方の「縄文人」集団が西方へと拡大し、9000~5000年前頃の広い時間的範囲内のある時点(つまり、JpKaとJpFuとの間)で在来の西方「縄文人」集団を部分的に置換した、というものです。「縄文人」ゲノムの時空間的に疎らな標本抽出のため、本論文の調査結果の代表性が保証されないかもしれないことに要注意です。
「縄文人」は日本列島外の人口集団から強く孤立している、と仮定されてきたことが多いものの、最近の考古学的研究は、紀元前千年紀後半における「【渡来系】弥生人」との主要な接触に先行する、大陸部人口集団との長期の接触を浮き彫りにしています。これらの研究は、大陸部から縄文時代の日本列島への、栽培化された植物(たとえば、アズキやダイズ)や青銅器製品など物質文化の出現を報告しました。興味深いことに、最近の考古遺伝学的研究は、縄文時代の考古学的状況外の古代の個体群における「縄文人」的な遺伝的特性を報告しており(関連記事)、南琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島の遺跡が含まれます。両遺跡における「縄文人」的な個体は、西日本の縄文時代後期の1個体(3800年前頃のJpHi)と最も強い遺伝的類似性を有しています。
両地域(宮古島と朝鮮半島南岸)では、「縄文人」祖先系統の最初の出現はJpHiの年代よりずっと古いものの、両地域のより古い個体、つまり宮古島の4000年前頃の個体(長墓_4000年前)や朝鮮半島南岸の7000~6500年前頃の個体(獐項_6700年前と煙台島_7000年前)はゲノムデータが低品質なので、特定の「縄文人」集団との類似性を正確に示すことはできません。したがって、これら初期人口集団に寄与した「縄文人」集団の時空間的な起源は曖昧なままです。「縄文人」、とくに日本列島「本土」最西端となる九州の縄文時代前期/中期のゲノムのさらなる標本抽出が、ユーラシア大陸部との「縄文人」の外向きの遺伝的つながりを再構築するための情報の、重要な断片を提供するでしょう。
参考文献:
Jeong G. et al.(2023): An ancient genome perspective on the dynamic history of the prehistoric Jomon people in and around the Japanese archipelago. Human Population Genetics and Genomics, 3, 4, 0008.
https://doi.org/10.47248/hpgg2303040008
●要約
「縄文人」は日本列島の先史時代の住民で、16500~2300年前頃にかけて日本列島に居住していました。「縄文人」の古代ゲノムとゲノム規模データの最近の蓄積は、「縄文人」の遺伝的特性および現在の人口集団への寄与に関する理解をかなり深めてきましたが、時間にして14000年間、距離にして2000kmにわたる縄文時代の日本列島における「縄文人」の遺伝的歴史は、ほとんど調べられていないままです。本論文は、刊行されている「縄文人」23個体と「縄文人」的な個体群の古代のゲノム規模データ間の遺伝的関係の分析に基づく「縄文人」の遺伝的歴史を解明する、複数の調査結果を報告します。第一に、9000年前頃となる四国の縄文時代早期個体は残りのその後の縄文時代個体に対して共通の外群を形成し、西日本における人口置換が示唆されます。第二に、琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島(Yokjido、Yokchido)で見つかった、縄文時代の考古学的状況外の遺伝的に「縄文人」的な個体群は、四国の縄文時代後期の1個体と最も近い遺伝的類似性を示し、時空間的にその起源を絞り込みます。本論文は、日本列島内外の「縄文人」の動的な歴史を浮き彫りにし、古代の「縄文人」のゲノムの大規模な調査を必要とします。
●研究史
「縄文人」は、日本列島に16500~2300年前頃に居住していた集団です。「縄文人」はその生計戦略においておもに狩猟と採集と漁撈に依存していましたが、定住生活様式を発展させ、土器を製作して使用し、この土器はその縄目文から縄文土器と命名されました。縄文土器の様式の時間的変化に基づいて、縄文時代は草創期(16500~10500年前頃)と早期(10500~7000年前頃)と前期(7000~5500年前頃)と中期(5500~4500年前頃)と後期(4500~3250年前頃)と晩期(3250~2500年前頃)に区分されてきました。
