大濱徹也『乃木希典』
講談社学術文庫の一冊として、2010年12月に講談社より刊行されました。本書の親本は、1967年に雄山閣出版、1988年に河出書房新社より刊行されました。電子書籍での購入です。親本の刊行はかなり古いものの、私は乃木希典の生涯について詳しいわけではなく、自殺も含めて乃木希典の同時代の評価と、自殺後の乃木の評価も解説されているので、興味深く読み進められました。文献の引用が多く長いのも本書の特徴で、今後乃木について調べるさいに本書はたいへん役に立ちそうです。冒頭では、「乃木希典は敗戦によって全く無視され、忘却されてしまった人物である」と述べられていますが、さすがにこれは言い過ぎのようにも思います。ただ、戦前と比較して知名度が大きく低下したことは間違いないのでしょう。
乃木は1849年(以下、日本におけるグレゴリオ暦の導入まで、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)11月11日に江戸の長府毛利侯上屋敷で生まれ、これは知らなかったというか、何かの本で読んでいたかもしれませんが、そうだとしてもすっかり忘れていました。乃木には兄が二人いましたが、すでに死亡していたので、乃木家の世嗣となります。幼名は無人、1863年に元服したさいに源三と称し、頼時ともいったそうですが、これは諱でしょうか。1871年11月に陸軍少佐に任官したさいに、希典と改称しています。乃木家の出自は宇多源氏とされています。乃木家は侍医として仕えていましたが、乃木希典の父親である希次は武術に優れており、息子を厳しく育てたようですが、これには、乃木希典が幼少時には身体虚弱でよく泣き内気な性格で武より文を好んでいたからでもあるようです。乃木は1864年に萩にいる親戚の玉木文之進を頼って出奔しますが、両親から厳しく育てられたことへの反発があったのではないか、と本書は推測します。乃木は第二次幕長戦争に出兵するなど武の面での活躍もありましたが、戊辰戦争時には萩で修行をしており、参陣しようとしたところを捕らえられ、読書係として戦場より帰還した兵士に漢学を教えます。これが、乃木の孤絶感を深めたのではないか、と本書は推測します。
1869年11月、乃木は藩命でフランス式操練伝習を受け、上述のように1871年11月には陸軍少佐に任官し、軍人としての道を歩むことになります。陸軍の初任時に、後に日露戦争で乃木と同じく軍司令官となった黒木為楨と奥保鞏が大尉で、児玉源太郎が少尉だったことから、この時点での乃木への評価は高かったようです。乃木の軍人としての生活で最も満ち足りていたのは東京勤務時代だったようで、毎夜のように遊興しており、この件では山県有朋から説諭されています。1876年の萩の乱の結果、玉木文之進は責任を取って自害に追い込まれますが、その関係で乃木も警戒され、さらには実弟も反乱軍の参謀として戦死するなど、乃木の鬱屈は深まったようです。1877年の西南戦争では、乃木は軍旗を失う失態から、山県有朋に処罰を乞い、山県は軍規粛清のため乃木の極刑を主張しましたが、陸軍少将の野津鎮雄が反対し、乃木は処罰されませんでした。あるいは、山県は反対意見が出るのを分かって、あえて乃木の失態に対して極刑を主張したか、野津とは事前に打ち合わせていたのかもしれません。乃木は西南戦争において軍旗を失った後は、たびたびの負傷にも関わらず病院から脱走して指揮を執り続け、死所を得ようと考えていたようです。
