沖縄島と宮古諸島の人類集団の形成史
沖縄島と宮古諸島の人類集団の形成史に関する研究(Koganebuchi et al., 2023)が公表されました。日本語の解説記事もあります。本論文は、現代人と古代人のゲノムデータに基づいて、宮古諸島と沖縄島の現代人集団の形成過程を検証しています。本論文は、琉球諸島の現代人集団が、共通の琉球「縄文人」集団を祖先として、グスク時代における本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」からの移民による強い遺伝的影響下で成立したことを示しています。本論文の見解は大枠では正しい可能性がきわめて高そうですが、今後、琉球諸島の古代ゲノム研究の進展により、琉球諸島の現代人集団の形成過程がより詳しく解明されていくのではないか、と期待されます。
●要約
琉球諸島は日本列島の最南端に位置し、いくつかの島嶼群から構成されます。各島嶼群には独自の歴史と文化があり、日本列島本土のそれとは異なります。琉球諸島の人々は遺伝的に細分化されますが、その詳細な人口統計学的歴史は不明なままです。本論文は、宮古諸島と沖縄島の住民間の遺伝的分化に焦点を当てて、琉球諸島の計50人の全ゲノム配列決定分析の結果を報告します。宮古諸島と沖縄島の住民は主成分分析(principal component analysis、略してPCA)およびADMIXTURE分析で異なってクラスタ化し(まとまり)、宮古諸島の人々には人口構造が存在する、と確証されました。
本論文は、人口分化がおもに、日本列島本土もしくは台湾など主変地域からの移住率の違いではなく、遺伝的浮動により起きた、との仮説を裏づけます。さらに、宮古諸島と沖縄島で観察された遺伝的勾配は、これらの島々を越えての繰り返しの移住により説明できます。本論文の分析から、新石器時代の琉球縄文時代における複数の亜集団の存在は、琉球諸島の現代の人口集団の説明に重要ではないことも示唆されました。しかし、日本列島本土との混合の期間における複数の亜集団との仮定は、現代の琉球諸島の人口集団の説明に必要です。本論文の調査結果は、琉球諸島の複雑な人口史の解明に役立てる洞察を追加します。
●研究史
琉球諸島は日本列島の差異何分に沿って1000km以上にわたって分布する島嶼で、主要な4諸島、つまり奄美諸島と沖縄諸島と宮古諸島と八重山諸島に別れています(図1)。九州本土と沖縄諸島、沖縄諸島と宮古諸島、宮古諸島と石垣諸島、石垣諸島と台湾との間の距離は、それぞれ約660kmと290kmと120kmと290kmです。考古学的証拠から、これらの諸島は独自の発展や外部からの影響により異なる先史時代の分化を有していた、と示唆されてきました。以下は本論文の図1です。
日本列島では、旧石器時代の骨格遺骸は、港川フィッシャー遺跡(22000~20000年前頃)やサキタリ洞遺跡(37000~20000年前頃)やピンザアブ洞遺跡(29000年前頃)や白保竿根田原洞穴遺跡(16000年前頃と20000年前頃)など、ほぼ琉球諸島の亀裂から回収されてきました。旧石器時代の後に琉球諸島では、貝塚時代の期間(6700~700年前頃)の開始まで生息の証拠のほとんどない期間がありました。九州地域の縄文文化に影響を受けた貝塚文化の証拠は琉球諸島北部(奄美諸島と沖縄諸島)で発見されてきましたが、琉球諸島南部(宮古諸島と八重山諸島)では見つかっていません。したがって、この期間には琉球諸島の南北間に文化的境界が存在した、と提案されてきました。
琉球諸島南部では、下田原文化(4200~3500年前頃)と無土器文化(2500~900年前頃)が確認されてきました。この二つの文化期の間には、約1000年間の時間的空隙がありました。琉球諸島南部におけるこれらの文化の起源については依然として議論されていますが、一部の考古学者の仮説は、これらの文化が台湾とフィリピン北部の分化に影響を受けた、というものでした。800年前頃、グスク文化が南北の琉球諸島に現れました。おそらくは日本列島「本土」からの移民と、「中国」との接触により、急速な文化的変化がもたらされました。文化的には南北の琉球諸島を統合したグスク文化は、農耕の出現と鉄器の拡大と競合的な政体により特徴づけられました。その後、琉球王国(1429~1879年)が確立され、政治的には琉球諸島を統一しました。琉球王国の独立統治は、400年前頃に九州南部の薩摩藩による支配のため終了しました。
多くの人類学的研究が、日本人集団の歴史を再構築しようと試みてきました。古代DNAの最近の研究により、「縄文人」はアジア東部人の基底部系統から分岐し、長期にわたってアジア大陸部人口集団から孤立していた、と明らかにされてきました(関連記事1および関連記事2)。形態学および遺伝学の研究から蓄積された証拠は、現代の日本列島の人々が、弥生時代もしくはその後の期間における在来の縄文時代の狩猟採集民とアジア東部大陸部からの移民の混合により形成された、との仮説を裏づけます(関連記事)。ゲノム規模の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)と全ゲノム配列決定データから、琉球諸島現代人は遺伝的に「本土」日本人と異なっている、と示されてきました(関連記事)。琉球諸島現代人は「本土」日本人集団よりも「縄文人」からの遺伝的寄与を大きく受け取った、と示唆されてきました。
以前の遺伝学的研究は、琉球諸島内の人口集団間の遺伝的分化も特定してきました。とくに、ゲノム規模SNPデータから、宮古諸島民は遺伝的に沖縄諸島民と区別でき、遺伝的分化はおもに、台湾先住民集団など琉球諸島を越えての遺伝子流動ではなく、これら人口集団間の孤立によって生じた、と示唆されています。沖縄諸島と宮古諸島の人々の間の分岐年代は数百もしくは最長でも数千年と推定されてきており、琉球諸島の旧石器時代の人々(2万年前頃)が琉球諸島現代人の主要な祖先ではなかった、と示唆されています。より新しい研究は宮古諸島内の人口構造を調べ、これは恐らく沖縄諸島からの複数の移住により形成されました。しかし、沖縄諸島と宮古諸島における人口集団の形成過程は、琉球諸島の「縄文人」とグスク時代以後の日本列島「本土」からの移民との間の混合を考慮して充分には検証されてきませんでした。
本論文では、全ゲノム再配列決定(whole-genome resequencing、略してWGS)を用いて集団遺伝学的分析が実行され、琉球諸島の人々の詳細な人口統計学的歴史が解明されました。SNP配列を用いての先行研究では、確認の偏りのため、集団遺伝学的分析に情報をもたらすヌクレオチド多様性と部位頻度範囲の正確な評価は困難でした。WGSデータは、ある人口集団の人口統計学的歴史のより正確な推定値を提供する、と予測され、それは、WGSデータには確認の偏りがなく、稀な多様体に関しての情報を含んでいるからです。本論文は、沖縄諸島と宮古諸島の人々に焦点を当てて、人口集団の形成過程を決定し、過去の人口規模の変化を特定しました。本論文はとくに、琉球諸島の2ヶ所の地域が日本列島「本土」からの遺伝的影響の観点でどのように異なっているのか、調べました。
