ボルネオ島の狩猟採集民の人口史

 ボルネオ島(カリマンタン島)の狩猟採集民の人口史に関する研究(Kusuma et al., 2023)が公表されました。本論文は、アジア東部および南東部の現代人と古代人のゲノムデータから、ボルネオ島のプナン人(Punan)の狩猟採集民共同体が長期にわたってボルネオ島に居住していた可能性を示します。アジア南東部本土および島嶼部には、複数の現生人類(Homo sapiens)集団の拡散による置換に近い事象や混合があったようで、その複雑な歴史が窺えます。また、アジア南東部本土および島嶼部の現代人集団は、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)からの遺伝的影響でも有意な違いがあり(関連記事)、それも複雑な人口史を反映しているのでしょう。


●要約

 ボルネオ島は古代の拡散の交差点で、最古となるアジア南東部のヒト遺骸と岩絵がいくらかあります。ボルネオ島には伝統的に狩猟採集民だったプナン人共同体が存在し、その起源と、生計が逆戻りしたのか、それとも長期の採食だったのか、不明です。現在はオーストロネシア語族言語を話し、混合して複雑な遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有する、その過去および現在の農耕民との間のつながりも、同様に不明瞭です。本論文は、ボルネオ島北東部の(依然としていくらかの遊動的な狩猟と採集を行なっている)プナン人(Punan)のバトゥ人(Batu)とトゥブ人(Tubu)とアプト人(Aput)の遺伝的祖先系統を分析しました。深い祖先系統のつながりが見つかり、それは現代および古代のオーストロネシア人祖先系統の代理を外群とする共有されたアジア人の兆候を有しており、7500年以上の時間的深さを示唆しています。プナン人には、自身が遺伝的に不均質であるボルネオ島農耕民のアジア南東部本土の痕跡もほぼ欠けています。本論文の結果は、一部のプナン人の祖先によるボルネオ島での長期の居住を裏づけ、オーストロネシア人の拡大と関連する祖先系統の起源と拡散における予期せぬ複雑さを明らかにします。


●研究史

 ボルネオ島は現在世界で3番目に大きい島で、歴史的には氷期にアジア本土とつながっていましたが、ヒトの移住の古代の交差点で(関連記事)、アジア南東部島嶼部(Island Southeast Asia、略してISEA)における後期更新世の現生人類の居住の最初の証拠の一部があります(関連記事)。ボルネオ島への初期拡散の正確な年代と経路、およびそれら人口集団の祖先系統は、ボルネオ島全域にわたる農耕とオーストロネシア語族言語の拡大につながったその後の移住動態と同様に、依然として不明です。

 基本的に、置換もしくは連続の2モデルがあります。置換の場合、ボルネオ島の近隣のスラウェシ島から得られた古代DNAは代替的な在来の深いアジア系統を示唆しているかもしれませんが(関連記事)、スラウェシ島現代のオーストラリア先住民およびニューギニア人と関連する初期住民はほぼ、オーストロネシア語族言語を話し、農耕を行なう共同体に4000年前頃以降に置換されました。代替案は先オーストロネシア人集団とのより大きな連続性、農耕入植者の圧倒的な流入はなかった、と主張します。両モデルは、それぞれおもに外部の祖先系統もしくは在来祖先系統の遺伝的予測を行なう傾向があります。しかし、言語学的多様性と生計の変遷と遺伝的祖先系統と人口集団の起源および拡散への影響との間の関係の解明は、大きな課題です。

 ボルネオ島のニア洞窟(Niah Cave)における詳細な発掘はとくに情報をもたらしてきましたが、新たな問題も提起してきました。ボルネオ島で最古となる騎士の現生人類遺骸である37000年前頃の「ディープスカル(Deep Skull、略してDS)」は最近、オーストラロ・メラネシア人ではなく、在来のアジア南東部人の形態学的特徴を示すと確認され、初期拡散史への潜在的な大きな意味を有しています。この証拠を補足するのは、5万年前頃にまでさかのぼる、新石器時代前のボルネオ島の人々の生計慣行と食性と文化的行動と技術を記録する豊富な考古学です。後期中石器時代と新石器時代との間の明らかな技術的移行は、オーストロネシア人の技術の流入と特に一致しますが、明確な在来の複雑さと連続性の側面があり、人口置換を示唆するかもしれない骨格形態の変化はありません。

