佐藤信編『古代史講義【海外交流篇】』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2023年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。古代日本史でも南朝や隋や唐や朝鮮半島との関係にはもう四半世紀以上関心を抱いてきましたが、近年では優先順位が20年前ほどには高くなく、勉強が停滞しているので、最新の知見を得るために読みました。この問題については、現在最も優先順位が高い古代ゲノム研究の観点からも注目しています。
第1講●仁藤敦史「「魏志倭人伝」と邪馬台国」
まず、いわゆる「魏志倭人伝」は当時の中華世界の価値観に基づいた、後世に「正史」とみなされる『三国志』の位置であることを踏まえたうえで、断片的に都合よく使用してはならないことが指摘されています。卑弥呼が魏に使者を派遣するまで、交渉相手としていたのは遼東の公孫氏である可能性が高い、と推測されています。本論考は、卑弥呼の共立により保たれた「平和」は「外国」による権威づけと支持により保たれた危うい秩序だった、と指摘します。また本論考は、後漢もしくは遼東公孫氏が卑弥呼を倭国王として認知しており、魏がそれを追認した可能性も指摘します。
第2講●森公章「倭の五王とワカタケル大王」
倭の五王の時代を通じて、宋における高句麗→百済→倭という序列は変わらなかった、と指摘されています。それでも、倭国王も含めて宋から将軍に任命された諸王は、幕府を開き、幕府を構成する官人(府官)の任命が可能となり、これにより国内秩序の構築が試みられた、と指摘されています。倭の五王が記紀の天皇の誰に相当するのか、古くから関心が寄せられてきましたが、本論考では、最後の武は記紀の雄略天皇である可能性が高く、済は允恭天皇、興は安康天皇とするのが有力とされています。また本書は、天皇の和風諡号から、履中天皇と允恭天皇との間に大きな変化があった、と推測しています。倭の五王の後に南朝への遣使が途絶えた理由として、南朝の後ろ盾なしでの倭王の地位の維持可能が挙げられています。倭王の倭姓が定着しなかったのは、南朝との冊封関係が維持されなかったことと共に、当時の倭国では氏姓制度は未成立だったことが指摘されています。
第3講●佐藤信「筑紫君磐井と東アジア」
本論考は、日本列島における国家形成史において、畿内を中心とするヤマト王権だけではなく、他地域の豪族による国家形成への歩みやアジア東部の「国際関係」も視野に入れるべきと提言し、筑紫君磐井もそうした文脈で把握されています。筑紫君磐井は新羅と交流しつつ、高句麗や百済や伽耶などとの外交権も独占しようと試み、それが畿内を中心とする大王権力にとっては容認できず、磐井の戦いはアジア東部における「国際戦争」だった、と指摘します。ただ一方で、磐井とヤマト王権との間に一定の従属的性格の同盟関係が締結されていたことも想定されています。本論考は、5世紀~6世紀にかけての吉備や毛野など地方豪族とヤマト王権との戦いや摩擦を、ヤマト王権の各地への勢力拡大と関連づけており、磐井とヤマト王権との戦いもそうした文脈に位置づけられます。
第4講●田中俊明「加耶と倭」
伽耶(加耶)は元々、加羅の発音変化により生じた表記で、同じ言葉だったようです。伽耶の範囲については、現在の慶尚南道を中心とする地域との見解と、より広く慶尚北道までを含む地域との見解があり、重なるのは慶尚南道を中心とする地域で、その大半は3世紀半ばには弁韓と呼ばれ、それから400年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)頃までの間に伽耶と呼称が変わりました。伽耶は1国ではなく小国群を指しており、最後まで統一されませんでした。任那とは元々任那加羅で金官国を指しており、伽耶諸国のうち1国にすぎません。倭国と伽耶の関係は、金官国との関係から始まり、それが西側の卓淳国との関係に広がり、さらには伽耶を越えて百済との関係も生じたようです。本論考は、金官と卓淳と安羅という伽耶南部諸国と倭と百済で同盟関係が成立した、と推測し、これを372年体制と呼び、それが6世紀初頭まで維持された、と指摘します。「任那日本府」については、倭国からの使節団を指す、と指摘されています。伽耶については、遺伝学などの研究から日本語系統を話す集団だった可能性も考えられることが注目されます(関連記事)。
