井上文則『軍と兵士のローマ帝国』
岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2023年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は軍と兵士の視点からのローマ帝国史で、284年のディオクレティアヌス帝の即位以降の後期ローマ帝国軍も重視していることが特徴です。本書は、漢やパルティアやサーサーン朝など同時代の大国と比較して、職業軍人から構成される常備軍だったことがローマ帝国の軍隊の特徴だった、と指摘します。ただ、ローマ帝国の軍制が当初からそうだったわけではなく、共和政期には市民兵で、軍団は毎年編成されていました。
しかし、ローマがイタリア半島を越えて拡大していく過程で、戦争が慢性化し、市民兵の担い手だった武装を自弁できる中小農民が没落していくなかで、半ば職業軍人化した兵士が現れます。紀元前2世紀後半のグラックス兄弟の改革の失敗後、無産市民も兵の対象とされ、兵士の大半は職業軍人となっていきます。イタリア半島外に領土(属州)が拡大していく中で、治安維持のため軍団も毎年の編成から常備軍化していきます。当初、軍団に入隊可能だったのは、原則としてローマ市民権の保持者だけでした。こうした傾向に沿って常備軍を制度化したのは、初代ローマ皇帝のアウグストゥスでした。本書は、これにより兵士と市民が分離され、両者の間に距離ができたことも指摘します。ただ本書は、ローマ帝国において軍は貧弱な行政機構を補い、兵士は軍務以外のさまざまな役割も担っていたので、兵士と一般市民との日常的な接触があったことも指摘します。
こうして成立したローマ帝国常備軍の各軍団の司令官は、属州エジプトの駐屯軍を除いて元老院議員で、その中でもプラエトル(法務官)経験者から選ばれました。司令官の任期に厳密な規定はなかったものの、通常は3年程度でした。ローマ帝国において、皇帝は軍の支持なしに帝位を保てないので、軍の掌握に注意を払いました。ローマ帝国の軍隊は、すでに軍人皇帝時代の前から帝位継承問題に関わることが多く、その嚆矢は、カリグラ帝が暗殺され、その叔父のクラウディウスを近衛兵が皇帝として擁立したことです。このようにローマ帝国において軍が帝位継承問題に関与で来た理由として、皇帝選出の手続きが定まっていなかったことを本書は指摘します。
帝政期のローマ軍は、五賢帝以降に変容していき、本書はマルクス・アウレリウス帝からコンスタンティヌス帝までの時代を移行期間と把握しています。転機となったのは166~167年に始まったマルコマンニ戦争で、ランゴバルド人とオビイ人がドナウ川を越えて属州パンノニアに侵入してきました。ランゴバルド人とオビイ人は属州駐留軍に撃退されましたが、170年にはマルコマンニ人とクアディ人がイタリア半島にまで侵攻してきました。マルコマンニ戦争は、マルクス・アウレリウス帝の後継者となった息子のコンモドゥス帝の代に終結しましたが、軍司令官と属州総督が、これまでの慣行に囚われず軍事的能力優先で起用されるようになります。その後、セウェルス帝の代に属州駐留軍対策でイタリア半島の軍事力が強化され、兵士の給与を増額します。
しかし、セウェルス帝の兵士優遇策は軍を増長させ、軍人皇帝の時代を迎えます。この軍人皇帝時代に、ウァレリアヌス帝の考案による帝国の分担統治が始まり、各皇帝に直属の常設の機動軍が整備されていき、軍人皇帝の権力基盤となります。この過程で能力主義がさらに定着していき、バルカン半島出身の兵卒が軍司令官に就任するようになります。こうしてローマ軍は変容していき、軍政と民政の分離が徹底されたディオクレティアヌス帝の治世を経てコンスタンティヌス帝の代には、機動軍と辺境防衛軍から構成される後期ローマ帝国の軍制が確立します。この後期ローマ帝国の軍は、攻勢を主目的とする前期ローマ帝国の軍とは異なり、防衛を主眼とするようになった、と本書は指摘します。
