ローマ期ブリテン島の個体の学際的研究

 ローマ期ブリテン島の個体の学際的な研究(Silva et al., 2024)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、ローマ期となる2~3世紀のブリテン島の農村部の個体に、サルマティア人からの遺伝的影響があったことを報告しています。歴史学において、マルコマンニ戦争勃発後の175年に、ローマ帝国がサルマティア人騎兵をブリテン島に派遣した、と明らかにされており、古代ゲノム研究が歴史学など伝統的な学問分野を補完できる可能性が、改めて示されました。今後は、日本列島においてもこうした学際的研究が進展するよう、期待しています。


●要約

 2世にローマ帝国は、ともにコーカサスとローマ帝国のドナウ川の境にある、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からカルパチア山脈にまで広がる地域に居住していたイラン語群話者の遊牧民であるサルマティア人との接触を増やしました。175年に、マルコマンニ戦争での敗北後、同時代の歴史家であるカッシウス・ディオにより記録されているように、マルクス・アウレリウス帝はサルマティア人騎兵をローマ軍団に徴兵し、5500人のサルマティア人兵士をブリテン島に配置しました。サルマティア人騎兵がどこに駐屯したのかについてほとんど知られておらず、この歴史的に証明された出来事と関係する個人はこれまで特定されていないため、ブリテン島への影響はほぼ不明なままです。

 本論文は、ローマ期個体(126~228年頃)の全ゲノムにおけるコーカサスおよびサルマティア人関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を説明します。この個体は外れ値で、ブリテン島の在来人口集団と関連する追跡可能な祖先系統がなく、現在のイギリスのケンブリッジシャー州の農家跡から回収されました。安定同位体は子供期における移動性の生活史を裏づけます。いくつかの仮定的状況があり得ますが、ブリテン島へのサルマティア人の歴史的配置は、ローマ帝国により促進された長距離移動が都市中心部外の地方にどのような影響を及ぼしたのか、浮き彫りにします。


●農村部ローマにおける祖先系統の外れ値

 ケンブリッジシャー州における国道A14号線の道路開発に先立つ、ロンドン考古学博物館(Museum of London Archaeology、略してMOLA)岬角基盤施設(MOLA Headland Infrastructure、略してMHI)によるオフォード・クルーニー(Offord Cluny)村均衡での発掘中に、孤立した埋葬からヒト遺骸が回収されました(図1A)。一本鎖DNAライブラリ調整を用いて、オフォード・クルーニー骨格(Sk 203645、埋葬20.507、C10271、以下ではOC203645と呼びます)の側頭骨の蝸牛殻部分から5.4倍の全ゲノムが生成されました。

 歯はブリテン島のローマ期前期~中期となる、126~228年前(信頼度95%)と直接的に放射性炭素年代測定されました(図1B)。この骨格は肉眼では中程度にしか保存されておらず、遺骸の骨学的分析はこの個体が18~25歳と示唆しましたが、性別推定はできませんでした。過去の経度の外傷の骨学的兆候がいくつかありましたが、死因を示唆するものはありませんでした。配列決定されたゲノムを用いての核型性別の評価から、遺骸は男性個体に分類される(X染色体とY染色体)、と確証されました。以下は本論文の図1です。
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 主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では、OC203645は、現在のイングランド北東部のヨーク市にあるドリッフィールド台地(Driffield Terrace)のローマ期墓地から発掘されたブリテン島の他の全ての標本抽出されたローマ期個体(イングランド_ローマ期、ただ以前に報告された近東人口集団と関連する外れ値を除きます)と区別されます。代わりに、OC203645はアナトリア半島およびコーカサスの現在の個体群と最も類似しています(図1C)。具体的には、OC203645ははアルメニアの後期青銅器時代(Late Bronze Age、略してLBA)個体群(アルメニア_LBA)、および一般的にはサルマティア人連合の一部と考えられているものの、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)後の個体群(本論文ではアルメニア_古代と定義されます)とともにではない、コーカサス北部のアラン人(Alan)関連の状況から回収された個体群(ロシア_サルマティア_アラン、450~1350年頃)との類似性を示します(図1D)。

 同様に、f₄統計の形式での直接的な統計的検定では一貫して、OC203645の遺伝的祖先系統はドリッフィールド台地のローマ期ブリテン島個体群とは異なり、代わりにコーカサスおよびポントス・カスピ海地域の古代の人口集団と遺伝的類似性を共有していた、と示されます。

