及川琢英『関東軍 満洲支配への独走と崩壊』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2023年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。関東軍は、関東州と南満州鉄道(満鉄)の保護を目的として1919年に成立した、日本陸軍の出先軍です。この場合の「関東」とは、いわゆる万里の長城の東端である山海関以東の地、つまり満洲を意味します。関東軍の成立は、日本にとって「生命線」とされた「満蒙(満洲と現在の中華人民共和国内モンゴル自治区東部)」権益と深く関わっています。日本の主要な「満蒙」権益には関東州と満鉄があり、これは日清戦争と日露戦争を経て獲得しました。日露戦争の結果、日本はロシアが領有する遼東半島南端の租借地と鉄道権益の一部を継承し、この租借地が関東州と呼ばれたわけです。鉄道に関しては、日露戦争の結果、長春以南の南部線に、日本軍が軍用軽便鉄道として敷設していた安奉線(安東~奉天)を加えて、1907年4月に南満州鉄道株式会社(満鉄)が営業を開始しました。満鉄の資本金の半分は日本政府が出資し、満鉄は、駅周辺に市街地用の附属地を設定し、行政権の行使が認められた、巨大な国策会社でした。

 第一次世界大戦の勃発後、日本は満洲の権益強化へと動き、1923年までだった関東州の租借起源と満鉄の経営期限を99ヶ年へと延長することに成功します。それまで、満鉄本線は1939年に中国側に買戻権が発生し、1983年には無償返還される規定でしたが、関東州は1997年まで、満鉄本線は2002年まで、安奉線は2007年まで租借・経営期限が延長され、中国側の買戻権はなくなりました。中国側はこうした日本側の要求に強く反発し、自前で鉄道を敷設するようになり、日中関係悪化の一因となります。南満洲では土地の商租権をめぐって、所有権と解釈する日本側と、貸借権と解釈する中国側が対立を深めました。

 こうした満洲における日本の権益を管理・保護するために在満統治機関が設置され、1905年10月に、満洲軍総司令部と交替する形で遼陽に設置されたのが関東総督府でした。関東総督に就任したのは、陸軍の大島義昌大将でした。関東総督府の軍政はダイチン・グルン(大清帝国)から抗議され、列強からも批判されたことで廃止され、外務大臣の監督下で平時体制としての関東都督府が1906年9月に設置されます。ただ、関東都督には部隊統率権が認められていたので、都督は陸軍の大将もしくは中将が任命されることになり、大島義昌が関東総督から関東都督へと横滑りしました。関東都督府には海軍は含まれず、海軍の出先機関としては旅順鎮守府が設置されました。ともに外相の監督下にあった関東都督府と領事館府の間には権限争いが生じ、満鉄附属地では満鉄が一般行政権を有しているなど、外務省および領事館と関東都督府と満鉄は相互に牽制し合い、「三頭政治」と批判されていました。

 1910年6月には、新たに設置された内閣拓殖局に外交を除いて関東州の所管が移され、関東都督に対する外相の影響力は弱まります。上述のように、関東都督は部隊統率権が認められていたこともあり、武官に限定されていましたが、これに対する批判が高まり、文官の関東都督就任を認める場合には、満洲駐屯部隊の統率が問題となります。この問題をめぐって議論と駆け引きがありましたが、最終的には1919年に、文官が長官に就任できる関東庁と、それとは別に関東軍司令部を設置することで決着します。関東軍司令官は、陸軍の大将もしくは中将が任命されることになり、親補職とされ、天皇に直隷して駐屯部隊を統率しました。関東軍司令官は、関東州の防備や、満鉄線に限らず南満洲の鉄道線路の保護のため、必要な場合に兵力を使用できました。

