平田陽一郎『隋 「流星王朝」の光芒』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2023年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。日本語の一般向け書籍では、王朝として短命に終わった隋は、唐やその前の南北朝時代、さらには広く魏晋南北朝時代とともに扱われることが多いように思いますが、本書は隋一代を扱っている点で珍しいと言えそうです。ただ、本書も隋王朝だけを扱っているのではなく、その前提としての南北朝時代、とくに隋の直接的起源である北周、さらにはさかのぼって西魏と北魏に、南朝も詳しく取り上げられています。また本書は、隋王朝の時代は非漢語史料に恵まれていないので、隋にしてもその前身となる西魏や北魏にしても、無意識に「漢族」や「中国」のこととして解釈する危険性を指摘しており、これは重要だと思います。

 南北朝時代の広範に北魏が東西に分裂し、東魏は北斉、西魏は北周に取って代わられた状況で、本書が注目するのは北方草原地帯の覇者が柔然から突厥へと変わったことです。突厥は当初、北斉に対して劣勢だった北周と提携しますが、次第に北周が北斉に対して優位に立ちつつあり、北斉との提携も図ります。しかし、北斉の内紛もあって北周の優位は変わらず、突厥は北斉の亡命政権も支援しますが、ついに北周がほぼ華北を制圧するに至ります。ところが、ここで北周の武帝とその後継者の宣帝が相次いで没し、580年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に幼い静帝が即位します。

 ここで北斉を簒奪して隋王朝を開いたのが楊堅(文帝)だったわけですが、これは、楊堅とその父である楊忠が北周の権臣だった宇文護と不仲だったことに始まります。武帝は宇文護を誅殺すると、宇文護と不仲だった楊忠と楊堅の父子を厚遇し、皇太子とした長子である宇文贇(宣帝)の皇后として楊堅の長女である楊麗華を迎えます。ただ、宣帝は厳父の武帝を恨んでおり、楊麗華は筆頭とはいえ複数いる皇后の一人にすぎませんでした。さらに、宣帝は楊麗華と相性が悪かったようで、楊氏の族滅も考えていました。北周から隋への王朝交替はさほど軋轢のない「宮廷政変」と長く考えられてきましたが、楊堅が北周の宗室をほぼ根絶やしにしたことや、簒奪にさいして娘の楊麗華より充分な協力が得られなかったことなどから、熾烈な権力闘争で、かなり危険な賭けだったことを指摘します。

 また本書は、この王朝交替は北周と隋の宮廷政治だけではなく、突厥の北斉亡命政権への支援など、より広い視野で把握する必要を指摘します。隋は建国直後にその突厥からの侵攻を受けますが、本書は、突厥への献上品の廃止など、楊堅の側がその前から突厥との戦いを覚悟していた、と指摘します。当時、突厥は自然災害と疫病により打撃を受けており、隋は突厥の撃退に成功します。これにより突厥は一時的な衰退へと向かい、583年には東西に分裂し、楊堅は600年頃までには北方での覇権確立にも成功します。本書は、これが隋唐「世界帝国」につながったことを指摘します。

 隋は589年に陳を滅ぼし、楊堅は寛大な姿勢で江南統治に取り組みますが、江南では隋への抵抗が勃発します。しかし、楊堅は楊素を派遣して直ちにこの反乱を鎮圧します。隋に滅ぼされた陳は江南を充分に把握していたとは言えず、楊堅にとって江南の掌握が課題となり、非「漢族」居住地も対象に軍事的支配の拡大が図られました。こうして隋は「中国」の南北を統一したわけですが、本書は、南北朝時代には「漢人」が華北の「異民族」政権に挑んだ分離独立闘争としての性格もあり、隋による統一は、豊かな江南が華北に搾取される構造を決定し、「中国史」の別の可能性の挫折でもあった、と指摘します。

 こうして「中国」を統一した楊堅には、秦漢以来の最高権力者としての「皇帝」、北方遊牧帝国の支配者としての「大隋聖人莫縁可汗」、仏教を深く進攻する「菩薩天子」の3側面があった、と本書は指摘します。漢字文献に見える「皇帝」のみで楊堅を把握できず、北方の草原世界と華北中心の「中華世界」と東南海域に連なる「江南世界」を初めて束ねた支配者だった、というわけです。楊堅の仏教への系統については、多元的な在り様を許容し、対立を乗り越える仏教の知恵に、天下統治の理想を見たのではないか、と本書は推測します。