第5講●三上喜孝「百済と倭」
百済と倭の密接な関係の前提として、北方の高句麗からの脅威への対抗として、南朝や倭との提携が必要だった、と指摘されています。倭王武の上表文については、漢字文化へのかなりの理解とともに、百済の上表文との親和性の高さから、作成者は中華系の百済からの渡来人ではないか、と推測されています。また、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文からも、人名の字音表記に百済との共通性があり、5世紀の倭は百済からの文字文化に強い影響を受けた、と指摘されています。また、百済から倭への渡来人だけではなく、百済に渡って官人となる倭人もいた、と指摘されています。
第6講●中野高行「高句麗と倭・日本」
倭と高句麗の対立は、百済が高句麗への対抗のため倭と提携したことも大きかったようですが、実際に戦ったこともあってか、倭王武の上表文では高句麗への強い対抗意識が見られます。6世紀半ば以降に倭と高句麗との関係は好転し、欽明朝には「正式な国交」が締結されたようです。高句麗から倭への使者は、北朝の文化をもたらしました。667年、高句麗は唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、それに伴って日本列島に到来した高句麗の民も少なからずいたようで、高松塚古墳の壁画には高句麗からの影響が指摘されています。
第7講●柿沼亮介「新羅と倭・日本」
日本と新羅とは、8世紀には外交使節を互いに追い返すことが繰り返されるなど、関係が悪化しますが、それは自国中心の国際秩序の創出のために相手の存在を必要としていたことも示している、と指摘されています。そうした新羅と日本(倭)との関係は、高句麗からの脅威への抵抗もあってか、5世紀半ばまでには始まっており、5世紀の日本列島の古墳からは、新羅系文物も出土しています。6世紀半ばには、高句麗の南下に対する新羅と百済の協調が崩れ、朝鮮半島は新羅と高句麗と百済の三国による抗争の時代に入ります。7世紀には、日本(倭)は新羅と距離を置き、新羅は唐と提携して百済と高句麗を滅ぼし、その過程で663年には大規模な軍事衝突が起きます(白村江の戦い)。しかし、その後で新羅は唐と対立し、日本(倭)に対しては低姿勢で外交を展開しましたが、高句麗遺民も加わった渤海の建国などもあり、新羅は唐と関係を改善していき、それに伴って上述のように8世紀には日本と新羅の関係は悪化していきましたが、史料に見える新羅使の人数はむしろ増加していき、それは多分に通商目的で、日本と新羅の関係は政治的に悪化していったものの、経済的な結びつきは強化された、とも指摘されています。
第8講●中林隆之「仏教の伝来と飛鳥寺創建」
日本列島における仏教は、まず朝鮮半島や南朝との直接および間接的な交流を前提として、渡来人により受容・信仰され、しだいに定着していきました。日本列島における仏教興隆の方向性を大枠で規定したのは、アジア東部における王権間の交渉を通じた、中央権力(日本列島ではヤマト王権)による導入だった、と指摘されています。日本列島における仏法「公伝」を伝える2系列の史料の評価については、まだ定まっていないようです。本論考は、日本列島における仏法「公伝」について、2系列の史料のみに依拠するのではなく、当時のアジア東部情勢から、慢性的な戦争状態にあった朝鮮半島の百済が、倭からの軍事援助の見返りとして、最新の南朝系仏教を6世紀半ばに相次いで伝えたのではないか、と推測します。飛鳥寺については、高句麗からの影響がどの程度だったのか、議論が続いているようですが、飛鳥寺の意義として、王権整備との関連が指摘されています。
