セントヘレナ島の解放奴隷の起源

 セントヘレナ島の解放奴隷の起源に関する研究(Sandoval-Velasco et al., 2023)が公表されました。本論文は、セントヘレナ島の解放されたアフリカ人奴隷の起源を遺伝学的分析により推測しています。大西洋横断奴隷貿易によりアフリカからアメリカ大陸などに多くの人々が奴隷として連行され、人類史における大惨事としてよく知られています。現代人で最も遺伝的多様性の高い地域であるアフリカにおいて、近年では現代人と古代人の遺伝学的研究は飛躍的に進展しており、アフリカから奴隷として連行された人々の起源の解明もこれに伴って進められていき、歴史学など伝統的な分野を補完するものとして、今後もその成果は大いに注目されます。


●要約

 セントヘレナ島は大西洋横断奴隷貿易の抑制に重要な役割を果たしました。南大西洋の真ん中に戦略的に位置するセントヘレナ島は、イギリス海軍の中継基地およびイギリスにより途中で奪われた奴隷船から「解放された」アフリカ人奴隷の受け入れ場所として機能しました。セントヘレナ島では、1840~1867年に解放されたアフリカ人を合計で約27000人受け入れました。文書資料から、これらの個体の大半はアフリカ西部中央から来た、と示唆されていますが、その正確な起源は不明です。本論文は、セントヘレナ島の解放されたアフリカ人を記念し、その生活と経験の知識を回復するためのより広範な試みの一部として行なわれた、古代DNA解析の結果を報告します。

 セントヘレナ島での考古学的発掘において遺骸が回収されてきた20個体の、部分的なゲノム(0.1~0.5倍)が生成されました。解放されたアフリカ人のゲノムがサハラ砂漠以南のアフリカ全体の90の人口集団から得られた現代人3000個体以上の遺伝子型データと比較され、解放されたアフリカ人個体はアンゴラ北部とガボンとの間の一般的な地域内のさまざまな供給源人口集団起源である可能性が最も高い、と結論づけられます。解放されたアフリカ人個体の大半(20個体のうち17個体)は男性であることも分かり、大西洋横断奴隷貿易の後半におけるよく記録されている性別の偏りを裏づけます。本論文はセントヘレナ島の解放されたアフリカ人共同体の理解を深め、古代DNA解析が、生涯を奴隷制度とその廃止の物語に結びつけられた個体の起源と帰属意識の調査にどのように使用できるのか、示します。


●研究史

 16世紀~19世紀の間に、1億2500万人以上のアフリカ人がアフリカの故郷から誘拐され、アメリカ大陸で奴隷として売られました。歴史資料は奴隷化されたアフリカ人における大西洋横断奴隷貿易の量と構造の変化について多くを明らかにしてきましたが、そうしたアフリカ人はアフリカのどこに起源があるのか、確認することはずっと困難でした。最近、古代人および現代人のDNA研究が、奴隷化されたアフリカ人およびアメリカ大陸やその地域の子孫の祖先の起源と経験に関する新たな情報を提供し始めました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。一方で、考古学者は、ニューヨーク・アフリカ人埋葬地計画などでモデル化されたように、調査計画と研究における関連する子孫共同体の重要性と価値を強調してきました。

 南大西洋のセントヘレナ島は、大西洋横断奴隷貿易とその廃止の歴史において重要な役割を果たしました。1840~1867年の間に、セントヘレナ島はイギリス海軍により奴隷船から救出された「解放されたアフリカ人」を約27000人受け取りました(図1)。こうした個人のほとんどは、南アフリカやカリブ海のイギリス植民地に契約労働者として移動したので、セントヘレナ島に長くは留まりませんでした。しかし、少数の解放されたアフリカ人はセントヘレナ島での定住を許可され、そうした人々の多くは20世紀まで暮らしました。現在、セントヘレナ島で認識されたそのようなアフリカ人の子孫共同体は存在しませんが、セントヘレナ島の解放されたアフリカ人の子孫は、数千人ではないとしても数百人が、セントヘレナ島の内外に存在しているに違いないことは明らかです。以下は本論文の図1です。
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 セントヘレナ島の解放されたアフリカ人の起源は、多様だった可能性が高そうです。大西洋横断奴隷貿易のデータベースの記録から、解放されたアフリカ人の大半はアフリカ西部中央起源で、少数はベニン湾と南アフリカの南アフリカのキリマネ(Quilimane)港出身だった、と示唆されています。これらの人数は副海事裁判所のデータと一致しており、セントヘレナ島行きの奴隷運搬の拿捕船の大半はアフリカ西部中央の沿岸で捕獲されており、セントヘレナ島に駐留していたイギリス海軍の兵員の個人的報告も同様で、アフリカ人の大半はコンゴとアンゴラとベンゲラの地域出身で、少数がモザンビーク出身でした。しかし、解放されたアフリカ人が正確にはどこの出身なのか、あるいは沿岸部輸送地点に到達する前にどのくらい内陸を移動したのかは、不明なままです。

