中国南西部の後期新石器時代遺跡の人類のゲノムデータ(追記有)
中国南西部の後期新石器時代遺跡の人類のゲノムデータを報告した研究(Tao et al., 2023)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、雑穀と稲作の混合農耕が行なわれていた中国南西部の後期新石器時代の高山(Gaoshan)および海門口(Haimenkou)という遺跡2ヶ所の人類遺骸のゲノムの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が、約90%は新石器時代黄河農耕民関連で、残りはアジア南東部のホアビン文化(Hoabinhian)関連狩猟採集民だったのに対して、福建省の前期新石器時代遺跡で発見された個体により表される初期稲作農耕民関連が見つからなかったことを示しました。これは、本論文でも指摘されている、現在の中国において、北部における中期~後期新石器時代の稲作農耕の痕跡増加が、北部の中期~後期新石器時代個体群のゲノムにおける初期稲作農耕民関連の遺伝的構成要素の増加と相関していることとは対照的で、農耕も含めて文化と集団の遺伝的構成との関係が一様ではなかったこと(関連記事)を改めて示しているように思います。
●要約
中国南西部の研究は、新石器時代以来のこの地域における雑穀とイネの共存のため、農耕の拡散と発達の理解にきわめて重要です。しかし、中国南西部における新石器時代への移行過程は、おもに新石器時代の古代DNAの欠如のため、ほとんど知られていません。本論文は、雑穀と稲作の混合農耕が行なわれていた、4500~3000年前頃となる中国南西部の高山および海門口遺跡の11点のヒト標本から得られたゲノム規模データを報告します。古代人2集団はその祖先系統の約90%が新石器時代黄河農耕民に由来し、中国南西部への雑穀農耕の人口拡散が示唆されます。残りの祖先系統はホアビン文化関連狩猟採集民系統に由来する、と推測されました。この古代人2集団では稲作関連祖先系統が検出されず、この古代人2集団は遺伝的同化なしに稲作農耕を導入した可能性が高い、と示唆されます。しかし、一部の現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団の形成では、稲作農耕民関連祖先系統が観察されました。本論文の結果は、中国南西部の一部では新石器時代の混合農耕の発展において、人口と文化両方の拡散が起きたことを示唆します。
●標本の文脈と配列決定
黄河流域にはアジア東部における最初の独立した農耕革命があり、早くも較正年代で10300~8700年前頃にはアワとキビ両方の工作が行なわれていました。その後、黄河中流域の仰韶(Yangshao)文化の拡大が生計慣行に大きな変化をもたらし、雑穀農耕が主要な戦略として現れました。この農耕パターンは、中国北部の黄河や西遼河から中国南西部を含めて広範な地域に広がりました。雑穀農耕の影響はチベット高原北東部に到達し(関連記事)、その南端では、台湾島とアジア南東部本土にまで分布しました。
最近の古代DNA研究では、雑穀農耕は在来の狩猟採集民をほぼ置換した黄河流域から拡大してきた農耕民によりチベット高原および西遼河地域にもたらされたかもしれず、中国北部における雑穀農耕の人口拡散形態が示唆されました。しかし、中国南西部における新石器時代への移行パターンは、雑穀とイネ両方での混合農耕が行なわれていたことから、より複雑かもしれません。稲作農耕は6900~6000年前頃に長江流域に出現した、と提案されており、その後、中国南東部の古代の住民と関連する遺伝的系統により、中国南部とアジア南東部本土を含む広大な地域に広がりました(関連記事1および関連記事2)。
中国南西部では、5300~4600年前頃の営盤山(Yingpanshan)が雑穀農耕生活様式の最初の遺跡で、彩色土器や四角の家屋やよく組織された集落パターンで構成される典型的な文化的一括を、黄河上流~中流域の仰韶文化および馬家窯(Majiayao)文化と共有していました。比較すると、4500~3700年前頃となる四川盆地の後期宝墩(Baodun)文化には、後期新石器時代の長江中流域の稲作関連文化の追加の特徴があります。同様に、4600~4000年前頃となる、イネと雑穀両方の農耕生活様式を有する四川盆地で見られるのと同じ農耕社会のパターンがある雲南・貴州高原における最初の農耕慣行は、その文化的起源を黄河上流~中流域および中国南東部沿岸の新石器時代文化にたどることができます。したがって、中国南西部はユーラシア東部におけるイネと雑穀の混合農耕の拡大および南北の文化の相互作用を理解するのに重要です。しかし、中国南西部の新石器時代真子の遺伝的データの欠如のため、雑穀農耕および雑穀とイネの混合農耕の発展が、中核的な農耕中心地である黄河上流~中流域からの移民関わっていたのかどうか、およびどの程度関わっていたのか、不明なままです。