第9講●吉永匡史「遣隋使と倭」
遣隋使については、そもそも派遣回数といった基礎的事実についても確定しておらず、1回から6回まで所説あります(2回説はないようです)。遣隋使について日本で前近代から問題となってきたのは、『日本書紀』に見えず『隋書』倭国伝のみで知られる600年の記録ですが、現在では、これをヤマト王権からの最初の遣隋使とみなすことが定説になっています。607年の第二次遣隋使については、使者の発言も国書も仏教色が強い、と指摘されています。この時の国書に見える「天子」については、中華世界的君主号とは異なる意味だったものの、煬帝はそれを中華世界的価値観から「無礼」とみなした、と推測されています。なお、倭に派遣された裴世清は、下級官僚ではあるものの、名族出身で煬帝と近い官職にあったことから、煬帝が倭を軽視したとは必ずしも言えない、とも指摘されています。
第10講●酒井芳司「白村江の戦いと倭」
白村江の戦いの直接的契機は、660年の百済滅亡と、その後の百済再興運動でした。百済遺臣の鬼室福信が挙兵し、日本(倭)は人質として滞在していた百済王子の余豊璋を百済王として、救援軍派遣を決定します。これは、斉明天皇(当時、まだ天皇号は使用されていなかったかもしれませんが)が九州にまで赴いた点で、異例の事態でした。663年の白村江の戦いで日本(倭)と百済の連合軍は唐と新羅の連合軍に大敗し、百済は完全に滅亡します。百済救援派遣軍は中央豪族が率いる国造軍で、動員は個別の服従関係に依拠しており、組織だったものではなかったことも、敗因とされています。
第11講●亀田修一「渡来人と列島の社会」
本論考は、考古学的研究に基づいて、3世紀半ば~8世紀初頭(おもに古墳時代)の日本列島に到来した人々(渡来人)がどのように定着し、受け入れられ、役割を果たしたのか、検証します。たとえば、福岡平野の西新町遺跡では、3~4世紀の竪穴住居から朝鮮半島南部系と日本列島系の土器が出土しており、「渡来人」と在来集団との共同居住が示唆されます。その後も福岡平野では、7世紀初頭まで渡来系の人々との深い交流を示す考古資料が確認されています。吉備では、5世紀頃の巨大前方後円墳で、朝鮮半島系考古資料が確認されています。本論考はこうした動向を、高句麗の南下による朝鮮半島南部地域の混乱と関連づけています。吉備は5世紀後半に一度衰退した後で、6世紀半ばに新たな渡来人を畿内から受け入れていったようです。畿内では、鉄器および土器の製作や馬飼育に渡来人が深く関わったようです。西日本の全体的傾向として、西新町遺跡のような3世紀にまでさかのぼる早い事例もあるものの、渡来人の本格的移住は5世紀以降で、その中心は筑紫と畿内だったようです。
第12講●河野保博「奈良時代の遣唐使」
遣唐使の構成員は、使節と船員と技能者と留学者に大きく4区分され、使節が遣唐使の中核とされました。施設には大使以下の四等官と書記官などの随員がおり、大使の上に執節使や押使が設置されることもありました。船員は船舶の管理や運航などを担い、技能者には祭祀と関わる卜部や医薬を担当する医師や通訳などがいました。留学者は学問や思想などを学び、専門に特化して学技術研修生もいました。大陸に到着してから長安や洛陽までの経路の詳細には、まだ不明な点が多いようです。奈良時代の日本は、国内向けには唐を蕃夷として、唐に対しては自らを朝貢国と位置づけていました。
第13講●田中史生「鑑真の渡日」
