Valerie Hansen『西暦一〇〇〇年 グローバリゼーションの誕生』
ヴァレリー・ハンセン(Valerie Hansen)著、赤根洋子訳で、文藝春秋社より2021年5月に刊行されました。原書の刊行は2020年です。電子書籍での購入です。本書は、紀元後1000年頃(以下、年代について明記しない場合は紀元後です)には、16世紀や現代とはもちろん異なるものの、すでに「グローバリゼーション」が生まれていた、と主張します。確かに、たとえばアラビア半島からアジア南部とアジア南東部を経てアジア東部にいたる、ユーラシア南部沿岸の海上交易路を考えると、すでに1000年頃に「グローバリゼーション」は存在していた、とも言えるかもしれませんが、具体的に当時の世界がどのようにつながっていたのか、という関心から本書を読みました。
本書は、1000年頃の「グローバリゼーション」は地域間移動の活発化で、それは新技術によりもたらされたのではなく、余剰農産物による人口増加にあった、と指摘します。この背景として、ヨーロッパでは温暖化があったようですが、地球全体がこの時期に温暖化したわけではなさそうです。当時の世界全体の人口は2億5千万人程度と推定されており、現在の中国や日本やインドやインドネシアを含むアジア地域の人口が最多で、その推定人口は1億5千万人程度です。
本書の「グローバリゼーション」は、ユーラシアとアフリカだけではなく、アメリカ大陸も対象としています。ヴァイキング(本書はヨーロッパ北部の人々のうち略奪を行なっていた人々だけをヴァイキングと呼び、その他の人々をノース人と呼びます)が1000年頃にアメリカ大陸に到達していたことは、今では広く認められていると思います。最近の研究では、1021年にヴァイキング(ノース人)が北アメリカ大陸で活動していた、と示されています(関連記事)。本書は、これにより地球規模のつながりがその時に生まれた、と評価します。ただ本書は、ノース人とアメリカ大陸先住民との接触による長期的な影響は限定的だったとしており、やはり15世紀末以降のヨーロッパとアメリカ大陸との関係と比較するとその規模はかなり見劣りする感は否めません。
また本書は、チチェン・イッツァの壁画に描かれた白い肌で金髪の捕虜がマヤ人に捕らわれたノース人だった可能性も指摘します。ノース人が到来した頃のアメリカ大陸において、マヤ文化圏と北アメリカ大陸の間に交易があり、南アメリカ大陸でも交易圏が形成されていたことを、本書は指摘します。すでに15世紀末のずっと前にアメリカ大陸には大規模な交易圏が成立しており、15世紀末以降になって、アメリカ大陸の交易路とヨーロッパの交易路がつながれた、というわけです。ノース人が1000年頃にはアメリカ大陸に到達していたとしても、アラスカはともかくとしてアメリカ大陸は全体的に他の大陸から孤立しており、ここはやはり1000年頃の「グローバリゼーション」との主張の弱いところだとは思います。
ノース人は東方へも向かい、ルーシ人と呼ばれてヨーロッパ東部ではスラヴ系集団に同化し、大きな交易圏を構築していくとともに、ノース人の影響を受けてロシアの祖型もこの頃に形成されていきます。本書はとくに、ヨーロッパ東部がキリスト教圏となったことを重視していますが、これは、1000年頃にその後の宗教分布の大枠が定まった、との大きな見通しの中に位置づけられています。たとえば、この頃にアジア中央部とアジア南部北方とアフリカの東西にイスラム教が拡散していきます。また、本書がキリスト教への改宗を重視するのは、支配者側にとっての利益として、聖職者の能力を統治に活かせるからで、国家運営に役立った、というわけです。
サハラ砂漠以南のアフリカは、本書では言及が比較的少ないものの、イスラム教の拡大とも関連して広大な交易圏により深く組み込まれていったことが指摘されています。サハラ砂漠以南ではありませんが、アフリカ北部については、本書でカイロの繁栄が重視されていることは注目されます。エジプトの歴代の政治的中心地の多くは海路よりずっと南方にあり、カイロの繁栄は、イスラム教の拡大とサハラ砂漠以南も含めてアフリカに張り巡らされた新たな交易路の賜だった、と本書は指摘します。カイロはまず、シーア派のファーティマ朝の首都として繁栄し始めました。アフリカに張り巡らされた交易路は、後にヨーロッパ人が掌握していき、ヨーロッパ人はそこからアジア東方へと交易圏と勢力を拡大していきます。そのアジア東方でも同様ですが、ヨーロッパ人は既存の交易路を利用していくやり方で、やがて世界の覇権を掌握します。
