ポーランドの鉄器時代と中世の人類集団のゲノムデータ
ポーランドの鉄器時代と中世の人類集団のゲノムデータを報告した研究(Stolarek et al., 2023)が公表されました。近年の古代ゲノム研究の進展は目覚ましく、ヨーロッパは最も古代ゲノム研究の蓄積が多い地域と言えるでしょう(関連記事)。古代ゲノム研究は、歴史時代よりも文献のない先史時代の方が優先されている感もありますが、古代ゲノム研究が最も進んでいる地域であるヨーロッパでは、歴史時代の研究も進んでおり、今後は日本列島も含めてユーラシア東部圏において、ヨーロッパに少しでも近づけるよう、古代ゲノム研究が進むことを期待しています。
●要約
ヨーロッパ東部および中央部におけるスラブ人の出現は、相反する二つの仮説により200年以上にわたって議論されてきました。最初の仮定は、スラブ人は現在のポーランドに6世紀以前に到来した、というものです。第二の仮定は、スラブ人は鉄器時代(Iron Age、略してIA)にはすでにこの地域に居住していた、というものです。死者の火葬が後期青銅器時代(late Bronze Age、略してLBA)から中世(Middle Ages、略してMA)まで一般的な慣行だったことを考えると、どちらかの仮説の検証は些細なことではありません。
この問題に取り組むため、現在のポーランドの領域の、IAヴィェルバルク(Wielbark)文化と中世スラブ関連文化の代表者の遺伝的構成が決定されました。この研究には、27ヶ所の墓地に埋葬された474個体が含まれます。そのうち197個体で、ゲノム規模データが得られました。IAヴィェルバルク文化関連個体群およびその同時代の個体群とより古いヨーロッパ北部人口集団との間の、密接な遺伝的類似性が見つかりました。さらに、IA個体群には中世人口集団のモデル化に不可欠な遺伝的構成要素がある、と観察されました。
収集されたデータから、ヴィェルバルク文化関連IA人口集団は現在のポーランド地域に北方から到来した意味により形成され、その時期は紀元千年紀の始まりである可能性が最も高く、在来集団と混合した、と示唆されます。本論文で提示された結果は、ヨーロッパ東部および中央部におけるIAと中世との間の遺伝的連続を仮定する仮説と一致します。
●研究史
蛮族の圧力による西ローマ帝国の衰退は、新たに政治的やよび民族的構造の出現につながりました(関連記事)。ローマ帝国の版図における古代からキリスト教への変容の根底にある歴史的出来事と過程は比較的よく認識されていますが、ローマ帝国外、とくに新たに形成されたキリスト教共同体に属さなかった地域で並行して起きた過程はよく理解されておらず、それにはヨーロッパ中央部におけるスラブ人の出現が含まれます。スラブ人の出現の説明に、二つの相反する仮説が立てられました。外来仮説では、スラブ人はヨーロッパのこの地域に6世紀以降に移住した、とされますが、在来仮説では、伝統的に375年(フン人によるヨーロッパ侵略)から568年(ランゴバルド人によるイタリア征服)までとされる大移動期のずっと前に、スラブ人はオーデル川とヴィスワ川の間に居住していた、と仮定されます。
これまでに収集されたデータから、紀元前3700~紀元前1800年頃となる後期新石器時代末には、ヨーロッパ中央部に居住していた人口集団の遺伝的構造は安定しており、紀元前1800~紀元前700年頃となる青銅器時代末まで大きくは変化しないままだった、と示唆されます。主要な3遺伝的構成要素が、その時点においてこの地域に暮らしていた人々のゲノムを構成していました。第一の構成要素は、ヨーロッパに14000年前頃に到来した、中石器時代西方狩猟採集民(Mesolithic western hunter-gatherer、略してWHG)と関連していました(関連記事)。第二の構成要素は、ヨーロッパに8000~7000年前頃に移住した、新石器時代アナトリア半島農耕民(Neolithic Anatolian farmers、略してNAF)と関連していました。第三の構成要素は、5000~4000年前頃にヨーロッパ東部および中央部に拡大した、ヤムナヤ(Yamnaya)文化草原地帯牧畜民(YAM)と関連していました。青銅器時代から中世(MA)までのこの地域に暮らす人口集団での火葬の普及に起因する考古ゲノム研究の代表的な生物学的資料の欠如を考えると、ヨーロッパ中央部の遺伝的構成が鉄器時代(IA)にどのように形成されたのかは、未解決問題となっています。
