ユーラシア西部における後期更新世人類の進化の再検討
ユーラシア西部における後期更新世人類の進化に関する証拠を再検討した研究(Finlayson et al., 2023)が公表されました。本論文は、後期更新世のユーラシア西部における人類進化史の最新の研究状況の把握にたいへん有益です。ユーラシア西部、とくにヨーロッパは、人類進化研究が最も進んでいる地域と言えそうで、更新世の人類化石の発見が多く、考古学の研究蓄積は他地域よりも厚いので、ヨーロッパを基準にした考古学的時代区分を他地域にも適用することは現在でも珍しくないくらいです。
近年の人類進化研究では古代ゲノム研究の進展がとく目覚ましく、この分野でもヨーロッパが他地域よりも大きく進んでいる、と言えるでしょう(関連記事)。本論文は、ヨーロッパも含めてユーラシア西部を対象に、後期更新世の人類進化に関する現時点での証拠を学際的かつ批判的に再検討しており、今年(2023年)になって刊行され、当ブログでも取り上げようと考えていながらまだ言及していない研究も参照されているので、私にとってたいへん有益でした。
本論文は全体的に、少ない証拠からの安易な推測、さらにはその推測(仮定)の前提化(事実化)を厳しく批判しています。正直なところ、本論文の基準はかなり厳しいというか、慎重すぎるようにも思われますが、1点もしくは少数の事例から、安易に特定の石器文化と特定のホモ属分類群を関連づけたり、特定のホモ属分類群の消滅や出現を推測したりして、それを前提化してしまい、人類進化の「物語」を提示してしまうことは珍しくないように思いますし、私もそうした傾向に陥りやすいだけに、自戒せねばなりません。当ブログでは、特定の石器文化と特定のホモ属分類群を関連づけることには慎重でいたつもりですが、本論文を読んで反省させられるところが多々ありました。
●要約
化石や洞窟堆積物から回収された古代DNAの研究における最近の進展は、ユーラシアの後期更新世におけるホモ属化石の人口集団および系統間の生物学的および文化的相互作用に関する見解を顕著に変えてきました。時空間的に複雑な状況が現れており、複数の人口集団の混合および置換事象がありました。本論文は、ユーラシア西部の証拠に焦点を合わせて、化石と物質文化の証拠に基づく種間の相互作用の位置づけが、より広範な手法によりどのように置き換えられつつあるのか、検証します。ヒトの移住と現生人類(Homo sapiens)のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に対する生物学的および/もしくは文化的優位性についての伝統的な物語は今や、過去の人口集団の生物学的および文化的動態と、時空間的なその相互作用の性質の研究に取って代わられつつあります。
●研究史
本論文では、とくにユーラシア西部の重要でよく研究された接触地域における、さまざまな系統に由来する人類間(通常はネアンデルタール人および現生人類とされます)で起きた相互作用に関する現在の証拠が再検討され、そうした相互作用と結果の生物文化的枠組みが提供されます。本論文の見解では、最近の進展はまとめられるべきさまざまな分野からの大量の文献を産出してきました。本論文は、そうした統合を提供する試みです。
一般的な見解では、現生人類とネアンデルタール人の接触は完全な人口置換をもたらした、とされます。具体的には、最もよく記録されている地域であるヨーロッパにおいて、ネアンデルタール人の消滅と現生人類によるヨーロッパ大陸の成功した植民は、現生人類系統の生物学的もしくは生態学的優位に起因する、と考えられています(関連記事)。そうした優位は、認知能力の近いとよく関連づけられており、単一の遺伝的変異に由来する、と最初に提案されましたネアンデルタール人と現生人類の相互作用の性質を理解しようとするその後の試みは、広範な代替的機序を提案してきました。より最近の解釈でも、さまざまな程度で他の要因の考慮が試みられました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。
全体的に、これらの研究では、ヒトの範囲拡大と縮小の時空間的複雑さは過小評価されてきた可能性が高い、と示唆されています。範囲拡大はさまざまな程度の連続体の一部だったでしょうし(関連記事)、局所的で地域的な消滅や、その後の範囲拡大や、以前の拡大における居住地域への帰還や起源地域への帰還さえ伴っていました(関連記事1および関連記事2)。拡大し確立した人口集団間の接触地域では、結果は、時間や遭遇する人口集団が以前に孤立していた程度、したがって遺伝と表現型と行動の孤立の程度や、環境収容能力および生態学的孤立の程度と比較しての2人口集団の密度など、さまざまな変数によって決まったでしょう。
今や明確なのは、同じ遺跡内では、人類のさまざまな系統を表すさまざまな人口集団が居住および再居住し、交互に替わった、ということです。フランス地中海地域のローヌ渓谷のマンドリン洞窟(Mandrin Cave)の事例では、ネアンデルタール人と現生人類が交互に居住し、ネアンデルタール人は現生人類の前後にマンドリン洞窟に存在しました(関連記事)。これらの結論はおもに石器証拠に由来し、いくつかの古生物学的裏づけがありました。シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)では、ネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の人口置換が堆積物の古代DNA分析から推測され、最上層には現生人類が居住していました(関連記事)。スペイン北部のアタプエルカ考古学・古生物学複合の一部である彫像坑道(Galería de las Estatuas、略してGE)では、堆積物の古代DNAから、12万年前頃の大きなネアンデルタール人の人口置換事象が示唆されました(関連記事)。
ネアンデルタール人と現生人類との接触の結果に関する主題についての多数の刊行物にも関わらず、ネアンデルタール人の推定される消滅の原因の明確な全体像からは遠い状況です。モデルは、モデル構造とモデルの媒介変数の制約に用いられるデータに基づいて、広範なあり得るシナリオを提供しています。シナリオは、直接的な現生人類の介在から、気候および無作為要因もしくはこれらの混合まで、さまざまにわたります(関連記事)。この異なる案の雑多な一群から導き出せる唯一の結論は、経験的パターン、つまりネアンデルタール人の消滅の説明が、現生人類との相互作用の必要性の有無にかかわらず、多数の要因と過程で可能である、ということです。
●古分類学と古ゲノミクスの出現
古人類学における種概念の使用は悪名高いほど困難で、当初からネアンデルタール人とヒト【現生人類】に関する議論を悩ませてきました。種の定義と種分化の進化過程との間に存在する矛盾は、生物学的種概念における時間深度の欠如から生じますが、種の概念を系統の概念に置き換えれば対処できます。ウイリー(Edward O. Wiley)によるシンプソン(George Gaylord Simpson)の進化的種概念の改訂は、生殖隔離の基準を維持しながら化石記録における多型的な種の問題に取り組んでいます。ウイリー(Edward O. Wiley)の定義では、「ある種は祖先の子孫個体群の単一系統で、その系統は他のそうした系統から独自性を維持し、自身の進化的傾向と歴史的運命があります」と述べられています。
古ゲノミクスの出現以降、ネアンデルタール人とヒトの相互作用に関する議論の焦点は、種競合から系統史と人口動態へと変わってきました。古代DNAの抽出および分析における最近の進展は、ヒトとネアンデルタール人の系統間、およびより一般的にはデニソワ人や仮定的な「亡霊(ゴースト)種」など古代型ホモ属【絶滅ホモ属】系統との混合事象の複雑なパターンを明らかにします(関連記事)。
したがって、現在利用可能な古代DNAの証拠から、混合事象は更新世において人口集団間で頻繁であった、と示唆されますが、この主張は、根底にあるモデルの仮定への依存を考えると、論議されていないわけではありません。これは次の問題につながり、つまりは、古生物学および考古学的記録における交雑をどのように検出するのか、ということです。
●化石および考古学的記録における系統と交雑
さまざまなホモ属系統に属する集団間の個々の遭遇の人口集団水準の結果は不明なままですが、ホモ属内の交雑第一世代の存在が、今では確実です(関連記事)。更新世のヒト遺骸の形態学的根拠に基づいて交雑を同定することは、まるっきり異なる問題です。古遺伝学は、祖先と子孫の極性がある一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)など何千もの独立した個別の特徴を調べられますが、古表現学はそれ自体比較的少ない保存された骨格形質で満足せねばなりません。
さらに、これらの形質のほとんどは離散的ではなく連続的で、古人口集団内で変化し、形態学的統合を通じて相互に依存し、明確な表現型の極性を示しません。したがって、多くの交雑は形態学的理由に基づくと検出されないままである可能性が高そうです。検出可能かもしれないのは、親系統間の表現型の違いが明確に見える場合(たとえば、ネアンデルタール人と現生人類との間)と、交雑事象がわずか数世代前、したがって充分に強い表現型の兆候を保存している場合です。
多くのそうした主張は、中間的、とくにネアンデルタール人と現生人類との間とみなされた形態学的特徴に基づいて多くの標本でなされてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase、略してPO)」の下顎は、形態に基づいて仮定された混合の好例で、その後にゲノムデータ(関連記事)により裏づけられています【と本論文は指摘しますが、 POの現生人類下顎のネアンデルタール人的特徴がネアンデルタール人からもたらされた遺伝子に由来するのか、まだ確証はないように思います】。これらの事例の一部は論争となっており、それ自体、ホモ属における交雑がどのように見えるはずなのか、若しくは見えるかもしれないのか、ということに関しての無知を反映しています。
