熊本県宇城市大坪貝塚出土弥生後期人骨の核ゲノム分析
熊本県宇城市小川町南小野にある大坪貝塚から出土した弥生時代後期人骨の核ゲノム分析結果を報告した研究(神澤他.,2023)が公表されました。『国立歴史民俗博物館研究報告』で報告されてきた日本列島の古代ゲノム研究については、当ブログでこれまでにも度々取り上げてきましたが、Twitterの大凌河さんの投稿により、『国立歴史民俗博物館研究報告』で日本列島の新たな古代ゲノム研究が報告されていることを知ったので、本論文の他にも今後いくつか取り上げる予定です。
日本列島の現代人集団の形成については、形態学的研究から、縄文時代の人類集団と弥生時代以降にユーラシア東部大陸部から到来した集団との混合により成立した、との「二重構造説」が1991年に公表され(関連記事)、その後有力な見解とされています。ただ、現在では、古墳時代以降にそれまでの日本列島の集団とは遺伝的構成の異なるアジア東部大陸部集団が日本列島に到来したとする「三重構造説」など、より複雑な見解も提示されています(関連記事)。
「二重構造説」では、弥生時代において、アジア東部大陸部からの「渡来系」集団とともに、縄文時代からの在来集団が西北九州や南九州に存在しており、「西北九州弥生人」や「南九州弥生人」とも呼ばれています。ただ、「西北九州弥生人」については、核ゲノム解析から、縄文系集団と渡来系集団の混合が進んでいた、と示されています(関連記事)。なお、まだ刊行されていませんが、本論文によると、「南九州弥生人」の核ゲノムには縄文的要素が強いと明らかになりつつあるそうで、その公表が注目されます。
西北九州と南九州の間に位置する中部九州は、弥生時代~古墳時代にかけてどのように人類集団の遺伝的構成が変容していったのか、詳細はまだ不明です。ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析からは、弥生時代以降に中部九州でも渡来系集団の遺伝的影響が少なくとも母系ではあった、と示されています。そこで本論文は、大坪貝塚から出土した弥生時代後期の3個体(大坪貝塚3号および13号および14号)の人骨の核ゲノムを解析し、縄文系と渡来系との遺伝的混合の程度や、血縁関係を推定します。
大坪貝塚の弥生時代後期の3個体から得られたDNAでは、短い平均断片長(100塩基対未満)および脱アミノ化パターンといった古代DNAに典型的な特徴が示され、その3個体の内在性DNAと確認されました。この3個体からは核ゲノムの17.29~23.61%の領域の配列が決定され、ゲノムの平均深度は0.56~1.62です。X染色体とY染色体の読み取り数の比率から、この3個体の性別は全員男性と判断されました。Y染色体ハプログループ(YHg)は、大坪貝塚3号がC1a1、大坪貝塚13号および14号がD1b1c2(現在の分類名ではD1a2a1c2に相当するようなので、以下D1a2a1c2で統一します)で、男系で血縁関係にある可能性が高そうです。
大坪貝塚のこれら3個体とアジア東部の古代人および現代人との遺伝学的比較が行なわれ、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では、大坪貝塚の3個体はいずれも、「縄文人(縄文文化関連個体群)」と現代日本人のクラスタ(まとまり)に挟まれた位置に、独自のクラスタを形成しました(図3)。f₄統計による解析でも、大坪貝塚の3個体はいずれも同程度に「縄文人」に近いと示されました。f₄統計比検定による縄文構成要素の割合の推定では、大坪貝塚の3個体は42~52%となり、PCAやf₄統計比検定と矛盾しません。以下は本論文の図3です。
核ゲノムの配列情報に基づく血縁関係推定では、大坪貝塚13号と14号が2親等以内の血縁関係にあるかもしれない、と示されました。これは、大坪貝塚13号と14号ではミトコンドリアゲノムの全周配列が完全に一致していることと矛盾せず、両者とも男性なので、兄弟かもしれません。推定暦年代は、大坪貝塚13が紀元後65~160年(68.3%)もしくは紀元後25~210年(95.5%)、大坪貝塚14号が紀元後205~310年(68.3%)もしくは紀元後130~330年(95.5%)で、年代は違いも見られるものの重複しています。大坪貝塚のこれら3個体で確認されたYHgはC1a1とD1a2a1c2で、いずれも「縄文人」に由来すると考えられ【以前当ブログでも指摘したように、これはまだ断定できないとは思いますが】、男系でも弥生時代後期の九州中部には縄文要素が残っているようです。
