突厥王族出身の北周の阿史那皇后のゲノムデータ
北周の阿史那(Ashina)皇后のゲノムデータを報告した研究(Yang et al., 2023)が公表されました。本論文は、突厥王族出身の北周の阿史那皇后のゲノムデータを示し、ユーラシアの古代人および現代人集団と比較しました。阿史那皇后のゲノムはほぼ完全にアジア北東部的な遺伝的構成要素で示され、わずかにユーラシア西部関連の遺伝的構成要素も示しますが、黄河流域新石器時代集団的な遺伝的構成要素を示しません。これは突厥王族の起源がアジア北東部的な遺伝的構成の集団にあることを強く示唆していますが、匈奴(関連記事)など紀元前千年紀および紀元後千年紀の遊牧国家の遺伝的多様性の高さを考えると、支配層と被支配層の間だけではなく、支配層でも高い遺伝的不均質があった可能性を否定できないでしょう。また本論文は、テュルク語族言語の拡大に、人口拡大よりも文化拡散の方が大きな役割を果たした可能性も示唆しており、時空間的により広範囲での今後の研究の進展が注目されます。なお、以下の年代や世紀は、明記のない場合は紀元後で、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。
●研究史
テュルク系の人々の最初の繁栄は6~8世紀にかけてで、強力な遊牧民の突厥可汗国が台頭しました。阿史那(Ashina)氏により建国された突厥の範囲は、モンゴル高原からカスピ海にまで及びました。匈奴や鮮卑や他の遊牧民連合に続いて到来したテュルク人の影響はユーラシア全域に及び、最終的には、その後の千年および何世紀にもわたって、ユーラシア西部の民族言語の多くに影響を及ぼしました。残念ながら、突厥可汗国の歴史的記録は散発的で、矛盾していることがよくあります。テュルク人は8世紀半ばの突厥可汗国の崩壊後に統一政権としてはもはや存在しませんでしたが、自身は他のユーラシアの言語との長い接触および混合にも関わらず、テュルク語族として生き残ってきました。40以上の言語から構成されるテュルク語族はアルタイ諸語では最大の言語群で、1億7000万人以上が10ヶ国以上でテュルク語族言語を話しています。
突厥可汗国の支配部族として、阿史那部族はテュルク人の謎めいた起源の解明に重要です。突厥の起源は関連する中国の歴史的記録、つまり『周書(Zhoushu)』や『北史(Beishi)』や『隋書(Suishu)』や『通典(Tongdian)』などで論争となっている問題ですが、以下の3通りの以下の競合する仮説に要約されます。それは、(1)アジア北東部地域に起源がある匈奴の部族からの阿史那部族の派生、(2)ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)もしくはアジア東部~中央部起源で、その後に東方へと移住、(3)中国北西部の平凉(Pingliang)もしくは高昌(Gaochang/Turfan)周辺の複数起源で、ユーラシアの東西両方の民族集団を含む過程です。
テュルク系貴族の間では火葬が一般的に行なわれていたので、ほとんどの既知のテュルク系の墓地にはそうした骨格遺骸が残っていません。幸いなことに、現在の陝西省咸陽市地張鎮(Dizhang)町にある孝陵(Xiaoling Mausoleum)の阿史那皇后の骨格遺骸が特定されました(図1A)。『周書』第9巻に詳しく記載されているように、阿史那皇后(551~582年)は阿史那俟斤(Qijin、官職名)とも呼ばれる木汗可汗(Muqan Khagan)の娘で、北周王朝の皇帝である宇文邕(Yuwen Yong、武帝)との婚約により、王族に嫁ぎました。
阿史那皇后は32歳(数え年)で没すると、孝陵に夫(武帝)とともに名誉をもって埋葬されました。この遺跡(孝陵)で出土した文化的遺物には、「孝陵志(Xiaolingzhi、Epitaph of Xiaoling)」や「武徳皇后志(Wude Huanghouzhi、Epitaph of Empress Wude)」や天元皇太后璽(a seal belonging to the Empress Dowager Tianyuan、図1A)や青銅製の手桶および少数の装飾品が含まれています。この高位墓地の骨格遺骸は、全体的に保存状態がひじょうに悪く、女性個体(阿史那皇后)の四肢骨が標本抽出されました。阿史那皇后の標本で、放射性炭素(¹⁴C)年代測定が実行されました。この標本の年代は564~650年頃(1386~1300年前頃)で、阿史那皇后が生きていた期間とよく一致します。阿史那皇后の標本は、突厥可汗国の起源を探るうえでひじょうに貴重です。以下は本論文の図1です。
以前の遺伝学的研究は、西方のテュルク系の人々にほぼ焦点をあててきましたが、阿史那氏など突厥可汗国の中核部族が過小評価されてきました。本論文では、阿史那皇后の遺伝的特性の分析を通じて、以下の3点の問題への回答が試みられます。その3点の問題とは、(1)突厥の祖先の起源、(2)阿史那皇后と他のテュルク系の人々と鉄器時代後のユーラシア中央部および東部草原地帯牧畜民との間の遺伝的関係、(3)古代の突厥と現代のテュルク語族話者人口集団との間の遺伝的関係です。
阿史那皇后について、網羅率0.2倍でゲノム規模配列データが生成されました。全ライブラリは古代DNAの典型的な損傷パターンを示しました。この標本は低水準の現代のミトコンドリアDNA(mtDNA)汚染(1%未満)を特徴としており、常染色体の汚染の証拠はありません。この標本は女性と評価されました。この標本のmtDNAハプログループ(mtHg)は、アジア北東部で優勢なF1dです。古代のデータはその後の分析のため、刊行されているデータと統合されました。
●突厥可汗国の王族のアジア北東部起源
