クリミアの上部旧石器時代の現生人類のゲノムデータ

 クリミアで発見された上部旧石器時代の現生人類(Homo sapiens)のゲノムデータを報告した研究(Bennett et al., 2023)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、クリミア半島南部に位置するブラン・カヤ3(Buran-Kaya III)遺跡で発見された現生人類2個体のゲノムデータを報告し、それが遺伝的にはグラヴェティアン(Gravettian、グラヴェット文化)関連個体群と最も類似していることを明らかにします。さらに本論文は、このブラン・カヤ3遺跡の2個体に、ヨーロッパに4万年以上前に存在していた現生人類集団からの遺伝的影響があることも示します。

 その先行する現生人類集団とは、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体(関連記事)と遺伝的に関連しています。ズラティクン個体は4万年前頃以後の現生人類との遺伝的連続性を示さない、と推測されてきましたが、本論文により、わずかではあるものの、4万年前頃以降の現生人類にもズラティクン個体的な集団が遺伝的影響を残している、と分かりました。ただ、新石器時代と青銅器時代におけるユーラシア西部の大きな遺伝的変容の中で、現代ではほぼ遺伝的痕跡が残っていない、ということなのでしょう。

 まだ今年(2023年)開催されたヒト進化研究ヨーロッパ協会第13回総会で報告されただけですが、ドイツのテューリンゲン州(Thuringia)のオーラ川(Orla River)流域に位置するラニス(Ranis)のイルゼン洞窟(Ilsenhöhle)遺跡で発見された49160~42200年前頃となる個体群は、既知の古代人および現代人のうちズラティクン個体と最も遺伝的に類似している、と示されました(関連記事)。このイルゼン洞窟個体群と関連する文化はLRJ(Lincombian-Ranisian-Jerzmanowician)技術複合(中部旧石器時代と上部旧石器時代との間の移行期の技術複合で、地理的にはイギリスからポーランドまでのヨーロッパ北部の平原に分布しています)で、ズラティクン個体的な遺伝的構成の集団は、4万年以上前にはヨーロッパに広く存在していた可能性が高そうです。

 この他にも、4万年以上前のヨーロッパには、中石器時代までは多少ながら遺伝的痕跡を残しており、現代では遺伝的影響はほぼ消滅した現生人類集団が存在しており、この集団と遺伝的に類似した集団はアジア東部現代人の主要な祖先の一部となったようです(関連記事)。ヨーロッパに4万年以上前に拡散した初期現生人類集団は、現在では消滅したかわずかにしか遺伝的影響を残していないようで、特定地域において初期現生人類集団を現代人集団と安易に遺伝的に関連づけてはならない(関連記事)、と改めて思います。


●要約

 現代ヨーロッパ人と遺伝的に関連する人口集団が最初にヨーロッパに出現したのは、深刻な気候崩壊の寒冷期に続く、40000~38000年前頃でした。これら新たな移民は最終的に、ヨーロッパにおける先行する現生人類祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を置換することになりましたが、これらの集団間の初期の相互作用は、移住の最初期のゲノム証拠の欠如のため不明です。本論文は、この新たな移民に属する個体として、クリミアのブラン・カヤ3遺跡の37000~36000年前頃の2個体のゲノムを記載します。両個体のゲノムは、ヨーロッパ南西部でその数千年後に見られるグラヴェティアン関連個体群と最高の類似性を共有しています。両個体のゲノムから、4万年前頃以後のヨーロッパにおける人口置換が先行する現生人類人口集団との混合を伴っていたことも明らかになりました。4万年以上前のヨーロッパの祖先系統はブラン・カヤ3遺跡個体で存続していただけではなく、ヨーロッパ西部の後のグラヴェティアン関連人口集団と中石器時代のコーカサス人口集団でも見られます。


●研究史

 考古学および遺伝学のデータは、解剖学的現代人(anatomically modern human、略してAMH、現生人類)がヨーロッパに少なくとも45000年前頃(関連記事)、おそらくはそれ以前(関連記事)に存在したことを示します。4万年以上前のヨーロッパのAMH遺骸のゲノム解析は、いくつかの多様で充分には特徴づけられていない人口集団を明らかにしてきました(関連記事)。これらは全て、すべての非アフリカ系現代人に存在する最初の混合、もしくはルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase、略してPcO)」個体(関連記事)やブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の個体群(関連記事)のゲノムのように、それよりも新しい局所的事象であるネアンデルタール人との混合の証拠を示しました。

 初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)考古学的遺物群と関連すると分かったバチョキロ洞窟の個体群のみが、現生人類集団、具体的にはアジア東部現代人集団とのいくらかの遺伝的関係を論証してきました。4万年前頃以後のある時点で、これら初期祖先系統は新たなゲノム特性が出現するにつれてヨーロッパから消滅したようですが、これはイタリアにおけるカンパニア溶結凝灰岩(Campanian Ignimbrite、略してCI)超噴火後の変動する気候および環境減少と同時です。CIは、ほぼ2000年間にわたるハインリッヒ(Heinrich)亜氷期4 寒冷期の開始となる39847~39136年頃にヨーロッパ南部および東部を灰で覆い、局所的な生態系に破滅的影響を及ぼしました。