 古代の生活様式とその移行の全体像は、ケラビット高地(Kelabit Highlands)から得られたデータにより豊富で、ケラビット高地では、石核の花粉の特徴に基づくヒトの活動の証拠が4000年前頃、おそらくは7000~6200年前頃にまで及んでいます。複雑なパターンはその後千年にわたって、採食とタロイモ、およびその後の集中的なサゴ(サゴヤシから採取されるデンプン)に基づく生計、石塚と集落の建設で観察されます。稲作は、イネに基づく農耕へのごく最近の移行まで限定的だったようです。ボルネオ島東部のサンクリラン・マンカリハット(Sangkulirang-Mangkalihat)半島で発見された岩絵は古代の生活様式へのさらなる洞察をもたらし、頭飾りをかぶって槍を持っている、13600年前頃となる小さな擬人化の説得力ある描写があります(関連記事)。全体的に考古学的証拠から、完新世における生計慣行と移行は著しく変化した、と示唆されます。

 初期住民とその後の移住の両方に関する遺伝学的証拠は、興味深いものの曖昧です。研究者はボルネオ島において、現在の台湾先住民と関連するオーストロネシア語族言語話者により置換されたオーストラロ・パプア人祖先系統という「2層」モデルと一致しない、多層的なアジア人祖先系統を特定してきました。それにも関わらずデータは、外来祖先系統の流入を考慮すると予測されるかもしれないように、アジア南東部本土とよりも、台湾とフィリピンの方への強いつながりを裏づけています。古代DNAと近隣諸島から得られた大規模な現代人のデータセットの洗練された分析(関連記事1および関連記事2)は議論を前進させ、推定されるオーストロネシア人の拡大に先行する複数のアジア人祖先系統の拡散や、スラウェシ島において7000年前頃に新石器時代前の混合した古代アジア東部およびオーストラロ・メラネシア人祖先系統の下部構造(関連記事)を裏づける証拠が増えました。

 ボルネオ島に居住していた初期狩猟採集人口集団と、パプア人/ペナン人とおもに大まかに定義された分類であるボルネオ島の現在の伝統的な狩猟採集民との間の関係は、生計および祖先系統の変遷を解決するのに重要かもしれません。プナン人の共同体は多様で、さまざまな(オーストロネシア語族の)言語学的類似性と生計慣行(西プナン人ではサゴヤシ林、野生の塊茎、さらにはイノシシやハチミツや広範な種類の果物や植物や魚や獲物にさまざまな程度で依拠しています)があり、その起源と内部関係についての不確実性が深まります。

 何十年間も一部の学者は、現在のプナン人は在来の農耕前の狩猟採集民の子孫(したがって、ボルネオ島の更新世アジア人祖先系統の継承者)かもしれない、と主張してきましたが、他の学者は、現在のプナン人はおもに森林へと移動したオーストロネシア語族言語話者農耕民で、後に狩猟採集民生活様式に変わったかもしれない、と主張しました。一般的にボルネオ島におけるオーストラロ・メラネシア人祖先系統は最小限で、利用可能な限定的であるプナン人の遺伝学的データでも同様で、これは完全な置換という後者の仮定的状況のみが、必ずではないものの、ボルネオ島における提案されたオーストラロ・メラネシア人の更新世祖先系統と一致することを意味します。