「縄文人」の起源と遺伝的歴史は、「縄文人」自体の理解だけではなく、日本列島の現在の人口集団の遺伝的多様性の理解でも、学術的に強い関心を集めてきました。たとえば、日本列島の北端地域のアイヌは、日本列島中央部の(本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする)「本土」日本人とよりも、日本列島最南端の琉球諸島民の方と遺伝的に近く、それは、アイヌが「本土」日本人よりも「縄文人」関連の祖先からより高い割合の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を継承したからです。
「縄文人」に関するほとんどの考古遺伝学的研究はおもにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)を対象としており、mtHg-N9b1およびM7aがそれぞれ北方の「縄文人」と南方の「縄文人」で代表的と分かったので、「縄文人」における内部の人口分化が示唆されています(関連記事)。過去数年間で、ついに「縄文人」の古代ゲノムもしくはゲノム規模データが報告されてきており、高解像度で「縄文人」の人口構造と遺伝的歴史を調べる機会が提供されます(関連記事)。とくに、最近の研究では、5000年間(8800~3800年前頃)を網羅する「縄文人」9個体のゲノムが報告されており、長期的で均質な「縄文人」の遺伝的特性が確証されました(関連記事)。
最近刊行された「縄文人」のゲノムは、「縄文人」の起源と現在の人口集団における遺伝的遺産についての主要な問題について、大きな進歩をもたらしました。たとえば、「縄文人」の遺伝子プールは大陸部の近隣人口集団と異なっており、それは、「縄文人」が現在の人口集団により適切に表されない深く分岐したユーラシア東部系統と強い遺伝的つながりを有していたからです(関連記事)。「縄文人」と他のアジア東部人口集団との間の分離は、「縄文人」の小さな有効人口規模(1000人未満)で25000~20000年前頃と推定されました(関連記事)。また、日本人の起源に関する、伝統的な二重構造モデルの拡張版である三重構造モデルが、古代の縄文時代と弥生時代と古墳時代の個体群の遺伝的比較に基づいて最近提案されました(関連記事)。
興味深いことに、考古学的研究は、「縄文人」と遺伝的に関連する個体群を報告してきましたが、縄文時代の考古学的な文化および縄文時代の考古学的状況の範囲外で見つけてきました(関連記事)。これには、琉球諸島南部の島々(たとえば、宮古諸島や八重山諸島)や朝鮮半島南岸が含まれます。しかし、これらの研究は「縄文人」の共通起源、および「縄文人」と非「縄文人」との間の比較におもに焦点を当ててきましたが、「縄文人」内の人口史はほぼ調べられていないままです。
本論文では、「縄文人」関連個体群の刊行されているゲノムもしくはゲノム規模データの詳細な再分析を行ない、そうした個体間の関係に焦点を当てました。これらは合計23個体で、縄文時代早期~縄文時代後期までの範囲で、全体的に均質な「縄文人」遺伝子プール内の豊富な動態についての証拠を提供します。具体的には、四国の縄文時代早期の1個体は日本列島全域のその後の縄文時代個体群に対して外群を形成し、この地域における人口置換が示唆されます。伝統的な縄文文化地域外の遺伝的に「縄文人」的な個体群の起源を、縄文時代中期/後期の西日本(中国と関西と四国と九州が含まれます)に絞り込むこともできます。
●資料と手法
日本列島およびその近隣地域の既知の古代人のゲノムデータが編集され、祖先系統の情報をもたらす124万(1233013)の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)一式で、ゲノム規模の遺伝子型データが得られました。これら古代人のデータは、既知の他の古代人および現代人のゲノムデータと統合され、現代人のゲノムデータでの主成分分析(principal component analysis、略してPCA)に、古代の個体群が投影されました。「縄文人」関連個体間の近縁性は、常染色体のSNPで計算された不適正遺伝子型塩基対率(pairwise genotype mismatch rate、略してPMR)に基づいて推定されました。
