スリランカの人口史

 スリランカの人口史に関する研究(Singh et al., 2023)が公表されました。スリランカというかセイロン島における(まず間違いなく)現生人類(Homo sapiens)の痕跡は48000年前頃までさかのぼり(関連記事)、となる子供と若い成人女性の現生人類遺骸2個体が発見されています(関連記事)。本論文はおもに、スリランカの現代の主要な民族集団であるシンハラ人とタミル人の人口史と関係をゲノム解析および比較から推測していますが、更新世のセイロン島の現生人類集団と現代人との関係は不明です。低緯度に位置するセイロン島では古代ゲノム解析が成功する可能性は低そうですから、今後も更新世セイロン島現生人類集団とスリランカの現代人集団との遺伝的関係の解明は難しそうですが、ある程度のつながりがあっても不思議ではないとも思います。


●要約

 シンハラ人はスリランカの主要な民族集団で、セイロン島のほぼ全域に居住しています。シンハラ人はインド・イラン語派のインド・ヨーロッパ語族言語を話しており、この言語はインド北西部に起源があり、少なくとも紀元前五千年紀にさかのぼる、と考えられています。低解像度の遺伝子標識に関する以前の遺伝学的研究は、シンハラ人集団のゲノム史を推定できませんでした。したがって、シンハラ人集団の高解像度の精細な遺伝学的研究が行なわれ、より広い文脈で、スリランカの遺伝的歴史の再構築が試みられました。本論文のアレル(対立遺伝子)頻度に基づく分析は、シンハラ人集団とタミル人集団の緊密なクラスタ(まとまり)を示し、民族と言語の境界を超えての強い遺伝子流動が示唆されます。興味深いことに、ハプロタイプに基づく分析は、シンハラ人集団とのインド北部人の関係の痕跡を保存していました。全体的に、アジア南部の文脈では、スリランカの民族集団は遺伝的に他の民族集団よりも均質です。


●研究史

 スリランカは、ベンガル湾がインド洋と出会う、北緯37度、東経127度30分に位置します。その表面積は65610km²の陸地と水域で構成されます。古代ギリシア人はタプロバーネ(Tαπροβάνη Taprobánē)島と呼んでいましたが、この地名は古代ギリシアではスマトラ島にも適用されていたかもしれません。現在では失われたセイロン島の元々の名称は、究極的にはサンスクリット語のシンハラ(Siṃhaladvīpa、師子国)に由来し、アラブ語のサランディブ(Sarandīb)とペルシア語のサランディプ(Sarandīp)へと変わり、ヨーロッパの言語にはセレンディプ(Serendip)として入りました。セイロン(Seylan、Ceylan、Ceylon、現代のポルトガル語ではCeilão)と書かれたポルトガル語の名称は、セイロン島の古い元々のシンハラという名称を保存しており、この名称は語源的にサンスクリット語のスリランカ(Śrī Laṅkā)に由来します。セイロンという名称はその後、セイロン島を、1640~1796年まで支配したオランダ人と、1796~1948年まで支配下イギリス人により採用されました。サンスクリット語の類似語(tatsama)の外来語である「スリランカ(Śrī Laṅkā)」は、1972年に元々の古い土着の名称であるシンハラ(Sinhala)という名称のヨーロッパの翻訳に取って代わりました。

 現在の国勢調査では、スリランカの住民は約2200万人と推定されており、そのうちシンハラ人が収容な民族集団を表しており、人口の74.9%を構成しています。他の民族集団に含まれるのは、11.1%のスリランカ・タミル人、9.3%のイスラム教徒もしくは「ムーア人」が、4.1%のインド・タミル人、ビュルガー人(Burgher)やマレー人やヴェッダ人(Vedda)といった0.6%のその他の民族集団です。旧石器技術を有する狩猟採集民がスリランカに早ければ125000年前頃に定着した、と推測されてきましたが、スリランカにおける最古の解剖学的現代人(現生人類)の化石は28500年前頃までさかのぼり、上部旧石器時代のバタドンバレナ(Batadombalena)遺跡で見つかっていて、36000年前頃以降にはヒトが明らかな居住していました。

 スリランカには紀元前800~紀元前600年頃まで中石器時代の狩猟採集民が居住しており、その頃にはウシと農耕の両方が、巨石埋葬を行なっていた黒色および赤色土器文化を有する鉄器時代文化の担い手によりもたらされました。この新たな農耕文明【当ブログでは原則として文明という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】の担い手は、シンハラ人もしくはセイロン人(Siṃhala、Ceylonese、Sinhalese)だった、と考えられています。島史(Dīpavaṃsa)および大史(Mahāvaṃsa)には、ウィジャヤ(Vijaya)王子が、現在ではグジャラート州南部となるラーラ(Lāḷa)もしくはラータ(Lāṭa)のシンハプラ(Siṃhapura)もしくはシハプラ(Sihapura)からシンハラ人(Siṃhala)の祖先を率いた、と記録されています。ウィジャヤは新たに設立したタンバパニ(Tambapaṇṇi、赤銅鍱)で、紀元前468~紀元前448年にかけて統治しました。

 ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・ガイガー(Wilhelm Ludwig Geiger)は、インドのコンカーン(Koṅkaṇ)沿岸で話されているコンカニ語(Koṅkaṇī)が、スリランカで話されているシンハラ語、およびモルディブで話されているディベヒ語(Divehi)の両方と最も近い言語を表していた、と確証しました。ガイガーは、この明らかな言語学的関係は、ディベヒ語およびシンハラ語話者人口集団を紀元前千年紀に最初にセイロン島の生息地へともたらした、アラビア海とインド洋全域の古代の海洋移住を反映していた、と推測しました。ガイガーはこれら両言語をコンカニ語やマラーティー語(Marāṭhī)やグジャラート語(Gujarātī)とまとめ、そうした言語はラルフ・リリー・ターナー(Ralph Lilley Turner)の分類では、インド・ヨーロッパ語族のインド・アーリア語群の南西下位系統を構成します。シンハラ語の年代記には、9ヶ月間、新たに到来したシンハラ人の入植者は、ヤクハス(yakkhas、サンスクリット語ではyakṣa)と呼んだセイロン島の先住の民衆を絶滅させようとした、と記録されており、学者はヤクハスをヴェッダ人と特定してきました。

 シンハラ人はアショーカ(Aśoka)王の時代にさかのぼる、セイロン島の最古の碑文と関連づけられていますが、言語学的根拠に基づいて、タミル人の祖先はポーク海峡を渡ってスリランカ北部にほぼ同じ頃、つまり紀元前千年紀後半に入植し、この時期にはインド亜大陸でチョーラ(Cōḻa)王朝が始まった文化的揺籃期だった、と主張されてきました。この言語学的年代測定は、予測できるように、タミル語の大陸放言とセイロン島の方言との間に最も厚い等語線の束が走っている、という事実により裏づけられます。

 紀元前千年紀にシンハラ人とタミル人が入植した後に、インド亜大陸とのスリランカの地理的近さは、密接な文化的結びつきにより強化されました。この同じ期間には、インド亜大陸からアジア南東部の本土と島嶼部へのヒンズー教と仏教の海洋での大規模な拡大が見られ、歴史的には、遺伝子流動と文化伝播の両方が含まれます。何世紀も後に、イスラム教徒の商人がアラビア半島から、マレーシアからはマレー人が、イギリスの植民地期にはインド南部からインド・タミル人が到来しました。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)やY染色体やX染色体を含む遺伝学的研究はわずか数件しか行なわれておらず、これらはシンハラ人とインド本土とのつながりを確証しました(関連記事)。一部の研究では、シンハラ人の起源は独特と示されてきましたが、そのうち数件はインド南部の人口集団とのつながりを示唆しました。古典的な遺伝標識に基づく分析は、シンハラ人集団がベンガル人よりもインド南部および西部の人口集団の方と密接に類似している、と主張しました。残る問題は、シンハラ人とスリランカのタミル人の起源に関する進行中の議論の観点で、シンハラ人がスリランカの他の人々とどのように関連しているのか、ということです。したがって本論文では、シンハラ人の起源について分子遺伝学的観点を確証し、あり得る供給源人口集団と遺伝的混合を除外するため、さまざまな代替案が評価されました。

 スリランカは南方移住経路説を含むいかなるシナリオでも、重要な中継地域も表しているかもしれないので、シンハラ人の集団遺伝学のより深い理解は、アジア南部の初期の移住に新たな洞察を提供するかもしれません。スリランカの人口集団に関する遺伝学的研究は、おもに半数体のDNA標識に制約されていました。これまでに研究されたスリランカの個体の大半は、アジア南部固有のハプログループの圧倒的存在を示しました。しかし、ユーラシア西部固有のハプログループの顕著な存在も検出されてきました。最も一般的なユーラシア西部のmtDNAハプログループ(mtHg)はU7とU1です。したがって、スリランカのユーラシア西部とのつながりの可能性は高そうです。スリランカの移住の正確な性質を理解するには、常染色体研究の欠如を補わねばなりません。したがって、何十万もの遺伝的標識について、スリランカのシンハラ人およびタミル人集団が分析され、評価されました。