主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では(図1B)、阿史那皇后は現代のツングース語族およびモンゴル語族話者、アジア北東部とモンゴル高原東部の古代の人口集団、とくに「アジア北東部古代人(Ancient Northeast Asian、略してANA)」と以前に呼ばれたアジア北東部狩猟採集民や、鉄器時代後の鮮卑や柔然(Rouran)やキタイ(Khitan、契丹)、およびモンゴルの人口集団の一部とクラスタ化します(まとまります)。このANAとは、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)の新石器時代(Neolithic、略してN)個体(悪魔の門_N)、モンゴル北部の新石器時代個体(モンゴル_N_北方)、極東ロシア沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)個体(ボイスマン_MN)、アムール川(Amur River、略してAR)流域の前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)個体(AR_EN)です。
阿史那皇后とユーラシア北東部人、とくにANAとの間で共有された遺伝的類似性は、外群f₃統計でも明らかでした。アムール川の青銅器時代の前の人口集団、モンゴル高原およびバイカル湖の狩猟採集民、モンゴル高原の後期青銅器時代のウラーンズク(Ulaanzukh)文化関連人口集団は、f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、鉄器時代前のアジア北東部人)で反映されているように、阿史那皇后とクレード(単系統群)を形成しました。阿史那皇后と青銅器時代前のANAとの間の遺伝的類似性は正の、f₄(鉄器時代前のアジア北東部人、ムブティ人;阿史那皇后、X)でも示され、この場合、Xは古代の黄河やシナ・チベット語族など雑穀農耕民関連人口集団を除いたアジア東部人を表しています。
阿史那皇后がユーラシア西部人から追加の遺伝的影響を受けていたことも観察されました。第一に、モデルに基づくADMIXTUREクラスタ化は、おもにユーラシア東部関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と、近東農耕民および草原地帯的祖先系統を含むわずかなユーラシア西部関連系統を示しました(図1C)。第二に、阿史那皇后は、ほとんどの事例で正の、f₄(ユーラシア西部人、ムブティ人;阿史那皇后、ユーラシア東部古代人)を示す複数の比較で、ユーラシア西部人とのアレル(対立遺伝子)共有がユーラシア東部古代人よりも多くなっていました。
さらに、ユーラシア西部草原地帯牧畜民であるアファナシェヴォ(Afanasievo)文化関連個体とAR_ENもしくはモンゴル_N_北方を供給源の組み合わせとして用いると、qpWave/qpAdmを用いて、阿史那皇后はユーラシア西部換券祖先系統を2.3~3.9%、ANA関連祖先系統を96.1~97.7%有する、と推定されました。DATESで供給源としてモンゴル_N_北方およびアファナシェヴォ文化関連個体を用いると、ユーラシア西部人との混合は、阿史那皇后の頃から1566±396年前と年代測定されました。ここでモンゴル_N_北方およびアファナシェヴォ文化関連個体が用いられたのは、標本規模がより大きかったからです。
雑穀農耕民から阿史那皇后への遺伝子流動があったのかどうか、さらに調べられました。鉄器時代(Iron Age、略してIA)黄河流域農耕民(黄河_IA)が、供給源としてANAおよびアファナシェヴォ文化関連個体との2方向混合モデルの外群一式へと追加されました。黄河_IAには、河南省の漯河市固廂戦(Luoheguxiang)遺跡と焦作聶村(Jiaozuoniecun)遺跡と郝家台(Haojiatai)遺跡および青海省の大槽子(Dacaozi)遺跡の標本が含まれ、これらの個体は新石器時代黄河雑穀農耕民の子孫です。2方向モデルは依然として阿史那皇后によく適合すると分かり、雑穀農耕民からの遺伝子流動の欠如が論証されます。ユーラシア東部草原地帯の柔然と鮮卑では、類似の結果が観察されました。
●阿史那皇后と他の鉄器時代後のユーラシア中央部および東部草原地帯牧畜民との間の遺伝的関係
鉄器時代以後、一連の遊牧民政権がユーラシア東部草原地帯において興亡を繰り広げ、それは、匈奴(紀元前3世紀~1世紀)、鮮卑(1~6世紀)、柔然(4~6世紀)、テュルク(6~8世紀)、ウイグル(744~840年)、キタイ(916~1125年)で、最も積極的に拡大して成功したのがモンゴル帝国(1206~1368年)でした。ユーラシア東部草原地帯に隣接するユーラシア中央部草原地帯でも遊牧民政権の繁栄があり、フン(Hun 、4~6世紀)、烏孫(Wusun、紀元前2世紀~5世紀)、康居(Kangju、紀元前140年頃)、テュルク・カルルク(Turkic Karluk、7~13世紀)、キメク(Kimak、10~13世紀)、カラハン朝(Kara‐Khanid、10~13世紀)、キプチャク(Kipchak、11世紀)などが存在しました。突厥可汗国とこれらユーラシア東部および中央部草原地帯の遊牧民の人口集団間の遺伝的関係は、長きにわたって不確かでした。
