フラニ人の人口史
フラニ人(Fulani)の人口史に関する研究(D’Atanasio et al., 2023)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。世界でも最大級の規模の遊牧民集団であるフラニ人の起源についてはいくつかの仮説が提示されていますが、まだよく分かっていません。本論文は、複数の国から得られたフラニ人および他の現代人の高網羅率のゲノムデータと、古代人のゲノムデータを用いて、フラニ人の人口史を推測しています。現代人で最も遺伝的多様性の高い地域であるサハラ砂漠以南のアフリカの集団を詳しく分析し、他集団と比較することにより、現代人の遺伝的多様性やサハラ砂漠以南のアフリカの各地域集団の形成過程がさらに詳しく解明されていくのではないか、と期待されます。
●要約
サハラおよびサヘル地帯の人口史は、複雑な動態を浮き彫りにした先行研究(関連記事1および関連記事2)にも関わらず、あまり研究されていません。サヘル地域のフラニ人、つまり世界で最大の遊牧人口集団は興味深い事例を示しており、それは、フラニ人が、通常はアフリカ北部人との最近の混合により説明される、無視できない割合のユーラシア人の遺伝的構成要素を示しているからです(関連記事1および関連記事2)。それにも関わらず、フラニ人の起源はほぼ知られていませんが、いくつかの仮説が提案されてきており、その中には、最後の湿潤期(緑のサハラ、12000~5000年前頃)においてサハラに居住していた古代人とのつながりの可能性が含まれます。
フラニ人の古代の遺伝的起源に光を当てるため、サヘル地域8ヶ国のフラニ人23個体の高網羅率の全ゲノムが生成され、他のアフリカ人集団の17個体と対照としてのヨーロッパ人3個体の標本が追加され、合計43個体の新たな全ゲノムが得られました。これらのデータは刊行されている現代人814個体の全ゲノム(関連記事)、および関連する古代人配列(1800点超の標本)と比較されました。これらの分析は、フラニ人の非サハラ砂漠以南の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)構成要素はより古い事象によっても形成されたかもしれず(関連記事)、恐らくフラニ人の起源は標本抽出されていない古代の緑のサハラの(複数の)人口集団にたどれる、といういくつかの証拠を示しました。
現代人と古代人の標本の共同分析により、そうしたサハラ古代人の遺伝的祖先系統構成要素に光を当てることができるようになり、後期新石器時代モロッコ人との類似性が示唆され、おそらくは牧畜の拡大との関連を示しています。フラニ人の2クラスタ(まとまり)も特定され、その混合パターンは、歴史的なフラニ人の移動と、アフリカ西部の帝国におけるその後の関わりについての情報をもたらすかもしれません。
●フラニ人の全ゲノム多様性と人口構造
フラニ人23個体と、追加のアフリカ人17個体の標本と、参照としてのヨーロッパ人3個体を含む43個体について、全ゲノム配列決定(whole-genome sequencing、略してWGS)が実行されました。その遺伝的変異性は、追加の刊行されている771個体のWGS配列の分析によって、合計814個体(現代人のデータセット)について、より広範囲の状況で枠組み化されました(図1)。それら現代人のデータセットは、アレン古代DNA情報源(Allen Ancient DNA Resource、略してAADR)第44.3版との統合により、利用可能な関連する古代人標本とも比較されました。以下は本論文の図1です。
現代人のデータセットはまず、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)実行のために用いられ(図2)、遺伝的差異のパターンはすでに報告されているように、地理的位置および民族的帰属の両方とおもに関連している、と示されます。この図示では、アフリカ中央部/西部集団からアフリカ北部/ユーラシア集団への伸びている、標本の細長3クラスタを認識でき、その3クラスタとは、(1)アフリカ東部標本(緑色の濃淡)、(2)アフリカの混合標本(灰色)、(3)フラニ人個体(赤色/橙色の三角形と四角形)です。以下は本論文の図2です。
最初の2集団PCAの位置は、ユーラシア人供給源との混合の既知の歴史と一致します。第三の集団はフラニ人により表され、他の2集団と比較して、両方の主成分(PC)に沿ってより均質なクラスタを形成します。じっさい、このクラスタはPCA空間において定義された領域を占めており、PC2に沿ってアフリカ西部/中央部と非アフリカの領域間に位置し、PC1に沿ってアフリカ北部標本の線の上に位置しますが、アフリカ東部集団とアフリカの混合集団はこの線の下に位置します。観察された違いは、その非サハラおよび/もしくはサハラ祖先系統のさまざまな供給源を示唆しているかもしれません。フラニ人の全個体がともにクラスタ化するわけでないことは注目に値し、近隣人口集団との混合事象がある程度起きたかもしれない、と示唆されます。
同じデータセットの混合分析は、これらの結果をほぼ再現します。明確化のため、以後は遺伝的祖先系統が、地域/人口集団を表す名前で呼ばれます。最も顕著な結果は、アフリカ北部祖先系統構成要素(紫色)が中東祖先系統構成要素(明るい青色)と区別されたさいにK(系統構成要素数)=6で観察され、フラニ人では、この新たな構成要素は明るい青色の祖先系統構成要素を置換し、二番目に高頻度の構成要素(平均37%)を表しています。Kが多くなると、フラニ人のサハラ砂漠以南祖先系統構成要素(紫色)はさらに定義され、それはセネガンビア(現在のセネガルとガンビア)構成要素として定義できます。最後に、この混合分析はさらに、フラニ人の2つの下位集団の存在を浮き彫りにします。これとPCAの両方に基づいて、次にフラニ人がフラニ人Aとフラニ人Bの2集団に区分され、それぞれ主要なフラニ人のPCA/混合クラスタの内外での標本を指します。
●古代DNAの枠組みにおけるフラニ人の遺伝的多様性
フラニ人祖先系統の起源をさらに調べるため、本論文のデータセットが古代人標本と比較されました(現代人および古代人のデータセット)。このデータセットから得られたPCAは図2で観察されたものをほぼ要約しており、古代の個体群はおもに同じ地域の現代人の標本の遺伝的変異性に収まります。
