千年紀のバルカン半島の人口史
古代ゲノムデータに基づく千年紀(以下、明記しない場合の年代は紀元後です)のバルカン半島の人口史に関する研究(Olalde et al., 2023)が公表されました。本論文は、ローマ帝国の「辺境」だったバルカン半島が、ローマ帝国からの広範な軍事化と文化的影響にも関わらず、イタリア半島系の遺伝的影響をほぼ受けておらず、帝政期にはアナトリア半島系からの大規模な遺伝的影響を受けた、と示します。また、ゴート人などいわゆる民族大移動期に大きな影響を残した集団について、民族的には多様な連合だった可能性を本論文は指摘します。スラヴ語派話者の到来はローマの支配の終焉後だったようで、バルカン半島の現代人のゲノムに30~60%ほど寄与するような大規模な移住だった、と本論文では推測されています。やはり、ヨーロッパの古代ゲノム研究は他地域よりも進んでおり、日本列島も含めてユーラシア東部圏の地域でも、同様の水準の研究が進展するよう、期待されます。
●要約
ローマ帝国の興亡は、人類史への巨大な結果を伴う社会政治的過程でした。ドナウ川中流は重要な辺境地で、人口集団および文化の移動にとっての十字路でした。本論文は、千年紀のバルカン半島の136個体のゲノム規模データを提示します。広範な軍事化と文化的影響にも関わらず、イタリア系の人々からの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の寄与はほとんど見つかりませんでした。しかし、帝政期にはアナトリア半島祖先系統の人々の大規模な流入が見られます。250~550年頃の間に、ヨーロッパ中央部/北部および草原地帯からの祖先系統を有する移民が検出され、「蛮族」の移住が民族的に多様な連合により推進された、と確証されました。ローマの支配の終焉後には、現代のヨーロッパ東部のスラヴ語派話者人口集団と遺伝的に類似した個体群の大規模な到来が検出されます。この新たに到来した個体群はバルカン半島の人々の祖先系統の30~60%に寄与し、移動期のヨーロッパにおける最大の恒久的人口統計学的変化の一つを表しています。
●研究史
2世紀の最盛期には、ローマ帝国は東方ではメソポタミアとアラビア半島から西方ではブリテン島まで、北方ではライン川とドナウ川から南方ではサハラ砂漠にまで広がっていました。ローマ帝国による西方のブリテン島から東方のエジプトの砂漠までの資源の大規模な採取と動員は、強制と合意両方の過程を経てヒトの移動を活気づけ、この広大な地域全体の人口を効率的に再編成しました。
バルカン半島は東西の地中海文化の歴史的十字路で、北方からはヨーロッパ大陸、南方からは地中海の影響を受けてきました。1~6世紀にかけて、現在のクロアチアとセルビアにおけるローマ帝国のドナウ川中流域辺境は、辺境の北方に暮らす人口集団との貿易および対立および交流地帯でした。この地域は重要な鉱物資源の富の供給源と、海からシュヴァルツヴァルト(Black Forest)をつなぐ軍隊および通信施設の2000kmにわたる回廊における要所でした。千年紀初頭にローマの支配が確立した後で、バルカン半島地域はしだいに都市化し、文化的に「ローマ化」しました。268~610年頃の間には、ローマ皇帝の半数以上がドナウ川中流出身の家系に属していました。
古代末期には、バルカン半島にゴート人(Goth)やフン人(Hun)やゲピド人(Gepid)やアヴァール人(Avar)やヘルール人(Herul)やランゴバルド人(Lombard)やスラヴ人(Slav)など、歴史資料により分類された多くの侵略集団が到来しました。非ローマ人も、辺境北部全域の人々からローマ軍に募集されることが増えました。さまざまなゲルマン人集団がドナウ川流域に居住しており、一部の古代末期の文化的人工遺物(およびそれと関連するヒト遺骸)は、「ゲルマン人」関連の影響とされてきました。それにも関わらず、ローマ帝国は6世紀後半までこの辺境地帯のある程度の支配を維持しました。
しかし、6世紀後半~7世紀にかけて、ローマ帝国(約1000km離れたコンスタンティノープルから支配)が疫病の大流行と環境・政治・軍事的変化に直面するにつれて、この辺境に対するローマの支配は失われました。バルカン半島におけるローマ帝国の覇権の終焉は歴史的記録で斑状に証明されているさらなる人口移動と一致しており、それにはスラヴ人の到来も含まれ、バルカン半島へのスラヴ人の移住は、ローマ後のブリテン島におけるゲルマン人集団の到来とよく似ており、とくに永続的な影響を及ぼすのに充分なほどで、これは現在バルカン半島で広く話されている南スラヴ語群に反映されています。現在の人口集団におけるスラヴ関連祖先系統は遠くペロポネソス半島(現在のギリシアにおけるバルカン半島の南端)まで特定されてきましたが、バルカン半島全体にわたる恒久的な人口統計学的影響の程度と時期と特徴は、さほど理解されてきませんでした。
歴史家は地政学や制度や文化や経済を通じてローマ帝国主義を研究してきましたが、ローマ帝国の構成領域の人口史への影響は、ようやく古代DNAの回収と解析を通じて理解されるようになりつつあります。古代DNAは、じゅうらいの考古学および文献の証拠を補完するか、異議を唱えるかもしれず、移動がこれまでエリート支配の資料ではほぼ不可視だった社会的集団を含めて、個体の歴史と人口変化の過程への直接的な洞察を提供します。じっさい、考古学的研究は、流動性と混合を促進する、ローマ帝国の顕著な能力文書記録に保存された兆しを確証し始めました。
たとえば、イングランド北部の古代にはエボラクム(Eboracum)と呼ばれていたローマン・ヨーク(Roman York)は、現代の中東の人口集団との類似性を示しており(関連記事)、高い割合のアフリカ北部祖先系統を有する個体群がイベリア半島南部で発見されました(関連記事)。帝政期におけるローマの後背地で発見された48個体の骨格の研究では、ローマ帝国の最盛期には、遺伝的祖先系統がそれ以前の期間よりも不均一になっていき、近東人口集団へと動き(関連記事)、同様に劇的な変化がイタリア中央部へと深く広がった(関連記事)、と示されました。考古学的DNAは、アングロサクソン人のイングランド(関連記事)からランゴバルド人のイタリア(関連記事)まで、ローマ期の後のヨーロッパにおける移住と人口変化の時期と性質と程度の追跡にも使用されています。ドナウ川中流の辺境はローマ帝国にとって重要な軸で、考古遺伝学的データを用いて体系的に特徴づけられてきました。
ローマ帝政期の前期(1~250年頃)および後期(250~550年頃)とローマ期後(550~1000年頃)におけるバルカン半島(アドリア海と地中海中央部とエーゲ海、北方はドナウ川中流および下流とサヴァ川により区切られます)の人口史を調べるため、現在のクロアチアとセルビアの古代人136個体およびオーストリアとチェコ共和国とスロヴァキアの古代人6個体の新たなゲノムデータが、その埋葬の考古学的文脈に関する情報とともに提示されます。このデータセットは、スラヴ語派の到来および現代のバルカン半島の人口集団の形成と関連している可能性が高い変化を含む、重要な辺境地帯の人口動態への洞察を供給します。
●データ生成
バルカン半島の古代人146点の標本からDNAが抽出され、そのうち136個体において、約123万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)の「124万」パネル、もしくは143万のSNPの拡張一式を標的とした「より合わせ」パネルで、溶液内混成濃縮ゲノム規模データが得られました。これらの個体は、さまざまな地域と考古学的文脈を表す、20ヶ所の異なる遺跡(図1A・B)から発掘されました。以下は本論文の図1です。
その内訳は、まず、ムラヴァ川とドナウ川の合流点に位置するローマ上モエシア(Upper Moesia)州の州都である現在のセルビアのコストラク(Kostolac)となるヴィミナシウム(Viminacium)遺跡では、6ヶ所の異なるネクロポリス(大規模共同墓地)から57個体です。次に、現在のクロアチアでは、アドリア海沿岸に位置する現在のザダル(Zadar)にあるヤダル(Iader)、アドリア海からドナウ川に至るパンノニア街道に位置する現在のオシエク(Osijek)にあるムルサ(Mursa)のようなローマ植民市です。次に、クロアチアの現在のガルドゥン(Gardun)にあるティルリウム(Tilurium)やセルビアの現在のラヴナ(Ravna)にあるティマクム・ミヌス(Timacum Minus)軍事要塞地です。最後に、クロアチアのジャゴドヤク(Jagodnjak)やヌスター・ドヴォラク(Nuštar-Dvorac)のような中世前期のネクロポリスです。結果を地理的および時間的文脈に位置づけるため、現在のオーストリアとチェコ共和国とスロヴァキアの中世前期ヨーロッパ中央部の6個体、および現代セルビア人から得られたアフィメトリクス(Affymetrix)社ヒト起源(Affymetrix Human Origins、略してAHO)SNP配列データから得られたゲノム規模データと、38点の新たな放射性炭素年代が生成されました。