阿史那皇后は、フンや烏孫や康居の期間のユーラシア中央部草原地帯牧畜民とは遺伝的に異なっていた、と分かりました。匈奴は遺伝的に不均質な人口集団で、一部の標本(後期匈奴_漢)はANAと黄河流域農耕民から大きな遺伝的影響を受けましたが、他の個体(初期匈奴、後期匈奴、後期匈奴_サルマティア文化)にはユーラシア西部人とより密接なつながりがあります(関連記事)。これは、有意ではない、f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、柔然/鮮卑/キタイ/合水_靺鞨)および対でのqpWaveと一致し、これらの結果は、阿史那皇后が柔然や鮮卑やキタイや甘粛省慶陽市合水(Heshui)県の靺鞨(Mohe)と遺伝的クレードを形成する、と示唆しました。突厥可汗国の遊牧民人口集団では、ユーラシア東部草原地帯のキタイおよび靺鞨とユーラシア中央部草原地帯の金帳汗国(GoldenHorde、ジョチウルス)のアジア人(ウリタウ山脈のジョチウルスの軍隊の1個体)は、阿史那皇后との遺伝的類似性を示しました。対照的に、ウイグルとカルルクとキメクとキプチャクとカラハン朝とモンゴルの人々は、阿史那皇后の標本と遺伝的に大きく分離していました。
阿史那皇后と鉄器時代後のユーラシア東部および中央部草原地帯遊牧民人口集団との間のさまざまな遺伝的関係は、ADMIXTUREと教師有ADMIXTUREとqpAdmで示される祖先構成でも明らかでした。ユーラシア東部草原地帯牧畜民では、匈奴集団の一部(初期匈奴_残り、後期匈奴_漢、後期匈奴)や柔然や鮮卑やキタイやモンゴルや合水_靺鞨が、82.9~99.8%と支配的なユーラシア東部祖先系統と追加のユーラシア西部祖先系統を有していました。対照的に、匈奴西部(初期匈奴_西部)と後期のサルマティア人(Sarmatian)の匈奴(後期匈奴_サルマティア)の祖先系統はおもにユーラシア西部に由来し、たとえば、匈奴西部は68.4%のアファナシェヴォ文化個体関連祖先系統を示しました。
ユーラシア中央部草原地帯牧畜民では、烏孫と康居と天山フンはその祖先系統の大半(62.4~73%)がユーラシア西部の遊牧民のアファナシェヴォ文化集団に由来し、残り(27~37.6%)はバクトリア・ マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、略してBMAC)関連個体およびユーラシア東部人として特徴づけられます。テュルク・カルルクとキプチャクとカラハン朝の個体のゲノムは、アファナシェヴォ文化個体から35~50.6%、BMAC個体から10.5~21.7%、黄河_IAから38.9~49.4%に由来する、とモデル化できます。ユーラシア東部祖先系統の割合は中世の牧畜民(ユーラシア中央部草原地帯_中世_遊牧民とカザフスタンのジョチウルス)では67.3~82.5%に増加しましたが、有史時代のカザフスタン個体(カザフスタン_有史時代)は、ユーラシア西部草原地帯牧畜民に由来する75.5%の主要な祖先系統のため、異なる遺伝的特性を示しました。
阿史那皇后は、外群f₃(阿史那皇后、中世初期もしくはユーラシア中央部草原地帯テュルク人;ムブティ人)のより低い値と、f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、中世初期もしくはユーラシア中央部草原地帯テュルク人)で反映されているように、中世もしくはユーラシア中央部草原地帯のテュルク人と密接な遺伝的類似性を示しませんでした。中世初期のテュルク人(中世初期_テュルク)は柔然の1個体と遺伝的類似性を示しましたが、PCAおよび対でのqpWaveで示されるように、阿史那皇后とは異なる遺伝的特性を有していました。
中世初期_テュルクは、その祖先系統の大半(62.2%)がANAに由来し、残りはBMAC(10.7%)およびユーラシア西部草原地帯のアファナシェヴォ文化遊牧民(27.1%)に由来しました(図1C)。地理的に離れたユーラシア中央部草原地帯のテュルク人(キルギスタン_テュルクおよびカザフスタン_テュルク)は、ANA(モンゴル_N_北方)とBMACとユーラシア西部草原地帯牧畜民(アファナシェヴォ文化)の混合としてモデル化できます。阿史那皇后とは対照的に、ユーラシア中央部草原地帯と中世初期のテュルク人は、ユーラシア西部祖先系統の割合が高いものの、その割合は異なっており、テュルク帝国(突厥)の遺伝的下部構造があったことを示唆しています。
●突厥と現代のテュルク語族話者人口集団との間の遺伝的関係
ユーラシア東部草原地帯の牧畜民である可汗国では、モンゴル語族言語の拡大が鮮卑や柔然やキタイやモンゴルの集団と関連していた一方で、匈奴とテュルクとウイグルはテュルク語族の拡散と関連していた、と主張されてきました。後者の場合、拡散の2波が仮定されてきました。まず、ブルガール・テュルク(Bulgharic Turkic)語の拡散が、匈奴のそれ以前の拡大によって起き、フン期に始まり、その後で、テュルク可汗国と関連する人口拡大が続きました。2世紀および3世紀には、イラン語群話者集団が居住していたユーラシア中央部草原地帯は、次第に増加するテュルク語族話者人口集団により置換されました。
古代の突厥と現代のテュルク語族話者人口集団との間の遺伝的関係は、依然として論争の的です。PCAでは、テュルク語族話者集団はPC(主成分)2の東西の勾配に沿って散在していましたが、阿史那皇后はアジア北東部クラスタに位置していました。阿史那皇后と最も類似した遺伝的特性を示す現代の人口集団はツングース語族話者で、次がモンゴル語族話者です。この関係は、PCAと教師なしADMIXTUREと外群f₃統計で明らかにされました。注目すべきことに、これらの結果は、古代のテュルク人と現在のテュルク語族話者集団との間の遺伝的類似性の証拠を提供しませんでした。
