弥生時代の日本列島の人類集団の成立と展開
考古学と古代ゲノムの研究も踏まえて弥生時代の日本列島の人類集団の成立と展開に関する概説(藤尾.,2023)が公表されました。本論文は、私がほとんど把握できていない朝鮮半島の考古学的研究や、当ブログでまだ取り上げていない日本列島の古代DNA研究が取り上げられており、私にとってたいへん有益で、補足しつつ詳しく見ていきます。本論文は、弥生時代の人類集団の遺伝的起源および構成とその時空間的差異の現時点での研究の進展を把握するのに最適で、この問題に関心の日本語を読める人々にはお勧めの概説です。
●要約
本論文は、朝鮮半島では新石器時代島嶼よりアジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を有さない人類集団が南岸に存在していた、との知見(Robbeets et al., 2021)に基づいて、朝鮮半島との関連で、日本列島における弥生時代の人類集団の遺伝的構成の起源および構成とその時空間的差異を概観します。朝鮮半島新石器時代集団は遺伝的に、アジア東部沿岸古代人集団的な遺伝的構成要素を有する集団(朝鮮半島系)と、有していない集団(西遼河系)など、前期から多様と考えられます。本論文は、多様な遺伝的構成の朝鮮半島青銅器時代集団と、そうした集団が水田稲作を九州北部に伝えた場合の弥生時代人類集団について、以下の4通りを想定します。それは、
(1)渡来系弥生時代集団I:西遼河系+在来(縄文)系の遺伝的構成で、具体的には福岡県安徳台遺跡(篠田他.,2020)や鳥取県青谷上寺地遺跡(神澤他.,2021a)など弥生中期~後期の遺跡です。
(2)渡来系弥生時代集団II:朝鮮半島系(西遼河系+古代アジア東部沿岸系)の遺伝的構成で、具体的には弥生時代前期後半の愛知県朝日遺跡ですが、在来(縄文)系弥生時代集団との遺伝的混合はほぼ認められません。
(3)在来系弥生時代集団:渡来系弥生時代集団IもしくはII+在来(縄文)系弥生時代集団の遺伝的構成で、具体的には長崎県下本山遺跡(篠田他.,2019a)や熊本県大坪貝塚(神澤他.,2023)など、弥生時代後期以降の遺跡で、いわゆる「西北九州弥生人」です。
(4)在来(縄文)系弥生時代集団:縄文時代集団(縄文人)と同じ遺伝的構成で、具体的には佐賀県唐津市大友遺跡(神澤他.,2021b)や愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡(Gakuhari et al., 2020)です。
●研究史
朝鮮半島新石器時代の獐項遺跡個体の核ゲノムでは、後期旧石器時代(上部旧石器時代)にアジア南東部からアジア東部沿岸を北上した古代アジア東部沿岸集団と、アジア東部大陸部北方の新石器時代集団の混合と2019年に示されました(篠田他.,2019)。古代アジア東部沿岸集団とは、後期旧石器時代にアジア南東部からアジア東部沿岸を北上してきた現生人類(Homo sapiens)で、アジア東方の沿岸部や島嶼部に存在し、朝鮮半島の新石器時代集団や「縄文人」の共通の祖先と本論文では把握されています【この問題については「私見」の項目で後述します】。
この遺伝的構成は弥生時代前期後半以降に見られる「渡来系弥生人」と呼ばれている集団と類似しているため、アジア東部北方系と古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有する青銅器文化集団が「渡来系弥生人」の候補の一つとして想定され、在来(縄文)系弥生時代集団と混合しなくとも「渡来系弥生人」集団は成立する、と予想されました。遺伝的混合がなければ、弥生時代初期に移住してきた青銅器文化集団は自ら水田稲作を行ない、その子孫も、「在来(縄文)系弥生人」と混合しなくとも、日本列島への渡来から400年ほどで伊勢湾沿岸地域まで到達したことや、遠賀川系甕単純の甕組成の一因を説明できるのではないか、というわけです。
その直後の2021年11月に刊行された研究(Robbeets et al., 2021)では、古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有さない、西遼河流域の紀元前4500~紀元前3000年頃となる紅山(Hongshan)文化集団と同じ遺伝的構成要素でモデル化できる個体が、韓国全羅南道の新石器時代(非較正で紀元前6300~紀元前3000年頃)の安島(Ando)遺跡で確認され、韓国慶尚南道の欲知島(Yokchido)遺跡で発見された後期新石器時代個体は、獐項遺跡個体よりも古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の割合が高い、と示されています。Robbeets et al., 2021では、古代アジア東部沿岸集団を千葉市六通貝塚の縄文時代個体群に代表させ、朝鮮半島南岸新石器時代の一部の個体を「縄文人」との遺伝的混合と解釈していますが、朝鮮半島新石器時代に「縄文人」の遺伝的影響が強くのこるほどの事態が想定される考古学的な証拠は存在しないので(水ノ江.,2022)、本論文においては「縄文人」ではなく古代アジア東部沿岸集団と表現されます【この問題については「私見」の項目で後述します】。
Robbeets et al., 2021の調査結果は、縄文時代前期同時代の朝鮮半島南部には、著者【藤尾慎一郎氏】が想定していた古代アジア東部沿岸集団と中国北部系新石器時代集団との混合割合の異なる集団だけではなく、中国北部新石器時代直系集団【安島遺跡個体に代表されます】まで存在していたことを意味するので、朝鮮半島新石器時代集団の核ゲノムでの遺伝的多様性はきわめて多様だった、と示唆されます。朝鮮半島青銅器時代人類のゲノムデータは、網羅率の低いTaejungni遺跡の1個体(紀元前761~紀元前541年頃)しかないので詳しい分析は困難です(Robbeets et al., 2021)。
三国時代になると、伽耶の政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある大規模な埋葬複合施設で発見された紀元後4~5世紀頃の8個体(Gelabert et al., 2022)や、金海柳下里貝塚で発見された人類遺骸や、5世紀の高霊池山洞44号墳の人類遺骸や、5~7世紀の永川完山洞古墳群で見つかった人類遺骸にも、中国北部系と古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的混合の痕跡が確認されており【韓国の西部沿岸地域の群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の6世紀半ばの6個体のゲノムについては、縄文系の遺伝的構成要素が示されていません(Lee et al., 2022)】、青銅器時代の朝鮮半島にもそうした遺伝的構成の人類集団が存在していた可能性は高そうです。そのため、上述のような「渡来系弥生人」の成立に関する単純な想定はもはや困難です。
そこで本論文は、獐項遺跡以外の朝鮮半島南部の新石器時代の遺跡から出土した人類遺骸の遺伝的構成と文化について説明したうえで、その子孫である青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合のなかから、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」がどのようにして成立するのか、再度検討します。
●朝鮮半島新石器時代集団の遺伝的構成と文化
ここでは、朝鮮半島の安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡が対象です。図1には、本論文で取り上げられる朝鮮半島の新石器時代と日本列島の縄文時代~古墳時代の遺跡の分布が示されています。朝鮮半島の3ヶ所の新石器時代遺跡(安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡)は、いずれも朝鮮半島本土ではなく、その沖合の島嶼部に位置します。ここで取り上げられる日本列島の遺跡の大半は縄文時代および弥生時代となりますが、種子島の2ヶ所の遺跡(上浅川遺跡と広田遺跡)は古墳時代となります。図1の遺跡を示す灰色は、核ゲノム解析は行なわれていないものの、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では古代アジア東部沿岸集団系(縄文系)と示された遺跡を表しています。以下は本論文の図1です。
図1では、核ゲノムが解析されている個体については、「縄文人」と「在来(縄文)系弥生人」の縄文系、西遼河新石器時代集団的な遺伝的構成の中国北部系、西遼河系と古代アジア東部沿岸集団系の混合である朝鮮半島新石器時代系、青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」の混合である渡来系、「渡来系弥生人」と「在来(縄文)系弥生人」の混合である西北九州系に分類されています。朝鮮半島新石器時代では、安島個体が中国北部系、欲知島個体と獐項個体が朝鮮半島新石器時代系です。上浅川遺跡と広田遺跡の個体は、古墳時代となりますが、縄文系に分類されます。
環朝鮮海峡地域とよばれる地域は1980年代より、朝鮮半島沿岸から九州北部および西北部も含めた地域に共通する漁撈具の存在が知られています。それは、大型の魚類を釣る西北九州型結合式釣針やオサンリ型釣針、突き刺して獲る石銛などです。新石器時代集団や「縄文人」は魚を求めて季節的にこの地域を移動していたと推測されるので、航海中に立ち寄った港で中国の玦状耳飾りや佐賀県伊万里市にある腰岳の黒曜石を入手し、各地の産物と交換していたと考えられます。これは高倉洋彰氏の指摘する漁撈民型交流です。こうした漁撈活動を担っていた朝鮮半島側の個体の核ゲノムが、一部ながら解析されています。
安島貝塚は韓国麗水市の沖合の安島にある前期新石器時代の墓地遺跡で、合計5 体の人骨が調査されました。1 号墓は20 代女性と30 代男性の2 体の合葬墓、2 号墓と3 号と4 号墓は1 個体ずつ葬られ、いずれも基本的に仰臥伸展葬です。人骨に抜歯は認められませんでしたが、潜水漁を行なう人によく見られる外耳道骨腫が確認されています。一方で、シベリアのようなアジア大陸の北方域の人びとによく見られる下顎隆起、「渡来系弥生人」の特徴であるエナメル質感形成(2・3 号)や上顎切歯シャベル型(2・3 号)が見られます。1号人骨の20代女性のゲノムは、紀元前4700~紀元前2900年ごろの河北省北部から内モンゴル自治区東南部および遼寧省西部にみられた紅山文化集団的な遺伝的構成要素で完全にモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。紅山文化集団のゲノムは、仰韶(Yangshao)文化集団的な遺伝的構成要素とアムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体的な遺伝的構成要素との混合でモデル化されており(Robbeets et al., 2021)、本論文では中国北部系と分類されます。以下本論文では、篠田謙一に従って、中国北部系は西遼河系と呼ばれます。
上述のように、欲知島個体と獐項個体が朝鮮半島新石器時代系に分類され、安島個体とあわせると、縄文時代前期に該当する年代には、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有さず、西遼河系の遺伝的構成要素を有する集団が朝鮮半島南岸にまだ到達していた、と示されます。日本列島では、西遼河系の遺伝的構成要素で完全にモデル化できる(混合していない)個体は見つかっていません。安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡の個体の核ゲノムから、朝鮮半島では前期新石器時代から人類集団は遺伝的に多様だった、と予想されます。
20~60 代の男女(親族関係は不明)が葬られた安島貝塚から出土した遺物には中国系の玦状耳飾、縄文系の轟式土器や石匙や結合式釣針、佐賀県腰岳産の大量の黒曜石片などがあり、黒曜石の出土数は朝鮮半島において一遺跡としては多い方で、剝片数は220 点です。また、タマキガイ科の貝で作られた貝釧を装着した人類遺骸が見つかるなど、九州西北部の縄文文化との共通性が見られます。安島貝塚の状況は、西遼河系の遺伝的構成要素を有する個体が存在する一方で、縄文系の道具を有している人がいる点で、文化的にも多様です。安島貝塚の集石付近で見つかった骨片や貝殻を対象に放射性炭素(¹⁴C)年代測定が行なわれていますが、土壙墓出土人骨自体の¹⁴C年代測定は行われておらず、2008 年以前の測定なので較正曲線はIntCal04で、較正年代は7430~6620年前頃でした。安島貝塚出土人骨では、日本列島と朝鮮半島において現時点では唯一のゲノムを西遼河系で完全にモデル化できる個体が見つかっており、一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)データに基づく主成分分析(principal component analysis、略してPCA、図4)に投影すると華北の現代中国人集団に入り(篠田謙一氏の指摘)、韓国の現代人よりも中国の現代人―にきわめて近くなります。以下は本論文の図4です。
韓国統営市沖合の欲知島には前期新石器時代墓地遺跡があり、2ヶ所の土壙墓から3個体の人骨が見つかっています。1 号墓には壮年の背が高い男性が葬られており、大腿骨の筋付着部がよく発達していて頑丈なことから男性と判断され、上顎右第1小臼歯も見つかっています。2 号墓は、壮年~熟年の男性と20歳前後の女性との合葬墓です。男性については側頭骨と尺骨が2体分検出されており、左側に顕著な外耳道骨腫が見られ、潜水を生業としていたことが明らかです。女性については側頭骨と四肢骨が見つかっており、華奢な感じとされています2個体の核ゲノム解析の結果、2個体とも西遼河系と古代アジア東部沿岸集団系の混合である朝鮮半島新石器時代系、西遼河系の割合は2個体間で異なっていました。欲知島遺跡では、西唐津海底式の特徴を持つ縄文土器、シカの骨や角で作られた骨角器、佐賀県腰岳産の黒曜石で作られた打製石鏃、イノシシ形土製品など九州西北部の縄文系遺物などが発見されており、九州西北部の縄文文化と密接に交流していたことが窺えます。
洛東江三角州の西南海上の釜山特別市加徳島獐項遺跡は、前期新石器時代の墓地です。土壙墓などから人骨48体が出土し、発見された隆起線文土器や押引文土器から縄文時代前期と同年代の前期新石器時代に比定されています。山田康弘氏によると、加徳島獐項遺跡の人類遺骸は形態的に「縄文人」と異なるようで、墓壙が弥生時代の甕棺墓に見られるような列状に並んでいるなど、縄文文化には見られない特徴があります。2号および8号人骨の¹⁴C年代は6300年前頃です。加徳島獐項遺跡2号および8号のmtDNAは日本列島において弥生時代以降に見られるハプロタイプで、核ゲノム解析から、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の混合で、現代日本人と類似しているものの、典型的な現代韓国人とは異なる、と示されました。また、2号と8号のゲノムにおける混合割合は異なっており、遺伝的多様性が窺えます。