この研究では、限られた期間において、現在のポーランドに相当する地域において、ヴィェルバルク文化と関連する人口集団内で土葬が支配的な葬儀慣行だった、という事実が利用されました。この人口集団は1~5世紀にかけてヴィスワ川流域に存在し、その後に消滅しました。一部の理論は、ヴィェルバルク文化の出現をゴート人と一般的に呼ばれる人々の移住と関連づけます。考古学的調査結果から、5世紀には、ヴィェルバルク文化関連集団は先行する依然として火葬を行なっていたプシェヴォルスク(Przeworsk)文化と関連する人々とともに暮らしていた、と示唆されています。現在のポーランドの領域におけるヴィェルバルク文化とプシェヴォルスク文化の共存の最終段階は、大移動期と重複しています。その末期後に、この地域の物質文化はより均一になっていき、考古学者はその文化を一般に、最初のポーランド支配王朝が966年に洗礼を受けた時まで死者の火葬を行なっていた、スラブ人と関連づけています。
ヴィェルバルク文化と関連するIA集団のミトコンドリアゲノムの最近の分析から、母系の観点では男性個体が遺伝的にIAスカンジナビア半島南部人と最も近く、その遺伝的歴史は女性で観察されたものとは異なり、女性はヨーロッパ中央部の中期新石器時代集団と最も密接に関連していた、と示されました。これが強く示唆しているのは、ヴィェルバルク文化と関連する人々は新参者で、紀元後の始まりの頃に現在のポーランドの領土に暮らしていた在来人口集団と混合した、ということです。したがって、ヴィェルバルク文化の個体群のゲノムに存在する遺伝的混合を識別し、この混合を中世の同じ地域に暮らす人々のゲノムと比較することにより、外来仮説と在来仮説の両方を検証できます。この情報を考慮し、IAヴィェルバルク文化と中世スラブ人関連文化の代表者の全ゲノム解析が実行されました。
●研究対象集団の説明
大移動期前後のヨーロッパ東部および中央部に居住していた人口集団の生物学的歴史を再構築するため、現在のポーランドの27ヶ所の墓地に埋葬され、放射性炭素年代でIA(紀元前2世紀~紀元後4世紀、ヴィェルバルク文化の5ヶ所の墓地)および中世(10~13世紀、スラブ人関連の22ヶ所の墓地)となる、474個体から採取されたDNA標本が分析されました(図1a・b)。DNAが分離され、以前に説明されているように全ゲノム配列決定が実行されました。全標本で、DNAは古代DNAに特徴的な死後損傷(post-mortem damage、略してPMD)のパターンを示しました。以下は本論文の図1です。
ほとんどの標本で、X染色体とミトコンドリアDNA(mtDNA)両方に基づく他のヒトとの汚染の低水準(それぞれ平均で1.3%と2.2%)が見つかりました。高いX染色体とmtDNAに基づく汚染は、それぞれ2点の標本と15点の標本で検出され、以後の分析から除外されました。したがって、この研究では、IA(134点)と中世(323点)の2集団に区分される457点の標本が含まれました。さらなる分析に適したゲノム規模データは、IA集団で68個体、中世集団で129個体の計197個体で得られ、その具体的な基準は、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とADMIXTUREおよびqpADM分析のため少なくとも1万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)がある個体です。334個体の性別が決定され、IA集団では97個体(男性は45%)、中世集団では237個体(男性は58%)です。mtDNAハプログループ(mtHg)は343個体(IA集団が105個体、中世集団が238個体)で分類され、Y染色体ハプログループ(YHg)は155個体(IA集団が445個体、中世集団が110個体)で分類されました。
●IA集団と中世集団の類似性
研究対象となった古代の人口集団とヨーロッパに暮らす現在の人口集団の遺伝的構造を比較するため、IA集団と中世集団の個体群で得られたゲノム規模データが、ユーラシア西部現代人の遺伝的差異を説明する対応データセット(ヒト起源データセット)と比較されました。PCAでは、IAと中世両方の個体群がヨーロッパ中央部および東部に暮らす個体群とより多く重複していた、と示されました。IA個体群はヨーロッパ北西部に暮らす人々の方へと動いていましたが、MA個体群はヨーロッパ東部および中央部に暮らす人々の方とより多く重複していました。
IAおよび中世人口集団の遺伝的構造についてより多く学ぶため、参照データセット(ヒト起源データセット)としてユーラシア西部とアフリカの現代人を用いて、各研究対象個体について別々に教師なしADMIXTURE 分析が実行されました(図1d)。研究対象の各個体について、9の推定人口集団、つまりK(系統構成要素数)= 9でその関連が評価されました。IA個体群のDNAに存在する主要な遺伝的構成要素がヨーロッパ北西部現代人で最大化される遺伝的構成要素だったのに対して、中世個体群DNAは平均して、ヨーロッパ東部および中央部現代人のゲノムで最大化される遺伝的構成要素の最高の寄与を有していた、と分かりました。