阿史那皇后との関連の程度を評価するため、f₄形式の統計によりツングース語族およびモンゴル語族話者人口集団がテュルク語族話者人口集団と比較されました。その結果、テュルク語族話者と比較すると、ツングース語族およびモンゴル語族話者集団は阿史那皇后とより関連している、と分かりました。つまり、f₄(ムブティ人、阿史那皇后;ツングース語族およびモンゴル語族話者、テュルク語族話者)が<0(ヤクート人とドルガン人を除きます)と、f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、ツングース語族およびモンゴル語族話者)が0<3です。極東のエヴェンキ人(Evenk)を除いてf₄(ムブティ人、阿史那皇后;ツングース語族話者、モンゴル語族話者)で反映されているように、ツングース語族話者人口集団が阿史那皇后と最高の遺伝的類似性を共有していた、とさらに観察されました。
テュルク語族話者人口集団は阿史那皇后と比較して有意に異なる遺伝的特性を有しており、つまり、f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、ツングース語族話者)では、Xにユーラシア西部人を含むとZ得点が3超で、Xにユーラシア東部人を含むとZ得点が-3未満です。テュルク語族話者人口集団と、テュルク語族言語の拡散と関連する古代の人口集団との間には有意な違いが観察され、テュルク語族言語の拡大は、人口拡散および人口統合ではなく、おもに文化的要因により促進された、と示唆されます。
教師なしADMIXTUREクラスタ化分析は、テュルク語族話者人口集団間の東西の混合パターンを明らかにしました。教師有ADMIXTUREクラスタ化分析も実行され、阿史那皇后関連の古代人集団が現代のテュルク語族話者人口集団に遺伝的痕跡を残したのかどうか、調べられました。教師なしADMIXTUREに基づいて、選択された祖先の代理は、阿史那皇后とモンゴル_N_北方と黄河_LNとロシアのシンタシュタ(Sintashta)文化の中期~後期青銅器時代(Middle to Late Bronze Age、略してMLBA)個体(ロシア_シンタシュタ_MLBA)でした。ANA(モンゴル_N_北方/阿史那皇后)と関連する祖先系統の割合は、テュルク語族話者集団では多様だと観察されました。ANA祖先系統は、最西端のテュルク語族話者人口集団では欠如していました(図1D)。
f₄(テュルク語族話者、ムブティ人;阿史那皇后、ユーラシア東部人)が実行され、阿史那皇后関連系統がテュルク語族話者人口集団におけるユーラシア東部祖先系統の説明に充分なのかどうか、さらに判断されました。ここでのユーラシア東部人には、ユーラシア西部的祖先系統により影響を受けなかったかもしれない人々が含まれました。f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、テュルク語族話者)のZ得点は正のf₄(ほとんどが0超)へと向かう傾向があり、阿史那皇后は遺伝的にテュルク語族話者集団よりもアジア東部人の方と密接だった、と示されます。
テュルク語族話者人口集団のqpAdmに基づく混合モデルが体系的に調べられ、阿史那皇后との密接な近縁性を示すツングース語族およびモンゴル語族話者と比較されました。阿史那皇后は、一部のツングース語族およびモンゴル語族話者人口集団、つまりバオアン人(Bonan、保安人)やドンシャン人(Dongxiang)やトランスバイカル地域のエヴェンキ人やオロチョン人(Oroqen)やツー人(Tu)やウリチ人(Ulchi)とともに、単一の供給源からの由来と一致しましたが、テュルク語族話者人口集団とは一致しませんでした。阿史那皇后を含む東西のユーラシア人の2方向および3方向混合モデルはテュルク語族話者人口集団では失敗しましたが、ドルガン人(Dolgan)やサラール人(Salar)やトゥバ人(Tuvinian)やヤクート人(Yakut)やアルタイ地域チュヴァシ人(Chuvash)やハカス人(Khakass)やカザフスタンの中国人やキルギスの中国人やキルギスのタジキスタン人でのみ成功し、テュルク語族話者人口集団内の遺伝的不均質を明らかにしています。それは、1方向および2方向混合モデルで阿史那皇后関連系統からの圧倒的な寄与を示したツングース語族およびモンゴル語族話者とは対照的でした。qpAdmおよび教師有ADMIXTUREの結果は、テュルク語族話者人口集団における阿史那皇后からの限定的な寄与と、アジア北東部のツングース語族およびモンゴル語族話者における阿史那皇后により示されるANA祖先系統の連続性を論証しました。
●示唆
要約すると、本論文は古代テュルク王室の最初のゲノム特性を明らかにしました。本論文の阿史那皇后のゲノム解析は、突厥のアジア北東部起源(97.7%のアジア北東部祖先系統と2.3%のユーラシア西部祖先系統)を明らかにし、ユーラシア西部起源および複数起源仮説に反論します。阿史那皇后は、柔然や鮮卑やキタイや合水_靺鞨など鉄器時代後のツングース語族およびモンゴル語族話者の草原地帯牧畜民と最高の遺伝的類似性を共有しており、他の古代のテュルク系の人々と遺伝的不均質を示す、と分かり、テュルク可汗国人口集団の複数起源が示唆されます。さらに、現代のテュルク語族話者人口集団で見られる古代の突厥からの限定的寄与は、テュルク語族言語の拡大に関する人口拡散モデルよりも文化的拡散モデルを再び確証します。
参考文献:
Yang XM. et al.(2023): Ancient genome of Empress Ashina reveals the Northeast Asian origin of Göktürk Khanate. Journal of Systematics and Evolution, 61, 6, 1056–1064.