本論文は、中国南西部の後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)から中期青銅器時代(Middle Bronze Age、略してMBA)の高山および海門口とよばれる2ヶ所の代表的な遺跡(図1A)で発見された古代人標本から得られたゲノム規模データの最初の一群を報告し、雑穀農耕の南方への拡大の理解における間隙を埋めます。二本鎖DNAライブラリ(DNAの網羅的収集)が調整され、古代核DNA捕獲技術が用いられて、4500~2600年前頃となる89点の標本全てで内在性DNAが濃縮されました。以下は本論文の図1です。
11個体が死後DNA損傷パターンの選別に合格し、高網羅率で、その内訳は、四川省の宝墩文化の高山遺跡が5個体、雲南省の海門口遺跡が6個体です。各遺跡の標本は遺伝的に、qpWave分析における単一の供給源に由来する祖先系統と一致します(図2A)。高山および海門口が2ヶ所の離れた遺跡で、異なる期間に属することを考慮して、この2ヶ所の遺跡が別々の集団とみなされ、以後の集団遺伝学的分析では、高山_LNおよび海門口_BA(青銅器時代)と命名されます。
●中国南西部と黄河の人口集団間の遺伝的類似性
主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では(図1B)、中国南西部の2つの農耕集団である高山_LNと海門口_BAはともにクラスタ化し(まとまり)、古代の黄河とチベットの人口集団間に投影されました。この結果から、中国南西部の古代人2集団(高山_LNと海門口_BA)は黄河上流域の後期新石器時代個体群(黄河上流_LN)および2125~1500年前頃となるヒマラヤ山脈南麓のメブラク(Mebrak)およびサムヅォング(Samdzong)遺跡集団(関連記事)とより密接な関係を有していた、と示唆されます。同様に、これら2集団(高山_LNと海門口_BA)は教師なしADMIXTURE分析で類似のパターンを示し、古代中国南部人口集団で最大化される黄色の構成要素と、古代チベット人で最大化される橙色の構成要素を有しています。新石器時代黄河農耕人口集団でも、類似の遺伝的特性が観察されました。
次に、中国南西部と黄河流域の集団間の遺伝的関係が外群f₃統計で調べられました。以前の分析と一致してf₃(X、Y;ムブティ人)では、中国南西部古代人集団は他の参照人口集団(たとえば黄河上流_LNや黄河_中期新石器時代)と比較して、黄河農耕民と最も多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた、と示されます。同様に、f₄(ムブティ人、黄河;高山/海門口、黄河関連祖先系統を高水準で有していないアジア東部古代人)とf₄(ムブティ人、黄河関連祖先系統を高水準で有していないアジア東部古代人;高山/海門口、黄河)は、この遺伝的類似性を確証します。黄河農耕民がf₄(ムブティ人、黄河;高山、海門口)では海門口よりも高山の方とわずかに多くのアレルを共有していた、との示唆的証拠が見つかりました。
中国南西部集団は、人口集団Xとして黄河農耕民を除くアジア東部古代人が用いられると、f₄(ムブティ人、チベット古代人;高山/海門口、X)とf₄(ムブティ人、高山/海門口;チベット古代人、X)の有意な負の値により示唆されるように、古代チベット人口集団とより多くのアレルを共有していました。f₄(ムブティ人、高山/海門口;チベット古代人、黄河)の値の大半は正と分かり、中国南西部古代人集団は古代チベット農耕民とよりも黄河農耕民の方と多くのアレルを共有していた、と示唆されます。f₄統計の計算にのみ異性塩基対置換(transversion、プリン塩基、つまりアデニンおよびグアニンと、ピリミジン塩基、つまりシトシンとチミンとの間の置換)の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)を用いると、一貫した結果を得ることができます。
これらの観察に基づいてqpWave手法が使用され、中国南西部と黄河の農耕民が単一の遺伝的供給源に由来することと一致するのかどうか、形式的に検証されました。しかし、図2Bで示されるように、全モデルはp値0.023未満で却下されました(高山および黄河_中期新石器時代)。中国南西部集団は、f₄(ムブティ人、ラオスのホアビン文化個体;高山/海門口、黄河)の負の値で示されるように、追加のホアビン文化関連祖先系統を受け取った可能性が高い、と分かりました。ホアビン文化関連個体が供給源に追加され、潜在的な深い系統からのモデル化されていないかもしれない祖先系統を説明するため、2方向モデルが構築されました。その結果、中国南西部集団はqpAdm(図3A)およびqpGraph分析(図2C・D)で、黄河関連祖先系統が約90%(高山では92.1±3%、海門口では88.7±3%)とホアビン文化関連祖先系統が約10%(高山では7.9±3%、海門口では11.3±3%)でモデル化に成功しました。以下は本論文の図2です。
この黄河雑穀農耕民関連祖先系統は、中国北部の黄河上流_LN黄河_中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)個体群と中国南部の高山および海門口遺跡個体群との遺伝的つながりを明らかにします。本論文は、中国南西部に居住し、イネと雑穀の混合農耕を行なっていた人々への最初のゲノム洞察を提供し、黄河上流~中流域の雑穀農耕の人口拡散を提示します。以前の遺伝学的研究は、先住の狩猟採集民における深く分岐したアジアの祖先系統を明らかにしており、それは8000~4000年前頃のホアビン文化の標本により表されます(関連記事)。ホアビン文化は中国南西部とアジア南東部本土に、早くも43500年前頃には存在していました。