PCAとADMIXTUREの結果は、Fst(2集団の遺伝的分化の程度を示します)係数によりさらに裏づけられ、Fstは、ヨーロッパ北西部現代人と中世個体群との間よりも、ヨーロッパ北西部現代人とIA個体群との間の方でより小さな遺伝的距離を示しました。この分析は、IA集団の多くの個体が、現在のヨーロッパ中央部および東部人口集団において高頻度で観察される遺伝的構成要素の高い割合(20%超)により特徴づけられる、中世集団の個体群と類似した遺伝的構造を有していることも明らかにしました。6個体の事例では、これはかなりの割合(40%超)でした(図1d)。ヨーロッパ北西部の古代の人口集団(IAもしくは中世)において類似のヨーロッパ東部の遺伝的構成要素は観察されず、この構成要素は現在のヨーロッパ北部人口集団においてひじょうに低水準で検出されました。IA集団と類似の遺伝的構成は、ハンガリーのスゾラッド(Szolad)に暮らす人口集団と関連する6世紀のランゴバルド人の移住期の数点の標本(ハンガリー_スゾラッド_大移動期)と、ウクライナの4世紀のチェルニャコヴォ(Chernyakhov)文化と関連する1個体で見つかりました。
PCAの解像度を高めるため、IAおよび中世個体群から得られたゲノムデータが、以下の現在のヨーロッパ中央部および東部とスカンジナビア半島の5人口集団で生成された類似のデータと比較されました。それは、ヨーロッパ東部、ヨーロッパ北西部、バルト海地域、フィンランド、ノルウェーです(図2a)。その結果も、IAと中世の人口集団の明確な分離を示しました。IA個体の大半はヨーロッパ北西部およびノルウェーの人口集団と同じPCA空間を占めていましたが、中世個体の大半はヨーロッパ東部および中央部現代人とともに位置しており、一部の個体はノルウェーの人口集団の近くか、ドイツおよびスラブ人口集団が相互に隣接するPCA図の区画に位置しました。以下は本論文の図2です。
研究対象とされた個体のほとんどの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)特性がヨーロッパ北西部もしくはヨーロッパ東部および中央部の現代人で観察されたものと類似していたことを考慮して、これら現在の人口集団がIAと中世の各個体の教師有ADMIXTURE分析で参照(K=2)として用いられました(図2b)。IA個体群は最高の割合のヨーロッパ北西部祖先系統を、中世個体群は最高の割合のヨーロッパ東部および中央部祖先系統を有していました。PCAとADMIXTUREの結果は、f₄形式(ヨーロッパ東部および中央部人、ヨーロッパ北西部人、X、ムブティ人)のf₄統計によりさらに裏づけられ、ここでXはIAおよび中世集団の研究対象の古代の個体を示します(図2c)。この検定では、IAおよび中世集団の個体群が、それぞれヨーロッパ北西部とヨーロッパ東部および中央部の現代人と有意により多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた、と示されました。
研究対象となった個体群の正確な表現型は不明ですが、髪や皮膚や目の色と関連する遺伝子座における推定された人口集団規模のアレル頻度から、両集団の個体群は平均して、金髪で、肌の色が明るく、青色の目だった、と示唆されました。
研究対象の人口集団と他のヨーロッパ古代人との間の関係を判断するため、類似のPCAと教師有ADMIXTURE分析が実行されました。その結果、IA個体群と中世個体群の遺伝的祖先系統は類似しており、BA(青銅器時代)後のヨーロッパで典型的だった、と論証されました。つまり、ヨーロッパ人全員に共通する3つの主要な遺伝的構成要素(WHGとNAFとYAM)が等しく、研究対象の両集団の個体群のゲノムに寄与しました。上述の調査結果から、IAと中世の人口集団間で観察された遺伝的差異は、IAに起きた可能性が最も高い局所的な人口統計学的過程から生じた、と示唆されます。
●IA集団の遺伝的歴史
IAおよび中世集団と、その現在の人口集団との関連に焦点を当てた以前の分析は、どの古代の人口集団がIA集団の遺伝的構成に寄与したのかについて、明確な回答を提供できませんでした。この問題を調べるため、在来のIA人口集団を表すだろう外れ値の、IA集団内での特定が試みられました。そうした個体は、ヴィェルバルク文化と関連する侵入者と混合した人口集団のモデル化に使用できるかもしれません。残念ながら、この手法のどれも、外れ値の特定はできませんでした。
IA集団の歴史へのより深い洞察を得るため、IA集団が個々の遺跡に応じて3つの部分集合に区分されました。それは、IA_プルスク_グダニスク(Pruszcz_Gdanski)とIA_コバレフコ(Kowalewko)とIA_マスウォメンチ(Maslomecz)です。1ヶ所の遺跡IA_ガスキ(Gaski)は分析から除外されました。IA_ガスキはプシェヴォルスク文化と関連しているとされる2個体により表されていました。しかし、両個体ともプシェヴォルスク文化の慣行に従って埋葬されておらず、低網羅率の配列決定データしか得られませんでした。考古学および歴史学の調査結果に基づいて、ヴィェルバルク文化関連のIA個体群は、在来のIA人口集団との混合を有するヨーロッパ北部の移民人口集団と予測されました。