形態に基づいて更新世の現生人類化石を明確に定義するか、あるいは交雑が見つかった時にどのように見えるのか合意する能力は、古生物学的データの解釈の試みのさいに問題を引き起こします。個体群の差異について実質的に情報をもたらさない小規模な(しばしば単一の)標本に基づく標本の分類学的帰属は、たとえば現生人類の拡大とネアンデルタール人の範囲縮小の全体像を解明できるのに充分なほど堅牢ですか?明らかに、そうではありません。しかし、この困難は、単一の古代ゲノムでさえ、古ゲノミクスの正の効果と対比させることができ、個体群規模の変動と混合事象に関するかなりの情報をもたらします。
ネアンデルタール人もしくは現生人類に違いない、という前提で現在行なわれている、これらの分類学的割り当ての一部もしくは全てが、間違いではなく、交雑である個体群が見落とされている、ということにどの程度確信できるでしょうか?一部の事例では、現生人類とネアンデルタール人の形質および曖昧な他の形質を有する、と主張されたものの、それにも関わらず、ヨーロッパ北西部における解剖学的現代人の最古の事例と報告されたブリテン島のケンツ洞窟(Kent’s Cavern)の事例(関連記事)のように、標本は混合した矛盾する証拠を示してさえ分類されています。
離散的形質ではなく連続的(計量的)形質に基づく分類学的帰属には、とくに注意すべきです。たとえば、歯は形態計測的形質により特徴づけられることが多く、分類群固有の平均値間の統計的に有意な違いを明らかにしますが、分類群固有の分布間で重複するので、単一の化石標本はある分類群や他の分類群に確実に割り当てることができません。確実に標本を割り当てることができるようになるまで、および現在そうできないので(個別の事例では、形態学に古代DNAや古プロテオミクスなど追加の証拠を用いて、それは可能かもしれません)、標本を用いて、過去のヒトの分布パターンと拡散を地図化すべきではありません。確実に帰属させることができる少ない事例(関連する時間規模での標本数を考慮して)で地図化を試みると、その結果はひじょうに断片的で、間違いなく予備的な全体像になるでしょう。
●石器と文化と人類系統の帰属
考古学者が旧石器時代のヒトの分布の地図化を試みるさいには、石器インダストリー(関連記事)の観点で石器の証拠についての観察を体系づけます。これは、ずっと豊富な石器記録と比較して、利用可能な化石資料の少なさのためです。石器は人類の分類群の代理として用いられます。最も一般的に引用される石器インダストリーは、複数の遺跡から発掘された石器(および時には骨器)群をまとめて分類します。さほど知られていないくつかのインダストリーは、1ヶ所の遺跡だけで見られます。
文化的変化と堆積との間の相関を仮定する奇妙な慣行では、考古学者は単一の堆積物から発見された石器を単一のインダストリーのみに割り当てます。新たなインダストリーを定義するための慣行はさまざまですが、原則的に、同じ地域および/もしくは期間ですでに認識されているインダストリーとは異なる人工遺物の種類と道具製作戦略の特定の提案が必要になります。じっさいには、新たに特定されたインダストリーの認識と受容と使用は、権威への訴えやさまざまな国家的研究の伝統次第です。
命名された石器インダストリーはヒトの文化的進化の普遍的段階として19世紀の考古学的文献に初めて現れましたが、20世紀の考古学者が、先史時代の文化的変化の歴史もしくは「先史時代」の記述を説明するための実態をますます求めるようになるにつれて、石器インダストリーの数は劇的に増加しました。インダストリーは先史時代に現れる時、人々の集団にとっての代理もしくは「代役」として現れ、それは民族誌的文化と機能的に同等です。もちろん多くの考古学者は、具体的なインダストリーについて、若しくは一般的にそうした同一視に異議を呈していますが、これは。学生が後期更新世人類における置換対連続についての現在の議論でインダストリーをどのように用いているのか。ということです。そうした石器群を先史時代のあるインダストリー若しくは別のインダストリーに割り当てない、発掘された後期更新世のヨーロッパおよびアジア西部の石器群についての記述は、依然として稀です。
考古学者は習慣的に、ヨーロッパとアジア西部とアフリカ北部の後期更新世インダストリーを、上部旧石器(Upper Palaeolithic、略してUP)か中部旧石器(Middle Palaeolithic、略してMP)かMP/UP移行期段階のいずれかに同定します。MPとUPとMP/UPのインダストリー間の違いのほとんどは、ルヴァロワ(Levallois)石核(両面階層石核)もしくは角柱状石刃石核(細長い単面階層石核)から剥離された破砕生成物の割合の多さか少なさを反映しています。ルヴァロワ式生成物はMP石器群においてより一般的で、角柱状石刃はUP石器群においてより一般的です。
MP/UP移行期インダストリーは、この点で大きく異なります。考古学者は、再加工された人工遺物を再加工されていないものよりも文化的に診断に役立つ、と考えています。短い楕円形の「横形削器」と厚い三角の「尖頭器」はMP石器群を特徴値づけますが、より狭い「削器」と背付き/横断石核はUP石器群においてより一般的に現れます。 MP/UP移行期石器群では、層序混合もしくは石器河口における実際の差異に起因して、そうした人工遺物が組み合わされているかもしれません。「握斧」および類似の石器形態である長い石核石器はMP石器群に現れますが、薄い「葉型」尖頭器は一部の MP/UP移行期およびUP石器群で現れます。
穿孔されたビーズを含めて刻まれた骨や枝角や象牙の人工遺物は多くのUP遺物群で見られますが、そうした人工遺物はMP遺物群では稀です。考古学者は広範な地域の遺物群をMPもしくはUPインダストリーのいずれかに割り当てますが、MP/UP移行期遺物群に割り当てられた人工遺物は、より限定的な地域的分布を示します。分類学的帰属に関するこれらの大きな問題にも関わらず、実際には、ヨーロッパにおける現生人類によるネアンデルタール人の置換の推定パターンは、ヒト遺骸のある遺跡がない場合には、おもに遺跡から推測されてきました。
多くの場合、ヒト分類群を技術と結びつける証拠は、ネアンデルタール人か現生人類のどちらかに帰属させられたヒト遺骸が特定の石器技術と関連づけられてきた、少数の遺跡により裏づけられています。これは欠陥のある危険な慣行で、それは、特定のヒト分類向けが特定の技術と排他的に関連している、と仮定されているからですが、実際はそうではありません。とくに、遺伝的交換の時期に文化的交換が起き、技術が生態学的状況の産物だったならば、異なるヒト分類群が同じ技術を生み出せるはずはない、という理由は事実上ありません。どの技術が交雑と関連しているのか、という知識の欠如により、問題はさらに悪化します。
表1と図1では、一般的に(UPインダストリーと関連する)現生人類による(MPインダストリーと関連する)ネアンデルタール人の置換と同等視される、ヨーロッパと中東におけるMP~UPへの移行を位置づけた、現在の概観が示されます。この置換の過程は中東で始まり、アフリカ起源と推定される現生人類の人口集団はその後でヨーロッパを東西に拡大した、と推測されています。この物語は通常、移動の方向を示す矢印の拡大図として示されます。そうした地図はヒト分類群の代理として石器インダストリーに基づいており、各インダストリーが人類の特定の種類と同等視されているので、一般的には不正確です。帰属の確実性の程度はせいぜい、人類とインダストリーの関連が確証されているか、確証されたと主張されている少ない遺跡に基づいています(表1)。以下は本論文の図1です。
大半の事例では、関連自体が希薄で、それは、単一もしくはごく少数の標本あるいは遺跡、つまり、学童期(6~7歳から12~13歳頃)の標本、歯(霊長類の交雑個体では予期せぬ差異の影響を受けやすい、と分かっています)、骨もしくは歯から創られた人工遺物(関連記事)、疑問が呈されている層序と年代測定の遺跡に依拠しているからです。ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の最近の事例(関連記事)は、この特別で局地的な初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)インダストリーを確実に現生人類に帰属させたようですが、これらは今では、その家系史の数世代前にネアンデルタール人の祖先がいた、と示されています(関連記事)。プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian、先オーリニャック文化)を現生人類と結びつける証拠が提示されましたが(関連記事)、示唆的ではあるものの、プロトオーリナシアンが現生人類のみの所産とは保証されていません。
これらのインダストリーは、ネアンデルタール人と現生人類の相互作用の理解にどのように役立つでしょうか?さほど役立ちません。以前の理論では、これらのインダストリーが民族誌の「文化」のような自己意識のある社会的集団に相当する、とは示唆されていません。それらの一部が存続し、数千kmにわたって数千年最小限しか変わらないことは、命名された石器インダストリーが実質的には実際の民族誌的文化の反対であることを示唆しています。じっさいの文化は急速に変化し、時空間的に大きく異なります。石器の残骸に基づいて人類を推測的な社会的集団に区分することは、ゴミ箱にあるペンや鉛筆の種類に基づいて生きているヒトを区分し分類するのと同じく意味がありません。
ネアンデルタール人と現生人類の進化的関係を調べるのにインダストリーを用いることは、じっさいには解決するよりも多くの問題を引き起こすかもしれません。考古学者はインダストリーを、石器のある同じ堆積物で見つかった化石に基づいて、ある人類のものか別の人類のものと推測します。これらの化石の一部は意図的埋葬のようですが、遊離した歯や上顎や下顎の断片や指もしくは足の骨などがより多くなっています。そうした遊離した断片をある人類か別の人類に割り当てることができるのかどうかは、問題の骨と使用された基準次第です。しかし、そうした同定ができる場合でさえ、これらの化石と石器との間の層序的関連は額面通りには必ずしもできません。歯と下顎と指骨は、人体で最も密度の高い骨です。
石器はほぼ壊れません。これらの石器の全ては、洞窟の表面など堆積物を動き回るかもしれず、実際に動きます。固まった洞窟堆積物の発掘は、一度堆積したならば、化石と石器はその場に留まる、といすう錯覚を生じるかもしれません。現代の洞窟の固まっていない表面堆積物において足首まで沈むことは、この仮定への貴重な訂正を提示します。