同じ現代人および古代人のデータセットでのK=5(最小交差検証誤差)の混合分析(図3)では、フラニ人Aクラスタは3つの非サハラ砂漠以南祖先系統構成要素を示す、と見ることができます。それは、(1)アナトリア半島新石器時代/レヴァントとして解釈される明るい青色の祖先系統構成要素、(2)イラン新石器時代/コーカサス狩猟採集民(Caucasus hunter-gatherers、略してCHG)として解釈される濃い青色の祖先系統構成要素、(3)ヨーロッパ西部狩猟採集民(western European hunter-gatherers、略してWEHG)として解釈される赤色の祖先系統構成要素です。
K=6では、フラニ人Aの非サハラ砂漠以南祖先系統構成要素はおもに、モロッコのタフォラルト(Taforalt)遺跡およびイフリンアムロ・モウッサ(Ifri n’Amr or Moussa、略してIAM)遺跡などアフリカ北西部の8000年以上前の古代人個体群(関連記事1および関連記事2)に典型的な、新たな橙色の構成要素により特徴づけられ、他のサヘル地域/アフリカ東部集団でも観察できますが、他のサハラ砂漠以南のアフリカ人では実質的に存在しません(図3)。一方、CHGの濃い青色の祖先系統構成要素はフラニ人Aではもう表されておらず、このパターンはK=7で確証されますが、それより多いKの場合にはあまり明確にはなりません。以下は本論文の図3です。
D統計の実行により、フラニ人と古代人との間のつながりがさらに調べられました。全体的に、ユーラシア/アフリカ北部の集団は、アフリカ中央部/西部の人々とよりもフラニ人クラスタ(AおよびB)とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有する傾向にあり、フラニ人Aとより高いf4値で、アフリカ東部人口集団比較して少ないアレルを共有していました。しかし、D形式(フラニ人A、フラニ人B、アフリカ北西部古代人、チンパンジー)で検証すると、フラニ人Aはフラニ人Bの場合よりも全てのアフリカ北西部古代人3集団とより密接である、と観察されました。ここでのアフリカ北西部古代人3集団とは、モロッコのイベロモーラシアン(Iberomaurusian)の紀元前1万年以上前の個体群(モロッコ_イベロモーラシアン_紀元前1万年以上前)、モロッコの前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)の紀元前8000~紀元前6000年頃の個体群(モロッコ_EN_紀元前8000-紀元前6000年)、モロッコの後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)の紀元前6000~紀元前3000年頃の個体群(モロッコ_LN_紀元前6000-紀元前3000年)です。
推定される2供給源でqpWave/qpAdm枠組みにより分析すると、フラニ人の両集団(AおよびB)のモデル化に成功した人口集団の唯一の組み合わせは、カメルーン(7000年前頃)とENモロッコ人(6000年前頃)の古代人標本で、イベロモーラシアン的構成要素はフラニ人Aでより高く、現代のサハラ砂漠以南のアフリカ/アフリカ北部の供給源でもモデル化できます。推定される3供給源で検証すると、フラニ人Aが同じ上述の古代人2供給源にサヘル地域のアガウ人(Agew)を加えることによりほぼ同じ割合でモデル化できるのに対して、フラニ人Bは、サハラ砂漠以南の2供給源とアフリカ北部の1供給源により、後者の割合が27%以下でモデル化に成功できます。
DATESを用いて古代のサハラ砂漠以南の人々とモロッコ古代人との間の混合事象の年代の推測が試みられ、フラニ人Aでは97.4(±39.0)世代の、フラニ人Bでは93.3(±49.2)世代前の年代推定値が得られ、1世代を29年とすると、ほぼ2800年前頃に相当します。一方で、ベルベル人(Berber)を同じ2供給源で対象として用いると、69.6(±30.4)世代前の混合年代が得られました(1世代を29年と仮定すると、2019.8±882.6年前頃)。
最後に、qpgraphの信頼性には最近異議が唱えられましたが、検討された混合図のいくつかは、ムザブ(Mozabite)の現代ベルベル人とモロッコのイベロモーラシアン個体を、新石器時代中東(トルコの紀元前6000~紀元前3000年頃の個体と関連しており、65%ほど)とサハラ砂漠以南のアフリカ(ナイジェリアのヨルバ人と関連しており、35%ほど)の祖先系統に由来する単一のクレード(単系統群)としてモデル化することに収束します。対照的に、フラニ人はこのクレードの一部ではなく、それは、フラニ人が(現代のベルベル人ではなく)モロッコのイベロモーラシアン個体から直接的に約30~70%の祖先系統と、サハラ砂漠以南のアフリカから65%程度の祖先系統を受け取っているからです。
●共有されたハプロタイプとROHのパターン
PCAと混合分析の両方で浮き彫りになったフラニ人クラスタ(AおよびB)の起源を調べるため、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)と同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)の分析が実行されました。フラニ人Aは自身とより多くのIBD断片を共有していたのに対して、フラニ人Bはフラニ人Aおよび自身とより多くのIBDを共有していました。一般的パターンとして、フラニ人Aがサヘル地域やアフリカ東部および北部やユーラシアの人口集団とより多くの断片を共有していたのに対して、フラニ人Bはアフリカ西部および中央部の集団とより多くのIBDを共有しています。このパターンはおもに最短(5センチモルガン未満)のIBDにより引き起こされており、それはより古い年代に形成されたものの、フラニ人の2クラスタ間の違いは長いIBD断片ではより微妙である、と示唆されます。
D形式(サヘル地域、アフリカ西部、フラニ人、チンパンジー)のD統計を検証すると、フラニ人の両クラスタ(AおよびB)は同じ一般的パターンにより特徴づけられるものの、フラニ人Aはサヘル地域のナイル・サハラ語族言語話者集団に向かうわずかな傾向を示し、IBDの結果と一致して、アフリカ西部のウォロフ人(Wolof)が顕著な例外です。
ROHのパターンを調べると、フラニ人BはROHの数とその合計長両方の観点でアフリカ西部および中央部の他集団とより類似したパターンを有しています。これはqpAdm分析にも反映されており、qpAdm分析では、フラニ人Bはフラニ人Aとアフリカ西部/アフリカ中央部/サヘル地域の現代人集団によりモデル化に成功しました。興味深いことに、DATESに従うとこれらのうちより古い混合事象は第二供給源としてサヘル地域のアフロ・アジア語族話者のマッサ人(Massa)を含むもので(809.1年前)、その後でサヘル地域のナイル・サハラ語族のラカ人(Laka)、アフリカ西部のニジェール・コンゴ語族話者のガンビア人(Gambian、760年前)、アフリカ中央部のナイル・サハラ語族のカバ人(Kaba、660年前頃)が続きます。全ての他の可能性がある供給源人口集団は、470~340年前頃の範囲でより新しい混合事象を示します。