西南戦争終結後の1878年2月、乃木は再度東京での勤務となり、相変わらず酒浸りの日々を過ごしていましたが、以前のように遊びとして楽しむことができなかった、と本書は指摘します。乃木の遊蕩は伊藤博文の話題にもなるほどでした。この様子を案じた乃木の母は乃木を結婚させますが、結婚後も乃木は遊蕩を続けました。この遊蕩では、以前の東京勤務時代とは異なり、その交友関係は長州一辺倒から薩摩へと広がっていきました。乃木は母から結婚するよう言われても、長州出身者を断っていたくらいですが、本書はここに、長州への乃木の複雑な感情を見ています。ただ、乃木は長州閥から薩摩閥へと転ずることもできず、山県有朋にもかなり気を遣っていたようです。乃木の遊蕩は、陸軍少将として熊本に赴任したさいにも東京時代ほどではないにしても続いていたようです。
乃木は熊本で1年ほど勤めた後で、1886年11月末に、同じく陸軍少将の川上操六とともにドイツへの留学を命じられます。乃木はベルリンでドイツ軍制を学び、有名な大モルトケにも面会しています。乃木はドイツでの留学生活において、「開化」が華やかなものではなく、質実な生活態度と自国の伝統の尊重にあることに気づきます。これ以降、乃木は伝統主義者として生きていき、放蕩生活から訣別します。このドイツ留学において、乃木は先にドイツで留学生活を始めていた森鴎外(林太郎)と親しくなります。1888年6月、乃木はドイツから帰国し、報告書を提出しました。乃木はそこで、厳正な軍規確保について論じました。本書は乃木の報告書について、軍隊を組織として把握する観点がなく、あらゆるものを人間の問題、つくり人間の倫理として把握していた、と指摘します。この乃木の変貌は、周囲の人々を驚かせたようです。その後の乃木は、世渡り上手の桂太郎とは合わず、しばしば対立し、そのためもあってか、休職することもありました。日清戦争時には、乃木は東京の歩兵第一旅団長で、乃木は大山巌司令官の第二軍の指揮下で出征し、1894年11月には堅城と呼ばれた旅順要塞をわずか1日で攻略しました。その後も乃木は歩兵第一旅団を中心とした混成旅団を率いて、各地で戦功を挙げていき、陸軍中将に昇進します。
日清戦争終結後の1896年10月、軍政経験のない乃木は台湾総督に任命されます。乃木は、母と妻を連れていったことから窺えるように、かなりの決意で台湾に赴任したようです。台湾総督時代の乃木は教育に注力し、地元民の行政機関への採用と、地元民への虐待や取引不正の厳禁を主張しました。この背景には、乃木の漢学的素養があったようです。こうした乃木の方針は、台湾総督府の官吏との軋轢を生んだようです。さらに、乃木が台湾のイギリス権益を放逐しようとしたことから、日本政府で乃木への批判が高まり、1898年11月に乃木は台湾総督辞職を決意します。乃木は台湾統治で官吏との対立もあって有効な施策を行なえなかったものの、その綱紀粛正は後任者の統治に役立った、と本書は評価します。帰国した乃木は、1899年10月に新設の第11師団長として香川に赴任し、新設ということもあって理想の隊風を築こうとします。乃木はどの訓練にも参加し、兵士と労苦を共にしようと務めました。しかし、1900年の義和団の乱の勃発にさいして第11師団からも大隊が派遣されましたが、この時、乃木の部下が馬蹄銀を横領したとの疑惑から軍法会議となり、乃木はその責任を取って辞任し、依願休職となります。この4回目の休職は過去3回よりも長く3年近くにわたり、休職の多さもあって、乃木は昇進が遅れたようです。この乃木の昇進の遅れには、とくにドイツから帰国後の頑迷といった性格的問題もありましたが、指揮や戦術の能力が低い、との評価もあったようです。乃木は演習で指揮官となったさいには、いかなる状況でも正面攻撃しかせず、こうした点も乃木の軍略への低評価につながったようです。ただ、乃木はこの4回目の休職中に那須野で「農人」として過ごしつつも、俗事を忘れられず、月に1回は上京し、同僚や上官を訪ねています。