移民の起源をより詳しく知るため、f₄形式(IA_X、MA、検証人口集団、ヨルバ人)のf₄統計が計算され、IA_XはIA_プルスク_グダニスクかIA_コバレフコかIA_マスウォメンチ、MA(中世)は研究対象の中世集団で、検証人口集団は、中世集団に先行するか同時代の459の以前に特定された古代の人口集団の1つです。本論文の予測によると、IA_XはMAと比較して、古代ヨーロッパの北部人口集団(デンマーク_IA、ノルウェー_IA、スウェーデン_IA)や北西部人口集団(イングランド_サクソン、アイルランド_ヴァイキング)ヨーロッパ、およびハンガリー_スゾラッド_大移動期人口集団と有意により多くのアレル(対立遺伝子)を共有します。
qpAdmを使用して、IA集団に先行するか同時代の古代の人口集団がIA_X時の単一の祖先系統供給源であり得るのかどうかも、検証されました。以前の結果と一致して、IA_X各人口集団について、有効な1方向モデルは、供給源としてデンマーク_IAかスウェーデン_後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)かスコットランド_オークニー_IAで生成できる、と分かりました。少なくとも2つのIA_X人口集団についての有効な1方向モデルも、ノルウェー_IAかスウェーデン_青銅器時代(Bronze Age、略してBA)かスコットランド_オークニー_中期青銅器時代(middle Bronze Age、略してMBA)で生成されました。全てのIA_Xの3人口集団も、1供給源としてウクライナ_スキタイでの有効な1方向モデルが得られました。この観察は、ウクライナ_スキタイが古代ヨーロッパ北部人口集団(スウェーデン_IA、スウェーデン_LN、デンマークLN)と密接な遺伝的類似性を有する、という以前の報告(関連記事)を裏づけます。しかし、モデル競合検定では、デンマーク_IAはIA_X人口集団にとってウクライナ_スキタイよりも祖先系統の適切な供給源である、と示され、これは考古学的データと一致します。
さらに、qpAdmを適用し、各IA_X人口集団の祖先供給源について2方向定量モデルが検証されました。最初の仮定に従って、IA_X人口集団がヨーロッパ北部IA移民と在来のIA人口集団の混合である、というモデルが検討されました。スカンジナビア半島古代人祖先系統の供給源として、以前に特定されたデンマーク_IAもしくはノルウェー_IA人口集団が用いられ、在来祖先系統の供給源として、以下の人口集団の1つが用いられました。それは、ポーランド_前期青銅器時代(early Bronze Age、略してEBA)_ウーニェチツェ(Únětice)文化、チェコ_EBA_ウーニェチツェ、リトアニア_BA、ラトビア_BAです。これらの人口集団は在来のIA遺伝的祖先系統の最近似値で、それは、BAからIAまでの期間の標本がこの地域では利用できないからです。
IA_X人口集団が古代スカンジナビア半島人口集団(90~95%)と在来の代理(5~10%)の混合であることを示す、複数の有効な2方向モデルが得られました。デンマーク_IAおよびチェコ_EBA_ウーニェチツェとのモデルは、以下のIA_Xの3人口集団全てで妥当でした。それは、IA_プルスク_グダニスクとIA_コバレフコとIA_マスウォメンチです。いくつかの有効なモデルも、デンマーク_IA+ポーランド_EBA_ウーニェチツェかリトアニア_BAかエストニア_IAで生成されました。f₄統計とqpAdmモデルの両方が、IA_X人口集団と、その同時代の集団およびより古いヨーロッパ北部人口集団と間の密接な遺伝的類似性を裏づけました。
●IAと中世との間の遺伝的連続
既述のように、IA集団はヨーロッパ北部からの移民と在来のIA人口集団で構成されていた可能性が最も高そうです。在来のIA人口集団は、究対象の中世集団の祖先を含んでいる(遺伝的連続仮説)か、在来の中世人口集団と遺伝的に関連していないかもしれません(遺伝的断絶仮説)。IAから中世期までの現在のポーランドの領域内での遺伝的な連続もしくは断絶これらの仮説を検証するため、中世(MA)集団を形成する個々の人口集団(MA_X人口集団)が、研究対象のIA集団と比較して、遺伝的に動いているのかどうか、またどのように動いているのか、調べられました。この目的のため、f₄形式(MA_X、IA、検証人口集団、ヨルバ人A)のf₄統計が計算され、検証人口集団は上述の459の古代の人口集団の1つです。
その結果、MA_X人口集団はIA集団よりも古代ヨーロッパ北西部人口集団(イングランド_サクソンか、ドイツ_中世か、ノルウェー_IAか、デンマーク_IA)とのアレル共有が少なかった、と示されました。同時に、MA_X人口集団はIAと比較して、ラトビア_BAやエストニア_BAやリトアニア_BAの方とより多くのアレルを共有していました。この分析は、中世集団もIA集団も、在来のIA人口集団の最適な利用可能な代理であるポーランド_EBA_ウーニェチツェもしくはチェコ_EBA_ウーニェチツェに向かって、有意により多く動いていなかったことも明らかにしました。