埋葬に基づくインダストリーと人類の帰属は疑う余地がないようですが、じっさいにはまったく逆です。埋葬は嵌入的特徴です。埋葬について唯一確実に言えるのは、埋葬された個体は周囲の堆積物よりも新しい、ということです。どれだけ新しいのか言うことができるとしても、どのくらいの時間的相殺が化石と石器との間の仮定的なつながりを断ち切るのに充分なのかについて、考古学者の間で合意はありません。1世紀もしくは2世紀で大きく変わるかもしれません。
埋葬に基づく帰属の評価では、代替的な説明の早まった却下に対する抑制も必要です。最近の人類が埋葬儀式で行なうような埋葬もあるかもしれません。自然死で休息に埋葬される場合も、衛生上の理由での埋葬もあります。殺人の隠蔽さえあるかもしれません。最近の殺人が通常そうであるように、先史時代の殺人が報復の恐怖を招いたならば、洞窟は犯人に遺体を気づかれずに置くための隠れた場所を提供したかもしれません。
MP/ムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)はネアンデルタール人に相当する」、という仮定はヨーロッパの先史時代においてよく確立しており、この仮説がアフリカ北部と地中海東部のレヴァントでは明らかに間違いであることを簡単に忘れてしまうかもしれません。アフリカ北部とレヴァントの2地域は、ヨーロッパの現生人類人口集団にとっての起源地として最もよく提案されています。MPの「ムステリアン」道具は30万~45000年前頃のアフリカ北部の遺跡に、現生人類化石のみと共伴して現れます。ネアンデルタール人遺骸はレヴァントのわずかな遺跡でムステリアン人工遺物とともに現れますが、それは現生人類化石も同様です(関連記事)。ほとんどのレヴァントのMPとMP/UPとUP遺跡では、人類化石遺骸が欠けています。MPやMP/UPやUPの石器を誰が製作したのかは、推測となります。この場合、なぜ推測を求めるのか、恐らく考えるべきでしょう。
絶滅人類について「誰なのかという問題」への人類学者の回答は、石器の「製作者」に関する議論の受容次第です。これらの議論が正しいのか間違っているのか証明するには、絶滅人類を観察する必要があるでしょう。したがって、誰かが双方向の旅が可能なタイムマシン(ほぼすべての物理学者が不可能と考えています)を発明しない限り、あるいは発明するまで、恐らくヒト進化の学生は、先史時代のヒトの活動について、「誰なのかという問題」を脇に置いて、代わりに「どのようにという問題」への回答に焦点を当てるべきでしょう。
初期現生人類と、少なくとも一部のネアンデルタール人とデニソワ人は、生存への障害の克服により現代人の祖先になりました。それは、彼らが誰かではなく、彼らがしたことのためです。研究者が依然として、「ロバの尻尾を針で留める(人類を石器インダストリーと合致させる)」よう振舞い続けたいならば、次に種固有の行動の特定に焦点を当て、時空間的にそうした行動の分布を図表化し、次にさまざまな人類間の多様な種類の相互作用が、そうした行動の変化と変動性にどのように影響したのかについて、仮説を提案すべきです。
上述のように、ヨーロッパと中東は、恐らく交雑個体群である人口集団が居住していた、という可能性がひじょうに高そうです。これら交雑個体群の表現型の知識は事実上なく、その拡張された表現型についてはさらに知識がありません。それにも関わらず、表1から、人類の分類群への石器インダストリーの帰属における不確実性が一般的なのは明らかです。したがって、5万~3万年前頃という重要な期間における、ヨーロッパ全域(あるいは実際には他のどこかの場所)での現生人類の拡大の地図と物語について、信用を置くことができません。
ネアンデルタール人が現生人類のUPと類似した技術と関連づけられてきた事例では、たとえばフランスのアルシ・スュル・キュール(Arcy-sur-Cure)遺跡とアルシ・スュル・キュールのトナカイ洞窟(Grotte du Renne)遺跡のシャテルペロニアン(Châtelperronian、シャテルペロン文化)があり、ネアンデルタール人に対する現生人類の認知能力の優位を支持する研究者は、「原始性」もしくは「現代性」という客観的ではない行動の特徴を誤って帰属させ、これらを新たに到来した現生人類によるネアンデルタール人の文化変容の産物としてすぐに解釈してきました。
他の研究者は、これらの石器インダストリーの独立した起源を主張し(関連記事)、ネアンデルタール人に現生人類と同等の認知能力を認め、世界中の現生人類と「古代型のヒト(Archaic Humans)」により採用された技術の種類間の柔軟性の程度を反映している、と考えました。文化変容の解釈にはね二つの大きな問題があります。一方は、考古学においてダリが誰を文化変容させたのか論証できない、ということです。より重要なことに、地層間に挟まった考古学的層位におけるそうした文化変容の受容は長期の共存を示唆するので、思考の独創性以外に、競合的排除による人口置換もしくは現生人類の優位の概念に反することになります。そうだったとしても、長期の重複を考えると、直接的もしくは確実な人口統計学的もしくは競合的影響を明らかに及ぼしませんでした。
トナカイ洞窟におけるネアンデルタール人遺骸の層序的位置には疑問が呈されてきましたが(関連記事)、上述の計測的形質の確率論的性質を考慮すると、トナカイ洞窟の現生人類遺骸の統計的に確証された証拠が依然として弱いことも明らかです。文化変容の議論全体は、層序に疑問を呈されているネアンデルタール人遺骸と、現生人類に帰属させられている、オーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)石器および関連する人工遺物に基づいて行なわれてきました。石器インダストリーを人類の分類群に帰属させる危険性に関する本論文の上述の解説を考えると、文化変容の全体の問題を懐疑的に検討すべきです。
この項目で論じられてきたように、地中海の北部と東部における後期更新世の「文化地理学」について仮説を発展させ検証する考古学者の努力は、特定の石器インダストリーと特定の人類との間の同一視の複雑な寄せ集めに依拠しています。これらの同一視の根底にある複雑さの完全な解釈、その歴史的根拠の再検討、その相対的な強さと弱さの批判的分析は、本論文で利用可能な分量を大幅に超えています。それにも関わらず、そうした研究、じっさいそのうちいくつかは、更新世考古学の優先事項であるべきです。その間に、そうした全ての同一視の妥当性について複数の作業仮説を保持すべきです。
●ネアンデルタール人の消滅と現生人類の到来
現生人類と古代型のヒト(ネアンデルタール人を含みます)との間の、遭遇したさいの相互作用の期間はひじょうに短く、急速な置換につながる現生人類の優位が、置換の支持者により予測されています。ネアンデルタール人の絶滅における現生人類の関与という主張は、ほぼ一般的です。先行研究では、「しかし、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人の時代が、クロマニヨン人(Cro-Magnon)が最初に到来した時に終わったことは明らかです」と指摘されています。他地域と比較してのヨーロッパへの現生人類の遅い侵入はネアンデルタール人の存在に起因していた、との代替説(関連記事)はさほど注目されてきませんでした。実際には、ネアンデルタール人絶滅の主因として現生人類を、あるいは現生人類のヨーロッパへの到来の遅れの主因としてネアンデルタール人を確認することは、考古学的層序だけからは不可能です。考古学的観点からは、両者を区別できません。
ネアンデルタール人の消滅については、「電撃戦」モデルから確率論的過程を経て競合まで、さまざまなシナリオが議論されてきました。競合的排除との主張(関連記事)には、因果関係の論証不可能という根本的問題があります。じっさい、その逆が起きたようです。つまり、急速な置換ではなく、ネアンデルタール人と現生人類は数千年にわたって重複していた、と考えられています。放射性炭素データに基づくと、この重複期間は2600~5400年間と推定されてきましたが(関連記事)、古遺伝学および考古学的データの組み合わせから、より長い期間(関連記事)が示唆され、アルプス山脈の北方における43500年前頃となる初期現生人類の存在も、ヨーロッパにおける長い接触期間を支持する主張に用いられてきました。それにも関わらず、これらの主張は慎重に扱われるべきで、それは、こうした主張がヒト分類群の代理として石器インダストリーに強く依拠しているからです。
さらに、ある遺跡におけるヒト史料の最後の記録された年代は、その遺跡におけるヒト分類群の最後の存在ではなく、むしろその人口集団がかなりの数の化石資料を回収された時を意味する、と考えるべきです。じっさいの消滅は、観察の最後の日の後の長い過程の結果として生じる、と予測されます。同様に、ある遺跡の最初の年代は、最初の到来年代を表すとは限りません。したがって、時間的重複の問題は、たいへん慎重に扱われるべきです。一方、伝学的証拠からは、顕著で広範で長い重複があったに違いない、と確証されています(関連記事)。
全ての遺跡が同等なヒトの存在を表している、との誤解も一般的です。衰退している人口集団は、供給源人口集団からの遺民によってのみ維持されるので、そうした衰退している人口集団が生存する条件が最適とは限りません。ネアンデルタール人が居住していた遺跡の生態学的質の違いは、少なくとも1事例で示されてきました。同時に、入植・消滅モデルでは、どの時点でも、人口統計学的な確率論的消滅の結果として空白地帯のままになるだろう一部の生息可能な地域があるだろう、と予測されています。これは、ある場所にヒトが存在しないのは、その場所が居住に不適だったことを必ずしも示していない、ということを意味しています。したがって、範囲拡大および縮小のモデルは、各遺跡の質とメタ個体群【アレル(対立遺伝子)の交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団】の特徴をまず決定せずに、範囲変化の代理として遺跡を使用できません。
●5万~3万年前頃のヨーロッパと中東の変動する世界における生活