ゲノム規模分析では、2万未満のSNPおよび/もしくは汚染の証拠のある新たに報告された13個体が除外され、現在のクロアチアとアルバニアと北マケドニアとギリシアとルーマニアとブルガリアの以前のに報告されたゲノムデータのある15個体が含められ、合計でほぼ1~1000年頃となるバルカン半島の138個体(図1A・B)が分析されました。
●高い祖先系統の不均一性
バルカン半島の138個体を研究するため、この138個体と関連する期間および地域の他の古代の個体群の投影により、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が、AHO配列で遺伝子型決定されたユーラシア西部(West-Eurasian、略してWE)の現代人1036個体で計算された軸へと実行されました。
このデータの収容な特徴は、主成分1(PC1)沿いに走る2つの平行な遺伝的勾配の存在です(図1C)。一方は本論文では「青銅器時代~鉄器時代バルカン半島勾配」と呼ばれ、近東人により近い右端で南方(エーゲ海)の青銅器時代(Bronze Age、BA)および鉄器時代(Iron Age、略してIA)集団(PC1ではより大きい値)、ヨーロッパ中央部/北部/東部人口集団により近い左端で現代のクロアチアおよびセルビアの北方の青銅器時代および鉄器時代集団を含んでおり(PC1ではより小さい値)、ブルガリアとアルバニアの(Bronze-Iron Age、略してBA-IA)集団はその中間的位置を占めています。
このBA-IA勾配は、鉄器時代勾配と比較して上方に動いている(PC2ではより高い値)ものの、PC1では右側でギリシア人などバルカン半島南部人口集団、左側ではクロアチア人などバルカン半島北部人口集団の同じ地理的パターンを示す、「現在のバルカン半島勾配」と並行しています(図1D)。両勾配【BA-IAバルカン半島勾配と現在のバルカン半島勾配】におけるPC1沿いの同じ地理的パターンの維持は、バルカン半島地域全体における鉄器時代からのある程度の局所的連続性を、過去2000年間に北方から南方へと全ての集団に影響を及ぼした、バルカン半島外から移住の強い影響とともに示しています。現代の国境とは無関係に、本論文の調査地域における全人口集団は、移住と変化の類似の過程により形成されてきました。
本論文の千年紀横断区におけるバルカン半島の個体群は、それ以前のIAバルカン半島人口集団と比較してより高い祖先系統の不均一性を示しており、現在もしくはBA-IAバルカン半島勾配のどちらかに沿って最も広がっています。これは、重要な現在の集団の形成に関わる人口統計学的事象が1000年頃までにすでに起きていたことを示唆しています。残りの個体は2つのバルカン半島遺伝的勾配を超えて図示され、この期間にバルカン半島について人口統計学的供給源として機能する地域に関する証拠を提供する、散発的な長距離移動の事例を表している可能性が高そうです。
本論文のデータセットで観察された高い祖先系統の不均一性を考えると、同じ遺跡およびネクロポリス内でさえ、各個体について別々に祖先系統の割合が推定されます。在来の祖先系統供給源としてバルカン半島IA人口集団、新たに到来した祖先系統の近位供給源として近隣地域のそれ以前および同時代の人口集団で、qpAdmが用いられました。
●アナトリア半島西部からの大規模な流入
1~250年頃の45個体の約半数は、バルカン半島IA集団のみを取り上げたqpAdmモデルと適合でき(図2A)、Y染色体系統(YHg)E1b1b1a1b1a(V13)の高頻度(10個体のうち5個体)により特徴づけられ、これについては、バルカン半島におけるBA-IA拡大を経てきた、と仮定されてきました。これらの個体はヴィミナシウムや現在のクロアチアのトロギル(Trogir)のトラグリウム(Tragurium)およびオシエクのムルサなどローマの町で標本抽出されており、在来のバルカン半島IA人口集団の直接的子孫であることと一致し(図2A)、ローマ社会への在来人口集団の高度の統合が示されます。
バルカン半島における、例外的な数のローマ植民地と、この辺境に沿った大規模な軍事中流にも関わらず、イタリア半島において長く確立してきた人口集団からの祖先系統の寄与はほとんどなく、イタリア半島のBAおよびIAにおいて最も一般的な父系である(関連記事)、YHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)の本論文のバルカン半島横断区でのほぼ完全な欠如により例証されるパターンです。初期の数世紀における火葬の盛行は標本を偏らせるかもしれませんが、2世紀頃に土葬へと移行した後でさえ、イタリア半島の人口集団からの祖先系統の寄与は検出できません。ドナウ川中流域へのローマの文化的影響は深かったものの、本論文の調査結果から、その文化的影響には、少なくともイタリア半島中央部IAの子孫による主要都市からの大規模な人口移動は伴わなかった、と示唆されます。以下は本論文の図2です。
しかし、ローマ帝国はバルカン半島において人口統計学的変化を刺激しました。この初期において、1/3の個体(45個体のうち15個体)がPCAではバルカン半島勾配を超えていますが(図1C)、近東人とは密接で、その祖先系統はおもにアナトリア半島西部のローマ/ビザンツ人口集団に、ある事例ではレヴァント北部集団に由来するものとしてモデル化できます(図2A)。これらの個体のほとんどは4ヶ所のさまざまなヴィミナシウム(現在のセルビアのコストラク)のネクロポリスで発掘されましたが、トラグリウム(現在のクロアチアのトロギル)およびヤダル(現在のクロアチアのザダル)などの他の都市中心部でも発見されました。
アナトリア半島へのひじょうに強い人口統計学的変化は同じ期間のローマとイタリア中央部でも明らかで、おそらくはエフェソス(Ephesus)やコリント(Corinth)やビザンティウム/コンスタンティノープル(Byzantium/Constantinople)などローマ帝国の主要な東方都市中心地に由来する長距離移動を論証し、本論文の結果から、これらの移民はローマ帝国の首都だけではなく、ローマ帝国北方周辺の他の大きな都市にも人口統計学的影響を及ぼした、と示されます。本論文のデータは、この人口統計学的過程の社会的動態に関する洞察も提供します。性比が等しく均衡していたバルカン半島IA祖先系統集団(22個体のうち11個体が女性)とは異なり、完全なアナトリア半島/レヴァント祖先系統の成人12個体に含まれていた女性は2個体だけでした。これは、近東の男性のより大きな寄与を示しますが、性別間の異なる埋葬慣行の結果の可能性もあります。
アナトリア半島祖先系統を有する人々と在来のバルカン半島祖先系統を有する人々は埋葬において空間的に分離されておらず、ほとんどの場合、埋葬慣行もしくは副葬品において文化的にも区別されていませんでした。こうした個体群は混合して同じネクロポリスに埋葬され、リット(Rit)ネクロポリスの墓G-148号のように並んで埋葬されていました(図2D)。しかし、証拠はある程度の社会的階層化も示しているかもしれず、それは、アナトリア半島起源のリットのネクロポリスでは全3個体が例外的に豊富な副葬品を伴って石棺に埋葬されていたからです(図2D)。バルカン半島への移民の主要な供給源は300年頃以後にはアナトリア半島から離れましたが、在来のバルカン半島IA集団の遺産とともに、アナトリア半島関連祖先系統はその後の中世個体群にも混合した形態で平均23%(95%信頼区間では17~29%)持続し(図2A)、これが深く永続的な人口統計学的影響だったことを示唆します。
●サハラ砂漠以南のアフリカとアフリカ北部からの移民
本論文で新たに報告されたデータは、散発的な長距離移動も明らかにしました。2世紀もしくは3世紀に生きていた可能性が高い男性3個体はヨーロッパと近東の変動の範囲外に位置し、現在および古代のアフリカ人に近くなっています。近位qpAdmモデル化はこれらの観察を確証し(図2A)、ヤダルの個体(I26775)とヴィミナシウムのペシネ(Pećine)の個体(I32304)では、それぞれ33%と100%のアフリカ北部祖先系統だったのに対して、ヴィミナシウムのピリヴォジュ(Pirivoj)の個体(I15499)は古代のアフリカ東部人口集団のみを用いてモデル化でき、祖先のアフリカ東部を裏づけ、その片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)、つまりミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L2a1jおよびYHg-E1b1b1a1a1b(V32)と一致し、両者とも現在アフリカ東部において一般的です。
アフリカ東部祖先系統の1個体はユピテル関連のワシの図像を描いた油の灯火とともに埋葬されており(図2C)、これはヴィミナシウムの墓では一般的な発見ではありません。歯根の同位体分析から、この男性個体は子供期の食性習慣に関しても外れ値だった、と示され(図2B)、窒素(N)と炭素(C)について、海洋タンパク質源消費の可能性の高さを示唆するδ¹⁵Nとδ¹³Cの上昇があり、その値がシルミウム(Sirmium)のローマ期人口集団と類似しており、動物性タンパク質消費の大きな割合を伴うほぼC3植物に基づく食性と一致する、ピリヴォジュおよび他のネクロポリスの個体群とは異なります。したがって、この男性個体は生涯の最初の数年を他の場所、おそらくは祖先の地であるアフリカ東部で過ごし、兵士か奴隷か商人か移民としてなのかどうか、その生活史を知ることは決してないものの、ローマ帝国の北部辺境で思春期に死亡するに至る長い旅が含まれていました。