加徳島獐項遺跡個体から、朝鮮半島南部では弥生時代開始の3000年以上前から、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の混合が見られる、と分かります。これについて篠田謙一氏は、まず旧石器時代からアジア東部太平洋沿岸の島嶼部や沿岸部には「縄文人」や朝鮮半島の新石器時代集団などを含む代アジア東部沿岸集団に遺伝的に分類できる個体群が存在しており、その後、大陸から隔離されていた「縄文人」は、大陸内部の新石器時代集団と遺伝的に混合しなかったものの、陸続きである朝鮮半島の新石器時代集団と大陸内部の新石器時代集団との間では早くから遺伝的混合が進み、遅くとも6300年前頃には現代日本人と同程度まで混血が進んでいた個体も存在した、と指摘していますこの問題については「私見」の項目で後述します】。
南岸に限定されますが、これら朝鮮半島新石器時代個体群の遺伝的構成は、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素で示され、前者のみの個体(西遼河系)と、前者と後者のさまざまな割合での混合の個体(朝鮮半島新石器時代系)とが確認されています。朝鮮半島では完全な古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体はまだ確認されていませんが、日本列島と同様に存在しても不思議でありません。一方で、西遼河系の個体は日本列島では縄文時代のみならず弥生時代でも見つかっておらず、存在していたのか否かも不明です。この西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成を日本列島にもたらした集団と関連で注目されるのが、朝鮮半島の青銅器時代遺跡です。
●朝鮮半島青銅器時代後期の慶尚北道達城平村里遺跡
洛東江の上流域に位置する慶尚北道達城平村里の青銅器時代中期~後期の集落・墓地遺跡では、考古学的に弥生文化の祖型と言えるような痕跡が見つかっています。集落域は北側のI地区にあり、青銅器時代中期の孔列文土器の段階で、壁際に小さな柱を隙間なく並べて支えられた壁と複数の炉があり、間口が狭く細長い長方形の住居を特徴とします。南側のII地区にある墓地(石棺群と土器棺群)の時期は青銅器時代後期で、かつて先松菊里類型といわれていた段階です。合計28 基の石棺と3基の土器棺などが検出され、28個体の人骨が出土しました。本論文では、代表的な3号石棺と20号石棺が取り上げられます。
3号石棺は長側壁を短側壁で挟み込む形(報告書では石軸形)になっており、長さは167cm、幅は49cmで、ほぼ全身の骨が屈葬で埋葬されていました。上腕骨の長さから身長は173cmと推定されています。歯は全体的にエナメル質の摩滅が多いことから30~34歳と推定されています。磨製石剣1本と磨製石鏃9本が、左腹付近に散在するような状況で見つかっています。20号石棺は3号と同じ石軸形の石棺で、長さは150cm、幅は52cmです。ほぼ全身の骨が出土しており、推定身長は3号石棺出土人骨と同じく173 cmです。磨製石剣1本が右腰付近、磨製石鏃12本が左足下に、切先を下に向けて副葬されていました。腸骨の¹⁴C年代(4590±60年前)は、考古学的な年代よりもかなり古く出ています。
土器棺では、壺棺1基と日常の甕を転用した甕棺2基が出土しています。安在晧氏は、壺棺が焼成前に丹を塗った丹塗磨研土器で有明海沿岸の弥生早期に見られる長胴壺と類似していることと、甕棺は松菊里式の甕を利用したもので甕の外面に縦方向の刷毛目調整が施されている点に注目しています。安在晧氏は、もともと松菊里型甕を棺として再利用する手法は朝鮮半島の中西部地方が起源で、これまで朝鮮半島東南部の嶺南地域ではあまり知られていなかったものの、近年少しずつ見つかりつつあることから、松菊里文化の拡散と関係があると考えています。棺の埋置方法には、直立と斜めと横置きがあり、これに石の蓋を組み合わせると、壺棺は石蓋直置、甕棺は石蓋斜置と横置の3種類が認められます。排水や防湿目的で、底部に穴を空けた状態の土器棺が6~8m間隔で分布しています。
石棺墓の副葬品は磨製石剣と磨製石鏃と玉の組み合わせです。紀元前9世紀(夜臼IIa式)の福岡市雑餉隈遺跡の木棺墓に見られるものと、玉や副葬小壺を除けば共通しています。雑餉隈遺跡では人骨が残っていなかったので正確な副葬箇所は不明ですが、磨製石剣と磨製石鏃が切っ先を脚下に向けて束ねるようにまとめて納められている点に違いが認められる程度です。また磨製石剣の石材も共通しており、玉はヒスイで、半円形と穀玉があります。奥歯の外側にあたる頬の部分から出土しているので、耳飾りのような垂飾品の一部と考えられています。
紀元前7世紀の青銅器時代後期に比定されている平村里遺跡のある洛東江の上流域は、以前より九州北部で出土する丹塗磨研壺の故地という見解がある地域だけに、紀元前7世紀(板付IIa式併行)と同年代だったとしても、「渡来系弥生人」の故郷との関連が予想されます。しかし、壺棺や甕棺に使われている土器を見ると、比率を除くと、弥生時代早期の夜臼単純段階と同年代の土器との共通性が認められます。とくに甕は外反せずに直行する口縁部を有しており、口唇部に直接刻目を施すなど、玄界灘沿岸地域で夜臼I式に伴う板付祖型甕と共通します。さらに、刷毛目調整を縦方向に施すという点まで共通しています。基本的に刷毛目調整を施さない朝鮮半島青銅器時代後期の甕とは明らかに異なっています。
●「渡来系弥生人成立」の推測
著者【藤尾慎一郎氏】の以前の見解は表6にまとめられています。それによると、「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の集団が弥生時代早期以降に出現すると想定するのがA説で、縄文時代にいたと想定するのがB説です。現在までに「縄文人」の核ゲノムは150個体分ほど解析されていますが、「渡来系弥生人」に類似する遺伝的構成の個体は見つかっていないので、基本的にはA説が妥当です。ただ、福岡県芦屋町山鹿遺跡で見つかっている長頭の個体群のような、「渡来系弥生人」と類似する形質の個体群の存在を縄文時代に想定する見解は以前からあり、岡山県倉敷市中津貝塚から見つかった縄文後期末~晩期初頭の人骨には、「渡来系弥生人」の特徴の一つであるシャベル状切歯が見られたので、現段階では「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の個体が縄文時代に存在した可能性を完全に否定することはできない、と予想されます。さらに、朝鮮半島南部には縄文時代前期と同年代から「渡来系弥生人」と類似した遺伝的構成の個体(獐項遺跡)が見つかっているので、そうした遺伝的構成の個体が九州西北部で見つかる可能性を否定できませんが、大量に見つかることも考えにくいでしょう。以下は本論文の表6です。
このように、B説を完全には否定できないものの、大枠ではA説が妥当と考えられます。A説は、水田稲作開始期に海を渡って九州北部に到来した人々、つまり「渡来人」が、到来後すぐに「縄文人」の直系である「在来(縄文)系弥生人」と混血することで「渡来系弥生人」が成立するA-1説(移住・混血説)と、渡来直後には混血せず、しばらく経ってから混血することで「渡来系弥生人」が成立するA-2説(混血説)に分かれます。A-1説は金関丈夫氏以来の移住・混血説ですが、A-2説は、福岡県三国丘陵を舞台とした田中良之氏や片岡宏二氏、朝日遺跡(篠田他.,2021)を舞台に石黒立人氏らが想定していた、移住当初は混血しないという見解です(この場合は遠賀川系土器を使用する集団の移住)です。
A-1説は、「渡来人」の遺伝的構成によりaとbに分かれ、「渡来人」が古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を有していない場合(a)と有している場合(b)で、aは松下孝宰氏がかつて想定したような山東半島の新石器時代集団などがあり、bは未確認で分析は行なわれていませんが、朝鮮半島系新石器時代集団の系統の朝鮮半島青銅器時代集団を想定できます。著者の以前の見解はRobbeets et al., 2021の公表前にまとめられており、西遼河系(中国北部系)の存在自体が前提になかったので、山東半島新石器時代人集団などを念頭に推測されていました。しかし、仮に山東半島から渡来してきた集団がいたとしても、「在来(縄文)系弥生人」と関わった可能性を支持する考古学的な証拠は弥生開始期の土器にみられる叩き技法ぐらいで、石器などに見られる特徴から推測して可能性が高いのは、朝鮮半島青銅器時代集団が日本列島に渡来してきて、「在来(縄文)系弥生人」と関わった想定です。朝鮮半島において青銅器時代に中国系であることを示す人骨は具体的に知られていませんでしたが、たとえばそうした集団が渡来後に「在来(縄文)系弥生人」とあまり遺伝的に混合せずに東方へ移動したならば、朝日遺跡13号人骨のように、「在来(縄文)系弥生人」とほとんど混合していないことを示す遺伝的構成要素の「渡来系弥生人」が成立するだろう、と予想されました。
次に、「渡来系弥生人」と類似した遺伝的構成の朝鮮半島系新石器時代集団の系統が渡来してきたならば、遺伝的に混合せずとも安徳台遺跡個体のような「渡来系弥生人」が出現し、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合したならば、「西北九州弥生人」のような遺伝的構成の集団が成立します。現時点では、いずれも日本列島への到来後しばらく経過してから遺伝的に混合するA-2説に相当します。このように朝鮮半島新石器時代系集団が日本列島に到来した「渡来人」の場合は、あまり遺伝的に混合せずとも「渡来系弥生人」と類似した遺伝的混合となり、遺伝的に混合すると西北九州弥生人が生まれるので、やや複雑な事例です。
また朝鮮半島新石器時代系「渡来人」の場合は、「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が起こった時期も重要です。まだ形質だけを指標に想定していた20世紀には、福岡県三国丘陵では前期後半、朝日遺跡では前期後半の新段階と、いずれも、その地で水田稲作が始まった時ではなく、しばらく経過してから遺伝的混合が始まる、と考えられてきました。それは、これ以前の時期の「渡来系弥生人」の骨が見つかっていなかったからです。「在来(縄文)系弥生人」と朝鮮半島新石器時代系「渡来人」との遺伝的混合の有無や、遺伝的に混合した場合の時期については、弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析を継続していけば、いずれ明らかになるでしょう。松下孝宰氏が「渡来人」の故郷として想定した山東半島にしても、朝鮮半島新石器時代系の青銅器時代集団にしても、想定に用いたのは新石器時代個体の遺伝的構成だけに、青銅器時代に水田稲作を持ち込んだ青銅器時代後期集団の遺伝的構成の特定は困難ですが、上述のように三国時代にも新石器時代に確認されている遺伝的構成の系統を受けついだ個体が認められている以上、青銅器時代集団にも存在していた可能性は充分にあるでしょう。
こうした想定に基づいて、新たな知見(Robbeets et al., 2021)を踏まえて表6を改めたのが表7と図9です。まず、縄文時代の日本列島について「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の集団の有無で区別するのは旧説と同じで、存在しなかったのがA説、存在したのがB説です。ただ、B説はまだ証明できていないので、さらに検討されるのはA説だけです。A説は、「渡来人」のゲノムの遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な構成要素が含まれないのか(a)、含まれるのか(b)によってaとbに分かれ、さらにそれぞれが「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合していないのか(1)のか、したのか(2)により分かれるので、合計4通りを想定できます。旧説では獐項個体のような朝鮮半島新石器時代集団的な遺伝的構成要素を有する「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」が遺伝的に混合すれば、「西北九州弥生人」の成立を想定でき、混合しなければ青谷上寺地遺跡にも見られるような「渡来系弥生人」の存在を想定できてしまったので、そうした不具合が解消されました(図9)。以下は本論文の表7です。
A-a-1説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含まない西遼河系の青銅器時代集団が渡来し、「在来(縄文)系弥生人」(図1の青色)と遺伝的に混合しなかった事例、つまり西遼河系の遺伝的構成要素のみの「渡来人」は現時点で見つかっていませんし、そうした遺伝的構成の個体は朝鮮半島南部の青銅器時代でも明らかになっていません。安在晧氏が達城平村里遺跡の墓地の分析を踏まえて想定したように、九州北部に水田稲作を伝えたのが、山東半島付近の叩き技法を用いる土器製作者だとしたら、そうした集団の遺伝的構成はA-a-1説で想定されているものだったかもしれません。以下は本論文の図9です。
A-a-2説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含まない西遼河系の青銅器時代集団人が日本列島に到来し、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば、安徳台遺跡個体のような「渡来系弥生人I」(図1の紫色)が成立します。現時点では、朝鮮半島南部の青銅器時代でさえこうした遺伝的構成の個体は確認されていませんが、紀元前1世紀の安徳台遺跡や紀元後2世紀の青谷上寺地遺跡などで多数の「渡来系弥生人I」が確認されています。遺伝的構成からはその上限がまだ紀元前1世紀となりますが、形質からみると「渡来系弥生人」は紀元前7世紀の福岡市雀居遺跡で見つかった前期中頃(板付IIa式)の人骨が最古級なので、この段階まではさかのぼるかもしれません。対象となる雀居遺跡出土人骨などの核ゲノム解析が期待されます。