現時点で利用可能なデータの分析から導き出される主な結論は、5万~3万年前頃という長い2万年にわたる期間において、ヨーロッパ中東におけるホモ属人口集団の分散のパターンと過程に関して大きな不確実性がある、というものです。現生人類はヨーロッパに、45000~40000年前頃のある時点で侵入しましたか?5万年前頃以前にヨーロッパに居住していたのはネアンデルタール人だけだった、と仮定するならば、次に、他の非ネアンデルタール人であるホモ属人口集団のその後の存在は外部からの到来に違いない、と認めるのが論理的でしょう。仮にそうならば、最節約的な説明は、中東からの、直接的にヨーロッパか、遠回りにアジア中央部を経由での地理的拡大を主張するでしょう。ジブラルタル海峡の横断は証明されていません。
しかし、現生人類に帰属させられるホモ属人口集団が、ヨーロッパにそれ以前に存在した可能性はあるでしょうか?現生人類と関連すると主張された形態の人口集団の存在は、モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡では30万年以上前(関連記事)、中東では194000~177000年前頃(関連記事)、ギリシアでは21万年以上前となり(関連記事)、ヨーロッパにおける初期現生人類の存在が事実だったかもしれない可能性を示唆しています。これまでのところ最良の証拠は、現生人類のY染色体のネアンデルタール人への37万~10万年前頃となる最近の遺伝子移入で(関連記事)、これは人類分類群間の接触が5万年以上前に起きていたことを示唆しています。これにより、ヨーロッパに存在した5万年以上前のホモ属人口集団がネアンデルタール人のみではなく、交雑個体群も含まれており、まず確実に現生人類も含んでいた、という可能性がひじょうに高くなります。
中東からヨーロッパへの現生人類の45000年前頃の侵入の証拠は、東方から西方へのこの空間的分散の明確な年代順の論証に基づくでしょう。IUPはひとまとめにされていますが、技術類型学的類似以外に、全て同じ人類により製作されていた証拠はありません。じっさい、さまざまなIUPインダストリーの年代範囲の比較(表1および図1)は、ヨーロッパ南東部から中東への拡散を意味する、と同様に解釈できます。これは、ヨーロッパから中東への「逆移動」を表すと考えられている、レヴァントオーリナシアンと類似していません(関連記事)。他の研究者は、IUPはヨーロッパ西部には到達しなかった、部分的に成功した現生人類の拡大を表している、と提案してきました。
さらなる代替案として、IUPは、ヨーロッパ南東部とトルコとレヴァントにおいて48000~38000年前頃に人類が変化する環境的要因の状況に対処していた方法を表している、という可能性があります。それは、ヨーロッパ全域(北西部と東部および中央部とイタリア半島とバルカン半島とフランス南西部とスペイン北部)での同時の類似した対応にとって地理的な代替とみなされ、移行期インダストリーにより表されるでしょう。プロトオーリナシアンインダストリーの「一群」は、同じ時間的枠組み内での代替的対応を表しているのでしょうが、この地理的領域の南部に集中しており、具体的には、レヴァントとトルコのアハマリアン(Ahmarian、アハマル文化)、ブルガリアにおけるバチョキリアン(Bachokirian、バチョキロ文化)に続くコザーニキアン(Kozarnikian、コザーニカ文化)、イタリア北部とフランス南部とスペイン北部のプロトオーリナシアンです(表1および図1)。ムステリアンとオーリナシアンは、部分的に時空間的に重複したインダストリーとして現れるでしょう。このシナリオは、どう想像しても、ネアンデルタール人を犠牲にしての東西の地理的な現生人類拡大の明確な兆候として見ることはできません。
先行研究により提案されたように、変化する環境条件へのヨーロッパと中東の人類(ネアンデルタール人と現生人類と交雑個体群)による地域的な適応は、自然地理的境界に沿って強調されており、より節約的で生物学的に意味のある解釈です。それは大まかには、海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)3のヨーロッパと中東の大半を覆っていた、開けたツンドラと草原地帯と砂漠の環境、および斑状の生息の利用への適応の必要性への対応として、軽量で長い射程の投射技術の使用の増加に対応するようです。そうしたインダストリーは、「向上したエネルギー捕獲/保存のための技術的強化」の事例と見ることができるかもしれません。
急速で確率論的に変動する環境も、共存と交雑および交雑地帯の促進、およびその結果としての新たな環境の入植者もしくは急速な生態学的変化に局所的に持続する入植者への適応的優位が伴うことを予測します。したがって、5万~3万年前頃のヨーロッパと中東の激しく変動する状況で観察されたことが、実験につながる広範な生物学的および文化的交流である可能性はひじょうに高そうです。それには、成功(人口統計学的および地理的拡大という形で)と失敗(人口統計学的および地理的縮小と消滅)が含まれます。
じっさい、中東における長期の確証された動態が裏づけていると見えるように、フランス地中海地域のマンドリン洞窟において、明らかなネアンデルタール人→現生人類→ネアンデルタール人の置換が起きました(関連記事1および関連記事2)。このシナリオでは、交雑と文化的交流を、新規変異の自然選択もしくは独立した発明のより遅い過程の代替としての急速な調整を提供する、一般的な適応度普及への寄与者とみなすことができます。
この物語の裏側を提供するのは、イベリア半島です。極北のヨーロッパシベリア地帯以外に、全てのIUPと移行期インダストリーとプロトオーリナシアン群インダストリーがイベリア半島に存在しないことは、ヨーロッパと中東の他地域とは対照的です。地中海と大西洋の沿岸地域であるイベリア半島では、MIS3の変化によるヨーロッパの他地域の影響は祭祀用減で、森林性および半森林性の生息地と待ち伏せ狩猟戦略の利用と関連している石器インダストリーである、ムステリアンの残存製作者が居住していました(関連記事1および関連記事2)。類似の状況は5万年以上前のアジア南部および東部で起きていたようで、そこでは温暖湿潤な生息地が、使用石器で大きな変化を示さない拡散してきた人類に困難をもたらすこことはなく、ユーラシア北部の状況とは対照的です。
寒冷で乾燥したイベリア半島中央台地(メセタ)は、時としてヨーロッパシベリア地帯の延長となり、MIS3には哺乳類の寒冷動物相が侵入しましたが、一方で、この時にはほぼ無人でした。この広範なメセタの端に居住する少数の人類は、驚くべきことでありませんが、オーリナシアンインダストリーを製作したようです(関連記事)。41100~38100年前頃となるこの孤立した存在は、人類の帰属が推測のみとしても、イベリア半島中央部への現生人類の急速な西方への拡大の証拠として解釈されてきました。同様に妥当な代替案は、イベリア半島の早期オーリナシアンは変化するMIS3の世界の端における変動する環境への人類の適応のさらに別の事例である、というものです。このイベリア半島のオーリナシアンより後の年代に最初に出現したレヴァントオーリナシアンも(関連記事)、ヨーロッパからの人々の移動ではなく、変化する環境への局所的な適応として解釈できます。
イベリア半島南部におけるネアンデルタール人の最期の生存に関する現在の議論(関連記事)は、依然として未解決です。2014年の研究(関連記事)によるイベリア半島南部における後期ネアンデルタール人の年代測定は、ネアンデルタール人が散発的に居住しただけの山岳地帯の単一の遺跡に限定されているので、より広範な地域的状況について確実性は不充分です。別のイベリア半島の遺跡におけるオーリナシアンの推定される初期の存在、つまりイベリア半島最南端となるスペインのマラガ(Málaga)県近くのバホンディージョ洞窟(Bajondillo Cave)の事例は、同様に初期のネアンデルタール人消滅の証拠とみなされてきました(関連記事)。この証拠は、混合した層序と診断できない技術の結果として、疑われてきました(関連記事)。
さらなる過誤は、1ヶ所におけるオーリナシアンの存在(現生人類と同等視されます)は地域全体のムステリアン(ネアンデルタール人と同等視されます)の消滅を示しているに違いない、との推定にあります。本論文で再検討されてきたように、地域規模の人口置換の永続的見地が薄弱であることを示す、充分な証拠があります。代わりに、現時点で利用可能な証拠から、中期更新世のホモ属と現生人類との間の文化および遺伝的接触と交流は中東においてすでに14万~12万年前頃には起きていた(関連記事)、と示唆されます。
●まとめ
数十年にわたって文献で優勢だったヒトの起源に関する二つの競合モデルは、今では消滅しています。とくに過去10年間の、化石と堆積物の古代DNAの抽出および研究の手法における進展により、ユーラシア西部およびそれを越えて、ヒト(ホモ属)人口集団と後期更新世の系統間の複雑な関係の表面をなぞることが可能になりました。これら先駆的な研究はとくに、さまざまな人口集団と系統との間で起きた混合の高度な程度と頻度を明らかにしつつあります。
避けられない結論は、ユーラシアの後期更新世の人口集団は高度に混合していた、という認識です。それは、少数の化石や化石遺跡や多数の考古学的遺跡(おもに石器)に基づいて「ヒト種」の相互作用を図示する、30年以上にわたる標準的な手順である試みが、もはや確信をもって見ることはできない、ということになります。
ヒト起源の研究では、明らかな枠組みの変化を目の当たりにしています。ヒト種の移動の年代と範囲、現生人類の他種への優位、恐らくは起きなかった消滅の時期に関する歴史物語は最終的に、焦点が人口集団の生物学と文化および時空間的なその相互作用の性質を見ることに移るにつれて、最終的に崩れつつあります。今や、「我々の内側のネアンデルタール人」の現実だけではなく、「ネアンデルタール人の内側の我々」の現実も受け入れねばなりません。
参考文献:
Finlayson M. et al.(2023): Close encounters vs. missed connections? A critical review of the evidence for Late Pleistocene hominin interactions in western Eurasia. Quaternary Science Reviews, 319, 108307.