鑑真渡日の基本史料は『唐大和上東征伝』ですが、これには鑑真来日の意義を強調するための潤色や誇張もあるので、他の史料を参照することも不可欠になる、と指摘されています。鑑真は揚州の江陽県の生まれで、父親と同じく揚州大雲寺の智満を師として、708年に具足戒を受けた後は、長安と洛陽を巡遊して講義を受けています。鑑真は日本からの留学僧の栄叡と普照の要請により来日したとされますが、栄叡と普照が当初鑑真に要請したのは、戒師の紹介であって訪日ではなかったようです。鑑真は訪日により日本仏教を一気に高度化しようと考えていたものの、日本が鑑真に求めたのは国家による僧侶の資格審査の厳格化で、鑑真の目指した戒律による自立的自治的僧団の形成は果たされなかった、と指摘されています。
第14講●浜田久美子「渤海と日本」
高句麗の遺民も加わって8世紀末に建国された渤海は、高句麗の故地で建国した、との高句麗継承国意識が強く、唐からは新羅よりも一段低い称号(渤海郡王)が与えられ、渤海国王との称号が唐から初めて与えられたのは762年でした。唐や新羅や黒水靺鞨と緊張関係にあった渤海は、727年に初めて日本に使者を派遣します。日本は自らを中華と位置づけ、渤海を朝貢国とみなします。日本と新羅の関係悪化の一因として、日本と渤海との接近もありました。日本では藤原仲麻呂政権が渤海との関係強化に積極的だったようで、この頃から778年まで、『続日本紀』では渤海が高麗と表記されていることもありますが、これが渤海側の事象なのか、日本が意図的に用いたのかは、確定していません。9世紀には、日本と渤海との外交関係は儀式化・定例化した内容に変わったものの、交易が次第に重視されるようになります。
第15講●菅波正人「鴻臚館と交易」
鴻臚館は海外からの使節や日本から派遣される使節の利用などのため設けられた客館で、その名称は唐代の外交使節の接待官舎だった鴻臚寺に由来します。鴻臚館は平安京と難波津と筑紫に置かれ、とくに考古学的調査が進んでいるのは筑紫の鴻臚館です。鴻臚館の前身は持統朝の記事に見える筑紫館で、大宰府管理下の外交施設だった、とされます。9世紀には、鴻臚館の外交施設としての役割は低下しましたが、11世紀まで海商との朝廷の管理下での交易の拠点となり、11世紀半ばの火災の後で鴻臚館は再建されず、その後で交易の中心となったのが博多でした。
第1講●仁藤敦史「「魏志倭人伝」と邪馬台国」
まず、いわゆる「魏志倭人伝」は当時の中華世界の価値観に基づいた、後世に「正史」とみなされる『三国志』の位置であることを踏まえたうえで、断片的に都合よく使用してはならないことが指摘されています。卑弥呼が魏に使者を派遣するまで、交渉相手としていたのは遼東の公孫氏である可能性が高い、と推測されています。本論考は、卑弥呼の共立により保たれた「平和」は「外国」による権威づけと支持により保たれた危うい秩序だった、と指摘します。また本論考は、後漢もしくは遼東公孫氏が卑弥呼を倭国王として認知しており、魏がそれを追認した可能性も指摘します。
第2講●森公章「倭の五王とワカタケル大王」
倭の五王の時代を通じて、宋における高句麗→百済→倭という序列は変わらなかった、と指摘されています。それでも、倭国王も含めて宋から将軍に任命された諸王は、幕府を開き、幕府を構成する官人(府官)の任命が可能となり、これにより国内秩序の構築が試みられた、と指摘されています。倭の五王が記紀の天皇の誰に相当するのか、古くから関心が寄せられてきましたが、本論考では、最後の武は記紀の雄略天皇である可能性が高く、済は允恭天皇、興は安康天皇とするのが有力とされています。また本書は、天皇の和風諡号から、履中天皇と允恭天皇との間に大きな変化があった、と推測しています。倭の五王の後に南朝への遣使が途絶えた理由として、南朝の後ろ盾なしでの倭王の地位の維持可能が挙げられています。倭王の倭姓が定着しなかったのは、南朝との冊封関係が維持されなかったことと共に、当時の倭国では氏姓制度は未成立だったことが指摘されています。
第3講●佐藤信「筑紫君磐井と東アジア」