●資料と手法
沖縄諸島の25人と宮古諸島の25人、計50人がこの研究に参加しました。沖縄諸島の25人は沖縄島出身で、宮古諸島の25人は沖縄西部情報銀行から特定され、その内訳は宮古島が17人、池間島が2人、伊良部島が4人、多良間島が2人です(図1)。各参加者の祖父母4人全員がそれぞれの島に住んでいる、と聞き取りで確認されました。DNAは血液もしくは唾液から採取され、WGSは(株)マクロジェン・ジャパンで行なわれました。欠損データの割合が0.10未満の、両アレル(対立遺伝子)一塩基多様体(Single Nucleotide Variant、略してSNV)が用いられました。琉球諸島民と本州住民と漢人からの全ゲノム配列決定と共同多様体呼び出しから、5863618個の多様体が見つかりました。Plink1.9版を用いて、近親交配系統(F)と対での同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)推定値(pi_hat)が計算されました。とくに密接な近親関係(Fが0.0625超もしくはpi_hatが0.125超)の個体は存在しなかったので、全標本が分析に用いられました。
遺伝学的統計では、人口集団間の遺伝的差異の過大評価を避けるため、中国の漢人集団において変動的で、各人口集団で0.05超の少数派のアレル頻度を有するSNVのみが用いられました。対での加重平均FST(Fixation index、略して2集団の遺伝的分化の程度を示す固定指数)はsnpStatsパッケージを用いて計算されました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)は、EIGENSOFT(7.2.1版)のsmartpcaを用いて実行されました。人口集団のクラスタ化は、主成分1(PC1)および主成分2(PC2)でのk-平均クラスタ化によって確認されました。参照パネルとして、サイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)から得られたアジア東部および南東部の人々のゲノム配列決定が用いられました。さらに、各個体における遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の程度を特定するため、モデルに基づくクラスタ化がADMIXTUREを用いて実行されました。K(系統構成要素数)=2~4まで、さまざまな数のクラスタ(まとまり)が検証されました。
TreeMixが、分岐する人口集団の系統樹と混合事象を推測するために用いられ、PCAとクラスタ分析から推定された5クラスタを用いて、0~2個の混合端が適合させられました。中国の漢人は外群として設定されましたf₃およびf₄はAdmixToolsを用いて計算されました。qpGraph分析では、漢人と本州の人々と沖縄諸島の人々(OK)と宮古諸島南部の人々(S-MY)と宮古諸島北部の人々(N-MY)に加えて、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の女性の「縄文人(F23)」のゲノムデータが用いられました。古代DNAデータを含めたため、分析は全てのSNVもしくは異性塩基対置換(transversion、プリン塩基、つまりアデニンおよびグアニンと、ピリミジン塩基、つまりシトシンとチミンとの間の置換)のみを用いて(1885361のSNV)実行されました。古代琉球諸島人口集団、つまり琉球諸島の「縄文人」と沖縄諸島の「縄文人」と宮古諸島の「縄文人」と沖縄諸島のグスク時代住民と宮古諸島のグスク時代住民を仮定して、以前に報告されたあり得る混合事象を含めて、人口史がモデル化されました。世代ごとの塩基対あたりの変異率は、1.25×10⁻⁸に固定されました。標本数の違いによる影響を検証するため、中国の漢人と本州の人々とOKとS-MYの集団で5点の標本が10回無作為抽出されたデータセットが準備され、同じ推定が実行されました。
●WGSデータにおける遺伝的差異
沖縄諸島民(25個体)と宮古諸島民(25個体)から合計50個体のWGSデータが、平均深度36.3倍(最大で46.9倍、最小で29.4倍)で得られました。北京の中国の漢人(Chinese Han in Beijing、略してCHB)の1000人ゲノム計画の深い配列決定データから得られた、本州の日本人(25個体)と中国の漢人(25個体)のデータも用いられました。集団遺伝学的分析のためGATK3を用いて共同で多様体が呼び出され、5863618のSNVが特定されました。
日本列島の3人口集団(沖縄諸島と宮古諸島と本州)の全ての組み合わせで、加重平均FSTが計算されました。本州対宮古諸島(4.70×10⁻³)は、本州対沖縄諸島(2.79×10⁻³)および沖縄諸島対宮古諸島(2.25×10⁻³)よりも高いFST値を示し、このパターンは距離による分離と一致する、と示唆されます。
●琉球諸島民の人口構造
SGDPから得られた公開されていて利用可能な微小配列(マイクロアレイ)データセットの共同分析により、アジア東部および南東部人口集団における遺伝的構造パターンがPCAにより調べられました(図2A)。PC1は琉球諸島民(沖縄諸島と宮古諸島)を他のアジア東部および南東部人口集団と区別しました。PC1軸において琉球諸島民に最も近い人口集団は「本土」日本人集団で、それに続くのが韓国人および中国人集団です。しかし、台湾の先住民は、地理的に琉球諸島民にひじょうに近いにも関わらず、遺伝的に琉球諸島民から遠く離れていました。PC1とPC2の図のパターンは逆「U」字型を示し、これは人口集団の飛び石モデルで通常観察されるパターンです。したがって、PC2における距離は、人口集団間の遺伝的距離に関して直接的情報を提供しないかもしれません。以下は本論文の図2です。
次に、沖縄諸島民と宮古諸島民と本州の日本人と中国の漢人のPCAが実行されました(図2B)。k平均クラスタ化(k=6)後、中国の漢人と本州の日本人が独立したクラスタを形成しました。琉球諸島人口集団については、4クラスタが特定されました。沖縄諸島民24個体は宮古諸島民5個体とクラスタを形成し、これは本論文では沖縄(OK)クラスタ(図2Bの青色の円)と命名され、この宮古諸島の5個体は沖縄諸島からの最近の移民だった、と示唆されます。OKクラスタの隣のクラスタは、宮古諸島民11個体で構成されました。質問表によると、宮古諸島北部地域の宮古島と多良間島と伊良部島のこれらの個体は、他社との比較でひじょうに離れた位置にクラスタ化します(N-MYクラスタ、図2Bの赤色の円)。沖縄諸島民の1個体と宮古諸島民の4個体はN-MYとS-MYのクラスタ間に図示され、これらの個体は宮古諸島の2ヶ所の異なる地域間で混合した、と示唆されます。この観察は、これらの個体の祖父母の出生地の観点では、沖縄諸島民1個体を除いて、質問調査の結果と一致します。
