水谷驍『ジプシー史再考』
柘植書房新社より2018年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本でも名称自体はよく知られている「ジプシー」の概説です。著者の執筆動機は、日本社会における「ジプシー」理解が、1970年頃以降の研究の進展を踏まえていない、「インド起源の放浪民族」という古い研究段階に留まっていることです。「ジプシー」の名称は差別的だとして、現代日本社会では代わりに「ロマ」の使用が多くなっているように思います。しかし本書はこの問題について、「ジプシー」という呼称への視線が賤視・蔑視のみだったわけではなく、「ロマ」以外にもシンティやマヌーシュなど自称が多数あり、そうした人々は自らを「ジプシー」と峻別するので、総称としては「ジプシー」が妥当になる、と指摘します。
ジプシー研究の問題点は、ジプシー社会に文字による伝承という伝統がないことで、ジプシーの歴史を書くのはほぼヨーロッパ主流社会に委ねられてきました。ヨーロッパ主流社会は、15世紀初頭にジプシーらしき遊動民集団がヨーロッパに初めて出現した時以降、ヨーロッパでは珍しいその集団の起源地に高い関心を寄せてきました。ジプシーの正体と原郷をめぐっては、18世紀後半に啓蒙主義ドイツの歴史学者であるハインリッヒ・M・G・グレルマンが「インド起源の放浪民族」説を提唱するまで、さまざまな議論がありました。当初ヨーロッパでは、ジプシーは広くエジプト人と呼ばれ、そこからエジプシャン→ジプシャン→ジプシーと呼ばれるようになりました。それは、15世紀初頭にヨーロッパ中央部各地で記録され、主流社会により最初の「ジプシー」とされた集団が、「小エジプト(または低地エジプト)から来た巡礼」と称した、と伝えられたからです。フランスでは、ボヘミア方面から来たとされ、ボエミアンと呼ばれることが多く、現在でもフランスにおけるジプシーの一般的な呼称の一つです。またジプシーは、当時東方もしくは南方から侵入してくる「野蛮人」の総称的代名詞だったタタール(モンゴル人)やサラセン(ムスリム)と呼ばれることもあり、東方起源ということでグレカ(ギリシア人)とも呼ばれました。ともかく、ジプシーは当初ヨーロッパにおいて、ヨーロッパ東方の辺境もしくは異境から来た異邦人の集団と考えられました。当時のヨーロッパの知識人は、ジプシーの起源について、シリアの古代神官の子孫とか古代ペルシアとかアナトリア半島とか、さまざまな見解を提唱しました。
16世紀には、ジプシーが「外国」起源ではなく、ヨーロッパ起源との学説も提示されました。たとえば、ジプシーとは信仰を持たずに毎日「犬のように」生きる「諸民族の人間の屑」で、「一緒になりたいと望む男女を仲間として受け入れる」無節操な混成集団であり、多様な出身地域の浮浪者や泥棒や乞食などが加わっていた、というものです。17世紀にはジプシーの起源をユダヤ人とする説が提唱され、14世紀半ばに迫害を逃れて森に隠れ住んだユダヤ人が、フス派が迫害されるようになった15世紀に、もはや厳しく追及されることはなくなったと判断して町に戻ってきたものの、ユダヤ人と見破られないようにし、一方でキリスト教徒とも称せずに、エジプト人と自称した、というわけです。こうした確たる学説とまではいかずとも、ジプシーの「インド起源」を示唆する「証拠」は15世紀からありました。
ジプシーの起源について一定水準以上の科学的探究が始まったのは18世紀半ば以降で、その最初の試みがグレルマンの著書(1783年)でした。グレルマンは、ヨーロッパ各地に住み、さまざまな名称で呼ばれるジプシーは同じ民族で、その共通する身体的特徴として、暗褐色の肌や長い黒髪や黒い瞳や均整のとれた四肢を挙げました。ジプシーの大半は集団で移動する放浪生活を送っており、鍛治や博労や楽師や占いや砂金採取や売春など独特の生業に従事し、怠惰で勤勉を嫌い、実際には乞食と泥棒で暮らしており、独特な踊りは卑猥で、飲酒と喫煙をとくに好み、人肉食が疑われ、独自の宗教はなく、内婚制で、若くして結婚して多産である、といった特徴をグレルマンは上げました。