本論考は、日本列島における国家形成史において、畿内を中心とするヤマト王権だけではなく、他地域の豪族による国家形成への歩みやアジア東部の「国際関係」も視野に入れるべきと提言し、筑紫君磐井もそうした文脈で把握されています。筑紫君磐井は新羅と交流しつつ、高句麗や百済や伽耶などとの外交権も独占しようと試み、それが畿内を中心とする大王権力にとっては容認できず、磐井の戦いはアジア東部における「国際戦争」だった、と指摘します。ただ一方で、磐井とヤマト王権との間に一定の従属的性格の同盟関係が締結されていたことも想定されています。本論考は、5世紀~6世紀にかけての吉備や毛野など地方豪族とヤマト王権との戦いや摩擦を、ヤマト王権の各地への勢力拡大と関連づけており、磐井とヤマト王権との戦いもそうした文脈に位置づけられます。
第4講●田中俊明「加耶と倭」
伽耶(加耶)は元々、加羅の発音変化により生じた表記で、同じ言葉だったようです。伽耶の範囲については、現在の慶尚南道を中心とする地域との見解と、より広く慶尚北道までを含む地域との見解があり、重なるのは慶尚南道を中心とする地域で、その大半は3世紀半ばには弁韓と呼ばれ、それから400年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)頃までの間に伽耶と呼称が変わりました。伽耶は1国ではなく小国群を指しており、最後まで統一されませんでした。任那とは元々任那加羅で金官国を指しており、伽耶諸国のうち1国にすぎません。倭国と伽耶の関係は、金官国との関係から始まり、それが西側の卓淳国との関係に広がり、さらには伽耶を越えて百済との関係も生じたようです。本論考は、金官と卓淳と安羅という伽耶南部諸国と倭と百済で同盟関係が成立した、と推測し、これを372年体制と呼び、それが6世紀初頭まで維持された、と指摘します。「任那日本府」については、倭国からの使節団を指す、と指摘されています。伽耶については、遺伝学などの研究から日本語系統を話す集団だった可能性も考えられることが注目されます(関連記事)。
第5講●三上喜孝「百済と倭」
百済と倭の密接な関係の前提として、北方の高句麗からの脅威への対抗として、南朝や倭との提携が必要だった、と指摘されています。倭王武の上表文については、漢字文化へのかなりの理解とともに、百済の上表文との親和性の高さから、作成者は中華系の百済からの渡来人ではないか、と推測されています。また、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文からも、人名の字音表記に百済との共通性があり、5世紀の倭は百済からの文字文化に強い影響を受けた、と指摘されています。また、百済から倭への渡来人だけではなく、百済に渡って官人となる倭人もいた、と指摘されています。
第6講●中野高行「高句麗と倭・日本」
倭と高句麗の対立は、百済が高句麗への対抗のため倭と提携したことも大きかったようですが、実際に戦ったこともあってか、倭王武の上表文では高句麗への強い対抗意識が見られます。6世紀半ば以降に倭と高句麗との関係は好転し、欽明朝には「正式な国交」が締結されたようです。高句麗から倭への使者は、北朝の文化をもたらしました。667年、高句麗は唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、それに伴って日本列島に到来した高句麗の民も少なからずいたようで、高松塚古墳の壁画には高句麗からの影響が指摘されています。
第7講●柿沼亮介「新羅と倭・日本」