https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2023.108307
近年の人類進化研究では古代ゲノム研究の進展がとく目覚ましく、この分野でもヨーロッパが他地域よりも大きく進んでいる、と言えるでしょう(関連記事)。本論文は、ヨーロッパも含めてユーラシア西部を対象に、後期更新世の人類進化に関する現時点での証拠を学際的かつ批判的に再検討しており、今年(2023年)になって刊行され、当ブログでも取り上げようと考えていながらまだ言及していない研究も参照されているので、私にとってたいへん有益でした。
本論文は全体的に、少ない証拠からの安易な推測、さらにはその推測(仮定)の前提化(事実化)を厳しく批判しています。正直なところ、本論文の基準はかなり厳しいというか、慎重すぎるようにも思われますが、1点もしくは少数の事例から、安易に特定の石器文化と特定のホモ属分類群を関連づけたり、特定のホモ属分類群の消滅や出現を推測したりして、それを前提化してしまい、人類進化の「物語」を提示してしまうことは珍しくないように思いますし、私もそうした傾向に陥りやすいだけに、自戒せねばなりません。当ブログでは、特定の石器文化と特定のホモ属分類群を関連づけることには慎重でいたつもりですが、本論文を読んで反省させられるところが多々ありました。
●要約
化石や洞窟堆積物から回収された古代DNAの研究における最近の進展は、ユーラシアの後期更新世におけるホモ属化石の人口集団および系統間の生物学的および文化的相互作用に関する見解を顕著に変えてきました。時空間的に複雑な状況が現れており、複数の人口集団の混合および置換事象がありました。本論文は、ユーラシア西部の証拠に焦点を合わせて、化石と物質文化の証拠に基づく種間の相互作用の位置づけが、より広範な手法によりどのように置き換えられつつあるのか、検証します。ヒトの移住と現生人類(Homo sapiens)のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に対する生物学的および/もしくは文化的優位性についての伝統的な物語は今や、過去の人口集団の生物学的および文化的動態と、時空間的なその相互作用の性質の研究に取って代わられつつあります。
●研究史
本論文では、とくにユーラシア西部の重要でよく研究された接触地域における、さまざまな系統に由来する人類間(通常はネアンデルタール人および現生人類とされます)で起きた相互作用に関する現在の証拠が再検討され、そうした相互作用と結果の生物文化的枠組みが提供されます。本論文の見解では、最近の進展はまとめられるべきさまざまな分野からの大量の文献を産出してきました。本論文は、そうした統合を提供する試みです。
一般的な見解では、現生人類とネアンデルタール人の接触は完全な人口置換をもたらした、とされます。具体的には、最もよく記録されている地域であるヨーロッパにおいて、ネアンデルタール人の消滅と現生人類によるヨーロッパ大陸の成功した植民は、現生人類系統の生物学的もしくは生態学的優位に起因する、と考えられています(関連記事)。そうした優位は、認知能力の近いとよく関連づけられており、単一の遺伝的変異に由来する、と最初に提案されましたネアンデルタール人と現生人類の相互作用の性質を理解しようとするその後の試みは、広範な代替的機序を提案してきました。より最近の解釈でも、さまざまな程度で他の要因の考慮が試みられました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。
全体的に、これらの研究では、ヒトの範囲拡大と縮小の時空間的複雑さは過小評価されてきた可能性が高い、と示唆されています。範囲拡大はさまざまな程度の連続体の一部だったでしょうし(関連記事)、局所的で地域的な消滅や、その後の範囲拡大や、以前の拡大における居住地域への帰還や起源地域への帰還さえ伴っていました(関連記事1および関連記事2)。拡大し確立した人口集団間の接触地域では、結果は、時間や遭遇する人口集団が以前に孤立していた程度、したがって遺伝と表現型と行動の孤立の程度や、環境収容能力および生態学的孤立の程度と比較しての2人口集団の密度など、さまざまな変数によって決まったでしょう。
今や明確なのは、同じ遺跡内では、人類のさまざまな系統を表すさまざまな人口集団が居住および再居住し、交互に替わった、ということです。フランス地中海地域のローヌ渓谷のマンドリン洞窟(Mandrin Cave)の事例では、ネアンデルタール人と現生人類が交互に居住し、ネアンデルタール人は現生人類の前後にマンドリン洞窟に存在しました(関連記事)。これらの結論はおもに石器証拠に由来し、いくつかの古生物学的裏づけがありました。シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)では、ネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の人口置換が堆積物の古代DNA分析から推測され、最上層には現生人類が居住していました(関連記事)。スペイン北部のアタプエルカ考古学・古生物学複合の一部である彫像坑道(Galería de las Estatuas、略してGE)では、堆積物の古代DNAから、12万年前頃の大きなネアンデルタール人の人口置換事象が示唆されました(関連記事)。
ネアンデルタール人と現生人類との接触の結果に関する主題についての多数の刊行物にも関わらず、ネアンデルタール人の推定される消滅の原因の明確な全体像からは遠い状況です。モデルは、モデル構造とモデルの媒介変数の制約に用いられるデータに基づいて、広範なあり得るシナリオを提供しています。シナリオは、直接的な現生人類の介在から、気候および無作為要因もしくはこれらの混合まで、さまざまにわたります(関連記事)。この異なる案の雑多な一群から導き出せる唯一の結論は、経験的パターン、つまりネアンデルタール人の消滅の説明が、現生人類との相互作用の必要性の有無にかかわらず、多数の要因と過程で可能である、ということです。
●古分類学と古ゲノミクスの出現
古人類学における種概念の使用は悪名高いほど困難で、当初からネアンデルタール人とヒト【現生人類】に関する議論を悩ませてきました。種の定義と種分化の進化過程との間に存在する矛盾は、生物学的種概念における時間深度の欠如から生じますが、種の概念を系統の概念に置き換えれば対処できます。ウイリー(Edward O. Wiley)によるシンプソン(George Gaylord Simpson)の進化的種概念の改訂は、生殖隔離の基準を維持しながら化石記録における多型的な種の問題に取り組んでいます。ウイリー(Edward O. Wiley)の定義では、「ある種は祖先の子孫個体群の単一系統で、その系統は他のそうした系統から独自性を維持し、自身の進化的傾向と歴史的運命があります」と述べられています。
古ゲノミクスの出現以降、ネアンデルタール人とヒトの相互作用に関する議論の焦点は、種競合から系統史と人口動態へと変わってきました。古代DNAの抽出および分析における最近の進展は、ヒトとネアンデルタール人の系統間、およびより一般的にはデニソワ人や仮定的な「亡霊(ゴースト)種」など古代型ホモ属【絶滅ホモ属】系統との混合事象の複雑なパターンを明らかにします(関連記事)。
したがって、現在利用可能な古代DNAの証拠から、混合事象は更新世において人口集団間で頻繁であった、と示唆されますが、この主張は、根底にあるモデルの仮定への依存を考えると、論議されていないわけではありません。これは次の問題につながり、つまりは、古生物学および考古学的記録における交雑をどのように検出するのか、ということです。
●化石および考古学的記録における系統と交雑
さまざまなホモ属系統に属する集団間の個々の遭遇の人口集団水準の結果は不明なままですが、ホモ属内の交雑第一世代の存在が、今では確実です(関連記事)。更新世のヒト遺骸の形態学的根拠に基づいて交雑を同定することは、まるっきり異なる問題です。古遺伝学は、祖先と子孫の極性がある一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)など何千もの独立した個別の特徴を調べられますが、古表現学はそれ自体比較的少ない保存された骨格形質で満足せねばなりません。
さらに、これらの形質のほとんどは離散的ではなく連続的で、古人口集団内で変化し、形態学的統合を通じて相互に依存し、明確な表現型の極性を示しません。したがって、多くの交雑は形態学的理由に基づくと検出されないままである可能性が高そうです。検出可能かもしれないのは、親系統間の表現型の違いが明確に見える場合(たとえば、ネアンデルタール人と現生人類との間)と、交雑事象がわずか数世代前、したがって充分に強い表現型の兆候を保存している場合です。
多くのそうした主張は、中間的、とくにネアンデルタール人と現生人類との間とみなされた形態学的特徴に基づいて多くの標本でなされてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase、略してPO)」の下顎は、形態に基づいて仮定された混合の好例で、その後にゲノムデータ(関連記事)により裏づけられています【と本論文は指摘しますが、 POの現生人類下顎のネアンデルタール人的特徴がネアンデルタール人からもたらされた遺伝子に由来するのか、まだ確証はないように思います】。これらの事例の一部は論争となっており、それ自体、ホモ属における交雑がどのように見えるはずなのか、若しくは見えるかもしれないのか、ということに関しての無知を反映しています。
形態に基づいて更新世の現生人類化石を明確に定義するか、あるいは交雑が見つかった時にどのように見えるのか合意する能力は、古生物学的データの解釈の試みのさいに問題を引き起こします。個体群の差異について実質的に情報をもたらさない小規模な(しばしば単一の)標本に基づく標本の分類学的帰属は、たとえば現生人類の拡大とネアンデルタール人の範囲縮小の全体像を解明できるのに充分なほど堅牢ですか?明らかに、そうではありません。しかし、この困難は、単一の古代ゲノムでさえ、古ゲノミクスの正の効果と対比させることができ、個体群規模の変動と混合事象に関するかなりの情報をもたらします。