A-b-1説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含む朝鮮半島新石器時代系の「渡来人」が日本列島に到達しても、「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合があまりなければ、在来(縄文)系の遺伝的構成要素の割合がひじょうに少ない、「渡来系弥生人II」が誕生します。現時点では朝鮮半島南部の青銅器時代でさえこうした遺伝的構成の個体はまだ確認されていませんが、紀元前6世紀の朝日遺跡13号人骨に代表されます。こうした遺伝的構成の集団が朝鮮半島南部から直接的に伊勢湾沿岸地域に到来した可能性は低いので、まず九州北部に到来した後でしばらくして東方へ移動してきたとすれば、その上限年代は、九州北部では水田稲作開始年代の紀元前10世紀後半までさかのぼるかもしれません。
A-b-2説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含む朝鮮半島新石器時代系の「渡来人」が日本列島に到達しても、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば、形質的には「縄文色」の強い、いわゆる「西北九州弥生人」が誕生します。現時点では、紀元前後の長崎県下本山遺跡の人骨が最古級です、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)M7aの人類遺骸は、紀元前3世紀の熊本市笹尾甕棺や福岡県行橋市長井遺跡で見つかっているので、紀元前3世紀までさかのぼるかもしれません。
著者はこれまで、A-a-2説で「渡来系弥生人I」の成立を考えてきましたが、現時点では「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した相手である西遼河系の「渡来人」は、青銅器時代の朝鮮半島南部でも弥生時代の西日本でも見つかっていません。それに対して新たに確認されたのがA-b-1説で、まだ朝鮮半島南部の青銅器時代に朝鮮半島新石器時代人系の青銅器時代個体は見つかっていませんが、上述のように三国時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果(Gelabert et al., 2022)からは、青銅器時代の朝鮮半島に存在した可能性は高そうです。ただ、朝鮮半島新石器時代系集団と朝日遺跡13号人骨ではPCA(図4)のY軸上にズレが見られることや、神澤秀明氏の指摘からは、まだ解決したとは言えない状況です。獐項個体の遺伝的構成要素がそのまま日本列島にもたらされているとしたら、現代日本人のゲノム上にある縄文由来のDNA断片は組換えによりもっと断片化されているはずであるものの、そうはなっていないので、獐項個体に代表される朝鮮半島新石器時代系集団の現代日本人における影響はそこまで大きなものではなかったと考えられる、と神澤秀明氏は指摘しています。
核ゲノムから判断すると、「渡来系弥生人IおよびII」の形成過程は以上のように推測されますが、これではとくに弥生時代開始期に見られる考古学的な事象を充分に説明できないことも確かです。それは、土器や石器などの水田稲作関連の道具に当初から見られる九州北部独自の在地的変容です。朝鮮半島青銅器文化の文物と完全に同じではない土器や石器の存在をどう説明するのか、という問題です。たとえば、九州北部玄界灘沿岸地域の弥生時代早期の甕形土器の組成では、青銅器時代後期系のいわゆる板付祖型甕は10%程度しかなく、残りの90%は砲弾型と屈曲型の突帯文土器です。また下條信行氏が指摘するように、大陸系磨製石器や石庖丁に見られる在地的変容の問題もあります。弥生時代開始期個体の核ゲノムは、佐賀県大友遺跡から出土した「在来(縄文)系弥生人」しか分かっておらず(神澤他.,2021b)、渡来系弥生人にいたっては、II型が板付IIb式に併行するI期中段階の朝日遺跡に存在していたことしか分かっていません。
渡来人の集団居住地と言えるような遺跡が弥生時代開始期の玄界灘沿岸地域で見つかっていないため、「在来(縄文)系弥生人」との共住もしくは日常的な接触交流、さらにはやや極端な言い方ではあるものの、青銅器文化集団による「在来(縄文)系弥生人」への強制力などを想定しない限り、在地的変容をみせる文物が存在する理由の説明は困難です。したがって、考古学的には稲作開始の当初から交流があったことを前提に、遺伝的な混合があったのか否かを知るためには、まず形質的に最古級の「渡来系弥生人」と報告されている福岡市雀居遺跡第7次調査の2号土壙墓から出土した成年女性の抜歯のある人骨の核ゲノム解析の必要があります。この成年女性が渡来系弥生人IなのかIIなのか、それとも「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した「西北九州弥生人」なのかによって、少なくとも弥生時代前期中頃の人類の遺伝的構成を知ることができます。
●「西北九州弥生人」の成立過程
旧説では、これまで「西北九州弥生人」とよばれてきた個体群に、遺伝的には「縄文人」と分類できる個体(弥生時代早期の大友遺跡)から、「在来(縄文)系弥生人」と「渡来系弥生人」が遺伝的に混合した個体(2000年前頃の下本山岩陰遺跡)まであり、下本山岩陰遺跡の2個体については「在来(縄文)系」と「渡来系」の遺伝的構成要素の割合が異なっていて、その分布は熊本県や鹿児島県や西日本など、西北九州に限定されない可能性があることや、その出現時期は現時点状では紀元前後が最古級であるものの、弥生時代中期前葉の紀元前3世紀まではさかのぼる可能性があること、さらに、朝鮮半島新石器時代系の青銅器時代集団が日本列島に到来し、弥生時代早期に「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した場合でも成立するかもしれない、と指摘されました。これら九州西北部に限定されない、朝鮮半島新石器時代系集団と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合個体の広範な分布からは、「西北九州」というような地域を限定する呼び方の妥当性、出現時期、混合度合いなどについて今後、核ゲノムデータが増えていけば自ずと整理されるでしょう。本論文は、いわゆる「西北九州弥生人」という用語ではなく、「在来系」の遺伝的構成要素が主で、「渡来系」の遺伝的構成要素が従であるという意味で、「在来系弥生人」と仮称し、これがどのような過程で成立したのか、推定しました。
渡来系弥生人Iは、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有していない朝鮮半島の西遼河系青銅器時代集団が「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば成立し、「渡来系弥生人II」は、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有している朝鮮半島系青銅器時代集団が、さほど「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合しなくても成立します。「在来(縄文)系弥生人」と西遼河系青銅器時代集団との遺伝的混合によって「渡来系弥生人I」が成立することについて異論はありません。著者は、の時期が弥生時代早期前半のうちだろう、と考えてきました。朝鮮半島の青銅器時代集団が血縁集団単位で日本列島に到来し、「在来(縄文)系弥生人」がおもな生活の舞台としていなかった平野の下流域に入植し、水田を拓いて、水田稲作を行なうことになりましたが、木製農具や石斧類や石庖丁を作るにしても、素材として適した石材や木材のありかに関する情報を持つ「在来(縄文)系弥生人」との協調関係のもと情報交換が必要であることや、水田造成および環壕掘削に必要な労働力不足を補うためにも、また近親婚防止の点からも、「在来(縄文)系弥生人」が必要とされたことや、その対象となるのは好奇心旺盛な「在来(縄文)系弥生人」の若い世代であることなどが、未開拓領域理論(採集狩猟民の地理空間に農耕民が入ってくると、すでに両者の接触を想定するモデルで、採集狩猟民の一部が両者を結びつけ、結果的に地域全体に農耕が拡大する、と想定されます)で説明されてきました。
ただ、当時は遺伝学との統合がほとんど進められていなかったので、青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」の遺伝的混合で「渡来系弥生人」が誕生することや、「西北九州弥生人」は「渡来人」と遺伝的に混合していない「縄文人」直系集団と理解されていました。しかし、核ゲノム解析結果を踏まえると、そのような単純なものではありませんでした。まず、「渡来人」自身、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有していない「西遼河系渡来人」と、有している「朝鮮半島系渡来人」の二者が存在し、前者が「在来(縄文)系弥生人」と混血すると「渡来系弥生人I」が成立するものの、後者が「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すると「西北九州弥生人」と言われてきたような「在来系弥生人」が成立することや、さほど遺伝的に混合せずとも「渡来系弥生人II」が成立することも分かりました。
現時点では、朝鮮半島系の「渡来系弥生人II」が紀元前6世紀には存在しているのに対して、西遼河系との遺伝的混合である「渡来系弥生人I」は最古級でも紀元前後までしか確認できていません。どちらが先に成立していたのかは分かりませんが、前期新石器時代の朝鮮半島南部に西遼河系も朝鮮半島系も存在していたことを考えると、水田稲作を伝えた青銅器時代集団のなかには、当初から複数遺伝的構成要素の血縁集団が存在し、「在来(縄文)系弥生人」と混血した個体群もいれば、あまり遺伝的に混合しなかった個体群も存在した、ということでしょう。もちろん、1血縁集団のなかにさえ、複数の遺伝的構成要素を有する個体が存在した可能性も否定できません。「渡来系弥生人」の核ゲノム解析はまだ少なく、研究の端緒に入ったばかりなので、今後の調査と分析が期待されます。
●まとめ
本論文は、旧説に基づき、2021年11月に刊行された研究(Robbeets et al., 2021)を踏まえて、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」とよばれてきた集団の成立過程について再度検討してきました。その結果、以下の6点が想定されます。
(1)新石器時代の朝鮮半島南部には、縄文時代早期~前期と同年代の7000年前頃から、さまざまな遺伝的構成要素の集団が存在していました。古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有していない、中国北部由来の西遼河系(安島貝塚個体)、西遼河系と古代アジア東部沿岸集団が遺伝的に混合した朝鮮半島系(獐項遺跡個体や欲知島遺跡個体)、未確認ではあるものの、古代アジア東部沿岸集団の直系集団です。こうした集団と盛んに交流していた九州西北部の「縄文人」の核ゲノムには、後世に遺伝的影響を及ぼすほど新石器時代集団と遺伝的に混合した個体が存在したことを示す考古学的な証拠は得られていません。したがって、縄文時代の頃において、朝鮮半島南部と日本列島の集団の遺伝的構成は基本的に異なっていたと考えられ、両者の間には後世に遺伝的な影響を残すような混合なかったことが前提に考えられました。
(2)考古学的には青銅器時代後期になって朝鮮半島南部の青銅器時代集団が渡海して日本列島へと到来し、水田稲作を生産基盤とする遼寧式青銅器文化を九州北部にもたらした、と考えられています。また朝鮮半島については、青銅器時代後期時代個体の核ゲノム解析は行なわれていませんが、三国時代の個体群の遺伝的構成要素から考えて、新石器時代前期に存在した多様な遺伝的構成要素が青銅器時代に引き継がれていると考えられるため、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」など各種「弥生人」の成立事例が4通り想定されました。
(3)「渡来系弥生人」には、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合して成立する安徳台遺跡個体や青谷上寺地遺跡個体のような「渡来系弥生人I」と、遺伝的混合がさほど見られない朝日遺跡のような「渡来系弥生人II」が見られました。「渡来系弥生人I」は西遼河系の遺伝的構成要素を有する個体群が移住して「在来(縄文)系弥生人」と混合した結果形成され、金関丈夫氏以来想定されていました。ただ、西遼河系は青銅器時代の朝鮮半島南部でも弥生時代の日本列島でもまだ確認されていません。「渡来系弥生人II」は朝鮮半島系集団が移住はするものの、「在来(縄文)系弥生人」とはさほど遺伝的に混合せず、これまで想定されていませんでした。
(4)いわゆる「西北九州弥生人」には、佐賀県唐津市大友遺跡8号支石墓出土人骨のように「在来(縄文)系弥生人」遺伝的構成要素を100%継承している個体から、「渡来系弥生人」の遺伝的構成要素を一定量含む個体までが存在し、後者の時期は現時点で、紀元前後の下本山遺跡個体が最古級です。ただ、西日本の「縄文人」が有するmtHg-M7aを有する弥生時代個体は、弥生時代中期前半の福岡県行橋市長井遺跡や熊本市笹尾遺跡で見つかっているので、いわゆる「西北九州弥生人」は紀元前3世紀までさかのぼる可能性があります。おそらく「渡来系弥生人」が水田稲作とともに拡散することによって、西北九州に限らず各地で「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が起こる、と考えられます。したがって、特定の地域名である「西北九州」を冠するのは適当ではなく、「在来系弥生人」との呼称が相応しいと考えられます。
(5)形態学的には、「渡来系弥生人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合は、水田稲作開始期ではなく、しばらく経ってから始まると考えられてきましたが、その根拠は、すべての土器型式の存続期間が均等であることを前提とした弥生短期編年下における人口増加率模擬実験だったり、在来(縄文)系弥生文化の土器と遠賀川系土器との折衷土器の成立時期であったり、縄文系第二の道具である土偶や石棒などの出現時期(春日井市松河内遺跡など)だったりしました。しかし、すべての土器型式の存続期間が均等でないことを前提とする弥生長期編年下ならば、水田稲作開始と同時に遺伝的混合が始まっていたとしても、一型式100年ほどの長い存続期間を考えれば、当初人口は増えません。また田中良之氏が三国丘陵で指摘しているように、弥生時代前期後半の板付IIb式頃から遺伝的混合が増え始めることを考えると、遺伝的混合の開始時期はとくに限定されない、と推測されます。後世に遺伝的影響を及ぼすようになる混合の開始が板付IIb式以降であることを考えると、形態学的観点から言われてきた遺伝的混合の開始時期と、基本的に同じ結果となりました。