アジア中央部では、上述のように1000年頃にイスラム教が拡散していきましたが、仏教を信仰した勢力もあり、アジア中央部(というかアジア内陸部もしくはアジア内陸草原地帯と言うべきでしょうか)は現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区のあたりで西方のイスラム教圏と東方の仏教圏とに分かれた、と本書は指摘します。本書の指摘でさらに重要なのは、この両宗教圏ではそれぞれ知的交流が盛んだったものの、両宗教圏の間では、文字の違いもあって、学者が相互に密に学びあったり、書籍が頻繁に行きかったりすることがなかった、ということです。ただ、政治および経済的関係は両宗教圏でも当然ありました。アジア中央部では優秀な騎馬兵を有する勢力が、ユーラシア大陸横断の交易路を開拓していき、物資だけではなく、数学や暦法など最新の専門知識もこの経路で広まっていきました。アジア中央部には優秀な騎馬兵が多いので、ヨーロッパ東部やアフリカとともに、イスラム教圏への奴隷のおもな供給源となりました。また本書の指摘で注目されるのは、当時の仏教圏において末法の世がいつ到来するのかについて、キタイ(契丹、遼)と日本では1052年と考えられていたのに、宋ではよりも500年ほど早いと想定されていたこことから、日本とキタイの僧侶間で密接な関係があったのではないか、と推測されていることです。
アジア南部および南東部は、すでにこの時代にはアラビア半島とアジア東部をつなぐ重要な海上交易路の一部として機能していたことは、比較的知られているように思います。本書では、中国の職人がアッバース朝の消費者用にアラビア製に似せた陶磁器を製作していた事例も消化されています。この地域の貿易の特徴として本書で挙げられているのは、イスラム教圏ほど長距離奴隷貿易が大規模ではなかったことです。1000年頃のアジア南東部の政治的特徴としては、仏教やヒンドゥー教の重要な役割と巨大寺院の建造が挙げられており、そうした社会統治様式が本書では「寺院国家」と呼ばれています。アジア南東部の交易では、1000年頃以降、インド商人に対して中国商人が次第に優位に立っていき、主要な輸出先が中国へと変わります。また本書では、太平洋のハワイ諸島やニュージーランドやイースター島からアフリカ沿海のマダガスカル島まで、オーストロネシア語族話者の大規模な海上拡散も取り上げられています。マダガスカル島の現代人は、遺伝的にはオーストロネシア語族話者系とサハラ砂漠以南のアフリカ系の混合と示されています(関連記事)。
アジア東部に関して本書ではおもに中国が取り上げられており、「グローバリゼーション」の反映として、泉州や広州の「外国人」の出身地が多様だった、と示されていますが、日本への言及も少なからずあり、1000年頃の日本の宮廷で用いられていた香料が「グローバリゼーション」の産物だった、と指摘されています。当時の日本も「グローバリゼーション」に組み込まれていた、というわけです。この頃に「グローバリゼーション」とも深く関連している技術革新が中国で起き、それは航海で羅針盤が用いられるようになったことです。イスラム教圏で広く使用されていたアストロラーベなど他の航海計器とは異なり、羅針盤はどんな天候でも使用できることが画期的でした。この時代の中華王朝だった宋は12世紀前半に華北を失い、存亡の危機にあったさいには、アジア南東部との交易に財政を依存したことが指摘されています(歳入に占める貿易税の割合が最高で20%)。ただ、宋(南宋)の支配が安定すると、歳入に占める貿易税の割合は北宋滅亡前と同程度の5%に戻ったそうです。
本書はこのように1000年頃の「グローバリゼーション」と、それがさらに発展していき、後のヨーロッパ人による世界規模の覇権掌握の前提となったことを説きます。確かに、この時代にアフリカとユーラシアにおいて人間と物資と知識の長距離移動があったことは確かで、モンゴル帝国の拡大もそうした「グローバリゼーション」が前提になっていたようにも思います。ただ、アメリカ大陸と他の大陸との関係が15世紀末以降と比較して甚だ貧弱だったことも否定できず、この点で1000年頃の「グローバリゼーション」との評価が妥当なのか、疑問も残るところです。それでも、1000年頃の世界が各文化(宗教)圏で孤立していたのではなく、人間と物資と知識の長距離移動があったことや、「グローバリゼーション」により現代と同様に「勝者」と「敗者」が生まれ、「グローバリゼーション」への反抗が起きたことなどを、本書はさまざまな地域の事例から示しており、「グローバルヒストリー」として迫力のある一冊になっているように思います。