ジプシーは「ヒンドスタン」起源の独自の言葉を用いており、その原郷はインドと考えられ、インドにはジプシーとよく似た、「シュードラ」と呼ばれる最下層カーストが存在する、とグレルマンは指摘しました。シュードラ」の一部が1408~1409年にティムールの侵略により故郷を追われ、西方へと放浪の末にヨーロッパに到来し、その子孫がジプシーである、とグレルマンは考えました。ジプシーの起源を青銅器時代のヨーロッパに求める説や、オーストラリア方面から到来したとする説も提唱されましたが、グレルマンの主張が国際的にも広く受け入れられ、最近まで「科学的ジプシー論」の「定説」として確立し、日本に置おけるジプシー論も基本的にグレルマンの主張に依拠しています。
グレルマンのジプシー論を前提として、19世紀以降にジプシーの歴史を探る試みが本格化します。その主要な担い手は、19世紀末にイギリスで結成された民間の研究団体「ジプシー民俗協会」に結集することになる、欧米の熱心なアマチュア研究者でした。それとは別に、ジプシーの起源や移動経路を精力的に探究したのが、比較言語学でした。こうして、ジプシーの歴史について一定の共通認識が形成されました。それによると、ジプシーの原郷はインドですが、さらに詳しい起源地は議論百出で、紀元後1000年前後にインドを出た、と考える論者が多いものの、異論も多数あります。ジプシーはペルシアとトルコを経由して11世紀にはバルカン半島に到達し、15世紀初頭にヨーロッパ中央部に出現しました。ジプシーは当初、自称通りに巡礼として厚遇されたものの、やがて不気味な存在として畏怖されつつも、泥棒や乞食や浮浪者やスパイなどとして嫌われるようになり、迫害は18世紀に最初の頂点に達します。19世紀には、啓蒙主義の精神に従ってジプシーを「開花」しようとする試みが広がる一方で、ロマン主義的観点から「高貴なる野蛮人」との羨望もジプシーに向けられました。19世紀後半から20世紀初頭にかけてバルカン方面から「ジプシー」が大量に流入し、各国において人種主義思想の高まりの中で遊動民集団の規制と排斥が強化され、これがナチ体制のドイツによるジプシー絶滅策につながりました。
欧米では、こうしたグレルマン説に基づくジプシー認識が1970年代以降に大きく変わります。この変化を促進したのは、第一に、「参与観察」の手法による世界各地のジプシー集団の実証的研究の大きな進展です。その結果、ジプシーが居住する国や地域の歴史と文化に深く規定されており、多様な人々が主流社会により「ジプシー」と扱われてきた、と明らかになりました。一方で、「ジプシー」とは全く無関係と自他ともに認めるにも関わらず、多くの点でジプシーと共通する要素を有する集団が世界各地に存在することも証明されました。第二に、ヨーロッパの社会史研究の飛躍的発展により、ジプシーの問題も中世以降のヨーロッパ史の具体的展開に位置づけて考察されるようになりました。とくに重要なのは、中世から近世への移行期である15~16世紀のヨーロッパ社会では、崩壊しつつある旧体制から放出された膨大な人数の流民層/貧民層が大きな社会問題となっており、その研究が本格的に始まることで、その実態や歴史および社会的意味が明らかにされていき、「ジプシー」もこうした社会層の一部を構成している、と認識されるようになりました。第三に、「民族」の理解が深まり、民族を固有の本質を備えたきわめて実体的で普遍的な人間集団と考える見解が見直されていきました。
こうして、ジプシーの起源について、封建制の崩壊から資本主義体制への移行過程でヨーロッパ各地に広く発生した雑多な出自の貧民・流民層にあり、こうした人々が定住民の主流社会と時空間的にさまざまな形で特殊な関係を締結する中で、「ジプシー」という特異な社会的存在形態が形成され、この過程で時の政治権力や教会権力による「烙印押捺」という過程が決定的役割を果たした、と考えられるようになりました。時の政治権力や教会権力にとって好ましくないと考えられた人間集団の分類が設定され、異端者もしくは犯罪者として社会から排除・排斥されていった、というわけです。排除・排斥の基準となったのは、近代ヨーロッパ国民国家に相応しい、善良なキリスト教徒で定住地があり、雇用されて賃金労働に従事していることでした。こうした条件を満たさない貧民・流民が排除・排斥の対象となったわけです。その結果、排除・排斥された側は、独特な生活様式や文化を形成していき、主流社会の「隙間」を埋めることで、主流社会から許容されてきました。