(6)上述の(5)から考えると、水田稲作開始当初から西遼河系青銅器時代集団の「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が始まっていれば、「渡来系弥生人I」の数が急激に増えなくて、土器と石器に在地的変容が起こることは矛盾なく説明できます。
●私見
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は日本列島の弥生時代の人類集団の遺伝的構成とその形成過程について、考古学的研究も踏まえつつ、現時点での遺伝学的証拠に基づいて推測しています。本論文の注目点の一つは、「古代アジア東部沿岸集団」の想定です。本論文が指摘するように、Robbeets et al., 2021は朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体のゲノムについて、0~95%の「縄文人」的な遺伝的構成要素とそれ以外の紅山文化集団的な遺伝的構成要素との混合でモデル化しています。他の研究でも、アジア東部北方沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代個体群が、モンゴル新石器時代集団的な遺伝的構成要素(87%)と「縄文人」的な遺伝的構成要素(13%)の混合でモデル化されています(Wang et al., 2021)。
これらの研究からは、「縄文人」がアジア東部北方沿岸に渡海し、遺伝的痕跡を残したようにも見えます。しかし本論文は、朝鮮半島新石器時代に「縄文人」の遺伝的影響が強くのこるほどの事態が想定される考古学的な証拠は存在しないと指摘し、朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体の遺伝的構成要素として、「縄文人」ではなく「古代アジア東部沿岸集団」を想定しています。ただ、縄文文化が朝鮮半島南岸に定着したとはとても言えないとしても、縄文土器の分布から、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸に渡った可能性は高そうで(水ノ江.,2022)、その意味では、朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体のゲノムの一部が「縄文人」的な遺伝的構成要素と想定しても大過はないようにも思います。ただ、本論文で引用されている神澤秀明氏の見解から推測すると、6300年前頃の獐項遺跡個体により表される集団が、現代日本人の遺伝的構成に大きく寄与した可能性はきわめて低そうです。
ここで重要なのは、これらの個体の遺伝的構成要素のモデル化は既知の古代人もしくは現代人個体(あるいは集団)を用いており、直接的な祖先集団を証明しているわけではない、ということです。そこで問題となるのは、ボイスマン遺跡の中期新石器時代個体群のゲノムが、「縄文人」的な遺伝的構成要素なしでもモデル化できることです。この場合、モンゴル新石器時代集団に代表されるアジア東部北方的な遺伝的構成要素(71%)とアジア東部南方沿岸部的な遺伝的構成要素(29%)の混合とモデル化されており、「縄文人」はアジア東部南方沿岸部的な遺伝的構成要素(46%)とアンダマン諸島のオンゲ人集団と相対的に近い初期ユーラシア東部集団的な遺伝的構成要素(54%)の混合でモデル化されています(Huang et al., 2022)。Huang et al., 2022では、ユーラシア東部系集団が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部南方沿岸部)に分岐した、と推測されています。つまり、ボイスマン遺跡の中期新石器時代個体群のゲノムは、「縄文人」的な遺伝的構成要素を含んでいるのではなく、「縄文人」と比較的近い過去に祖先集団を共有していたらか、とも解釈できるわけです。
同様のことは、現代日本人の平均よりもやや多い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化された朝鮮半島南岸の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡の前期新石器時代個体(Robbeets et al., 2021)にも言えます。以前の研究で「縄文人」とユーラシア東部沿岸集団との類似性が報告されたこと(Yang et al., 2020)も踏まえると、Huang et al., 2022のモデルは現時点で最も実際のユーラシア東部の人口史に近いかもしれません。その意味で、本論文が朝鮮半島南岸の新石器時代個体のゲノムの一部を、「縄文人」的ではなく「古代アジア東部沿岸集団」的な遺伝的構成要素として把握したのは、Robbeets et al., 2021よりも適切かもしれません。ただ、朝鮮半島南岸の欲知島遺跡の後期新石器時代個体とボイスマン遺跡の中期新石器時代の外れ値の1個体は、それぞれ95%(Robbeets et al., 2021)と30%(Wang et al., 2023)程度の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できるので、とくに欲知島遺跡の後期新石器時代個体については、日本列島からの「縄文人」の直接的到来と遺伝的影響(95%よりはずっと少ない割合としても)を想定すべきかもしれません。
本論文で提示される日本列島の弥生時代の人類集団の遺伝的構成は多様で、弥生時代の人類集団の遺伝的多様性(関連記事)が改めて示されています。さらに言えば、弥生時代には青谷上寺遺跡のように1ヶ所の遺跡で遺伝的多様性を示す事例も確認されています(神澤他.,2021a)。また、種子島では日本列島の多くの地域が古墳時代を迎えても、「縄文人」的な遺伝的構成要素のみでモデル化できる個体が存在していたようで、日本列島における現在のような遺伝的構成が古墳時代でもまだ確立していなかったことを示唆しています。弥生時代以降の日本列島における遺伝的構成要素として、「縄文人」的なものとともに西遼河系的なものを想定する本論文の見解との関連で注目されるのは、古墳時代に弥生時代とは異なる遺伝的構成要素が日本列島にもたらされ、それが現代日本人集団では大きな影響を有している、と推測した研究(Cooke et al., 2021)です。Cooke et al., 2021では、現代日本人集団の主要な遺伝的構成要素は「縄文」と「アジア北東部」と「アジア東部」で、縄文時代には「縄文」のみが存在し、弥生時代に「アジア北東部」が、古墳時代に「アジア東部」がもたらされた、と推測されています。
一方で、これら主要な3種類の遺伝的構成要素について、「縄文」と「アジア北東部」および「アジア東部」との違いと比較して、「アジア北東部」と「アジア東部」の違いはずっと小さくなっています。本論文で弥生時代の人類集団の祖先としてモデル化されている西遼河地域の人類集団について、経時的な遺伝的構成の変化が指摘されていることも踏まえると(Ning et al., 2020)、弥生時代、さらには古墳時代以降の日本列島の人類集団の遺伝的構成の起源と形成過程はかなり複雑だったとも考えられ、解明は容易ではなさそうです。アジア北東部の完新世人類集団の遺伝的構成は、地理を反映して一方の極(北方)にアムール川流域、もう一方の極(南方)に黄河流域があり、西遼河地域はその中間的特徴と経時的変容を示します(Ning et al., 2020)。これはその後の研究(Robbeets et al., 2021)でも改めて示されていますが、黄河流域新石器時代集団的な遺伝的構成要素の割合は、紅山文化から夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化では高くなり、その後の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では低下しています。
西遼河もしくはその周辺地域で夏家店上層文化以降も同様の遺伝的変容が起きたならば、弥生時代以降の日本列島、さらには後期新石器時代以降の朝鮮半島における人類集団の遺伝的構成の変容は、単調なものではなく複雑なものだった可能性が高そうです。Cooke et al., 2021では、弥生時代集団は現代日本人集団の平均よりずっと高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素と残りのアジア北東部的な遺伝的構成要素で、古墳時代集団はアジア東部的な遺伝的構成要素の大きな割合の流入によりモデル化されており、古墳時代に現代日本人集団の遺伝的構成が形成された、と推測しています。一方で、Cooke et al., 2021が弥生時代集団の代表としたのは、「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合が現代日本人集団の平均よりずっと高い下本山岩陰遺跡の2個体で、本論文でも取り上げられている、下本山岩陰遺跡の2個体よりずっと低い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できる安徳台遺跡個体は検証されていません。
また、古墳時代については、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体が存在することは、日本列島では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆しています。
これらを踏まえると、西遼河もしくはその周辺地域において経時的な人類集団の遺伝的構成の変容があり、それが朝鮮半島、さらには日本列島にも波及し、Cooke et al., 2021が想定したように、日本列島において弥生時代以降に到来した人類集団の遺伝的構成は、時期により大きな違いがあった可能性も考えられます。朝鮮半島における人類集団の遺伝的構成の変容について確証はありませんが、網羅率が低く信頼性に欠けるとはいえ、青銅器時代のTaejungni個体のPCAでの位置づけ(Robbeets et al., 2021)から推測すると、朝鮮半島において紀元前千年紀に人類集団の遺伝的構成の大きな変容が起きた可能性も考えられ、それは、朝鮮半島において朝鮮語系統の言語が紀元前5世紀頃に到来した、と推測する言語学も踏まえた考古学的知見(Miyamoto., 2022)とも整合的かもしれません。また、本論文でも他の研究(Gelabert et al., 2022)でも、三国時代の人類集団にも存在した古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素(他の研究では「縄文人」的な遺伝的構成要素)は、朝鮮半島南岸において新石器時代からずっと継続していた、と推測されていますが、こうした遺伝的構成要素が一旦朝鮮半島で失われ、弥生時代もしくは古墳時代以降に日本列島からもたらされた可能性もあるとは思います。
本論文が依拠した研究(Robbeets et al., 2021)については、弥生時代以降に日本列島にもたらされた遺伝的構成要素について、夏家店上層文化集団でモデル化としているものの、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体的な遺伝的構成要素と夏家店上層文化個体的な遺伝的構成要素は朝鮮半島および日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、夏家店上層文化個体的な遺伝的構成要素を選択的に割り当てられた集団は、その代わりに紅山文化的な遺伝的構成要素でも説明できる、と批判されています(Tian et al., 2022)。
こうした批判も踏まえると、弥生時代以降の日本列島の人類集団の遺伝的構成の起源と形成はかなり複雑だった可能性が高そうです。弥生時代の比較的早い段階で日本列島に到来した人類集団は、西遼河もしくはその周辺地域起源で、朝鮮半島から日本列島に到来したのでしょうが、その後に朝鮮半島では西遼河もしくはその周辺地域起源の異なる遺伝的構成の集団が到来し、在来集団と遺伝的に混合しつつ拡散し、一部が日本列島に到来したのではないか、と現時点では考えています。つまり、弥生時代早期に朝鮮半島から日本列島に到来した人類集団と、古墳時代、もしくは弥生時代のある時点以降に日本列島に到来した人類集団とでは遺伝的構成が異なっており、それが現代日本人集団の遺伝的構成に反映されているのではないか、というわけです。この仮説の検証には、今よりも多くの一定以上の品質の日本列島と朝鮮半島と西遼河地域も含めて中国の広範な地域の古代ゲノムデータが必要となるでしょう。
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神澤秀明、亀田勇一、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2023)「熊本県宇城市大坪貝塚出土弥生後期人骨の核ゲノム分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第242集P123-132
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篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019a)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231
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篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019b)「韓国加徳島獐項遺跡出土人骨のDNA 分析」『文物』第9号P167-186
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篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2020)「福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第219集P199-210
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篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2021)「愛知県清須市朝日遺跡出土弥生人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P277-285