 当時陸軍では、長州閥の陸相(陸軍省)が参謀本部を統制する支配体制が確立しており、田中義一が政友会総裁から首相に就任し、田中の後継者である宇垣一成が憲政会へと接近することで、文官による統制が間接的に出先軍に及んでいました。しかし、関東軍に関して司令官は、軍政と人事が陸相、作戦と動員計画が参謀総長、教育が教育総監の「区処」を承けるとされていました。「区処」とは、「隷属関係に依らず業務上の系統に従い与うる所の指示」と定義され、関東軍司令官は天皇に直隷するものの、陸軍三長官(陸相と参謀総長と教育総監)とは隷属関係にないので、「区処」とされたわけです。陸軍で長州閥が統制できている間は、「区処」は「命令」と実質的に変わりませんでしたが、長州閥が衰退し、「下剋上」の風潮が高まると、「区処」は「命令」と比較して軽んじられる傾向にありました。さらに、関東軍司令部条例は、戦時の行動を規定していない、との解釈も可能でした。また陸軍には独断専行を奨励する気風があり、これも関東軍の独断専行を促す一因となりました。

 辛亥革命以降の中国東北部の混迷した政治状況の中で日本において、直接的に利権を求める「満蒙」の特殊利益」論に代わって、「満蒙」の「治安維持」を中国側に要求しつつ、日本独自の政策を進める新たな外交方式が生まれ、これは「満蒙」を日本のために治安維持すべき地域として特殊化するもので、分離主義を内包していました。こうした治安維持への期待が、関東軍の存在感を高め、関東軍への支持を集めました。関東軍は1922年の時点で、陸軍省の指示に反して張作霖に弾薬を供給し、これを陸軍省が追認して秘密裏に処理するなど、関東軍の「独断専行」とそれを追認する中央機関という、その後の傾向がすでに窺えます。

 関東軍の「独断専行」の歴史において重要な転機となったのが張作霖爆殺事件で、張作霖と奉天軍の温存を考えていた田中義一内閣に対して、関東軍では張作霖下野論が強く、関東軍の河本大作が張作霖の爆殺の実行を指揮しました。しかし、田中内閣は関東軍のなし崩し的な行動拡大を防ぎました。ただ、張作霖爆殺事件の直後に、河本が陸軍上層部に事情を打ち明けたにも関わらず、河本は更迭されず、関東軍高級参謀の地位に留まり、その後に処分されたものの、停職(1年後に予備役)と軽く、ここでも関東軍の「独断専行」とそれを追認する中央機関という傾向が窺えます。この件で田中内閣は退陣します。

 関東軍の決定的な「独断専行」となったのが1931年9月に起きた満洲事変で、今度は「満蒙」の領有が計画され、石原莞爾がその作戦立案の中心となりました。この時、関東軍の軍事行動のみならず、朝鮮軍が独断で越境したことも大きな問題でしたが、昭和天皇と内大臣の牧野伸顕は穏便な処理を決め、昭和天皇は朝鮮軍の越境を裁可しました。満洲事変にさいして、若槻礼次郎内閣は「満蒙」における「独立国家」樹立など関東軍の「独断専行」を阻止しようとし、石原たち関東軍の強硬派は、追い詰められた局面もありましたが、第二次天津事件などに乗じて錦州を掌握し、独立国家樹立への道を切り開きます。こうして既成事実を作ることで、石原たち関東軍の強硬派は1932年3月1日、満洲事変勃発から半年ほどで「満洲国」建国宣言まで実現させます。

 「満洲国」の建国により、在満機関の統一が問題となりますが、結局、満鉄総裁を除いた長官併任で解決し、現役の陸軍の大将もしくは中将が関東軍司令官と駐満全権大使と関東長官を併任することになりました。日本が「満洲国」を正式に承認し、日本と中国や国際連盟との対立はさらに深まります。満洲事変の余波は日本の「満洲国」正式承認後も続きましたが、1933年5月の塘沽停戦協定により一応の区切りがつけられました。しかし、これは中国側にとってたいへん不満の残るもので、日本側にも対中強硬派がおり、不安定な協定でした。

