森本公誠『イブン=ハルドゥーン』
講談社学術文庫の一冊として、2011年6月に講談社より刊行されました。本書の親本『人類の知的遺産22 イブン=ハルドゥーン』は1980年に講談社より刊行されました。電子書籍での購入です。イブン=ハルドゥーンとその著書の『歴史序説』はよく知られているでしょうが、その生涯や『歴史序説』の具体的な内容は現代日本社会ではさほど知られていないでしょうし、私も同様なので、親本の刊行は40年以上前とかなり古いものの、得るものは多そうだと考えて読みました。本書は『歴史序説』の抜粋の翻訳も掲載しており、こうした古典は年齢とともに受け取り方も変わってくるでしょうから、今後期間を置いて何回か読み直したいものです。
まず本書は、イブン=ハルドゥーンの知名度は日本では低く、高校の世界史教科書に掲載されるようになったのが1970年代頃からだったのに対して、中近東だけではなく欧米では知名度が高い、と指摘します。その状況を反映して、日本における(1980年時点での)イブン=ハルドゥーン研究は少なく、未開拓の分野と指摘されています。イブン=ハルドゥーンは歴史家や歴史哲学者とも言われますが、本書はイブン=ハルドゥーンの思想の本質について、政治理論を中核に据えた社会思想と評価します。
イブン=ハルドゥーンはイスラム教が圧倒的な影響力を有する社会で生まれ育ったわけで、本書は、イブン=ハルドゥーンの思想の前提として、それ以前のイスラム教圏において社会の把握には法学と哲学と帝王学という三つの大きな流れがあったことを指摘します。この三つの大きな流れを批判しつつ総合して、イブン=ハルドゥーンの独創的な方法論による社会思想が形成された、と本書は評価します。これをイブン=ハルドゥーンも自覚しており、『歴史序説』において、「新しい学問」を創造したと自負し、それを「文明の学問」と名づけました。ここでの「文明」とは、人間社会のことです。
イブン=ハルドゥーンは人間社会を「都会」と「田舎」に二分しますが、こでの「田舎」とは、砂漠や草原の遊牧民や牧畜民と農耕地帯の農民で、都市定住生活者の「都会」に対立する概念とし把握されています。イブン=ハルドゥーンは、人間にとっての前提として、社会的結合(集団)と地理的環境と人間の理性的判断を超えた超自然的知覚能力の存在を挙げます。イブン=ハルドゥーンは、それまでの歴史学の陥穽として、社会の経時的変化の見落としを指摘します。イブン=ハルドゥーンはその原因を調べ、新たな方法論で史実の相関関係を探り、「歴史的情況の底に流れる法則」を発見しようとしました。
こうした社会思想を確立したイブン=ハルドゥーンは、1332年5月27日にチュニスで生まれました。本書は、イブン=ハルドゥーンが生まれ育ったアフリカ北部は、当時のイスラム教圏では没落しつつあった地域だったことや、アフリカ北部だけではなくヨーロッパでも猛威を振るったペストなどの惨劇に直面したことを指摘します。イブン=ハルドゥーンはイエメン系統アラブのワーイル族出身です。ハルドゥーン家はイスラム教拡大の過程でイベリア半島へと渡ってセビリャに移住したものの、レコンギスタの勢いに抗しきれないと判断して、13世紀半ばにアフリカ北部へと亡命します。イブン=ハルドゥーンは良家の出身で、学問環境にも恵まれていたようです。
イブン=ハルドゥーンが政治家や裁判官も務めたことは、現代日本社会でもそれなりに知られているように思いますが、初めての官職はハフス朝の国璽書記官で、19歳の時でした。国璽書記官は、常套句を公文書の決まった場所に大きく特殊な書体で書くのが務めです。その後、イブン=ハルドゥーンはハフス朝に攻め込んだマリーン朝のスルタンに出仕するなどしつつ、さまざまな学者と交流し、その見識を深めていったようです。一方で、イブン=ハルドゥーンには政治家としての出世欲もあったようで、24歳の時には陰謀の発覚により投獄されています。本書は、イブン=ハルドゥーンを策謀に長けた陰謀家としても評価しています。