 このCI後の祖先系統の波はまずハインリッヒ亜氷期4に出現し、上部旧石器時代前期(Early Upper Palaeolithic、略してEUP)および上部旧石器時代中期(Mid Upper Palaeolithic、略してMUP)にヨーロッパで記録されており、たとえば、ロシア西部にある考古学的関連が不確実なコステンキ・ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された38000年前頃の個体であるコステンキ14号(関連記事)や、ヨーロッパ東部平原に位置するロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡の34000年前頃の個体群(関連記事)や、ベルギーのゴイエ(Goyet)遺跡のオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)と関連する35000年前頃のゴイエQ116-1個体や、バチョキロ洞窟のMUP 堆積物で発見された35290~34610年前頃となるBK1653個体のゲノムで、ゴイエQ116-1とBK1653は両方ともバチョキロ洞窟の先行するIUP個体群と関連する祖先系統も含んでいます(関連記事)。

 CI後の祖先系統はヨーロッパ中央部および西部でも少なくとも32000年前頃に始まり、その個体はヨーロッパ中央部ではチェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡で発見された個体に因むヴェストニツェ遺伝的クラスタ(まとまり)、ヨーロッパ西部ではフランスのフルノル(Fournol)遺跡で発見された個体に因むフルノル遺伝的クラスタに属しており、両者はグラヴェティアン文化遺物群と直接的に関連しています(関連記事)。ヨーロッパの以前の住民とは異なり、CI後の祖先系統の波は現代ヨーロッパ、ヒトと検出可能な遺伝的浮動を共有していますが、ヨーロッパにおけるEUPのヒトから得られたゲノムデータが少ないため、この祖先系統の起源、さまざまな地域における出現年代、この祖先系統を有する人口集団がヨーロッパ大陸に侵入してきた経路は不明です。フルノルクラスタの一部構成員とBK1653で見られるIUPバチョキロ洞窟祖先系統の痕跡を除くと、先行する集団の子孫とのCI後に侵入してきた人口集団間の相互作用は充分に定義されていません。

 1990年に発見された、クリミア半島のブラン・カヤ3岩陰遺跡には、中部旧石器時代から中世までのヒトの活動の豊富な堆積物が含まれています。第6-2層から第5-2層の遺物群は較正年代で38000~34000年前頃で、背付き細石刃、グラヴェット細尖頭器、骨器、オーカー(鉄分を多く含んだ粘土)、象牙や貝殻や歯や一部は死後の解体痕のある複数のヒト頭蓋断片の身体装飾が発掘されてきました。ヨーロッパのその後のグラヴェティアン遺物群との文化的堆積物の類似性から、発掘した考古学者はこの資料をグラヴェティアン文化層の最初の出現に割り当て、この指定は最近、これらの人工遺物とヨーロッパ中央部のグラヴェティアン遺跡における5000年後に出現する人工遺物との間のかなりの時空間的間隙に基づいて、意義が呈されました。

 他の主張では、ブラン・カヤ3のEUP層の遺物群はより節約的に、オルトヴァレ・クルデ(Ortvale Klde)遺跡第4d~4c層や、メズマイスカヤ(Mezmaiskaya)洞窟遺跡の第1c~1a層や、ジョージア(グルジア)のズズアナ(Dzudzuana)洞窟D層の遺物群など、背付き石器も含むコーカサスで発見された非オーリナシアンの同時代のEUP層のクラスタと関連づけられる、と考えられています。他の研究者は依然として二重手法を提案し、ブラン・カヤ3のEUP層をコーカサス北部の遺跡群とともに「先グラヴェティアン」と命名しており、これら背付き石器の発見されたコーカサスの遺跡群とレヴァントで製作された前期アハマリアン(Early Ahmarian、前期アハマル文化)との類似性は一部の研究者により、これらインダストリー(関連記事)間のつながりを示唆する、との主張に用いられてきました。

 文化的および技術的慣行の連続性と考古学的資料の製作者の遺伝的連続性との間の厳密な相関は必ずしも予測できませんが、可能であれば、考古学的遺物群と関連するヒト遺骸のゲノムの特徴づけは、物質と行動の文化的および歴史的状況や古代のヒト集団の適応と文化的接触に関する理解へ追加の鍵を提供します。ヨーロッパにおけるこの文化的遺物群の最初の出現と関連する人口集団を定義し、クリミアのEUP居住者が38000年前頃となるハインリッヒ4期末にヨーロッパのAMHの居住動態の現在の知識にどのように適合するのか判断するため、ブラン・カヤ3の第6-2層および第6-1層のヒト遺骸の遺伝的帰属が調べられました。


●DNA解析

 頭蓋断片2点(BuKa3AとBuKa3C)は、一方(BuKa3A)に解体痕があり、無菌状態で2009年にブラン・カヤ3の第6-1層(BuKa3A)と第6-2層(BuKa3C)から発掘されました。関連する資料から加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)を用いて得られた放射性炭素年代の範囲は較正年代で、BuKa3A では36840~35685年前(非較正で31900+240-220年前)、BuKa3Cでは37415~36245年前(非較正で32450+250-230年前)です。標本の最初の遺伝学的特徴づけは、断片長(平均36塩基対)と環境DNAに対する少量(0.1%未満)の両方で、内在性DNAのひじょうに乏しい保存を明らかにしました。