●古代末期における内部移住から外部移住への移行
3世紀もしくは4世紀に始まる、ヨーロッパ中央部/北部の人口集団と関連する祖先系統およびポントス・カザフ草原地帯の人口集団と関連する祖先系統と混合している個体群が観察されます(図4A)。これら2集団瑠依の祖先系統は同じ個体で共存する傾向にあり、バルカン半島への移民の流れにはこれら2供給源の混合だった人々が含まれていたものの、ヨーロッパ中央部/北部祖先系統の寄与なしにポントス・カザフ草原地帯関連祖先系統を36~50%有しているとモデル化できる、ヴィミナシウムのペシネのネクロポリスの同時代の2個体のような一部例外もあった、と示唆されます(図1C)。これらの祖先系統を有する個体群は、ヴィミナシウムのペシネやヴィッセ・グロバルジャ(Više Grobalja)など同じネクロポリスで、おもに在来およびアナトリア半島祖先系統を有する個体群と同様に埋葬されており、放射性炭素年代が重複し、42~52%のバルカン半島IA関連祖先系統を示しました。
対照的に、完全に在来の祖先系統特性の個体群で見つかるY染色体系統(YHg)には、男性9個体のうち2個体のみが属しており、残りの個体は3系統のYHgに属しています。それは、強いヨーロッパ北部の分布を伴うI1およびR1b1a1b1a1a1(U106)と、IAおよび千年紀に草原地帯で一般的だったR1a1a1b2(Z93)です。常染色体とY染色体の兆候間のそうした不一致は、これらの系統からの男児における繁殖の成功について社会的選択に起因する侵入してくる男性系統の存続、および本論文の横断区における混合個体での観察をもたらした、初期ゲルマン人社会について推測されてきた父系社会組織により説明できるかもしれません。これらの祖先系統特性を有する人々は、C4の豊富な植生を示している可能性が高い、ポントス・カザフ草原地帯集団からの祖先系統を有している個体群について、有意に増加したδ¹³C値により示されるように、さまざまな所食いパターンの証拠も示しています。
古代末期のローマ帝国内におけるヨーロッパ中央部/北部祖先系統とポントス・カザフ草原地帯祖先系統の混合を有する個体群の出現は、この期間におけるさまざまな境界を越えての人口集団との遭遇を反映しています。とくに、多くの個体が、ローマ辺境を越えて起きた可能性が高いこれら2供給源間の人口混合の前の過程を反映しており、恐らくは、たとえばゴート人の指導下での多様な連合の形成を示唆しています。さらに、ローマ帝国は3世紀半ば以降にこの辺境の軍事的支配を断続的に失いましたが、これらの祖先系統を有する多くの個体は、この地域のローマ支配の最終的な崩壊のずっと前に、ローマ社会に統合されているように見えることは注目に値します。このパターンは、ドナウ川国境にまたがる激しい相互作用と交流の時代である古代末期のこの地域の人口史における、移住や募集や定住(帝国政府の認可の有無に関わらず)などの過程の重要性を確証します。
3個体のみが、ヨーロッパ中央部/北部集団およびポントス・カザフ草原集団と関連する80%超の祖先系統を有することも注目に値します。おそらく、6世紀に年代範囲が収まる標本の少なさにより、この地域への大規模でおもにゲルマン人集団の直接的移住の重要性が曖昧になっています。しかし同様に、さまざまなゲルマン人集団に属するとして文化的基準により特定された考古学的文脈に属する多くの個体が、在来人口集団との混合過程を反映している、と観察されることも重要です。たとえばコルマディン(Kormadin)では、伝統的にゲピド人の墓地と特定されてきましたが、検証された4個体のうち、完全に在来のIAバルカン半島祖先系統としてモデル化される2個体と、5~7歳の子供1個体を含む、在来のIAバルカン半島祖先系統とヨーロッパ中央部/北部祖先系統とポントス・カザフ草原祖先系統を示す2個体が特定されました。
ヨーロッパ中央部/北部祖先系統とポントス・カザフ草原祖先系統が700年頃以後に消滅した(95%信頼区間で、これら2祖先系統の割合の合計は0~3%)ことも、予想外でした(図4A)。ヨーロッパ中央部/北部祖先系統とヨーロッパ東部祖先系統の間の比較的小さな区別は、ヨーロッパ中央部/北部祖先系統をヨーロッパ東部祖先系統として小さな割合で誤って割り当ててしまうかもしれませんが、この結果は、700年頃以後に生きていた本論文の横断区における男性24個体において、ヨーロッパ中央部/北部およびポントス・カザフ草原祖先系統と明らかに関連するY染色体系統(YHg-I1・R1b1a1b1a1a1・R1a1a1b2)が完全に欠如していること(95%信頼区間でこれらのYHgの頻度は0~12%)により裏づけられます。この欠如は未知の標本抽出の偏りを反映しているかもしれませんが、侵入してきたヨーロッパ中央部/北部集団は在来のIA人口集団と比較して限定的だったかもしれない、および/もしくは、外部への移住や都市化もしくは兵役に起因する死亡率の差などの選択的な人口統計学的過程が、これらの集団の長期にわたって続く人口統計学的影響を防ぐよう、機能した、と示唆されます。
●スラヴ人の移住と現在のバルカン半島の遺伝子プールの形成
700年頃までに、新たな種類の祖先系統が本論文の標本抽出により網羅されるバルカン半島地域全体に出現しました。多様にWE人口集団へのPCA投影(図1C)では、これらの個体はヨーロッパ中央部/北部およびポントス・カザフ草原関連祖先系統を有するそれ以前の集団と同様の位置に収まります。しかし、ヨーロッパ中央部/北部とヨーロッパ東部の人口集団を分離する最近の浮動により敏感なPCA構成で、祖先系統を区別できます(図3A)。700年頃以前のバルカン半島の数個体は現在のヨーロッパ中央部および北部のゲルマン語派話者人口集団の近くに位置し、ヨーロッパ中央部/北部(Central/Northern European、略してCNE)関連祖先系統(CNE_中世前期)を示すランゴバルド人関連墓地の個体群と重なります。
700年頃以後には、古代のバルカン半島横断区において現在のヨーロッパ東部スラヴ語派話者人口集団への明確な変化が観察され、これは現在のバルカン半島人口集団に反映されている変化です(図3A)。したがって、ヨーロッパ東部関連人口集団は700年頃以前と比較して700年頃以後にバルカン半島の個体群とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有しています(図3B)。PCAにおけるヨーロッパ中央部/北部への変化が最も強いバルカン半島個体群と、PCAにおける最も強いヨーロッパ東部への変化のあるバルカン半島の個体群の類似性の違いは、f₄形式(アフリカ古代人、検証対象;ヨーロッパ東部関連、ヨーロッパ中央部/北部関連)のf₄統計を用いることで明らかです(図3B)。
これらの結果を裏づけて、ヨーロッパ中央部/北部集団およびポントス・カザフ草原集団でのqpAdmモデルは、最も強いヨーロッパ東部への変化を有するバルカン半島個体群の集団については適合性が悪く、バルカン半島IA関連とアナトリア半島関連とヨーロッパ東部関連の祖先系統のさまざまな割合でより良好な適合を得ることができました。ヨーロッパ東部関連の代理として、ヨーロッパ中央部/東部(Central/Eastern Europe、略してCEE)のハンガリー西部とチェコ共和国とオーストリア東部とスロヴァキア西部で発掘された中世前期個体群の集団(CEE_中世前期)が用いられました。この集団は現在のヨーロッパ東部スラヴ語派人口集団の差異内に収まり、本論文のデータセットにおいて最も強いヨーロッパ東部関連への変化を有するバルカン半島個体群のひじょうに近くに位置します(図3A)。以下は本論文の図3です。
ヨーロッパ東部祖先系統は古代末期のスラヴ人の移住のずっと前には散発的に存在していた、との証拠が提示されます。じっさい、2世紀もしくは3世紀に死亡し、ヴィッセ・グロバルジャに埋葬された女性1個体は混合していないヨーロッパ東部祖先系統を示し(図4A)、ローマ帝国の動的な経済への小規模な個体の浸透はどのように大規模な移住に先行していた可能性があるのか、という顕著な実例です。本論文のデータセットにおけるヨーロッパ東部祖先系統を有する個体の大半は7~10世紀に出現し、その祖先系統は混合しています(図4A)。スラヴ人の移住は早くも6世紀に始まり、本論文のデータセットはその初期段階を反映していないかもしれませんが、その動態への洞察を提供します。以下は本論文の図4です。
移民だった可能性が高い90%以上のヨーロッパ東部関連祖先系統を有するバルカン半島の7個体のうち、3個体は女性でした。この調査結果は、Y染色体系統の在来と外来、つまりYHg-R1a1a1b1a(Z282)やI2a1a2b(L621)やQ1a2a1(L715)との比率が同程度であることと合わせて、以前の期間と比較してこの期間において作用した異なる社会動態を示唆しています。この期間には、女性と男性が大きく寄与しています。個体水準での、2集団間の相互作用の証拠があります。クロアチアのボジュナ(Bojna)にあるレキンジョヴァ・コサ(Brekinjova Kosa)の要塞化した集落では、770~890年頃の成人男性2個体が同じ細い穴状の遺構に埋葬されており、それは、頭蓋外傷が治癒しており、97%のヨーロッパ東部関連祖先系統を有するより若い個体(I26748)と、バルカン半島IA人口集団に完全に由来する祖先系統を有するより年長の個体(I26749)です。