検証対象の2集団間の共有される遺伝的浮動を測定するために、コンゴの熱帯雨林狩猟採集民であるムブティ人を用いて、外群f₃統計が計算されました。ムブティ人はf₄統計でも外群として用いられました。「縄文人」関連集団内の人口構造を理解するため、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)の全ての組み合わせが計算されました。「縄文人」集団間の遺伝的対称性検証、もしくは世界規模の人口集団での追加の混合供給源を探すために、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;縄文人1、縄文人2)が計算されました。
hapROHを用いて、124万のSNP一式のうち40万以上のSNPを網羅する「縄文人」個体の同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)が調べられました。ROHは両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にあると推測され、人口集団の規模と均一性を示せるとともに、ROH区間の分布は有効人口規模と1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。各「縄文人」のゲノムの疑似半数体遺伝子型呼び出しと、参照として1000人ゲノム計画3期のハプロタイプデータが用いられました。
●刊行されている「縄文人」関連個体群のゲノム規模データ
本論文では、刊行されている古代の「縄文人」もしくは「縄文人」的な23個体のゲノム規模データが用いられました(図1、表1)。これら23個体のうち17個体は、縄文時代の考古学的状況と直接的に関連する日本の本州もしくは四国の「縄文人」です。残りの6個体は「縄文人」的な遺伝的特性を有しているものの、縄文文化と直接的に関連しない考古学的状況に由来します。このうち6個体は琉球諸島の宮古島にある長墓遺跡で発見され(長墓_2800年前および長墓_4000年前)、残りの1個体は大韓民国慶尚南道統営(Tongyeong)市にある欲知島(Yokjido、Yokchido)遺跡で発見されました(欲知島_4000年前)。この23個体では近い関係の親族は検出されなかったので、分析にはこの23個体全てが含められました。この23個体は、遺跡と年代の情報に基づいて11の分析集団に分割されました(図1、表1)。
使用されたこれらの個体のうち、2個体には低品質のため目印をつけました。一方の欲知島個体(TYJ001)は軽度の汚染(ミトコンドリア捕獲データに基づくと6%の汚染)の可能性があり、もう一方の最古の長墓遺跡個体(NAG016、長墓_4000年前)は重度の汚染があり、低網羅率(1233013のSNPのうち27652が網羅されました)でした。未知の汚染物質が現在の個体群にもはや存在しない「縄文人」起源である可能性は先験的に低そうなので、この2個体は汚染が定性的方法で検証に影響を及ぼさないだろう分析の部分集合に含められました。「縄文人」との遺伝的類似性を有すると報告された朝鮮半島南岸の追加となる先史時代4個体も使用されました。それは、大韓民国釜山(Busan)市の獐項(Janghang)遺跡の新石器時代墓地の2個体(獐項_6700年前)と、統営市の煙台島(Yeondae-do、Yŏndaedo)貝塚遺跡の2個体(煙台島_7000年前)です(関連記事)。以下は本論文の図1です。
PCAが実行され、現在のユーラシア人口集団との比較で「縄文人」関連個体群の遺伝的特性が視覚的に要約されました。「縄文人」関連個体全体の均質な遺伝的特性を報告した先行研究と一致して、「縄文人」関連個体群は他の人口集団から分離された緊密で明確なクラスタ(まとまり)を形成します。このクラスタから逸れる2個体は長墓遺跡で発見され(NAG012とNAG016)、両者とも低網羅率で、一方(NAG016)は重度の汚染があります。
「縄文人」関連個体群内での詳細な遺伝的階層化を調べるため、「縄文人」と欲知島および長墓遺跡の個体群のみでPCAが実行されました。この分析では、欲知島遺跡と長墓遺跡の個体と他の「縄文人」個体群からの分離が観察されます。欲知島および長墓遺跡の個体群を除いて、PCAを日本列島「本土」の「縄文人」個体群のみに適用すると、西日本の「縄文人」と東日本(中部と関東)の「縄文人」と北海道との間の分離が観察されます。