 OC203645の父系をたどるY染色体と母系をたどるミトコンドリアDNA(mtDNA)も、ヨーロッパ西部外からの祖先系統を示しており、とくに父系は、Y染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1b1b(Z2103)の下位系統であるR1b-Y13369です。このYHgは以前には、現在のアルメニアで回収されたのLBAからウラルトゥ期にまたがる骨格遺骸で特定されてきましたが、その現在の系統発生は、コーカサスとアナトリア半島と近東の標本により占められています。OC203645のmtDNAハプログループ(mtHg)はK1aで、これはイギリス生物銀行データセットにおいて全地域で5%程度の頻度で見られ、新石器時代(Neolithic、略してN)から中世初期にまたがるブリテン島の古代の個体群で以前に特定されてきましたが、これらは全て、OC203645で観察されたYHgとは異なる下位系統に分類されます。


●コーカサスおよびサルマティア人集団との関係

 PCAでOC203645の広範な類似性が確証されたので、qpWave/qpAdmの枠組みで明示的な祖先系統モデルに進められました。この手法により、祖先系統のモデルの検証と、データに適合しないモデルの統計的却下が可能となります。本論文の目的は、OC203645の祖先系統と独特に適合するモデルを発見することです。つまり、類似の複雑さ(区別可能な祖先系統の数)の全ての他のモデルが却下されるようなモデルですが、文献で他地域のほぼ同期間の利用可能なデータが限られていることに要注意です。まず、さまざまな人口集団経由で循環させる単一供給源のqpWaveモデルが検証され、おもにコーカサスとポントス・カスピ海草原の人口集団に焦点が当てられ、ヨーロッパ南部および北部の他の人口集団が追加されました(図2A)。唯一の許容された単一供給源はアルメニア_LBAで、一方、アルメニア_古代やサルマティア人集団やブリテン島の人口集団(イングランド_ローマ期もしくはイングランド_鉄器時代)は単一供給源としては却下されました(図2B)。以下は本論文の図2です。
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 しかし、アルメニア_LBAの年代は紀元前1200~紀元前850年頃なので、OC203645に約1000年先行します。最近の研究は、紀元前千年紀のアルメニアにおける祖先系統の変化を明らかにしており、それはOC203645の時代までにこの地域にさまざまな祖先系統のパターンをもたらしました(関連記事)。したがって、アルメニア_LBAは紀元前千年紀のコーカサスで観察された祖先系統の適切な代表ではない可能性が高そうです(図1C)。これを念頭に置いて、アルメニア_LBAを除く追加のモデルが検証され、OC203645が、アルメニア_古代と最も類似している供給源からの祖先系統に加えて、ポントス・カスピ海地域のサルマティア人集団に近い供給源(ロシア_サルマティア_ポントス・カスピ海もしくはロシア_サルマティア_南ウラル)からの24~34%の祖先系統を有していることと一致します。供給源としてロシア_サルマティア_アランもしくはアルメニア_古代での第三のモデルは、有意性の閾値をわずかに下回っていることに要注意です。本論文の結果は全体的に、サルマティア人と特定された集団にはかなりの多様性があったかもしれず、そのうち一部本論文のデータではアルメニア_古代により最も密接に表されている祖先系統を有しているかもしれない、と示唆しています。


●安定同位体は長距離移動を裏づけます

 炭素(C)と窒素(N)と酸素(O)とストロンチウム(Sr)の同位体分析の結果は、図3に示されています。OC203645の下顎第二大臼歯の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr値(子供期の最初の5~6年間を反映しています)は0.709037±0.000012で、同じ歯のストロンチウム濃度は104.2 ppmで、両者はブリテン島で予測される範囲内にあります(図3A)。しかし、これは広範な地質地形により生成されるかもしれない一般的な⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比で、類似の値のヒトをさまざまな場所で見つけることができます。一方で、δ¹⁸O値は、OC203645がブリテン島で子供期の最初の数年を過ごした場合に予測される値よりも低く(図3A)、代わりにより寒冷かより大陸的な気候の地域を示唆しており、高地の地域で現在記録されている降水量の水準と一致します。ストロンチウムおよび酸素の同位体比の類似の組み合わせは、ヨーロッパ大陸部のローマ期人口集団で観察されてきました。以下は本論文の図3です。
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 OC203645は低いδ¹⁵N値と組み合わさった高いδ¹³C値を有しており、海洋性資源からの摂取がほとんどなく、外来のC₄作物が豊富な子供期の食性を示唆しています。増分象牙質分析(図3B)から、OC203645の食性は5歳頃にかなりの変化を経ており、δ¹³C値は−12‰から−16‰に低下した、と明らかになり、C₄植物性タンパク質の摂取から、δ¹⁵Nと同時の上昇により示唆される肉のタンパク質の増加を伴うかもしれない、混合したC₃/C₄食性の明確な変化を反映しています。食性における第二の変化は9歳の後に起き、δ¹³C特性が低下し始め、13歳の頃には−19‰に達し、完全にC₃植物に基づく食性に近づいています。