さらに、クロアチアのヌスター・ドヴォラク遺跡では、90%程度のヨーロッパ東部祖先系統を有する52号墓の女性1個体(I28390)には、標本抽出されていない男性との間に、ヨーロッパ東部祖先系統を64%程度有する50号A墓に埋葬された息子(I34800)がいます。この標本抽出されていない父親は、ヌスター・ドヴォラク遺跡の個体群の主要集団のように、30%程度のヨーロッパ東部祖先系統を有していたに違いなく、盛んな社会的過程の一部を例証できるかもしれない、外来女性の取り込みの直接的事例を論証しています。ティマクム・ミヌスにおけるヨーロッパ南西部祖先系統を有する10世紀の双子1組の発見は、中世ドナウ川における遠く離れた地域からの散発的移動を改めて論証します。
ヨーロッパ東部祖先系統の兆候が現在のバルカン半島およびエーゲ海人口集団に存続しているのかどうか調べるため、ヨーロッパ東部関連祖先系統を有する700年頃以後の古代の個体群で用いられた同じqpAdmを使って、現在の集団のモデル化が試みられました。現在のセルビア人とクロアチア人とブルガリア人とルーマニア人は、ヴィミナシウムのティマクム・ミヌスやトラグリウムやルディネ(Rudine)などのネクロポリスの遺跡の900年頃以後の古代の個体群と類似した祖先組成を示しており、IAバルカン半島人口集団と関連する祖先系統と混合した50~60%程度のヨーロッパ東部関連祖先系統を示し、一部の事例ではローマ期のアナトリア半島からの寄与もあり、過去1000年間にわたるバルカン半島でのかなりの連続性が示唆されます。ヨーロッパ東部の兆候はより南方の現代人集団において大きく減少しますが、ギリシア本土(30~40%)とエーゲ海諸島(4~20%)の人口集団にさえ依然として存在します。これはPCA(図1Cおよび図3A)と以前の遺伝学的研究からの観察を確証し、バルカン半島南部およびエーゲ海地域におけるかなりの人口統計学的影響を示唆しています。
●考察
考古遺伝学的研究は新たな証拠をもたらし、それは、ヒトの先史時代に関する理解を変えつつあり、遺伝学者と考古学者との間の熱心で生産的な対話を促しつつあります。これまでのところ、物質の証拠に加えて文献資料との関わりを必要とする、つまり文字記録のある歴史時代に焦点を当てた研究は比較的少ないままです。歴史物質文化の考古学的研究と遺伝学の情報の「三角測量」は、ヒトの過去の理解に新たな可能性を開き、各証拠が毒殿情報を提供するだけではなく、他の種類の分析に由来する偏りへの対処にも役立ちます。これらの目標を支援するために、補足データS1の1項には、20ヶ所以上の遺跡についての詳細で標準化された歴史学的および考古学的情報が、新たに報告されたゲノムのある各墓の状況データとともに含まれています。歴史学と考古学と遺伝学のデータのこのより深い統合は本論文の解釈に情報を提供しますが、詳細な遺跡と墓の報告は、他の研究で将来の結果が利用可能になったさいに、本論文の再構築を洗練するか、拡張することを可能とします。
本論文で提示されるバルカン半島の千年紀の個体群のゲノム横断区は、ローマ帝国の重要な辺境および東西と南北の永続的な地理的交差点の両方だった地域の長期の人口動態への新たな洞察を提供します。その結果は、歴史時代における継続的な人口変化の重要性と、千年紀全般にわたる社会政治的構造の役割における長期の変化を強調します。ローマの支配期には内部の移動が優勢で、散発的ではあるものの、ローマ帝国の領域外からの長距離移住が増えつつあり、このパターンはその後の数世紀に逆転し、ドナウ川回廊を越えた地域に起源のある人口集団からの相対的により大きな寄与がありました。
大まかには、本論文の結果は、千年紀のこの地域【バルカン半島】における人口史の3段階を示唆しています。第一に、ローマ帝国の盛期(1~250年頃)には、在来のIAバルカン半島人口集団にローマ文化の強い影響が見られました。この過程はイタリア半島由来の祖先系統を有する人口集団からの検出可能な寄与はほとんど伴っていませんが、直接的にもしくはイタリア経由でのアナトリア半島/地中海東部祖先系統の個体群による大きな移住があり、その混合はその後の在来人口集団に長い痕跡を残したでしょう。一方で、軍事化および/もしくは経済的活力により、ローマ帝国の内外両方からさらに多くの移民が引き寄せられました。少なくともいくつかの事例では、個体の小規模な浸透が、その後数世紀の大規模な人口移動に先行しました。
ローマ帝国後期(250~550年頃)には、ローマ帝国内からの国内移住は減少しましたが、ドナウ川の辺境を越えた人口集団に由来する祖先系統を有する個体群の存在が明らかです。混合は辺境を越えた地域(とくに、ヨーロッパ北部/中央部およびポントス・カザフ草原集団)に由来する集団と、これらの集団および在来人口集団の間でも広がっていました。個体もしくは集団の帰属意識に関する主張は埋葬状況で発見された物質文化に基づいてなされてきた合もありますが、DNAに基づく祖先系統のデータは、個体と集団の歴史の背後にある移住と混合のような家庭の複雑な役割を解明できます。たとえば、「ゲピド人」墓地が確実に在来のIAバルカン半島祖先系統のある個体群を含んでいた、上述のコルマディンの事例です。
ヨーロッパ北部/中央部祖先系統の存在はその後の期間に消え、この祖先系統を有する個体群は比較的少なかったか、歴史的過程(さらなる移住もしくは死亡率の差など)が選択的にその後の数世紀でヨーロッパ北部/中央部祖先系統の寄与を減少させた、と示唆されます。古代末期の歴史の学者は何世代にもわたって、ローマの支配の終焉を伴う政治的変化が、人口統計学的変化によりどの程度促進されたのか、これらの変化が民族集団の形成および発展もしくは大規模移住によりなされたのかどうか、議論してきました。本論文の調査結果は、民族集団の形成および発展と移住の両方が重要だった、という微妙な見解を裏づけます。以下は本論文の要約図です。
現在、スラヴ語派話者はヨーロッパで最大の言語学的集団を表しており、おもにヨーロッパの東部と中央部と南東部に居住しています。バルカン半島におけるスラヴ語派話者の最初の到来のいくつかの側面はまだ充分には理解されておらず、たとえば、起源地、時期、植民と侵略と侵入に至る機序、バルカン半島地域における人口統計学的影響の程度、人口統計学的圧力や気候変化やユスティニアヌス疫病に起因する人口減少などが仮定されています。本論文は、700年頃以後のデータセットの個体群の大半(49個体)におけるヨーロッパ東部関連の遺伝子流動の明確な兆候を証明し、これは歴史学と考古学の証拠によるとスラヴ語派話者人口集団の到来と関連している可能性が高そうです。
500~700年頃の本論文の標本抽出における間隙のため、スラヴ語派話者の最初の到来の正確な時期を判断できませんが、8世紀と9世紀における完全なヨーロッパ東部祖先起源の個体群の検出は、短期間の移住事象ではなく、多くの世代が含まれる長期の過程を示します。【スラヴ語派話者の移住に関しては】それ以前のヨーロッパ中央部/北部の遺伝子流動とは異なり、ゲノムデータは、両性の移住の寄与、および現在の人口集団に及ぶバルカン半島地域における長期間続く強い人口統計学的影響と一致します。
それにも関わらず、本論文の結果は完全な人口統計学的置換を除外し、それは、中世から現在に至るまで、IAバルカン半島関連およびアナトリア半島関連祖先系統の顕著な割合が観察されるからです。移動と混合のこれら人口統計学的過程は、比較的類似した祖先系統の割合を有するものの、異なる4語族の言語を話す、現在のバルカン半島人口集団の祖先系統勾配を生成しました。つまり、ラテン語とスラヴ語派とアルバニア語とギリシア語で、その人口史における多くの共通性にも関わらず、バルカン半島地域全体の異なる文化的過程が浮き彫りになります。まとめると、これらの過程は、千年紀の末までに、ほぼバルカン半島地域全体で存続する地域的な祖先系統特性を形成しました。
●この研究の限界
他の歴史的証拠と同様に、この新たな遺伝学的データセットにも限界があります。その主なものは、考古学的記録の固有の断片的性質に関するもので、本論文に3点で影響を及ぼしています。第一に、1世紀と2世紀には火葬が普及しており、最初の段階の標本規模が制約され、土葬される可能性がたより高い在来の人口集団に向かう結果に偏らせるかもしれません。第二に、6世紀の標本の少なさが、その後の期間とスラヴ人の移住の最初の段階に到来したヨーロッパ北部/中央部の人口集団の存在を不明瞭にするかもしれません。第三に、本論文では農村部と比較して都市人口が大きな比率を占めており、本論文で記載された人口統計学的過程により異なる影響を受けたかもしれません。ローマ帝国の盛期およびその後の他のローマ辺境全域にわたる遺伝学的分析が、世界化のこの古代の段階が3つの大陸地域【ヨーロッパとアジアとアフリカ北部】の現在の人口統計学的景観をどのように形成したのか、理解するのに役立つでしょう。
参考文献:
Olalde I. et al.(2023): A genetic history of the Balkans from Roman frontier to Slavic migrations. Cell, 186, 25, 5472–5485.E9.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2023.10.018
●要約
ローマ帝国の興亡は、人類史への巨大な結果を伴う社会政治的過程でした。ドナウ川中流は重要な辺境地で、人口集団および文化の移動にとっての十字路でした。本論文は、千年紀のバルカン半島の136個体のゲノム規模データを提示します。広範な軍事化と文化的影響にも関わらず、イタリア系の人々からの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の寄与はほとんど見つかりませんでした。しかし、帝政期にはアナトリア半島祖先系統の人々の大規模な流入が見られます。250~550年頃の間に、ヨーロッパ中央部/北部および草原地帯からの祖先系統を有する移民が検出され、「蛮族」の移住が民族的に多様な連合により推進された、と確証されました。ローマの支配の終焉後には、現代のヨーロッパ東部のスラヴ語派話者人口集団と遺伝的に類似した個体群の大規模な到来が検出されます。この新たに到来した個体群はバルカン半島の人々の祖先系統の30~60%に寄与し、移動期のヨーロッパにおける最大の恒久的人口統計学的変化の一つを表しています。
●研究史
2世紀の最盛期には、ローマ帝国は東方ではメソポタミアとアラビア半島から西方ではブリテン島まで、北方ではライン川とドナウ川から南方ではサハラ砂漠にまで広がっていました。ローマ帝国による西方のブリテン島から東方のエジプトの砂漠までの資源の大規模な採取と動員は、強制と合意両方の過程を経てヒトの移動を活気づけ、この広大な地域全体の人口を効率的に再編成しました。
バルカン半島は東西の地中海文化の歴史的十字路で、北方からはヨーロッパ大陸、南方からは地中海の影響を受けてきました。1~6世紀にかけて、現在のクロアチアとセルビアにおけるローマ帝国のドナウ川中流域辺境は、辺境の北方に暮らす人口集団との貿易および対立および交流地帯でした。この地域は重要な鉱物資源の富の供給源と、海からシュヴァルツヴァルト(Black Forest)をつなぐ軍隊および通信施設の2000kmにわたる回廊における要所でした。千年紀初頭にローマの支配が確立した後で、バルカン半島地域はしだいに都市化し、文化的に「ローマ化」しました。268~610年頃の間には、ローマ皇帝の半数以上がドナウ川中流出身の家系に属していました。
古代末期には、バルカン半島にゴート人(Goth)やフン人(Hun)やゲピド人(Gepid)やアヴァール人(Avar)やヘルール人(Herul)やランゴバルド人(Lombard)やスラヴ人(Slav)など、歴史資料により分類された多くの侵略集団が到来しました。非ローマ人も、辺境北部全域の人々からローマ軍に募集されることが増えました。さまざまなゲルマン人集団がドナウ川流域に居住しており、一部の古代末期の文化的人工遺物(およびそれと関連するヒト遺骸)は、「ゲルマン人」関連の影響とされてきました。それにも関わらず、ローマ帝国は6世紀後半までこの辺境地帯のある程度の支配を維持しました。
しかし、6世紀後半~7世紀にかけて、ローマ帝国(約1000km離れたコンスタンティノープルから支配)が疫病の大流行と環境・政治・軍事的変化に直面するにつれて、この辺境に対するローマの支配は失われました。バルカン半島におけるローマ帝国の覇権の終焉は歴史的記録で斑状に証明されているさらなる人口移動と一致しており、それにはスラヴ人の到来も含まれ、バルカン半島へのスラヴ人の移住は、ローマ後のブリテン島におけるゲルマン人集団の到来とよく似ており、とくに永続的な影響を及ぼすのに充分なほどで、これは現在バルカン半島で広く話されている南スラヴ語群に反映されています。現在の人口集団におけるスラヴ関連祖先系統は遠くペロポネソス半島(現在のギリシアにおけるバルカン半島の南端)まで特定されてきましたが、バルカン半島全体にわたる恒久的な人口統計学的影響の程度と時期と特徴は、さほど理解されてきませんでした。
歴史家は地政学や制度や文化や経済を通じてローマ帝国主義を研究してきましたが、ローマ帝国の構成領域の人口史への影響は、ようやく古代DNAの回収と解析を通じて理解されるようになりつつあります。古代DNAは、じゅうらいの考古学および文献の証拠を補完するか、異議を唱えるかもしれず、移動がこれまでエリート支配の資料ではほぼ不可視だった社会的集団を含めて、個体の歴史と人口変化の過程への直接的な洞察を提供します。じっさい、考古学的研究は、流動性と混合を促進する、ローマ帝国の顕著な能力文書記録に保存された兆しを確証し始めました。
たとえば、イングランド北部の古代にはエボラクム(Eboracum)と呼ばれていたローマン・ヨーク(Roman York)は、現代の中東の人口集団との類似性を示しており(関連記事)、高い割合のアフリカ北部祖先系統を有する個体群がイベリア半島南部で発見されました(関連記事)。帝政期におけるローマの後背地で発見された48個体の骨格の研究では、ローマ帝国の最盛期には、遺伝的祖先系統がそれ以前の期間よりも不均一になっていき、近東人口集団へと動き(関連記事)、同様に劇的な変化がイタリア中央部へと深く広がった(関連記事)、と示されました。考古学的DNAは、アングロサクソン人のイングランド(関連記事)からランゴバルド人のイタリア(関連記事)まで、ローマ期の後のヨーロッパにおける移住と人口変化の時期と性質と程度の追跡にも使用されています。ドナウ川中流の辺境はローマ帝国にとって重要な軸で、考古遺伝学的データを用いて体系的に特徴づけられてきました。
ローマ帝政期の前期(1~250年頃)および後期(250~550年頃)とローマ期後(550~1000年頃)におけるバルカン半島(アドリア海と地中海中央部とエーゲ海、北方はドナウ川中流および下流とサヴァ川により区切られます)の人口史を調べるため、現在のクロアチアとセルビアの古代人136個体およびオーストリアとチェコ共和国とスロヴァキアの古代人6個体の新たなゲノムデータが、その埋葬の考古学的文脈に関する情報とともに提示されます。このデータセットは、スラヴ語派の到来および現代のバルカン半島の人口集団の形成と関連している可能性が高い変化を含む、重要な辺境地帯の人口動態への洞察を供給します。
●データ生成
バルカン半島の古代人146点の標本からDNAが抽出され、そのうち136個体において、約123万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)の「124万」パネル、もしくは143万のSNPの拡張一式を標的とした「より合わせ」パネルで、溶液内混成濃縮ゲノム規模データが得られました。これらの個体は、さまざまな地域と考古学的文脈を表す、20ヶ所の異なる遺跡(図1A・B)から発掘されました。以下は本論文の図1です。
その内訳は、まず、ムラヴァ川とドナウ川の合流点に位置するローマ上モエシア(Upper Moesia)州の州都である現在のセルビアのコストラク(Kostolac)となるヴィミナシウム(Viminacium)遺跡では、6ヶ所の異なるネクロポリス(大規模共同墓地)から57個体です。次に、現在のクロアチアでは、アドリア海沿岸に位置する現在のザダル(Zadar)にあるヤダル(Iader)、アドリア海からドナウ川に至るパンノニア街道に位置する現在のオシエク(Osijek)にあるムルサ(Mursa)のようなローマ植民市です。次に、クロアチアの現在のガルドゥン(Gardun)にあるティルリウム(Tilurium)やセルビアの現在のラヴナ(Ravna)にあるティマクム・ミヌス(Timacum Minus)軍事要塞地です。最後に、クロアチアのジャゴドヤク(Jagodnjak)やヌスター・ドヴォラク(Nuštar-Dvorac)のような中世前期のネクロポリスです。結果を地理的および時間的文脈に位置づけるため、現在のオーストリアとチェコ共和国とスロヴァキアの中世前期ヨーロッパ中央部の6個体、および現代セルビア人から得られたアフィメトリクス(Affymetrix)社ヒト起源(Affymetrix Human Origins、略してAHO)SNP配列データから得られたゲノム規模データと、38点の新たな放射性炭素年代が生成されました。
ゲノム規模分析では、2万未満のSNPおよび/もしくは汚染の証拠のある新たに報告された13個体が除外され、現在のクロアチアとアルバニアと北マケドニアとギリシアとルーマニアとブルガリアの以前のに報告されたゲノムデータのある15個体が含められ、合計でほぼ1~1000年頃となるバルカン半島の138個体(図1A・B)が分析されました。
●高い祖先系統の不均一性
バルカン半島の138個体を研究するため、この138個体と関連する期間および地域の他の古代の個体群の投影により、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が、AHO配列で遺伝子型決定されたユーラシア西部(West-Eurasian、略してWE)の現代人1036個体で計算された軸へと実行されました。