琉球諸島民全員のADMIXTURE分析では、最小交差検証誤差を提供するK値は2で、この場合、中国の漢人が一方の極(緑色)を、N-MYがもう一方の極(赤色)を形成し、残りの個体は中間的でした(図2C)。K=3と仮定すると、沖縄諸島民の祖先的構成要素(青色)が現れ、S-MYクラスタの個体群は2つの構成要素の間で混合を形成するようでした。
●琉球諸島民の人口史
人口集団における系統発生的関係と過去の移住事象を推定するため、クラスタを人口集団とみなしてTreeMix分析が実行されました。0~3回の移住端を有する4点の図が図3で示されます。N-MYクラスタは枝が比較的長いと分かり、強い遺伝的浮動がこの人口集団で起きた、と示唆されます。残差の高い値から、移住なし(m=0)の系統樹モデルと移住1回(m=1)のモデルはデータにあまり適合しない、と示唆されました。2回の移住(m=2)もしくは3回の移住(m=3)のモデルは、データによりよく適合しました。m=2および3では、中国の漢人から本州の日本人への移住端は、おもに弥生時代におけるアジア東部大陸部から日本列島への移住を示唆した可能性が高そうです。
しかし、他の移住端は、歴史的および考古学的知識に従って単純には解釈できません。ある移住端は本州およびOKクラスタの分岐点で始まり、S-MYクラスタで終わりましたが(m=2および3)、他の端はN-MYクラスタの分枝で始まり、本州日本人ので終わりました(m=3)。実際の人口統計学的歴史はより複雑かもしれず、TreeMix分析は移住端の数を過小評価し、モデルを単純化する可能性があります。そうした場合、枝の形態と長さが歪み、残差を最初化するよう非現実的な端が描かれるかもしれません。したがって、TreeMixの結果を慎重に解釈する必要があります。以下は本論文の図3です。
人口集団間の遺伝子流動をさらに評価するため、f₃およびf₄統計を用いてデータが検証されました。f₃検定(S-MY;N-MY、OK)は有意に負の値を返し(図4A)、S-MY人口集団がN-MYおよびOKの人口集団間の混合により形成された、と示唆されます。しかし、f₄(本州、OK;S-MY、N-MY)およびf₄(漢人、OK;S-MY、N-MY)検定は、ゼロから有意に逸脱せず(図4B)、OKおよびS-MYの人口集団間の相互作用はこれらの検定では有意ではなかった、と示唆されます。YとZが琉球諸島人口集団を表す f₄(漢人、本州;Y、Z)とf₄(ムブティ人、本州;Y、Z)とf₄(ムブティ人、漢人;Y、Z)を検証すると、統計は有意な値を返しませんでした。Zが琉球諸島人口集団を表すf₄(ムブティ人、漢人;本州、Z)は有意に負で、本州の人々は琉球諸島人口集団よりもアジア東部大陸部人口集団から大きな遺伝的影響を受けた、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
f₄統計を用いて、「縄文人」からの遺伝的寄与も検証されました。「縄文人(F23)」のデータを含める、つまりf₄(ムブティ人、F23;Y、Z)だと、統計量の有意な値は「縄文人」の寄与率の観点ではYとZの人口集団間の違いを示します。その結果、琉球諸島人口集団への「縄文人」の遺伝的影響は本州の日本人より大きかった、と論証されました(図4B)。さらに、この結果は琉球諸島の3人口集団への「縄文人」の遺伝的影響に有意な違いがないことも示唆しました。これらの結果から、沖縄諸島と宮古諸島の人口集団間の遺伝的違いは、「縄文人」と弥生時代の移民との間、もしくは本州と琉球諸島の人口集団間の遺伝的差異とは独立した形成された、と示唆されます。
台湾先住民(Taiwanese aborigines、略してTWA)からの遺伝子流動が、沖縄諸島と宮古諸島の人口集団間の遺伝的差異をもたらした可能性も検証されました。Zが琉球諸島人口集団を表すf₄(ムブティ人、TWA;本州、Z)の値は、ゼロから有意に逸脱しませんでした(図4B)。この結果から、TWAからの遺伝子流動は琉球諸島人口集団間の遺伝的分化の主因ではない、と示唆されます。
琉球諸島人口集団がどのように形成されたのか調べるため、qpGraphを用いて過去の人口集団の分岐と混合がモデル化されました。考古学および人類学の証拠に基づいて、TreeMix分析での推定よりも複雑なモデルが仮定され、そのモデルでは、現代の琉球諸島人口集団はグスク時代もしくはその前に琉球諸島の先住狩猟採集民(琉球諸島「縄文人」)と日本列島「本土」からの移民との間の混合と、その後の人口集団間の相互作用で形成されました。この分析では、3通りの異なる仮定的状況が検討されました。第一の仮定的状況では、琉球諸島の「縄文人」集団が宮古諸島民と沖縄諸島民の祖先間で分化した、と仮定されました(図4C)。第二の仮定的状況では、琉球諸島には1「縄文人」集団だけが存在し、グスク時代の初期段階における琉球諸島の「縄文人」と日本列島「本土」の移民との間の混合は、沖縄諸島民と宮古諸島民の間で異なっていました(図4D)。第三の仮定的状況では、「本土」日本人との混合の時点で、1任意交配人口集団のみが存在し、その後で人口集団は分岐した、と仮定されました(図4E)。
結果として、これらのモデルの全てが許容可能で、最低のZ得点は3未満であり、第二のモデル(図4D)が最小の最低Z得点値(0.818)でした。さらに、最初のモデル(図4C)では、琉球諸島「縄文人」から沖縄諸島「縄文人」および宮古諸島「縄文人」への浮動媒介変数は両方とも0で、このモデルは第二のモデルと実質的に同じである、と示唆されました。したがって、第二のモデルがデータに最適と考えられました。第三のモデル(図4E)は却下されませんでしたが、本論文の結果から、1琉球諸島「縄文人」集団との仮定で充分である、と示唆されました。異性塩基対置換と同性塩基対置換(transition、プリン間やピリミジン間の置換)の両方を用いての推定も、第二モデルが最適と示唆しました。
最後に、有効人口規模の変化を解明するため、部位頻度範囲に依存するMC++手法が適用されました。過去の有効性の軌跡(図5)に基づいて、5人口集団は全て、約2000~5000世代前に出アフリカボトルネック(瓶首効果)を経た、と推測されました。そのボトルネック事象後に、漢人と本州とOKのクラスタはほぼ人口規模を維持しました。対照的に、N-MYおよびS-MYクラスタの人口規模は約70世代前に減少しました。減少の程度はS-MYクラスタよりもN-MYクラスタの方で大きくなっていました。標本規模縮小データセットを使用した分析では、S-MYを除いて、漢人と本州とOKとS-MYの各クラスタは、最近の人口規模縮小への傾向を示しませんでした。したがって、これらのデータから、N-MYクラスタの標本数の少なさは分析における人口規模縮小の理由ではない、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