ホアビン文化関連祖先系統は、8335~6400年前頃となる中国南西部の広西チワン族自治区の包󠄁家山(Baojianshan)遺跡の古代人標本でも検出されており(関連記事)、ホアビン文化関連祖先系統の範囲がアジア南東部本土から中国南部へと広がっていた、と示唆されます。本論文の分析から、ホアビン文化関連祖先系統は中国南西部で存続していたかもしれないか、アジア南東部本土から中国南西部へと遅くとも4500年前頃には拡大し、中国南西部における後期新石器時代人口集団の形成に加わった、と示されます。高山遺跡のヒト標本は成都高原で発見された最古の骨格だったので、四川省と雲南省の代表的な新石器時代より前の遺跡の古代人ゲノムの欠如が、狩猟採集民から農耕民への最初の遺伝的移行についての研究を制約したことに要注意です。
●中国南西部における稲作農耕民関連祖先系統の追跡
現在の中国南西部人口集団の遺伝的特性は、おもに現在のチベット・ビルマ語派およびタイ・カダイ語族話者人口集団と関連する祖先系統が支配的です。チベット・ビルマ語派話者関連祖先系統は、高山遺跡では少なくとも4600年前頃までたどれます。一方、中国南部におけるタイ・カダイ語族話者とオーストロネシア語族話者関連祖先系統の広範な分布は、稲作農耕民の新石器時代の拡大に起因するかもしれず、中国南西部には遅くとも1500年前頃以降に存在していました(関連記事)。しかし、中国南西部における6400~1500年前頃の古代人ゲノムの欠如のため、いつ稲作農耕と関連する祖先的系統がこの地域に到達したのか、不明なままです。
考古学的証拠は、高山および海門口遺跡における雑穀およびイネ遺骸の共存を示しました。しかし、中国南西部と福建省および広西チワン族自治区の稲作農耕民との間の遺伝的混合の有意な証拠は見つかりませんでした。f₄(ムブティ人、X;高山/海門口、Y)の値は、X人口集団(12集団)として建省および広西チワン族自治区の古代人標本を、Y人口集団としてほとんどのアジア東部古代人(35集団)を用いると、正でした。本論文の分析では、157回の検定で2超のZ得点を示しましたが、487回の検定では-2~2の範囲内で値が返されました。-2未満のZ得点の他の集団は、おもに深いアジア祖先系統もしくはアルタイ南部地域のチェムルチェク(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化などユーラシア西部に地理的により近い地域の古代の人口集団を表していました。さらに、古代の中国南西部の2集団(高山_LNと海門口_BA)は、外群に稲作農耕関連の古代の亮島(Liangdao)遺跡(福建省)を含めた場合でさえ、黄河農耕民とホアビン文化狩猟採集民との間の2方向混合として適合します(図3A)。以下は本論文の図3です。
後期新石器時代の高山および海門口遺跡を含めて、中国南西部の遺跡で発見されたほぼ全てのイネの種子はジャポニカ種と同定されており、これは、長江中流~下流域の遺跡で見つかった遺骸と一致し、アジア東部におけるジャポニカ米の単一の栽培化を確証します。この証拠からさらに、長江中流および下流域は栽培されたイネの起源地で栽培化の中心地だった可能性が最も高い、と裏づけられます。より広く、遺跡から、長江上流域は後期新石器時代以来、中国南西部の中程度の標高の雲南・貴州高原への混合農耕関連文化導入にきわめて重要だった、と示唆されます。この文化的影響はその後、前期青銅器時代(Early Bronze Age、略してEBA)に中国南西部およびアジア南東部本土全域に広がりました。
以前の系統発生的研究では、アジア南東部本土へのジャポニカ米の移動は4000~3000年前頃に起きた、と示されており、これは、ジャポニカ米が中国南西部地域経由でアジア南東部本土へと広がったかもしれない、という補足的なゲノム証拠を提供しました。興味深いことに、本論文の結果から、後期新石器時代から青銅器時代の高山および海門口遺跡の人々の遺伝的形成は稲作農耕民関連祖先系統と直接的には関係していなかった、と示されるものの、これらの農耕民は主要な植物栄養源としてイネ関連のC3植物を消費していました。
高山および海門口遺跡について記載された人口統計学的パターンは、中期~後期新石器時代において稲作農耕の増加が目立つことと一致する、中国北部における遺伝的変化(関連記事)とは顕著な対照を示します。とくに、イネの栽培への依存度増加は、後期新石器時代までの黄河流域の人口集団における中国南東部とのより高い遺伝的類似性と関連しています。しかし、中国南西部における高山および海門口遺跡の観察は、アジア東部における人口拡散に基づく稲作農耕の拡大パターンから逸脱しています。高山遺跡関連および宝墩文化は、中国北部の黄河流域農耕民の移動における単なる移行点ではなく、むしろ、雑穀農耕民が稲作農耕関連の概念や作物や技術を、有意な遺伝的混合なしで、稲作農耕人口集団とともに採用した、重要な中継地でした。この稲作農耕民の影響がない雑穀農耕関連祖先系統は、海門口遺跡の個体群の遺伝的データで示されるように、後期新石器時代から青銅器時代まで1000年以上持続しました。