https://doi.org/10.1111/jse.12938
●研究史
テュルク系の人々の最初の繁栄は6~8世紀にかけてで、強力な遊牧民の突厥可汗国が台頭しました。阿史那(Ashina)氏により建国された突厥の範囲は、モンゴル高原からカスピ海にまで及びました。匈奴や鮮卑や他の遊牧民連合に続いて到来したテュルク人の影響はユーラシア全域に及び、最終的には、その後の千年および何世紀にもわたって、ユーラシア西部の民族言語の多くに影響を及ぼしました。残念ながら、突厥可汗国の歴史的記録は散発的で、矛盾していることがよくあります。テュルク人は8世紀半ばの突厥可汗国の崩壊後に統一政権としてはもはや存在しませんでしたが、自身は他のユーラシアの言語との長い接触および混合にも関わらず、テュルク語族として生き残ってきました。40以上の言語から構成されるテュルク語族はアルタイ諸語では最大の言語群で、1億7000万人以上が10ヶ国以上でテュルク語族言語を話しています。
突厥可汗国の支配部族として、阿史那部族はテュルク人の謎めいた起源の解明に重要です。突厥の起源は関連する中国の歴史的記録、つまり『周書(Zhoushu)』や『北史(Beishi)』や『隋書(Suishu)』や『通典(Tongdian)』などで論争となっている問題ですが、以下の3通りの以下の競合する仮説に要約されます。それは、(1)アジア北東部地域に起源がある匈奴の部族からの阿史那部族の派生、(2)ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)もしくはアジア東部~中央部起源で、その後に東方へと移住、(3)中国北西部の平凉(Pingliang)もしくは高昌(Gaochang/Turfan)周辺の複数起源で、ユーラシアの東西両方の民族集団を含む過程です。
テュルク系貴族の間では火葬が一般的に行なわれていたので、ほとんどの既知のテュルク系の墓地にはそうした骨格遺骸が残っていません。幸いなことに、現在の陝西省咸陽市地張鎮(Dizhang)町にある孝陵(Xiaoling Mausoleum)の阿史那皇后の骨格遺骸が特定されました(図1A)。『周書』第9巻に詳しく記載されているように、阿史那皇后(551~582年)は阿史那俟斤(Qijin、官職名)とも呼ばれる木汗可汗(Muqan Khagan)の娘で、北周王朝の皇帝である宇文邕(Yuwen Yong、武帝)との婚約により、王族に嫁ぎました。
阿史那皇后は32歳(数え年)で没すると、孝陵に夫(武帝)とともに名誉をもって埋葬されました。この遺跡(孝陵)で出土した文化的遺物には、「孝陵志(Xiaolingzhi、Epitaph of Xiaoling)」や「武徳皇后志(Wude Huanghouzhi、Epitaph of Empress Wude)」や天元皇太后璽(a seal belonging to the Empress Dowager Tianyuan、図1A)や青銅製の手桶および少数の装飾品が含まれています。この高位墓地の骨格遺骸は、全体的に保存状態がひじょうに悪く、女性個体(阿史那皇后)の四肢骨が標本抽出されました。阿史那皇后の標本で、放射性炭素(¹⁴C)年代測定が実行されました。この標本の年代は564~650年頃(1386~1300年前頃)で、阿史那皇后が生きていた期間とよく一致します。阿史那皇后の標本は、突厥可汗国の起源を探るうえでひじょうに貴重です。以下は本論文の図1です。
以前の遺伝学的研究は、西方のテュルク系の人々にほぼ焦点をあててきましたが、阿史那氏など突厥可汗国の中核部族が過小評価されてきました。本論文では、阿史那皇后の遺伝的特性の分析を通じて、以下の3点の問題への回答が試みられます。その3点の問題とは、(1)突厥の祖先の起源、(2)阿史那皇后と他のテュルク系の人々と鉄器時代後のユーラシア中央部および東部草原地帯牧畜民との間の遺伝的関係、(3)古代の突厥と現代のテュルク語族話者人口集団との間の遺伝的関係です。
阿史那皇后について、網羅率0.2倍でゲノム規模配列データが生成されました。全ライブラリは古代DNAの典型的な損傷パターンを示しました。この標本は低水準の現代のミトコンドリアDNA(mtDNA)汚染(1%未満)を特徴としており、常染色体の汚染の証拠はありません。この標本は女性と評価されました。この標本のmtDNAハプログループ(mtHg)は、アジア北東部で優勢なF1dです。古代のデータはその後の分析のため、刊行されているデータと統合されました。
●突厥可汗国の王族のアジア北東部起源
主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では(図1B)、阿史那皇后は現代のツングース語族およびモンゴル語族話者、アジア北東部とモンゴル高原東部の古代の人口集団、とくに「アジア北東部古代人(Ancient Northeast Asian、略してANA)」と以前に呼ばれたアジア北東部狩猟採集民や、鉄器時代後の鮮卑や柔然(Rouran)やキタイ(Khitan、契丹)、およびモンゴルの人口集団の一部とクラスタ化します(まとまります)。このANAとは、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)の新石器時代(Neolithic、略してN)個体(悪魔の門_N)、モンゴル北部の新石器時代個体(モンゴル_N_北方)、極東ロシア沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)個体(ボイスマン_MN)、アムール川(Amur River、略してAR)流域の前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)個体(AR_EN)です。