 2018年半ば~2019年後半まで、この研究に関わった学者が、ボルネオ島のプナン洞窟(Punan Batu)の最後の活動的な狩猟採集民の一部と交流しました。この共同体は、世界中の消滅しそうな少数の集団の一つを表しており、カルスト岩陰(図1A)と、森林野営地と、より最近では外部の者が建てた川沿いの掘っ建て小屋に依然として暮らしており、森林において変化する共同体の交流網をともに形成しています(図1B)。プナン・バトゥ人はボルネオ島の狩猟採集民に関する文献で言及されていますが、重要な研究の焦点ではありませんでした。プナン・バトゥ人はオーストロネシア語族中部サラワク諸語言語(Central Sarawakan Austronesian language)を話しますが、この地域の既存のどの言語とも無関係である、独特な歌謡語(song language)であるラタラ語(Latala)もしくはメニラク(Menirak、歌うこと)も保持しています。プナン・バトゥ人は森林において通信棒(図1Bの赤い矢印)を用いて活発に伝達し、毎日狩猟を行ない、時には夜中に、樹高50m超の滑らかな樹皮の「蜂蜜の木」と呼ばれる常緑であるメンガリス(Koompassia excelsa)に登るための長い籐を用いて、ハチミツを収穫します。他の世界中の狩猟採集民と同様に、プナン・バトゥ人の生活様式は生態系崩壊と社会/政治的権力と、農耕起源の商品への依存の急速な移行につながる世界的な市場体系への統合に直面しています。以下は本論文の図1です。
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 最近の分析はボルネオ島の農耕民からの長期の遺伝的孤立を裏づけますが、プナン・バトゥ人や他のより定住的なプナン人の起源に関する詳細な歴史はまだ解決されていません。本論文は、農耕人口集団との関係や、ボルネオ島の拡散および変遷の歴史への示唆を含めて、プナン人の遺伝的歴史を調査し、ボルネオ島の人口集団のより深い歴史を調べるため、プナン人の3集団から高密度の遺伝子型データを取得しました。その3集団とは、プナン・バトゥ人と、北カリマンタン州で遠く離れて新たな場所に居住したプナン人共同体である、近くのマリナウ(Malinau)町のプナン・トゥブ人(Punan Tubu)と、ロング・スーレ(Long Sule)村のプナン・アプト人(Punan Aput)です。これらの共同体は全てカリマンタン州北東部に由来し、ボルネオ島の中央部と東部全域にまたがる、プナン人/ペナン人の多様性の焦点の当てられた部分集合を表していますが、それにも関わらず、本論文の分析は、これまでで最も詳細な、プナン人の遺伝的祖先系統の調査を提供します。近隣の農耕民、つまりルンダエ人(Lundayeh)から新たに生成されたデータと、ボルネオ島の北部および南部の農耕集団やより広範な地域から得られた利用可能な高密度の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)チップデータを表すより大きなデータセットの文脈で、これらのデータが調べられました。


●遺伝的独自性としてのプナン人

 主成分分析(principal component analysis、略してPCA)を用いての地域的な遺伝的差異の要約から、プナン人の全個体は、本論文のデータセットにおける他のボルネオ島集団と関連しているものの異なる、緊密な祖先系統クラスタ(まとまり)を形成する、と明らかになりました。ボルネオ島内の多様性に焦点を当てると、プナン人と、ルンダエ人など近隣の農耕民とボルネオ島北東部および南東部の農耕集団の広範な標本の両方や混合生計のレボ人(Lebbo)を含めて、他のボルネオ島先住民との間に明確な区別があります。ADMIXTURE第1.3版を用いての個体の祖先系統の推定は、最適に裏づけられるK(系統構成要素数)=12のモデルでプナン人固有の祖先的構成要素を明らかにし、これはプナン・バトゥ人と最も明確に関連しているものの、全プナン人集団に共有され、存在しています。

 さらに、XとYをプナン人集団とする D形式(ムブティ人、X;Y、ボルネオ島北東部先住農耕民)の一連のD統計は負の値を示し(図1D)、プナン人3集団(バトゥ人とトゥブ人とアプト人)間の過剰な浮動共有を示唆しています。さらに、全ての非プナン人集団は、プナン・バトゥ人と比較して、カンカナイ人(Kankanaey)の方とより多くの過剰な浮動共有を示します(図1E)。カンカナイ人はフィリピンのルソン島北部に由来する在来のオーストロネシア語族言語を話す農耕人口集団なので、これは単純に地理的例外ではないものの、遺伝的歴史と重要な関係があります。カンカナイ人は、その遺伝的孤立と、現代の台湾先住民集団および古代DNA標本との関係に基づいて、「オーストロネシア人祖先系統の代理」もしくはこの地域における関連祖先系統の「起源」と考えられています(関連記事)。