●考察
琉球諸島民の人口構造と歴史の解明には、大きな学際的関心が寄せられています。WGSデータを調べた本論文は、起きたと宮古諸島民との間の遺伝的分化を確証しました。PCAおよびADMIXTURE分析のパターン(図2)は、SNP微小配列データを用いての先行研究で観察された、琉球諸島民の遺伝的勾配を明らかにしました。
琉球諸島における人口集団の分化は、日本列島「本土」や台湾など琉球諸島外からの遺伝子流動の違いではなく、おもに遺伝的浮動により引き起こされたかもしれません。本論文もこの可能性を裏づけます。N-MYクラスタの人口規模減少は、TreeMixの長い枝(図3)や、qpGraphでのN-MYに向かう浮動端の値や(図4C~E)、SMC++における過去の人口統計学的変動(図5)により推測されました。人口規模減少はIBD断片に基づくSNP配列データを用いての以前の推定と一致しましたが、SMC++分析は最近の人口増加を検出しませんでした。さらに、「本土」日本人もしくは台湾先住民からの遺伝子流動の程度の違いを示唆する有意な証拠が見つかりませんでした。
宮古諸島では、無土器文化がグスク時代の前に確認されました。無土器文化を開発した人々の起源はまだ不明ですが、一部の考古学者は、無土器文化が台湾およびフィリピン北部のオーストロネシア文化と共通点を有している、と仮定してきました。古代DNAの最近の研究では、宮古島の無土器文化期の長墓遺跡の先史時代個体群は「縄文人」の遺伝的祖先系統を有していた、と示唆されました(関連記事)。本論文は、無土器文化を開発した人々を特定しませんでしたが、本論文のデータは、台湾先住民が現代の宮古諸島民の形成に関わった、との見解を裏づけません。
f₄統計分析の結果は、「縄文人」狩猟採集民からの遺伝的寄与の観点で、琉球諸島人口集団間のわずかな非有意差を明らかにしました(図4B)。混合図(図4D)からも、日本列島「本土」からの人々との混合率が、琉球諸島の南北の島民間でわずかに異なっていた(北部では77%、南部では81%)、と示唆されました。この結果は予期せぬもので、それは、宮古諸島が地理的に沖縄諸島よりも日本列島「本土」から遠いためです。
混合図(図4D)からはさらに、「本土」日本人は「本土縄文人」(17%)と弥生時代の移民(83%)との間の混合で形成された、と論証されました。したがって、「本土」日本人と琉球諸島「縄文人」との間の混合を検討すると、琉球諸島民では「縄文人」の遺伝的構成要素は合計で約36% と計算され、これは「本土」日本人の1.4倍の値です。先行研究では、「本土」日本人と琉球諸島民の「縄文人」祖先系統の割合が推定されてきました(関連記事1および関連記事2)。ある先行研究(関連記事)では、別の供給源人口集団としてCHBを検討すると、「縄文人」の遺伝的寄与は現代日本人では9%(qpGraph)と13.7%(f₄比検定)、琉球諸島民では27.4%(f₄比検定)だった、と報告されました。本論文の推定混合率は先行研究よりも高く、推定率の違いは参照人口集団と想定モデルに依拠しているかもしれません。
琉球諸島民の移住にはさまざまな仮定的状況が考えられます。一つの可能性は、宮古諸島で無土器文化を発展させた人々は、最近の古代DNA研究(関連記事)が示唆したように琉球諸島「縄文人」に起源があり、現代の宮古諸島民に遺伝的に寄与した、というものです。もう一つの考慮すべき点は、複数の亜集団がグスク時代の初期段階に存在したかどうかです。これらの点を検討するため、混合図を用いて琉球諸島人口集団の形成に関して3通りの仮定的状況が調べられました。本論文の分析から、グスク時代初期に複数の亜集団が存在した(図4D)、と示唆され、その時点での任意交配集団を想定する仮定的状況は却下されました。
本論文の分析から、琉球諸島「縄文人」の複数の亜集団の想定(図4C)は必要ないことも示唆されました。これが意味するのは、無土器文化を発展させた人々は、その起源がどの場合であれ、現代の宮古諸島民に大きな遺伝的寄与をしなかっただろう、ということです。最後に、日本列島「本土」からの移民との任意交配の琉球諸島「縄文人」集団の混合が、沖縄諸島と宮古諸島の人口集団の祖先間でさまざまな在り様で起きた、と示唆する、図4Dで示されるモデルが受容されます。宮古諸島人口集団の祖先の混合が、宮古諸島で起きたとは限らないことに注意すべきです。考古学と歴史学の証拠を考慮すると、沖縄諸島にはいくつかの亜集団が存在し、宮古諸島民はこれらの亜集団のうち一つから派生した、と仮定できます。
地理的に近いN-MYおよびS-MYクラスタ間で遺伝的分化が観察されたことも、注目に値します。N-MYクラスタの個体が池間島と伊良部島に暮らしているのに対して、S-MYクラスタの個体は宮古島と多良間島に暮らしています。歴史的に、池間島の人々は他地域の人々から孤立しており、伊良部島の人々は池間島の人々から派生しました。宮古諸島内の地域間の限定的な相互作用の証拠は、方言の多様性でも見ることができます。宮古諸島にはいくつかの方言があり、池間島で話されている池間方言は他の宮古諸島の方言とはかなり異なります。これらの遺伝学と言語学の分化は、地理および文化および/もしくは政治的孤立により引き起こされたかもしれません。
先行研究では、沖縄諸島から宮古諸島への複数の移住があった、と示唆されました。混合図作成に用いられた本論文のモデル(図4C~E)では、沖縄諸島から宮古諸島への2回の比較的最近の移住が仮定されました。S-MY人口集団の形成についての許容モデル(図4D)では、沖縄諸島からの混合率は最初の移住では58%で、第二の移住では33%でした。琉球諸島民で観察された遺伝的勾配は、地域的境界を越えたそのような繰り返しの移住により説明できます。
結論として、本論文は、宮古諸島の亜集団で起きた遺伝的浮動と地域間の移住により形成された、琉球諸島民間の遺伝的勾配を特定しました。しかし、琉球諸島の人口史の詳細に関して問題が残っています。たとえば、琉球諸島の旧石器時代の人々の起源はどこだったのでしょうか?下田原文化と無土器文化はどのように形成されたのでしょうか?古代人と現代人のゲノムを含む包括的な研究が、琉球諸島の詳細な人口史の解明と、アジア東部島嶼部でのヒトの活動に関する新たな洞察の追加に役立つでしょう。
参考文献:
Koganebuchi K. et al.(2023): Demographic history of Ryukyu islanders at the southern part of the Japanese Archipelago inferred from whole-genome resequencing data. Journal of Human Genetics, 68, 11, 759–767.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01180-y
●要約
琉球諸島は日本列島の最南端に位置し、いくつかの島嶼群から構成されます。各島嶼群には独自の歴史と文化があり、日本列島本土のそれとは異なります。琉球諸島の人々は遺伝的に細分化されますが、その詳細な人口統計学的歴史は不明なままです。本論文は、宮古諸島と沖縄島の住民間の遺伝的分化に焦点を当てて、琉球諸島の計50人の全ゲノム配列決定分析の結果を報告します。宮古諸島と沖縄島の住民は主成分分析(principal component analysis、略してPCA)およびADMIXTURE分析で異なってクラスタ化し(まとまり)、宮古諸島の人々には人口構造が存在する、と確証されました。
本論文は、人口分化がおもに、日本列島本土もしくは台湾など主変地域からの移住率の違いではなく、遺伝的浮動により起きた、との仮説を裏づけます。さらに、宮古諸島と沖縄島で観察された遺伝的勾配は、これらの島々を越えての繰り返しの移住により説明できます。本論文の分析から、新石器時代の琉球縄文時代における複数の亜集団の存在は、琉球諸島の現代の人口集団の説明に重要ではないことも示唆されました。しかし、日本列島本土との混合の期間における複数の亜集団との仮定は、現代の琉球諸島の人口集団の説明に必要です。本論文の調査結果は、琉球諸島の複雑な人口史の解明に役立てる洞察を追加します。
●研究史
琉球諸島は日本列島の差異何分に沿って1000km以上にわたって分布する島嶼で、主要な4諸島、つまり奄美諸島と沖縄諸島と宮古諸島と八重山諸島に別れています(図1)。九州本土と沖縄諸島、沖縄諸島と宮古諸島、宮古諸島と石垣諸島、石垣諸島と台湾との間の距離は、それぞれ約660kmと290kmと120kmと290kmです。考古学的証拠から、これらの諸島は独自の発展や外部からの影響により異なる先史時代の分化を有していた、と示唆されてきました。以下は本論文の図1です。
日本列島では、旧石器時代の骨格遺骸は、港川フィッシャー遺跡(22000~20000年前頃)やサキタリ洞遺跡(37000~20000年前頃)やピンザアブ洞遺跡(29000年前頃)や白保竿根田原洞穴遺跡(16000年前頃と20000年前頃)など、ほぼ琉球諸島の亀裂から回収されてきました。旧石器時代の後に琉球諸島では、貝塚時代の期間(6700~700年前頃)の開始まで生息の証拠のほとんどない期間がありました。九州地域の縄文文化に影響を受けた貝塚文化の証拠は琉球諸島北部(奄美諸島と沖縄諸島)で発見されてきましたが、琉球諸島南部(宮古諸島と八重山諸島)では見つかっていません。したがって、この期間には琉球諸島の南北間に文化的境界が存在した、と提案されてきました。
琉球諸島南部では、下田原文化(4200~3500年前頃)と無土器文化(2500~900年前頃)が確認されてきました。この二つの文化期の間には、約1000年間の時間的空隙がありました。琉球諸島南部におけるこれらの文化の起源については依然として議論されていますが、一部の考古学者の仮説は、これらの文化が台湾とフィリピン北部の分化に影響を受けた、というものでした。800年前頃、グスク文化が南北の琉球諸島に現れました。おそらくは日本列島「本土」からの移民と、「中国」との接触により、急速な文化的変化がもたらされました。文化的には南北の琉球諸島を統合したグスク文化は、農耕の出現と鉄器の拡大と競合的な政体により特徴づけられました。その後、琉球王国(1429~1879年)が確立され、政治的には琉球諸島を統一しました。琉球王国の独立統治は、400年前頃に九州南部の薩摩藩による支配のため終了しました。
多くの人類学的研究が、日本人集団の歴史を再構築しようと試みてきました。古代DNAの最近の研究により、「縄文人」はアジア東部人の基底部系統から分岐し、長期にわたってアジア大陸部人口集団から孤立していた、と明らかにされてきました(関連記事1および関連記事2)。形態学および遺伝学の研究から蓄積された証拠は、現代の日本列島の人々が、弥生時代もしくはその後の期間における在来の縄文時代の狩猟採集民とアジア東部大陸部からの移民の混合により形成された、との仮説を裏づけます(関連記事)。ゲノム規模の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)と全ゲノム配列決定データから、琉球諸島現代人は遺伝的に「本土」日本人と異なっている、と示されてきました(関連記事)。琉球諸島現代人は「本土」日本人集団よりも「縄文人」からの遺伝的寄与を大きく受け取った、と示唆されてきました。
以前の遺伝学的研究は、琉球諸島内の人口集団間の遺伝的分化も特定してきました。とくに、ゲノム規模SNPデータから、宮古諸島民は遺伝的に沖縄諸島民と区別でき、遺伝的分化はおもに、台湾先住民集団など琉球諸島を越えての遺伝子流動ではなく、これら人口集団間の孤立によって生じた、と示唆されています。沖縄諸島と宮古諸島の人々の間の分岐年代は数百もしくは最長でも数千年と推定されてきており、琉球諸島の旧石器時代の人々(2万年前頃)が琉球諸島現代人の主要な祖先ではなかった、と示唆されています。より新しい研究は宮古諸島内の人口構造を調べ、これは恐らく沖縄諸島からの複数の移住により形成されました。しかし、沖縄諸島と宮古諸島における人口集団の形成過程は、琉球諸島の「縄文人」とグスク時代以後の日本列島「本土」からの移民との間の混合を考慮して充分には検証されてきませんでした。
本論文では、全ゲノム再配列決定(whole-genome resequencing、略してWGS)を用いて集団遺伝学的分析が実行され、琉球諸島の人々の詳細な人口統計学的歴史が解明されました。SNP配列を用いての先行研究では、確認の偏りのため、集団遺伝学的分析に情報をもたらすヌクレオチド多様性と部位頻度範囲の正確な評価は困難でした。WGSデータは、ある人口集団の人口統計学的歴史のより正確な推定値を提供する、と予測され、それは、WGSデータには確認の偏りがなく、稀な多様体に関しての情報を含んでいるからです。本論文は、沖縄諸島と宮古諸島の人々に焦点を当てて、人口集団の形成過程を決定し、過去の人口規模の変化を特定しました。本論文はとくに、琉球諸島の2ヶ所の地域が日本列島「本土」からの遺伝的影響の観点でどのように異なっているのか、調べました。
●資料と手法