●分析結果と考察

 シンハラ人集団の起源と移住に関して詳細に理解するため、まずスリランカの人口集団間の母系の遺伝子流動が評価されました。公開情報源からデータが収集され、インド南部の母系人口構成と比較されました。スリランカとインド南部の母系遺伝子プールは、圧倒的にアジア南部系の類似性を示しました(図1)。しかし、ユーラシア西部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の傑出には顕著な違いが見られます。スリランカのユーラシア西部祖先系統がインド本土から到来したと仮定すると、スリランカにおけるこの祖先系統の割合はインド南部より顕著に低くなると予測されるはずですが、そうではありませんでした。代わりに、スリランカ人口集団におけるユーラシア西部固有の母方祖先系統顕著に高い頻度が観察されました(図1)。この高水準のユーラシア西部祖先系統は、インド・タミル人はイギリス植民地期におけるよく記録された最近の移住を表している、と知られているインド・タミル人と、圧倒的にアジア南部祖先系統を示すムーア人を除いて、スリランカのすべての主要な集団で一貫しています。この矛盾は、スリランカへの独立したユーラシア西部からの寄与により説明でき、海路による、インド北西部からの推定される移住の可能性が高そうです(図1)。以下は本論文の図1です。
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 ユーラシア西部関連祖先系統とスリランカの人口集団の歴史についてより深く理解するため、何十万もの常染色体遺伝子標識が用いられました。比較常染色体分析のためインド人の標本に加えて大規模なデータセットが抽出され、これらのデータセットが本論文で新たに生成されたゲノム規模データと統合されました。まず、人口集団の類似性を理解するために主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました。得られた主成分1(PC1)およびPC2の固有ベクトルを用いての散布図(図2)から、スリランカのシンハラ人およびスリランカ・タミル人とイギリスのスリランカ・タミル人(Śrī Laṅkān Tamils in the United Kingdom、略してSTU)は、ドラヴィダ人勾配へのアジア南部インド・ヨーロッパ語族集団上の大きなクラスタにおいて相互に近い、と示唆されました。この調査結果は、スリランカ・タミル人集団とのシンハラ人集団のより密接な遺伝的類似性を示唆します(図2)。以下は本論文の図2です。
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 祖先構成要素を調べるため、ADMIXTUREが実行され、シンハラ人集はインドの人口集団とよりもスリランカ・タミル人の方と類似しており、両者が主要なアジア南部関連祖先構成要素を有していることも示されました(図3)。アジア南部人口集団に固有の黄緑色と濃い緑色の構成要素は、シンハラ人とスリランカ・タミル人ではほぼ均等に分布していました(図3)。以下は本論文の図3です。
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 微細規模の遺伝的類似性を確認するため、ハプロタイプに基づく微細構造分析が実行されました。PCAおよびAdmixtureの結果と一致して、スリランカのシンハラ人およびタミル人の両集団は密接な遺伝的類似性を共有しており(図4)、同じクラスタに収まりました。スリランカのシンハラ人およびタミル人の両集団は、インドのインド・ヨーロッパ語族およびドラヴィダ人集団と共通のクレード(単系統群)も有していました。塊の数の比較から、スリランカのシンハラ人およびタミル人の両民族集団は、相互からおよびインド・ヨーロッパ語族とドラヴィダ人の集団から大きな塊を受け取った、と示唆されました。以下は本論文の図4です。
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 スリランカのシンハラ人およびタミル人の両民族集団について推定される供給源人口集団を理解するため、まず、シンハラ人とSTU(イギリスのスリランカ・タミル人)を対象人口集団としながら、人口集団1や人口集団2などいくつかの供給源を用いて世界の人口集団でf₃統計が実行されました。f₃混合の結果から、シンハラ人とSTUはインド人とインド・ヨーロッパ語族話者とドラヴィダ人の祖先系統の混合人口集団である、と示唆されました。STU標本はイギリスから収集されたので、STUがスリランカの在来タミル人(native Sri Lankan Tamils、略してSTS)の遺伝的構成からの偏差があるのかどうか理解するため、比較されました。全ての分析、つまりPCAとADMIXTUREと外群f₃統計では、STSからSTUの有意な偏差が見つかりませんでした(図2と図3と図4)。

 得られた推定供給源人口集団と外群人口集団としてヨルバ人を用いての遺伝子流動測定のため、D統計が実行され、シンハラ人とSTS両人口集団の上位10のD値から、過去にシンハラ人とSTUとの間で強い遺伝子流動が起きた、と示唆されました。それは、シンハラ人とSTUがインド北部人と負のD値を(ヨルバ人;シンハラ人/STS;STU;X)、インド南部人正のD値を示したからです。インドの南対北の人口集団のモデル間の遺伝子流動の方向性を推測するためにもD統計が計算され(ヨルバ人;シンハラ人/STS/ STU;X;Y)、インドの北部の人口集団よりもインド南部の両人口集団間でより多くの遺伝子流動が起きた、と示唆する結果が得られました。しかし、インド南部の人口集団よりも一部のインド北部およびほぐぃぶの人口集団からのわずかに多い遺伝子流動が見つかりました(しかし、有意ではありません)。シンハラ人とSTU/STSの異なる言語学的帰属を考えると、これらの結果は興味深いものです。この結果は、議論されている民族の境界を超えた強い遺伝子流動を示唆しており、通常アジア南部では稀です。