 プナン人集団の遺伝的多様性に関する広範な視界を得るため、ハプロタイプデータから、人口集団内と人口集団間の対での同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)分析が実行されました。より長いIBDの塊の共有は、より最近の共通祖先を反映していますが、より短いIBDの塊は、古代の共有された祖先系統を反映しています。以前には、プナン・バトゥ人はボルネオ島の他の人口集団と比較して、異常に長い人口集団内IBD断片と同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してRoH)を有している、と示されました。この過剰は新たに代表されるプナン人集団の状況で観察され、ADMIXTURE分析における珍しい主要な構成要素を説明できるかもしれない、プナン・バトゥ人の小さな人口規模と一致する、と確証されました。

 かなりの合計人口集団間のIBDの塊の共有は、ボルネオ島北東部のルンバワン語(Lun Bawang)話者とムルット人(Murut)とルンダエ人の集団間、およびボルネオ島南東部の南東バリト(Barito)諸語言語話者と、マーニャ人(Ma’anya)とサミヒム人(Samihim)の集団間で観察されます。これらプナン人集団では、個体の全ての組み合わせは長い合計IBD共有を示し(図1F・G)、ともにカリマンタン州北東部のプナン人集団間の相対的により強い遺伝的つながりを強調します。ADMIXTURE分析とD統計とIBD共有のパターンから、プナン人集団は共有祖先系統の兆候を有しているので、「プナン人」はその相対的な地理的孤立にも関わらず、遺伝的および文化的独自性を反映している、と主張されます。


●プナン人祖先系統はオーストロネシア人と関連していますが「祖型オーストロネシア人」に先行します


 ボルネオ島とアジア南東部本土(Mainland Southeast Asia、略してMSEA)の農耕民間の古代のつながりが、遺伝学と言語学の根拠に基づいて提案されてきました。したがって、プナン人集団の他のボルネオ島集団とのより深い関係や地域的な多様性を理解するために、まずプナン人集団を遺伝的なMSEAオーストロネシア人の代理軸に位置づけることが試みられました。これにより、ボルネオ島の人口集団を含めて表される全てのISEA(アジア南東部島嶼部)人口集団が、MSEA集団とよりも、オーストロネシア人の代理である台湾先住民のアミ人(Ami)およびカンカナイ人の方と密接に類似している、と確証されます。

 本論文が強調するのは、とくに言語と農耕の拡大に先行する地域におけるオーストロネシア人関連の遺伝的構造を示唆する最近の結果(関連記事)を考えると、これは必ずしも全集団におけるオーストロネシア人拡大関連祖先系統を意味しているわけではない、ということです。むしろ、これが単純に確証するのは、ボルネオ島集団は遺伝的に、MSEA人口集団とよりも、この地域(つまり、台湾とフィリピン)の北東部の島々の共同体の方と類似している、ということです。この兆候をさらに調べるため、MSEA共同体がボルネオ島集団もしくはカンカナイ人とより類似しているのかどうか問う、逆の検定が行なわれました。この検定は、MSEAとボルネオ島との間のより弱い遺伝的つながりのかすかな兆候を検出できる可能性があります。この分析は、一部のボルネオ島集団とのMSEA共同体の関連を裏づけ、広くカンカナイ人/アミ人関連の遺伝的文脈における地域的な複雑さが強調されます。