サヘル地域のフラニ人クラスタもしくはアフリカ西部集団をさらに区分するROHパターンがさらに調べられ、アフリカ西部のフラニ人AおよびB個体群はひじょうに類似したROHパターンを示す、と観察され、これはサヘル地域のフラニ人Bと比較してより多くの数のROHを示すサヘル地域のフラニ人Aとは対照的で、このパターンは長い断片により引き起こされているのに対して、短い断片は標本抽出地域に関わらずフラニ人AおよびBのクラスタ間で明確な区別を再現します。あり得る創始者効果/ボトルネック(瓶首効果)の推定を試みると、フラニ人Aのみが有意な結果をもたらし、そうした事象の推定年代は800年前頃で、強度は1.1%であり、以前の調査結果と一致します。
●フラニ人の起源:緑のサハラの物語
ゲノム規模の変異性に基づくほとんどの最近の研究では、フラニ人の非サハラ砂漠以南祖先系統は比較的最近(1800~300年前頃)にたどれて、それはアフリカ西部とアフリカ北部/ヨーロッパ南部の供給源間の混合事象の後だった、と示唆されました(関連記事1および関連記事2)。本論文では、現代人および古代人の標本の合同分析により、フラニ人の非サハラ砂漠以南祖先系統構成要素の特徴づけが可能となり、フラニ人の起源に新たな光を当てます。
K=6での混合分析(図3)では、フラニ人の非サハラ砂漠以南祖先系統は、(1)8000年以上前となるモロッコの古代人(関連記事)においてひじょうに高い割合(実質的に100%)で観察される橙色のイベロモーラシアン構成要素、(2)薄い青色のレヴァント構成要素、(3)おそらくはイベリア半島からマグレブへと到来した、WEHGの赤色構成要素の無視できない割合(関連記事)です。一方、フラニ人にはCHGの濃い青色の構成要素が欠けており、恐らくは、アフリカの西部と北部の集団(代わりに、無視できない割合のCHG構成要素を示します)間の単純な最近の混合より複雑な非サハラ砂漠以南構成要素の起源についての仮定的状況を示唆していますが、このパターンがK=5では見られず、K=8以後の本論文のさまざまな実行間の一貫性の低さも考慮して、混合分析の解釈は不確実性により特徴づけられています。
さらに、混合図はフラニ人におけるアフリカ北部からの古代の流入も示しているようで、(一方でほとんどの事例において中東古代人からの直接的流入を受けた現代のムザブのベルベル人ではなく)イベロモーラシアン個体群はフラニ人祖先系統に寄与しましたが、そうした系統樹の解釈には要注意です。故に、フラニ人における非サハラ砂漠以南祖先系統を形成した(複数の)混合事象は、サハラの北側のこの地域にこうしたCHG構成要素が到来する前か、あるいはこの構成要素がまだ稀だった時に始まったかもしれません。
K=6での混合分析(図3)の結果を考慮して、この事象の時間枠の定義を試みることができます。じっさい、フラニ人において、橙色のイベロモーラシアン構成要素があり、濃い青色のCHG構成要素がないことに加えて、明るい青色のレヴァントおよび赤色のWEHG構成要素が存在することを考えると、フラニ人の非サハラ砂漠以南構成要素は、LNモロッコ人(放射性炭素年代測定値を考慮すると紀元前5000年頃)と類似した供給源人口集団(濃い青色のCHG構成要素を除いて)からの8000~7000年前頃にさかのぼる、と仮定できます。
この時間枠は、7400~6900年前頃となるモロッコのENのカフ・タート・エル・ガール(Kaf Taht el-Ghar、略してKTG)遺跡を報告したごく最近の調査結果(関連記事)によっても裏づけられているようです。その研究によると、フラニ人で観察されたように、KTG遺跡個体群にはイベロモーラシアンとレヴァントとWEHGの構成要素があるものの、CHG構成要素は欠けていました。興味深いことに、この時間枠は、青草がの多い環境と、牧畜や農耕の拡大など社会的および文化的変化により特徴づけられる最後の緑のサハラの期間に相当しており、その牧畜と農耕は両方とも、在来の発展か、ヨーロッパおよび/もしくは中東からアフリカ北東部に7000~6000年前頃に到来しました(関連記事)。
フラニ人における非サハラ砂漠以南構成要素代理としてのLNモロッコ人(紀元前6000~紀元前3000年頃)と、サハラ砂漠以南のアフリカ人の代理としてカメルーンの古代人標本(紀元前6000~紀元前3000年頃)を考慮して、DATESを用いて、そうした事象の年代推定値の洗練が試みられました。2800年前頃との推定年代は、先行研究で得られた推定年代よりずっと古く、最近刊行された研究の推定年代と類似しており(関連記事1および関連記事2)、その一方の研究では、追加のより新しい(1000年前頃)混合事象も年代測定されました(関連記事)。
しかし、DATESは、連続的な遺伝子流動や、より多くの混合回数、および/もしくは以前に論証されたようなボトルネックの場合にはより新しい年代推定値を推測するかもしれないので、本論文で得られた年代推定値は、大きな標準誤差も考慮して、より古い混合事象の時間枠の下限として注意深く解釈すべきことに、注意しなければなりません。この文脈では、同じ供給源は対象としてのベルベル人ではわずかに嵐位推定混合年代(2000年前頃)をもたらしたことにも要注意で、おそらくは、非サハラ砂漠以南構成要素はフラニ人とベルベル人においてさまざまな経緯と年代で獲得され、ベルベル人はおそらくより最近になって余分なユーラシア人からの流入(濃い青色のCHG)を得た、と示唆していますが、これらの推定年代のほぼ重複した信頼区間のため要注意です。
この仮説が正しければ、フラニ人における非サハラ砂漠以南構成要素は、アフリカにおける主要な北東部から北西部と北東部から東部への経路に加えて、イベロモーラシアン個体群におけるアフリカ西部祖先系統構成要素の存在により示唆されたように(関連記事)、好適な気候条件によりサヘル地帯に居住する集団間の比較的連続的な遺伝子流動が可能となったことを考慮して、サヘル地帯に居住する集団間の複雑な混合事象として解釈すべきです。
