現代人のシャベル型切歯
今年(2023)は時には独自の文章を掲載しようと考え(関連記事)、ほぼ取り上げた文献を整理するだけになってしまうとはいえ、自分なりに整理することにも意味があると考えて、今回は現代人のシャベル型切歯について短くまとめます。アジア東方の人口集団では、いくつかの歯の特徴が「モンゴロイド歯科複合」と呼ばれる混合表現型としてまとめられており、後にシノドントとスンダドントに二分されました(Kataoka et al., 2021、関連記事)。シノドント型の特徴の一つがシャベル型切歯で、アジア東部現代人やアメリカ大陸先住民集団において高頻度で見られ(Kataoka et al., 2021)、「北京原人」などアジア東部の非現生人類(Homo sapiens)ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)にも存在することから、アジア東部における非現生人類(Homo sapiens)ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)と現代人との遺伝的連続性を主張する現生人類多地域進化説の重要な形態学的根拠とされており(Cheng., 2017、関連記事)、「丁村人,北京原人,現代黄色人種の間には体質形態上少なからぬ類似点がみられる。たとえばシャベル形の切歯を持つことや頭頂骨の後上角に鋸歯状のぎざぎざを持つことからインカ骨があると考えられること等は,三者の間に親縁関係のあったことを示すものである」と指摘されています(呉., 1981、関連記事)。
こうした見解は、日本でも一般向けの中国古代史概説などで取り上げられてきたこと(貝塚他.,2000,P44-45)から、かなり浸透しているように思います。しかし、すでに2013年までに、現代人のシャベル型切歯の遺伝的基盤が特定され、その変異の出現年代は3万年前頃と推測されていました(Harris.,2016,P241-242、関連記事)。シャベル型切歯の遺伝的基盤はエクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型(SNP)rs3827760(塩基がTだと一般的に分布しており祖先的、Cだと一部地域の分布で派生的と推測されます)の370Aアレル(対立遺伝子)にあり、この派生的多様体は3万年前頃に出現したのだろう、というわけです(シャベル型切歯の程度と確率は、TT→CT→CCの順に高くなります)。派生的と推測される370Aアレル(祖先的と推測される多様体は370Vアレル)は歯根形態(Kataoka et al., 2021)や汗腺密度および乳腺管分岐の増大にも関わっており、紫外線量の少ない高緯度地帯への適応だった可能性が指摘されています(Hlusko et al., 2018、関連記事)。つまり、シャベル型切歯自体には適応度を上げる機能がなかったとしても、その遺伝的基盤は別の表現型と関わっており、その表現型が高緯度地帯において適応度を上げたかもしれない、というわけです。
このように2013年の時点で、アジア東部現代人やアメリカ大陸先住民集団に高頻度で見られるシャベル型切歯は、アジア東部における非現生人類ホモ属と現代人との間の遺伝的連続性の証拠にはならない、と示されていました。さらに言えば、1995年の時点で、歯の形態学的分析から、アジア東部の非現生人類ホモ属と現代人の歯の発達過程は異なっており、アジア東部における非現生人類ホモ属と現代人との間の遺伝的連続性の証拠にはならない、と示唆されていました(Robert.,2013,P273、関連記事)。歴史学者による一般向けの書籍でこうした事情が取り上げられていないとしても仕方ないとは思いますが、原書が2015年に刊行された古人類学者による一般向け書籍でも、アジア東部現代人とアジア東部の非現生人類ホモ属との関連性が示唆されていたくらいで(Lee, and Yoon., 2018,P322、関連記事)、現代人のシャベル型切歯はアジア東部における非現生人類ホモ属と現代人との間の遺伝的連続性を示している、との見解には根強いものがありそうです。
シャベル型切歯の遺伝的基盤となる370Aアレルは古代ゲノム研究でも注目されており、大陸部アジア東部において、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前となる、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性の個体(田園個体)と、アムール川流域の33000年前頃の個体(AR33K)を除いて、他の古代人では370Aアレルが確認されました(Mao et al., 2021、関連記事)。370Aアレルが確認された最古の個体はアムール川流域の19000年前頃の個体(AR19K)で、田園個体とAR33Kがアジア東部現代人の主要な祖先と遅くとも4万年前頃までには遺伝的に分岐した、恐らくは現代人に遺伝的影響を殆ど若しくは全く残していない分類群(仮に田園洞集団と命名します)に位置づけられるのに対して、AR19Kはアジア東部現代人の主要な2つの遺伝的構成要素(アジア東部の北方と南方)のうち、アジア東部北方系の方とより近縁です(Mao et al., 2021)。
この古代ゲノム研究の知見は、370Aアレルの出現を3万年前頃とする研究と整合的です。370Aアレルの正確な出現年代はまだ絞り込めず、田園洞集団とアジア東部現代人の主要な祖先集団の分岐前にすでに出現しており、田園洞集団では低頻度で、アジア東部現代人の主要な祖先集団ではLGMの前後に頻度が上昇した、とも考えられますが、370Aアレルの出現が3万年前頃だとすると、田園洞集団とアジア東部現代人の主要な祖先集団の分岐後に、後者の系統で出現したのでしょう。ともかく、もはやシャベル型切歯をアジア東部における非現生人類ホモ属と現代人との遺伝的連続性の証拠とすることはとても無理でしょう。
日本列島の縄文時代個体群は遺伝的に、田園洞集団とアジア東部現代人の主要な祖先集団が分岐した後に、アジア東部現代人の主要な祖先集団と分岐した、と推測されており、高品質なゲノムデータが得られている北海道の礼文島の個体(F23)が、rs3827760において派生型の370Aアレルではなく祖先的と推測される370Vアレルを同型接合で有しており、形態学的研究でも縄文時代個体群では非シャベル型切歯の頻度は高かった、とされています(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)。縄文時代個体群の起源について、アジア東部現代人の主要な祖先集団からの単純な分岐なのか、アジア東部現代人の主要な祖先集団の一部とアンダマン諸島のオンゲ人と遺伝的に比較的近い集団との混合なのか、それ以外の複雑な混合なのか、まだ確定したとは言い難いように思うので(Wang et al., 2023、関連記事)、縄文時代個体群と370Aアレルとの関連も断定はできませんが、縄文時代個体群の主要な祖先は、370Aアレルを有していなかったか、低頻度だった可能性が高そうです。