 セントヘレナ島で専門的に主導された考古学的発掘は、セントヘレナ島で最初の空港の建設と関連する道路工事の前に、2007年と2008年に行なわれ、セントヘレナ島北部のルパート渓谷(Rupert’s Valley)の2ヶ所の標識のない大きな墓地の発掘につながりました。合計で325個体の遺骸が178基の墓から回収され、被葬者は19世紀半ばにセントヘレナ島で死亡した解放されたアフリカ人の遺骸である可能性が最も高そうである、とすぐに明らかになりました。遺骸の発掘は地域社会にさまざまな感情を引き起こしましたが、セントヘレナ島のほとんどの住民はそれを必要なものとして受け入れました。しかし、遺骸は再埋葬されるべきとの広い合意がありましたが、当初は、再埋葬をどのようにどこで正確に行なうべきなのか、明らかではありませんでした。再埋葬計画に関する公的協議会の後に、遺骸は最終的に2022年8月の式典でルパート渓谷に再埋葬され、セントヘレナ島の解放されたアフリカ人を追悼し、知識伝達の機会を提供するために、その場に記念碑と解釈の中心施設を建設する計画が現在進行中です。

 この研究は、解析生活と経験の知識を復元するためのより広範な試みの一環として、古代DNA解析を用いて、セントヘレナ島の解放されたアフリカ人の起源と帰属意識の調査に着手しました。2012年9月と10月にセントヘレナ島を訪れたさいに、地域社会の構成員と計画が検討されました。研究者側が受け取った反応は全体的にたいへん肯定的で、多くのセント人(セントヘレナ島住民の自称での略記)は、セントヘレナ島の解放されたアフリカ人の起源について収集できるかもしれない情報に特別な価値を見ていました。それ以降、地域社会の特定の構成員は研究に特別な関心を抱いてきました。自身の家族史をより深く掘り下げ、セントヘレナ島の解放されたアフリカ人とのつながりの可能性を解明する好奇心に駆られて、セントヘレナ島の地域社会の住民は商用DNA検査を受け、それにより明らかになることを知りたがりました。2022年11月にオンラインセミナー中に(新型コロナウイルス感染症による制約のため)この計画の結果と商用DNA検査の背景にある科学について検討され、教育情報源として、およびセントヘレナ島で計画されている解釈総合施設の文脈でこの結果を用いる計画があります。