本論文の混合分析で、ケニアの新石器時代牧畜民と現代のサヘル地域中央部の集団もイベロモーラシアンの橙色とレヴァントの明るい青色の構成要素を無視できない割合で有していることを考えると、これらサハラの人々はじっさいに、フラニ人を含めて現在のサヘル地帯の人々の祖先だったかもしれません。さらに、サヘル地域の中央部と東部両方の現代のナイル・サハラ語族話者集団における濃い青色のCHG構成要素の欠如と、D統計でのフラニ人Aとナイル・サハラ語族話者との間のわずかな類似性は、この仮説へのいくらかの証拠を提供します。それは、ナイル・サハラ語族は最後の湿潤期に緑のサハラ地域にずっと広範に分布しており、ずっと最近(1500年前頃)になってやっとアフロ・アジア語族言語に置換された、と提案されてきたからです。
これらサハラ人口集団の正確な遺伝的祖先系統は、当時のその地域の古代の個体群なしには評価できませんが、現在利用可能な古代人データと本論文の結果に基づいて、こうしたサハラ人口集団は遺伝的にイベロモーラシアンからLNのモロッコ古代人と類似しており、最近のKTG遺跡も含まれていた、と提案できます(図4)。以下は本論文の図4です。
この地域の緑のサハラの終焉およびその後の漸進的な砂漠化に伴って、気候変化への対応における社会経済的変化と一致し、Y染色体データにより示唆されているように、サハラ集団は西方か東方か南方か北方へと移動しました。とくに、ウシの牧畜が生計の主要な形態になった、とテイン漁れてきており、それは、より信頼できる食料源だったからで、岩絵や儀式により証明されているように、サハラ全域のウシ崇拝の確立をもたらしました(関連記事)。この仮定的状況は、フラニ人をサハラ砂漠以南のアフリカやアフリカ北部やヨーロッパやアフリカ東部の集団とつなげるさまざまな遺伝学的体系の明らかな対照的証拠を調和させるかもしれません。じっさい、広範な接触を有する緑のサハラの人口集団を仮定するならば、これらの集団が遺伝的類似性を共有しているかもしれず、サハラの砂漠化に伴ってのさまざまな遺伝的軌跡が続いたことは、驚くべきではありません。
これら全てのデータは、フラニ人のゲノムにおける非サハラ砂漠以南祖先系統の形成について、複雑な仮定的状況を示しているかもしれません。本論文の結果を考慮して、フラニ人の祖先はおそらく緑のサハラのウシの牧畜民で、変化する気候に対応して西方へと移動し、次に在来の人々と混合した、と仮定されます。その後、遊牧と族内婚により歴史的に特徴づけられるフラニ人の生活様式と、その人口規模の劇的な減少(関連記事)は、これら古代の「緑のサハラ」構成要素の希釈を妨いだかもしれません。
●フラニ人の最近の人口史
本論文で特定されたフラニ人の両クラスタ(AおよびB)は同じ祖先系統構成要素を示し、同じ混合年代でqpAdmにて同じ供給源によりモデル化でき、異なる割合であるものの、この2集団(フラニ人AおよびB)の共通の祖先系統を示しており、異なる人口動態を示唆しています。フラニ人集団の下部構造はすでに説明されてきており、フラニ人化減少、つまり遊牧民フラニ人集団内での定住の在来民の吸収、およびほぼ都市部の植民における、その結果としての定住の在来民の民族性変化と関連づけられてきました。
本論文のデータによると、フラニ人Bは近隣人口集団とのより高度な混合を示しており、じっさい、qpAdではフラニ人Aと追加のサハラ砂漠以南の供給源としてモデル化に成功できます。これら混合事象の推定年代は複雑な歴史を示しているようで、最古(800~665年前頃)の混合は3語族(アフロ・アジア語族とナイル・サハラ語族とニジェール・コンゴ語族)のサヘル地域およびアフリカ西部の集団を含んでおり、恐らくは最初の歴史時代のフラニ人の移動の足跡を表しています。その後の混合事象は、サヘル地域のニジェール・コンゴ語族話者のソンガイ人(Songhai)を顕著な例外として、アフリカ西部/中央部のニジェール・コンゴ語族話者人口集団をおもに含んでおり、その時間枠は、フラニ人の戦士と支配者により戦われたり支配されたりした、アフリカ西部の帝国と重複しています。
ROHおよびIBD断片を分析すると、フラニ人クラスタ間の違いが確証され、フラニ人Aは平均してより長いROHと高度の人口集団内IBD共有を示し、これは恐らく、族内婚および/もしくはボトルネックの結果です。興味深いことに、地域によって各クラスタを分割すると、サヘル地域のフラニ人Aはより多くてより長いROHを有しており、対照的に、アフリカ西部のフラニ人AおよびBはより類似していた、と観察できます。しかし、短いROHのみを考慮すると、このパターンは変わり、フラニ人Aとフラニ人Bの分化が再現されました。
これら全ての観察から、フラニ人Bが最近において他のサハラ砂漠以南の集団、とくにサヘル地域で標本抽出された集団とより多くの混合を経たのとは対照的に、フラニ人Aは最近においてより強い族内婚/ボトルネックを経ており、以前にも観察されたように、より多くより長いROH断片の存在につながった、と示唆されるようです。対照的に、アフリカ西部では、両クラスタ(フラニ人AおよびB)は同様の程度の最近の混合を示すようです。そうした内部の人口階層化の理由は説明困難で、それは、いくつかの側面がこれ(フラニ人化、社会的慣行、都市対農村の集落)に寄与しているかもしれず、これに光を当てるには、より多くの標本でのさらなる研究が必要とされるかもしれないからです。
●まとめ
フラニ人、一般的にはサハラ/サヘル帯の人口史はひじょうに複雑で、大きな完新世の気候変化に強く影響を受けたかもしれません。とくに、最後の緑のサハラ(12000~5000年前頃)はその期間の人口動態に大きな役割を果たしたかもしれず、現在のアフリカ北部とサハラ地域とを含む広範な地域に居住したさまざまな集団間の接触を可能にしたので、サハラ全域の人口集団の形成につながりました。そうした(複数の)人口集団の正確な祖先系統構成要素は、現代人のゲノムだけでは完全には解明できません。
本論文が把握している限りでは、本論文は古代人標本の枠組みでアフリカ現代人の全ゲノムを一貫して分析した最初の研究で、この手法は情報をもたらすと証明されてきており、推定されるサハラの古代人と新石器時代モロッコ人との間の類似性を示唆しています(図4)。これに基づくと、これら古代のサハラの(複数の)集団は、フラニ人を含めて、サヘル地域の現代の人口集団の祖先を表しているかもしれず、フラニ人は、最後の湿潤期の末にサハラの砂漠化に対応して西方へと移動した、サハラのウシの牧畜民集団の子孫かもしれません。将来、サヘル地域西部および中央部からのより多くの古代人標本の分析が、この仮定的状況に新たな光を当てるかもしれません。
参考文献:
D’Atanasio E. et al.(2023): The genomic echoes of the last Green Sahara on the Fulani and Sahelian people. Current Biology, 33, 24, 5495–5504.E4.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.10.075
●要約
サハラおよびサヘル地帯の人口史は、複雑な動態を浮き彫りにした先行研究(関連記事1および関連記事2)にも関わらず、あまり研究されていません。サヘル地域のフラニ人、つまり世界で最大の遊牧人口集団は興味深い事例を示しており、それは、フラニ人が、通常はアフリカ北部人との最近の混合により説明される、無視できない割合のユーラシア人の遺伝的構成要素を示しているからです(関連記事1および関連記事2)。それにも関わらず、フラニ人の起源はほぼ知られていませんが、いくつかの仮説が提案されてきており、その中には、最後の湿潤期(緑のサハラ、12000~5000年前頃)においてサハラに居住していた古代人とのつながりの可能性が含まれます。
フラニ人の古代の遺伝的起源に光を当てるため、サヘル地域8ヶ国のフラニ人23個体の高網羅率の全ゲノムが生成され、他のアフリカ人集団の17個体と対照としてのヨーロッパ人3個体の標本が追加され、合計43個体の新たな全ゲノムが得られました。これらのデータは刊行されている現代人814個体の全ゲノム(関連記事)、および関連する古代人配列(1800点超の標本)と比較されました。これらの分析は、フラニ人の非サハラ砂漠以南の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)構成要素はより古い事象によっても形成されたかもしれず(関連記事)、恐らくフラニ人の起源は標本抽出されていない古代の緑のサハラの(複数の)人口集団にたどれる、といういくつかの証拠を示しました。
現代人と古代人の標本の共同分析により、そうしたサハラ古代人の遺伝的祖先系統構成要素に光を当てることができるようになり、後期新石器時代モロッコ人との類似性が示唆され、おそらくは牧畜の拡大との関連を示しています。フラニ人の2クラスタ(まとまり)も特定され、その混合パターンは、歴史的なフラニ人の移動と、アフリカ西部の帝国におけるその後の関わりについての情報をもたらすかもしれません。
●フラニ人の全ゲノム多様性と人口構造
フラニ人23個体と、追加のアフリカ人17個体の標本と、参照としてのヨーロッパ人3個体を含む43個体について、全ゲノム配列決定(whole-genome sequencing、略してWGS)が実行されました。その遺伝的変異性は、追加の刊行されている771個体のWGS配列の分析によって、合計814個体(現代人のデータセット)について、より広範囲の状況で枠組み化されました(図1)。それら現代人のデータセットは、アレン古代DNA情報源(Allen Ancient DNA Resource、略してAADR)第44.3版との統合により、利用可能な関連する古代人標本とも比較されました。以下は本論文の図1です。
現代人のデータセットはまず、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)実行のために用いられ(図2)、遺伝的差異のパターンはすでに報告されているように、地理的位置および民族的帰属の両方とおもに関連している、と示されます。この図示では、アフリカ中央部/西部集団からアフリカ北部/ユーラシア集団への伸びている、標本の細長3クラスタを認識でき、その3クラスタとは、(1)アフリカ東部標本(緑色の濃淡)、(2)アフリカの混合標本(灰色)、(3)フラニ人個体(赤色/橙色の三角形と四角形)です。以下は本論文の図2です。
最初の2集団PCAの位置は、ユーラシア人供給源との混合の既知の歴史と一致します。第三の集団はフラニ人により表され、他の2集団と比較して、両方の主成分(PC)に沿ってより均質なクラスタを形成します。じっさい、このクラスタはPCA空間において定義された領域を占めており、PC2に沿ってアフリカ西部/中央部と非アフリカの領域間に位置し、PC1に沿ってアフリカ北部標本の線の上に位置しますが、アフリカ東部集団とアフリカの混合集団はこの線の下に位置します。観察された違いは、その非サハラおよび/もしくはサハラ祖先系統のさまざまな供給源を示唆しているかもしれません。フラニ人の全個体がともにクラスタ化するわけでないことは注目に値し、近隣人口集団との混合事象がある程度起きたかもしれない、と示唆されます。
同じデータセットの混合分析は、これらの結果をほぼ再現します。明確化のため、以後は遺伝的祖先系統が、地域/人口集団を表す名前で呼ばれます。最も顕著な結果は、アフリカ北部祖先系統構成要素(紫色)が中東祖先系統構成要素(明るい青色)と区別されたさいにK(系統構成要素数)=6で観察され、フラニ人では、この新たな構成要素は明るい青色の祖先系統構成要素を置換し、二番目に高頻度の構成要素(平均37%)を表しています。Kが多くなると、フラニ人のサハラ砂漠以南祖先系統構成要素(紫色)はさらに定義され、それはセネガンビア(現在のセネガルとガンビア)構成要素として定義できます。最後に、この混合分析はさらに、フラニ人の2つの下位集団の存在を浮き彫りにします。これとPCAの両方に基づいて、次にフラニ人がフラニ人Aとフラニ人Bの2集団に区分され、それぞれ主要なフラニ人のPCA/混合クラスタの内外での標本を指します。
●古代DNAの枠組みにおけるフラニ人の遺伝的多様性
フラニ人祖先系統の起源をさらに調べるため、本論文のデータセットが古代人標本と比較されました(現代人および古代人のデータセット)。このデータセットから得られたPCAは図2で観察されたものをほぼ要約しており、古代の個体群はおもに同じ地域の現代人の標本の遺伝的変異性に収まります。
同じ現代人および古代人のデータセットでのK=5(最小交差検証誤差)の混合分析(図3)では、フラニ人Aクラスタは3つの非サハラ砂漠以南祖先系統構成要素を示す、と見ることができます。それは、(1)アナトリア半島新石器時代/レヴァントとして解釈される明るい青色の祖先系統構成要素、(2)イラン新石器時代/コーカサス狩猟採集民(Caucasus hunter-gatherers、略してCHG)として解釈される濃い青色の祖先系統構成要素、(3)ヨーロッパ西部狩猟採集民(western European hunter-gatherers、略してWEHG)として解釈される赤色の祖先系統構成要素です。