ほとんどの「縄文人」関連個体の低網羅率の性質を考慮して、個体間のPMRの計算により、各「縄文人」関連集団内での遺伝的多様性の水準が測定されました。さまざまな「縄文人」集団間のPMR値(平均で0.191)は全体的類似しており、漢人や日本人などアジア東部現代人よりずっと低く、「縄文人」メタ個体群(metapopulation、アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)内の全体的な遺伝的多様性現象を示唆します。興味深いことに、長墓_2800年前個体群はより減少したPMR値(平均で0.154)を示しており、長墓_2800年前に特有の強い人口ボトルネック(瓶首効果)が示唆されます。ROH断片の分布は、類似のパターンを提供します。つまり、「縄文人」関連個体群は全体的にROH断片の蓄積を示しており、これは遺伝的多様性現象の痕跡で、長墓遺跡個体群は他のほとんどの「縄文人」個体よりも多いROH断片を有する傾向にあります。
●縄文時代早期個体はその後の全ての「縄文人」個体にとって共通の外群です
「縄文人」関連集団における人口構造を調べるため、f₃形式(ムブティ人;縄文人1、縄文人2)の外群f₃統計を用いて、「縄文人」関連集団の各組み合わせ間の遺伝的類似性がまず測定されました。アフリカ中央部の熱帯雨林の狩猟採集民人口集団であるムブティ人が外群として用いられ、汚染のため長墓_4000年前と欲知島_4000年前を除いて、「縄文人」関連11集団のうち9集団に分析が適用されました。この2集団を含めると、一貫して他の組み合わせよりも低い外群f₃値が示されました。四国の縄文時代早期の1個体、つまり9000年前頃となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡個体(JpKa)は、他の「縄文人」個体と比較的低い遺伝的類似性を示します。すべての組み合わせのうち、本州西部の縄文時代早期の1個体、つまり5600年前頃となる岡山県倉敷市の船倉貝塚個体(JpFu)と、四国の縄文時代後期の1個体、つまり3800年前頃となる愛媛県南宇和郡愛南町御荘の平城貝塚個体(JpHi)の組み合わせが最高の値を示します。
外群f₃の結果と縄文時代早期個体の存在に触発されて、「縄文人」の人口構造に関すして競合する二つの仮説が明示的に比較されました。それは、(1)JpKaの最古の「縄文人」個体がその後の「縄文人」個体全てにとって共通の外群を形成するか、(2)西日本の「縄文人」集団(JpKaとJpFuとJpHi)が5000年間にわたる人口継続性を示す、というものです(図2)。以下は本論文の図2です。
この二つの仮説を区別するため、「縄文人」関連集団の全ての三者の組み合わせで、f₄形式(ムブティ人、縄文人1;縄文人2、縄文人3)のf₄統計が計算されました(図3)。仮説(1)では、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は全ての組み合わせ(縄文人2と縄文人3)でゼロと予測され、それは、JpKaがその後の全「縄文人」集団にとって共通の外群だからです。対照的に、仮説(2)では、JpKaはその後の西日本「縄文人」集団(JpFu/JpHi)の方と他の「縄文人」よりも近いので、f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)は「縄文人3」を西日本のその後の「縄文人」集団(つまり、JpFuとJpHi)とすると、有意に正になると予測されます。同様に、f₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)は仮説(1)では正となり、仮説(2)では負となるでしょう。以下は本論文の図3です。
f₄(ムブティ人、JpKa;縄文人2、縄文人3)については、「縄文人」集団28通りの組み合わせのうち1組だけが|Z|>3となり、それはf₄(ムブティ人、JpKa;北海道礼文島の船泊貝塚の3700年前頃の個体、JpFu)=3.187でした(図3A)。さらに、f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、縄文人3)は多くの組み合わせにおいて有意に正で(縄文人1と縄文人3)、一般的にその値は正となる傾向があり、仮説(2)よりも仮説(1)の方が選ばれます。