 ブリテン島のローマ支配期にC₄作物の広範な消費の明確な証拠はなく、C₄作物はローマ帝国の西方諸州では食性の一般的な構成要素ではなかったので、食性におけるこれら2回の変化は、5歳頃と、再度9歳頃の後の移住を表しているかもしれず、これはOC203645の生涯の最初の14年間におけるヨーロッパ全域での移動の少なくとも二つの期間を反映しているかもしれません。象牙質の増分層の方向において重複が増加するため、生涯の数年間にわたる食性の漸進的な一方向の変化をかなり急激な変化と区別することは不可能です。それにも関わらず、9歳頃の後で観察されるδ¹³C値の漸進的な低下は、数年にわたるC₃作物の消費増加の継続か、おそらくは複数年にわたる移住を反映しているかもしれません。たとえば、雑穀などC₄食品の利用可能性が次第に減少する地域を通って、ブリテン島へとヨーロッパを横断して西進したような移住です。


●考察

 本論文では、OC203645の祖先系統が全体的なローマ期ブリテン島人口集団の祖先系統と一致せず、代わりに、OC203645がコーカサスおよびポントス・カスピ海草原の集団と遺伝的類似性を共有していた、と示されてきました。紀元後の最初の4世紀にまたがる、コーカサスにおける祖先系統の複雑なパターン(関連記事)とこの地域、とくに北コーカサスの疎らな標本抽出は、OC203645の祖先系統の単一の近位供給源の特定を妨げます。ユーラシア西部、具体的にはポントス地域および/もしくは北コーカサスの紀元後1世紀および2世紀にまたがる将来の標本抽出は、OC203645の祖先系統の絞り込みに役立つかもしれず、恐らくは祖先系統の単一の時間的に近い供給源の特定を可能にするでしょう。

 遺伝学だけでは、1個体の生涯の移動性についてほとんど洞察を提供しません。生涯の移動性パターンの調査には、同位体情報が必要です。まとめると、炭素と窒素とストロンチウムと酸素の同位体分析から、OC203645はブリテン島よりも東方で乾燥した大陸部の場所で子供期の最初の5~6年を過ごした、と示唆されます。これは、アルプス北東部などローマ帝国内の地域を含んでいるかもしれませんが、カルパチアや大コーカサスの山脈地域などローマ帝国の国境外の地域も含まれているかもしれません。

 炭素と窒素の安定同位体分析は、長距離移動に関するOC203645の複雑な生活史への詳細な情報を提供し、2回の食性変化を明らかにしました。最初は5歳頃で、おもにC₄植物から混合したC₃/C₄食性への変化となり、次に、再び9歳の頃に、おもにC₃食料源に基づく食性へと変わっており、恐らくは2回の移住事象を反映しています(図3)。OC203645の9点の歯冠上の線状異常もしくはエナメル質形成不全は、栄養失調もしくは疾患の事象における成長停止期間を反映しているかもしれません。これらの異常の位置から、それが5歳頃に起きた、と示唆され、食性の最初の観察された変化の時期と重なるので、食性変化および恐らくは移住と関連する生理学的圧迫を反映しているかもしれません。食性の2回の変化は、ブリテン島に到達する前の西方への旅における中断を反映しているかもしれず、ヨーロッパ中央部もしくは南東部で過ごした期間と一致するでしょう。13歳頃に相当するδ¹³C値はローマ期ブリテン島で通常観察される値とより近いので(しかし、それよりわずかに上昇しています)、OC203645は生涯の後半になってやっとブリテン島に移動したかもしれません。

 歴史時代における(恐らくは一時的な)長距離の個人の移動性と都市遺跡での混合の影響(関連記事1および関連記事2)は、ヨーロッパとアフリカ北部とコーカサスとレヴァントのさまざまな遺跡で最近浮き彫りにされてきました。ブリテン島では、ローマ期にはエボラクム(Eboracum)と呼ばれていた大都市中心地で州都だった、現在のヨーク市のドリッフィールド台地の恐らくは軍人もしくは剣闘士の墓地における現在の近東人口集団と関連する祖先系統を有する外れ値1個体(関連記事)に加えて、ヨーロッパ大陸部および地中海盆地と一致する同位体の痕跡も、他の重要な都市部のローマ植民地でも報告されてきました。対照的にOC203645は、後に荘園複合へと発展したかなりの農場内にも関わらず、農村的だっただろう場所で見つかりました。