K=6では、フラニ人Aの非サハラ砂漠以南祖先系統構成要素はおもに、モロッコのタフォラルト(Taforalt)遺跡およびイフリンアムロ・モウッサ(Ifri n’Amr or Moussa、略してIAM)遺跡などアフリカ北西部の8000年以上前の古代人個体群(関連記事1および関連記事2)に典型的な、新たな橙色の構成要素により特徴づけられ、他のサヘル地域/アフリカ東部集団でも観察できますが、他のサハラ砂漠以南のアフリカ人では実質的に存在しません(図3)。一方、CHGの濃い青色の祖先系統構成要素はフラニ人Aではもう表されておらず、このパターンはK=7で確証されますが、それより多いKの場合にはあまり明確にはなりません。以下は本論文の図3です。
D統計の実行により、フラニ人と古代人との間のつながりがさらに調べられました。全体的に、ユーラシア/アフリカ北部の集団は、アフリカ中央部/西部の人々とよりもフラニ人クラスタ(AおよびB)とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有する傾向にあり、フラニ人Aとより高いf4値で、アフリカ東部人口集団比較して少ないアレルを共有していました。しかし、D形式(フラニ人A、フラニ人B、アフリカ北西部古代人、チンパンジー)で検証すると、フラニ人Aはフラニ人Bの場合よりも全てのアフリカ北西部古代人3集団とより密接である、と観察されました。ここでのアフリカ北西部古代人3集団とは、モロッコのイベロモーラシアン(Iberomaurusian)の紀元前1万年以上前の個体群(モロッコ_イベロモーラシアン_紀元前1万年以上前)、モロッコの前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)の紀元前8000~紀元前6000年頃の個体群(モロッコ_EN_紀元前8000-紀元前6000年)、モロッコの後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)の紀元前6000~紀元前3000年頃の個体群(モロッコ_LN_紀元前6000-紀元前3000年)です。
推定される2供給源でqpWave/qpAdm枠組みにより分析すると、フラニ人の両集団(AおよびB)のモデル化に成功した人口集団の唯一の組み合わせは、カメルーン(7000年前頃)とENモロッコ人(6000年前頃)の古代人標本で、イベロモーラシアン的構成要素はフラニ人Aでより高く、現代のサハラ砂漠以南のアフリカ/アフリカ北部の供給源でもモデル化できます。推定される3供給源で検証すると、フラニ人Aが同じ上述の古代人2供給源にサヘル地域のアガウ人(Agew)を加えることによりほぼ同じ割合でモデル化できるのに対して、フラニ人Bは、サハラ砂漠以南の2供給源とアフリカ北部の1供給源により、後者の割合が27%以下でモデル化に成功できます。
DATESを用いて古代のサハラ砂漠以南の人々とモロッコ古代人との間の混合事象の年代の推測が試みられ、フラニ人Aでは97.4(±39.0)世代の、フラニ人Bでは93.3(±49.2)世代前の年代推定値が得られ、1世代を29年とすると、ほぼ2800年前頃に相当します。一方で、ベルベル人(Berber)を同じ2供給源で対象として用いると、69.6(±30.4)世代前の混合年代が得られました(1世代を29年と仮定すると、2019.8±882.6年前頃)。
最後に、qpgraphの信頼性には最近異議が唱えられましたが、検討された混合図のいくつかは、ムザブ(Mozabite)の現代ベルベル人とモロッコのイベロモーラシアン個体を、新石器時代中東(トルコの紀元前6000~紀元前3000年頃の個体と関連しており、65%ほど)とサハラ砂漠以南のアフリカ(ナイジェリアのヨルバ人と関連しており、35%ほど)の祖先系統に由来する単一のクレード(単系統群)としてモデル化することに収束します。対照的に、フラニ人はこのクレードの一部ではなく、それは、フラニ人が(現代のベルベル人ではなく)モロッコのイベロモーラシアン個体から直接的に約30~70%の祖先系統と、サハラ砂漠以南のアフリカから65%程度の祖先系統を受け取っているからです。
●共有されたハプロタイプとROHのパターン
PCAと混合分析の両方で浮き彫りになったフラニ人クラスタ(AおよびB)の起源を調べるため、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)と同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)の分析が実行されました。フラニ人Aは自身とより多くのIBD断片を共有していたのに対して、フラニ人Bはフラニ人Aおよび自身とより多くのIBDを共有していました。一般的パターンとして、フラニ人Aがサヘル地域やアフリカ東部および北部やユーラシアの人口集団とより多くの断片を共有していたのに対して、フラニ人Bはアフリカ西部および中央部の集団とより多くのIBDを共有しています。このパターンはおもに最短(5センチモルガン未満)のIBDにより引き起こされており、それはより古い年代に形成されたものの、フラニ人の2クラスタ間の違いは長いIBD断片ではより微妙である、と示唆されます。
D形式(サヘル地域、アフリカ西部、フラニ人、チンパンジー)のD統計を検証すると、フラニ人の両クラスタ(AおよびB)は同じ一般的パターンにより特徴づけられるものの、フラニ人Aはサヘル地域のナイル・サハラ語族言語話者集団に向かうわずかな傾向を示し、IBDの結果と一致して、アフリカ西部のウォロフ人(Wolof)が顕著な例外です。
ROHのパターンを調べると、フラニ人BはROHの数とその合計長両方の観点でアフリカ西部および中央部の他集団とより類似したパターンを有しています。これはqpAdm分析にも反映されており、qpAdm分析では、フラニ人Bはフラニ人Aとアフリカ西部/アフリカ中央部/サヘル地域の現代人集団によりモデル化に成功しました。興味深いことに、DATESに従うとこれらのうちより古い混合事象は第二供給源としてサヘル地域のアフロ・アジア語族話者のマッサ人(Massa)を含むもので(809.1年前)、その後でサヘル地域のナイル・サハラ語族のラカ人(Laka)、アフリカ西部のニジェール・コンゴ語族話者のガンビア人(Gambian、760年前)、アフリカ中央部のナイル・サハラ語族のカバ人(Kaba、660年前頃)が続きます。全ての他の可能性がある供給源人口集団は、470~340年前頃の範囲でより新しい混合事象を示します。