さらに、qpAdmを用いて、MA_X人口集団がIA_X人口集団での有効な1方向モデルを形成するのかどうか、検証されました。そうしたモデルは、全てのMA_X人口集団により少なくとも1つのIA_X人口集団で形成されました。有効な1方向モデルを形成したMA_X人口集団は、IA_マスウォメンチとが全て、IA_コバレフコとが10、IA_プルスク_グダニスクとが9でした。これらの分析から、IA_XおよびMA_X人口集団は密接に関連していたので、IAから中世への遺伝的連続を裏づけた、と示されました。
MA_X人口集団の類似の1方向qpAdmモデル化も、MA集団に先行するか同時代の327の古代の人口集団で実行されました。その結果、デンマーク_IAとノルウェー_IAとイングランド_ノーフォーク_アングロサクソンとアイルランド_ヴァイキングとポーランド_ヴァイキングも、MA_X人口集団のいくつかの有効なモデルを形成した、と論証されました。これらの結果から、ヨーロッパ北部人の遺伝的構成要素は研究対象のMA集団に強い存在を有している、と示唆されました。
遺伝的連続性の仮説をさらに検証するため、qpAdmを用いて、IA_X人口集団かデンマーク_IAかノルウェー_IAと推定される在来集団の代理である人口集団(ポーランド_EBA_ウーニェチツェか、チェコ_EBA_ウーニェチツェか、リトアニア_BA)からのMA_X人口集団の起源の2方向モデルが検証されました。その結果、IA_マスウォメンチ+ポーランド_EBA_ウーニェチツェもしくはチェコ_EBA_ウーニェチツェが、がIA_マスウォメンチに寄与した祖先系統の78~92%を有する全ての検証されたMA_X人口集団で有効なモデルをもたらした、と論証されました。IA_コバレフコとIA_プルスク_グダニスクも有効な2方向モデルを生成しましたが、全てのMA_X人口集団で有効なモデルをもたらしたわけではありませんでした。ほとんどの場合、IA_コバレフコはポーランド_EBA_ウーニェチツェと適合しましたが(8つのうち3つ)、IA_プルスク_グダニスクはリトアニア_BAと適合しました(8つのうち6つ)。
2方向qpAdmモデルは、IAとMAの集団間の密接な遺伝的関係のさらなる証拠を提供しました。この関連性は、ヨーロッパ北部祖先系統と在来のIA祖先系統両方の連続により起きているかもしれません。しかし、以前の分析は、在来のIAの連続を直接的に検証しませんでした。在来のIA人口集団の遺伝的連続があったのならば、次に、IA_X人口集団を、MA_X人口集団と、北方から現在のポーランドの領域を通ってヨーロッパ南部に移住した侵入者と示されたハンガリー_スゾラッド_大移動期の混合としてモデル化できるはずです。じっさい、全てのIA_X人口集団はMA_X人口集団とハンガリー_スゾラッド_大移動期の混合としてモデル化できる、と分かりました。
●片親性遺伝標識分析
男系と女系の観点から研究対象の人口集団の遺伝的構造への洞察を得るため、片親性遺伝標識(母系のmtDNADNAと父系のY染色体)のハプログループが決定され、IAとMA(中世)両期間の集団における発生パターンが比較されました。検出されたYHg(合計155)は、Y染色体系統発生儒の以下の主要な枝に属していました。それは、E、F、G2a、I1、I2a、J2a、J2、N1a、R1a、R1bです(図3a)。IAおよびMA集団におけるYHg頻度は、有意に異なっていました。IA集団ではYHg-I1/I1aが最高頻度でしたが、MA集団ではYHg-R1aが優勢でした(図3c)。YHg-I1/I1aとYHg-R1aの頻度は、IAとMAとの間で大きな変化を経ました。YHg-I1/I1aがIAの41.3%からMAには3.5%に減少したのに対して、YHg-R1aの頻度はIAの8.6%からMAの57.5%に増加しました。IAのYHg-I1個体群では、最高頻度はL118変異(41.3%)で観察され、これはスカンジナビア半島とフィンランドの現代人で一般的です。
IA集団で特定されたYHg-R1aの4個体では、2個体が変異S198(YHg-R1a1a1b1a)とその下流の変異M458(YHg-R1a1a1b1a1a)を有していました。MA集団では、YHg-R1aの男性の70.8%が変異S198を、44.6%が変異M458を有していました。YHg-R1a1a1b1a(S198)系統とその下流のクレード(単系統群)、とくにYHg-R1a1a1b1a1a(M458)はも、現在のヨーロッパ東部および中央部のスラブ人集団において一般的です。MA集団では、変異S204を有するYHg-R1a(R1a1a1b1a2)も高頻度(23.1%)で観察され、これはIA集団では検出されませんでした。