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藤尾慎一郎(2023)「弥生人の成立と展開2 韓半島新石器時代人との遺伝的な関係を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』第242集P35-60
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000021
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
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●要約
本論文は、朝鮮半島では新石器時代島嶼よりアジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を有さない人類集団が南岸に存在していた、との知見(Robbeets et al., 2021)に基づいて、朝鮮半島との関連で、日本列島における弥生時代の人類集団の遺伝的構成の起源および構成とその時空間的差異を概観します。朝鮮半島新石器時代集団は遺伝的に、アジア東部沿岸古代人集団的な遺伝的構成要素を有する集団(朝鮮半島系)と、有していない集団(西遼河系)など、前期から多様と考えられます。本論文は、多様な遺伝的構成の朝鮮半島青銅器時代集団と、そうした集団が水田稲作を九州北部に伝えた場合の弥生時代人類集団について、以下の4通りを想定します。それは、
(1)渡来系弥生時代集団I:西遼河系+在来(縄文)系の遺伝的構成で、具体的には福岡県安徳台遺跡(篠田他.,2020)や鳥取県青谷上寺地遺跡(神澤他.,2021a)など弥生中期~後期の遺跡です。
(2)渡来系弥生時代集団II:朝鮮半島系(西遼河系+古代アジア東部沿岸系)の遺伝的構成で、具体的には弥生時代前期後半の愛知県朝日遺跡ですが、在来(縄文)系弥生時代集団との遺伝的混合はほぼ認められません。
(3)在来系弥生時代集団:渡来系弥生時代集団IもしくはII+在来(縄文)系弥生時代集団の遺伝的構成で、具体的には長崎県下本山遺跡(篠田他.,2019a)や熊本県大坪貝塚(神澤他.,2023)など、弥生時代後期以降の遺跡で、いわゆる「西北九州弥生人」です。
(4)在来(縄文)系弥生時代集団:縄文時代集団(縄文人)と同じ遺伝的構成で、具体的には佐賀県唐津市大友遺跡(神澤他.,2021b)や愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡(Gakuhari et al., 2020)です。
●研究史
朝鮮半島新石器時代の獐項遺跡個体の核ゲノムでは、後期旧石器時代(上部旧石器時代)にアジア南東部からアジア東部沿岸を北上した古代アジア東部沿岸集団と、アジア東部大陸部北方の新石器時代集団の混合と2019年に示されました(篠田他.,2019)。古代アジア東部沿岸集団とは、後期旧石器時代にアジア南東部からアジア東部沿岸を北上してきた現生人類(Homo sapiens)で、アジア東方の沿岸部や島嶼部に存在し、朝鮮半島の新石器時代集団や「縄文人」の共通の祖先と本論文では把握されています【この問題については「私見」の項目で後述します】。
この遺伝的構成は弥生時代前期後半以降に見られる「渡来系弥生人」と呼ばれている集団と類似しているため、アジア東部北方系と古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有する青銅器文化集団が「渡来系弥生人」の候補の一つとして想定され、在来(縄文)系弥生時代集団と混合しなくとも「渡来系弥生人」集団は成立する、と予想されました。遺伝的混合がなければ、弥生時代初期に移住してきた青銅器文化集団は自ら水田稲作を行ない、その子孫も、「在来(縄文)系弥生人」と混合しなくとも、日本列島への渡来から400年ほどで伊勢湾沿岸地域まで到達したことや、遠賀川系甕単純の甕組成の一因を説明できるのではないか、というわけです。
その直後の2021年11月に刊行された研究(Robbeets et al., 2021)では、古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有さない、西遼河流域の紀元前4500~紀元前3000年頃となる紅山(Hongshan)文化集団と同じ遺伝的構成要素でモデル化できる個体が、韓国全羅南道の新石器時代(非較正で紀元前6300~紀元前3000年頃)の安島(Ando)遺跡で確認され、韓国慶尚南道の欲知島(Yokchido)遺跡で発見された後期新石器時代個体は、獐項遺跡個体よりも古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の割合が高い、と示されています。Robbeets et al., 2021では、古代アジア東部沿岸集団を千葉市六通貝塚の縄文時代個体群に代表させ、朝鮮半島南岸新石器時代の一部の個体を「縄文人」との遺伝的混合と解釈していますが、朝鮮半島新石器時代に「縄文人」の遺伝的影響が強くのこるほどの事態が想定される考古学的な証拠は存在しないので(水ノ江.,2022)、本論文においては「縄文人」ではなく古代アジア東部沿岸集団と表現されます【この問題については「私見」の項目で後述します】。
Robbeets et al., 2021の調査結果は、縄文時代前期同時代の朝鮮半島南部には、著者【藤尾慎一郎氏】が想定していた古代アジア東部沿岸集団と中国北部系新石器時代集団との混合割合の異なる集団だけではなく、中国北部新石器時代直系集団【安島遺跡個体に代表されます】まで存在していたことを意味するので、朝鮮半島新石器時代集団の核ゲノムでの遺伝的多様性はきわめて多様だった、と示唆されます。朝鮮半島青銅器時代人類のゲノムデータは、網羅率の低いTaejungni遺跡の1個体(紀元前761~紀元前541年頃)しかないので詳しい分析は困難です(Robbeets et al., 2021)。
三国時代になると、伽耶の政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある大規模な埋葬複合施設で発見された紀元後4~5世紀頃の8個体(Gelabert et al., 2022)や、金海柳下里貝塚で発見された人類遺骸や、5世紀の高霊池山洞44号墳の人類遺骸や、5~7世紀の永川完山洞古墳群で見つかった人類遺骸にも、中国北部系と古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的混合の痕跡が確認されており【韓国の西部沿岸地域の群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の6世紀半ばの6個体のゲノムについては、縄文系の遺伝的構成要素が示されていません(Lee et al., 2022)】、青銅器時代の朝鮮半島にもそうした遺伝的構成の人類集団が存在していた可能性は高そうです。そのため、上述のような「渡来系弥生人」の成立に関する単純な想定はもはや困難です。
そこで本論文は、獐項遺跡以外の朝鮮半島南部の新石器時代の遺跡から出土した人類遺骸の遺伝的構成と文化について説明したうえで、その子孫である青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合のなかから、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」がどのようにして成立するのか、再度検討します。
●朝鮮半島新石器時代集団の遺伝的構成と文化
ここでは、朝鮮半島の安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡が対象です。図1には、本論文で取り上げられる朝鮮半島の新石器時代と日本列島の縄文時代~古墳時代の遺跡の分布が示されています。朝鮮半島の3ヶ所の新石器時代遺跡(安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡)は、いずれも朝鮮半島本土ではなく、その沖合の島嶼部に位置します。ここで取り上げられる日本列島の遺跡の大半は縄文時代および弥生時代となりますが、種子島の2ヶ所の遺跡(上浅川遺跡と広田遺跡)は古墳時代となります。図1の遺跡を示す灰色は、核ゲノム解析は行なわれていないものの、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では古代アジア東部沿岸集団系(縄文系)と示された遺跡を表しています。以下は本論文の図1です。
図1では、核ゲノムが解析されている個体については、「縄文人」と「在来(縄文)系弥生人」の縄文系、西遼河新石器時代集団的な遺伝的構成の中国北部系、西遼河系と古代アジア東部沿岸集団系の混合である朝鮮半島新石器時代系、青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」の混合である渡来系、「渡来系弥生人」と「在来(縄文)系弥生人」の混合である西北九州系に分類されています。朝鮮半島新石器時代では、安島個体が中国北部系、欲知島個体と獐項個体が朝鮮半島新石器時代系です。上浅川遺跡と広田遺跡の個体は、古墳時代となりますが、縄文系に分類されます。
環朝鮮海峡地域とよばれる地域は1980年代より、朝鮮半島沿岸から九州北部および西北部も含めた地域に共通する漁撈具の存在が知られています。それは、大型の魚類を釣る西北九州型結合式釣針やオサンリ型釣針、突き刺して獲る石銛などです。新石器時代集団や「縄文人」は魚を求めて季節的にこの地域を移動していたと推測されるので、航海中に立ち寄った港で中国の玦状耳飾りや佐賀県伊万里市にある腰岳の黒曜石を入手し、各地の産物と交換していたと考えられます。これは高倉洋彰氏の指摘する漁撈民型交流です。こうした漁撈活動を担っていた朝鮮半島側の個体の核ゲノムが、一部ながら解析されています。
安島貝塚は韓国麗水市の沖合の安島にある前期新石器時代の墓地遺跡で、合計5 体の人骨が調査されました。1 号墓は20 代女性と30 代男性の2 体の合葬墓、2 号墓と3 号と4 号墓は1 個体ずつ葬られ、いずれも基本的に仰臥伸展葬です。人骨に抜歯は認められませんでしたが、潜水漁を行なう人によく見られる外耳道骨腫が確認されています。一方で、シベリアのようなアジア大陸の北方域の人びとによく見られる下顎隆起、「渡来系弥生人」の特徴であるエナメル質感形成(2・3 号)や上顎切歯シャベル型(2・3 号)が見られます。1号人骨の20代女性のゲノムは、紀元前4700~紀元前2900年ごろの河北省北部から内モンゴル自治区東南部および遼寧省西部にみられた紅山文化集団的な遺伝的構成要素で完全にモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。紅山文化集団のゲノムは、仰韶(Yangshao)文化集団的な遺伝的構成要素とアムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体的な遺伝的構成要素との混合でモデル化されており(Robbeets et al., 2021)、本論文では中国北部系と分類されます。以下本論文では、篠田謙一に従って、中国北部系は西遼河系と呼ばれます。
上述のように、欲知島個体と獐項個体が朝鮮半島新石器時代系に分類され、安島個体とあわせると、縄文時代前期に該当する年代には、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有さず、西遼河系の遺伝的構成要素を有する集団が朝鮮半島南岸にまだ到達していた、と示されます。日本列島では、西遼河系の遺伝的構成要素で完全にモデル化できる(混合していない)個体は見つかっていません。安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡の個体の核ゲノムから、朝鮮半島では前期新石器時代から人類集団は遺伝的に多様だった、と予想されます。
20~60 代の男女(親族関係は不明)が葬られた安島貝塚から出土した遺物には中国系の玦状耳飾、縄文系の轟式土器や石匙や結合式釣針、佐賀県腰岳産の大量の黒曜石片などがあり、黒曜石の出土数は朝鮮半島において一遺跡としては多い方で、剝片数は220 点です。また、タマキガイ科の貝で作られた貝釧を装着した人類遺骸が見つかるなど、九州西北部の縄文文化との共通性が見られます。安島貝塚の状況は、西遼河系の遺伝的構成要素を有する個体が存在する一方で、縄文系の道具を有している人がいる点で、文化的にも多様です。安島貝塚の集石付近で見つかった骨片や貝殻を対象に放射性炭素(¹⁴C)年代測定が行なわれていますが、土壙墓出土人骨自体の¹⁴C年代測定は行われておらず、2008 年以前の測定なので較正曲線はIntCal04で、較正年代は7430~6620年前頃でした。安島貝塚出土人骨では、日本列島と朝鮮半島において現時点では唯一のゲノムを西遼河系で完全にモデル化できる個体が見つかっており、一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)データに基づく主成分分析(principal component analysis、略してPCA、図4)に投影すると華北の現代中国人集団に入り(篠田謙一氏の指摘)、韓国の現代人よりも中国の現代人―にきわめて近くなります。以下は本論文の図4です。
韓国統営市沖合の欲知島には前期新石器時代墓地遺跡があり、2ヶ所の土壙墓から3個体の人骨が見つかっています。1 号墓には壮年の背が高い男性が葬られており、大腿骨の筋付着部がよく発達していて頑丈なことから男性と判断され、上顎右第1小臼歯も見つかっています。2 号墓は、壮年~熟年の男性と20歳前後の女性との合葬墓です。男性については側頭骨と尺骨が2体分検出されており、左側に顕著な外耳道骨腫が見られ、潜水を生業としていたことが明らかです。女性については側頭骨と四肢骨が見つかっており、華奢な感じとされています2個体の核ゲノム解析の結果、2個体とも西遼河系と古代アジア東部沿岸集団系の混合である朝鮮半島新石器時代系、西遼河系の割合は2個体間で異なっていました。欲知島遺跡では、西唐津海底式の特徴を持つ縄文土器、シカの骨や角で作られた骨角器、佐賀県腰岳産の黒曜石で作られた打製石鏃、イノシシ形土製品など九州西北部の縄文系遺物などが発見されており、九州西北部の縄文文化と密接に交流していたことが窺えます。