しかし、この期間の中国南西部には多くの遺跡があり、この地域の人口集団が複雑な遺伝的構成を有していたかもしれないことに要注意です。わずか2ヶ所の遺跡の結果に基づいて、中国南西部への稲作農耕拡散の文化拡散モデルを排他的には主張できません。稲作農耕民関連祖先系統を有する遺跡が、中国南西部では新石器時代に存在したかもしれません。推測ですが、もう一つの可能性は、稲作農耕が黄河流域から高山および海門口遺跡まで稲作農耕関連祖先系統を有さない雑穀農耕民によりもたらされた、ということです。混合農耕が中国南西部でどのように形成されたのか、より深く理解するには、さらなる標本抽出が必要でしょう。
●現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団の遺伝的形成
中国南西部と古代および現在のチベットの人口集団間の遺伝的類似性の観察から、黄河農耕民関連祖先系統は中国南西部の高地および低地の古代人全体に少なくとも後期新石器時代以降共有されていた、と示唆され、これは黄河上流~中流域からチベット高原への移住と一致します(関連記事)。チベット高原の他に、ほとんどの現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団はおもに中国南西部の四川省と雲南省に居住しています。本論文は、四川省と雲南省の代表的な現在の先住民族集団を分析し、稲作と関連する系統との遺伝的類似性があったのかどうか、調べました。
主成分(PC)空間では、中国南西部古代人集団は現代および古代のアジア南東部と中国南部の視野から離れているように見えます。さらに、中国南西部集団と過剰なアレルを共有していた、比較的孤立している人口集団であるプミ人(Pumi)が見つかり、つまりは、人口集団Xとしてアジア南東部本土もしくは中国南部の古代人集団を用いると、f₄(ムブティ人、プミ人;高山/海門口、X)が負の値で、Z得点の範囲が-2~-3です。一方、バイ人(Bai)とハニ人(Hani)は、正ではあるもののZ得点の範囲が0.313~2.666と有意ではないf₄(ムブティ人、プミ人;高山/海門口、X)値に基づくと、黄河農耕民とのより多くのアレル共有の示唆的な証拠を示します。
雲南省のバイ人およびプミ人と貴州省の漢人は一貫して、qpWave分析ではその祖先系統の全てが高山および海門口遺跡個体群に由来しました。しかし、ハニ人およびラフ人(LaHu)集団の形成には、稲作農耕民関連系統からの追加の遺伝子流動が必要でした。たとえば遺伝的構成要素は、ハニ人が約70%の海門口遺跡個体群と約30%のベトナム_LNで、ラフ人が約50%の海門口遺跡個体群と約50%のベトナム_LNでモデル化できます。一方、四川省のチアン人(Qiang)やナシ人(Naxi)やイ人(Yi)と雲南省のチベット人は、その祖先系統の10~20%が台湾先住民のタイヤル人(Atayal)関連祖先系統に由来する、と示唆されました(図3B)。
中国南西部における現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団の形成は、支配的な黄河/中国南西部関連祖先系統を有する雑穀農耕民の拡大と密接に関連していた、と示されます。この調査結果は、中国北部の後期新石器時代農耕民と中国南西部の現在の人口集団との間の、以前に報告された遺伝的類似性の地理的枠組み(関連記事)を拡張します。中国南西部の現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団は、南北の遺伝的勾配により特徴づけられます(図1B)。北部チベット・ビルマ語派話者人口集団は海門口遺跡に近い雲南・貴州高原の北西部に暮らしており、高山および海門口遺跡の古代人と区別できません。他の北部チベット・ビルマ語派話者人口集団(イ人やナシ人やチアン人や雲南省チベット人)は、南部チベット・ビルマ語派話者人口集団(ハニ人やラフ人)と比較すると、黄河/中国南西部古代人とより多くのアレルを共有しています。この観察から、稲作農耕民関連の新石器時代の遺伝的祖先系統は、中国南西部の北部から南部地域へとチベット・ビルマ語派話者人口集団に広範に拡大した、と示唆されます。この広範な遺伝的分布は、中国南東部およびアジア南東部本土からこの地域への数千年間によたる人口拡散の結果である可能性が高そうです。
まとめると、雑穀農耕関連の黄河流域の遺伝的特性はおもに、イネと雑穀の混合農耕を有する生計戦略における変化にも関わらず、中国南西部において後期新石器時代農耕民の遺伝子プールに保存されていました。本論文の結果は、シナ・チベット語族人口集団に関する「北方起源仮説」(関連記事)も裏づけます。現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団の遺伝的特性は、黄河/中国南西部古代人と中国南東部古代人の両方からの遺伝子流動により形成されました。