 OC203645の骨格は、現代のA14号線道路沿いに見つかった小さく正式なローマ・ブリテン墓地の1ヶ所から回収されたのではなく、農場の周縁に向かう以前の轍の溝内に位置する孤立した埋葬から回収されました。周縁部の副葬品のない正式な墓地外の孤立した埋葬は、前期~中期ローマ期の農場と荘園の一般的な特徴です。これらの孤立した埋葬に誰が安置されたのか、通常は不明で、埋葬行為そのものが被葬者を区別できるものの、初期~中期ローマ期の農村部人口集団は、考古学的痕跡をほとんど残さない葬儀で送られていました(たとえば、死体からの肉の除去)。

 通常は在来人口集団と混合するコーカサスもしくはポントス・カスピ海草原と関連する祖先系統の寄与は、イタリアもしくはバルカン半島などローマ帝国の他地域のローマ式墓地で特定されてきました(図1C)。紀元後2世紀には、大アルメニアがローマ帝国の属州となった114~117年の短期間を含めてのローマ帝国とコーカサスの住民との間の一連の相互作用や、ローマ帝国が支配していた南コーカサスへのサルマティア・アラン人の侵入のいくつかの記録がありました。ローマ帝国の北東周縁部では、マルコマンニ戦争(166~180年)においてローマ人がゲルマン人およびサルマティア人と戦いました。これらの事象の全ては、コーカサスおよびサルマティア人関連祖先系統を有する集団もしくは個体群のローマ帝国へのおよびローマ帝国内の長距離移動を促進しました。

 OC203645から得られた死亡年齢(18~25歳)と移動の生涯(遺伝的祖先系統と安定同位体両方の証拠に基づきます)は、OC203645が軍隊の移動の一環として、もしくは兵士の家族あるいは1人の兵士としてブリテン島に到来したことと一致するかもしれません。得られた放射性炭素年代(126~228年頃、中央値は176年)を考えると、一つの可能性は、ローマの歴史家であるカッシウス・ディオにより記載されているように、マルコマンニ戦争でのローマ皇帝マルクス・アウレリウスの勝利に続く、歴史的に証明されている175年のサルマティア人騎兵の配置です。この仮定的状況では、OC203645で見られる食性の変化は、OC203645がマルコマンニ戦争の前もしくは最中にヨーロッパ中央部へと移動したサルマティア人の集団と関連しているならば説明できますが、この解釈の妥当性は、子供がヨーロッパ横断のサルマティア人の移動の一部だった可能性が高そうなのかどうかに依拠します。

 5500人のサルマティア人がブリテン島のどこに駐屯していたのかについて、ほとんど知られていません。ハドリアヌスの長城のチェスターズ(Chesters)からサルマティア人の馬具と、イングランド北西部の当時ブレメテナカム・ヴェテラノラム(Bremetennacum Veteranorum)と呼ばれていたリブチェスター(Ribchester)、およびイングランド北東部の当時キャタラクトニウム(Cataractonium)と呼ばれていたキャッタリック(Catterick)で発見された馬具についての碑文の証拠があり、全てケンブリッジシャー州のA14号線遺跡からかなりの距離となります。

 ローマ帝国全域の長距離移動を妥当に説明できるかもしれない別の解釈には、帝国の統治や経済的移動や奴隷制が含まれますが、これらに限定されません。OC203645の墓の副葬品の欠如と一般的に目立たない性質は、どの仮定的状況こそ最も可能性が高いのか、という評価を妨げます。妥当な説明は、OC203645がどこかへの途上で死亡した、というものですが、この仮定的状況は、サンディ(Sandy)と当時はデュロヴィグトゥム(Durovigutum)と呼ばれていたゴッドマンチェスター(Godmanchester)とをつなぐローマの主要街道から西側に1km離れているOC203645の埋葬位置(図1A)により弱まるかもしれません。代替的な仮説は、OC203645が農場と関連しており、恐らくは農村部の市民共同体内に統合されていた、というものです。以下は本論文の要約図です。
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 OC203645がその短い生涯に旅をした理由が何であれ、その埋葬は、長距離移動の増加とローマ帝国の周縁部もしくは域外からさえの遺伝的祖先系統の導入の観点で、ローマ帝国がブリテン島(および恐らくは他の場所)の農村部に及ぼした影響を浮き彫りにします。ローマ期ブリテン島、とくに副葬品を伴う事例もしくは示唆的な状況(たとえば、軍隊)におけるコーカサスおよび/もしくはサルマティア人関連祖先系統の将来の特定は、これらの祖先系統を有する人々がどのようにブリテン島に到来したのかについて、より多くの洞察を提供するでしょう。


参考文献:
Silva M. et al.(2024): An individual with Sarmatian-related ancestry in Roman Britain. Current Biology, 34, 1, 204–212.E6.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.11.049

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