このデータの収容な特徴は、主成分1(PC1)沿いに走る2つの平行な遺伝的勾配の存在です(図1C)。一方は本論文では「青銅器時代~鉄器時代バルカン半島勾配」と呼ばれ、近東人により近い右端で南方(エーゲ海)の青銅器時代(Bronze Age、BA)および鉄器時代(Iron Age、略してIA)集団(PC1ではより大きい値)、ヨーロッパ中央部/北部/東部人口集団により近い左端で現代のクロアチアおよびセルビアの北方の青銅器時代および鉄器時代集団を含んでおり(PC1ではより小さい値)、ブルガリアとアルバニアの(Bronze-Iron Age、略してBA-IA)集団はその中間的位置を占めています。
このBA-IA勾配は、鉄器時代勾配と比較して上方に動いている(PC2ではより高い値)ものの、PC1では右側でギリシア人などバルカン半島南部人口集団、左側ではクロアチア人などバルカン半島北部人口集団の同じ地理的パターンを示す、「現在のバルカン半島勾配」と並行しています(図1D)。両勾配【BA-IAバルカン半島勾配と現在のバルカン半島勾配】におけるPC1沿いの同じ地理的パターンの維持は、バルカン半島地域全体における鉄器時代からのある程度の局所的連続性を、過去2000年間に北方から南方へと全ての集団に影響を及ぼした、バルカン半島外から移住の強い影響とともに示しています。現代の国境とは無関係に、本論文の調査地域における全人口集団は、移住と変化の類似の過程により形成されてきました。
本論文の千年紀横断区におけるバルカン半島の個体群は、それ以前のIAバルカン半島人口集団と比較してより高い祖先系統の不均一性を示しており、現在もしくはBA-IAバルカン半島勾配のどちらかに沿って最も広がっています。これは、重要な現在の集団の形成に関わる人口統計学的事象が1000年頃までにすでに起きていたことを示唆しています。残りの個体は2つのバルカン半島遺伝的勾配を超えて図示され、この期間にバルカン半島について人口統計学的供給源として機能する地域に関する証拠を提供する、散発的な長距離移動の事例を表している可能性が高そうです。
本論文のデータセットで観察された高い祖先系統の不均一性を考えると、同じ遺跡およびネクロポリス内でさえ、各個体について別々に祖先系統の割合が推定されます。在来の祖先系統供給源としてバルカン半島IA人口集団、新たに到来した祖先系統の近位供給源として近隣地域のそれ以前および同時代の人口集団で、qpAdmが用いられました。
●アナトリア半島西部からの大規模な流入
1~250年頃の45個体の約半数は、バルカン半島IA集団のみを取り上げたqpAdmモデルと適合でき(図2A)、Y染色体系統(YHg)E1b1b1a1b1a(V13)の高頻度(10個体のうち5個体)により特徴づけられ、これについては、バルカン半島におけるBA-IA拡大を経てきた、と仮定されてきました。これらの個体はヴィミナシウムや現在のクロアチアのトロギル(Trogir)のトラグリウム(Tragurium)およびオシエクのムルサなどローマの町で標本抽出されており、在来のバルカン半島IA人口集団の直接的子孫であることと一致し(図2A)、ローマ社会への在来人口集団の高度の統合が示されます。
バルカン半島における、例外的な数のローマ植民地と、この辺境に沿った大規模な軍事中流にも関わらず、イタリア半島において長く確立してきた人口集団からの祖先系統の寄与はほとんどなく、イタリア半島のBAおよびIAにおいて最も一般的な父系である(関連記事)、YHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)の本論文のバルカン半島横断区でのほぼ完全な欠如により例証されるパターンです。初期の数世紀における火葬の盛行は標本を偏らせるかもしれませんが、2世紀頃に土葬へと移行した後でさえ、イタリア半島の人口集団からの祖先系統の寄与は検出できません。ドナウ川中流域へのローマの文化的影響は深かったものの、本論文の調査結果から、その文化的影響には、少なくともイタリア半島中央部IAの子孫による主要都市からの大規模な人口移動は伴わなかった、と示唆されます。以下は本論文の図2です。
しかし、ローマ帝国はバルカン半島において人口統計学的変化を刺激しました。この初期において、1/3の個体(45個体のうち15個体)がPCAではバルカン半島勾配を超えていますが(図1C)、近東人とは密接で、その祖先系統はおもにアナトリア半島西部のローマ/ビザンツ人口集団に、ある事例ではレヴァント北部集団に由来するものとしてモデル化できます(図2A)。これらの個体のほとんどは4ヶ所のさまざまなヴィミナシウム(現在のセルビアのコストラク)のネクロポリスで発掘されましたが、トラグリウム(現在のクロアチアのトロギル)およびヤダル(現在のクロアチアのザダル)などの他の都市中心部でも発見されました。
アナトリア半島へのひじょうに強い人口統計学的変化は同じ期間のローマとイタリア中央部でも明らかで、おそらくはエフェソス(Ephesus)やコリント(Corinth)やビザンティウム/コンスタンティノープル(Byzantium/Constantinople)などローマ帝国の主要な東方都市中心地に由来する長距離移動を論証し、本論文の結果から、これらの移民はローマ帝国の首都だけではなく、ローマ帝国北方周辺の他の大きな都市にも人口統計学的影響を及ぼした、と示されます。本論文のデータは、この人口統計学的過程の社会的動態に関する洞察も提供します。性比が等しく均衡していたバルカン半島IA祖先系統集団(22個体のうち11個体が女性)とは異なり、完全なアナトリア半島/レヴァント祖先系統の成人12個体に含まれていた女性は2個体だけでした。これは、近東の男性のより大きな寄与を示しますが、性別間の異なる埋葬慣行の結果の可能性もあります。
アナトリア半島祖先系統を有する人々と在来のバルカン半島祖先系統を有する人々は埋葬において空間的に分離されておらず、ほとんどの場合、埋葬慣行もしくは副葬品において文化的にも区別されていませんでした。こうした個体群は混合して同じネクロポリスに埋葬され、リット(Rit)ネクロポリスの墓G-148号のように並んで埋葬されていました(図2D)。しかし、証拠はある程度の社会的階層化も示しているかもしれず、それは、アナトリア半島起源のリットのネクロポリスでは全3個体が例外的に豊富な副葬品を伴って石棺に埋葬されていたからです(図2D)。バルカン半島への移民の主要な供給源は300年頃以後にはアナトリア半島から離れましたが、在来のバルカン半島IA集団の遺産とともに、アナトリア半島関連祖先系統はその後の中世個体群にも混合した形態で平均23%(95%信頼区間では17~29%)持続し(図2A)、これが深く永続的な人口統計学的影響だったことを示唆します。
●サハラ砂漠以南のアフリカとアフリカ北部からの移民
本論文で新たに報告されたデータは、散発的な長距離移動も明らかにしました。2世紀もしくは3世紀に生きていた可能性が高い男性3個体はヨーロッパと近東の変動の範囲外に位置し、現在および古代のアフリカ人に近くなっています。近位qpAdmモデル化はこれらの観察を確証し(図2A)、ヤダルの個体(I26775)とヴィミナシウムのペシネ(Pećine)の個体(I32304)では、それぞれ33%と100%のアフリカ北部祖先系統だったのに対して、ヴィミナシウムのピリヴォジュ(Pirivoj)の個体(I15499)は古代のアフリカ東部人口集団のみを用いてモデル化でき、祖先のアフリカ東部を裏づけ、その片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)、つまりミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L2a1jおよびYHg-E1b1b1a1a1b(V32)と一致し、両者とも現在アフリカ東部において一般的です。
アフリカ東部祖先系統の1個体はユピテル関連のワシの図像を描いた油の灯火とともに埋葬されており(図2C)、これはヴィミナシウムの墓では一般的な発見ではありません。歯根の同位体分析から、この男性個体は子供期の食性習慣に関しても外れ値だった、と示され(図2B)、窒素(N)と炭素(C)について、海洋タンパク質源消費の可能性の高さを示唆するδ¹⁵Nとδ¹³Cの上昇があり、その値がシルミウム(Sirmium)のローマ期人口集団と類似しており、動物性タンパク質消費の大きな割合を伴うほぼC3植物に基づく食性と一致する、ピリヴォジュおよび他のネクロポリスの個体群とは異なります。したがって、この男性個体は生涯の最初の数年を他の場所、おそらくは祖先の地であるアフリカ東部で過ごし、兵士か奴隷か商人か移民としてなのかどうか、その生活史を知ることは決してないものの、ローマ帝国の北部辺境で思春期に死亡するに至る長い旅が含まれていました。
●古代末期における内部移住から外部移住への移行