参考文献:
Tao L. et al.(2023): Ancient genomes reveal millet farming-related demic diffusion from the Yellow River into southwest China. Current Biology, 33, 22, 4995–5002.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.09.055
追記(2024年3月24日)
本論文の解説記事をブログで取り上げました。
●要約
中国南西部の研究は、新石器時代以来のこの地域における雑穀とイネの共存のため、農耕の拡散と発達の理解にきわめて重要です。しかし、中国南西部における新石器時代への移行過程は、おもに新石器時代の古代DNAの欠如のため、ほとんど知られていません。本論文は、雑穀と稲作の混合農耕が行なわれていた、4500~3000年前頃となる中国南西部の高山および海門口遺跡の11点のヒト標本から得られたゲノム規模データを報告します。古代人2集団はその祖先系統の約90%が新石器時代黄河農耕民に由来し、中国南西部への雑穀農耕の人口拡散が示唆されます。残りの祖先系統はホアビン文化関連狩猟採集民系統に由来する、と推測されました。この古代人2集団では稲作関連祖先系統が検出されず、この古代人2集団は遺伝的同化なしに稲作農耕を導入した可能性が高い、と示唆されます。しかし、一部の現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団の形成では、稲作農耕民関連祖先系統が観察されました。本論文の結果は、中国南西部の一部では新石器時代の混合農耕の発展において、人口と文化両方の拡散が起きたことを示唆します。
●標本の文脈と配列決定
黄河流域にはアジア東部における最初の独立した農耕革命があり、早くも較正年代で10300~8700年前頃にはアワとキビ両方の工作が行なわれていました。その後、黄河中流域の仰韶(Yangshao)文化の拡大が生計慣行に大きな変化をもたらし、雑穀農耕が主要な戦略として現れました。この農耕パターンは、中国北部の黄河や西遼河から中国南西部を含めて広範な地域に広がりました。雑穀農耕の影響はチベット高原北東部に到達し(関連記事)、その南端では、台湾島とアジア南東部本土にまで分布しました。
最近の古代DNA研究では、雑穀農耕は在来の狩猟採集民をほぼ置換した黄河流域から拡大してきた農耕民によりチベット高原および西遼河地域にもたらされたかもしれず、中国北部における雑穀農耕の人口拡散形態が示唆されました。しかし、中国南西部における新石器時代への移行パターンは、雑穀とイネ両方での混合農耕が行なわれていたことから、より複雑かもしれません。稲作農耕は6900~6000年前頃に長江流域に出現した、と提案されており、その後、中国南東部の古代の住民と関連する遺伝的系統により、中国南部とアジア南東部本土を含む広大な地域に広がりました(関連記事1および関連記事2)。
中国南西部では、5300~4600年前頃の営盤山(Yingpanshan)が雑穀農耕生活様式の最初の遺跡で、彩色土器や四角の家屋やよく組織された集落パターンで構成される典型的な文化的一括を、黄河上流~中流域の仰韶文化および馬家窯(Majiayao)文化と共有していました。比較すると、4500~3700年前頃となる四川盆地の後期宝墩(Baodun)文化には、後期新石器時代の長江中流域の稲作関連文化の追加の特徴があります。同様に、4600~4000年前頃となる、イネと雑穀両方の農耕生活様式を有する四川盆地で見られるのと同じ農耕社会のパターンがある雲南・貴州高原における最初の農耕慣行は、その文化的起源を黄河上流~中流域および中国南東部沿岸の新石器時代文化にたどることができます。したがって、中国南西部はユーラシア東部におけるイネと雑穀の混合農耕の拡大および南北の文化の相互作用を理解するのに重要です。しかし、中国南西部の新石器時代真子の遺伝的データの欠如のため、雑穀農耕および雑穀とイネの混合農耕の発展が、中核的な農耕中心地である黄河上流~中流域からの移民関わっていたのかどうか、およびどの程度関わっていたのか、不明なままです。
本論文は、中国南西部の後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)から中期青銅器時代(Middle Bronze Age、略してMBA)の高山および海門口とよばれる2ヶ所の代表的な遺跡(図1A)で発見された古代人標本から得られたゲノム規模データの最初の一群を報告し、雑穀農耕の南方への拡大の理解における間隙を埋めます。二本鎖DNAライブラリ(DNAの網羅的収集)が調整され、古代核DNA捕獲技術が用いられて、4500~2600年前頃となる89点の標本全てで内在性DNAが濃縮されました。以下は本論文の図1です。