2番目の統計であるf₄(ムブティ人、JpFu/JpHi;JpKa、縄文人3)はほぼ|Z|<3となり、どちらの仮説の予測とも一致しません。f₄(ムブティ人、縄文人1;JpKa、JpFu/JpHi)によるJpKaおよびJpFu/JpHiとの他の「縄文人」集団の類似性を比較すると、結果は統計的に有意ではないものの、ほぼ正です。縄文時代前期のJpFuは近隣地域のより古い個体であるJpKaとの部分的な遺伝的つながりを有しているかもしれない、と推測されますが、この混合仮説の家司的検定は、統計的検出力を高めるために、より多くの古代人のゲノムを必要とするかもしれません。したがって、最古の「縄文人」個体であるJpKaは、西日本の「縄文人」を含む利用可能な「縄文人」集団にとって、共通の外群を表しているかもしれません。
最後に、同じ分析が2番目に古い(6000年前頃)縄文時代前期の本州中央部北方となる富山県富山市の小竹貝塚遺跡個体群(JpOd)に適用されました。JpKaを含む場合以外では全ての「縄文人」の組み合わせにおいて、平均標準誤差3以内でf₄(ムブティ人、JpOd;縄文人2、縄文人3)の観察によりJpOdと非対称的に関連する「縄文人」の組み合わせは見つからず、f₄(ムブティ人、JpOd;JpK、縄文人3)は東日本(中部と関東と北海道が含まれます)のその後の全ての「縄文人」集団で平均標準偏差3超です。
●西日本の縄文時代後期個体と「縄文人」関連個体群の遺伝的類似性
遺跡と地域は直接的に考古学的な縄文文化と関連していないものの、「縄文人」的な遺伝的特性を示した、長墓遺跡(長墓_2800年前)と欲知島貝塚遺跡(欲知島_4000年前)の個体群のあり得る起源が調べられました。その結果、四国の縄文時代後期個体(JpHi)が長墓_2800年前と最も近い集団と分かり、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpHi)はほぼ有意に正(Z=2.5~4.9)でした(図4A)。本州西部のより古い縄文時代前期個体であるJpFuは長墓_2800年前と2番目に密接に関連しているものの、その違いは統計的に有意ではなく、f₄(ムブティ人、長墓_2800年前;他の縄文人、JpFu)はJpHi(Z=-2.5)を除いて平均標準誤差は0.1~2.3でした。より古い長墓遺跡個体(長墓_4000年前)の明確な「縄文人」との類似性を考えると、「縄文人」関連集団は4000年前頃までにはすでに長墓遺跡に存在したでしょう。まとめると、JpFu/JpHiと関連している西日本の縄文時代後期人口集団は、南琉球諸島の「縄文人」関連人口集団の供給源だった可能性が高そうです。以下は本論文の図4です。
同様に、JpHiと長墓_2800年前は欲知島_4000年前との最も近い「縄文人」関連集団と分かり、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;縄文人、JpHi /長墓_2800年前)は平均標準誤差が2.3~5.4で、f₄(ムブティ人、欲知島_4000年前;長墓_2800年前、JpHi )は平均標準誤差が0.1でした(図4B)。先行研究は、朝鮮半島南岸の先史時代集団(煙台島_7000年前と獐項_6700年前)における「縄文人」祖先系統の寄与を報告しました(関連記事)。同じ分析を繰り返すと、JpHiがそうした朝鮮半島南岸集団と最も近い「縄文人」関連集団のようだ、と分かり、f₄(ムブティ人、煙台島_7000年前;他の縄文人、JpHi)は平均標準誤差が1.2~2.7でしたが、小さな標本規模と低網羅率のため、検定はどれも統計的に有意でありません(つまり、Z<3)。
要約すると、それぞれ4000年前頃と2800年前頃に観察される朝鮮半島南部および琉球諸島への「縄文人」関連集団の拡散は、西日本起源である可能性が高そうで、これらの地域の地理的近さと一致する、と示唆されます。これらの地域においてそれ以前(つまり、朝鮮半島南部の獐項_6700年前および煙台島_7000年前と、宮古島の長墓_4000年前)の個体で見られる「縄文人」祖先系統は、同じ供給源に由来していたかもしれませんが、現時点で利用可能なゲノムデータはさまざまな「縄文人」供給源間を区別する解像度が不足していることに要注意です。これらの地域や日本列島全体での将来の古代ゲノムの標本抽出は、これらの地域における「縄文人」祖先系統の時間窓と真の供給源を絞り込むのに役立つでしょう。