 ALDERを用いて、シンハラ人とスリランカ・タミル人の両民族集団について混合年代も評価されました。他の世界の人口集団が供給源人口集団として検討されながら、シンハラ人とSTSが対象人口集団として用いられました。いくつかの順列と組み合わせの後で、STUについていくつかの成功モデルが得られましたが、シンハラ人について成功したモデルは1つだけでした。混合年代はシンハラ人とSTS両集団ではごく最近でしたが、成功モデル数の少なさは、高い混合率に起因するかもしれないので、ソフトウェアは推定供給源人口集団として他の人口集団を使用できませんでした。

 シンハラ人とスリランカ・タミル人の結婚パターンを理解するため、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してRoH)が計算されました。得られた平均値は、断片数対断片の平均数の長さとの間で図示されました。STS集団は散布図の底部にクラスタ化し(まとまり)、次にシンハラ人が続きますが、STUは同型接合断片のより長くより多い数を示しました(図5)。RoHの結果から、これらの人口集団の有効人口規模(Ne)は異なる、と示唆されます。これらの不均衡は、STU標本がアジア南部外(イギリス)から収集された標本抽出の偏りに起因するかもしれません。スリランカからのより多くのタミル人標本が、この不均衡の解決に役立つかもしれません。以下は本論文の図5です。
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 シンハラ語がコンカニ語やマラーティー語やグジャラート語とより密接な共通祖先系統を示す、との仮説を検証するため、DNAのより大きい(2.0センチモルガン超)塊とより小さな塊(0~2センチモルガン)の比較により、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)分析が実行されました(図6)。2人口集団が混合すると、組換え事象は大きなDNA断片(塊)を壊す傾向にあります。経時的に、これらの断片規模はますます小さくなります。したがって、大小のDNA断片の比較は、最近および古い混合過程の理解に役立つことができます。

 興味深いことに、マラーター人(Marāṭhā)とSTUとの間よりも、マラーター人とシンハラ人との間で共有されるより小さな塊の予期せぬ過剰(16%超)が見つかったので、ガイガーやターナーやドリエム(George L. van Driem)の言語学的仮説が裏づけられました。過剰な共有を確認するため、シンハラ人およびSTUと最大のIBDを共有する人口集団が検索されました。インド南部のピラマライ・カラー(Piramalai Kallar)人はシンハラ人およびSTUと最大のIBDを共有していますが、シンハラ人およびSTUの両集団は、ピラマライ・カラーの人々と単調のDNA断片について最大のIBD共有を示した、と観察されました。シンハラ人もしくはSTUがマラーター人とより多くのDNA断片を共有していたのかどうかも、問われました。ピラマライ・カラーの人々はシンハラ人およびSTUとそれぞれほぼ同じ大きさのDNA断片を共有していましたが(図6)、マラーター人はシンハラ人と有意に(16%超)より多くのより小さな断片を共有していました。以下は本論文の図6です。
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 結論として、これは高情報量のゲノム規模常染色体データを有する最初の包括的分析で、古代の歴史的定住を有するスリランカの2つの主要な言語学的に異なる民族集団【シンハラ人とタミル人】の比較分析でもあります。本論文の調査結果は、言語学的帰属に関係なく、STUとのシンハラ人の密接な遺伝的類似性を示唆します。この現象は、アジア南部では珍しいことです。シンハラ人とSTUの遺伝的類似性はおそらく、大量の遺伝子流動を促進した長期の密接な地理的共有に起因します。さらに、シンハラ人とマラーター人の共通起源の痕跡も、精細な遺伝的分析で見ることができます。したがって、シンハラ人の遺伝学的分析は、アジア南部人の遺伝的景観の歴史にもう一つの重要な章を加えます。以下は本論文の要約図です。
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●この研究の限界

 言語学的理論は確証されましたが、本論文の混合年代分析は時間軸を確証できず、それは真の推定祖先の欠如に起因する可能性が高そうです。より多くの古代DNA研究とY染色体配列決定が、移住の時間軸を決定するのに役立つでしょう。


参考文献:
Singh PP. et al.(2023): Reconstructing the population history of the Sinhalese, the major ethnic group in Śrī Laṅkā. iScience, 26, 10, 107797.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2023.107797

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