11個体が死後DNA損傷パターンの選別に合格し、高網羅率で、その内訳は、四川省の宝墩文化の高山遺跡が5個体、雲南省の海門口遺跡が6個体です。各遺跡の標本は遺伝的に、qpWave分析における単一の供給源に由来する祖先系統と一致します(図2A)。高山および海門口が2ヶ所の離れた遺跡で、異なる期間に属することを考慮して、この2ヶ所の遺跡が別々の集団とみなされ、以後の集団遺伝学的分析では、高山_LNおよび海門口_BA(青銅器時代)と命名されます。
●中国南西部と黄河の人口集団間の遺伝的類似性
主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では(図1B)、中国南西部の2つの農耕集団である高山_LNと海門口_BAはともにクラスタ化し(まとまり)、古代の黄河とチベットの人口集団間に投影されました。この結果から、中国南西部の古代人2集団(高山_LNと海門口_BA)は黄河上流域の後期新石器時代個体群(黄河上流_LN)および2125~1500年前頃となるヒマラヤ山脈南麓のメブラク(Mebrak)およびサムヅォング(Samdzong)遺跡集団(関連記事)とより密接な関係を有していた、と示唆されます。同様に、これら2集団(高山_LNと海門口_BA)は教師なしADMIXTURE分析で類似のパターンを示し、古代中国南部人口集団で最大化される黄色の構成要素と、古代チベット人で最大化される橙色の構成要素を有しています。新石器時代黄河農耕人口集団でも、類似の遺伝的特性が観察されました。
次に、中国南西部と黄河流域の集団間の遺伝的関係が外群f₃統計で調べられました。以前の分析と一致してf₃(X、Y;ムブティ人)では、中国南西部古代人集団は他の参照人口集団(たとえば黄河上流_LNや黄河_中期新石器時代)と比較して、黄河農耕民と最も多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた、と示されます。同様に、f₄(ムブティ人、黄河;高山/海門口、黄河関連祖先系統を高水準で有していないアジア東部古代人)とf₄(ムブティ人、黄河関連祖先系統を高水準で有していないアジア東部古代人;高山/海門口、黄河)は、この遺伝的類似性を確証します。黄河農耕民がf₄(ムブティ人、黄河;高山、海門口)では海門口よりも高山の方とわずかに多くのアレルを共有していた、との示唆的証拠が見つかりました。
中国南西部集団は、人口集団Xとして黄河農耕民を除くアジア東部古代人が用いられると、f₄(ムブティ人、チベット古代人;高山/海門口、X)とf₄(ムブティ人、高山/海門口;チベット古代人、X)の有意な負の値により示唆されるように、古代チベット人口集団とより多くのアレルを共有していました。f₄(ムブティ人、高山/海門口;チベット古代人、黄河)の値の大半は正と分かり、中国南西部古代人集団は古代チベット農耕民とよりも黄河農耕民の方と多くのアレルを共有していた、と示唆されます。f₄統計の計算にのみ異性塩基対置換(transversion、プリン塩基、つまりアデニンおよびグアニンと、ピリミジン塩基、つまりシトシンとチミンとの間の置換)の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)を用いると、一貫した結果を得ることができます。
これらの観察に基づいてqpWave手法が使用され、中国南西部と黄河の農耕民が単一の遺伝的供給源に由来することと一致するのかどうか、形式的に検証されました。しかし、図2Bで示されるように、全モデルはp値0.023未満で却下されました(高山および黄河_中期新石器時代)。中国南西部集団は、f₄(ムブティ人、ラオスのホアビン文化個体;高山/海門口、黄河)の負の値で示されるように、追加のホアビン文化関連祖先系統を受け取った可能性が高い、と分かりました。ホアビン文化関連個体が供給源に追加され、潜在的な深い系統からのモデル化されていないかもしれない祖先系統を説明するため、2方向モデルが構築されました。その結果、中国南西部集団はqpAdm(図3A)およびqpGraph分析(図2C・D)で、黄河関連祖先系統が約90%(高山では92.1±3%、海門口では88.7±3%)とホアビン文化関連祖先系統が約10%(高山では7.9±3%、海門口では11.3±3%)でモデル化に成功しました。以下は本論文の図2です。
この黄河雑穀農耕民関連祖先系統は、中国北部の黄河上流_LN黄河_中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)個体群と中国南部の高山および海門口遺跡個体群との遺伝的つながりを明らかにします。本論文は、中国南西部に居住し、イネと雑穀の混合農耕を行なっていた人々への最初のゲノム洞察を提供し、黄河上流~中流域の雑穀農耕の人口拡散を提示します。以前の遺伝学的研究は、先住の狩猟採集民における深く分岐したアジアの祖先系統を明らかにしており、それは8000~4000年前頃のホアビン文化の標本により表されます(関連記事)。ホアビン文化は中国南西部とアジア南東部本土に、早くも43500年前頃には存在していました。