上述のようにローマ帝国では初期の頃より軍が皇帝の選出に大きな影響力を有していましたが、コンスタンティヌス帝以降、機動軍が元老院に代わって正当な皇帝を選出して承認するようになり、帝位簒奪者を産み出すこともありました。一方で、3世紀の動乱により人口が減少し、戦争が一層慢性化する中で、軍は兵士の確保に苦慮することになります。その結果、ローマ帝国は帝国外の「異民族」に兵力を頼るようになりますが、「異民族」出身者の割合が高かった、とされる機動軍でも、「異民族」の割合は41%程度だったようです。一方、辺境防衛軍の兵士はほとんどローマ人でした。上述のようにすでにディオクレティアヌス帝の治世で軍政と民政の分離が徹底されたことで、各地を移動する機動軍と市民との関わりは、おもに機動軍の移動先での民家への宿泊となり、これは機動軍における「異民族」出身兵士の割合の高さとともに軍と市民との軋轢を増加させたようです。さらに本書は、このように「異民族」出身兵士の多い軍隊の駐屯に慣れたことにより、ローマ市民は同盟部族軍の大量流入に対して大規模な抵抗を起こさなかったのだろう、と推測します。
こうした中で、4世紀後半にいわゆる大移動が始まり、西ローマ帝国では、総軍司令官のスティリコが東方から来た征服者と西ローマ帝国の人々に考えられていたことから、西ローマ帝国の機動軍との関係が微妙で、同盟部族軍に頼るようになり、その傾向はスティリコの失脚後に一層強くなります。西ローマ帝国では、豊かなアフリカ北部の属州も失い、財政基盤が弱体化する中で機動軍を維持できなくなり、辺境防衛軍も次第に解体していきます。本書は最後に、ローマ帝国の軍制史をユーラシア史に位置づけ、ローマ帝国の常備軍を支えたのはシルクロード交易からの関税収入で(関連記事)、シルクロード交易を支えていた諸帝国によるユーラシアの政治的安定が2世紀半ば以降に崩れていき、それに伴ってローマ帝国軍もより専業化していった、と指摘します。東西のローマ帝国の運命の違いについて本書は、東ローマ帝国はその地勢から「異民族」の侵入が限定的だったことを挙げます。さらに本書は、ローマ帝国を一体の世界と把握する見解が常識とされているものの、歴史的に重要な境界線はユーフラテス川ではなく東西のローマの境だったのではないか、と指摘します。つまり、ローマ帝国東方はローマ帝国西方よりもパルティアやサーサーン朝と一体ものとして把握すべきではないか、というわけです。
しかし、ローマがイタリア半島を越えて拡大していく過程で、戦争が慢性化し、市民兵の担い手だった武装を自弁できる中小農民が没落していくなかで、半ば職業軍人化した兵士が現れます。紀元前2世紀後半のグラックス兄弟の改革の失敗後、無産市民も兵の対象とされ、兵士の大半は職業軍人となっていきます。イタリア半島外に領土(属州)が拡大していく中で、治安維持のため軍団も毎年の編成から常備軍化していきます。当初、軍団に入隊可能だったのは、原則としてローマ市民権の保持者だけでした。こうした傾向に沿って常備軍を制度化したのは、初代ローマ皇帝のアウグストゥスでした。本書は、これにより兵士と市民が分離され、両者の間に距離ができたことも指摘します。ただ本書は、ローマ帝国において軍は貧弱な行政機構を補い、兵士は軍務以外のさまざまな役割も担っていたので、兵士と一般市民との日常的な接触があったことも指摘します。
こうして成立したローマ帝国常備軍の各軍団の司令官は、属州エジプトの駐屯軍を除いて元老院議員で、その中でもプラエトル(法務官)経験者から選ばれました。司令官の任期に厳密な規定はなかったものの、通常は3年程度でした。ローマ帝国において、皇帝は軍の支持なしに帝位を保てないので、軍の掌握に注意を払いました。ローマ帝国の軍隊は、すでに軍人皇帝時代の前から帝位継承問題に関わることが多く、その嚆矢は、カリグラ帝が暗殺され、その叔父のクラウディウスを近衛兵が皇帝として擁立したことです。このようにローマ帝国において軍が帝位継承問題に関与で来た理由として、皇帝選出の手続きが定まっていなかったことを本書は指摘します。