MA集団における2番目の一般的なYHgはR1bで、その頻度はIA集団で観察されたものと類似しています。YHg-R1bはポーランドのポズナン(Poznan)に位置する2ヶ所のエリート関連の10世紀の埋葬(当時、ポズナンは王の所在地のうちの1ヶ所でした)から発掘された個体群と、墓が13世紀と年代測定され、ヨーロッパ西部からの人々の移住と関連していた、ポーランドのラド(Ląd)の1個体で検出されました。YHg-I1はIA集団において最高頻度で、MA集団においてはより低水準で検出されました。以下は本論文の図3です。
YHg-R1aのIA個体群のゲノムは、ヨーロッパ東部および中央部現代人に特徴的な遺伝的構成要素をさまざまな水準(0~75%)で示していましたが(図3d)、この構成要素はYHg-R1aのMA男性のゲノムでは常に25%超でした。YHg-I1のIA個体群のゲノムはヨーロッパ北西部現代人で観察されたものと類似していましたが、YHg-I1のMA男性のゲノムは、ヨーロッパ東部および中央部の現代人の構成要素が優占していました。
YHg頻度分析の結果とは対称的にIAとMAの集団間における母系遺伝標識(mtHg)の組成における対応する変化は観察されませんでした。優勢な母系であるmtHg-Hの頻度は、IAおよびMA両期間の人口集団においてほぼ一定(それぞれ43.2%と44.4%)のままでした(図3b)。それにも関わらず、mtHg分布の小さな変化が観察され、mtHg-U3aおよびK2aは、IA集団と比較してMA集団においてわずかに減少しています。さらに、IA個体群におけるmtHg-HV0とXとI4aはMA個体群には存在していませんでした。しかし、これらのmtHgは全て、研究対象のIAとMA両集団では稀でした。
いくつかの変化が、mtHg-Hの分布内でも観察されました。mtHg-H5a2およびH5e1a系統はMA集団でのみ見つかっており、この集団では、いくつかのmtHg-H1c系統の頻度がIA集団のそれとの比較で減少しました。同じ現象は他のいくつかのmtHg系統で示され、たとえば、J、T1、T2a、U2e、U4a2、W3です。IA集団と比較してのMA集団における見破棄頻度の最大の増加は、mtHg-U5a1b1e系統で観察されました。さらに、IA集団では、YHg-I1/I1aの男性におけるmtHg-Hの頻度が21%に達し、残りの個体における全体的なmtHg-Hの割合(44%)より低くなっていました。
一般的に、片親性遺伝標識に関する観察は、本論文の全ゲノム解析の結果と一致し、IA集団は古代のヨーロッパ北部人口集団で観察された最高頻度のYHgが優占していた、と示されました。現在のヨーロッパ東部および中央部の人口集団で優勢なYHgは顕著に頻度が低下しましたが、このIA集団において依然として現れました。対称的に、MA集団は現在のヨーロッパ東部および中央部の人口集団において最高火度のYHgが優占します。さらに、片親性遺伝標識分析から、千年紀に現在のポーランドの領域で起きた遺伝的変化は男性の移住に基づいていた、と示唆されました。
●考察
紀元千年紀にヨーロッパ東部および中央部に居住していた人口集団の遺伝的個性に関する報告は、わずか数点しかありません。その大半はmtDNAに基づいています。IAおよび初期中世(MA)にこの地域に居住していた個体の全ゲノム解析は稀で(関連記事1および関連記事2)、現在のポーランドの領域についてはひじょうに限られています。本論文で提示されたIA集団の個体群の全ゲノム解析は、以前の観察や多くの考古学的調査結果とともに一貫して、ヴィェルバルク文化が、現在のポーランドの領域内に拡大し、在来のIA人口集団と混合したヨーロッパ北部からの移民と関連していた、と仮定する以前の仮説を裏づけます。IAおよびMA集団について収集されたデータのほとんどは、ヨーロッパ東部および中央部におけるIAから初期MAにかけての遺伝的連続性を仮定する仮説と一致し、6世紀における東方からの移住はMA集団の遺伝子プールの形成に必要なかった、と示唆しています。しかし、これらのデータに基づくと、大移動期もしくはその後の期間におけるヨーロッパ東部からの追加の移住を除外できません。
f₄統計とqpAdmモデルを含む収集されたデータのほとんどでは、ヴィェルバルク文化関連の人々の遺伝的構成は、デンマーク_IAとノルウェー_IAを含む古代ヨーロッパ北部人口集団と関連していた、と示されました。この結果は、IA_コバレフコとユトランド半島のIA人口集団との間の母系のつながりに関する以前の観察と一致します。本論文ではさらに、ヴィェルバルク文化関連IA人口集団は先行するEBA_ウーニェチツェ人口集団だけに由来していないかもしれない、と示されました。それが意味するのは、ヨーロッパ北部からの移住がIA集団の遺伝子プールの形成に必要だった、ということです。