乃木が4回目の休職中の1904年2月に日露戦争が勃発し、乃木は直ちに復職して留守近衛師団長に就任します。乃木はこれを不遇と考えており、上述のように日清戦争時に旅順要塞をわずか1日で攻略した実績から、旅順攻略のための第三軍の司令官に任命されました。乃木の長男と次男も出征し、二人とも戦死しています。第三軍の旅順攻略は予定よりずっと長引き、被害も甚大で、乃木への批判が高まります。本書は、乃木が旅順要塞の正面強襲に固執し、失敗を繰り返すことで初めて作戦の非を悟った、と指摘します。ただ、こうした見解は「乃木愚将論」とも通ずるところがありますが、近年では「乃木愚将論」に否定的な見解が有力なようです(関連記事)。1905年1月に旅順はついに陥落し、水師営でのロシア軍司令官ステッセルとの会見は、大々的に報道されました。乃木はその後、日露戦争で最大の陸戦となった奉天会戦にも加わり、ここでも作戦を適切に遂行できなかった、と本書は評価しています。
日露戦争後の乃木への日本国民の視線について、乃木の息子二人が戦死したことから、乃木も国民と同じく戦争の犠牲者とみなすものだった、と本書は指摘します。それは国民の自己愛が仮象されたもので、それが「軍神乃木」像拡大の背景にあった、というわけです。一方で、乃木を軍人として無能だと批判する論者も少なからずいました。本書は日露戦争後に神格化された軍人として乃木と東郷平八郎を、「太陽の子」である東郷と「日陰の子」である乃木として対比させています。日露戦争後、職業軍人は実業家などから歓待される機会が多く、その奢侈と横暴を批判する声も高まっていきます。そうした中で、乃木は戦死者と遺族へ深く配慮し続け、それは他の高級軍人とは一線を画すものだった、と本書は指摘します。それが乃木に関する「美談」を生んでいき、遺族の戦争と政府への憎悪と憤懣が乃木にたくみに投影され、乃木な遺族の悲嘆と怒りの声を密封することにより、軍や政府への批判は封じられていった、と本書は評価しています。日露戦争後には軍人に限らず上流階級の醜聞が噴出したので、政府は乃木を上流階級の模範とすべく、軍事参議官のまま学習院の院長に任命します。学習院の院長としての乃木は、「文明」を解さない「野蛮人」として生徒からかなりの反感を買っていたようです。とくに白樺派は乃木を嫌っており、乃木の自殺に対してもひじょうに冷淡でしたが、一方で乃木夫妻の自殺を殉死と解釈して肯定する風潮は根強くありました。乃木の自殺に批判的だったり冷淡だったりするのは知識層に多く、白樺派の他には、社会主義者やキリスト教徒が批判的でした。
乃木は1849年(以下、日本におけるグレゴリオ暦の導入まで、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)11月11日に江戸の長府毛利侯上屋敷で生まれ、これは知らなかったというか、何かの本で読んでいたかもしれませんが、そうだとしてもすっかり忘れていました。乃木には兄が二人いましたが、すでに死亡していたので、乃木家の世嗣となります。幼名は無人、1863年に元服したさいに源三と称し、頼時ともいったそうですが、これは諱でしょうか。1871年11月に陸軍少佐に任官したさいに、希典と改称しています。乃木家の出自は宇多源氏とされています。乃木家は侍医として仕えていましたが、乃木希典の父親である希次は武術に優れており、息子を厳しく育てたようですが、これには、乃木希典が幼少時には身体虚弱でよく泣き内気な性格で武より文を好んでいたからでもあるようです。乃木は1864年に萩にいる親戚の玉木文之進を頼って出奔しますが、両親から厳しく育てられたことへの反発があったのではないか、と本書は推測します。乃木は第二次幕長戦争に出兵するなど武の面での活躍もありましたが、戊辰戦争時には萩で修行をしており、参陣しようとしたところを捕らえられ、読書係として戦場より帰還した兵士に漢学を教えます。これが、乃木の孤絶感を深めたのではないか、と本書は推測します。