 パプア人とオーストロネシア語族/オーストロアジア語族話者人口集団との間の関係を明示的に検証するため、qpGraphが用いられます。qpGraphは分岐する人口集団の系統樹を、統計的に有意な混合節で構築し、人口集団の過去の分岐と浮動と混合を把握します。先行研究(関連記事)で「沿岸部アジア東部南方(coastal southern East Asia、略してcSEA)祖先系統」と呼ばれている、「祖型オーストロネシア人」と考えられている福建省連江県亮島の7500年前頃となる前期新石器時代の亮島(Liangdao)遺跡の個体(亮島2号)や、4500年前頃となる中期新石器時代の南シナ海の澎湖諸島の峰輝島(Fenghui Island)に位置する澎湖県馬公市の鎖港(Suogang)遺跡の個体(鎖港B1)といった個体を含めて、アジア東部古代人のデータが組み込まれ、プナン・バトゥ人の遺伝的背景がアジア東部/オーストロネシア人祖先系統の範囲内に位置づけられました。プナン・バトゥ人が狩猟と採集に戻ったオーストロネシア語族言語を話す移民の子孫ならば、カンカナイ人やアミ人やとくに古代のcSEAの祖先系統との密接に派生的な祖先系統の関連により論証される、最近のオーストロネシア人祖先系統の兆候は、そのゲノムに存在するはずです。

 qpGraph分析(図2A)から、プナン・バトゥ人はcSEA(7500年前頃となる前期新石器時代の亮島2号個体により表されます)の前の分岐内深くに位置づけられる、と示されます。他の古代DNA標本はこの深さを確証します。南シナ海の峰輝島の4500年前頃となる中期新石器時代のオーストロネシア人の代理個体(鎖港B1)と、トンガ島で発見された太平洋南西部のオーストロネシア人のラピタ(Lapita)文化の2500年前頃となるSk-10個体(関連記事)の分析(図2A)から、両個体はプナン・バトゥ人と比較してカンカナイ人の方とかなりの派生的浮動を共有している、と示されます。興味深いことに、ボルネオ島北部のドゥスン人(Dusun)のcSEA祖先系統は、アミ人/カンカナイ人/ Sk-10個体の「放散」の一部を形成します(図2A)。まとめると、これらの標本は、cSEA関連祖先系統の全体的な深さと複雑さ、およびその中でのプナン・バトゥ人の位置づけについて、強い裏づけを提供します。以下は本論文の図2です。
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 ボルネオ島から利用可能な古代DNAは、ボルネオ島北部のサバ(Sabah)州の遺伝的に類似した歴史時代(410年前頃)の農耕民2個体(Ma554とMa555)に限定されており、最近のボルネオ島の祖先系統の動態を理解するために、分析にMa554個体が組み込まれました。D統計を用いると、Ma554個体はオーストロネシア人の代理であるカンカナイ人およびアミ人と密接な類似性を有しており、驚くべきことに、同じ地理的地域のボルネオ島北東部の農耕民、つまり、ルンダエ人およびムルット人とは、より大きいのではなくより少ない類似性を有している、と分かり、qpGraph分析と一致します。Ma554個体とボルネオ島の地域的な現代人が両方、プナン・バトゥ人と分岐しているものの、その在り様がわずかに異なることは、ボルネオ島北東部のプナン人と農耕民の共同体間の長期の分離との全体像を裏づけます。

 高網羅率の現代人のゲノムは、ハプロタイプを用いての分岐年代と動態を評価する、補完的経路を提供します。まず、プナン人クレード(単系統群)の出現について上限を提供する、アンダマン諸島のオンゲ人とカンカナイ人の分岐の時間規模が評価されました。MSMC-IM(Multiple Sequentially Markovian Coalescent Isolation-Migration、複数連続マルコフ合祖孤立・移住)を用いて、共有された祖先系統の構造と年代を反映するハプロタイプ合着(合祖)の分布が推定され、MSMC-IM 四分位間範囲(interquartile range、略してIQR)で41200~20400年前となる、27700年前頃という中央値の分岐が見つかりました(図3A)。同様に、カンカナイ人とアミ人の分岐により下限が提供されます。