その後、イブン=ハルドゥーンはマリーン朝での政変の結果、優遇されるようになるものの、自身の野望に見合うものではなく、1362年、失意のうちにグラナダへと渡ります。上述のように、イベリア半島にはかつて祖先が暮らしていました。イブン=ハルドゥーンは個人的親交を頼りにグラナダへと渡って、その期待通り、ナスル朝スルタンのムハンマド5世に重用され、理想の君主となるよう、ムハンマド5世を教育します。しかし、親友だった宰相との関係が悪化し、ハフス朝の王族から勧誘を受けて1365年にベジャーヤへと渡って、「執権」に就任します。しかし、イブン=ハルドゥーンの親友でもあるベジャーヤの太守は暴君だったため住民に不人気で、1366年には敗死し、イブン=ハルドゥーンはあっけなく「執権」職を失います。
この失敗はイブン=ハルドゥーンにとってかなりの衝撃で、イブン=ハルドゥーンは煩悶したようですが、その煩悶からイブン=ハルドゥーンは思索を深めていった、と本書は評価します。しかし、すでに政治的にも知名度の高かったイブン=ハルドゥーンが研究に没頭することは難しく、イブン=ハルドゥーンはアフリカ北部の有力者たちの思惑によりたびたび政争に巻き込まれ、再び投獄されたこともありました。イブン=ハルドゥーンは政治的混迷の続くアフリカ北部から再度イベリア半島へと渡り、ムハンマド5世は当初以前のようにイブン=ハルドゥーンを歓迎しましたが、讒言もあってイブン=ハルドゥーンは追放され、再びアフリカ北部へと戻ります。イブン=ハルドゥーンはザイヤーン朝のトレムセン近郊で隠棲しようとしますが、再び政治に巻き込まれそうになり、アリーフ家の支援によりザイヤーン朝から離れて隠棲し、研究と著述に没頭します。イブン=ハルドゥーンは1377年11月、ここで『歴史序説』初稿を書きあげます。その後、病床で1年を過ごしたイブン=ハルドゥーンは望郷の念から1378年12月にチュニスに帰ります。しかし、少年時代からの知り合いである法学者が嫉妬心からかブン=ハルドゥーンを敵視するようになり、危険だと判断したイブン=ハルドゥーンはメッカ巡礼を口実に1382年10月24日にチュニスを離れます。
イブン=ハルドゥーンはマムルーク朝治下のカイロへと移り、すでにカイロでも名声を得ていたことから、請われて講義を行なうとともに、高官の後援を得てマーリク派大法官にも就任し、23年間エジプトに滞在した後で没します。しかし、イブン=ハルドゥーンはエジプト社会に完全には同化せず、本書はそこにマグレブ人としてのイブン=ハルドゥーンの意識を見ています。イブン=ハルドゥーンは大法官として腐敗していたエジプト司法界の改革に乗り出したので、反発は強く、大法官の在任期間は1年未満に終わりました。その後、イブン=ハルドゥーンは政変に巻き込まれて失脚し、再度復権して大法官に任命されるものの、またしても罷免されるなど、晩年も政争に翻弄されました。その直後、イブン=ハルドゥーンはティムールとの戦いでスルタンに随行するよう命じられ、1401年1月10日にはティムールと面会します。これは、ティムールが高名なイブン=ハルドゥーンを招いたからでした。イブン=ハルドゥーンはティムールに気に入られ、マムルーク朝の人々の安全を保証するよう、ティムールに要請します。イブン=ハルドゥーンはカイロへ帰った後、大法官への就任と罷免を再び繰り返した後、6回目の大法官に就任してからわずか9日後の1406年3月17日、没しました。
イブン=ハルドゥーンについての後世の評価には、先駆者も後継者もいない孤高の存在とするものもあります。本書は、それは一面において真実で、イブン=ハルドゥーンの思想はきわめて独創的だった、と評価します。しかし本書は、マムルーク朝において直接イブン=ハルドゥーンの講義を聞いた学者の中には、イブン=ハルドゥーンに心酔し、強い影響を受けた者もいる、と指摘します。ただ本書は、イブン=ハルドゥーンが晩年に身を寄せたマムルーク朝において、史学理論に関する議論は深まらず、イブン=ハルドゥーンが『歴史序説』で期待していたような真の後継者は現れなかった、とも指摘します。イブン=ハルドゥーンが再発見の形で注目され始めたのは16世紀以降で、オスマン朝において『歴史序説』は盛んに読まれるようになります。グラナダ陥落後のヨーロッパでは、17世紀に初めてイブン=ハルドゥーンが紹介されましたが、真に注目されるようになったのは19世紀以降で、高く評価されるとともに、1930年代以降にはイブン=ハルドゥーン研究が多様化していきます。アラブ圏においては、近代化の過程でイブン=ハルドゥーンが「再発見」され、その思想が注目されてきましたが、そうした近代のアラブ圏の思想家は自己の思想的基盤を形成するうえでイブン=ハルドゥーンを利用したにすぎず、純粋に学問的対象として論じられるようになったのは1930年代以降である、と本書は指摘します。