阿史那皇后とユーラシア北東部人、とくにANAとの間で共有された遺伝的類似性は、外群f₃統計でも明らかでした。アムール川の青銅器時代の前の人口集団、モンゴル高原およびバイカル湖の狩猟採集民、モンゴル高原の後期青銅器時代のウラーンズク(Ulaanzukh)文化関連人口集団は、f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、鉄器時代前のアジア北東部人)で反映されているように、阿史那皇后とクレード(単系統群)を形成しました。阿史那皇后と青銅器時代前のANAとの間の遺伝的類似性は正の、f₄(鉄器時代前のアジア北東部人、ムブティ人;阿史那皇后、X)でも示され、この場合、Xは古代の黄河やシナ・チベット語族など雑穀農耕民関連人口集団を除いたアジア東部人を表しています。
阿史那皇后がユーラシア西部人から追加の遺伝的影響を受けていたことも観察されました。第一に、モデルに基づくADMIXTUREクラスタ化は、おもにユーラシア東部関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と、近東農耕民および草原地帯的祖先系統を含むわずかなユーラシア西部関連系統を示しました(図1C)。第二に、阿史那皇后は、ほとんどの事例で正の、f₄(ユーラシア西部人、ムブティ人;阿史那皇后、ユーラシア東部古代人)を示す複数の比較で、ユーラシア西部人とのアレル(対立遺伝子)共有がユーラシア東部古代人よりも多くなっていました。
さらに、ユーラシア西部草原地帯牧畜民であるアファナシェヴォ(Afanasievo)文化関連個体とAR_ENもしくはモンゴル_N_北方を供給源の組み合わせとして用いると、qpWave/qpAdmを用いて、阿史那皇后はユーラシア西部換券祖先系統を2.3~3.9%、ANA関連祖先系統を96.1~97.7%有する、と推定されました。DATESで供給源としてモンゴル_N_北方およびアファナシェヴォ文化関連個体を用いると、ユーラシア西部人との混合は、阿史那皇后の頃から1566±396年前と年代測定されました。ここでモンゴル_N_北方およびアファナシェヴォ文化関連個体が用いられたのは、標本規模がより大きかったからです。
雑穀農耕民から阿史那皇后への遺伝子流動があったのかどうか、さらに調べられました。鉄器時代(Iron Age、略してIA)黄河流域農耕民(黄河_IA)が、供給源としてANAおよびアファナシェヴォ文化関連個体との2方向混合モデルの外群一式へと追加されました。黄河_IAには、河南省の漯河市固廂戦(Luoheguxiang)遺跡と焦作聶村(Jiaozuoniecun)遺跡と郝家台(Haojiatai)遺跡および青海省の大槽子(Dacaozi)遺跡の標本が含まれ、これらの個体は新石器時代黄河雑穀農耕民の子孫です。2方向モデルは依然として阿史那皇后によく適合すると分かり、雑穀農耕民からの遺伝子流動の欠如が論証されます。ユーラシア東部草原地帯の柔然と鮮卑では、類似の結果が観察されました。
●阿史那皇后と他の鉄器時代後のユーラシア中央部および東部草原地帯牧畜民との間の遺伝的関係
鉄器時代以後、一連の遊牧民政権がユーラシア東部草原地帯において興亡を繰り広げ、それは、匈奴(紀元前3世紀~1世紀)、鮮卑(1~6世紀)、柔然(4~6世紀)、テュルク(6~8世紀)、ウイグル(744~840年)、キタイ(916~1125年)で、最も積極的に拡大して成功したのがモンゴル帝国(1206~1368年)でした。ユーラシア東部草原地帯に隣接するユーラシア中央部草原地帯でも遊牧民政権の繁栄があり、フン(Hun 、4~6世紀)、烏孫(Wusun、紀元前2世紀~5世紀)、康居(Kangju、紀元前140年頃)、テュルク・カルルク(Turkic Karluk、7~13世紀)、キメク(Kimak、10~13世紀)、カラハン朝(Kara‐Khanid、10~13世紀)、キプチャク(Kipchak、11世紀)などが存在しました。突厥可汗国とこれらユーラシア東部および中央部草原地帯の遊牧民の人口集団間の遺伝的関係は、長きにわたって不確かでした。
阿史那皇后は、フンや烏孫や康居の期間のユーラシア中央部草原地帯牧畜民とは遺伝的に異なっていた、と分かりました。匈奴は遺伝的に不均質な人口集団で、一部の標本(後期匈奴_漢)はANAと黄河流域農耕民から大きな遺伝的影響を受けましたが、他の個体(初期匈奴、後期匈奴、後期匈奴_サルマティア文化)にはユーラシア西部人とより密接なつながりがあります(関連記事)。これは、有意ではない、f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、柔然/鮮卑/キタイ/合水_靺鞨)および対でのqpWaveと一致し、これらの結果は、阿史那皇后が柔然や鮮卑やキタイや甘粛省慶陽市合水(Heshui)県の靺鞨(Mohe)と遺伝的クレードを形成する、と示唆しました。突厥可汗国の遊牧民人口集団では、ユーラシア東部草原地帯のキタイおよび靺鞨とユーラシア中央部草原地帯の金帳汗国(GoldenHorde、ジョチウルス)のアジア人(ウリタウ山脈のジョチウルスの軍隊の1個体)は、阿史那皇后との遺伝的類似性を示しました。対照的に、ウイグルとカルルクとキメクとキプチャクとカラハン朝とモンゴルの人々は、阿史那皇后の標本と遺伝的に大きく分離していました。