サヘル地域のフラニ人クラスタもしくはアフリカ西部集団をさらに区分するROHパターンがさらに調べられ、アフリカ西部のフラニ人AおよびB個体群はひじょうに類似したROHパターンを示す、と観察され、これはサヘル地域のフラニ人Bと比較してより多くの数のROHを示すサヘル地域のフラニ人Aとは対照的で、このパターンは長い断片により引き起こされているのに対して、短い断片は標本抽出地域に関わらずフラニ人AおよびBのクラスタ間で明確な区別を再現します。あり得る創始者効果/ボトルネック(瓶首効果)の推定を試みると、フラニ人Aのみが有意な結果をもたらし、そうした事象の推定年代は800年前頃で、強度は1.1%であり、以前の調査結果と一致します。
●フラニ人の起源:緑のサハラの物語
ゲノム規模の変異性に基づくほとんどの最近の研究では、フラニ人の非サハラ砂漠以南祖先系統は比較的最近(1800~300年前頃)にたどれて、それはアフリカ西部とアフリカ北部/ヨーロッパ南部の供給源間の混合事象の後だった、と示唆されました(関連記事1および関連記事2)。本論文では、現代人および古代人の標本の合同分析により、フラニ人の非サハラ砂漠以南祖先系統構成要素の特徴づけが可能となり、フラニ人の起源に新たな光を当てます。
K=6での混合分析(図3)では、フラニ人の非サハラ砂漠以南祖先系統は、(1)8000年以上前となるモロッコの古代人(関連記事)においてひじょうに高い割合(実質的に100%)で観察される橙色のイベロモーラシアン構成要素、(2)薄い青色のレヴァント構成要素、(3)おそらくはイベリア半島からマグレブへと到来した、WEHGの赤色構成要素の無視できない割合(関連記事)です。一方、フラニ人にはCHGの濃い青色の構成要素が欠けており、恐らくは、アフリカの西部と北部の集団(代わりに、無視できない割合のCHG構成要素を示します)間の単純な最近の混合より複雑な非サハラ砂漠以南構成要素の起源についての仮定的状況を示唆していますが、このパターンがK=5では見られず、K=8以後の本論文のさまざまな実行間の一貫性の低さも考慮して、混合分析の解釈は不確実性により特徴づけられています。
さらに、混合図はフラニ人におけるアフリカ北部からの古代の流入も示しているようで、(一方でほとんどの事例において中東古代人からの直接的流入を受けた現代のムザブのベルベル人ではなく)イベロモーラシアン個体群はフラニ人祖先系統に寄与しましたが、そうした系統樹の解釈には要注意です。故に、フラニ人における非サハラ砂漠以南祖先系統を形成した(複数の)混合事象は、サハラの北側のこの地域にこうしたCHG構成要素が到来する前か、あるいはこの構成要素がまだ稀だった時に始まったかもしれません。
K=6での混合分析(図3)の結果を考慮して、この事象の時間枠の定義を試みることができます。じっさい、フラニ人において、橙色のイベロモーラシアン構成要素があり、濃い青色のCHG構成要素がないことに加えて、明るい青色のレヴァントおよび赤色のWEHG構成要素が存在することを考えると、フラニ人の非サハラ砂漠以南構成要素は、LNモロッコ人(放射性炭素年代測定値を考慮すると紀元前5000年頃)と類似した供給源人口集団(濃い青色のCHG構成要素を除いて)からの8000~7000年前頃にさかのぼる、と仮定できます。
この時間枠は、7400~6900年前頃となるモロッコのENのカフ・タート・エル・ガール(Kaf Taht el-Ghar、略してKTG)遺跡を報告したごく最近の調査結果(関連記事)によっても裏づけられているようです。その研究によると、フラニ人で観察されたように、KTG遺跡個体群にはイベロモーラシアンとレヴァントとWEHGの構成要素があるものの、CHG構成要素は欠けていました。興味深いことに、この時間枠は、青草がの多い環境と、牧畜や農耕の拡大など社会的および文化的変化により特徴づけられる最後の緑のサハラの期間に相当しており、その牧畜と農耕は両方とも、在来の発展か、ヨーロッパおよび/もしくは中東からアフリカ北東部に7000~6000年前頃に到来しました(関連記事)。
フラニ人における非サハラ砂漠以南構成要素代理としてのLNモロッコ人(紀元前6000~紀元前3000年頃)と、サハラ砂漠以南のアフリカ人の代理としてカメルーンの古代人標本(紀元前6000~紀元前3000年頃)を考慮して、DATESを用いて、そうした事象の年代推定値の洗練が試みられました。2800年前頃との推定年代は、先行研究で得られた推定年代よりずっと古く、最近刊行された研究の推定年代と類似しており(関連記事1および関連記事2)、その一方の研究では、追加のより新しい(1000年前頃)混合事象も年代測定されました(関連記事)。
しかし、DATESは、連続的な遺伝子流動や、より多くの混合回数、および/もしくは以前に論証されたようなボトルネックの場合にはより新しい年代推定値を推測するかもしれないので、本論文で得られた年代推定値は、大きな標準誤差も考慮して、より古い混合事象の時間枠の下限として注意深く解釈すべきことに、注意しなければなりません。この文脈では、同じ供給源は対象としてのベルベル人ではわずかに嵐位推定混合年代(2000年前頃)をもたらしたことにも要注意で、おそらくは、非サハラ砂漠以南構成要素はフラニ人とベルベル人においてさまざまな経緯と年代で獲得され、ベルベル人はおそらくより最近になって余分なユーラシア人からの流入(濃い青色のCHG)を得た、と示唆していますが、これらの推定年代のほぼ重複した信頼区間のため要注意です。
この仮説が正しければ、フラニ人における非サハラ砂漠以南構成要素は、アフリカにおける主要な北東部から北西部と北東部から東部への経路に加えて、イベロモーラシアン個体群におけるアフリカ西部祖先系統構成要素の存在により示唆されたように(関連記事)、好適な気候条件によりサヘル地帯に居住する集団間の比較的連続的な遺伝子流動が可能となったことを考慮して、サヘル地帯に居住する集団間の複雑な混合事象として解釈すべきです。
本論文の混合分析で、ケニアの新石器時代牧畜民と現代のサヘル地域中央部の集団もイベロモーラシアンの橙色とレヴァントの明るい青色の構成要素を無視できない割合で有していることを考えると、これらサハラの人々はじっさいに、フラニ人を含めて現在のサヘル地帯の人々の祖先だったかもしれません。さらに、サヘル地域の中央部と東部両方の現代のナイル・サハラ語族話者集団における濃い青色のCHG構成要素の欠如と、D統計でのフラニ人Aとナイル・サハラ語族話者との間のわずかな類似性は、この仮説へのいくらかの証拠を提供します。それは、ナイル・サハラ語族は最後の湿潤期に緑のサハラ地域にずっと広範に分布しており、ずっと最近(1500年前頃)になってやっとアフロ・アジア語族言語に置換された、と提案されてきたからです。