 さまざまな前処理と抽出緩衝材を標本に適用し、ゲノム分析可能に充分な内在性DNA量をかなり増加させる条件が特定されました(BuKa3Aでは0.5%程度、BuKa3Cでは4%程度)。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の濃縮とショットガン配列決定により、ミトコンドリアゲノムでは82倍(BuKa3A)と11倍(BuKa3C)の網羅率が得られました。ミトコンドリアにマッピング(多少の違いを許容しつつ、ヒトゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)された読み取りは、プログラムSchmutziを用いて、現代人の配列での汚染の事後確率の決定に用いられて、BuKa3Aでは汚染率1%未満と推定され、haplocheckはBuKa3AとBuKa3Cのどちらの標本でも1%超のミトコンドリア汚染を検出しませんでした。両個体(BuKa3AとBuKa3C)はX染色体とY染色体のマッピングされた読み取りの比率もしくは常染色体マッピング読み取りの平均を用いて、男性と判断されました。

 より古い標本である36800年前頃となるBuKa3Cは、mtDNAハプログループ(mtHg)Uの基底部に属しており、この系統はEUP/MUPヨーロッパで見られるmtHg-Uを生み出した分岐の前に分岐した系統です。BuKa3AのmtHgは、mtHg-N系統の初期の分枝であるN1に属する、と判断されました。この割り当ては、ほぼ全てがその後のmtHg-N分枝(UとR)から派生した、UPヨーロッパにおけるmtHg-Nについて以前に報告された系統の範囲外となります。BuKa3AのmtHg-N1は、チェコの52000~31000年前頃の女性であるズラティクン個体、ルーマニアのPcOで発見された個体(ワセ1号)や、ブルガリアのバチョキロ洞窟の45000年前頃の住民で特定されたCI前のmtHg-Nとは顕著に異なっており、これらCI前のmtHg-Nは全て、現代人の子孫がいないより基底部に位置する分枝に属します。これらとは対照的に、BuKa3AのmtDNA配列には、mtHg-N1からさらに分岐したmtHg-N1bに属する8ヶ所の変異のうち3ヶ所が含まれており、N1bは現代では稀なmtHgで、最も多く集中しているのは近東ですが、広くユーラシア西部からアフリカにかけて見られます。古代人標本では、レヴァントの11000年前頃となる続旧石器時代のナトゥーフィアン(Natufian)個体(ナトゥーフィアン9号)も、このmtHg-N1bに先行する分枝のその後の派生です。

 BuKa3CのY染色体ハプログループ(YHg)は、38000年前頃以降の現生人類ではまだ見つかっていないものの、代わりにIUPバチョキロ洞窟のF6-6201(関連記事)および4万年前頃のワセ1号でヨーロッパ南東部において以前に報告されたYHgとクラスタ化する(まとまる)、YHg-Fの基底部分枝に属すると判断されました。これら3個体のY染色体は全て、アジア東部でおもに見られるどの現代のmtHg-F系統への割りても除外される診断部位において、祖先的塩基を有しています。単一の異性塩基対置換(transversion、プリン塩基、つまりアデニンおよびグアニンと、ピリミジン塩基、つまりシトシンとチミンとの間の置換)も、BuKa3Aについて類似のYHg-F基底部を示すものの、この標本のより低い網羅率のため、mtHg-CT以上の信頼できる位置づけはできません。


●ネアンデルタール人との混合

 ミコッキアン(Micoquian)のキーク・コバ(Kiik-Koba)遺跡型に帰属させられるネアンデルタール人の居住地は、ブラン・カヤ3遺跡(B層)でも見られ、動物相の骨断片により放射性炭素較正年代では43200~40200年前(非較正で37700±900~35649±282年前)で、CI噴火直前のブラン・カヤ3遺跡におけるネアンデルタール人のより古い存在を論証します。ルーマニアとブルガリアで発見されたこの期間のAMH遺骸は、ヨーロッパ南東部における後期ネアンデルタール人との局所的混合を記録しており(関連記事1および関連記事2)、クリミアにおける在来のネアンデルタール人との混合がクリミアの最後のネアンデルタール人のせいぜい数千年後に生きていた初期AMHで検出できるのかどうか、との調査につながります。

 f₄比手法を用いて計算されたネアンデルタール人祖先系統から、BuKa3A とBuKa3Cはネアンデルタール人祖先系統をそれぞれ、3.8±1.4%と2.2±1.0%有している、と判断されました。ネアンデルタール人祖先系統はBuKa3CよりもBuKa3Aでわずかに高かったものの、同じ手法を用いてのヨーロッパの他のCI個体群で計算された値と一致し、近い過去でのネアンデルタール人の混合は、ブラン・カヤ3遺跡個体群の属する人口集団の祖先であるAMHでは起きなかった、と示唆されます。


●ユーラシア人との関係

 BuKa3AおよびBuKa3Cと他の旧石器時代人のゲノム間の比較データを最大化するため、一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)が高網羅率の現代人929個体(関連記事)のゲノムから呼び出され、繰り返し領域で発生する1塩基の違いや多様体を除去するよう選別されました。これにより、1300万のゲノム規模SNPが残り、そのうちBuKa3A では265510、BuKa3Cでは537076が重複しました。BuKa3A とBuKa3Cの少なくとも1個体で発生したこの組み合わされた約74万のSNPは、次に旧石器時代から新石器時代の以前に刊行されたショットガンもしくは高網羅率で捕獲された46個体から呼び出されました。