洛東江三角州の西南海上の釜山特別市加徳島獐項遺跡は、前期新石器時代の墓地です。土壙墓などから人骨48体が出土し、発見された隆起線文土器や押引文土器から縄文時代前期と同年代の前期新石器時代に比定されています。山田康弘氏によると、加徳島獐項遺跡の人類遺骸は形態的に「縄文人」と異なるようで、墓壙が弥生時代の甕棺墓に見られるような列状に並んでいるなど、縄文文化には見られない特徴があります。2号および8号人骨の¹⁴C年代は6300年前頃です。加徳島獐項遺跡2号および8号のmtDNAは日本列島において弥生時代以降に見られるハプロタイプで、核ゲノム解析から、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の混合で、現代日本人と類似しているものの、典型的な現代韓国人とは異なる、と示されました。また、2号と8号のゲノムにおける混合割合は異なっており、遺伝的多様性が窺えます。
加徳島獐項遺跡個体から、朝鮮半島南部では弥生時代開始の3000年以上前から、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の混合が見られる、と分かります。これについて篠田謙一氏は、まず旧石器時代からアジア東部太平洋沿岸の島嶼部や沿岸部には「縄文人」や朝鮮半島の新石器時代集団などを含む代アジア東部沿岸集団に遺伝的に分類できる個体群が存在しており、その後、大陸から隔離されていた「縄文人」は、大陸内部の新石器時代集団と遺伝的に混合しなかったものの、陸続きである朝鮮半島の新石器時代集団と大陸内部の新石器時代集団との間では早くから遺伝的混合が進み、遅くとも6300年前頃には現代日本人と同程度まで混血が進んでいた個体も存在した、と指摘していますこの問題については「私見」の項目で後述します】。
南岸に限定されますが、これら朝鮮半島新石器時代個体群の遺伝的構成は、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素で示され、前者のみの個体(西遼河系)と、前者と後者のさまざまな割合での混合の個体(朝鮮半島新石器時代系)とが確認されています。朝鮮半島では完全な古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体はまだ確認されていませんが、日本列島と同様に存在しても不思議でありません。一方で、西遼河系の個体は日本列島では縄文時代のみならず弥生時代でも見つかっておらず、存在していたのか否かも不明です。この西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成を日本列島にもたらした集団と関連で注目されるのが、朝鮮半島の青銅器時代遺跡です。
●朝鮮半島青銅器時代後期の慶尚北道達城平村里遺跡
洛東江の上流域に位置する慶尚北道達城平村里の青銅器時代中期~後期の集落・墓地遺跡では、考古学的に弥生文化の祖型と言えるような痕跡が見つかっています。集落域は北側のI地区にあり、青銅器時代中期の孔列文土器の段階で、壁際に小さな柱を隙間なく並べて支えられた壁と複数の炉があり、間口が狭く細長い長方形の住居を特徴とします。南側のII地区にある墓地(石棺群と土器棺群)の時期は青銅器時代後期で、かつて先松菊里類型といわれていた段階です。合計28 基の石棺と3基の土器棺などが検出され、28個体の人骨が出土しました。本論文では、代表的な3号石棺と20号石棺が取り上げられます。
3号石棺は長側壁を短側壁で挟み込む形(報告書では石軸形)になっており、長さは167cm、幅は49cmで、ほぼ全身の骨が屈葬で埋葬されていました。上腕骨の長さから身長は173cmと推定されています。歯は全体的にエナメル質の摩滅が多いことから30~34歳と推定されています。磨製石剣1本と磨製石鏃9本が、左腹付近に散在するような状況で見つかっています。20号石棺は3号と同じ石軸形の石棺で、長さは150cm、幅は52cmです。ほぼ全身の骨が出土しており、推定身長は3号石棺出土人骨と同じく173 cmです。磨製石剣1本が右腰付近、磨製石鏃12本が左足下に、切先を下に向けて副葬されていました。腸骨の¹⁴C年代(4590±60年前)は、考古学的な年代よりもかなり古く出ています。
土器棺では、壺棺1基と日常の甕を転用した甕棺2基が出土しています。安在晧氏は、壺棺が焼成前に丹を塗った丹塗磨研土器で有明海沿岸の弥生早期に見られる長胴壺と類似していることと、甕棺は松菊里式の甕を利用したもので甕の外面に縦方向の刷毛目調整が施されている点に注目しています。安在晧氏は、もともと松菊里型甕を棺として再利用する手法は朝鮮半島の中西部地方が起源で、これまで朝鮮半島東南部の嶺南地域ではあまり知られていなかったものの、近年少しずつ見つかりつつあることから、松菊里文化の拡散と関係があると考えています。棺の埋置方法には、直立と斜めと横置きがあり、これに石の蓋を組み合わせると、壺棺は石蓋直置、甕棺は石蓋斜置と横置の3種類が認められます。排水や防湿目的で、底部に穴を空けた状態の土器棺が6~8m間隔で分布しています。
石棺墓の副葬品は磨製石剣と磨製石鏃と玉の組み合わせです。紀元前9世紀(夜臼IIa式)の福岡市雑餉隈遺跡の木棺墓に見られるものと、玉や副葬小壺を除けば共通しています。雑餉隈遺跡では人骨が残っていなかったので正確な副葬箇所は不明ですが、磨製石剣と磨製石鏃が切っ先を脚下に向けて束ねるようにまとめて納められている点に違いが認められる程度です。また磨製石剣の石材も共通しており、玉はヒスイで、半円形と穀玉があります。奥歯の外側にあたる頬の部分から出土しているので、耳飾りのような垂飾品の一部と考えられています。
紀元前7世紀の青銅器時代後期に比定されている平村里遺跡のある洛東江の上流域は、以前より九州北部で出土する丹塗磨研壺の故地という見解がある地域だけに、紀元前7世紀(板付IIa式併行)と同年代だったとしても、「渡来系弥生人」の故郷との関連が予想されます。しかし、壺棺や甕棺に使われている土器を見ると、比率を除くと、弥生時代早期の夜臼単純段階と同年代の土器との共通性が認められます。とくに甕は外反せずに直行する口縁部を有しており、口唇部に直接刻目を施すなど、玄界灘沿岸地域で夜臼I式に伴う板付祖型甕と共通します。さらに、刷毛目調整を縦方向に施すという点まで共通しています。基本的に刷毛目調整を施さない朝鮮半島青銅器時代後期の甕とは明らかに異なっています。
●「渡来系弥生人成立」の推測
著者【藤尾慎一郎氏】の以前の見解は表6にまとめられています。それによると、「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の集団が弥生時代早期以降に出現すると想定するのがA説で、縄文時代にいたと想定するのがB説です。現在までに「縄文人」の核ゲノムは150個体分ほど解析されていますが、「渡来系弥生人」に類似する遺伝的構成の個体は見つかっていないので、基本的にはA説が妥当です。ただ、福岡県芦屋町山鹿遺跡で見つかっている長頭の個体群のような、「渡来系弥生人」と類似する形質の個体群の存在を縄文時代に想定する見解は以前からあり、岡山県倉敷市中津貝塚から見つかった縄文後期末~晩期初頭の人骨には、「渡来系弥生人」の特徴の一つであるシャベル状切歯が見られたので、現段階では「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の個体が縄文時代に存在した可能性を完全に否定することはできない、と予想されます。さらに、朝鮮半島南部には縄文時代前期と同年代から「渡来系弥生人」と類似した遺伝的構成の個体(獐項遺跡)が見つかっているので、そうした遺伝的構成の個体が九州西北部で見つかる可能性を否定できませんが、大量に見つかることも考えにくいでしょう。以下は本論文の表6です。
このように、B説を完全には否定できないものの、大枠ではA説が妥当と考えられます。A説は、水田稲作開始期に海を渡って九州北部に到来した人々、つまり「渡来人」が、到来後すぐに「縄文人」の直系である「在来(縄文)系弥生人」と混血することで「渡来系弥生人」が成立するA-1説(移住・混血説)と、渡来直後には混血せず、しばらく経ってから混血することで「渡来系弥生人」が成立するA-2説(混血説)に分かれます。A-1説は金関丈夫氏以来の移住・混血説ですが、A-2説は、福岡県三国丘陵を舞台とした田中良之氏や片岡宏二氏、朝日遺跡(篠田他.,2021)を舞台に石黒立人氏らが想定していた、移住当初は混血しないという見解です(この場合は遠賀川系土器を使用する集団の移住)です。
A-1説は、「渡来人」の遺伝的構成によりaとbに分かれ、「渡来人」が古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を有していない場合(a)と有している場合(b)で、aは松下孝宰氏がかつて想定したような山東半島の新石器時代集団などがあり、bは未確認で分析は行なわれていませんが、朝鮮半島系新石器時代集団の系統の朝鮮半島青銅器時代集団を想定できます。著者の以前の見解はRobbeets et al., 2021の公表前にまとめられており、西遼河系(中国北部系)の存在自体が前提になかったので、山東半島新石器時代人集団などを念頭に推測されていました。しかし、仮に山東半島から渡来してきた集団がいたとしても、「在来(縄文)系弥生人」と関わった可能性を支持する考古学的な証拠は弥生開始期の土器にみられる叩き技法ぐらいで、石器などに見られる特徴から推測して可能性が高いのは、朝鮮半島青銅器時代集団が日本列島に渡来してきて、「在来(縄文)系弥生人」と関わった想定です。朝鮮半島において青銅器時代に中国系であることを示す人骨は具体的に知られていませんでしたが、たとえばそうした集団が渡来後に「在来(縄文)系弥生人」とあまり遺伝的に混合せずに東方へ移動したならば、朝日遺跡13号人骨のように、「在来(縄文)系弥生人」とほとんど混合していないことを示す遺伝的構成要素の「渡来系弥生人」が成立するだろう、と予想されました。
次に、「渡来系弥生人」と類似した遺伝的構成の朝鮮半島系新石器時代集団の系統が渡来してきたならば、遺伝的に混合せずとも安徳台遺跡個体のような「渡来系弥生人」が出現し、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合したならば、「西北九州弥生人」のような遺伝的構成の集団が成立します。現時点では、いずれも日本列島への到来後しばらく経過してから遺伝的に混合するA-2説に相当します。このように朝鮮半島新石器時代系集団が日本列島に到来した「渡来人」の場合は、あまり遺伝的に混合せずとも「渡来系弥生人」と類似した遺伝的混合となり、遺伝的に混合すると西北九州弥生人が生まれるので、やや複雑な事例です。
また朝鮮半島新石器時代系「渡来人」の場合は、「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が起こった時期も重要です。まだ形質だけを指標に想定していた20世紀には、福岡県三国丘陵では前期後半、朝日遺跡では前期後半の新段階と、いずれも、その地で水田稲作が始まった時ではなく、しばらく経過してから遺伝的混合が始まる、と考えられてきました。それは、これ以前の時期の「渡来系弥生人」の骨が見つかっていなかったからです。「在来(縄文)系弥生人」と朝鮮半島新石器時代系「渡来人」との遺伝的混合の有無や、遺伝的に混合した場合の時期については、弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析を継続していけば、いずれ明らかになるでしょう。松下孝宰氏が「渡来人」の故郷として想定した山東半島にしても、朝鮮半島新石器時代系の青銅器時代集団にしても、想定に用いたのは新石器時代個体の遺伝的構成だけに、青銅器時代に水田稲作を持ち込んだ青銅器時代後期集団の遺伝的構成の特定は困難ですが、上述のように三国時代にも新石器時代に確認されている遺伝的構成の系統を受けついだ個体が認められている以上、青銅器時代集団にも存在していた可能性は充分にあるでしょう。
こうした想定に基づいて、新たな知見(Robbeets et al., 2021)を踏まえて表6を改めたのが表7と図9です。まず、縄文時代の日本列島について「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の集団の有無で区別するのは旧説と同じで、存在しなかったのがA説、存在したのがB説です。ただ、B説はまだ証明できていないので、さらに検討されるのはA説だけです。A説は、「渡来人」のゲノムの遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な構成要素が含まれないのか(a)、含まれるのか(b)によってaとbに分かれ、さらにそれぞれが「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合していないのか(1)のか、したのか(2)により分かれるので、合計4通りを想定できます。旧説では獐項個体のような朝鮮半島新石器時代集団的な遺伝的構成要素を有する「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」が遺伝的に混合すれば、「西北九州弥生人」の成立を想定でき、混合しなければ青谷上寺地遺跡にも見られるような「渡来系弥生人」の存在を想定できてしまったので、そうした不具合が解消されました(図9)。以下は本論文の表7です。
A-a-1説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含まない西遼河系の青銅器時代集団が渡来し、「在来(縄文)系弥生人」(図1の青色)と遺伝的に混合しなかった事例、つまり西遼河系の遺伝的構成要素のみの「渡来人」は現時点で見つかっていませんし、そうした遺伝的構成の個体は朝鮮半島南部の青銅器時代でも明らかになっていません。安在晧氏が達城平村里遺跡の墓地の分析を踏まえて想定したように、九州北部に水田稲作を伝えたのが、山東半島付近の叩き技法を用いる土器製作者だとしたら、そうした集団の遺伝的構成はA-a-1説で想定されているものだったかもしれません。以下は本論文の図9です。
A-a-2説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含まない西遼河系の青銅器時代集団人が日本列島に到来し、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば、安徳台遺跡個体のような「渡来系弥生人I」(図1の紫色)が成立します。現時点では、朝鮮半島南部の青銅器時代でさえこうした遺伝的構成の個体は確認されていませんが、紀元前1世紀の安徳台遺跡や紀元後2世紀の青谷上寺地遺跡などで多数の「渡来系弥生人I」が確認されています。遺伝的構成からはその上限がまだ紀元前1世紀となりますが、形質からみると「渡来系弥生人」は紀元前7世紀の福岡市雀居遺跡で見つかった前期中頃(板付IIa式)の人骨が最古級なので、この段階まではさかのぼるかもしれません。対象となる雀居遺跡出土人骨などの核ゲノム解析が期待されます。