 複数の接触過程を反映する多峰性分布が推測され、中央値の分岐4900年前頃(MSMC-IM IQRでは14000~3600年前)でした(図3B)。興味深いことに、中央値の年代は出台湾モデルにおけるオーストロネシア人拡大の開始とひじょうに密接に対応しているものの、より複雑と示唆する人口集団分岐の複数段階を生成する、経時的な複合移住兆候とも一致しています。最後に、ドゥスン人とカンカナイ人の分析に基づいてボルネオ島へのカンカナイ人関連の寄与が直接的に年代測定され、類似の多峰性分布と4800年前頃(MSMC-IM IQRでは18000~3000年前)という初期の中央値年代が見つかりました(図3D)。重要なことに、古代DNAの証拠(祖先系統図の7500年前頃となる亮島2号個体の位置づけ)と分岐年代推測の両方に基づくと、プナン・バトゥ人の遺伝的祖先系統はボルネオ島への潜在的なオーストロネシア人拡大関連祖先系統の到来に先行します。以下は本論文の図3です。
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 最後に、D統計における利用可能なアジア東部および南東部の広範な古代DNA標本を用いて、ボルネオ島における内在的祖先系統の歴史が調べられました。アジア東部の、中華人民共和国内モンゴル自治区に位置する前期新石器時代の裕民(Yumin)遺跡など北方内陸部と、沿岸部となる山東省の前期新石器時代の淄博(Boshan)遺跡の個体などを含めて、全てのアジア東部古代人標本は、プナン・バトゥ人に対してよりもカンカナイ人の方と強い類似性を示し、これはボルネオ島祖先系統をより広く検討したさいには部分的に再現されるパターンです。興味深いことに、2100年前頃となるスマトラ島高地のスマトラ島のガヨ(Gayo)遺跡標本(In662)と、2500年前頃となる後期新石器時代のMSEA標本(Ma912)は両方とも、カンカナイ人に対してボルネオ島人口集団の大半との有意もしくは暫定的な関連性を示します。したがって、本論文の分析は、ボルネオ島とカンカナイ人の関連祖先系統の長期的分岐と、内在的な祖先系統動態の時間深度を再度確証します。


●ボルネオ島の人々との古代MSEAのつながり

 Ma912個体により示唆されたMSEAとのつながりをより詳しく調べるため、D統計検定と、qpGraph/TreeMix再構築(図2B)が実行されました。Ma912をボルネオ島とムラブリ人(Mlabri)/マメリ人(Mah Meri)祖先系統の軸で検討すると、ジェハイ人(Jehai、Jahai)と比較してMa912とボルネオ島の人口集団との間に有意なつながりが見つかるものの、一般的には均衡のとれたD統計で、qpGraph におけるMa912の位置づけ(図2B)と一致し、いくらかではあるものの全てではない、MSEA祖先系統とボルネオ島人口集団との間のつながりが示唆されます。Ma912とさまざまなボルネオ島人口集団との間の潜在的に異なる関係は、ボルネオ島の北東部と南東部両方の人口集団に焦点を当てる、追加のqpGraphの再構築につながり、MSEAとcSEAの両祖先系統へのつながりを確証します。

 これらの図にMa912を組み込むことで、非プナン人のボルネオ島人口集団におけるMSEA関連およびオーストロネシア人関連祖先系統の理解の洗練も可能となります。たとえば、ボルネオ島北東部のドゥスン人とルンダエ人への約28%のMSEA関連の寄与は、Ma912と関連しています(図2B)。マーニャン人(Maanyan)とガジュ人(Ngaju)というボルネオ島南部集団におけるMSEA構成要素の再構築も、Ma912関連です。要注意なのは、ボルネオ島における提案されたオーストロアジア語族の下位構造と、MSEAにおける提案された大北ボルネオ島諸語の言語学的文脈の両方が、複雑で長期のボルネオ島とMSEAの相互作用と一致することです。興味深いことに、アプト人とトゥブ人という他のプナン人集団は、祖先系統がおもに混合していないプナン・バトゥ人に由来するにも関わらず、直接的であれ他のボルネオ島集団経由であれ、同様にMSEA祖先系統からのわずかな混合を示します。