日本と新羅とは、8世紀には外交使節を互いに追い返すことが繰り返されるなど、関係が悪化しますが、それは自国中心の国際秩序の創出のために相手の存在を必要としていたことも示している、と指摘されています。そうした新羅と日本(倭)との関係は、高句麗からの脅威への抵抗もあってか、5世紀半ばまでには始まっており、5世紀の日本列島の古墳からは、新羅系文物も出土しています。6世紀半ばには、高句麗の南下に対する新羅と百済の協調が崩れ、朝鮮半島は新羅と高句麗と百済の三国による抗争の時代に入ります。7世紀には、日本(倭)は新羅と距離を置き、新羅は唐と提携して百済と高句麗を滅ぼし、その過程で663年には大規模な軍事衝突が起きます(白村江の戦い)。しかし、その後で新羅は唐と対立し、日本(倭)に対しては低姿勢で外交を展開しましたが、高句麗遺民も加わった渤海の建国などもあり、新羅は唐と関係を改善していき、それに伴って上述のように8世紀には日本と新羅の関係は悪化していきましたが、史料に見える新羅使の人数はむしろ増加していき、それは多分に通商目的で、日本と新羅の関係は政治的に悪化していったものの、経済的な結びつきは強化された、とも指摘されています。
第8講●中林隆之「仏教の伝来と飛鳥寺創建」
日本列島における仏教は、まず朝鮮半島や南朝との直接および間接的な交流を前提として、渡来人により受容・信仰され、しだいに定着していきました。日本列島における仏教興隆の方向性を大枠で規定したのは、アジア東部における王権間の交渉を通じた、中央権力(日本列島ではヤマト王権)による導入だった、と指摘されています。日本列島における仏法「公伝」を伝える2系列の史料の評価については、まだ定まっていないようです。本論考は、日本列島における仏法「公伝」について、2系列の史料のみに依拠するのではなく、当時のアジア東部情勢から、慢性的な戦争状態にあった朝鮮半島の百済が、倭からの軍事援助の見返りとして、最新の南朝系仏教を6世紀半ばに相次いで伝えたのではないか、と推測します。飛鳥寺については、高句麗からの影響がどの程度だったのか、議論が続いているようですが、飛鳥寺の意義として、王権整備との関連が指摘されています。
第9講●吉永匡史「遣隋使と倭」
遣隋使については、そもそも派遣回数といった基礎的事実についても確定しておらず、1回から6回まで所説あります(2回説はないようです)。遣隋使について日本で前近代から問題となってきたのは、『日本書紀』に見えず『隋書』倭国伝のみで知られる600年の記録ですが、現在では、これをヤマト王権からの最初の遣隋使とみなすことが定説になっています。607年の第二次遣隋使については、使者の発言も国書も仏教色が強い、と指摘されています。この時の国書に見える「天子」については、中華世界的君主号とは異なる意味だったものの、煬帝はそれを中華世界的価値観から「無礼」とみなした、と推測されています。なお、倭に派遣された裴世清は、下級官僚ではあるものの、名族出身で煬帝と近い官職にあったことから、煬帝が倭を軽視したとは必ずしも言えない、とも指摘されています。
第10講●酒井芳司「白村江の戦いと倭」
白村江の戦いの直接的契機は、660年の百済滅亡と、その後の百済再興運動でした。百済遺臣の鬼室福信が挙兵し、日本(倭)は人質として滞在していた百済王子の余豊璋を百済王として、救援軍派遣を決定します。これは、斉明天皇(当時、まだ天皇号は使用されていなかったかもしれませんが)が九州にまで赴いた点で、異例の事態でした。663年の白村江の戦いで日本(倭)と百済の連合軍は唐と新羅の連合軍に大敗し、百済は完全に滅亡します。百済救援派遣軍は中央豪族が率いる国造軍で、動員は個別の服従関係に依拠しており、組織だったものではなかったことも、敗因とされています。
第11講●亀田修一「渡来人と列島の社会」