沖縄諸島の25人と宮古諸島の25人、計50人がこの研究に参加しました。沖縄諸島の25人は沖縄島出身で、宮古諸島の25人は沖縄西部情報銀行から特定され、その内訳は宮古島が17人、池間島が2人、伊良部島が4人、多良間島が2人です(図1)。各参加者の祖父母4人全員がそれぞれの島に住んでいる、と聞き取りで確認されました。DNAは血液もしくは唾液から採取され、WGSは(株)マクロジェン・ジャパンで行なわれました。欠損データの割合が0.10未満の、両アレル(対立遺伝子)一塩基多様体(Single Nucleotide Variant、略してSNV)が用いられました。琉球諸島民と本州住民と漢人からの全ゲノム配列決定と共同多様体呼び出しから、5863618個の多様体が見つかりました。Plink1.9版を用いて、近親交配系統(F)と対での同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)推定値(pi_hat)が計算されました。とくに密接な近親関係(Fが0.0625超もしくはpi_hatが0.125超)の個体は存在しなかったので、全標本が分析に用いられました。
遺伝学的統計では、人口集団間の遺伝的差異の過大評価を避けるため、中国の漢人集団において変動的で、各人口集団で0.05超の少数派のアレル頻度を有するSNVのみが用いられました。対での加重平均FST(Fixation index、略して2集団の遺伝的分化の程度を示す固定指数)はsnpStatsパッケージを用いて計算されました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)は、EIGENSOFT(7.2.1版)のsmartpcaを用いて実行されました。人口集団のクラスタ化は、主成分1(PC1)および主成分2(PC2)でのk-平均クラスタ化によって確認されました。参照パネルとして、サイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)から得られたアジア東部および南東部の人々のゲノム配列決定が用いられました。さらに、各個体における遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の程度を特定するため、モデルに基づくクラスタ化がADMIXTUREを用いて実行されました。K(系統構成要素数)=2~4まで、さまざまな数のクラスタ(まとまり)が検証されました。
TreeMixが、分岐する人口集団の系統樹と混合事象を推測するために用いられ、PCAとクラスタ分析から推定された5クラスタを用いて、0~2個の混合端が適合させられました。中国の漢人は外群として設定されましたf₃およびf₄はAdmixToolsを用いて計算されました。qpGraph分析では、漢人と本州の人々と沖縄諸島の人々(OK)と宮古諸島南部の人々(S-MY)と宮古諸島北部の人々(N-MY)に加えて、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の女性の「縄文人(F23)」のゲノムデータが用いられました。古代DNAデータを含めたため、分析は全てのSNVもしくは異性塩基対置換(transversion、プリン塩基、つまりアデニンおよびグアニンと、ピリミジン塩基、つまりシトシンとチミンとの間の置換)のみを用いて(1885361のSNV)実行されました。古代琉球諸島人口集団、つまり琉球諸島の「縄文人」と沖縄諸島の「縄文人」と宮古諸島の「縄文人」と沖縄諸島のグスク時代住民と宮古諸島のグスク時代住民を仮定して、以前に報告されたあり得る混合事象を含めて、人口史がモデル化されました。世代ごとの塩基対あたりの変異率は、1.25×10⁻⁸に固定されました。標本数の違いによる影響を検証するため、中国の漢人と本州の人々とOKとS-MYの集団で5点の標本が10回無作為抽出されたデータセットが準備され、同じ推定が実行されました。
●WGSデータにおける遺伝的差異
沖縄諸島民(25個体)と宮古諸島民(25個体)から合計50個体のWGSデータが、平均深度36.3倍(最大で46.9倍、最小で29.4倍)で得られました。北京の中国の漢人(Chinese Han in Beijing、略してCHB)の1000人ゲノム計画の深い配列決定データから得られた、本州の日本人(25個体)と中国の漢人(25個体)のデータも用いられました。集団遺伝学的分析のためGATK3を用いて共同で多様体が呼び出され、5863618のSNVが特定されました。
日本列島の3人口集団(沖縄諸島と宮古諸島と本州)の全ての組み合わせで、加重平均FSTが計算されました。本州対宮古諸島(4.70×10⁻³)は、本州対沖縄諸島(2.79×10⁻³)および沖縄諸島対宮古諸島(2.25×10⁻³)よりも高いFST値を示し、このパターンは距離による分離と一致する、と示唆されます。
●琉球諸島民の人口構造
SGDPから得られた公開されていて利用可能な微小配列(マイクロアレイ)データセットの共同分析により、アジア東部および南東部人口集団における遺伝的構造パターンがPCAにより調べられました(図2A)。PC1は琉球諸島民(沖縄諸島と宮古諸島)を他のアジア東部および南東部人口集団と区別しました。PC1軸において琉球諸島民に最も近い人口集団は「本土」日本人集団で、それに続くのが韓国人および中国人集団です。しかし、台湾の先住民は、地理的に琉球諸島民にひじょうに近いにも関わらず、遺伝的に琉球諸島民から遠く離れていました。PC1とPC2の図のパターンは逆「U」字型を示し、これは人口集団の飛び石モデルで通常観察されるパターンです。したがって、PC2における距離は、人口集団間の遺伝的距離に関して直接的情報を提供しないかもしれません。以下は本論文の図2です。
次に、沖縄諸島民と宮古諸島民と本州の日本人と中国の漢人のPCAが実行されました(図2B)。k平均クラスタ化(k=6)後、中国の漢人と本州の日本人が独立したクラスタを形成しました。琉球諸島人口集団については、4クラスタが特定されました。沖縄諸島民24個体は宮古諸島民5個体とクラスタを形成し、これは本論文では沖縄(OK)クラスタ(図2Bの青色の円)と命名され、この宮古諸島の5個体は沖縄諸島からの最近の移民だった、と示唆されます。OKクラスタの隣のクラスタは、宮古諸島民11個体で構成されました。質問表によると、宮古諸島北部地域の宮古島と多良間島と伊良部島のこれらの個体は、他社との比較でひじょうに離れた位置にクラスタ化します(N-MYクラスタ、図2Bの赤色の円)。沖縄諸島民の1個体と宮古諸島民の4個体はN-MYとS-MYのクラスタ間に図示され、これらの個体は宮古諸島の2ヶ所の異なる地域間で混合した、と示唆されます。この観察は、これらの個体の祖父母の出生地の観点では、沖縄諸島民1個体を除いて、質問調査の結果と一致します。