●考察
日本列島に14000年以上居住してきた「縄文人」の起源と歴史は、考古学者と遺伝学者により長く調べられてきました。考古遺伝学における最近の進歩は、数十個体の古代の「縄文人」のゲノムの解読により大きな躍進を遂げました。これらの研究は「縄文人」の独特な遺伝的起源とその全体的に均質な遺伝的特性を明らかにしましたが、「縄文人」における遺伝的多様性と関係の再構築にはさほど焦点を当てませんでした。本論文は、これまでに利用可能な「縄文人」のゲノムの編集に基づく包括的な方法で、経時的な「縄文人」の人口構造を調べます。
四国の縄文時代早期個体(JpKa)は西日本と東日本両方のその後の「縄文人」集団にとって共通の外群を形成するものの、西日本の近隣地域のその後の集団と剰余の類似性がある、と分かりました。対称性を破る「縄文人」集団の唯一の組み合わせはJpFuと船泊貝塚の個体で、これはJpKaとJpFuとの間のこの剰余の類似性に起因するかもしれません。あるいは、これは船泊個体特有の遺伝的つながりに起因するかもしれません。つまり、オホーツク海周辺のつながりで、f₄形式(ムブティ人、世界規模の集団;船泊、JpKa)のf₄統計による、現在の世界規模の人口集団のうちアジアのエスキモーと樺太島のウリチ人(Ulchi)がJpKaとよりも船泊個体の方と近い、という観察により示唆されます。先行研究は北海道のアイヌとオホーツク海周辺の人口集団との間の動揺のつながりを報告しましたが(関連記事)、この兆候は両者間のより最近の遺伝的交流に起因するかもしれません。
次に古い「縄文人」集団である縄文時代前期のJpOdは対照的に、東日本のその後の全ての「縄文人」との明確な遺伝的類似性を示します。節約的な仮定的状況は、東方の「縄文人」集団が西方へと拡大し、9000~5000年前頃の広い時間的範囲内のある時点(つまり、JpKaとJpFuとの間)で在来の西方「縄文人」集団を部分的に置換した、というものです。「縄文人」ゲノムの時空間的に疎らな標本抽出のため、本論文の調査結果の代表性が保証されないかもしれないことに要注意です。
「縄文人」は日本列島外の人口集団から強く孤立している、と仮定されてきたことが多いものの、最近の考古学的研究は、紀元前千年紀後半における「【渡来系】弥生人」との主要な接触に先行する、大陸部人口集団との長期の接触を浮き彫りにしています。これらの研究は、大陸部から縄文時代の日本列島への、栽培化された植物(たとえば、アズキやダイズ)や青銅器製品など物質文化の出現を報告しました。興味深いことに、最近の考古遺伝学的研究は、縄文時代の考古学的状況外の古代の個体群における「縄文人」的な遺伝的特性を報告しており(関連記事)、南琉球諸島の宮古島や朝鮮半島南岸の欲知島の遺跡が含まれます。両遺跡における「縄文人」的な個体は、西日本の縄文時代後期の1個体(3800年前頃のJpHi)と最も強い遺伝的類似性を有しています。
両地域(宮古島と朝鮮半島南岸)では、「縄文人」祖先系統の最初の出現はJpHiの年代よりずっと古いものの、両地域のより古い個体、つまり宮古島の4000年前頃の個体(長墓_4000年前)や朝鮮半島南岸の7000~6500年前頃の個体(獐項_6700年前と煙台島_7000年前)はゲノムデータが低品質なので、特定の「縄文人」集団との類似性を正確に示すことはできません。したがって、これら初期人口集団に寄与した「縄文人」集団の時空間的な起源は曖昧なままです。「縄文人」、とくに日本列島「本土」最西端となる九州の縄文時代前期/中期のゲノムのさらなる標本抽出が、ユーラシア大陸部との「縄文人」の外向きの遺伝的つながりを再構築するための情報の、重要な断片を提供するでしょう。
参考文献:
Jeong G. et al.(2023): An ancient genome perspective on the dynamic history of the prehistoric Jomon people in and around the Japanese archipelago. Human Population Genetics and Genomics, 3, 4, 0008.
https://doi.org/10.47248/hpgg2303040008
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