大坪貝塚の3個体の核ゲノム解析から、弥生時代後期には九州中部にも渡来系集団の遺伝的影響が及んでいた、と明らかになりましたが、その影響は、鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代後期人類(関連記事)や福岡県那珂川市の安徳台遺跡の弥生時代中期人類(関連記事)よりも弱く、その分縄文要素がより強くなっています。これは、mtDNAやY染色体の解析結果とも矛盾しません。大坪貝塚は甕棺墓の分布域の南限付近となりますが、同じく甕棺墓である安徳台遺跡とは遺伝的に異質の集団で、遺伝的背景と文化的背景の関係性は依然として不透明です。
大坪貝塚の3個体の核ゲノム解析から、弥生時代の日本列島における縄文系と渡来系の遺伝的混合の状況は地域により大きく異なっていることが(関連記事)、改めて示されました。顔面の残存状態の良かった大坪貝塚14 号の特徴は九州中部古墳時代人に近いと指摘されていることから、九州中部におけるこの遺伝的混合の状況は、古墳時代以降もさほど進んでいなかったかもしれません。ただ、現代日本人の遺伝的構成の地域差を報告した研究(関連記事)では、熊本県の縄文要素はさほど高くないようです。これは、弥生時代から現代にかけて現在の熊本県の人類集団の遺伝的構成が大きく変化した可能性を示唆しています【もちろん、現在の熊本県でも、その中で弥生時代以降に地域差はあったでしょうが】。今後、中世まで視野に入れて、時空間的により広範囲の日本列島の古代ゲノム研究の進展が期待されます。
参考文献:
神澤秀明、亀田勇一、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2023)「熊本県宇城市大坪貝塚出土弥生後期人骨の核ゲノム分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第242集P123-132
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000026
日本列島の現代人集団の形成については、形態学的研究から、縄文時代の人類集団と弥生時代以降にユーラシア東部大陸部から到来した集団との混合により成立した、との「二重構造説」が1991年に公表され(関連記事)、その後有力な見解とされています。ただ、現在では、古墳時代以降にそれまでの日本列島の集団とは遺伝的構成の異なるアジア東部大陸部集団が日本列島に到来したとする「三重構造説」など、より複雑な見解も提示されています(関連記事)。
「二重構造説」では、弥生時代において、アジア東部大陸部からの「渡来系」集団とともに、縄文時代からの在来集団が西北九州や南九州に存在しており、「西北九州弥生人」や「南九州弥生人」とも呼ばれています。ただ、「西北九州弥生人」については、核ゲノム解析から、縄文系集団と渡来系集団の混合が進んでいた、と示されています(関連記事)。なお、まだ刊行されていませんが、本論文によると、「南九州弥生人」の核ゲノムには縄文的要素が強いと明らかになりつつあるそうで、その公表が注目されます。
西北九州と南九州の間に位置する中部九州は、弥生時代~古墳時代にかけてどのように人類集団の遺伝的構成が変容していったのか、詳細はまだ不明です。ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析からは、弥生時代以降に中部九州でも渡来系集団の遺伝的影響が少なくとも母系ではあった、と示されています。そこで本論文は、大坪貝塚から出土した弥生時代後期の3個体(大坪貝塚3号および13号および14号)の人骨の核ゲノムを解析し、縄文系と渡来系との遺伝的混合の程度や、血縁関係を推定します。