 外群f₃統計が、少なくとも1万の共有SNPを含む標本の組み合わせで実行されました。全体的に、BuKa3AおよびBuKa3Cのゲノムは、38000年前頃以前の個体よりも以後の個体の方と類似しており(図1a)、両個体はこの期間の始まりの頃にヨーロッパに侵入した多様性内に位置づけられます。BuKa3AとBuKa3Cの両個体は、現在のヨーロッパの外部の人口集団とよりも、内部の人口集団の方とも類似していました。以下は本論文の図1です。
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 ブラン・カヤ3遺跡の両個体(BuKa3AとBuKa3)間の関係の定義では、標本間の少ない重複のため、外群f₃分析では標準誤差が不充分でしたが、ブラン・カヤ3遺跡の両個体間のクレード(単系統群)的な関係は、検証された全てのUP標本で決してゼロから有意に異ならなかった、f₄(BuKa3A、BuKa3C;検証対象、ムブティ人)で論証されました。旧石器時代人のゲノムのうち、ブラン・カヤ3遺跡の両個体はヨーロッパ中央部および西部の数千年新しいグラヴェティアン関連のフルノルおよびヴェストニツェのクラスタと最高量の浮動を共有する、と分かりました。1000年ほど離れているブラン・カヤ3遺跡の両個体(BuKa3AとBuKa3)は、完全に均一な祖先系統を有しているわけではなく、UP数個体と不均一な量の浮動を共有していました。

 外群f₃分析では、BuKa3AはBuKa3Cよりもフルノルクラスタと多くの類似性を有しており、CI前の数個体、とくにワセ1号やバチョキロ洞窟のIUPの3個体やチェコのズラティクン個体やアジア東部の北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体と、より多くのアレル(対立遺伝子)を共有していました(図1a・b)。BuKa3CをBuKa3Aと同じSNP数に標本抽出規模を下げても、これらの結果は変わりませんでした。外群f₃結果およびとくにBuKa3Aとのアジア東部の田園個体の予測以上に高い類似性から、ゴイエQ116-1およびフルノルクラスタの数個体と同様に、BuKa3AもCI噴火とハインリッヒ亜氷期4前のヨーロッパに存在した祖先系統と混合したかもしれない、と示唆されます。

 外群f₃結果は、多次元尺度構成法(multidimensional scaling、略してMDS)でより詳細に調べられ、三次元分布図に図示され(図1c)、これはユーラシアの古代の人口集団の世界的なゲノム関係の可視化に利用できます。この分析では、BuKa3AとBuKa3Cの両標本は、38000~27000年前頃の古代人のゲノムで構成される、ヨーロッパのEUP/MUPクラスタの平面内に位置します。このクラスタはD3軸に沿って一方の極のフルノル祖先系統およびもう一方の極のヴェストニツェおよびコステンキ14/スンギール祖先系統とともにさらに区別されます。BuKa3AとBuKa3Cの両標本はこれら2集団(フルノル祖先系統とヴェストニツェおよびコステンキ14/スンギール祖先系統)間で見られ、これらの集団の個体群の最遠にも、D1軸に沿ってCI前の個体群や中石器時代コーカサス狩猟採集民(Caucasus Hunter Gatherer、略してCHG)遺伝的クラスタや現在のイラン北西部の新石器時代個体群の方へと位置しています(図1c)。


●CI後の人口集団との遺伝的関係

 CI後のヨーロッパへ到来した新たな祖先系統の波を表す38000~27000年前頃の古代人のゲノムのうち、BuKa3AとBuKa3Cは、f₄(EUP/MUP、EUP/MUP;BuKa3AとBuKa3C、ムブティ人)を用いて調べられたように、フルノルクラスタの7000年ほど新しいグラヴェティアン関連個体群、つまりスペイン北東部のセリニャ(Serinyà)洞窟個体とフランス南部のフルノル85号とアレルを最も多く共有している、と分かりました。フルノルクラスタの第三の個体である31000年前頃となるフランス北部のオルメッソン(Ormesson)遺跡個体は、同じ類似性を示しませんでした。さらに、イタリア南部のプッリャ州(Apulia)のパグリッチ洞窟(Grotta Paglicci)で発見された29000年前頃の1個体(パグリッチ12号)は、ヨーロッパ東部の数個体、とくに同時代のヨーロッパ人のゲノムと最小量の共有された浮動を有しているように見えるスンギール3号と比較すると、ブラン・カヤ3遺跡の両個体(BuKa3AとBuKa3)のうち一方もしくは両方に対して高い類似性を有していました。

 全体的にフルノルとの関係は、BuKa3CとよりもBuKa3Aとの方で強く、BuKa3Cはスンギール3号かBK1653かルーマニアの34000年前頃となる「女性の洞窟(Peştera Muierii、以下PM)」の女性個体(PM1号)よりも、コステンキ14号との有意により多いアレルの共有により、BuKa3Aと区別できます。BuKa3Cとは異なり、BuKa3Aは、スンギール3号と比較しても、ゴイエQ116-1や、ヨーロッパ中央部のグラヴェティアン遺物群で埋葬されたオーストリアのクレムス・ヴァハトベルク(Krems-Wachtberg)遺跡(関連記事)の31000年前頃となる乳児の双子(クレムス1_1とクレムス1_2の結合であるクレムス1_1–2)とより多くのアレルを共有していました。