これらサハラ人口集団の正確な遺伝的祖先系統は、当時のその地域の古代の個体群なしには評価できませんが、現在利用可能な古代人データと本論文の結果に基づいて、こうしたサハラ人口集団は遺伝的にイベロモーラシアンからLNのモロッコ古代人と類似しており、最近のKTG遺跡も含まれていた、と提案できます(図4)。以下は本論文の図4です。
この地域の緑のサハラの終焉およびその後の漸進的な砂漠化に伴って、気候変化への対応における社会経済的変化と一致し、Y染色体データにより示唆されているように、サハラ集団は西方か東方か南方か北方へと移動しました。とくに、ウシの牧畜が生計の主要な形態になった、とテイン漁れてきており、それは、より信頼できる食料源だったからで、岩絵や儀式により証明されているように、サハラ全域のウシ崇拝の確立をもたらしました(関連記事)。この仮定的状況は、フラニ人をサハラ砂漠以南のアフリカやアフリカ北部やヨーロッパやアフリカ東部の集団とつなげるさまざまな遺伝学的体系の明らかな対照的証拠を調和させるかもしれません。じっさい、広範な接触を有する緑のサハラの人口集団を仮定するならば、これらの集団が遺伝的類似性を共有しているかもしれず、サハラの砂漠化に伴ってのさまざまな遺伝的軌跡が続いたことは、驚くべきではありません。
これら全てのデータは、フラニ人のゲノムにおける非サハラ砂漠以南祖先系統の形成について、複雑な仮定的状況を示しているかもしれません。本論文の結果を考慮して、フラニ人の祖先はおそらく緑のサハラのウシの牧畜民で、変化する気候に対応して西方へと移動し、次に在来の人々と混合した、と仮定されます。その後、遊牧と族内婚により歴史的に特徴づけられるフラニ人の生活様式と、その人口規模の劇的な減少(関連記事)は、これら古代の「緑のサハラ」構成要素の希釈を妨いだかもしれません。
●フラニ人の最近の人口史
本論文で特定されたフラニ人の両クラスタ(AおよびB)は同じ祖先系統構成要素を示し、同じ混合年代でqpAdmにて同じ供給源によりモデル化でき、異なる割合であるものの、この2集団(フラニ人AおよびB)の共通の祖先系統を示しており、異なる人口動態を示唆しています。フラニ人集団の下部構造はすでに説明されてきており、フラニ人化減少、つまり遊牧民フラニ人集団内での定住の在来民の吸収、およびほぼ都市部の植民における、その結果としての定住の在来民の民族性変化と関連づけられてきました。
本論文のデータによると、フラニ人Bは近隣人口集団とのより高度な混合を示しており、じっさい、qpAdではフラニ人Aと追加のサハラ砂漠以南の供給源としてモデル化に成功できます。これら混合事象の推定年代は複雑な歴史を示しているようで、最古(800~665年前頃)の混合は3語族(アフロ・アジア語族とナイル・サハラ語族とニジェール・コンゴ語族)のサヘル地域およびアフリカ西部の集団を含んでおり、恐らくは最初の歴史時代のフラニ人の移動の足跡を表しています。その後の混合事象は、サヘル地域のニジェール・コンゴ語族話者のソンガイ人(Songhai)を顕著な例外として、アフリカ西部/中央部のニジェール・コンゴ語族話者人口集団をおもに含んでおり、その時間枠は、フラニ人の戦士と支配者により戦われたり支配されたりした、アフリカ西部の帝国と重複しています。
ROHおよびIBD断片を分析すると、フラニ人クラスタ間の違いが確証され、フラニ人Aは平均してより長いROHと高度の人口集団内IBD共有を示し、これは恐らく、族内婚および/もしくはボトルネックの結果です。興味深いことに、地域によって各クラスタを分割すると、サヘル地域のフラニ人Aはより多くてより長いROHを有しており、対照的に、アフリカ西部のフラニ人AおよびBはより類似していた、と観察できます。しかし、短いROHのみを考慮すると、このパターンは変わり、フラニ人Aとフラニ人Bの分化が再現されました。
これら全ての観察から、フラニ人Bが最近において他のサハラ砂漠以南の集団、とくにサヘル地域で標本抽出された集団とより多くの混合を経たのとは対照的に、フラニ人Aは最近においてより強い族内婚/ボトルネックを経ており、以前にも観察されたように、より多くより長いROH断片の存在につながった、と示唆されるようです。対照的に、アフリカ西部では、両クラスタ(フラニ人AおよびB)は同様の程度の最近の混合を示すようです。そうした内部の人口階層化の理由は説明困難で、それは、いくつかの側面がこれ(フラニ人化、社会的慣行、都市対農村の集落)に寄与しているかもしれず、これに光を当てるには、より多くの標本でのさらなる研究が必要とされるかもしれないからです。
●まとめ
フラニ人、一般的にはサハラ/サヘル帯の人口史はひじょうに複雑で、大きな完新世の気候変化に強く影響を受けたかもしれません。とくに、最後の緑のサハラ(12000~5000年前頃)はその期間の人口動態に大きな役割を果たしたかもしれず、現在のアフリカ北部とサハラ地域とを含む広範な地域に居住したさまざまな集団間の接触を可能にしたので、サハラ全域の人口集団の形成につながりました。そうした(複数の)人口集団の正確な祖先系統構成要素は、現代人のゲノムだけでは完全には解明できません。
本論文が把握している限りでは、本論文は古代人標本の枠組みでアフリカ現代人の全ゲノムを一貫して分析した最初の研究で、この手法は情報をもたらすと証明されてきており、推定されるサハラの古代人と新石器時代モロッコ人との間の類似性を示唆しています(図4)。これに基づくと、これら古代のサハラの(複数の)集団は、フラニ人を含めて、サヘル地域の現代の人口集団の祖先を表しているかもしれず、フラニ人は、最後の湿潤期の末にサハラの砂漠化に対応して西方へと移動した、サハラのウシの牧畜民集団の子孫かもしれません。将来、サヘル地域西部および中央部からのより多くの古代人標本の分析が、この仮定的状況に新たな光を当てるかもしれません。
参考文献:
D’Atanasio E. et al.(2023): The genomic echoes of the last Green Sahara on the Fulani and Sahelian people. Current Biology, 33, 24, 5495–5504.E4.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.10.075
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