●資料と手法

 古代DNA解析のため、63個体が標本抽出されました(図2)。遺骸への損傷を最小限にするため、各個体から歯が1本だけ標本抽出されました。標本抽出された63個体のうち、成人男性は32個体、成人女性は16個体で、骨格に基づいて遺伝的性別を判断できなかった亜成体は15個体でした。文化的な歯の改変の証拠がある歯は、文化的情報を有しているので、標本抽出では避けられました。古代DNAライブラリのヒトDNA含有量を増やすため、ヒト内在性DNA含有量が0.1%超のライブラリ20点が、全ゲノム濃縮とさらなる配列決定に用いられました。X染色体とY染色体にマッピング(多少の違いを許容しつつ、ヒトゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)された読み取りの合計数と比較しての、Y染色体読み取りの観察された割合の計算により、性別が決定されました。個体間の遺伝的親族関係はREADで判断されました。片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)も分析され、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)が決定されました。以下は本論文の図2です。
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 個体の遺伝的類似性を評価するため、異なる3点の参照データセットを用いて、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました。その参照データセットは、(1)644117の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)で遺伝子型決定されたヒトゲノム多様性計画(Human Genome Diversity Project、略してHGDP)の53の世界中の参照人口集団から得られた938個体のデータセット、(2)サハラ砂漠以南のアフリカの現在の90の人口集団の3098個体から得られた、216168のSNPを含むアフリカ全体のデータセット(図3A)、(3)アンゴラとガボンとカメルーンとモザンビークの39人口集団の1121個体から得られた414839のSNPのより小さなアフリカ人データセットです。以下は本論文の図3です。
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 教師なしADMIXTUREがアフリカ全体のデータセットにおいて、K(系統構成要素数)=2~10で実行されました。最小交差検証(cross-validation、略してCV)誤差値を生成するKは、K=7で得られました。セントヘレナ島の個体を除いて、参照データセットでは人口集団のそれぞれについて平均的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合が示されています(図3D)。データセットの個体と参照人口集団との間の関係をさらに調べるため、アレル(対立遺伝子)頻度により重み付けされた対での重み付けIBS(Weighted identity-by-state、同じアレルを有していること、略してwIBS)得点が計算されました。標本規模の小ささに起因する偏りを避けるため、wIBS得点は5個体以上の参照人口集団の個体のみで計算されました。


●古代DNAデータ

 ライブラリの最初の選別ではさまざまな水準のDNA保存が明らかになり、ヒト内在性DNAの含有量の範囲は0~48%でした。全ゲノム捕獲とさらなる配列決定後に、0.1~0.5倍の網羅率の平均深度で20点の低網羅率のゲノムが得られました。全てのライブラリは古代DNAに典型的な特徴を示し、それには短い平均断片長(100塩基対未満)と特徴的な断片化および脱アミノ化パターンが含まれます。男性の半数体X染色体に基づくゲノム規模の汚染推定値は低く、1.4~6.3%の範囲でした。個体254号および351号ではmtDNAに基づくより高い汚染推定値が得られましたが、そのゲノム規模推定値は他の個体と同等で、許容範囲内に収まり、研究からは除外されませんでした。


●遺伝的性別と生物学的近縁性

 分子的性別の結果から、本論文のデータセットの大半(20個体のうち17個体)は男性と明らかになりました。データセットの成人16個体については、DNA解析結果は骨格形態計測分析に基づく以前に刊行された結果と一致しました。さらに、骨格形態に基づくと生物学的性別を判断出来なかった未成年4個体の性別を判断できました。その4個体のうち、3個体は男性で、1個体は女性でした。親族関係分析は、データセットの配列決定された個体間で密接な関係(つまり、1親等もしくは2親等)がないことを明らかにしました。


●片親性遺伝標識

 予測されたように、セントヘレナ島の全個体はアフリカのmtDNAの大ハプログループL内の下位クレード(単系統群)に分類されました。最も一般的なmtHgはL2a1fで、これはアフリカ西部中央でよく見られ、バントゥー諸語話者集団の拡大を伴う南方への拡大前となる5000年前頃に起源がある、と考えられています。全体的に、セントヘレナ島の個体群におけるmtHgの頻度分布は、アフリカ西部およびアフリカ西部中央の人口集団と最も類似しているようです。これは、mtHgに基づくPCAにも反映されており、セントヘレナ島の個体群はアフリカ西部の現代の参照人口集団と最も近くなっています。

 男性では1個体を除いて全個体がYHg-E1b1a1もしくはそのさまざまな下位クレードに分類されました。E1b1a1は、サハラ砂漠以南のアフリカで最も一般的で、多様化したYHgです。YHg-E1b1a1はアフリカ西部もしくはアフリカ西部中央で4万年前頃に起源があり、バントゥー諸語話者集団の拡大とともにアフリカ南部および東部に拡大した、と考えられています。現在、YHg-E1b1a1はとくにアフリカ西部およびアフリカ西部中央全域のニジェール・コンゴ語族話者において一般的で、アフリカ外のアフリカ人子孫の共同体でも見られます。個体436号はmtHg-B2a1a1a1に分類され、これはサハラ砂漠以南のアフリカ全域に広く分布していますが、カメルーンの一部の人口集団でより一般的なようです。