A-b-1説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含む朝鮮半島新石器時代系の「渡来人」が日本列島に到達しても、「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合があまりなければ、在来(縄文)系の遺伝的構成要素の割合がひじょうに少ない、「渡来系弥生人II」が誕生します。現時点では朝鮮半島南部の青銅器時代でさえこうした遺伝的構成の個体はまだ確認されていませんが、紀元前6世紀の朝日遺跡13号人骨に代表されます。こうした遺伝的構成の集団が朝鮮半島南部から直接的に伊勢湾沿岸地域に到来した可能性は低いので、まず九州北部に到来した後でしばらくして東方へ移動してきたとすれば、その上限年代は、九州北部では水田稲作開始年代の紀元前10世紀後半までさかのぼるかもしれません。
A-b-2説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含む朝鮮半島新石器時代系の「渡来人」が日本列島に到達しても、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば、形質的には「縄文色」の強い、いわゆる「西北九州弥生人」が誕生します。現時点では、紀元前後の長崎県下本山遺跡の人骨が最古級です、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)M7aの人類遺骸は、紀元前3世紀の熊本市笹尾甕棺や福岡県行橋市長井遺跡で見つかっているので、紀元前3世紀までさかのぼるかもしれません。
著者はこれまで、A-a-2説で「渡来系弥生人I」の成立を考えてきましたが、現時点では「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した相手である西遼河系の「渡来人」は、青銅器時代の朝鮮半島南部でも弥生時代の西日本でも見つかっていません。それに対して新たに確認されたのがA-b-1説で、まだ朝鮮半島南部の青銅器時代に朝鮮半島新石器時代人系の青銅器時代個体は見つかっていませんが、上述のように三国時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果(Gelabert et al., 2022)からは、青銅器時代の朝鮮半島に存在した可能性は高そうです。ただ、朝鮮半島新石器時代系集団と朝日遺跡13号人骨ではPCA(図4)のY軸上にズレが見られることや、神澤秀明氏の指摘からは、まだ解決したとは言えない状況です。獐項個体の遺伝的構成要素がそのまま日本列島にもたらされているとしたら、現代日本人のゲノム上にある縄文由来のDNA断片は組換えによりもっと断片化されているはずであるものの、そうはなっていないので、獐項個体に代表される朝鮮半島新石器時代系集団の現代日本人における影響はそこまで大きなものではなかったと考えられる、と神澤秀明氏は指摘しています。
核ゲノムから判断すると、「渡来系弥生人IおよびII」の形成過程は以上のように推測されますが、これではとくに弥生時代開始期に見られる考古学的な事象を充分に説明できないことも確かです。それは、土器や石器などの水田稲作関連の道具に当初から見られる九州北部独自の在地的変容です。朝鮮半島青銅器文化の文物と完全に同じではない土器や石器の存在をどう説明するのか、という問題です。たとえば、九州北部玄界灘沿岸地域の弥生時代早期の甕形土器の組成では、青銅器時代後期系のいわゆる板付祖型甕は10%程度しかなく、残りの90%は砲弾型と屈曲型の突帯文土器です。また下條信行氏が指摘するように、大陸系磨製石器や石庖丁に見られる在地的変容の問題もあります。弥生時代開始期個体の核ゲノムは、佐賀県大友遺跡から出土した「在来(縄文)系弥生人」しか分かっておらず(神澤他.,2021b)、渡来系弥生人にいたっては、II型が板付IIb式に併行するI期中段階の朝日遺跡に存在していたことしか分かっていません。
渡来人の集団居住地と言えるような遺跡が弥生時代開始期の玄界灘沿岸地域で見つかっていないため、「在来(縄文)系弥生人」との共住もしくは日常的な接触交流、さらにはやや極端な言い方ではあるものの、青銅器文化集団による「在来(縄文)系弥生人」への強制力などを想定しない限り、在地的変容をみせる文物が存在する理由の説明は困難です。したがって、考古学的には稲作開始の当初から交流があったことを前提に、遺伝的な混合があったのか否かを知るためには、まず形質的に最古級の「渡来系弥生人」と報告されている福岡市雀居遺跡第7次調査の2号土壙墓から出土した成年女性の抜歯のある人骨の核ゲノム解析の必要があります。この成年女性が渡来系弥生人IなのかIIなのか、それとも「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した「西北九州弥生人」なのかによって、少なくとも弥生時代前期中頃の人類の遺伝的構成を知ることができます。
●「西北九州弥生人」の成立過程
旧説では、これまで「西北九州弥生人」とよばれてきた個体群に、遺伝的には「縄文人」と分類できる個体(弥生時代早期の大友遺跡)から、「在来(縄文)系弥生人」と「渡来系弥生人」が遺伝的に混合した個体(2000年前頃の下本山岩陰遺跡)まであり、下本山岩陰遺跡の2個体については「在来(縄文)系」と「渡来系」の遺伝的構成要素の割合が異なっていて、その分布は熊本県や鹿児島県や西日本など、西北九州に限定されない可能性があることや、その出現時期は現時点状では紀元前後が最古級であるものの、弥生時代中期前葉の紀元前3世紀まではさかのぼる可能性があること、さらに、朝鮮半島新石器時代系の青銅器時代集団が日本列島に到来し、弥生時代早期に「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した場合でも成立するかもしれない、と指摘されました。これら九州西北部に限定されない、朝鮮半島新石器時代系集団と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合個体の広範な分布からは、「西北九州」というような地域を限定する呼び方の妥当性、出現時期、混合度合いなどについて今後、核ゲノムデータが増えていけば自ずと整理されるでしょう。本論文は、いわゆる「西北九州弥生人」という用語ではなく、「在来系」の遺伝的構成要素が主で、「渡来系」の遺伝的構成要素が従であるという意味で、「在来系弥生人」と仮称し、これがどのような過程で成立したのか、推定しました。
渡来系弥生人Iは、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有していない朝鮮半島の西遼河系青銅器時代集団が「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば成立し、「渡来系弥生人II」は、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有している朝鮮半島系青銅器時代集団が、さほど「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合しなくても成立します。「在来(縄文)系弥生人」と西遼河系青銅器時代集団との遺伝的混合によって「渡来系弥生人I」が成立することについて異論はありません。著者は、の時期が弥生時代早期前半のうちだろう、と考えてきました。朝鮮半島の青銅器時代集団が血縁集団単位で日本列島に到来し、「在来(縄文)系弥生人」がおもな生活の舞台としていなかった平野の下流域に入植し、水田を拓いて、水田稲作を行なうことになりましたが、木製農具や石斧類や石庖丁を作るにしても、素材として適した石材や木材のありかに関する情報を持つ「在来(縄文)系弥生人」との協調関係のもと情報交換が必要であることや、水田造成および環壕掘削に必要な労働力不足を補うためにも、また近親婚防止の点からも、「在来(縄文)系弥生人」が必要とされたことや、その対象となるのは好奇心旺盛な「在来(縄文)系弥生人」の若い世代であることなどが、未開拓領域理論(採集狩猟民の地理空間に農耕民が入ってくると、すでに両者の接触を想定するモデルで、採集狩猟民の一部が両者を結びつけ、結果的に地域全体に農耕が拡大する、と想定されます)で説明されてきました。
ただ、当時は遺伝学との統合がほとんど進められていなかったので、青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」の遺伝的混合で「渡来系弥生人」が誕生することや、「西北九州弥生人」は「渡来人」と遺伝的に混合していない「縄文人」直系集団と理解されていました。しかし、核ゲノム解析結果を踏まえると、そのような単純なものではありませんでした。まず、「渡来人」自身、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有していない「西遼河系渡来人」と、有している「朝鮮半島系渡来人」の二者が存在し、前者が「在来(縄文)系弥生人」と混血すると「渡来系弥生人I」が成立するものの、後者が「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すると「西北九州弥生人」と言われてきたような「在来系弥生人」が成立することや、さほど遺伝的に混合せずとも「渡来系弥生人II」が成立することも分かりました。
現時点では、朝鮮半島系の「渡来系弥生人II」が紀元前6世紀には存在しているのに対して、西遼河系との遺伝的混合である「渡来系弥生人I」は最古級でも紀元前後までしか確認できていません。どちらが先に成立していたのかは分かりませんが、前期新石器時代の朝鮮半島南部に西遼河系も朝鮮半島系も存在していたことを考えると、水田稲作を伝えた青銅器時代集団のなかには、当初から複数遺伝的構成要素の血縁集団が存在し、「在来(縄文)系弥生人」と混血した個体群もいれば、あまり遺伝的に混合しなかった個体群も存在した、ということでしょう。もちろん、1血縁集団のなかにさえ、複数の遺伝的構成要素を有する個体が存在した可能性も否定できません。「渡来系弥生人」の核ゲノム解析はまだ少なく、研究の端緒に入ったばかりなので、今後の調査と分析が期待されます。
●まとめ
本論文は、旧説に基づき、2021年11月に刊行された研究(Robbeets et al., 2021)を踏まえて、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」とよばれてきた集団の成立過程について再度検討してきました。その結果、以下の6点が想定されます。
(1)新石器時代の朝鮮半島南部には、縄文時代早期~前期と同年代の7000年前頃から、さまざまな遺伝的構成要素の集団が存在していました。古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有していない、中国北部由来の西遼河系(安島貝塚個体)、西遼河系と古代アジア東部沿岸集団が遺伝的に混合した朝鮮半島系(獐項遺跡個体や欲知島遺跡個体)、未確認ではあるものの、古代アジア東部沿岸集団の直系集団です。こうした集団と盛んに交流していた九州西北部の「縄文人」の核ゲノムには、後世に遺伝的影響を及ぼすほど新石器時代集団と遺伝的に混合した個体が存在したことを示す考古学的な証拠は得られていません。したがって、縄文時代の頃において、朝鮮半島南部と日本列島の集団の遺伝的構成は基本的に異なっていたと考えられ、両者の間には後世に遺伝的な影響を残すような混合なかったことが前提に考えられました。
(2)考古学的には青銅器時代後期になって朝鮮半島南部の青銅器時代集団が渡海して日本列島へと到来し、水田稲作を生産基盤とする遼寧式青銅器文化を九州北部にもたらした、と考えられています。また朝鮮半島については、青銅器時代後期時代個体の核ゲノム解析は行なわれていませんが、三国時代の個体群の遺伝的構成要素から考えて、新石器時代前期に存在した多様な遺伝的構成要素が青銅器時代に引き継がれていると考えられるため、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」など各種「弥生人」の成立事例が4通り想定されました。
(3)「渡来系弥生人」には、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合して成立する安徳台遺跡個体や青谷上寺地遺跡個体のような「渡来系弥生人I」と、遺伝的混合がさほど見られない朝日遺跡のような「渡来系弥生人II」が見られました。「渡来系弥生人I」は西遼河系の遺伝的構成要素を有する個体群が移住して「在来(縄文)系弥生人」と混合した結果形成され、金関丈夫氏以来想定されていました。ただ、西遼河系は青銅器時代の朝鮮半島南部でも弥生時代の日本列島でもまだ確認されていません。「渡来系弥生人II」は朝鮮半島系集団が移住はするものの、「在来(縄文)系弥生人」とはさほど遺伝的に混合せず、これまで想定されていませんでした。
(4)いわゆる「西北九州弥生人」には、佐賀県唐津市大友遺跡8号支石墓出土人骨のように「在来(縄文)系弥生人」遺伝的構成要素を100%継承している個体から、「渡来系弥生人」の遺伝的構成要素を一定量含む個体までが存在し、後者の時期は現時点で、紀元前後の下本山遺跡個体が最古級です。ただ、西日本の「縄文人」が有するmtHg-M7aを有する弥生時代個体は、弥生時代中期前半の福岡県行橋市長井遺跡や熊本市笹尾遺跡で見つかっているので、いわゆる「西北九州弥生人」は紀元前3世紀までさかのぼる可能性があります。おそらく「渡来系弥生人」が水田稲作とともに拡散することによって、西北九州に限らず各地で「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が起こる、と考えられます。したがって、特定の地域名である「西北九州」を冠するのは適当ではなく、「在来系弥生人」との呼称が相応しいと考えられます。
(5)形態学的には、「渡来系弥生人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合は、水田稲作開始期ではなく、しばらく経ってから始まると考えられてきましたが、その根拠は、すべての土器型式の存続期間が均等であることを前提とした弥生短期編年下における人口増加率模擬実験だったり、在来(縄文)系弥生文化の土器と遠賀川系土器との折衷土器の成立時期であったり、縄文系第二の道具である土偶や石棒などの出現時期(春日井市松河内遺跡など)だったりしました。しかし、すべての土器型式の存続期間が均等でないことを前提とする弥生長期編年下ならば、水田稲作開始と同時に遺伝的混合が始まっていたとしても、一型式100年ほどの長い存続期間を考えれば、当初人口は増えません。また田中良之氏が三国丘陵で指摘しているように、弥生時代前期後半の板付IIb式頃から遺伝的混合が増え始めることを考えると、遺伝的混合の開始時期はとくに限定されない、と推測されます。後世に遺伝的影響を及ぼすようになる混合の開始が板付IIb式以降であることを考えると、形態学的観点から言われてきた遺伝的混合の開始時期と、基本的に同じ結果となりました。