帝政期のローマ軍は、五賢帝以降に変容していき、本書はマルクス・アウレリウス帝からコンスタンティヌス帝までの時代を移行期間と把握しています。転機となったのは166~167年に始まったマルコマンニ戦争で、ランゴバルド人とオビイ人がドナウ川を越えて属州パンノニアに侵入してきました。ランゴバルド人とオビイ人は属州駐留軍に撃退されましたが、170年にはマルコマンニ人とクアディ人がイタリア半島にまで侵攻してきました。マルコマンニ戦争は、マルクス・アウレリウス帝の後継者となった息子のコンモドゥス帝の代に終結しましたが、軍司令官と属州総督が、これまでの慣行に囚われず軍事的能力優先で起用されるようになります。その後、セウェルス帝の代に属州駐留軍対策でイタリア半島の軍事力が強化され、兵士の給与を増額します。
しかし、セウェルス帝の兵士優遇策は軍を増長させ、軍人皇帝の時代を迎えます。この軍人皇帝時代に、ウァレリアヌス帝の考案による帝国の分担統治が始まり、各皇帝に直属の常設の機動軍が整備されていき、軍人皇帝の権力基盤となります。この過程で能力主義がさらに定着していき、バルカン半島出身の兵卒が軍司令官に就任するようになります。こうしてローマ軍は変容していき、軍政と民政の分離が徹底されたディオクレティアヌス帝の治世を経てコンスタンティヌス帝の代には、機動軍と辺境防衛軍から構成される後期ローマ帝国の軍制が確立します。この後期ローマ帝国の軍は、攻勢を主目的とする前期ローマ帝国の軍とは異なり、防衛を主眼とするようになった、と本書は指摘します。
上述のようにローマ帝国では初期の頃より軍が皇帝の選出に大きな影響力を有していましたが、コンスタンティヌス帝以降、機動軍が元老院に代わって正当な皇帝を選出して承認するようになり、帝位簒奪者を産み出すこともありました。一方で、3世紀の動乱により人口が減少し、戦争が一層慢性化する中で、軍は兵士の確保に苦慮することになります。その結果、ローマ帝国は帝国外の「異民族」に兵力を頼るようになりますが、「異民族」出身者の割合が高かった、とされる機動軍でも、「異民族」の割合は41%程度だったようです。一方、辺境防衛軍の兵士はほとんどローマ人でした。上述のようにすでにディオクレティアヌス帝の治世で軍政と民政の分離が徹底されたことで、各地を移動する機動軍と市民との関わりは、おもに機動軍の移動先での民家への宿泊となり、これは機動軍における「異民族」出身兵士の割合の高さとともに軍と市民との軋轢を増加させたようです。さらに本書は、このように「異民族」出身兵士の多い軍隊の駐屯に慣れたことにより、ローマ市民は同盟部族軍の大量流入に対して大規模な抵抗を起こさなかったのだろう、と推測します。
こうした中で、4世紀後半にいわゆる大移動が始まり、西ローマ帝国では、総軍司令官のスティリコが東方から来た征服者と西ローマ帝国の人々に考えられていたことから、西ローマ帝国の機動軍との関係が微妙で、同盟部族軍に頼るようになり、その傾向はスティリコの失脚後に一層強くなります。西ローマ帝国では、豊かなアフリカ北部の属州も失い、財政基盤が弱体化する中で機動軍を維持できなくなり、辺境防衛軍も次第に解体していきます。本書は最後に、ローマ帝国の軍制史をユーラシア史に位置づけ、ローマ帝国の常備軍を支えたのはシルクロード交易からの関税収入で(関連記事)、シルクロード交易を支えていた諸帝国によるユーラシアの政治的安定が2世紀半ば以降に崩れていき、それに伴ってローマ帝国軍もより専業化していった、と指摘します。東西のローマ帝国の運命の違いについて本書は、東ローマ帝国はその地勢から「異民族」の侵入が限定的だったことを挙げます。さらに本書は、ローマ帝国を一体の世界と把握する見解が常識とされているものの、歴史的に重要な境界線はユーフラテス川ではなく東西のローマの境だったのではないか、と指摘します。つまり、ローマ帝国東方はローマ帝国西方よりもパルティアやサーサーン朝と一体ものとして把握すべきではないか、というわけです。
この記事へのコメント