●ゲノム規模祖先系統推定

 PCAの結果は図3に示されています。図3Bでは、セントヘレナ島の個体群がアフリカ西部中央、とくにアンゴラとカメルーンとガボンの人口集団とクラスタ化している(まとまっている)、と見ることができます。より地域的な規模では、セントヘレナ島の個体群はアンゴラとガボンの参照人口集団と最も密接にクラスタ化します(図3C)。対照的に、カメルーンとモザンビークは、この分析に基づくと、セントヘレナ島の個体群の可能性のある起源地としては、除外できる可能性が最も高そうです。PCAの結果はADMIXTUREの結果(図3D)に反映されており、セントヘレナ島の個体群が有している祖先系統の割合は、アフリカ西部中央の現在のバントゥー諸語話者人口集団、とくに現在のアンゴラとガボンに暮らす人口集団で見られるものと最も類似している、と示唆されます。

 PCAとADMIXTUREの結果での低網羅率の影響を評価するため、6万と3万と15000ヶ所の重複部位へと網羅率の最高深度(個体213号)で無作為に個体が低解像度処理され、それぞれ独立した10の複製が生成されました。その結果、3万ヶ所の重複部位に低解像度処理すると、PCAの結果は実質的に変わらない、と示唆されます。しかし、15000ヶ所の部位では、位置のわずかにより広い拡大が観察されるので、3万ヶ所未満の重複部位の個体については、PCAの位置が不正確かもしれないことに要注意です。ADMIXTURE分析については、6万と3万と15000ヶ所の重複部位を用いて、個体213号で3回分析が繰り返されました。その結果、この分析は15000ヶ所程度の重複部位の個体でさえかなり堅牢である、と示唆されます。


●Wibs分析

 図4は、本論文のデータセットにおける各個体の正規化されたwIBS得点を示しています。正規化されていないwIBS得点は表S12に掲載され、図S9に示されています。強調表示された四角形は、最高のwIBS得点の参照人口集団を示します。対での順列検定に基づくあり得る供給源人口集団として除外できる人口集団は、∗(p≤0.05)と∗∗(p≤0.001)で示されています。これらの結果はD統計とその対応するZ得点によりさらに裏づけられ、参照人口集団はどれも、最大wIBS得点の個体群とよりもセントヘレナ島の個体群の方と有意に近くはない、と示唆されています。これらの結果に基づくと、カメルーンとモザンビークの人口集団は、本論文のデータセットにおける個体群の可能性のある供給源人口集団として除外できます。逆に、アンゴラとガボンのいくつかの人口集団は除外できません。以下は本論文の図4です。
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●考察

 セントヘレナ島の解放されたアフリカ人の祖先系統と地理的起源に関する本論文の詳細な評価から、配列決定できた20個体は、アンゴラ北部とガボンの間の一般的な地域内のどこかの出身である可能性が最も高そうである、と示唆されます。これらの結果は、19世紀を通じてアフリカ中央部からの貿易が、それまで奴隷化されたアフリカ人の供給と輸送を支配してきたルアンダおよびアンゴラ中央部のベンゲラから、アンゴラ北部、とくにルアンダの北側のガボン南部とアンブリス(Ambriz)との間の地域へと移行した、と示唆する歴史資料と一致します。じっさい、この期間におけるアンゴラ北部からの貿易は、他地域と比較してけた違いに多かったようでするしたがって、1840~1867年にセントヘレナ島に連行された解放されたアフリカ人の大半はアンゴラ北部出身だった可能性が高いようです。

 本論文の結果から、アフリカ中央部の人口集団との一般的な類似性にも関わらず、セントヘレナ島の個体群がおそらく単一の供給源人口集団に由来しなかったことも示唆されます。これはwIBSの結果で最も明らかに見られ、セントヘレナ島の個体の一部はアンゴラの現在の人口集団と最も密接に関連していますが、他の個体はガボンの人口集団とより大きな類似性を示す(図3)、と示唆されます。これらの観察は、セントヘレナ島の解放されたアフリカ人は民族的および言語学的に多様だった、と示唆する歴史的記述と一致します。したがって、いくつかの記述は、セントヘレナ島の解放されたアフリカ人が多くの言語を話していたことで一致していますが、相互にどの程度理解できたかについては一致していません。ある観察者によると、「ベンゲラ」語が最も一般的でしたが、コンゴのさまざまな方言や「わけのわからない言葉」も話されていました。全体的に、複数の一連の証拠を組み合わせると、セントヘレナ島の解放されたアフリカ人の大半はアンゴラ北部とコンゴとガボンの一般的な地域内の多様な共同体出身だった、と示唆されます。