(6)上述の(5)から考えると、水田稲作開始当初から西遼河系青銅器時代集団の「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が始まっていれば、「渡来系弥生人I」の数が急激に増えなくて、土器と石器に在地的変容が起こることは矛盾なく説明できます。
●私見
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は日本列島の弥生時代の人類集団の遺伝的構成とその形成過程について、考古学的研究も踏まえつつ、現時点での遺伝学的証拠に基づいて推測しています。本論文の注目点の一つは、「古代アジア東部沿岸集団」の想定です。本論文が指摘するように、Robbeets et al., 2021は朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体のゲノムについて、0~95%の「縄文人」的な遺伝的構成要素とそれ以外の紅山文化集団的な遺伝的構成要素との混合でモデル化しています。他の研究でも、アジア東部北方沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代個体群が、モンゴル新石器時代集団的な遺伝的構成要素(87%)と「縄文人」的な遺伝的構成要素(13%)の混合でモデル化されています(Wang et al., 2021)。
これらの研究からは、「縄文人」がアジア東部北方沿岸に渡海し、遺伝的痕跡を残したようにも見えます。しかし本論文は、朝鮮半島新石器時代に「縄文人」の遺伝的影響が強くのこるほどの事態が想定される考古学的な証拠は存在しないと指摘し、朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体の遺伝的構成要素として、「縄文人」ではなく「古代アジア東部沿岸集団」を想定しています。ただ、縄文文化が朝鮮半島南岸に定着したとはとても言えないとしても、縄文土器の分布から、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸に渡った可能性は高そうで(水ノ江.,2022)、その意味では、朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体のゲノムの一部が「縄文人」的な遺伝的構成要素と想定しても大過はないようにも思います。ただ、本論文で引用されている神澤秀明氏の見解から推測すると、6300年前頃の獐項遺跡個体により表される集団が、現代日本人の遺伝的構成に大きく寄与した可能性はきわめて低そうです。
ここで重要なのは、これらの個体の遺伝的構成要素のモデル化は既知の古代人もしくは現代人個体(あるいは集団)を用いており、直接的な祖先集団を証明しているわけではない、ということです。そこで問題となるのは、ボイスマン遺跡の中期新石器時代個体群のゲノムが、「縄文人」的な遺伝的構成要素なしでもモデル化できることです。この場合、モンゴル新石器時代集団に代表されるアジア東部北方的な遺伝的構成要素(71%)とアジア東部南方沿岸部的な遺伝的構成要素(29%)の混合とモデル化されており、「縄文人」はアジア東部南方沿岸部的な遺伝的構成要素(46%)とアンダマン諸島のオンゲ人集団と相対的に近い初期ユーラシア東部集団的な遺伝的構成要素(54%)の混合でモデル化されています(Huang et al., 2022)。Huang et al., 2022では、ユーラシア東部系集団が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部南方沿岸部)に分岐した、と推測されています。つまり、ボイスマン遺跡の中期新石器時代個体群のゲノムは、「縄文人」的な遺伝的構成要素を含んでいるのではなく、「縄文人」と比較的近い過去に祖先集団を共有していたらか、とも解釈できるわけです。
同様のことは、現代日本人の平均よりもやや多い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化された朝鮮半島南岸の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡の前期新石器時代個体(Robbeets et al., 2021)にも言えます。以前の研究で「縄文人」とユーラシア東部沿岸集団との類似性が報告されたこと(Yang et al., 2020)も踏まえると、Huang et al., 2022のモデルは現時点で最も実際のユーラシア東部の人口史に近いかもしれません。その意味で、本論文が朝鮮半島南岸の新石器時代個体のゲノムの一部を、「縄文人」的ではなく「古代アジア東部沿岸集団」的な遺伝的構成要素として把握したのは、Robbeets et al., 2021よりも適切かもしれません。ただ、朝鮮半島南岸の欲知島遺跡の後期新石器時代個体とボイスマン遺跡の中期新石器時代の外れ値の1個体は、それぞれ95%(Robbeets et al., 2021)と30%(Wang et al., 2023)程度の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できるので、とくに欲知島遺跡の後期新石器時代個体については、日本列島からの「縄文人」の直接的到来と遺伝的影響(95%よりはずっと少ない割合としても)を想定すべきかもしれません。
本論文で提示される日本列島の弥生時代の人類集団の遺伝的構成は多様で、弥生時代の人類集団の遺伝的多様性(関連記事)が改めて示されています。さらに言えば、弥生時代には青谷上寺遺跡のように1ヶ所の遺跡で遺伝的多様性を示す事例も確認されています(神澤他.,2021a)。また、種子島では日本列島の多くの地域が古墳時代を迎えても、「縄文人」的な遺伝的構成要素のみでモデル化できる個体が存在していたようで、日本列島における現在のような遺伝的構成が古墳時代でもまだ確立していなかったことを示唆しています。弥生時代以降の日本列島における遺伝的構成要素として、「縄文人」的なものとともに西遼河系的なものを想定する本論文の見解との関連で注目されるのは、古墳時代に弥生時代とは異なる遺伝的構成要素が日本列島にもたらされ、それが現代日本人集団では大きな影響を有している、と推測した研究(Cooke et al., 2021)です。Cooke et al., 2021では、現代日本人集団の主要な遺伝的構成要素は「縄文」と「アジア北東部」と「アジア東部」で、縄文時代には「縄文」のみが存在し、弥生時代に「アジア北東部」が、古墳時代に「アジア東部」がもたらされた、と推測されています。
一方で、これら主要な3種類の遺伝的構成要素について、「縄文」と「アジア北東部」および「アジア東部」との違いと比較して、「アジア北東部」と「アジア東部」の違いはずっと小さくなっています。本論文で弥生時代の人類集団の祖先としてモデル化されている西遼河地域の人類集団について、経時的な遺伝的構成の変化が指摘されていることも踏まえると(Ning et al., 2020)、弥生時代、さらには古墳時代以降の日本列島の人類集団の遺伝的構成の起源と形成過程はかなり複雑だったとも考えられ、解明は容易ではなさそうです。アジア北東部の完新世人類集団の遺伝的構成は、地理を反映して一方の極(北方)にアムール川流域、もう一方の極(南方)に黄河流域があり、西遼河地域はその中間的特徴と経時的変容を示します(Ning et al., 2020)。これはその後の研究(Robbeets et al., 2021)でも改めて示されていますが、黄河流域新石器時代集団的な遺伝的構成要素の割合は、紅山文化から夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化では高くなり、その後の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では低下しています。
西遼河もしくはその周辺地域で夏家店上層文化以降も同様の遺伝的変容が起きたならば、弥生時代以降の日本列島、さらには後期新石器時代以降の朝鮮半島における人類集団の遺伝的構成の変容は、単調なものではなく複雑なものだった可能性が高そうです。Cooke et al., 2021では、弥生時代集団は現代日本人集団の平均よりずっと高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素と残りのアジア北東部的な遺伝的構成要素で、古墳時代集団はアジア東部的な遺伝的構成要素の大きな割合の流入によりモデル化されており、古墳時代に現代日本人集団の遺伝的構成が形成された、と推測しています。一方で、Cooke et al., 2021が弥生時代集団の代表としたのは、「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合が現代日本人集団の平均よりずっと高い下本山岩陰遺跡の2個体で、本論文でも取り上げられている、下本山岩陰遺跡の2個体よりずっと低い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できる安徳台遺跡個体は検証されていません。
また、古墳時代については、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体が存在することは、日本列島では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆しています。
これらを踏まえると、西遼河もしくはその周辺地域において経時的な人類集団の遺伝的構成の変容があり、それが朝鮮半島、さらには日本列島にも波及し、Cooke et al., 2021が想定したように、日本列島において弥生時代以降に到来した人類集団の遺伝的構成は、時期により大きな違いがあった可能性も考えられます。朝鮮半島における人類集団の遺伝的構成の変容について確証はありませんが、網羅率が低く信頼性に欠けるとはいえ、青銅器時代のTaejungni個体のPCAでの位置づけ(Robbeets et al., 2021)から推測すると、朝鮮半島において紀元前千年紀に人類集団の遺伝的構成の大きな変容が起きた可能性も考えられ、それは、朝鮮半島において朝鮮語系統の言語が紀元前5世紀頃に到来した、と推測する言語学も踏まえた考古学的知見(Miyamoto., 2022)とも整合的かもしれません。また、本論文でも他の研究(Gelabert et al., 2022)でも、三国時代の人類集団にも存在した古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素(他の研究では「縄文人」的な遺伝的構成要素)は、朝鮮半島南岸において新石器時代からずっと継続していた、と推測されていますが、こうした遺伝的構成要素が一旦朝鮮半島で失われ、弥生時代もしくは古墳時代以降に日本列島からもたらされた可能性もあるとは思います。
本論文が依拠した研究(Robbeets et al., 2021)については、弥生時代以降に日本列島にもたらされた遺伝的構成要素について、夏家店上層文化集団でモデル化としているものの、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体的な遺伝的構成要素と夏家店上層文化個体的な遺伝的構成要素は朝鮮半島および日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、夏家店上層文化個体的な遺伝的構成要素を選択的に割り当てられた集団は、その代わりに紅山文化的な遺伝的構成要素でも説明できる、と批判されています(Tian et al., 2022)。
こうした批判も踏まえると、弥生時代以降の日本列島の人類集団の遺伝的構成の起源と形成はかなり複雑だった可能性が高そうです。弥生時代の比較的早い段階で日本列島に到来した人類集団は、西遼河もしくはその周辺地域起源で、朝鮮半島から日本列島に到来したのでしょうが、その後に朝鮮半島では西遼河もしくはその周辺地域起源の異なる遺伝的構成の集団が到来し、在来集団と遺伝的に混合しつつ拡散し、一部が日本列島に到来したのではないか、と現時点では考えています。つまり、弥生時代早期に朝鮮半島から日本列島に到来した人類集団と、古墳時代、もしくは弥生時代のある時点以降に日本列島に到来した人類集団とでは遺伝的構成が異なっており、それが現代日本人集団の遺伝的構成に反映されているのではないか、というわけです。この仮説の検証には、今よりも多くの一定以上の品質の日本列島と朝鮮半島と西遼河地域も含めて中国の広範な地域の古代ゲノムデータが必要となるでしょう。
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Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909
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https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000021
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
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この記事へのコメント
弥生時代中期の群馬県八束脛洞窟遺跡、古墳時代の鹿児島県種子島上浅川遺跡で
ゲノムが縄文100%の個体が出ているらしいです
少なくとも古墳時代になっても縄文100%が居たみたいですね
古代ヤマト政権から土蜘蛛や侏儒と呼ばれた人々だったのでしょうか
彼等の話していた言語が気になります
一方古代蝦夷の勢力圏である山形県戸塚山古墳および福島県灰塚山古墳に埋葬されていた地域首長は現代日本人とゲノムがほぼ同じ渡来系の人達でしたので
単純に蝦夷=縄文系という訳でもないようですね
以前から、東方地方の一部の弥生時代人骨のゲノムがほぼ完全に「縄文人」的構成要素でモデル化できることは、篠田謙一氏の著書で指摘されていましたが、弥生時代はもちろん古墳時代も、日本列島の人類集団は遺伝的にかなり多様だったようで、ユーラシア大陸部の古代ゲノムデータも含めた通時的で総合的な日本列島人類史の遺伝学的研究が期待されます。