 これらの関係の全ては、高度な外群f₃結果により裏づけられます(図1)。f₄検定(EUP/MUP、BuKa3AとBuKa3C;EUP/MUP、ムブティ人)は、ヴェストニツェクラスタの数個体を含めてヨーロッパ東部のほとんどのEUP/MUP個体のゲノムと比較すると、セリニャ遺跡個体およびフルノル85号とブラン・カヤ3遺跡の両個体(BuKa3AとBuKa3 C)との間の相互関係を示しましたが、BuKa3Cはフルノルクラスタのどの個体よりも、コステンキ14号の方と有意に多くのアレルを共有していました(図2a)。以下は本論文の図2です。
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 フルノルクラスタは、ヨーロッパライブおよび南東部のグラヴェティアン関連個体群をヨーロッパ中央部で見られるヴェストニツェクラスタの個体群と区別します。フルノルクラスタの個体群の年代は31000~26000年前頃で、ヴェストニツェクラスタの個体群と同年代です。フルノル祖先系統はベルギーで現れるオーリナシアン関連のゴイエQ116-1祖先系統の姉妹群としてもモデル化でき、両者はバチョキロ洞窟IUP個体群で見られる祖先系統と関連する共通のCI前の祖先系統との混合の痕跡を共有しています。

 BuKa3AおよびBuKa3Cとフルノルおよびヴェストニツェクラスタとの関係が、f₄統計を用いて中石器時代から上部旧石器時代の広範な祖先系統の関係とどのように比較されるのか、さらに調べられました(図2b)。その結果、BuKa3AおよびBuKa3Cの両個体は、他の個体と比較してフルノル集団の範囲外に収まるものの、ヴェストニツェとよりもフルノルの方と多くのアレルを共有する、と分かりました。フルノルクラスタですでに報告されたバチョキロ洞窟個体群祖先系統に加えて、ズラティクン個体と関連する遺伝子流動も存在していることと、コーカサスの中石器時代狩猟採集民との予期せぬ類似性にも要注意です(図2b)。これらの結果は、ヨーロッパのCI前の人口集団とクリミアのCI後の人口集団およびヨーロッパ西部と南西部のその後のMUP人口集団との、広範な遺伝的関係を説明します。この関係は、ヨーロッパ中央部および東部のMUP人口集団には存在しないか減少していますが、コーカサスの14000~11000年前頃の個体には存在しています。


●ブラン・カヤ3遺跡の両個体へのCI前の遺伝子流動

 これまで、CIおよびハインリッヒ亜氷期4後に生き残っていた4万年以上前のヨーロッパに存在した祖先系統の事例はほとんど報告されておらず(関連記事)、こうした事象をより適切に特徴づけるのに役立てるようなこれらの混合の最初期にはゲノムデータがほとんど存在しません。BuKa3AとBuKa3Cで観察されたCI前の祖先系統を調べるため、両個体がf₄統計を通じて最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前他の個体群と比較されました。全体的に、BuKa3AとBuKa3Cはそれ以前のCI前の集団とよりも、同時代およびそれ以降のCI後(EUP/MUP)集団の方と遺伝的に類似していると分かり、f₄(EUP/MUP、CI前;BuKa3AとBuKa3C、ムブティ人)で4万年以上前の個体群と比較すると、38000年前頃以降の個体群の方と有意に多くのアレルを共有しています。

 しかし、CI前の個体をワセ1号とすると、この結果のいくつかの例外がBuKa3AとBuKa3Cで見つかり、ワセ1号とBuKa3AおよびBuKa3Cとの間の遺伝子流動が示唆されます。この兆候は、ヨーロッパ東部のEUP/MUP個体群を用いると、統計的により有意でした。この類似性がBuKa3Aとワセ1号との間で共有されるネアンデルタール人DNA含有量の増加の可能性に起因するかもしれないのかどうか、特認するために、ワセ1号のゲノムで見つかったネアンデルタール人含有量の増加を遮蔽した後で統計が再計算されました。過剰なネアンデルタール人祖先系統を除外すると、BuKa3Aとワセ1号との間で共有される浮動が増加し、この類似性は共有された非ネアンデルタール人祖先系統にたどれるかもしれない、と示唆されます。

 CI後の祖先系統とのBuKa3Aの類似性を論証するゼロからの追加の偏差から、MUPの数個体に関して田園個体およびズラティクン個体が関連づけられます。BuKa3AとBuKa3CはCI後の集団とクラスタ化するので、CI後の個体群で共有される高度の浮動は、CI後の集団における共有されたCI前の混合の類似の量のように、BuKa3AおよびBuKa3CとCI後の個体群との間の低水準の混合を隠すでしょう。したがって、BuKa3とCI前のあらゆる2個体との関係が、f₄統計(CI前、CI前;BuKa3AとBuKa3C、ムブティ人)で調べられました。この定式化では、ヨーロッパのCI前後の居住につながる系統間で特定の遺伝的関係がなければ予測されるように、CI前の2個体がBuKa3AおよびBuKa3Cに関して外群を形成するならば、ゼロのZ得点の結果が予測されます。これらの検定では、BuKa3Aはバチョキロ洞窟IUP個体群のBK_F6-620個体とよりもワセ1号の方と有意に多くのアレルと、BK_CC7-335およびロシア領シベリア西部のウスチイシム(Ust’Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された45000年前頃となる現生人類男性個体と、増加しているものの顕著ではない量を共有していました。