参考文献:
Hansen V.著(2021)、赤根洋子訳『西暦一〇〇〇年 グローバリゼーションの誕生』(文藝春秋社、原書の刊行は2020年)
本書は、1000年頃の「グローバリゼーション」は地域間移動の活発化で、それは新技術によりもたらされたのではなく、余剰農産物による人口増加にあった、と指摘します。この背景として、ヨーロッパでは温暖化があったようですが、地球全体がこの時期に温暖化したわけではなさそうです。当時の世界全体の人口は2億5千万人程度と推定されており、現在の中国や日本やインドやインドネシアを含むアジア地域の人口が最多で、その推定人口は1億5千万人程度です。
本書の「グローバリゼーション」は、ユーラシアとアフリカだけではなく、アメリカ大陸も対象としています。ヴァイキング(本書はヨーロッパ北部の人々のうち略奪を行なっていた人々だけをヴァイキングと呼び、その他の人々をノース人と呼びます)が1000年頃にアメリカ大陸に到達していたことは、今では広く認められていると思います。最近の研究では、1021年にヴァイキング(ノース人)が北アメリカ大陸で活動していた、と示されています(関連記事)。本書は、これにより地球規模のつながりがその時に生まれた、と評価します。ただ本書は、ノース人とアメリカ大陸先住民との接触による長期的な影響は限定的だったとしており、やはり15世紀末以降のヨーロッパとアメリカ大陸との関係と比較するとその規模はかなり見劣りする感は否めません。
また本書は、チチェン・イッツァの壁画に描かれた白い肌で金髪の捕虜がマヤ人に捕らわれたノース人だった可能性も指摘します。ノース人が到来した頃のアメリカ大陸において、マヤ文化圏と北アメリカ大陸の間に交易があり、南アメリカ大陸でも交易圏が形成されていたことを、本書は指摘します。すでに15世紀末のずっと前にアメリカ大陸には大規模な交易圏が成立しており、15世紀末以降になって、アメリカ大陸の交易路とヨーロッパの交易路がつながれた、というわけです。ノース人が1000年頃にはアメリカ大陸に到達していたとしても、アラスカはともかくとしてアメリカ大陸は全体的に他の大陸から孤立しており、ここはやはり1000年頃の「グローバリゼーション」との主張の弱いところだとは思います。
ノース人は東方へも向かい、ルーシ人と呼ばれてヨーロッパ東部ではスラヴ系集団に同化し、大きな交易圏を構築していくとともに、ノース人の影響を受けてロシアの祖型もこの頃に形成されていきます。本書はとくに、ヨーロッパ東部がキリスト教圏となったことを重視していますが、これは、1000年頃にその後の宗教分布の大枠が定まった、との大きな見通しの中に位置づけられています。たとえば、この頃にアジア中央部とアジア南部北方とアフリカの東西にイスラム教が拡散していきます。また、本書がキリスト教への改宗を重視するのは、支配者側にとっての利益として、聖職者の能力を統治に活かせるからで、国家運営に役立った、というわけです。
サハラ砂漠以南のアフリカは、本書では言及が比較的少ないものの、イスラム教の拡大とも関連して広大な交易圏により深く組み込まれていったことが指摘されています。サハラ砂漠以南ではありませんが、アフリカ北部については、本書でカイロの繁栄が重視されていることは注目されます。エジプトの歴代の政治的中心地の多くは海路よりずっと南方にあり、カイロの繁栄は、イスラム教の拡大とサハラ砂漠以南も含めてアフリカに張り巡らされた新たな交易路の賜だった、と本書は指摘します。カイロはまず、シーア派のファーティマ朝の首都として繁栄し始めました。アフリカに張り巡らされた交易路は、後にヨーロッパ人が掌握していき、ヨーロッパ人はそこからアジア東方へと交易圏と勢力を拡大していきます。そのアジア東方でも同様ですが、ヨーロッパ人は既存の交易路を利用していくやり方で、やがて世界の覇権を掌握します。