阿史那皇后と鉄器時代後のユーラシア東部および中央部草原地帯遊牧民人口集団との間のさまざまな遺伝的関係は、ADMIXTUREと教師有ADMIXTUREとqpAdmで示される祖先構成でも明らかでした。ユーラシア東部草原地帯牧畜民では、匈奴集団の一部(初期匈奴_残り、後期匈奴_漢、後期匈奴)や柔然や鮮卑やキタイやモンゴルや合水_靺鞨が、82.9~99.8%と支配的なユーラシア東部祖先系統と追加のユーラシア西部祖先系統を有していました。対照的に、匈奴西部(初期匈奴_西部)と後期のサルマティア人(Sarmatian)の匈奴(後期匈奴_サルマティア)の祖先系統はおもにユーラシア西部に由来し、たとえば、匈奴西部は68.4%のアファナシェヴォ文化個体関連祖先系統を示しました。
ユーラシア中央部草原地帯牧畜民では、烏孫と康居と天山フンはその祖先系統の大半(62.4~73%)がユーラシア西部の遊牧民のアファナシェヴォ文化集団に由来し、残り(27~37.6%)はバクトリア・ マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、略してBMAC)関連個体およびユーラシア東部人として特徴づけられます。テュルク・カルルクとキプチャクとカラハン朝の個体のゲノムは、アファナシェヴォ文化個体から35~50.6%、BMAC個体から10.5~21.7%、黄河_IAから38.9~49.4%に由来する、とモデル化できます。ユーラシア東部祖先系統の割合は中世の牧畜民(ユーラシア中央部草原地帯_中世_遊牧民とカザフスタンのジョチウルス)では67.3~82.5%に増加しましたが、有史時代のカザフスタン個体(カザフスタン_有史時代)は、ユーラシア西部草原地帯牧畜民に由来する75.5%の主要な祖先系統のため、異なる遺伝的特性を示しました。
阿史那皇后は、外群f₃(阿史那皇后、中世初期もしくはユーラシア中央部草原地帯テュルク人;ムブティ人)のより低い値と、f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、中世初期もしくはユーラシア中央部草原地帯テュルク人)で反映されているように、中世もしくはユーラシア中央部草原地帯のテュルク人と密接な遺伝的類似性を示しませんでした。中世初期のテュルク人(中世初期_テュルク)は柔然の1個体と遺伝的類似性を示しましたが、PCAおよび対でのqpWaveで示されるように、阿史那皇后とは異なる遺伝的特性を有していました。
中世初期_テュルクは、その祖先系統の大半(62.2%)がANAに由来し、残りはBMAC(10.7%)およびユーラシア西部草原地帯のアファナシェヴォ文化遊牧民(27.1%)に由来しました(図1C)。地理的に離れたユーラシア中央部草原地帯のテュルク人(キルギスタン_テュルクおよびカザフスタン_テュルク)は、ANA(モンゴル_N_北方)とBMACとユーラシア西部草原地帯牧畜民(アファナシェヴォ文化)の混合としてモデル化できます。阿史那皇后とは対照的に、ユーラシア中央部草原地帯と中世初期のテュルク人は、ユーラシア西部祖先系統の割合が高いものの、その割合は異なっており、テュルク帝国(突厥)の遺伝的下部構造があったことを示唆しています。
●突厥と現代のテュルク語族話者人口集団との間の遺伝的関係
ユーラシア東部草原地帯の牧畜民である可汗国では、モンゴル語族言語の拡大が鮮卑や柔然やキタイやモンゴルの集団と関連していた一方で、匈奴とテュルクとウイグルはテュルク語族の拡散と関連していた、と主張されてきました。後者の場合、拡散の2波が仮定されてきました。まず、ブルガール・テュルク(Bulgharic Turkic)語の拡散が、匈奴のそれ以前の拡大によって起き、フン期に始まり、その後で、テュルク可汗国と関連する人口拡大が続きました。2世紀および3世紀には、イラン語群話者集団が居住していたユーラシア中央部草原地帯は、次第に増加するテュルク語族話者人口集団により置換されました。
古代の突厥と現代のテュルク語族話者人口集団との間の遺伝的関係は、依然として論争の的です。PCAでは、テュルク語族話者集団はPC(主成分)2の東西の勾配に沿って散在していましたが、阿史那皇后はアジア北東部クラスタに位置していました。阿史那皇后と最も類似した遺伝的特性を示す現代の人口集団はツングース語族話者で、次がモンゴル語族話者です。この関係は、PCAと教師なしADMIXTUREと外群f₃統計で明らかにされました。注目すべきことに、これらの結果は、古代のテュルク人と現在のテュルク語族話者集団との間の遺伝的類似性の証拠を提供しませんでした。
阿史那皇后との関連の程度を評価するため、f₄形式の統計によりツングース語族およびモンゴル語族話者人口集団がテュルク語族話者人口集団と比較されました。その結果、テュルク語族話者と比較すると、ツングース語族およびモンゴル語族話者集団は阿史那皇后とより関連している、と分かりました。つまり、f₄(ムブティ人、阿史那皇后;ツングース語族およびモンゴル語族話者、テュルク語族話者)が<0(ヤクート人とドルガン人を除きます)と、f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、ツングース語族およびモンゴル語族話者)が0<3です。極東のエヴェンキ人(Evenk)を除いてf₄(ムブティ人、阿史那皇后;ツングース語族話者、モンゴル語族話者)で反映されているように、ツングース語族話者人口集団が阿史那皇后と最高の遺伝的類似性を共有していた、とさらに観察されました。