ホアビン文化関連祖先系統は、8335~6400年前頃となる中国南西部の広西チワン族自治区の包󠄁家山(Baojianshan)遺跡の古代人標本でも検出されており(関連記事)、ホアビン文化関連祖先系統の範囲がアジア南東部本土から中国南部へと広がっていた、と示唆されます。本論文の分析から、ホアビン文化関連祖先系統は中国南西部で存続していたかもしれないか、アジア南東部本土から中国南西部へと遅くとも4500年前頃には拡大し、中国南西部における後期新石器時代人口集団の形成に加わった、と示されます。高山遺跡のヒト標本は成都高原で発見された最古の骨格だったので、四川省と雲南省の代表的な新石器時代より前の遺跡の古代人ゲノムの欠如が、狩猟採集民から農耕民への最初の遺伝的移行についての研究を制約したことに要注意です。
●中国南西部における稲作農耕民関連祖先系統の追跡
現在の中国南西部人口集団の遺伝的特性は、おもに現在のチベット・ビルマ語派およびタイ・カダイ語族話者人口集団と関連する祖先系統が支配的です。チベット・ビルマ語派話者関連祖先系統は、高山遺跡では少なくとも4600年前頃までたどれます。一方、中国南部におけるタイ・カダイ語族話者とオーストロネシア語族話者関連祖先系統の広範な分布は、稲作農耕民の新石器時代の拡大に起因するかもしれず、中国南西部には遅くとも1500年前頃以降に存在していました(関連記事)。しかし、中国南西部における6400~1500年前頃の古代人ゲノムの欠如のため、いつ稲作農耕と関連する祖先的系統がこの地域に到達したのか、不明なままです。
考古学的証拠は、高山および海門口遺跡における雑穀およびイネ遺骸の共存を示しました。しかし、中国南西部と福建省および広西チワン族自治区の稲作農耕民との間の遺伝的混合の有意な証拠は見つかりませんでした。f₄(ムブティ人、X;高山/海門口、Y)の値は、X人口集団(12集団)として建省および広西チワン族自治区の古代人標本を、Y人口集団としてほとんどのアジア東部古代人(35集団)を用いると、正でした。本論文の分析では、157回の検定で2超のZ得点を示しましたが、487回の検定では-2~2の範囲内で値が返されました。-2未満のZ得点の他の集団は、おもに深いアジア祖先系統もしくはアルタイ南部地域のチェムルチェク(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化などユーラシア西部に地理的により近い地域の古代の人口集団を表していました。さらに、古代の中国南西部の2集団(高山_LNと海門口_BA)は、外群に稲作農耕関連の古代の亮島(Liangdao)遺跡(福建省)を含めた場合でさえ、黄河農耕民とホアビン文化狩猟採集民との間の2方向混合として適合します(図3A)。以下は本論文の図3です。
後期新石器時代の高山および海門口遺跡を含めて、中国南西部の遺跡で発見されたほぼ全てのイネの種子はジャポニカ種と同定されており、これは、長江中流~下流域の遺跡で見つかった遺骸と一致し、アジア東部におけるジャポニカ米の単一の栽培化を確証します。この証拠からさらに、長江中流および下流域は栽培されたイネの起源地で栽培化の中心地だった可能性が最も高い、と裏づけられます。より広く、遺跡から、長江上流域は後期新石器時代以来、中国南西部の中程度の標高の雲南・貴州高原への混合農耕関連文化導入にきわめて重要だった、と示唆されます。この文化的影響はその後、前期青銅器時代(Early Bronze Age、略してEBA)に中国南西部およびアジア南東部本土全域に広がりました。
以前の系統発生的研究では、アジア南東部本土へのジャポニカ米の移動は4000~3000年前頃に起きた、と示されており、これは、ジャポニカ米が中国南西部地域経由でアジア南東部本土へと広がったかもしれない、という補足的なゲノム証拠を提供しました。興味深いことに、本論文の結果から、後期新石器時代から青銅器時代の高山および海門口遺跡の人々の遺伝的形成は稲作農耕民関連祖先系統と直接的には関係していなかった、と示されるものの、これらの農耕民は主要な植物栄養源としてイネ関連のC3植物を消費していました。
高山および海門口遺跡について記載された人口統計学的パターンは、中期~後期新石器時代において稲作農耕の増加が目立つことと一致する、中国北部における遺伝的変化(関連記事)とは顕著な対照を示します。とくに、イネの栽培への依存度増加は、後期新石器時代までの黄河流域の人口集団における中国南東部とのより高い遺伝的類似性と関連しています。しかし、中国南西部における高山および海門口遺跡の観察は、アジア東部における人口拡散に基づく稲作農耕の拡大パターンから逸脱しています。高山遺跡関連および宝墩文化は、中国北部の黄河流域農耕民の移動における単なる移行点ではなく、むしろ、雑穀農耕民が稲作農耕関連の概念や作物や技術を、有意な遺伝的混合なしで、稲作農耕人口集団とともに採用した、重要な中継地でした。この稲作農耕民の影響がない雑穀農耕関連祖先系統は、海門口遺跡の個体群の遺伝的データで示されるように、後期新石器時代から青銅器時代まで1000年以上持続しました。
しかし、この期間の中国南西部には多くの遺跡があり、この地域の人口集団が複雑な遺伝的構成を有していたかもしれないことに要注意です。わずか2ヶ所の遺跡の結果に基づいて、中国南西部への稲作農耕拡散の文化拡散モデルを排他的には主張できません。稲作農耕民関連祖先系統を有する遺跡が、中国南西部では新石器時代に存在したかもしれません。推測ですが、もう一つの可能性は、稲作農耕が黄河流域から高山および海門口遺跡まで稲作農耕関連祖先系統を有さない雑穀農耕民によりもたらされた、ということです。混合農耕が中国南西部でどのように形成されたのか、より深く理解するには、さらなる標本抽出が必要でしょう。