大坪貝塚の弥生時代後期の3個体から得られたDNAでは、短い平均断片長(100塩基対未満)および脱アミノ化パターンといった古代DNAに典型的な特徴が示され、その3個体の内在性DNAと確認されました。この3個体からは核ゲノムの17.29~23.61%の領域の配列が決定され、ゲノムの平均深度は0.56~1.62です。X染色体とY染色体の読み取り数の比率から、この3個体の性別は全員男性と判断されました。Y染色体ハプログループ(YHg)は、大坪貝塚3号がC1a1、大坪貝塚13号および14号がD1b1c2(現在の分類名ではD1a2a1c2に相当するようなので、以下D1a2a1c2で統一します)で、男系で血縁関係にある可能性が高そうです。
大坪貝塚のこれら3個体とアジア東部の古代人および現代人との遺伝学的比較が行なわれ、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では、大坪貝塚の3個体はいずれも、「縄文人(縄文文化関連個体群)」と現代日本人のクラスタ(まとまり)に挟まれた位置に、独自のクラスタを形成しました(図3)。f₄統計による解析でも、大坪貝塚の3個体はいずれも同程度に「縄文人」に近いと示されました。f₄統計比検定による縄文構成要素の割合の推定では、大坪貝塚の3個体は42~52%となり、PCAやf₄統計比検定と矛盾しません。以下は本論文の図3です。
核ゲノムの配列情報に基づく血縁関係推定では、大坪貝塚13号と14号が2親等以内の血縁関係にあるかもしれない、と示されました。これは、大坪貝塚13号と14号ではミトコンドリアゲノムの全周配列が完全に一致していることと矛盾せず、両者とも男性なので、兄弟かもしれません。推定暦年代は、大坪貝塚13が紀元後65~160年(68.3%)もしくは紀元後25~210年(95.5%)、大坪貝塚14号が紀元後205~310年(68.3%)もしくは紀元後130~330年(95.5%)で、年代は違いも見られるものの重複しています。大坪貝塚のこれら3個体で確認されたYHgはC1a1とD1a2a1c2で、いずれも「縄文人」に由来すると考えられ【以前当ブログでも指摘したように、これはまだ断定できないとは思いますが】、男系でも弥生時代後期の九州中部には縄文要素が残っているようです。
大坪貝塚の3個体の核ゲノム解析から、弥生時代後期には九州中部にも渡来系集団の遺伝的影響が及んでいた、と明らかになりましたが、その影響は、鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代後期人類(関連記事)や福岡県那珂川市の安徳台遺跡の弥生時代中期人類(関連記事)よりも弱く、その分縄文要素がより強くなっています。これは、mtDNAやY染色体の解析結果とも矛盾しません。大坪貝塚は甕棺墓の分布域の南限付近となりますが、同じく甕棺墓である安徳台遺跡とは遺伝的に異質の集団で、遺伝的背景と文化的背景の関係性は依然として不透明です。
大坪貝塚の3個体の核ゲノム解析から、弥生時代の日本列島における縄文系と渡来系の遺伝的混合の状況は地域により大きく異なっていることが(関連記事)、改めて示されました。顔面の残存状態の良かった大坪貝塚14 号の特徴は九州中部古墳時代人に近いと指摘されていることから、九州中部におけるこの遺伝的混合の状況は、古墳時代以降もさほど進んでいなかったかもしれません。ただ、現代日本人の遺伝的構成の地域差を報告した研究(関連記事)では、熊本県の縄文要素はさほど高くないようです。これは、弥生時代から現代にかけて現在の熊本県の人類集団の遺伝的構成が大きく変化した可能性を示唆しています【もちろん、現在の熊本県でも、その中で弥生時代以降に地域差はあったでしょうが】。今後、中世まで視野に入れて、時空間的により広範囲の日本列島の古代ゲノム研究の進展が期待されます。
参考文献:
神澤秀明、亀田勇一、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2023)「熊本県宇城市大坪貝塚出土弥生後期人骨の核ゲノム分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第242集P123-132
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000026
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