琉球諸島民全員のADMIXTURE分析では、最小交差検証誤差を提供するK値は2で、この場合、中国の漢人が一方の極(緑色)を、N-MYがもう一方の極(赤色)を形成し、残りの個体は中間的でした(図2C)。K=3と仮定すると、沖縄諸島民の祖先的構成要素(青色)が現れ、S-MYクラスタの個体群は2つの構成要素の間で混合を形成するようでした。
●琉球諸島民の人口史
人口集団における系統発生的関係と過去の移住事象を推定するため、クラスタを人口集団とみなしてTreeMix分析が実行されました。0~3回の移住端を有する4点の図が図3で示されます。N-MYクラスタは枝が比較的長いと分かり、強い遺伝的浮動がこの人口集団で起きた、と示唆されます。残差の高い値から、移住なし(m=0)の系統樹モデルと移住1回(m=1)のモデルはデータにあまり適合しない、と示唆されました。2回の移住(m=2)もしくは3回の移住(m=3)のモデルは、データによりよく適合しました。m=2および3では、中国の漢人から本州の日本人への移住端は、おもに弥生時代におけるアジア東部大陸部から日本列島への移住を示唆した可能性が高そうです。
しかし、他の移住端は、歴史的および考古学的知識に従って単純には解釈できません。ある移住端は本州およびOKクラスタの分岐点で始まり、S-MYクラスタで終わりましたが(m=2および3)、他の端はN-MYクラスタの分枝で始まり、本州日本人ので終わりました(m=3)。実際の人口統計学的歴史はより複雑かもしれず、TreeMix分析は移住端の数を過小評価し、モデルを単純化する可能性があります。そうした場合、枝の形態と長さが歪み、残差を最初化するよう非現実的な端が描かれるかもしれません。したがって、TreeMixの結果を慎重に解釈する必要があります。以下は本論文の図3です。
人口集団間の遺伝子流動をさらに評価するため、f₃およびf₄統計を用いてデータが検証されました。f₃検定(S-MY;N-MY、OK)は有意に負の値を返し(図4A)、S-MY人口集団がN-MYおよびOKの人口集団間の混合により形成された、と示唆されます。しかし、f₄(本州、OK;S-MY、N-MY)およびf₄(漢人、OK;S-MY、N-MY)検定は、ゼロから有意に逸脱せず(図4B)、OKおよびS-MYの人口集団間の相互作用はこれらの検定では有意ではなかった、と示唆されます。YとZが琉球諸島人口集団を表す f₄(漢人、本州;Y、Z)とf₄(ムブティ人、本州;Y、Z)とf₄(ムブティ人、漢人;Y、Z)を検証すると、統計は有意な値を返しませんでした。Zが琉球諸島人口集団を表すf₄(ムブティ人、漢人;本州、Z)は有意に負で、本州の人々は琉球諸島人口集団よりもアジア東部大陸部人口集団から大きな遺伝的影響を受けた、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
f₄統計を用いて、「縄文人」からの遺伝的寄与も検証されました。「縄文人(F23)」のデータを含める、つまりf₄(ムブティ人、F23;Y、Z)だと、統計量の有意な値は「縄文人」の寄与率の観点ではYとZの人口集団間の違いを示します。その結果、琉球諸島人口集団への「縄文人」の遺伝的影響は本州の日本人より大きかった、と論証されました(図4B)。さらに、この結果は琉球諸島の3人口集団への「縄文人」の遺伝的影響に有意な違いがないことも示唆しました。これらの結果から、沖縄諸島と宮古諸島の人口集団間の遺伝的違いは、「縄文人」と弥生時代の移民との間、もしくは本州と琉球諸島の人口集団間の遺伝的差異とは独立した形成された、と示唆されます。
台湾先住民(Taiwanese aborigines、略してTWA)からの遺伝子流動が、沖縄諸島と宮古諸島の人口集団間の遺伝的差異をもたらした可能性も検証されました。Zが琉球諸島人口集団を表すf₄(ムブティ人、TWA;本州、Z)の値は、ゼロから有意に逸脱しませんでした(図4B)。この結果から、TWAからの遺伝子流動は琉球諸島人口集団間の遺伝的分化の主因ではない、と示唆されます。
琉球諸島人口集団がどのように形成されたのか調べるため、qpGraphを用いて過去の人口集団の分岐と混合がモデル化されました。考古学および人類学の証拠に基づいて、TreeMix分析での推定よりも複雑なモデルが仮定され、そのモデルでは、現代の琉球諸島人口集団はグスク時代もしくはその前に琉球諸島の先住狩猟採集民(琉球諸島「縄文人」)と日本列島「本土」からの移民との間の混合と、その後の人口集団間の相互作用で形成されました。この分析では、3通りの異なる仮定的状況が検討されました。第一の仮定的状況では、琉球諸島の「縄文人」集団が宮古諸島民と沖縄諸島民の祖先間で分化した、と仮定されました(図4C)。第二の仮定的状況では、琉球諸島には1「縄文人」集団だけが存在し、グスク時代の初期段階における琉球諸島の「縄文人」と日本列島「本土」の移民との間の混合は、沖縄諸島民と宮古諸島民の間で異なっていました(図4D)。第三の仮定的状況では、「本土」日本人との混合の時点で、1任意交配人口集団のみが存在し、その後で人口集団は分岐した、と仮定されました(図4E)。
結果として、これらのモデルの全てが許容可能で、最低のZ得点は3未満であり、第二のモデル(図4D)が最小の最低Z得点値(0.818)でした。さらに、最初のモデル(図4C)では、琉球諸島「縄文人」から沖縄諸島「縄文人」および宮古諸島「縄文人」への浮動媒介変数は両方とも0で、このモデルは第二のモデルと実質的に同じである、と示唆されました。したがって、第二のモデルがデータに最適と考えられました。第三のモデル(図4E)は却下されませんでしたが、本論文の結果から、1琉球諸島「縄文人」集団との仮定で充分である、と示唆されました。異性塩基対置換と同性塩基対置換(transition、プリン間やピリミジン間の置換)の両方を用いての推定も、第二モデルが最適と示唆しました。
最後に、有効人口規模の変化を解明するため、部位頻度範囲に依存するMC++手法が適用されました。過去の有効性の軌跡(図5)に基づいて、5人口集団は全て、約2000~5000世代前に出アフリカボトルネック(瓶首効果)を経た、と推測されました。そのボトルネック事象後に、漢人と本州とOKのクラスタはほぼ人口規模を維持しました。対照的に、N-MYおよびS-MYクラスタの人口規模は約70世代前に減少しました。減少の程度はS-MYクラスタよりもN-MYクラスタの方で大きくなっていました。標本規模縮小データセットを使用した分析では、S-MYを除いて、漢人と本州とOKとS-MYの各クラスタは、最近の人口規模縮小への傾向を示しませんでした。したがって、これらのデータから、N-MYクラスタの標本数の少なさは分析における人口規模縮小の理由ではない、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
●考察