ネアンデルタール人もしくは現生人類に違いない、という前提で現在行なわれている、これらの分類学的割り当ての一部もしくは全てが、間違いではなく、交雑である個体群が見落とされている、ということにどの程度確信できるでしょうか?一部の事例では、現生人類とネアンデルタール人の形質および曖昧な他の形質を有する、と主張されたものの、それにも関わらず、ヨーロッパ北西部における解剖学的現代人の最古の事例と報告されたブリテン島のケンツ洞窟(Kent’s Cavern)の事例(関連記事)のように、標本は混合した矛盾する証拠を示してさえ分類されています。
離散的形質ではなく連続的(計量的)形質に基づく分類学的帰属には、とくに注意すべきです。たとえば、歯は形態計測的形質により特徴づけられることが多く、分類群固有の平均値間の統計的に有意な違いを明らかにしますが、分類群固有の分布間で重複するので、単一の化石標本はある分類群や他の分類群に確実に割り当てることができません。確実に標本を割り当てることができるようになるまで、および現在そうできないので(個別の事例では、形態学に古代DNAや古プロテオミクスなど追加の証拠を用いて、それは可能かもしれません)、標本を用いて、過去のヒトの分布パターンと拡散を地図化すべきではありません。確実に帰属させることができる少ない事例(関連する時間規模での標本数を考慮して)で地図化を試みると、その結果はひじょうに断片的で、間違いなく予備的な全体像になるでしょう。
●石器と文化と人類系統の帰属
考古学者が旧石器時代のヒトの分布の地図化を試みるさいには、石器インダストリー(関連記事)の観点で石器の証拠についての観察を体系づけます。これは、ずっと豊富な石器記録と比較して、利用可能な化石資料の少なさのためです。石器は人類の分類群の代理として用いられます。最も一般的に引用される石器インダストリーは、複数の遺跡から発掘された石器(および時には骨器)群をまとめて分類します。さほど知られていないくつかのインダストリーは、1ヶ所の遺跡だけで見られます。
文化的変化と堆積との間の相関を仮定する奇妙な慣行では、考古学者は単一の堆積物から発見された石器を単一のインダストリーのみに割り当てます。新たなインダストリーを定義するための慣行はさまざまですが、原則的に、同じ地域および/もしくは期間ですでに認識されているインダストリーとは異なる人工遺物の種類と道具製作戦略の特定の提案が必要になります。じっさいには、新たに特定されたインダストリーの認識と受容と使用は、権威への訴えやさまざまな国家的研究の伝統次第です。
命名された石器インダストリーはヒトの文化的進化の普遍的段階として19世紀の考古学的文献に初めて現れましたが、20世紀の考古学者が、先史時代の文化的変化の歴史もしくは「先史時代」の記述を説明するための実態をますます求めるようになるにつれて、石器インダストリーの数は劇的に増加しました。インダストリーは先史時代に現れる時、人々の集団にとっての代理もしくは「代役」として現れ、それは民族誌的文化と機能的に同等です。もちろん多くの考古学者は、具体的なインダストリーについて、若しくは一般的にそうした同一視に異議を呈していますが、これは。学生が後期更新世人類における置換対連続についての現在の議論でインダストリーをどのように用いているのか。ということです。そうした石器群を先史時代のあるインダストリー若しくは別のインダストリーに割り当てない、発掘された後期更新世のヨーロッパおよびアジア西部の石器群についての記述は、依然として稀です。
考古学者は習慣的に、ヨーロッパとアジア西部とアフリカ北部の後期更新世インダストリーを、上部旧石器(Upper Palaeolithic、略してUP)か中部旧石器(Middle Palaeolithic、略してMP)かMP/UP移行期段階のいずれかに同定します。MPとUPとMP/UPのインダストリー間の違いのほとんどは、ルヴァロワ(Levallois)石核(両面階層石核)もしくは角柱状石刃石核(細長い単面階層石核)から剥離された破砕生成物の割合の多さか少なさを反映しています。ルヴァロワ式生成物はMP石器群においてより一般的で、角柱状石刃はUP石器群においてより一般的です。
MP/UP移行期インダストリーは、この点で大きく異なります。考古学者は、再加工された人工遺物を再加工されていないものよりも文化的に診断に役立つ、と考えています。短い楕円形の「横形削器」と厚い三角の「尖頭器」はMP石器群を特徴値づけますが、より狭い「削器」と背付き/横断石核はUP石器群においてより一般的に現れます。 MP/UP移行期石器群では、層序混合もしくは石器河口における実際の差異に起因して、そうした人工遺物が組み合わされているかもしれません。「握斧」および類似の石器形態である長い石核石器はMP石器群に現れますが、薄い「葉型」尖頭器は一部の MP/UP移行期およびUP石器群で現れます。
穿孔されたビーズを含めて刻まれた骨や枝角や象牙の人工遺物は多くのUP遺物群で見られますが、そうした人工遺物はMP遺物群では稀です。考古学者は広範な地域の遺物群をMPもしくはUPインダストリーのいずれかに割り当てますが、MP/UP移行期遺物群に割り当てられた人工遺物は、より限定的な地域的分布を示します。分類学的帰属に関するこれらの大きな問題にも関わらず、実際には、ヨーロッパにおける現生人類によるネアンデルタール人の置換の推定パターンは、ヒト遺骸のある遺跡がない場合には、おもに遺跡から推測されてきました。
多くの場合、ヒト分類群を技術と結びつける証拠は、ネアンデルタール人か現生人類のどちらかに帰属させられたヒト遺骸が特定の石器技術と関連づけられてきた、少数の遺跡により裏づけられています。これは欠陥のある危険な慣行で、それは、特定のヒト分類向けが特定の技術と排他的に関連している、と仮定されているからですが、実際はそうではありません。とくに、遺伝的交換の時期に文化的交換が起き、技術が生態学的状況の産物だったならば、異なるヒト分類群が同じ技術を生み出せるはずはない、という理由は事実上ありません。どの技術が交雑と関連しているのか、という知識の欠如により、問題はさらに悪化します。
表1と図1では、一般的に(UPインダストリーと関連する)現生人類による(MPインダストリーと関連する)ネアンデルタール人の置換と同等視される、ヨーロッパと中東におけるMP~UPへの移行を位置づけた、現在の概観が示されます。この置換の過程は中東で始まり、アフリカ起源と推定される現生人類の人口集団はその後でヨーロッパを東西に拡大した、と推測されています。この物語は通常、移動の方向を示す矢印の拡大図として示されます。そうした地図はヒト分類群の代理として石器インダストリーに基づいており、各インダストリーが人類の特定の種類と同等視されているので、一般的には不正確です。帰属の確実性の程度はせいぜい、人類とインダストリーの関連が確証されているか、確証されたと主張されている少ない遺跡に基づいています(表1)。以下は本論文の図1です。
大半の事例では、関連自体が希薄で、それは、単一もしくはごく少数の標本あるいは遺跡、つまり、学童期(6~7歳から12~13歳頃)の標本、歯(霊長類の交雑個体では予期せぬ差異の影響を受けやすい、と分かっています)、骨もしくは歯から創られた人工遺物(関連記事)、疑問が呈されている層序と年代測定の遺跡に依拠しているからです。ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の最近の事例(関連記事)は、この特別で局地的な初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)インダストリーを確実に現生人類に帰属させたようですが、これらは今では、その家系史の数世代前にネアンデルタール人の祖先がいた、と示されています(関連記事)。プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian、先オーリニャック文化)を現生人類と結びつける証拠が提示されましたが(関連記事)、示唆的ではあるものの、プロトオーリナシアンが現生人類のみの所産とは保証されていません。
これらのインダストリーは、ネアンデルタール人と現生人類の相互作用の理解にどのように役立つでしょうか?さほど役立ちません。以前の理論では、これらのインダストリーが民族誌の「文化」のような自己意識のある社会的集団に相当する、とは示唆されていません。それらの一部が存続し、数千kmにわたって数千年最小限しか変わらないことは、命名された石器インダストリーが実質的には実際の民族誌的文化の反対であることを示唆しています。じっさいの文化は急速に変化し、時空間的に大きく異なります。石器の残骸に基づいて人類を推測的な社会的集団に区分することは、ゴミ箱にあるペンや鉛筆の種類に基づいて生きているヒトを区分し分類するのと同じく意味がありません。
ネアンデルタール人と現生人類の進化的関係を調べるのにインダストリーを用いることは、じっさいには解決するよりも多くの問題を引き起こすかもしれません。考古学者はインダストリーを、石器のある同じ堆積物で見つかった化石に基づいて、ある人類のものか別の人類のものと推測します。これらの化石の一部は意図的埋葬のようですが、遊離した歯や上顎や下顎の断片や指もしくは足の骨などがより多くなっています。そうした遊離した断片をある人類か別の人類に割り当てることができるのかどうかは、問題の骨と使用された基準次第です。しかし、そうした同定ができる場合でさえ、これらの化石と石器との間の層序的関連は額面通りには必ずしもできません。歯と下顎と指骨は、人体で最も密度の高い骨です。
石器はほぼ壊れません。これらの石器の全ては、洞窟の表面など堆積物を動き回るかもしれず、実際に動きます。固まった洞窟堆積物の発掘は、一度堆積したならば、化石と石器はその場に留まる、といすう錯覚を生じるかもしれません。現代の洞窟の固まっていない表面堆積物において足首まで沈むことは、この仮定への貴重な訂正を提示します。
埋葬に基づくインダストリーと人類の帰属は疑う余地がないようですが、じっさいにはまったく逆です。埋葬は嵌入的特徴です。埋葬について唯一確実に言えるのは、埋葬された個体は周囲の堆積物よりも新しい、ということです。どれだけ新しいのか言うことができるとしても、どのくらいの時間的相殺が化石と石器との間の仮定的なつながりを断ち切るのに充分なのかについて、考古学者の間で合意はありません。1世紀もしくは2世紀で大きく変わるかもしれません。