ジプシー研究の問題点は、ジプシー社会に文字による伝承という伝統がないことで、ジプシーの歴史を書くのはほぼヨーロッパ主流社会に委ねられてきました。ヨーロッパ主流社会は、15世紀初頭にジプシーらしき遊動民集団がヨーロッパに初めて出現した時以降、ヨーロッパでは珍しいその集団の起源地に高い関心を寄せてきました。ジプシーの正体と原郷をめぐっては、18世紀後半に啓蒙主義ドイツの歴史学者であるハインリッヒ・M・G・グレルマンが「インド起源の放浪民族」説を提唱するまで、さまざまな議論がありました。当初ヨーロッパでは、ジプシーは広くエジプト人と呼ばれ、そこからエジプシャン→ジプシャン→ジプシーと呼ばれるようになりました。それは、15世紀初頭にヨーロッパ中央部各地で記録され、主流社会により最初の「ジプシー」とされた集団が、「小エジプト(または低地エジプト)から来た巡礼」と称した、と伝えられたからです。フランスでは、ボヘミア方面から来たとされ、ボエミアンと呼ばれることが多く、現在でもフランスにおけるジプシーの一般的な呼称の一つです。またジプシーは、当時東方もしくは南方から侵入してくる「野蛮人」の総称的代名詞だったタタール(モンゴル人)やサラセン(ムスリム)と呼ばれることもあり、東方起源ということでグレカ(ギリシア人)とも呼ばれました。ともかく、ジプシーは当初ヨーロッパにおいて、ヨーロッパ東方の辺境もしくは異境から来た異邦人の集団と考えられました。当時のヨーロッパの知識人は、ジプシーの起源について、シリアの古代神官の子孫とか古代ペルシアとかアナトリア半島とか、さまざまな見解を提唱しました。
16世紀には、ジプシーが「外国」起源ではなく、ヨーロッパ起源との学説も提示されました。たとえば、ジプシーとは信仰を持たずに毎日「犬のように」生きる「諸民族の人間の屑」で、「一緒になりたいと望む男女を仲間として受け入れる」無節操な混成集団であり、多様な出身地域の浮浪者や泥棒や乞食などが加わっていた、というものです。17世紀にはジプシーの起源をユダヤ人とする説が提唱され、14世紀半ばに迫害を逃れて森に隠れ住んだユダヤ人が、フス派が迫害されるようになった15世紀に、もはや厳しく追及されることはなくなったと判断して町に戻ってきたものの、ユダヤ人と見破られないようにし、一方でキリスト教徒とも称せずに、エジプト人と自称した、というわけです。こうした確たる学説とまではいかずとも、ジプシーの「インド起源」を示唆する「証拠」は15世紀からありました。
ジプシーの起源について一定水準以上の科学的探究が始まったのは18世紀半ば以降で、その最初の試みがグレルマンの著書(1783年)でした。グレルマンは、ヨーロッパ各地に住み、さまざまな名称で呼ばれるジプシーは同じ民族で、その共通する身体的特徴として、暗褐色の肌や長い黒髪や黒い瞳や均整のとれた四肢を挙げました。ジプシーの大半は集団で移動する放浪生活を送っており、鍛治や博労や楽師や占いや砂金採取や売春など独特の生業に従事し、怠惰で勤勉を嫌い、実際には乞食と泥棒で暮らしており、独特な踊りは卑猥で、飲酒と喫煙をとくに好み、人肉食が疑われ、独自の宗教はなく、内婚制で、若くして結婚して多産である、といった特徴をグレルマンは上げました。ジプシーは「ヒンドスタン」起源の独自の言葉を用いており、その原郷はインドと考えられ、インドにはジプシーとよく似た、「シュードラ」と呼ばれる最下層カーストが存在する、とグレルマンは指摘しました。シュードラ」の一部が1408~1409年にティムールの侵略により故郷を追われ、西方へと放浪の末にヨーロッパに到来し、その子孫がジプシーである、とグレルマンは考えました。ジプシーの起源を青銅器時代のヨーロッパに求める説や、オーストラリア方面から到来したとする説も提唱されましたが、グレルマンの主張が国際的にも広く受け入れられ、最近まで「科学的ジプシー論」の「定説」として確立し、日本に置おけるジプシー論も基本的にグレルマンの主張に依拠しています。