●現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団の遺伝的形成
中国南西部と古代および現在のチベットの人口集団間の遺伝的類似性の観察から、黄河農耕民関連祖先系統は中国南西部の高地および低地の古代人全体に少なくとも後期新石器時代以降共有されていた、と示唆され、これは黄河上流~中流域からチベット高原への移住と一致します(関連記事)。チベット高原の他に、ほとんどの現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団はおもに中国南西部の四川省と雲南省に居住しています。本論文は、四川省と雲南省の代表的な現在の先住民族集団を分析し、稲作と関連する系統との遺伝的類似性があったのかどうか、調べました。
主成分(PC)空間では、中国南西部古代人集団は現代および古代のアジア南東部と中国南部の視野から離れているように見えます。さらに、中国南西部集団と過剰なアレルを共有していた、比較的孤立している人口集団であるプミ人(Pumi)が見つかり、つまりは、人口集団Xとしてアジア南東部本土もしくは中国南部の古代人集団を用いると、f₄(ムブティ人、プミ人;高山/海門口、X)が負の値で、Z得点の範囲が-2~-3です。一方、バイ人(Bai)とハニ人(Hani)は、正ではあるもののZ得点の範囲が0.313~2.666と有意ではないf₄(ムブティ人、プミ人;高山/海門口、X)値に基づくと、黄河農耕民とのより多くのアレル共有の示唆的な証拠を示します。
雲南省のバイ人およびプミ人と貴州省の漢人は一貫して、qpWave分析ではその祖先系統の全てが高山および海門口遺跡個体群に由来しました。しかし、ハニ人およびラフ人(LaHu)集団の形成には、稲作農耕民関連系統からの追加の遺伝子流動が必要でした。たとえば遺伝的構成要素は、ハニ人が約70%の海門口遺跡個体群と約30%のベトナム_LNで、ラフ人が約50%の海門口遺跡個体群と約50%のベトナム_LNでモデル化できます。一方、四川省のチアン人(Qiang)やナシ人(Naxi)やイ人(Yi)と雲南省のチベット人は、その祖先系統の10~20%が台湾先住民のタイヤル人(Atayal)関連祖先系統に由来する、と示唆されました(図3B)。
中国南西部における現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団の形成は、支配的な黄河/中国南西部関連祖先系統を有する雑穀農耕民の拡大と密接に関連していた、と示されます。この調査結果は、中国北部の後期新石器時代農耕民と中国南西部の現在の人口集団との間の、以前に報告された遺伝的類似性の地理的枠組み(関連記事)を拡張します。中国南西部の現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団は、南北の遺伝的勾配により特徴づけられます(図1B)。北部チベット・ビルマ語派話者人口集団は海門口遺跡に近い雲南・貴州高原の北西部に暮らしており、高山および海門口遺跡の古代人と区別できません。他の北部チベット・ビルマ語派話者人口集団(イ人やナシ人やチアン人や雲南省チベット人)は、南部チベット・ビルマ語派話者人口集団(ハニ人やラフ人)と比較すると、黄河/中国南西部古代人とより多くのアレルを共有しています。この観察から、稲作農耕民関連の新石器時代の遺伝的祖先系統は、中国南西部の北部から南部地域へとチベット・ビルマ語派話者人口集団に広範に拡大した、と示唆されます。この広範な遺伝的分布は、中国南東部およびアジア南東部本土からこの地域への数千年間によたる人口拡散の結果である可能性が高そうです。
まとめると、雑穀農耕関連の黄河流域の遺伝的特性はおもに、イネと雑穀の混合農耕を有する生計戦略における変化にも関わらず、中国南西部において後期新石器時代農耕民の遺伝子プールに保存されていました。本論文の結果は、シナ・チベット語族人口集団に関する「北方起源仮説」(関連記事)も裏づけます。現在のチベット・ビルマ語派話者人口集団の遺伝的特性は、黄河/中国南西部古代人と中国南東部古代人の両方からの遺伝子流動により形成されました。
参考文献:
Tao L. et al.(2023): Ancient genomes reveal millet farming-related demic diffusion from the Yellow River into southwest China. Current Biology, 33, 22, 4995–5002.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.09.055
追記(2024年3月24日)
本論文の解説記事をブログで取り上げました。
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