埋葬に基づく帰属の評価では、代替的な説明の早まった却下に対する抑制も必要です。最近の人類が埋葬儀式で行なうような埋葬もあるかもしれません。自然死で休息に埋葬される場合も、衛生上の理由での埋葬もあります。殺人の隠蔽さえあるかもしれません。最近の殺人が通常そうであるように、先史時代の殺人が報復の恐怖を招いたならば、洞窟は犯人に遺体を気づかれずに置くための隠れた場所を提供したかもしれません。
MP/ムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)はネアンデルタール人に相当する」、という仮定はヨーロッパの先史時代においてよく確立しており、この仮説がアフリカ北部と地中海東部のレヴァントでは明らかに間違いであることを簡単に忘れてしまうかもしれません。アフリカ北部とレヴァントの2地域は、ヨーロッパの現生人類人口集団にとっての起源地として最もよく提案されています。MPの「ムステリアン」道具は30万~45000年前頃のアフリカ北部の遺跡に、現生人類化石のみと共伴して現れます。ネアンデルタール人遺骸はレヴァントのわずかな遺跡でムステリアン人工遺物とともに現れますが、それは現生人類化石も同様です(関連記事)。ほとんどのレヴァントのMPとMP/UPとUP遺跡では、人類化石遺骸が欠けています。MPやMP/UPやUPの石器を誰が製作したのかは、推測となります。この場合、なぜ推測を求めるのか、恐らく考えるべきでしょう。
絶滅人類について「誰なのかという問題」への人類学者の回答は、石器の「製作者」に関する議論の受容次第です。これらの議論が正しいのか間違っているのか証明するには、絶滅人類を観察する必要があるでしょう。したがって、誰かが双方向の旅が可能なタイムマシン(ほぼすべての物理学者が不可能と考えています)を発明しない限り、あるいは発明するまで、恐らくヒト進化の学生は、先史時代のヒトの活動について、「誰なのかという問題」を脇に置いて、代わりに「どのようにという問題」への回答に焦点を当てるべきでしょう。
初期現生人類と、少なくとも一部のネアンデルタール人とデニソワ人は、生存への障害の克服により現代人の祖先になりました。それは、彼らが誰かではなく、彼らがしたことのためです。研究者が依然として、「ロバの尻尾を針で留める(人類を石器インダストリーと合致させる)」よう振舞い続けたいならば、次に種固有の行動の特定に焦点を当て、時空間的にそうした行動の分布を図表化し、次にさまざまな人類間の多様な種類の相互作用が、そうした行動の変化と変動性にどのように影響したのかについて、仮説を提案すべきです。
上述のように、ヨーロッパと中東は、恐らく交雑個体群である人口集団が居住していた、という可能性がひじょうに高そうです。これら交雑個体群の表現型の知識は事実上なく、その拡張された表現型についてはさらに知識がありません。それにも関わらず、表1から、人類の分類群への石器インダストリーの帰属における不確実性が一般的なのは明らかです。したがって、5万~3万年前頃という重要な期間における、ヨーロッパ全域(あるいは実際には他のどこかの場所)での現生人類の拡大の地図と物語について、信用を置くことができません。
ネアンデルタール人が現生人類のUPと類似した技術と関連づけられてきた事例では、たとえばフランスのアルシ・スュル・キュール(Arcy-sur-Cure)遺跡とアルシ・スュル・キュールのトナカイ洞窟(Grotte du Renne)遺跡のシャテルペロニアン(Châtelperronian、シャテルペロン文化)があり、ネアンデルタール人に対する現生人類の認知能力の優位を支持する研究者は、「原始性」もしくは「現代性」という客観的ではない行動の特徴を誤って帰属させ、これらを新たに到来した現生人類によるネアンデルタール人の文化変容の産物としてすぐに解釈してきました。
他の研究者は、これらの石器インダストリーの独立した起源を主張し(関連記事)、ネアンデルタール人に現生人類と同等の認知能力を認め、世界中の現生人類と「古代型のヒト(Archaic Humans)」により採用された技術の種類間の柔軟性の程度を反映している、と考えました。文化変容の解釈にはね二つの大きな問題があります。一方は、考古学においてダリが誰を文化変容させたのか論証できない、ということです。より重要なことに、地層間に挟まった考古学的層位におけるそうした文化変容の受容は長期の共存を示唆するので、思考の独創性以外に、競合的排除による人口置換もしくは現生人類の優位の概念に反することになります。そうだったとしても、長期の重複を考えると、直接的もしくは確実な人口統計学的もしくは競合的影響を明らかに及ぼしませんでした。
トナカイ洞窟におけるネアンデルタール人遺骸の層序的位置には疑問が呈されてきましたが(関連記事)、上述の計測的形質の確率論的性質を考慮すると、トナカイ洞窟の現生人類遺骸の統計的に確証された証拠が依然として弱いことも明らかです。文化変容の議論全体は、層序に疑問を呈されているネアンデルタール人遺骸と、現生人類に帰属させられている、オーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)石器および関連する人工遺物に基づいて行なわれてきました。石器インダストリーを人類の分類群に帰属させる危険性に関する本論文の上述の解説を考えると、文化変容の全体の問題を懐疑的に検討すべきです。
この項目で論じられてきたように、地中海の北部と東部における後期更新世の「文化地理学」について仮説を発展させ検証する考古学者の努力は、特定の石器インダストリーと特定の人類との間の同一視の複雑な寄せ集めに依拠しています。これらの同一視の根底にある複雑さの完全な解釈、その歴史的根拠の再検討、その相対的な強さと弱さの批判的分析は、本論文で利用可能な分量を大幅に超えています。それにも関わらず、そうした研究、じっさいそのうちいくつかは、更新世考古学の優先事項であるべきです。その間に、そうした全ての同一視の妥当性について複数の作業仮説を保持すべきです。
●ネアンデルタール人の消滅と現生人類の到来
現生人類と古代型のヒト(ネアンデルタール人を含みます)との間の、遭遇したさいの相互作用の期間はひじょうに短く、急速な置換につながる現生人類の優位が、置換の支持者により予測されています。ネアンデルタール人の絶滅における現生人類の関与という主張は、ほぼ一般的です。先行研究では、「しかし、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人の時代が、クロマニヨン人(Cro-Magnon)が最初に到来した時に終わったことは明らかです」と指摘されています。他地域と比較してのヨーロッパへの現生人類の遅い侵入はネアンデルタール人の存在に起因していた、との代替説(関連記事)はさほど注目されてきませんでした。実際には、ネアンデルタール人絶滅の主因として現生人類を、あるいは現生人類のヨーロッパへの到来の遅れの主因としてネアンデルタール人を確認することは、考古学的層序だけからは不可能です。考古学的観点からは、両者を区別できません。
ネアンデルタール人の消滅については、「電撃戦」モデルから確率論的過程を経て競合まで、さまざまなシナリオが議論されてきました。競合的排除との主張(関連記事)には、因果関係の論証不可能という根本的問題があります。じっさい、その逆が起きたようです。つまり、急速な置換ではなく、ネアンデルタール人と現生人類は数千年にわたって重複していた、と考えられています。放射性炭素データに基づくと、この重複期間は2600~5400年間と推定されてきましたが(関連記事)、古遺伝学および考古学的データの組み合わせから、より長い期間(関連記事)が示唆され、アルプス山脈の北方における43500年前頃となる初期現生人類の存在も、ヨーロッパにおける長い接触期間を支持する主張に用いられてきました。それにも関わらず、これらの主張は慎重に扱われるべきで、それは、こうした主張がヒト分類群の代理として石器インダストリーに強く依拠しているからです。
さらに、ある遺跡におけるヒト史料の最後の記録された年代は、その遺跡におけるヒト分類群の最後の存在ではなく、むしろその人口集団がかなりの数の化石資料を回収された時を意味する、と考えるべきです。じっさいの消滅は、観察の最後の日の後の長い過程の結果として生じる、と予測されます。同様に、ある遺跡の最初の年代は、最初の到来年代を表すとは限りません。したがって、時間的重複の問題は、たいへん慎重に扱われるべきです。一方、伝学的証拠からは、顕著で広範で長い重複があったに違いない、と確証されています(関連記事)。
全ての遺跡が同等なヒトの存在を表している、との誤解も一般的です。衰退している人口集団は、供給源人口集団からの遺民によってのみ維持されるので、そうした衰退している人口集団が生存する条件が最適とは限りません。ネアンデルタール人が居住していた遺跡の生態学的質の違いは、少なくとも1事例で示されてきました。同時に、入植・消滅モデルでは、どの時点でも、人口統計学的な確率論的消滅の結果として空白地帯のままになるだろう一部の生息可能な地域があるだろう、と予測されています。これは、ある場所にヒトが存在しないのは、その場所が居住に不適だったことを必ずしも示していない、ということを意味しています。したがって、範囲拡大および縮小のモデルは、各遺跡の質とメタ個体群【アレル(対立遺伝子)の交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団】の特徴をまず決定せずに、範囲変化の代理として遺跡を使用できません。
●5万~3万年前頃のヨーロッパと中東の変動する世界における生活
現時点で利用可能なデータの分析から導き出される主な結論は、5万~3万年前頃という長い2万年にわたる期間において、ヨーロッパ中東におけるホモ属人口集団の分散のパターンと過程に関して大きな不確実性がある、というものです。現生人類はヨーロッパに、45000~40000年前頃のある時点で侵入しましたか?5万年前頃以前にヨーロッパに居住していたのはネアンデルタール人だけだった、と仮定するならば、次に、他の非ネアンデルタール人であるホモ属人口集団のその後の存在は外部からの到来に違いない、と認めるのが論理的でしょう。仮にそうならば、最節約的な説明は、中東からの、直接的にヨーロッパか、遠回りにアジア中央部を経由での地理的拡大を主張するでしょう。ジブラルタル海峡の横断は証明されていません。