さらに、f₄統計とqpAdmモデルから、MA人口集団は同じ地域にそれ以前に暮らしていた人々により形成されず、ポーランド_EBA_ウーニェチツェかチェコ_EBA_ウーニェチツェかリトアニア_BAに近似できる、と明らかになりました。ヴィェルバルク文化関連の人々の推定されるヨーロッパ北部の祖先(デンマーク_IAもしくはノルウェー_IAにより近似)も、全てのMA_X人口集団の遺伝的構成を説明できるわけではありません。全てのMA_X人口集団の有効な2方向モデルは、ポーランド_EBA_ウーニェチツェもしくはチェコ_EBA_ウーニェチツェとIA_マスウォメンチでのみ得られました。
IA_マスウォメンチは在来のIA人口集団の最高の混合を有するヨーロッパ北部からの侵入者を表しており、それは、IA_マスウォメンチが現在のポーランドの領域でヴィェルバルク文化関連の人々の移住の最終段階に形成されたからです。それがさらに意味するのは、在来のIA遺伝的構成要素が全MA集団のモデル化に不可欠で、6世紀もしくはそれ以降における東方からの別の移住を必要とせずにMA集団の遺伝的構成を説明可能である、ということです。f₄統計では、MA集団もIA集団もポーランド_EBA_ウーニェチツェもしくはチェコ_EBA_ウーニェチツェへと向かって統計的に有意により動いていなかった、とも論証されました。この観察から、ポーランド_EBA_ウーニェチツェとチェコ_EBA_ウーニェチツェはIAおよびMA人口集団の共通の祖先構成要素だったかもしれない、と示唆されます。しかし、qpAdmモデルでは、IAおよびMA人口集団におけるEBA関連祖先系統は少なかった、と示されました。
上述の結果は、IAからMAにかけての現在のポーランドの領域におけるヨーロッパ北部からの移住と遺伝的連続性を仮定する仮説と一致します。したがって、MA人口集団の祖先系統の大半は先行するIA人口集団、とくにIA_マスウォメンチな由来するかもしれない、と観察されました。MA人口集団はIA人口集団と比較して、ヨーロッパ北部古代人との遺伝的類似性は低く、ヨーロッパ東部古代人との類似性は多くなっています。それでもMA人口集団は、ヨーロッパ北部および北西部古代人との密接な関係を示しており、この関係はヨーロッパ北部人の遺伝的構成要素の連続性を示唆します。それが、MA人口集団の一部のモデル化に、デンマーク_IAを唯一の供給源として使用できた理由です。しかし、MA人口集団へのIA人口集団の高い遺伝的寄与は、共通のヨーロッパ北部祖先系統の連続だけではなく、侵入者とコカ号した在来のIA人口集団の遺伝的連続も示唆します。在来のIA人口集団がMA人口集団と密接に関連しているかもしれない、という可能性は、ハンガリー_スゾラッド_大移動期とMA人口集団の混合としてのIA人口集団のモデル化によりさらに裏づけられ、祖先系統の大半(約80%)はMA人口集団に由来しました。
本論文のY染色体分析は、研究対象のIAとMA両集団間の有意な違いを明らかにしました。IA集団興亜成員の父系の遺伝的構造は、YHg-I1系統が優占していました。多くの識別されたYHg-I1クレードは今では、現在のヨーロッパ北部人口集団において最も一般的なYHgで、28~38%の頻度に達します。YHg-I1頻度の増加は、以前にはブリテン島へのアングロサクソンの移住の文脈で報告されました(関連記事)。これは、ヴィェルバルク文化関連の人々のヨーロッパ北部起源をさらに裏づけます。
YHg-I1の頻度はMA集団において顕著に低下し、YHg-R1aが優占します。YHg-R1a1a1b1a(S198)はMA集団において40%超の頻度を示し、YHg-R1a1a1b1a1a(M458)は最も一般的な系統です。現在、YHg-R1a1a1b1a(S198)とYHg-R1a1a1b1a1a(M458)はヨーロッパ東部および中央部の人口集団において最高頻度です。YHg-R1aの全てのIA集団個体はYHg-R1a1a1b1a1a(M458)系統に属する、と分かりました。これらの結果は、LBAの骨壺墓地(Urnfield)文化と関連する1個体でのYHg-R1a1a1b1a2(S204)系統の検出に関する以前の報告とともに、現在のヨーロッパ東部および中央部の人口集団(ポーランド人とチェコ人とベラルーシ人とウクライナ人)で優勢なYHg-R1a1a1b1a2(S204)が、少なくともLBA以降ヨーロッパ東部および中央部にすでに存在していた、という証拠を強化します。