 CI前の個体と、BuKa3AおよびBuKa3C と27000年以上前のあらゆる高網羅率の個体との間の相対的なゲノム類似性を比較すると、f₄統計検定(UP、BuKa3AとBuKa3C;CI前、ムブティ人)では、ズラティクン個体はCIの前後の数個体とよりもBuKa3Aの方と多くのアレルを共有している、と分かりました。f₄(UP、BuKa3A;ズラティクン、ムブティ人)のZ得点は、CIの前後の数個体では、検定されたほぼ全ての標本で-2未満の負でした。BuKa3Cは類似の傾向を示しましたが、さほど顕著ではなく、事例もわずかでした。興味深いことに、UPをフルノル85号とすると、この検定の結果は正で、BuKa3AおよびBuKa3Cよりも多いズラティクン個体関連祖先系統構成要素増加の可能性が、フルノルクラスタで示唆されます。

 これらの結果は、反転されたf₃統計のMDS分析における、同時代のCI後の個体群とワセ1号やズラティクン個体を構成するCI前の集団との間のBuKa3AおよびBuKa3Cの位置と一致します。BuKa3Aとワセ1号との間で共有された祖先系統の証拠は予期せぬもので、それは、ワセ1号祖先系統が以前にはその後のユーラシア人口集団で検出されなかったからです(関連記事)。しかし、UP個体群ゲノムの最近の分析は、ワセ1号を追加のネアンデルタール人との混合のあるバチョキロ洞窟IUP集団と類似の人口集団に属する、とのモデル化に成功し(関連記事)、バチョキロ洞窟個体群と関連する集団は、アジア東部現代人とゴイエQ116-1に祖先系統をもたらしました(関連記事)。

 ズラティクン個体も以前には、その後の集団への遺伝子流動をもたらさなかった、と説明されました(関連記事)。しかし、より新しい分析は、ズラティクン個体からバチョキロ洞窟個体群への2~29%の遺伝子流動を裏づけるかもしれない、混合モデルを提示しており、このモデルは、本論文における広範な分布の人口集団で持続したズラティクン個体関連祖先系統の観察を裏づけるでしょう。これらの観察はf₄形式(スンギール3号/コステンキ14号、検証対象;ズラティクン、ムブティ人)のf₄統計で直接的に検証されました。この定式化は、おそらくヨーロッパにおける他のCI後の個体とほとんど混合していないため、以前の検定においてCI後でLGM前のヨーロッパ人祖先系統の一方の極を表しているように見える、スンギール3号の観察された遺伝的位置を利用しています。

 特定のCI後の個体との混合の兆候を示すコステンキ14号も含められ、より遠いスンギール3号と比較されました。この統計は、ズラティクン個体との特別な遺伝的類似性が図2bで論証されている中石器時代CHG狩猟採集民も含めて、CI後のヨーロッパで見られるズラティクン個体からの遺伝子流動の相対的な量の測定を試みます。これらの結果は、スンギール3号と比較して、複数のCI後の個体に存在するズラティクン個体関連祖先系統の水準を示します(図3a)。この兆候は、ヨーロッパ西部の南部からオーストリアのドナウ川流域までを含む地理的分布の、グラヴェティアン関連のフルノルおよびヴェストニツェのクラスタの選別個体において最高です(図3a)。

 ヴェストニツェクラスタの個体であるクレムス1_1–2およびパグリッチ12号で特定されたズラティクン個体関連祖先系統は、チェコのドルニー・ヴェストニツェ遺跡のドナウ川の北方の他のヴェストニツェクラスタ個体では減少しているようで(図3a)、恐らくは南北の地理的勾配に対応する、ヴェストニツェクラスタ内におけるこの構成要素の変動的な存在を明らかにします。コステンキ14号で検定するさいのこれらの兆候の遮蔽は、とくにヨーロッパ北部および東部の個体群とでは、コステンキ14号におけるズラティクン個体関連祖先系統の低水準の混合か、以前に報告された(関連記事)、スンギール3号とよりもコステンキ14号の方と近い系統からのヨーロッパ中央部のMUP人口集団におけるヨーロッパ東部の混合に起因する、と推測されます。以下は本論文の図3です。
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 f₃およびf₄分析により示唆される多様な祖先系統および混合の可能性の観点から、qpGraphの枠組み内でブラン・カヤ3遺跡の各個体の祖先系統の個別のモデル化が試みられました。モデル化の結果の強度を高めて、混合端の潜在的な数を減少させるため、高網羅率のショットガン生成のUP個体ゲノムの最小限の一式に焦点が当てられました。外群として現在のアフリカのムブティ人集団を用いての最適モデルは、最悪のf₄統計残差のZ得点は、BuKa3Aでは1.73、BuKa3Cでは2.96です(図3b)。ブラン・カヤ3遺跡の両個体(BuKa3AとBuKa3C)の最適モデルは類似の構造を共有しており、ズラティクン個体が出アフリカ事象後の最も深く分岐する現生人類祖先系統を表しており、以前の分析(関連記事)と一致します。