しかし、現生人類に帰属させられるホモ属人口集団が、ヨーロッパにそれ以前に存在した可能性はあるでしょうか?現生人類と関連すると主張された形態の人口集団の存在は、モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡では30万年以上前(関連記事)、中東では194000~177000年前頃(関連記事)、ギリシアでは21万年以上前となり(関連記事)、ヨーロッパにおける初期現生人類の存在が事実だったかもしれない可能性を示唆しています。これまでのところ最良の証拠は、現生人類のY染色体のネアンデルタール人への37万~10万年前頃となる最近の遺伝子移入で(関連記事)、これは人類分類群間の接触が5万年以上前に起きていたことを示唆しています。これにより、ヨーロッパに存在した5万年以上前のホモ属人口集団がネアンデルタール人のみではなく、交雑個体群も含まれており、まず確実に現生人類も含んでいた、という可能性がひじょうに高くなります。
中東からヨーロッパへの現生人類の45000年前頃の侵入の証拠は、東方から西方へのこの空間的分散の明確な年代順の論証に基づくでしょう。IUPはひとまとめにされていますが、技術類型学的類似以外に、全て同じ人類により製作されていた証拠はありません。じっさい、さまざまなIUPインダストリーの年代範囲の比較(表1および図1)は、ヨーロッパ南東部から中東への拡散を意味する、と同様に解釈できます。これは、ヨーロッパから中東への「逆移動」を表すと考えられている、レヴァントオーリナシアンと類似していません(関連記事)。他の研究者は、IUPはヨーロッパ西部には到達しなかった、部分的に成功した現生人類の拡大を表している、と提案してきました。
さらなる代替案として、IUPは、ヨーロッパ南東部とトルコとレヴァントにおいて48000~38000年前頃に人類が変化する環境的要因の状況に対処していた方法を表している、という可能性があります。それは、ヨーロッパ全域(北西部と東部および中央部とイタリア半島とバルカン半島とフランス南西部とスペイン北部)での同時の類似した対応にとって地理的な代替とみなされ、移行期インダストリーにより表されるでしょう。プロトオーリナシアンインダストリーの「一群」は、同じ時間的枠組み内での代替的対応を表しているのでしょうが、この地理的領域の南部に集中しており、具体的には、レヴァントとトルコのアハマリアン(Ahmarian、アハマル文化)、ブルガリアにおけるバチョキリアン(Bachokirian、バチョキロ文化)に続くコザーニキアン(Kozarnikian、コザーニカ文化)、イタリア北部とフランス南部とスペイン北部のプロトオーリナシアンです(表1および図1)。ムステリアンとオーリナシアンは、部分的に時空間的に重複したインダストリーとして現れるでしょう。このシナリオは、どう想像しても、ネアンデルタール人を犠牲にしての東西の地理的な現生人類拡大の明確な兆候として見ることはできません。
先行研究により提案されたように、変化する環境条件へのヨーロッパと中東の人類(ネアンデルタール人と現生人類と交雑個体群)による地域的な適応は、自然地理的境界に沿って強調されており、より節約的で生物学的に意味のある解釈です。それは大まかには、海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)3のヨーロッパと中東の大半を覆っていた、開けたツンドラと草原地帯と砂漠の環境、および斑状の生息の利用への適応の必要性への対応として、軽量で長い射程の投射技術の使用の増加に対応するようです。そうしたインダストリーは、「向上したエネルギー捕獲/保存のための技術的強化」の事例と見ることができるかもしれません。
急速で確率論的に変動する環境も、共存と交雑および交雑地帯の促進、およびその結果としての新たな環境の入植者もしくは急速な生態学的変化に局所的に持続する入植者への適応的優位が伴うことを予測します。したがって、5万~3万年前頃のヨーロッパと中東の激しく変動する状況で観察されたことが、実験につながる広範な生物学的および文化的交流である可能性はひじょうに高そうです。それには、成功(人口統計学的および地理的拡大という形で)と失敗(人口統計学的および地理的縮小と消滅)が含まれます。
じっさい、中東における長期の確証された動態が裏づけていると見えるように、フランス地中海地域のマンドリン洞窟において、明らかなネアンデルタール人→現生人類→ネアンデルタール人の置換が起きました(関連記事1および関連記事2)。このシナリオでは、交雑と文化的交流を、新規変異の自然選択もしくは独立した発明のより遅い過程の代替としての急速な調整を提供する、一般的な適応度普及への寄与者とみなすことができます。
この物語の裏側を提供するのは、イベリア半島です。極北のヨーロッパシベリア地帯以外に、全てのIUPと移行期インダストリーとプロトオーリナシアン群インダストリーがイベリア半島に存在しないことは、ヨーロッパと中東の他地域とは対照的です。地中海と大西洋の沿岸地域であるイベリア半島では、MIS3の変化によるヨーロッパの他地域の影響は祭祀用減で、森林性および半森林性の生息地と待ち伏せ狩猟戦略の利用と関連している石器インダストリーである、ムステリアンの残存製作者が居住していました(関連記事1および関連記事2)。類似の状況は5万年以上前のアジア南部および東部で起きていたようで、そこでは温暖湿潤な生息地が、使用石器で大きな変化を示さない拡散してきた人類に困難をもたらすこことはなく、ユーラシア北部の状況とは対照的です。
寒冷で乾燥したイベリア半島中央台地(メセタ)は、時としてヨーロッパシベリア地帯の延長となり、MIS3には哺乳類の寒冷動物相が侵入しましたが、一方で、この時にはほぼ無人でした。この広範なメセタの端に居住する少数の人類は、驚くべきことでありませんが、オーリナシアンインダストリーを製作したようです(関連記事)。41100~38100年前頃となるこの孤立した存在は、人類の帰属が推測のみとしても、イベリア半島中央部への現生人類の急速な西方への拡大の証拠として解釈されてきました。同様に妥当な代替案は、イベリア半島の早期オーリナシアンは変化するMIS3の世界の端における変動する環境への人類の適応のさらに別の事例である、というものです。このイベリア半島のオーリナシアンより後の年代に最初に出現したレヴァントオーリナシアンも(関連記事)、ヨーロッパからの人々の移動ではなく、変化する環境への局所的な適応として解釈できます。
イベリア半島南部におけるネアンデルタール人の最期の生存に関する現在の議論(関連記事)は、依然として未解決です。2014年の研究(関連記事)によるイベリア半島南部における後期ネアンデルタール人の年代測定は、ネアンデルタール人が散発的に居住しただけの山岳地帯の単一の遺跡に限定されているので、より広範な地域的状況について確実性は不充分です。別のイベリア半島の遺跡におけるオーリナシアンの推定される初期の存在、つまりイベリア半島最南端となるスペインのマラガ(Málaga)県近くのバホンディージョ洞窟(Bajondillo Cave)の事例は、同様に初期のネアンデルタール人消滅の証拠とみなされてきました(関連記事)。この証拠は、混合した層序と診断できない技術の結果として、疑われてきました(関連記事)。
さらなる過誤は、1ヶ所におけるオーリナシアンの存在(現生人類と同等視されます)は地域全体のムステリアン(ネアンデルタール人と同等視されます)の消滅を示しているに違いない、との推定にあります。本論文で再検討されてきたように、地域規模の人口置換の永続的見地が薄弱であることを示す、充分な証拠があります。代わりに、現時点で利用可能な証拠から、中期更新世のホモ属と現生人類との間の文化および遺伝的接触と交流は中東においてすでに14万~12万年前頃には起きていた(関連記事)、と示唆されます。
●まとめ
数十年にわたって文献で優勢だったヒトの起源に関する二つの競合モデルは、今では消滅しています。とくに過去10年間の、化石と堆積物の古代DNAの抽出および研究の手法における進展により、ユーラシア西部およびそれを越えて、ヒト(ホモ属)人口集団と後期更新世の系統間の複雑な関係の表面をなぞることが可能になりました。これら先駆的な研究はとくに、さまざまな人口集団と系統との間で起きた混合の高度な程度と頻度を明らかにしつつあります。
避けられない結論は、ユーラシアの後期更新世の人口集団は高度に混合していた、という認識です。それは、少数の化石や化石遺跡や多数の考古学的遺跡(おもに石器)に基づいて「ヒト種」の相互作用を図示する、30年以上にわたる標準的な手順である試みが、もはや確信をもって見ることはできない、ということになります。
ヒト起源の研究では、明らかな枠組みの変化を目の当たりにしています。ヒト種の移動の年代と範囲、現生人類の他種への優位、恐らくは起きなかった消滅の時期に関する歴史物語は最終的に、焦点が人口集団の生物学と文化および時空間的なその相互作用の性質を見ることに移るにつれて、最終的に崩れつつあります。今や、「我々の内側のネアンデルタール人」の現実だけではなく、「ネアンデルタール人の内側の我々」の現実も受け入れねばなりません。
参考文献:
Finlayson M. et al.(2023): Close encounters vs. missed connections? A critical review of the evidence for Late Pleistocene hominin interactions in western Eurasia. Quaternary Science Reviews, 319, 108307.
https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2023.108307
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