参考文献:
Cheng Y.(2017): “Is Peking Man Still Our Ancestor?”—Genetics, Anthropology, and the Politics of Racial Nationalism in China. The Journal of Asian Studies, 76, 3, 575–602.
https://doi.org/10.1017/S0021911817000493
関連記事
Harris EE.著(2016)、水谷淳訳『ゲノム革命 ヒト起源の真実』(早川書房、原書の刊行は2015年)
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Hlusko LJ. et al.(2018): Environmental selection during the last ice age on the mother-to-infant transmission of vitamin D and fatty acids through breast milk. PNAS, 115, 19, E4426–E4432.
https://doi.org/10.1073/pnas.1711788115
関連記事
Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
関連記事
Kataoka K. et al.(2021): The human EDAR 370V/A polymorphism affects tooth root morphology potentially through the modification of a reaction–diffusion system. Scientific Reports, 11, 5143.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-84653-4
関連記事
Lee SH, and Yoon SY.著(2018)、松井信彦訳『人類との遭遇 はじめて知るヒト誕生のドラマ』(早川書房、原書の刊行は2015年)
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Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040
関連記事
Robert A.著(2013)、野中香方子訳『人類20万年遥かなる旅路』(文藝春秋社、原書の刊行は2009年)
関連記事
Wang K. et al.(2023): Middle Holocene Siberian genomes reveal highly connected gene pools throughout North Asia. Current Biology, 33, 3, 423–433.E5.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2022.11.062
関連記事
貝塚茂樹、伊藤道治(2000)『古代中国』(講談社)
呉汝康著、谷豊信翻訳(1981)「中国古人類学30年」『人類學雜誌』第89巻第2号P127-135
https://doi.org/10.1537/ase1911.89.127
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こうした見解は、日本でも一般向けの中国古代史概説などで取り上げられてきたこと(貝塚他.,2000,P44-45)から、かなり浸透しているように思います。しかし、すでに2013年までに、現代人のシャベル型切歯の遺伝的基盤が特定され、その変異の出現年代は3万年前頃と推測されていました(Harris.,2016,P241-242、関連記事)。シャベル型切歯の遺伝的基盤はエクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型(SNP)rs3827760(塩基がTだと一般的に分布しており祖先的、Cだと一部地域の分布で派生的と推測されます)の370Aアレル(対立遺伝子)にあり、この派生的多様体は3万年前頃に出現したのだろう、というわけです(シャベル型切歯の程度と確率は、TT→CT→CCの順に高くなります)。派生的と推測される370Aアレル(祖先的と推測される多様体は370Vアレル)は歯根形態(Kataoka et al., 2021)や汗腺密度および乳腺管分岐の増大にも関わっており、紫外線量の少ない高緯度地帯への適応だった可能性が指摘されています(Hlusko et al., 2018、関連記事)。つまり、シャベル型切歯自体には適応度を上げる機能がなかったとしても、その遺伝的基盤は別の表現型と関わっており、その表現型が高緯度地帯において適応度を上げたかもしれない、というわけです。
このように2013年の時点で、アジア東部現代人やアメリカ大陸先住民集団に高頻度で見られるシャベル型切歯は、アジア東部における非現生人類ホモ属と現代人との間の遺伝的連続性の証拠にはならない、と示されていました。さらに言えば、1995年の時点で、歯の形態学的分析から、アジア東部の非現生人類ホモ属と現代人の歯の発達過程は異なっており、アジア東部における非現生人類ホモ属と現代人との間の遺伝的連続性の証拠にはならない、と示唆されていました(Robert.,2013,P273、関連記事)。歴史学者による一般向けの書籍でこうした事情が取り上げられていないとしても仕方ないとは思いますが、原書が2015年に刊行された古人類学者による一般向け書籍でも、アジア東部現代人とアジア東部の非現生人類ホモ属との関連性が示唆されていたくらいで(Lee, and Yoon., 2018,P322、関連記事)、現代人のシャベル型切歯はアジア東部における非現生人類ホモ属と現代人との間の遺伝的連続性を示している、との見解には根強いものがありそうです。