1869年11月、乃木は藩命でフランス式操練伝習を受け、上述のように1871年11月には陸軍少佐に任官し、軍人としての道を歩むことになります。陸軍の初任時に、後に日露戦争で乃木と同じく軍司令官となった黒木為楨と奥保鞏が大尉で、児玉源太郎が少尉だったことから、この時点での乃木への評価は高かったようです。乃木の軍人としての生活で最も満ち足りていたのは東京勤務時代だったようで、毎夜のように遊興しており、この件では山県有朋から説諭されています。1876年の萩の乱の結果、玉木文之進は責任を取って自害に追い込まれますが、その関係で乃木も警戒され、さらには実弟も反乱軍の参謀として戦死するなど、乃木の鬱屈は深まったようです。1877年の西南戦争では、乃木は軍旗を失う失態から、山県有朋に処罰を乞い、山県は軍規粛清のため乃木の極刑を主張しましたが、陸軍少将の野津鎮雄が反対し、乃木は処罰されませんでした。あるいは、山県は反対意見が出るのを分かって、あえて乃木の失態に対して極刑を主張したか、野津とは事前に打ち合わせていたのかもしれません。乃木は西南戦争において軍旗を失った後は、たびたびの負傷にも関わらず病院から脱走して指揮を執り続け、死所を得ようと考えていたようです。
西南戦争終結後の1878年2月、乃木は再度東京での勤務となり、相変わらず酒浸りの日々を過ごしていましたが、以前のように遊びとして楽しむことができなかった、と本書は指摘します。乃木の遊蕩は伊藤博文の話題にもなるほどでした。この様子を案じた乃木の母は乃木を結婚させますが、結婚後も乃木は遊蕩を続けました。この遊蕩では、以前の東京勤務時代とは異なり、その交友関係は長州一辺倒から薩摩へと広がっていきました。乃木は母から結婚するよう言われても、長州出身者を断っていたくらいですが、本書はここに、長州への乃木の複雑な感情を見ています。ただ、乃木は長州閥から薩摩閥へと転ずることもできず、山県有朋にもかなり気を遣っていたようです。乃木の遊蕩は、陸軍少将として熊本に赴任したさいにも東京時代ほどではないにしても続いていたようです。
乃木は熊本で1年ほど勤めた後で、1886年11月末に、同じく陸軍少将の川上操六とともにドイツへの留学を命じられます。乃木はベルリンでドイツ軍制を学び、有名な大モルトケにも面会しています。乃木はドイツでの留学生活において、「開化」が華やかなものではなく、質実な生活態度と自国の伝統の尊重にあることに気づきます。これ以降、乃木は伝統主義者として生きていき、放蕩生活から訣別します。このドイツ留学において、乃木は先にドイツで留学生活を始めていた森鴎外(林太郎)と親しくなります。1888年6月、乃木はドイツから帰国し、報告書を提出しました。乃木はそこで、厳正な軍規確保について論じました。本書は乃木の報告書について、軍隊を組織として把握する観点がなく、あらゆるものを人間の問題、つくり人間の倫理として把握していた、と指摘します。この乃木の変貌は、周囲の人々を驚かせたようです。その後の乃木は、世渡り上手の桂太郎とは合わず、しばしば対立し、そのためもあってか、休職することもありました。日清戦争時には、乃木は東京の歩兵第一旅団長で、乃木は大山巌司令官の第二軍の指揮下で出征し、1894年11月には堅城と呼ばれた旅順要塞をわずか1日で攻略しました。その後も乃木は歩兵第一旅団を中心とした混成旅団を率いて、各地で戦功を挙げていき、陸軍中将に昇進します。
日清戦争終結後の1896年10月、軍政経験のない乃木は台湾総督に任命されます。乃木は、母と妻を連れていったことから窺えるように、かなりの決意で台湾に赴任したようです。台湾総督時代の乃木は教育に注力し、地元民の行政機関への採用と、地元民への虐待や取引不正の厳禁を主張しました。この背景には、乃木の漢学的素養があったようです。こうした乃木の方針は、台湾総督府の官吏との軋轢を生んだようです。さらに、乃木が台湾のイギリス権益を放逐しようとしたことから、日本政府で乃木への批判が高まり、1898年11月に乃木は台湾総督辞職を決意します。