 要するに、プナン・バトゥ人は重要な2点で近隣の農耕民とは異なります。第一に、qpGraph分析では、その中核的祖先系統はオーストロネシア人拡大関連の多分岐から現れず、MSEA集団にも由来しない、と示されます。代わりに、プナン・バトゥ人は系統発生的に両者(オーストロネシア人とMSEA集団)の間に位置づけられ、オーストロネシア人祖先系統の現代の代理を外群とし、関連する古代人標本(Sk-10と亮島2号)で観察される派生的浮動が欠けています。第二に、全ての他のボルネオ島集団とは異なり、オーストロネシア人関連とMSEA関連の祖先系統の複合的混合は見つかりませんでした。最初の結果は、これらプナン人集団の祖先が単純にオーストロネシア人航海者ではなかった、と強く主張し、第二の結果は、ボルネオ島農耕民からの一部のプナン人のある程度となる長期の孤立を主張します。したがってプナン人は、ボルネオ島における古代のMSEAと(祖型)オーストロネシア人/ cSEAとは別の植民の歴史と、より広範なボルネオ島の人々の複雑さの中で部分的に独立した異なる祖先系統を示します。本論文の結果は遺伝的孤立のかなりの時間深度を示唆し、カリマンタン州北東部のプナン人集団は近隣の在来農耕民の最近の生計復帰ではない、と確証します。


●ボルネオ島におけるパプア人関連祖先系統の存在

 プナン・バトゥ人祖先系統の深度は、ISEA内の他の古代の狩猟採集民との関係について、直ちに問題を提起します。これを調べるため、最近報告された完新世前となる、スラウェシ島南部のマロス(Maros)のマラワ(Mallawa)地区のリアン・パニンゲ(Leang Panninge)鍾乳洞の古代DNA標本(関連記事)が利用されます。このリアン・パニンゲ鍾乳洞で発見された女性個体(以下、LP女性)は、複合的なパプア人と古代アジア人関連の祖先系統を示します。この古代アジア人関連祖先系統は、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体と、オンゲ人で表されます。D統計を用いると、プナン・バトゥ人とLP女性との間で共有された祖先系統の暫定的な兆候が観察され(図4A)、これは本論文のqpGraphにおける弱い混合分岐点(最適図では約1%の裏づけ、信頼区間は0~2.1%)として解決されます(図4B)。この兆候の限定的な性質を考慮して、TreeMixを用いての確証が試みられ(図4C)、プナン・バトゥ人とLP女性との間で弱いつながりが再度検出されました。以下は本論文の図4です。
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 LP女性自体が混合していることに注意して、パプア人関連祖先系統を組み込んで、よく記録されているものの、まだ説明されていないパプア人祖先系統構成要素を有する、ボルネオ島東部のレボ人(Lebbo)集団も含む図が構築されました。その結果、レボ人の混合兆候はLP女性もしくはプナン・バトゥ人とつながっていない、と確証されます(図4B・C)。ALDER分析は混合年代を85.5世代前頃と推定し、これは1世代を29年と仮定すると2480年前頃(3360~1600年前)となり、以前の結果とおおむね一致します。したがって、まだ決定的ではありませんが、複数の手法が、この地域における既知のパプア人関連祖先系統とは別に、プナン・バトゥ人で観察されたLP女性との弱い祖先系統のつながりを示唆しています。


●この研究の限界

 この研究は、プナン人共同体における共有された遺伝的祖先系統について強い証拠を提示し、プナン人が最近農耕復帰を経たオーストロネシア人の拡大に由来する農耕民だった、との提案を却下します。この研究にはいくつかのボルネオ島北東部のプナン人共同体と多様なボルネオ島農耕民の比較データセットが含まれていますが、より多くのプナン人/ペナン人集団を含めることで、これらの共同体が関連した程度とそのより広範な歴史をより適切に判断できるでしょう。本論文の高密度遺伝子型決定手法は一般的に、人口統計学的再構築に適していますが、全ゲノム配列決定とより大きな標本規模は、局所的な低頻度の多様体共有のパターン解明による推測を裏づけるでしょう。