シャベル型切歯の遺伝的基盤となる370Aアレルは古代ゲノム研究でも注目されており、大陸部アジア東部において、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前となる、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性の個体(田園個体)と、アムール川流域の33000年前頃の個体(AR33K)を除いて、他の古代人では370Aアレルが確認されました(Mao et al., 2021、関連記事)。370Aアレルが確認された最古の個体はアムール川流域の19000年前頃の個体(AR19K)で、田園個体とAR33Kがアジア東部現代人の主要な祖先と遅くとも4万年前頃までには遺伝的に分岐した、恐らくは現代人に遺伝的影響を殆ど若しくは全く残していない分類群(仮に田園洞集団と命名します)に位置づけられるのに対して、AR19Kはアジア東部現代人の主要な2つの遺伝的構成要素(アジア東部の北方と南方)のうち、アジア東部北方系の方とより近縁です(Mao et al., 2021)。
この古代ゲノム研究の知見は、370Aアレルの出現を3万年前頃とする研究と整合的です。370Aアレルの正確な出現年代はまだ絞り込めず、田園洞集団とアジア東部現代人の主要な祖先集団の分岐前にすでに出現しており、田園洞集団では低頻度で、アジア東部現代人の主要な祖先集団ではLGMの前後に頻度が上昇した、とも考えられますが、370Aアレルの出現が3万年前頃だとすると、田園洞集団とアジア東部現代人の主要な祖先集団の分岐後に、後者の系統で出現したのでしょう。ともかく、もはやシャベル型切歯をアジア東部における非現生人類ホモ属と現代人との遺伝的連続性の証拠とすることはとても無理でしょう。
日本列島の縄文時代個体群は遺伝的に、田園洞集団とアジア東部現代人の主要な祖先集団が分岐した後に、アジア東部現代人の主要な祖先集団と分岐した、と推測されており、高品質なゲノムデータが得られている北海道の礼文島の個体(F23)が、rs3827760において派生型の370Aアレルではなく祖先的と推測される370Vアレルを同型接合で有しており、形態学的研究でも縄文時代個体群では非シャベル型切歯の頻度は高かった、とされています(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)。縄文時代個体群の起源について、アジア東部現代人の主要な祖先集団からの単純な分岐なのか、アジア東部現代人の主要な祖先集団の一部とアンダマン諸島のオンゲ人と遺伝的に比較的近い集団との混合なのか、それ以外の複雑な混合なのか、まだ確定したとは言い難いように思うので(Wang et al., 2023、関連記事)、縄文時代個体群と370Aアレルとの関連も断定はできませんが、縄文時代個体群の主要な祖先は、370Aアレルを有していなかったか、低頻度だった可能性が高そうです。
参考文献:
Cheng Y.(2017): “Is Peking Man Still Our Ancestor?”—Genetics, Anthropology, and the Politics of Racial Nationalism in China. The Journal of Asian Studies, 76, 3, 575–602.
https://doi.org/10.1017/S0021911817000493
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Harris EE.著(2016)、水谷淳訳『ゲノム革命 ヒト起源の真実』(早川書房、原書の刊行は2015年)
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Hlusko LJ. et al.(2018): Environmental selection during the last ice age on the mother-to-infant transmission of vitamin D and fatty acids through breast milk. PNAS, 115, 19, E4426–E4432.
https://doi.org/10.1073/pnas.1711788115
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Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
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Kataoka K. et al.(2021): The human EDAR 370V/A polymorphism affects tooth root morphology potentially through the modification of a reaction–diffusion system. Scientific Reports, 11, 5143.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-84653-4
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Lee SH, and Yoon SY.著(2018)、松井信彦訳『人類との遭遇 はじめて知るヒト誕生のドラマ』(早川書房、原書の刊行は2015年)
関連記事
Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040
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Robert A.著(2013)、野中香方子訳『人類20万年遥かなる旅路』(文藝春秋社、原書の刊行は2009年)
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Wang K. et al.(2023): Middle Holocene Siberian genomes reveal highly connected gene pools throughout North Asia. Current Biology, 33, 3, 423–433.E5.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2022.11.062
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貝塚茂樹、伊藤道治(2000)『古代中国』(講談社)
呉汝康著、谷豊信翻訳(1981)「中国古人類学30年」『人類學雜誌』第89巻第2号P127-135
https://doi.org/10.1537/ase1911.89.127
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