 満洲事変の中心的人物の一人だった石原莞爾は、1935年8月に参謀本部第二課長(作戦課長)に栄転しますが、そこで極東ソ連軍に対して朝鮮も含む在満日本軍が兵力で大きく劣ることを認識します(1935年末時点で、兵数は前者が約24万人に対して、後者は約8万人)。石原莞爾は対ソ戦を優先し、当面はアメリカ合衆国との親善関係を維持して、ソ連を屈服させたら、アメリカ合衆国の参戦を覚悟しつつ、アジアのイギリス勢力打倒を目指し、日中親善の基礎を固めたうえで、日本がアジア諸国を指導してアメリカ合衆国と決戦する、と構想していました。しかし、関東軍の対中強硬派は、満洲事変時の石原莞爾を「見習い」、上官の統制に従わず功績を求め、謀略と軍事行動を進めていきます。こうした情勢で1937年7月の盧溝橋事件を契機に日中間の軍事衝突が拡大し、ついには事実上の全面戦争へと突入します。石原莞爾は求心力を失って参謀本部の要職から関東軍へと追われ、東条英機との対立から、1941年3月には予備役編入となります。満洲事変での石原莞爾の「下剋上」的行動が、今度は石原を追い詰めたわけです。

 石原莞爾が軍事的脅威と警戒したソ連軍と日本軍との紛争は1930年代を通じて続き、当初は小規模でしたが、やがて大規模になっていき、関東軍の悪名の一因となっているノモンハン事件へつながります。1937年6月のソ連軍との紛争で、関東軍はソ連軍を敗走させ、これが関東軍にとって成功体験となり、対ソ強硬策が有効と考えられるようになりました。1938年7月~8月の張鼓峰事件では、朝鮮軍隷下の第19師団が独断専行で張鼓峰のソ連軍陣地を占拠し、天皇も陸軍中央もそれを追認したように、日中戦争の本格化後も陸軍の「下剋上的」傾向は変わりませんでした。さらに、第19師団長の尾高亀蔵は、その後に第12軍司令官に昇任しています。朝鮮軍は張鼓峰事件から、機先を制することでソ連軍の戦意を削ぐことができ、ソ連軍戦車は脅威ではなく、肉迫突撃により撃退できる、と分析しました。張鼓峰事件の翌年5月に始まったのが、ノモンハン事件でした。ここでも参謀本部は関東軍を統制できませんでしたが、戦局がソ連およびモンゴル側に有利になると、関東軍に攻勢作戦中止を認めさせることができました。ノモンハン事件後に関東軍首脳は更迭され、敗北の責任を取らされました。関東軍司令官に新たに就任したのは梅津美治郎で、関東軍の統制を企図しての人事でした。梅津司令官により関東軍の統制は強化され、躁急な国境紛争処理は抑えられていきます。本書は、関東軍のような出先の軍機関にとって軍司令官の性格はひじょうに重要だった、と指摘します。

 梅津司令官が着任して以降、関東軍はソ連と国境紛争で衝突することを控えていましたが、1941年6月に独ソ戦が勃発し、参謀本部は対ソ開戦も視野に入れますが、関東軍は同年4月に締結したばかりの日ソ中立条約を重んじて、対ソ開戦には慎重でした。それでも、1941年7月には対ソ開戦に備えて関東軍特種演習(関特演)が行なわれましたが、極東ソ連軍で独ソ戦のため西送されたのが5個師団だけと判断され、参謀本部は1941年のうちの対ソ武力行使を諦めます。その後、関東軍は1943年まで関特演で動員された大兵力を抱えていましたが、1941年12月に太平洋戦争が始まり、南方戦線での作戦拡大や戦況の悪化により、もはや対ソ開戦は現実的な選択肢ではなくなり、本国や中国戦線や南方戦線に部隊が抽出されていきます。ソ連は、極東で防勢から攻勢へと方針を変え、1945年4月には日本に日ソ中立条約不延長を通告し、ついに1945年8月9日、ソ連軍とモンゴル軍は「満洲国」に侵攻し、部隊の転出により戦力が大きく低下していた関東軍は圧倒されて敗走し、日本から満洲に渡ってきた民間人が多数犠牲になりました。同月16日、関東軍は大本営の指示に従って降伏を決断し、武装解除されましたが、関東軍の多数の兵士がシベリアで長期間強制労働に従事させられることになりました(シベリア抑留)。

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