乃木は台湾統治で官吏との対立もあって有効な施策を行なえなかったものの、その綱紀粛正は後任者の統治に役立った、と本書は評価します。帰国した乃木は、1899年10月に新設の第11師団長として香川に赴任し、新設ということもあって理想の隊風を築こうとします。乃木はどの訓練にも参加し、兵士と労苦を共にしようと務めました。しかし、1900年の義和団の乱の勃発にさいして第11師団からも大隊が派遣されましたが、この時、乃木の部下が馬蹄銀を横領したとの疑惑から軍法会議となり、乃木はその責任を取って辞任し、依願休職となります。この4回目の休職は過去3回よりも長く3年近くにわたり、休職の多さもあって、乃木は昇進が遅れたようです。この乃木の昇進の遅れには、とくにドイツから帰国後の頑迷といった性格的問題もありましたが、指揮や戦術の能力が低い、との評価もあったようです。乃木は演習で指揮官となったさいには、いかなる状況でも正面攻撃しかせず、こうした点も乃木の軍略への低評価につながったようです。ただ、乃木はこの4回目の休職中に那須野で「農人」として過ごしつつも、俗事を忘れられず、月に1回は上京し、同僚や上官を訪ねています。
乃木が4回目の休職中の1904年2月に日露戦争が勃発し、乃木は直ちに復職して留守近衛師団長に就任します。乃木はこれを不遇と考えており、上述のように日清戦争時に旅順要塞をわずか1日で攻略した実績から、旅順攻略のための第三軍の司令官に任命されました。乃木の長男と次男も出征し、二人とも戦死しています。第三軍の旅順攻略は予定よりずっと長引き、被害も甚大で、乃木への批判が高まります。本書は、乃木が旅順要塞の正面強襲に固執し、失敗を繰り返すことで初めて作戦の非を悟った、と指摘します。ただ、こうした見解は「乃木愚将論」とも通ずるところがありますが、近年では「乃木愚将論」に否定的な見解が有力なようです(関連記事)。1905年1月に旅順はついに陥落し、水師営でのロシア軍司令官ステッセルとの会見は、大々的に報道されました。乃木はその後、日露戦争で最大の陸戦となった奉天会戦にも加わり、ここでも作戦を適切に遂行できなかった、と本書は評価しています。
日露戦争後の乃木への日本国民の視線について、乃木の息子二人が戦死したことから、乃木も国民と同じく戦争の犠牲者とみなすものだった、と本書は指摘します。それは国民の自己愛が仮象されたもので、それが「軍神乃木」像拡大の背景にあった、というわけです。一方で、乃木を軍人として無能だと批判する論者も少なからずいました。本書は日露戦争後に神格化された軍人として乃木と東郷平八郎を、「太陽の子」である東郷と「日陰の子」である乃木として対比させています。日露戦争後、職業軍人は実業家などから歓待される機会が多く、その奢侈と横暴を批判する声も高まっていきます。そうした中で、乃木は戦死者と遺族へ深く配慮し続け、それは他の高級軍人とは一線を画すものだった、と本書は指摘します。それが乃木に関する「美談」を生んでいき、遺族の戦争と政府への憎悪と憤懣が乃木にたくみに投影され、乃木な遺族の悲嘆と怒りの声を密封することにより、軍や政府への批判は封じられていった、と本書は評価しています。日露戦争後には軍人に限らず上流階級の醜聞が噴出したので、政府は乃木を上流階級の模範とすべく、軍事参議官のまま学習院の院長に任命します。学習院の院長としての乃木は、「文明」を解さない「野蛮人」として生徒からかなりの反感を買っていたようです。とくに白樺派は乃木を嫌っており、乃木の自殺に対してもひじょうに冷淡でしたが、一方で乃木夫妻の自殺を殉死と解釈して肯定する風潮は根強くありました。乃木の自殺に批判的だったり冷淡だったりするのは知識層に多く、白樺派の他には、社会主義者やキリスト教徒が批判的でした。
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