まず本書は、イブン=ハルドゥーンの知名度は日本では低く、高校の世界史教科書に掲載されるようになったのが1970年代頃からだったのに対して、中近東だけではなく欧米では知名度が高い、と指摘します。その状況を反映して、日本における(1980年時点での)イブン=ハルドゥーン研究は少なく、未開拓の分野と指摘されています。イブン=ハルドゥーンは歴史家や歴史哲学者とも言われますが、本書はイブン=ハルドゥーンの思想の本質について、政治理論を中核に据えた社会思想と評価します。
イブン=ハルドゥーンはイスラム教が圧倒的な影響力を有する社会で生まれ育ったわけで、本書は、イブン=ハルドゥーンの思想の前提として、それ以前のイスラム教圏において社会の把握には法学と哲学と帝王学という三つの大きな流れがあったことを指摘します。この三つの大きな流れを批判しつつ総合して、イブン=ハルドゥーンの独創的な方法論による社会思想が形成された、と本書は評価します。これをイブン=ハルドゥーンも自覚しており、『歴史序説』において、「新しい学問」を創造したと自負し、それを「文明の学問」と名づけました。ここでの「文明」とは、人間社会のことです。
イブン=ハルドゥーンは人間社会を「都会」と「田舎」に二分しますが、こでの「田舎」とは、砂漠や草原の遊牧民や牧畜民と農耕地帯の農民で、都市定住生活者の「都会」に対立する概念とし把握されています。イブン=ハルドゥーンは、人間にとっての前提として、社会的結合(集団)と地理的環境と人間の理性的判断を超えた超自然的知覚能力の存在を挙げます。イブン=ハルドゥーンは、それまでの歴史学の陥穽として、社会の経時的変化の見落としを指摘します。イブン=ハルドゥーンはその原因を調べ、新たな方法論で史実の相関関係を探り、「歴史的情況の底に流れる法則」を発見しようとしました。
こうした社会思想を確立したイブン=ハルドゥーンは、1332年5月27日にチュニスで生まれました。本書は、イブン=ハルドゥーンが生まれ育ったアフリカ北部は、当時のイスラム教圏では没落しつつあった地域だったことや、アフリカ北部だけではなくヨーロッパでも猛威を振るったペストなどの惨劇に直面したことを指摘します。イブン=ハルドゥーンはイエメン系統アラブのワーイル族出身です。ハルドゥーン家はイスラム教拡大の過程でイベリア半島へと渡ってセビリャに移住したものの、レコンギスタの勢いに抗しきれないと判断して、13世紀半ばにアフリカ北部へと亡命します。イブン=ハルドゥーンは良家の出身で、学問環境にも恵まれていたようです。
イブン=ハルドゥーンが政治家や裁判官も務めたことは、現代日本社会でもそれなりに知られているように思いますが、初めての官職はハフス朝の国璽書記官で、19歳の時でした。国璽書記官は、常套句を公文書の決まった場所に大きく特殊な書体で書くのが務めです。その後、イブン=ハルドゥーンはハフス朝に攻め込んだマリーン朝のスルタンに出仕するなどしつつ、さまざまな学者と交流し、その見識を深めていったようです。一方で、イブン=ハルドゥーンには政治家としての出世欲もあったようで、24歳の時には陰謀の発覚により投獄されています。本書は、イブン=ハルドゥーンを策謀に長けた陰謀家としても評価しています。
その後、イブン=ハルドゥーンはマリーン朝での政変の結果、優遇されるようになるものの、自身の野望に見合うものではなく、1362年、失意のうちにグラナダへと渡ります。上述のように、イベリア半島にはかつて祖先が暮らしていました。イブン=ハルドゥーンは個人的親交を頼りにグラナダへと渡って、その期待通り、ナスル朝スルタンのムハンマド5世に重用され、理想の君主となるよう、ムハンマド5世を教育します。しかし、親友だった宰相との関係が悪化し、ハフス朝の王族から勧誘を受けて1365年にベジャーヤへと渡って、「執権」に就任します。しかし、イブン=ハルドゥーンの親友でもあるベジャーヤの太守は暴君だったため住民に不人気で、1366年には敗死し、イブン=ハルドゥーンはあっけなく「執権」職を失います。