 隋王朝は短命で、実質的には皇帝が2代だけで滅亡したわけですが、父の楊堅(文帝)の死後に即位したのが、有名な楊広(煬帝、明帝)です。この即位については古くから、楊広が父を殺害したのではないか、との醜聞がありました。その真偽は今となっては確定できませんが、楊広が兄である楊勇の廃太子により皇太子となり即位したことも含めて、本書は隋の帝室における権力闘争を遊牧社会の遺風との関係で把握しています。楊堅の皇后が強い政治的影響力を有したことも、「漢人」というか農耕社会と比較しての遊牧世界における相対的な女性の地位の高さとして、本書では解されています。

 楊広(煬帝)は漢字文化圏において代表的な暴君として語り継がれてきましたが、本書はその事績を再検討しています。楊広の事蹟としては、604年7月に即位した直後の洛陽城造営や、大運河開削や、高句麗遠征などがあります。本書は大運河開削と関連して、楊広による大船団での南方行幸を、単なる遊興や地方視察だけではなく、運河の運行体制の確認も兼ねたものだったのではないか、と推測しています。隋滅亡の契機としては、これらの事業による民衆への負担が古くから挙げられており、とくに高句麗遠征の失敗が致命的だったとされますが、隋の支配の崩壊としては、東方よりも西方が進んでいた、と本書は指摘します。

 本書の主要な対象読者は日本人でしょうから、推古朝の遣隋使も取り上げられていますが、回数や『隋書』と『日本書紀』との記述の不一致など、遣隋使について古くらか詳細に論じられてきた問題が詳しく検証されているわけではありません。本書は遣隋使を、倭と隋の二国間のみの問題ではなく、朝鮮半島諸国の動向も踏まえねばならない、と指摘します。楊広が倭からの国書に無礼だと言っておきながら、倭に使者を派遣したのは、古くから言われているように、倭を高句麗から引き離し、高句麗を孤立させる目的があった、と本書は指摘します。

 隋末の動乱の口火を切ったのは、楊玄感でした。楊広即位の立役者だった楊素の息子である楊玄感は613年6月に挙兵しましたが、その基本方針は「開皇の旧」、つまりは楊堅(文帝)時代への回帰でした。隋末の反乱勢力の間ではこの「開皇の旧」が流行しており、人々の賛同を得る訴えかけだったようです。楊広は楊玄感の乱をわずか2ヶ月で鎮圧しており、本書は楊広の手腕を高く評価していますが、一方で、この頃には楊広の精神状態が不安定になっていた可能性を指摘します。

 楊玄感の乱の鎮圧直後に楊広は3回目の高句麗遠征を実施しますが、隋も高句麗も疲弊しており、高句麗の形式的な降伏で停戦となります。隋と高句麗との大規模な戦いが3回にわたった理由としては、高句麗から攻撃を受けた粟末靺鞨の首領である突地稽が隋に逃亡して亡命政権を樹立し、高句麗に抵抗し続けたことや、軍人への恩賞や、突厥への牽制が挙げられています。また本書は、3回も大規模な高句麗遠征が可能だったのは、大運河により物資の集積が可能になったものの、穀物の保存期間には限界があるので、楊広は戦争による蕩尽を図ったのではないか、と推測しています。また本書は、即位の正統性に疑問の残る楊広にとって、実績を積み重ねることが必要で、それが高句麗遠征も含めて親征を繰り返す理由になったものの、負ければ逆効果になってしまった、とも指摘します。本書は、楊広が前漢の武帝を強く意識しており、それが高句麗への3回の大規模な遠征につながったのではないか、と推測します。

 楊玄感の乱の鎮圧後も、隋の支配は安定せず、全国的な動乱状態に陥りましたが、本書は隋末の反乱の特徴として、指導者の名前や反乱軍の装いなどの特徴で呼ばれてきたそれ以前の反乱と異なり、特定の呼称がないことを挙げます。本書はそれこそ隋末唐初の動乱の特徴で、多彩で面的な広がりと土着性があった、と指摘します。一方で、隋末唐初の動乱には突厥をはじめとして非「漢族」の存在が大きかったことも、本書は指摘します。反乱軍が洛陽に迫る中で、楊広は江都に向かい。616年8月頃に江都に到着します。江都での楊広には反乱が拡大するなかで現実逃避的行動が目立つようになり、618年3月11日、近臣に裏切られて殺害されました。この前後、隋の皇族が反乱軍により傀儡として何人か擁立されましたが、動乱の中で相次いで譲位を迫られるなどして殺害されていき、隋は楊広の死により事実上滅亡した、と言えそうです。

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