3世紀もしくは4世紀に始まる、ヨーロッパ中央部/北部の人口集団と関連する祖先系統およびポントス・カザフ草原地帯の人口集団と関連する祖先系統と混合している個体群が観察されます(図4A)。これら2集団瑠依の祖先系統は同じ個体で共存する傾向にあり、バルカン半島への移民の流れにはこれら2供給源の混合だった人々が含まれていたものの、ヨーロッパ中央部/北部祖先系統の寄与なしにポントス・カザフ草原地帯関連祖先系統を36~50%有しているとモデル化できる、ヴィミナシウムのペシネのネクロポリスの同時代の2個体のような一部例外もあった、と示唆されます(図1C)。これらの祖先系統を有する個体群は、ヴィミナシウムのペシネやヴィッセ・グロバルジャ(Više Grobalja)など同じネクロポリスで、おもに在来およびアナトリア半島祖先系統を有する個体群と同様に埋葬されており、放射性炭素年代が重複し、42~52%のバルカン半島IA関連祖先系統を示しました。
対照的に、完全に在来の祖先系統特性の個体群で見つかるY染色体系統(YHg)には、男性9個体のうち2個体のみが属しており、残りの個体は3系統のYHgに属しています。それは、強いヨーロッパ北部の分布を伴うI1およびR1b1a1b1a1a1(U106)と、IAおよび千年紀に草原地帯で一般的だったR1a1a1b2(Z93)です。常染色体とY染色体の兆候間のそうした不一致は、これらの系統からの男児における繁殖の成功について社会的選択に起因する侵入してくる男性系統の存続、および本論文の横断区における混合個体での観察をもたらした、初期ゲルマン人社会について推測されてきた父系社会組織により説明できるかもしれません。これらの祖先系統特性を有する人々は、C4の豊富な植生を示している可能性が高い、ポントス・カザフ草原地帯集団からの祖先系統を有している個体群について、有意に増加したδ¹³C値により示されるように、さまざまな所食いパターンの証拠も示しています。
古代末期のローマ帝国内におけるヨーロッパ中央部/北部祖先系統とポントス・カザフ草原地帯祖先系統の混合を有する個体群の出現は、この期間におけるさまざまな境界を越えての人口集団との遭遇を反映しています。とくに、多くの個体が、ローマ辺境を越えて起きた可能性が高いこれら2供給源間の人口混合の前の過程を反映しており、恐らくは、たとえばゴート人の指導下での多様な連合の形成を示唆しています。さらに、ローマ帝国は3世紀半ば以降にこの辺境の軍事的支配を断続的に失いましたが、これらの祖先系統を有する多くの個体は、この地域のローマ支配の最終的な崩壊のずっと前に、ローマ社会に統合されているように見えることは注目に値します。このパターンは、ドナウ川国境にまたがる激しい相互作用と交流の時代である古代末期のこの地域の人口史における、移住や募集や定住(帝国政府の認可の有無に関わらず)などの過程の重要性を確証します。
3個体のみが、ヨーロッパ中央部/北部集団およびポントス・カザフ草原集団と関連する80%超の祖先系統を有することも注目に値します。おそらく、6世紀に年代範囲が収まる標本の少なさにより、この地域への大規模でおもにゲルマン人集団の直接的移住の重要性が曖昧になっています。しかし同様に、さまざまなゲルマン人集団に属するとして文化的基準により特定された考古学的文脈に属する多くの個体が、在来人口集団との混合過程を反映している、と観察されることも重要です。たとえばコルマディン(Kormadin)では、伝統的にゲピド人の墓地と特定されてきましたが、検証された4個体のうち、完全に在来のIAバルカン半島祖先系統としてモデル化される2個体と、5~7歳の子供1個体を含む、在来のIAバルカン半島祖先系統とヨーロッパ中央部/北部祖先系統とポントス・カザフ草原祖先系統を示す2個体が特定されました。
ヨーロッパ中央部/北部祖先系統とポントス・カザフ草原祖先系統が700年頃以後に消滅した(95%信頼区間で、これら2祖先系統の割合の合計は0~3%)ことも、予想外でした(図4A)。ヨーロッパ中央部/北部祖先系統とヨーロッパ東部祖先系統の間の比較的小さな区別は、ヨーロッパ中央部/北部祖先系統をヨーロッパ東部祖先系統として小さな割合で誤って割り当ててしまうかもしれませんが、この結果は、700年頃以後に生きていた本論文の横断区における男性24個体において、ヨーロッパ中央部/北部およびポントス・カザフ草原祖先系統と明らかに関連するY染色体系統(YHg-I1・R1b1a1b1a1a1・R1a1a1b2)が完全に欠如していること(95%信頼区間でこれらのYHgの頻度は0~12%)により裏づけられます。この欠如は未知の標本抽出の偏りを反映しているかもしれませんが、侵入してきたヨーロッパ中央部/北部集団は在来のIA人口集団と比較して限定的だったかもしれない、および/もしくは、外部への移住や都市化もしくは兵役に起因する死亡率の差などの選択的な人口統計学的過程が、これらの集団の長期にわたって続く人口統計学的影響を防ぐよう、機能した、と示唆されます。
●スラヴ人の移住と現在のバルカン半島の遺伝子プールの形成
700年頃までに、新たな種類の祖先系統が本論文の標本抽出により網羅されるバルカン半島地域全体に出現しました。多様にWE人口集団へのPCA投影(図1C)では、これらの個体はヨーロッパ中央部/北部およびポントス・カザフ草原関連祖先系統を有するそれ以前の集団と同様の位置に収まります。しかし、ヨーロッパ中央部/北部とヨーロッパ東部の人口集団を分離する最近の浮動により敏感なPCA構成で、祖先系統を区別できます(図3A)。700年頃以前のバルカン半島の数個体は現在のヨーロッパ中央部および北部のゲルマン語派話者人口集団の近くに位置し、ヨーロッパ中央部/北部(Central/Northern European、略してCNE)関連祖先系統(CNE_中世前期)を示すランゴバルド人関連墓地の個体群と重なります。
700年頃以後には、古代のバルカン半島横断区において現在のヨーロッパ東部スラヴ語派話者人口集団への明確な変化が観察され、これは現在のバルカン半島人口集団に反映されている変化です(図3A)。したがって、ヨーロッパ東部関連人口集団は700年頃以前と比較して700年頃以後にバルカン半島の個体群とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有しています(図3B)。PCAにおけるヨーロッパ中央部/北部への変化が最も強いバルカン半島個体群と、PCAにおける最も強いヨーロッパ東部への変化のあるバルカン半島の個体群の類似性の違いは、f₄形式(アフリカ古代人、検証対象;ヨーロッパ東部関連、ヨーロッパ中央部/北部関連)のf₄統計を用いることで明らかです(図3B)。
これらの結果を裏づけて、ヨーロッパ中央部/北部集団およびポントス・カザフ草原集団でのqpAdmモデルは、最も強いヨーロッパ東部への変化を有するバルカン半島個体群の集団については適合性が悪く、バルカン半島IA関連とアナトリア半島関連とヨーロッパ東部関連の祖先系統のさまざまな割合でより良好な適合を得ることができました。ヨーロッパ東部関連の代理として、ヨーロッパ中央部/東部(Central/Eastern Europe、略してCEE)のハンガリー西部とチェコ共和国とオーストリア東部とスロヴァキア西部で発掘された中世前期個体群の集団(CEE_中世前期)が用いられました。この集団は現在のヨーロッパ東部スラヴ語派人口集団の差異内に収まり、本論文のデータセットにおいて最も強いヨーロッパ東部関連への変化を有するバルカン半島個体群のひじょうに近くに位置します(図3A)。以下は本論文の図3です。
ヨーロッパ東部祖先系統は古代末期のスラヴ人の移住のずっと前には散発的に存在していた、との証拠が提示されます。じっさい、2世紀もしくは3世紀に死亡し、ヴィッセ・グロバルジャに埋葬された女性1個体は混合していないヨーロッパ東部祖先系統を示し(図4A)、ローマ帝国の動的な経済への小規模な個体の浸透はどのように大規模な移住に先行していた可能性があるのか、という顕著な実例です。本論文のデータセットにおけるヨーロッパ東部祖先系統を有する個体の大半は7~10世紀に出現し、その祖先系統は混合しています(図4A)。スラヴ人の移住は早くも6世紀に始まり、本論文のデータセットはその初期段階を反映していないかもしれませんが、その動態への洞察を提供します。以下は本論文の図4です。
移民だった可能性が高い90%以上のヨーロッパ東部関連祖先系統を有するバルカン半島の7個体のうち、3個体は女性でした。この調査結果は、Y染色体系統の在来と外来、つまりYHg-R1a1a1b1a(Z282)やI2a1a2b(L621)やQ1a2a1(L715)との比率が同程度であることと合わせて、以前の期間と比較してこの期間において作用した異なる社会動態を示唆しています。この期間には、女性と男性が大きく寄与しています。個体水準での、2集団間の相互作用の証拠があります。クロアチアのボジュナ(Bojna)にあるレキンジョヴァ・コサ(Brekinjova Kosa)の要塞化した集落では、770~890年頃の成人男性2個体が同じ細い穴状の遺構に埋葬されており、それは、頭蓋外傷が治癒しており、97%のヨーロッパ東部関連祖先系統を有するより若い個体(I26748)と、バルカン半島IA人口集団に完全に由来する祖先系統を有するより年長の個体(I26749)です。