アジア中央部では、上述のように1000年頃にイスラム教が拡散していきましたが、仏教を信仰した勢力もあり、アジア中央部(というかアジア内陸部もしくはアジア内陸草原地帯と言うべきでしょうか)は現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区のあたりで西方のイスラム教圏と東方の仏教圏とに分かれた、と本書は指摘します。本書の指摘でさらに重要なのは、この両宗教圏ではそれぞれ知的交流が盛んだったものの、両宗教圏の間では、文字の違いもあって、学者が相互に密に学びあったり、書籍が頻繁に行きかったりすることがなかった、ということです。ただ、政治および経済的関係は両宗教圏でも当然ありました。アジア中央部では優秀な騎馬兵を有する勢力が、ユーラシア大陸横断の交易路を開拓していき、物資だけではなく、数学や暦法など最新の専門知識もこの経路で広まっていきました。アジア中央部には優秀な騎馬兵が多いので、ヨーロッパ東部やアフリカとともに、イスラム教圏への奴隷のおもな供給源となりました。また本書の指摘で注目されるのは、当時の仏教圏において末法の世がいつ到来するのかについて、キタイ(契丹、遼)と日本では1052年と考えられていたのに、宋ではよりも500年ほど早いと想定されていたこことから、日本とキタイの僧侶間で密接な関係があったのではないか、と推測されていることです。
アジア南部および南東部は、すでにこの時代にはアラビア半島とアジア東部をつなぐ重要な海上交易路の一部として機能していたことは、比較的知られているように思います。本書では、中国の職人がアッバース朝の消費者用にアラビア製に似せた陶磁器を製作していた事例も消化されています。この地域の貿易の特徴として本書で挙げられているのは、イスラム教圏ほど長距離奴隷貿易が大規模ではなかったことです。1000年頃のアジア南東部の政治的特徴としては、仏教やヒンドゥー教の重要な役割と巨大寺院の建造が挙げられており、そうした社会統治様式が本書では「寺院国家」と呼ばれています。アジア南東部の交易では、1000年頃以降、インド商人に対して中国商人が次第に優位に立っていき、主要な輸出先が中国へと変わります。また本書では、太平洋のハワイ諸島やニュージーランドやイースター島からアフリカ沿海のマダガスカル島まで、オーストロネシア語族話者の大規模な海上拡散も取り上げられています。マダガスカル島の現代人は、遺伝的にはオーストロネシア語族話者系とサハラ砂漠以南のアフリカ系の混合と示されています(関連記事)。
アジア東部に関して本書ではおもに中国が取り上げられており、「グローバリゼーション」の反映として、泉州や広州の「外国人」の出身地が多様だった、と示されていますが、日本への言及も少なからずあり、1000年頃の日本の宮廷で用いられていた香料が「グローバリゼーション」の産物だった、と指摘されています。当時の日本も「グローバリゼーション」に組み込まれていた、というわけです。この頃に「グローバリゼーション」とも深く関連している技術革新が中国で起き、それは航海で羅針盤が用いられるようになったことです。イスラム教圏で広く使用されていたアストロラーベなど他の航海計器とは異なり、羅針盤はどんな天候でも使用できることが画期的でした。この時代の中華王朝だった宋は12世紀前半に華北を失い、存亡の危機にあったさいには、アジア南東部との交易に財政を依存したことが指摘されています(歳入に占める貿易税の割合が最高で20%)。ただ、宋(南宋)の支配が安定すると、歳入に占める貿易税の割合は北宋滅亡前と同程度の5%に戻ったそうです。
本書はこのように1000年頃の「グローバリゼーション」と、それがさらに発展していき、後のヨーロッパ人による世界規模の覇権掌握の前提となったことを説きます。確かに、この時代にアフリカとユーラシアにおいて人間と物資と知識の長距離移動があったことは確かで、モンゴル帝国の拡大もそうした「グローバリゼーション」が前提になっていたようにも思います。ただ、アメリカ大陸と他の大陸との関係が15世紀末以降と比較して甚だ貧弱だったことも否定できず、この点で1000年頃の「グローバリゼーション」との評価が妥当なのか、疑問も残るところです。それでも、1000年頃の世界が各文化(宗教)圏で孤立していたのではなく、人間と物資と知識の長距離移動があったことや、「グローバリゼーション」により現代と同様に「勝者」と「敗者」が生まれ、「グローバリゼーション」への反抗が起きたことなどを、本書はさまざまな地域の事例から示しており、「グローバルヒストリー」として迫力のある一冊になっているように思います。
参考文献:
Hansen V.著(2021)、赤根洋子訳『西暦一〇〇〇年 グローバリゼーションの誕生』(文藝春秋社、原書の刊行は2020年)
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