テュルク語族話者人口集団は阿史那皇后と比較して有意に異なる遺伝的特性を有しており、つまり、f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、ツングース語族話者)では、Xにユーラシア西部人を含むとZ得点が3超で、Xにユーラシア東部人を含むとZ得点が-3未満です。テュルク語族話者人口集団と、テュルク語族言語の拡散と関連する古代の人口集団との間には有意な違いが観察され、テュルク語族言語の拡大は、人口拡散および人口統合ではなく、おもに文化的要因により促進された、と示唆されます。
教師なしADMIXTUREクラスタ化分析は、テュルク語族話者人口集団間の東西の混合パターンを明らかにしました。教師有ADMIXTUREクラスタ化分析も実行され、阿史那皇后関連の古代人集団が現代のテュルク語族話者人口集団に遺伝的痕跡を残したのかどうか、調べられました。教師なしADMIXTUREに基づいて、選択された祖先の代理は、阿史那皇后とモンゴル_N_北方と黄河_LNとロシアのシンタシュタ(Sintashta)文化の中期~後期青銅器時代(Middle to Late Bronze Age、略してMLBA)個体(ロシア_シンタシュタ_MLBA)でした。ANA(モンゴル_N_北方/阿史那皇后)と関連する祖先系統の割合は、テュルク語族話者集団では多様だと観察されました。ANA祖先系統は、最西端のテュルク語族話者人口集団では欠如していました(図1D)。
f₄(テュルク語族話者、ムブティ人;阿史那皇后、ユーラシア東部人)が実行され、阿史那皇后関連系統がテュルク語族話者人口集団におけるユーラシア東部祖先系統の説明に充分なのかどうか、さらに判断されました。ここでのユーラシア東部人には、ユーラシア西部的祖先系統により影響を受けなかったかもしれない人々が含まれました。f₄(X、ムブティ人;阿史那皇后、テュルク語族話者)のZ得点は正のf₄(ほとんどが0超)へと向かう傾向があり、阿史那皇后は遺伝的にテュルク語族話者集団よりもアジア東部人の方と密接だった、と示されます。
テュルク語族話者人口集団のqpAdmに基づく混合モデルが体系的に調べられ、阿史那皇后との密接な近縁性を示すツングース語族およびモンゴル語族話者と比較されました。阿史那皇后は、一部のツングース語族およびモンゴル語族話者人口集団、つまりバオアン人(Bonan、保安人)やドンシャン人(Dongxiang)やトランスバイカル地域のエヴェンキ人やオロチョン人(Oroqen)やツー人(Tu)やウリチ人(Ulchi)とともに、単一の供給源からの由来と一致しましたが、テュルク語族話者人口集団とは一致しませんでした。阿史那皇后を含む東西のユーラシア人の2方向および3方向混合モデルはテュルク語族話者人口集団では失敗しましたが、ドルガン人(Dolgan)やサラール人(Salar)やトゥバ人(Tuvinian)やヤクート人(Yakut)やアルタイ地域チュヴァシ人(Chuvash)やハカス人(Khakass)やカザフスタンの中国人やキルギスの中国人やキルギスのタジキスタン人でのみ成功し、テュルク語族話者人口集団内の遺伝的不均質を明らかにしています。それは、1方向および2方向混合モデルで阿史那皇后関連系統からの圧倒的な寄与を示したツングース語族およびモンゴル語族話者とは対照的でした。qpAdmおよび教師有ADMIXTUREの結果は、テュルク語族話者人口集団における阿史那皇后からの限定的な寄与と、アジア北東部のツングース語族およびモンゴル語族話者における阿史那皇后により示されるANA祖先系統の連続性を論証しました。
●示唆
要約すると、本論文は古代テュルク王室の最初のゲノム特性を明らかにしました。本論文の阿史那皇后のゲノム解析は、突厥のアジア北東部起源(97.7%のアジア北東部祖先系統と2.3%のユーラシア西部祖先系統)を明らかにし、ユーラシア西部起源および複数起源仮説に反論します。阿史那皇后は、柔然や鮮卑やキタイや合水_靺鞨など鉄器時代後のツングース語族およびモンゴル語族話者の草原地帯牧畜民と最高の遺伝的類似性を共有しており、他の古代のテュルク系の人々と遺伝的不均質を示す、と分かり、テュルク可汗国人口集団の複数起源が示唆されます。さらに、現代のテュルク語族話者人口集団で見られる古代の突厥からの限定的寄与は、テュルク語族言語の拡大に関する人口拡散モデルよりも文化的拡散モデルを再び確証します。
参考文献:
Yang XM. et al.(2023): Ancient genome of Empress Ashina reveals the Northeast Asian origin of Göktürk Khanate. Journal of Systematics and Evolution, 61, 6, 1056–1064.
https://doi.org/10.1111/jse.12938
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