 本論文の分析では、データセットの個体の大半(20個体のうち17個体)が男性だったことも明らかになっています。これは、ルパート渓谷のヒト遺骸の骨学的分析と一致しており、個体の82%は性別が男性と判断できる、と報告されました。歴史資料から、全体としてより高い割合の男性が奴隷貿易の期間に大西洋を越えて輸送され、捕虜のほぼ2/3は男性で、1/3が女性だった、と示唆されています。この男性への偏りは、19世紀半ばの大西洋横断奴隷貿易の最終段階においてとくに顕著だったようで、本論文の結果はこれらの数字と一致します。

 本論文の結果は、歴史資料に基づく予測と大まかに一致しますが、遺伝学的手法を用いての限界の一部も浮き彫りにします。mtDNAとY染色体の結果はアフリカ中央部起源と一致しますが、解像度が足りません。ゲノム規模分析は、アフリカ内の可能性のある供給源人口集団の範囲を絞り込むのに役立ちますが、現時点では、確実に特定の供給源人口集団を特定することはまだできません。これは部分的には、アフリカの人口集団がゲノム規模関連研究(genome-wide association study、略してGWAS)とヒトの遺伝的差異に関する他の研究では依然としてたいへん過小評価されている、という事実に起因します。じっさい、サハラ砂漠以南のアフリカには2000以上の民族言語集団が存在し、そのうちごく少数のみが遺伝学的研究のため標本抽出されてきました。たとえば、本論文の参照データセットに今後の個体は含まれておらず、その地域の参照人口集団を特定する能力が制約されます。

 もう一つの制約は、現代人の参照データしかないことです。これが問題なのは、人口集団もしくは民族集団が時間的に固定された閉鎖的で性的な単位ではなく、その組成が外圧もしくは内部の動態に対応して経時的に変化するかもしれない動的な実態だからです。たとえば、戦争や襲撃や暴力が大西洋横断奴隷貿易期間においてアンゴラの何千もの人々の内部置換につながった、と主張されてきており、仮名時ことが同様に他地域にも当てはまる、と仮定できます。これらの移動がどの程度アフリカの遺伝的景観を変えたのか、依然として不明確ですが、奴隷貿易の時期以降に変化しないままだった可能性は低いようです。とくに、人口集団間の一部の混合は、過去200年間にわたって起きていた可能性が高そうです。

 これらの制約にも関わらず、本論文は、古代DNA解析が、その過去の詳細が強制的排除や植民地の暴力により不明瞭になった人口集団の歴史の復元にどのように役立てるのか、という別の事例を提供します。そうした知識は歴史資料を補完できますが、おもに排除と暴力を実行した人々により書かれた支配的な植民地の物語に異議を唱えることにも使用できます。その意味で、DNAは単純に歴史的事象と生きた経験の再構築に使用できる情報の別の供給源で、少数の歴史と状態の説明により、多くの状態を説明できるよう、希望されます。

 現時点で、個体の起源を特定する能力は、民族集団および/もしくは全地理的地域の疎らな標本抽出により制約されており、世界の他地域(たとえばヨーロッパ)で報告されてきたように、これはそうした詳細な構造の検出能力を低下させます。しかし、アフリカ全域のさまざまな民族集団のより密な標本抽出が、アフリカの人口集団の詳細な遺伝的構造や複雑な混合史を明らかにするにつれて、この限界は近い将来に克服される可能性が高そうです。本論文は、比較的少数の個体でしかデータを生成できなかった、という事実にも制約されました。より多くの標本に基づく将来の研究はより複雑な歴史を明らかにするかもしれませんが、セントヘレナ島の地元の地域社会を含む遺伝学的検証には、セントヘレナ島の内外に暮らす子孫との長く失われていたつながりを明らかにする可能性があります。


参考文献:
Sandoval-Velasco M. et al.(2023): The ancestry and geographical origins of St Helena’s liberated Africans. The American Journal of Human Genetics, 110, 9, 1590–1599.
https://doi.org/10.1016/j.ajhg.2023.08.001

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