この失敗はイブン=ハルドゥーンにとってかなりの衝撃で、イブン=ハルドゥーンは煩悶したようですが、その煩悶からイブン=ハルドゥーンは思索を深めていった、と本書は評価します。しかし、すでに政治的にも知名度の高かったイブン=ハルドゥーンが研究に没頭することは難しく、イブン=ハルドゥーンはアフリカ北部の有力者たちの思惑によりたびたび政争に巻き込まれ、再び投獄されたこともありました。イブン=ハルドゥーンは政治的混迷の続くアフリカ北部から再度イベリア半島へと渡り、ムハンマド5世は当初以前のようにイブン=ハルドゥーンを歓迎しましたが、讒言もあってイブン=ハルドゥーンは追放され、再びアフリカ北部へと戻ります。イブン=ハルドゥーンはザイヤーン朝のトレムセン近郊で隠棲しようとしますが、再び政治に巻き込まれそうになり、アリーフ家の支援によりザイヤーン朝から離れて隠棲し、研究と著述に没頭します。イブン=ハルドゥーンは1377年11月、ここで『歴史序説』初稿を書きあげます。その後、病床で1年を過ごしたイブン=ハルドゥーンは望郷の念から1378年12月にチュニスに帰ります。しかし、少年時代からの知り合いである法学者が嫉妬心からかブン=ハルドゥーンを敵視するようになり、危険だと判断したイブン=ハルドゥーンはメッカ巡礼を口実に1382年10月24日にチュニスを離れます。
イブン=ハルドゥーンはマムルーク朝治下のカイロへと移り、すでにカイロでも名声を得ていたことから、請われて講義を行なうとともに、高官の後援を得てマーリク派大法官にも就任し、23年間エジプトに滞在した後で没します。しかし、イブン=ハルドゥーンはエジプト社会に完全には同化せず、本書はそこにマグレブ人としてのイブン=ハルドゥーンの意識を見ています。イブン=ハルドゥーンは大法官として腐敗していたエジプト司法界の改革に乗り出したので、反発は強く、大法官の在任期間は1年未満に終わりました。その後、イブン=ハルドゥーンは政変に巻き込まれて失脚し、再度復権して大法官に任命されるものの、またしても罷免されるなど、晩年も政争に翻弄されました。その直後、イブン=ハルドゥーンはティムールとの戦いでスルタンに随行するよう命じられ、1401年1月10日にはティムールと面会します。これは、ティムールが高名なイブン=ハルドゥーンを招いたからでした。イブン=ハルドゥーンはティムールに気に入られ、マムルーク朝の人々の安全を保証するよう、ティムールに要請します。イブン=ハルドゥーンはカイロへ帰った後、大法官への就任と罷免を再び繰り返した後、6回目の大法官に就任してからわずか9日後の1406年3月17日、没しました。
イブン=ハルドゥーンについての後世の評価には、先駆者も後継者もいない孤高の存在とするものもあります。本書は、それは一面において真実で、イブン=ハルドゥーンの思想はきわめて独創的だった、と評価します。しかし本書は、マムルーク朝において直接イブン=ハルドゥーンの講義を聞いた学者の中には、イブン=ハルドゥーンに心酔し、強い影響を受けた者もいる、と指摘します。ただ本書は、イブン=ハルドゥーンが晩年に身を寄せたマムルーク朝において、史学理論に関する議論は深まらず、イブン=ハルドゥーンが『歴史序説』で期待していたような真の後継者は現れなかった、とも指摘します。イブン=ハルドゥーンが再発見の形で注目され始めたのは16世紀以降で、オスマン朝において『歴史序説』は盛んに読まれるようになります。グラナダ陥落後のヨーロッパでは、17世紀に初めてイブン=ハルドゥーンが紹介されましたが、真に注目されるようになったのは19世紀以降で、高く評価されるとともに、1930年代以降にはイブン=ハルドゥーン研究が多様化していきます。アラブ圏においては、近代化の過程でイブン=ハルドゥーンが「再発見」され、その思想が注目されてきましたが、そうした近代のアラブ圏の思想家は自己の思想的基盤を形成するうえでイブン=ハルドゥーンを利用したにすぎず、純粋に学問的対象として論じられるようになったのは1930年代以降である、と本書は指摘します。
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