さらに、クロアチアのヌスター・ドヴォラク遺跡では、90%程度のヨーロッパ東部祖先系統を有する52号墓の女性1個体(I28390)には、標本抽出されていない男性との間に、ヨーロッパ東部祖先系統を64%程度有する50号A墓に埋葬された息子(I34800)がいます。この標本抽出されていない父親は、ヌスター・ドヴォラク遺跡の個体群の主要集団のように、30%程度のヨーロッパ東部祖先系統を有していたに違いなく、盛んな社会的過程の一部を例証できるかもしれない、外来女性の取り込みの直接的事例を論証しています。ティマクム・ミヌスにおけるヨーロッパ南西部祖先系統を有する10世紀の双子1組の発見は、中世ドナウ川における遠く離れた地域からの散発的移動を改めて論証します。
ヨーロッパ東部祖先系統の兆候が現在のバルカン半島およびエーゲ海人口集団に存続しているのかどうか調べるため、ヨーロッパ東部関連祖先系統を有する700年頃以後の古代の個体群で用いられた同じqpAdmを使って、現在の集団のモデル化が試みられました。現在のセルビア人とクロアチア人とブルガリア人とルーマニア人は、ヴィミナシウムのティマクム・ミヌスやトラグリウムやルディネ(Rudine)などのネクロポリスの遺跡の900年頃以後の古代の個体群と類似した祖先組成を示しており、IAバルカン半島人口集団と関連する祖先系統と混合した50~60%程度のヨーロッパ東部関連祖先系統を示し、一部の事例ではローマ期のアナトリア半島からの寄与もあり、過去1000年間にわたるバルカン半島でのかなりの連続性が示唆されます。ヨーロッパ東部の兆候はより南方の現代人集団において大きく減少しますが、ギリシア本土(30~40%)とエーゲ海諸島(4~20%)の人口集団にさえ依然として存在します。これはPCA(図1Cおよび図3A)と以前の遺伝学的研究からの観察を確証し、バルカン半島南部およびエーゲ海地域におけるかなりの人口統計学的影響を示唆しています。
●考察
考古遺伝学的研究は新たな証拠をもたらし、それは、ヒトの先史時代に関する理解を変えつつあり、遺伝学者と考古学者との間の熱心で生産的な対話を促しつつあります。これまでのところ、物質の証拠に加えて文献資料との関わりを必要とする、つまり文字記録のある歴史時代に焦点を当てた研究は比較的少ないままです。歴史物質文化の考古学的研究と遺伝学の情報の「三角測量」は、ヒトの過去の理解に新たな可能性を開き、各証拠が毒殿情報を提供するだけではなく、他の種類の分析に由来する偏りへの対処にも役立ちます。これらの目標を支援するために、補足データS1の1項には、20ヶ所以上の遺跡についての詳細で標準化された歴史学的および考古学的情報が、新たに報告されたゲノムのある各墓の状況データとともに含まれています。歴史学と考古学と遺伝学のデータのこのより深い統合は本論文の解釈に情報を提供しますが、詳細な遺跡と墓の報告は、他の研究で将来の結果が利用可能になったさいに、本論文の再構築を洗練するか、拡張することを可能とします。
本論文で提示されるバルカン半島の千年紀の個体群のゲノム横断区は、ローマ帝国の重要な辺境および東西と南北の永続的な地理的交差点の両方だった地域の長期の人口動態への新たな洞察を提供します。その結果は、歴史時代における継続的な人口変化の重要性と、千年紀全般にわたる社会政治的構造の役割における長期の変化を強調します。ローマの支配期には内部の移動が優勢で、散発的ではあるものの、ローマ帝国の領域外からの長距離移住が増えつつあり、このパターンはその後の数世紀に逆転し、ドナウ川回廊を越えた地域に起源のある人口集団からの相対的により大きな寄与がありました。
大まかには、本論文の結果は、千年紀のこの地域【バルカン半島】における人口史の3段階を示唆しています。第一に、ローマ帝国の盛期(1~250年頃)には、在来のIAバルカン半島人口集団にローマ文化の強い影響が見られました。この過程はイタリア半島由来の祖先系統を有する人口集団からの検出可能な寄与はほとんど伴っていませんが、直接的にもしくはイタリア経由でのアナトリア半島/地中海東部祖先系統の個体群による大きな移住があり、その混合はその後の在来人口集団に長い痕跡を残したでしょう。一方で、軍事化および/もしくは経済的活力により、ローマ帝国の内外両方からさらに多くの移民が引き寄せられました。少なくともいくつかの事例では、個体の小規模な浸透が、その後数世紀の大規模な人口移動に先行しました。
ローマ帝国後期(250~550年頃)には、ローマ帝国内からの国内移住は減少しましたが、ドナウ川の辺境を越えた人口集団に由来する祖先系統を有する個体群の存在が明らかです。混合は辺境を越えた地域(とくに、ヨーロッパ北部/中央部およびポントス・カザフ草原集団)に由来する集団と、これらの集団および在来人口集団の間でも広がっていました。個体もしくは集団の帰属意識に関する主張は埋葬状況で発見された物質文化に基づいてなされてきた合もありますが、DNAに基づく祖先系統のデータは、個体と集団の歴史の背後にある移住と混合のような家庭の複雑な役割を解明できます。たとえば、「ゲピド人」墓地が確実に在来のIAバルカン半島祖先系統のある個体群を含んでいた、上述のコルマディンの事例です。
ヨーロッパ北部/中央部祖先系統の存在はその後の期間に消え、この祖先系統を有する個体群は比較的少なかったか、歴史的過程(さらなる移住もしくは死亡率の差など)が選択的にその後の数世紀でヨーロッパ北部/中央部祖先系統の寄与を減少させた、と示唆されます。古代末期の歴史の学者は何世代にもわたって、ローマの支配の終焉を伴う政治的変化が、人口統計学的変化によりどの程度促進されたのか、これらの変化が民族集団の形成および発展もしくは大規模移住によりなされたのかどうか、議論してきました。本論文の調査結果は、民族集団の形成および発展と移住の両方が重要だった、という微妙な見解を裏づけます。以下は本論文の要約図です。
現在、スラヴ語派話者はヨーロッパで最大の言語学的集団を表しており、おもにヨーロッパの東部と中央部と南東部に居住しています。バルカン半島におけるスラヴ語派話者の最初の到来のいくつかの側面はまだ充分には理解されておらず、たとえば、起源地、時期、植民と侵略と侵入に至る機序、バルカン半島地域における人口統計学的影響の程度、人口統計学的圧力や気候変化やユスティニアヌス疫病に起因する人口減少などが仮定されています。本論文は、700年頃以後のデータセットの個体群の大半(49個体)におけるヨーロッパ東部関連の遺伝子流動の明確な兆候を証明し、これは歴史学と考古学の証拠によるとスラヴ語派話者人口集団の到来と関連している可能性が高そうです。
500~700年頃の本論文の標本抽出における間隙のため、スラヴ語派話者の最初の到来の正確な時期を判断できませんが、8世紀と9世紀における完全なヨーロッパ東部祖先起源の個体群の検出は、短期間の移住事象ではなく、多くの世代が含まれる長期の過程を示します。【スラヴ語派話者の移住に関しては】それ以前のヨーロッパ中央部/北部の遺伝子流動とは異なり、ゲノムデータは、両性の移住の寄与、および現在の人口集団に及ぶバルカン半島地域における長期間続く強い人口統計学的影響と一致します。
それにも関わらず、本論文の結果は完全な人口統計学的置換を除外し、それは、中世から現在に至るまで、IAバルカン半島関連およびアナトリア半島関連祖先系統の顕著な割合が観察されるからです。移動と混合のこれら人口統計学的過程は、比較的類似した祖先系統の割合を有するものの、異なる4語族の言語を話す、現在のバルカン半島人口集団の祖先系統勾配を生成しました。つまり、ラテン語とスラヴ語派とアルバニア語とギリシア語で、その人口史における多くの共通性にも関わらず、バルカン半島地域全体の異なる文化的過程が浮き彫りになります。まとめると、これらの過程は、千年紀の末までに、ほぼバルカン半島地域全体で存続する地域的な祖先系統特性を形成しました。
●この研究の限界
他の歴史的証拠と同様に、この新たな遺伝学的データセットにも限界があります。その主なものは、考古学的記録の固有の断片的性質に関するもので、本論文に3点で影響を及ぼしています。第一に、1世紀と2世紀には火葬が普及しており、最初の段階の標本規模が制約され、土葬される可能性がたより高い在来の人口集団に向かう結果に偏らせるかもしれません。第二に、6世紀の標本の少なさが、その後の期間とスラヴ人の移住の最初の段階に到来したヨーロッパ北部/中央部の人口集団の存在を不明瞭にするかもしれません。第三に、本論文では農村部と比較して都市人口が大きな比率を占めており、本論文で記載された人口統計学的過程により異なる影響を受けたかもしれません。ローマ帝国の盛期およびその後の他のローマ辺境全域にわたる遺伝学的分析が、世界化のこの古代の段階が3つの大陸地域【ヨーロッパとアジアとアフリカ北部】の現在の人口統計学的景観をどのように形成したのか、理解するのに役立つでしょう。
参考文献:
Olalde I. et al.(2023): A genetic history of the Balkans from Roman frontier to Slavic migrations. Cell, 186, 25, 5472–5485.E9.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2023.10.018
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