 本論文のモデルでは、ヨーロッパのCI後の集団は、ブラン・カヤ3遺跡の両個体(BuKa3AとBuKa3C)やコステンキ14号やスンギール3号を含めて全て、ズラティクン個体により表されるヨーロッパのCI前の集団につながる集団の前に分岐した共通系統から分岐しました。ヨーロッパ東部の他のCI後の個体のゲノムとは異なり、ブラン・カヤ3遺跡の両個体はズラティクン個体の祖先的人口集団から6~16%の祖先系統を受け取っているものとして、最適にモデル化されました。この混合構成要素なしのモデルは、裏づけが少ないと分かりました。


●コーカサスとのつながり

 ジョージア西部のサツルブリア洞窟(Satsurblia Cave)で発見された13000年前頃の人類遺骸から異なる祖先系統が特定され、これは9800年前頃となる類似の近隣となるコティアス・クルデ洞窟の人類遺骸とともに、サツルブリア遺伝的クラスタとしても知られているCHGとして報告されました。CHG祖先系統は45000年前頃にユーラシア西部狩猟採集民と分離した、と推定されており、LGMには孤立した人口集団として存在し、その後でヨーロッパ現代人のゲノムの独自性の発展に役割を果たしたいくつかの異なる人口集団に祖先系統を寄与した、と考えられてきました(関連記事)。CHG祖先系統は後に、ともにジョージアの26000年前頃となるズズアナ洞窟(Dzudzuana Cave)と25000年前頃となるコティアス・クルデ洞窟の2個体でMUPにまでさかのぼってコーカサス地域を占拠していた、と分かりました。

 これらコーカサスの2ヶ所の遺跡とブラン・カヤ3遺跡の同時代の層位間の地理的近さと文化的つながりを考えて、CHG祖先系統との連続性がブラン・カヤ3遺跡の両個体(BuKa3AとBuKa3C)で1万年以上早く広がっていたかもしれないのかどうか、さらに調べられました。f₄(検証対象、BuKa3AとBuKa3C;CHG、ムブティ人)の結果から、BuKa3AとBuKa3Cはほぼ全ての3万年以上前となる他のCI後の個体とよりもCHGクラスタと有意に多くのアレルを共有しており、注目すべき例外はクレムス1_1–2とフルノルクラスタとパグリッチ12号である、と示されます(図4a)。以下は本論文の図4です。
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 ほとんどのより新しいコーカサスの狩猟採集民においてまず特徴づけられた祖先系統へのこの共有された類似性は、ブラン・カヤ3遺跡人口集団をフルノルクラスタおよびヴェストニツェ西部および南端クラスタ個体群と結びつける祖先構成要素としてのズラティクン個体を反映しているようです。f₄(スンギール3号、検証対象;ズラティクン個体、ムブティ人)結果のバイプロットを用いて、LGM前の人口集団で特定されたズラティクン個体関連祖先系統構成要素がCHGで見られる構成要素と類似していないかどうか、調べられました。その結果、これら2祖先系統構成要素はCI後でLGM前の人口集団において直接的な相関にあるものの(図4b)、f₄(ズラティクン個体、検証対象;CHG、ムブティ人)が常に有意に負のZ得点を示すように、CHGがズラティクン個体とよりも全てのCI後の人類のゲノムとずっと多くの遺伝子流動を共有しているのでもズラティクン個体とCHGの祖先系統は同じではない、と分かりました。


●考察

 本論文はブラン・カヤ3遺跡の両個体(BuKa3AとBuKa3C)を用いて、40000~37000年前頃にヨーロッパにおいて最初に出現した祖先系統の明確なEUPの波の最初の側面の一つを遺伝学的に特徴づけます。クリミアでは、この祖先系統は背付き小石刃(bladelet)を含む石器インダストリーと関連していると分かり、これはコーカサスの南北の斜面でよく確立しており、ヨーロッパ中央部にその後で出現するグラヴェティアン石器群と比較されてきました。1000年ほど離れて同じ場所に居住する両個体(BuKa3AとBuKa3C)の祖先系統の不一致は、これら初期移民集団における関係の不均一な性質を示唆しており、この侵入してきた祖先系統の境界面だけではなく、その子孫系統において継続した、複雑な相互作用と交換のモデルを提案します。

 より古いBuKa3Cが、CI前の人口集団と最小限に混合したものの、これらCI前の集団と関連するYHgを有しているのに対して、より新しいBuKa3AはCI前の祖先系統の量をより多く含んでいました。この両個体(BuKa3AとBuKa3C)は、一部のCI前後の人類のゲノムと比較して、ズラティクン個体とワセ1号および選別されたバチョキロ洞窟IUP個体の両方との遺伝的類似性を示しました。この両個体(BuKa3AとBuKa3C)は、現時点で利用可能なほぼ全てのUP個体のゲノムとは遺伝的に遠いと分かりましたが、最も遺伝的に類似しているのは、ヨーロッパ西部の南方にその数千年後に集中する、と分かりました。

 MUPのヨーロッパで特定された(関連記事)グラヴェティアン関連集団の東西の遺伝的分化(フルノルとヴェストニツェ)を検証するため、これらのデータは南北の要素を追加し、それはズラティクン個体関連祖先系統の、スペインとフランス南部で見られる増加とイタリア南部およびオーストリアで見られるある程度により特徴づけられ、これは、ハインリッヒ事象(Heinrich Event、略してHE)4の前とその間の両方におけるプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian、先オーリニャック文化)の分布とほぼ相当する地域です。