 さらに重要なことに、この地域の遺伝的な人口動態の完全な解明と、生計変化の詳細な動態および祖先系統の関連は理想的には、ボルネオ島とより広くISEAの両方の二イブにおける、生計慣行と時間規模の多様性にまたがる、さらなる考古学的研究と古代DNAデータを必要とするでしょう。熱帯地域におけるDNA保存状態の悪さと重要な期間の遺構にまたがる比較的限られた考古学的データを考えると、これは長期的な研究の試みとなる可能性が高そうです。それにも関わらず、本論文の結果は、祖先の起源と生計復帰の単純なモデルと一致せず、一部のプナン人の祖先によるボルネオ島の長期の居住を示唆し、インドネシア西部における「オーストロネシア人拡大」の複雑さを裏づけます。以下は本論文の要約図です。
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●まとめ

 本論文の分析は、利用可能な古代人と現代人の遺伝的データセットを組み合わせ、複数のプナン人集団を含めて、ボルネオ島の人々における祖先系統の複雑さを解明します。本論文は、ボルネオ島農耕民集団の多様で複合的なMSEAとプナン人関連とオーストロネシア人関連の祖先系統に関する証拠を確証し、洗練します。最も重要なことに、本論文はボルネオ島北東部のプナン人共同体の祖先系統への重要な洞察を提供します。本論文は、プナン人祖先系統はオーストロネシア人の派生的祖先系統ではなく、ボルネオ島農耕民の祖先系統も反映していない、と確証するので、現代のプナン人集団が、農耕もしくは混合戦略の初期オーストロネシア人開拓者か、あるいは在来のボルネオ島集団から生計復帰を経た、というモデルに対して強く反論します。祖先系統は必ずしも生計慣行の指標ではありませんが、広く共有されている文化的慣行(たとえば、伝達通信棒)の累積的証拠と、5万年前頃から最近千年間にかけてのボルネオ島集団における狩猟採集民集団の充分に確立された考古学的証拠と、祖先系統の兆候はまとめて、全てではないにしても、多くの現在のプナン人の祖先における、さまざまな時空間での多様な出現が間違いのない、狩猟と採集のかなりの時間深度を強く主張します。

 本論文の調査結果は、最初の植民の多層化した地域的な過程(図5A)と、ボルネオ島へのMSEA関連祖先系統の拡散および内在的なプナン人関連祖先系統の出現(図5B)と、オーストロネシア人関連の拡散もしくは摂食を反映しているかもしれないその後の祖先系統の流入(図5C)を裏づけ、それらが組み合わさり、ボルネオ島の共同体の複雑で多様な祖先系統を生み出します。プナン・トゥブ人における古代のオーストロネシア人以前の兆候は、とくに情報をもたらします。これは少なくとも、顕著な長期の孤立とともに、ボルネオ島から北東部への古代のつながりと、古代の祖型オーストロネシア人cSEA祖先系統を示唆しています(図5B)。以下は本論文の図5です。
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 本論文が、たとえばフィリピンから得られた最近の結果(関連記事)を考慮すると、重要ではありそうなものの通り抜けられないわけではないワラセアの境界で、相互接続して分散した祖型オーストロネシア人の車輪の1本の輻を把握しつつあるのかどうか、もしくはプナン人の祖先が農耕とオーストロアジア語族言語のその後の拡大の前にcSEA祖先系統の創出に関わった可能性はあるのかどうかについては、依然として不明です。これらの可能性を解明するには、さらなる研究、上述のように理想的には、オーストロネシア語族の出現と拡散にまたがるボルネオ島とより広範な地域からの古代DNAが必要です。一方で、本論文の分析は、ボルネオ島の深い祖先系統の複雑さと、この中でのプナン人の独特な歴史を論証しています。


参考文献:
Kusuma P. et al.(2023): Deep ancestry of Bornean hunter-gatherers supports long-term local ancestry dynamics. Cell Reports, 42, 11, 113346.
https://doi.org/10.1016/j.celrep.2023.113346

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