本論考は、考古学的研究に基づいて、3世紀半ば~8世紀初頭(おもに古墳時代)の日本列島に到来した人々(渡来人)がどのように定着し、受け入れられ、役割を果たしたのか、検証します。たとえば、福岡平野の西新町遺跡では、3~4世紀の竪穴住居から朝鮮半島南部系と日本列島系の土器が出土しており、「渡来人」と在来集団との共同居住が示唆されます。その後も福岡平野では、7世紀初頭まで渡来系の人々との深い交流を示す考古資料が確認されています。吉備では、5世紀頃の巨大前方後円墳で、朝鮮半島系考古資料が確認されています。本論考はこうした動向を、高句麗の南下による朝鮮半島南部地域の混乱と関連づけています。吉備は5世紀後半に一度衰退した後で、6世紀半ばに新たな渡来人を畿内から受け入れていったようです。畿内では、鉄器および土器の製作や馬飼育に渡来人が深く関わったようです。西日本の全体的傾向として、西新町遺跡のような3世紀にまでさかのぼる早い事例もあるものの、渡来人の本格的移住は5世紀以降で、その中心は筑紫と畿内だったようです。
第12講●河野保博「奈良時代の遣唐使」
遣唐使の構成員は、使節と船員と技能者と留学者に大きく4区分され、使節が遣唐使の中核とされました。施設には大使以下の四等官と書記官などの随員がおり、大使の上に執節使や押使が設置されることもありました。船員は船舶の管理や運航などを担い、技能者には祭祀と関わる卜部や医薬を担当する医師や通訳などがいました。留学者は学問や思想などを学び、専門に特化して学技術研修生もいました。大陸に到着してから長安や洛陽までの経路の詳細には、まだ不明な点が多いようです。奈良時代の日本は、国内向けには唐を蕃夷として、唐に対しては自らを朝貢国と位置づけていました。
第13講●田中史生「鑑真の渡日」
鑑真渡日の基本史料は『唐大和上東征伝』ですが、これには鑑真来日の意義を強調するための潤色や誇張もあるので、他の史料を参照することも不可欠になる、と指摘されています。鑑真は揚州の江陽県の生まれで、父親と同じく揚州大雲寺の智満を師として、708年に具足戒を受けた後は、長安と洛陽を巡遊して講義を受けています。鑑真は日本からの留学僧の栄叡と普照の要請により来日したとされますが、栄叡と普照が当初鑑真に要請したのは、戒師の紹介であって訪日ではなかったようです。鑑真は訪日により日本仏教を一気に高度化しようと考えていたものの、日本が鑑真に求めたのは国家による僧侶の資格審査の厳格化で、鑑真の目指した戒律による自立的自治的僧団の形成は果たされなかった、と指摘されています。
第14講●浜田久美子「渤海と日本」
高句麗の遺民も加わって8世紀末に建国された渤海は、高句麗の故地で建国した、との高句麗継承国意識が強く、唐からは新羅よりも一段低い称号(渤海郡王)が与えられ、渤海国王との称号が唐から初めて与えられたのは762年でした。唐や新羅や黒水靺鞨と緊張関係にあった渤海は、727年に初めて日本に使者を派遣します。日本は自らを中華と位置づけ、渤海を朝貢国とみなします。日本と新羅の関係悪化の一因として、日本と渤海との接近もありました。日本では藤原仲麻呂政権が渤海との関係強化に積極的だったようで、この頃から778年まで、『続日本紀』では渤海が高麗と表記されていることもありますが、これが渤海側の事象なのか、日本が意図的に用いたのかは、確定していません。9世紀には、日本と渤海との外交関係は儀式化・定例化した内容に変わったものの、交易が次第に重視されるようになります。
第15講●菅波正人「鴻臚館と交易」
鴻臚館は海外からの使節や日本から派遣される使節の利用などのため設けられた客館で、その名称は唐代の外交使節の接待官舎だった鴻臚寺に由来します。鴻臚館は平安京と難波津と筑紫に置かれ、とくに考古学的調査が進んでいるのは筑紫の鴻臚館です。鴻臚館の前身は持統朝の記事に見える筑紫館で、大宰府管理下の外交施設だった、とされます。9世紀には、鴻臚館の外交施設としての役割は低下しましたが、11世紀まで海商との朝廷の管理下での交易の拠点となり、11世紀半ばの火災の後で鴻臚館は再建されず、その後で交易の中心となったのが博多でした。
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