琉球諸島民の人口構造と歴史の解明には、大きな学際的関心が寄せられています。WGSデータを調べた本論文は、起きたと宮古諸島民との間の遺伝的分化を確証しました。PCAおよびADMIXTURE分析のパターン(図2)は、SNP微小配列データを用いての先行研究で観察された、琉球諸島民の遺伝的勾配を明らかにしました。
琉球諸島における人口集団の分化は、日本列島「本土」や台湾など琉球諸島外からの遺伝子流動の違いではなく、おもに遺伝的浮動により引き起こされたかもしれません。本論文もこの可能性を裏づけます。N-MYクラスタの人口規模減少は、TreeMixの長い枝(図3)や、qpGraphでのN-MYに向かう浮動端の値や(図4C~E)、SMC++における過去の人口統計学的変動(図5)により推測されました。人口規模減少はIBD断片に基づくSNP配列データを用いての以前の推定と一致しましたが、SMC++分析は最近の人口増加を検出しませんでした。さらに、「本土」日本人もしくは台湾先住民からの遺伝子流動の程度の違いを示唆する有意な証拠が見つかりませんでした。
宮古諸島では、無土器文化がグスク時代の前に確認されました。無土器文化を開発した人々の起源はまだ不明ですが、一部の考古学者は、無土器文化が台湾およびフィリピン北部のオーストロネシア文化と共通点を有している、と仮定してきました。古代DNAの最近の研究では、宮古島の無土器文化期の長墓遺跡の先史時代個体群は「縄文人」の遺伝的祖先系統を有していた、と示唆されました(関連記事)。本論文は、無土器文化を開発した人々を特定しませんでしたが、本論文のデータは、台湾先住民が現代の宮古諸島民の形成に関わった、との見解を裏づけません。
f₄統計分析の結果は、「縄文人」狩猟採集民からの遺伝的寄与の観点で、琉球諸島人口集団間のわずかな非有意差を明らかにしました(図4B)。混合図(図4D)からも、日本列島「本土」からの人々との混合率が、琉球諸島の南北の島民間でわずかに異なっていた(北部では77%、南部では81%)、と示唆されました。この結果は予期せぬもので、それは、宮古諸島が地理的に沖縄諸島よりも日本列島「本土」から遠いためです。
混合図(図4D)からはさらに、「本土」日本人は「本土縄文人」(17%)と弥生時代の移民(83%)との間の混合で形成された、と論証されました。したがって、「本土」日本人と琉球諸島「縄文人」との間の混合を検討すると、琉球諸島民では「縄文人」の遺伝的構成要素は合計で約36% と計算され、これは「本土」日本人の1.4倍の値です。先行研究では、「本土」日本人と琉球諸島民の「縄文人」祖先系統の割合が推定されてきました(関連記事1および関連記事2)。ある先行研究(関連記事)では、別の供給源人口集団としてCHBを検討すると、「縄文人」の遺伝的寄与は現代日本人では9%(qpGraph)と13.7%(f₄比検定)、琉球諸島民では27.4%(f₄比検定)だった、と報告されました。本論文の推定混合率は先行研究よりも高く、推定率の違いは参照人口集団と想定モデルに依拠しているかもしれません。
琉球諸島民の移住にはさまざまな仮定的状況が考えられます。一つの可能性は、宮古諸島で無土器文化を発展させた人々は、最近の古代DNA研究(関連記事)が示唆したように琉球諸島「縄文人」に起源があり、現代の宮古諸島民に遺伝的に寄与した、というものです。もう一つの考慮すべき点は、複数の亜集団がグスク時代の初期段階に存在したかどうかです。これらの点を検討するため、混合図を用いて琉球諸島人口集団の形成に関して3通りの仮定的状況が調べられました。本論文の分析から、グスク時代初期に複数の亜集団が存在した(図4D)、と示唆され、その時点での任意交配集団を想定する仮定的状況は却下されました。
本論文の分析から、琉球諸島「縄文人」の複数の亜集団の想定(図4C)は必要ないことも示唆されました。これが意味するのは、無土器文化を発展させた人々は、その起源がどの場合であれ、現代の宮古諸島民に大きな遺伝的寄与をしなかっただろう、ということです。最後に、日本列島「本土」からの移民との任意交配の琉球諸島「縄文人」集団の混合が、沖縄諸島と宮古諸島の人口集団の祖先間でさまざまな在り様で起きた、と示唆する、図4Dで示されるモデルが受容されます。宮古諸島人口集団の祖先の混合が、宮古諸島で起きたとは限らないことに注意すべきです。考古学と歴史学の証拠を考慮すると、沖縄諸島にはいくつかの亜集団が存在し、宮古諸島民はこれらの亜集団のうち一つから派生した、と仮定できます。
地理的に近いN-MYおよびS-MYクラスタ間で遺伝的分化が観察されたことも、注目に値します。N-MYクラスタの個体が池間島と伊良部島に暮らしているのに対して、S-MYクラスタの個体は宮古島と多良間島に暮らしています。歴史的に、池間島の人々は他地域の人々から孤立しており、伊良部島の人々は池間島の人々から派生しました。宮古諸島内の地域間の限定的な相互作用の証拠は、方言の多様性でも見ることができます。宮古諸島にはいくつかの方言があり、池間島で話されている池間方言は他の宮古諸島の方言とはかなり異なります。これらの遺伝学と言語学の分化は、地理および文化および/もしくは政治的孤立により引き起こされたかもしれません。
先行研究では、沖縄諸島から宮古諸島への複数の移住があった、と示唆されました。混合図作成に用いられた本論文のモデル(図4C~E)では、沖縄諸島から宮古諸島への2回の比較的最近の移住が仮定されました。S-MY人口集団の形成についての許容モデル(図4D)では、沖縄諸島からの混合率は最初の移住では58%で、第二の移住では33%でした。琉球諸島民で観察された遺伝的勾配は、地域的境界を越えたそのような繰り返しの移住により説明できます。
結論として、本論文は、宮古諸島の亜集団で起きた遺伝的浮動と地域間の移住により形成された、琉球諸島民間の遺伝的勾配を特定しました。しかし、琉球諸島の人口史の詳細に関して問題が残っています。たとえば、琉球諸島の旧石器時代の人々の起源はどこだったのでしょうか?下田原文化と無土器文化はどのように形成されたのでしょうか?古代人と現代人のゲノムを含む包括的な研究が、琉球諸島の詳細な人口史の解明と、アジア東部島嶼部でのヒトの活動に関する新たな洞察の追加に役立つでしょう。
参考文献:
Koganebuchi K. et al.(2023): Demographic history of Ryukyu islanders at the southern part of the Japanese Archipelago inferred from whole-genome resequencing data. Journal of Human Genetics, 68, 11, 759–767.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01180-y
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