グレルマンのジプシー論を前提として、19世紀以降にジプシーの歴史を探る試みが本格化します。その主要な担い手は、19世紀末にイギリスで結成された民間の研究団体「ジプシー民俗協会」に結集することになる、欧米の熱心なアマチュア研究者でした。それとは別に、ジプシーの起源や移動経路を精力的に探究したのが、比較言語学でした。こうして、ジプシーの歴史について一定の共通認識が形成されました。それによると、ジプシーの原郷はインドですが、さらに詳しい起源地は議論百出で、紀元後1000年前後にインドを出た、と考える論者が多いものの、異論も多数あります。ジプシーはペルシアとトルコを経由して11世紀にはバルカン半島に到達し、15世紀初頭にヨーロッパ中央部に出現しました。ジプシーは当初、自称通りに巡礼として厚遇されたものの、やがて不気味な存在として畏怖されつつも、泥棒や乞食や浮浪者やスパイなどとして嫌われるようになり、迫害は18世紀に最初の頂点に達します。19世紀には、啓蒙主義の精神に従ってジプシーを「開花」しようとする試みが広がる一方で、ロマン主義的観点から「高貴なる野蛮人」との羨望もジプシーに向けられました。19世紀後半から20世紀初頭にかけてバルカン方面から「ジプシー」が大量に流入し、各国において人種主義思想の高まりの中で遊動民集団の規制と排斥が強化され、これがナチ体制のドイツによるジプシー絶滅策につながりました。
欧米では、こうしたグレルマン説に基づくジプシー認識が1970年代以降に大きく変わります。この変化を促進したのは、第一に、「参与観察」の手法による世界各地のジプシー集団の実証的研究の大きな進展です。その結果、ジプシーが居住する国や地域の歴史と文化に深く規定されており、多様な人々が主流社会により「ジプシー」と扱われてきた、と明らかになりました。一方で、「ジプシー」とは全く無関係と自他ともに認めるにも関わらず、多くの点でジプシーと共通する要素を有する集団が世界各地に存在することも証明されました。第二に、ヨーロッパの社会史研究の飛躍的発展により、ジプシーの問題も中世以降のヨーロッパ史の具体的展開に位置づけて考察されるようになりました。とくに重要なのは、中世から近世への移行期である15~16世紀のヨーロッパ社会では、崩壊しつつある旧体制から放出された膨大な人数の流民層/貧民層が大きな社会問題となっており、その研究が本格的に始まることで、その実態や歴史および社会的意味が明らかにされていき、「ジプシー」もこうした社会層の一部を構成している、と認識されるようになりました。第三に、「民族」の理解が深まり、民族を固有の本質を備えたきわめて実体的で普遍的な人間集団と考える見解が見直されていきました。
こうして、ジプシーの起源について、封建制の崩壊から資本主義体制への移行過程でヨーロッパ各地に広く発生した雑多な出自の貧民・流民層にあり、こうした人々が定住民の主流社会と時空間的にさまざまな形で特殊な関係を締結する中で、「ジプシー」という特異な社会的存在形態が形成され、この過程で時の政治権力や教会権力による「烙印押捺」という過程が決定的役割を果たした、と考えられるようになりました。時の政治権力や教会権力にとって好ましくないと考えられた人間集団の分類が設定され、異端者もしくは犯罪者として社会から排除・排斥されていった、というわけです。排除・排斥の基準となったのは、近代ヨーロッパ国民国家に相応しい、善良なキリスト教徒で定住地があり、雇用されて賃金労働に従事していることでした。こうした条件を満たさない貧民・流民が排除・排斥の対象となったわけです。その結果、排除・排斥された側は、独特な生活様式や文化を形成していき、主流社会の「隙間」を埋めることで、主流社会から許容されてきました。
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