 1000年古いBuKa3Cと比較してのBuKa3AにおけるCI前の混合の増加は、新たな移民の最初の出現後いくぶん経過してからやっと混合事例が増加し、ヨーロッパへの新石器時代拡大に続く人口動態(関連記事)を想起させます。既存の住民のCI前の祖先系統とのこれら侵入してきたAMH間の混合の程度は、以前には認識されていませんでした。38000~34000年前頃のヨーロッパで現在利用可能な7個体の高網羅率のゲノムのうち、ヨーロッパ東部の西側に位置する4個体は、CI前のヨーロッパAMH集団と混合しているものとしてモデル化できます。本論文は、これらの兆候が具体的に供給源の標本人口集団と関連するさまざまな集団との個別の混合事象に由来するとは想定していませんが、ヨーロッパでこれらの集団とさまざまな関係があったかもしれない、CI前の祖先系統の根底にある多様性を表している可能性があります。

 要注意なのは、これらの結果の統計的有意性がヨーロッパ東部UP人類のゲノムとの比較において増加することです。これは、ヨーロッパ中央部および西部のEUPおよびMUP人口集団におけるCI後の祖先的基層の広範な低水準の存在を示唆しているかもしれません。この減少の均整は、おそらくHE4期の先行する気候変化により規模ではかなり減少した人口集団に属するヨーロッパにおける最初のAMH住民が、侵入してきたEUP移民へと同化されたかもしれない、という可能性を示唆します。代替的な仮説は、気候悪化がこれらCI人口集団の一部のコーカサスへと退避する移住を引き起こし、気温が38000年前頃となるグリーンランド亜間氷期8とともに始まって上昇するにつれて、コーカサスでそうした避難民が新たに到来した移民と後に混合した、というものかもしれません。

 ヨーロッパ東部のスンギール遺跡の人口集団におけるこの祖先系統の明らかな欠如は、その頃にCI前のヨーロッパ系統により居住が避けられたか、疎らな居住だった地域を示唆しているかもしれません。この東方人口集団はブラン・カヤ3遺跡とほぼ同時代で、地理的にはヨーロッパ中央部および西部よりもクリミアの方と近く、これは、EUP人口集団がヨーロッパへと侵入するにつれて使用したかもしれない相互作用もしくは交流網の最終地帯の識別に役立つかもしれません。ヨーロッパへのこのEUPの移動の時期は、CI超噴火を含む極寒のHE4期の末と一致しているようで、気候関連の環境変化がこの移住を促進したかもしれない、と示唆します。

 ヨーロッパ東部はとくに、40000~38000年前頃には居住可能性が低くなり、ヨーロッパ内の既存のCI前の人口集団が、この期間における、ヨーロッパのネアンデルタール人の消滅や、ヒト教授内の少なさや森林被覆および有蹄類個体群の減少により証明されているように(関連記事)、収縮したかもしれません。HE4の末とより温暖なグリーンランド亜間氷期(38000~35000年前頃)に向かって次第に温度が上昇したことは、南方の退避地からの北方への人口拡大を促進したでしょう。アジア北部とバルカン半島とレヴァントの周辺地域を含めて、ヨーロッパとコーカサスのUP人口集団のより適切な遺伝的特徴づけが、この移行期の前後におけるこれらの集団の移動と相互作用のより深い解明と、LGM前個体のゲノムの増加する一覧におけるCI前のヨーロッパ人祖先系統の程度と分布の判断に必要です。

 過去の人口動態の認識は、既存の考古学的記録の解釈を深め、これらの人口集団と関連する技術と人工遺物の発達と拡散の再構築に役立てます。この観点では、ブラン・カヤ3遺跡集団と、ヨーロッパ中央部において後に出現するグラヴェティアン石器群とブラン・カヤ3遺跡およびコーカサスの同時代の遺跡で見られる背付き石器群および文化的人工遺物との間の類似性を有する、ヨーロッパ西部および中央部のグラヴェティアン関連人口集団との間の遺伝的類似性を対比させるのは興味深いことです。

 これらの遺跡間の考古学的記録における時空間両方の大きな間隙のため、これらの類似性が、何千年間にもわたって子孫共同体の伝統を通じて維持された、ブラン・カヤ3遺跡のEUP慣行の連続性にどの程度起因していたかもしれないのか、推定は困難です。これに加えて、遺伝的交換を通じて記録されたヨーロッパのMUP集団間の相互作用を考えると、技術的革新がヨーロッパ全域に伝わったかもしれない複数経路を想像することは容易です。類似の局所的できこう特有の機能的要件も、石器インダストリーの相関に役割を果たしたかもしれません。以前に示唆されたように恐らくはレヴァントの前期アハマリアンの拡大による、ヨーロッパ中央部のグラヴェティアン遺物群とブラン・カヤ3遺跡およびコーカサスのEUP背付き小石刃との間のつながりに取り組むことは、ヨーロッパへのEUPの人口移動の進化する理解を補完するかもしれません。


参考文献:
Bennett EA. et al.(2023): Genome sequences of 36,000- to 37,000-year-old modern humans at Buran-Kaya III in Crimea. Nature Ecology & Evolution, 7, 12, 2160–2172.
https://doi.org/10.1038/s41559-023-02211-9

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