母系ハプログループ分析は、紀元千年紀にヨーロッパ東部および中央部で起きた人口統計学的過程の別の側面を明らかにしました。IA集団とMA集団におけるmtHg頻度のパターン間の有意な違いの欠如から、大移動期の前後にヨーロッパ東部および中央部に居住していた人口集団は類似の母系の遺伝的構造を有していた、と示されます。この結果は、IAとMAとの間のヨーロッパ東部および中央部の人口集団におけるmtHg系統の連続性に関するいくつかの以前の報告と一致します。MtHg頻度の全体的なパターンはIAおよびMA両集団においてほぼ同じでしたが、IA集団では存在しないかひじょうに低頻度だった、現在のヨーロッパ東部人口集団(ウクライナ人とロシア人)にかなり特異的ないくつかの系統(H5a2、H5e1a、H1c、U4a2、U5a1b1e)が見つかりました。MtHg-H5a2とH5e1aとU5a1b1eの増加から、大移動期の後にヨーロッパの東部から中央部への人々の少なくともいくらかの移動があった、と示唆されます。しかし、この観察は、本論文で研究対象とされたIA集団のより小さな標本規模によっても説明できるかもしれません。
上記を考慮すると、紀元千年紀の開始と末にYHg頻度のパターンで観察された違いと、mtHg特性の安定性は、この期間に特有の男性優位で家父長的な社会構造の産物である、と推測できます。通常、男性は移住し、女性は地元にいました【次の説明からも、これは母系社会が一般的だったことではなく、征服を伴うような移住では男性主体の場合が多かったことを意味しているのではないか、と思います】。この現象は、IA集団におけるYHg-R1aの低い発生率も説明できるかもしれません。比較的少数の男性移民が在来共同体を征服できる、と示す多くの事例(たとえば、南北アメリカ大陸の植民史)が歴史にはあります。したがって、IA集団におけるYHg-R1aの個体数の少なさは、在来のIA人口集団におけるYHg-R1aの低頻度を必ずしも意味しません。しかし、これは、男性移民が支配する共同体からの地元男性の排除の自然現象を示唆しているのかもしれません。
本論文は、中世人口集団の祖先がIAにおいて現在のポーランドの領域に暮らしていた、という証拠のいくつかの断片を提供します。しかし、さらなる解明を必要とするいくつかの側面があります。まず、YHg-R1aのMA人口集団の祖先がどのようにいつ出現したのか、ということです。YHg-R1a1a1(M417)が現在のポーランドの領域で優勢になった時期は、縄目文土器(Corded Ware)文化(紀元前3000~紀元前2300年頃)の拡大と関連しています(関連記事)。その後、縄目文土器文化は、YHg-R1aがひじょうに稀だった人口集団と関連していた、ウーニェチツェ文化(紀元前2300~紀元前1600年頃)に置換されました。それからIAまで、この地域には多くの考古学的文化があり、そこでは火葬が主流の埋葬慣行となったので、遺伝的データが利用できません。
本論文では、IAおよびMA人口集団がウーニェチツェ文化と関連する人々から遺伝的祖先系統をわずかな割合しか継承しなかった、と示されました。したがって、YHg-R1aを有する在来のIA人口集団の祖先は、BAに復活したか、BAもしくはIAに東方から到来するかの、どちらかでなければならなかったでしょう。現時点では、本論文の結果に基づいて、IA後の移住の追加の波を明確に除外できないことに要注意です。したがって、YHg-R1aの頻度増加の一因は、大移動期後の湯は東部からの移住の可能性もあります。
可能性は低いようですが、IAにおいて現在のポーランドの領域における中世人口集団の祖先の存在を仮定しない、別のシナリオを除外できません。MA一つの可能性は、IAおよびMAの両期間におけるヨーロッパ北部からの移住の多くの波です。このシナリオによると、中世人口集団は、在来のIA人口集団と類似した遺伝的構成要素を有する個体群の移住の結果として生じたかもしれません。この場合、移民は在来のIA人口集団の直接的子孫ではないでしょう。
別のシナリオは、減少する遺伝的多様性の条件下で相互に類似したIAおよびMA人口集団を形成した、ボトルネック(瓶首効果)の発生を想定できるかもしれません。IAおよび中世両人口集団が、まだ研究されていない共通の祖先人口集団を有していた、という可能性もあります。この共通祖先系統は、IAにおける現在のポーランド地域の中世人口集団の祖先の直接的存在なしに、IAおよび中世両人口集団間遺伝的類似性を説明できるかもしれません。確かに、上述のシナリオの検証を妨げる基本的な制約が、ウーニェチツェ文化の消滅とIAの開始との間の時期に暮らしていた人々の、およびプシェヴォルスク文化に属する人々からの古代DNAの不足です。
参考文献:
Stolarek I. et al.(2023): Genetic history of East-Central Europe in the first millennium CE. Genome Biology, 24, 173.
https://doi.org/10.1186/s13059-023-03013-9
●要約
ヨーロッパ東部および中央部におけるスラブ人の出現は、相反する二つの仮説により200年以上にわたって議論されてきました。最初の仮定は、スラブ人は現在のポーランドに6世紀以前に到来した、というものです。第二の仮定は、スラブ人は鉄器時代(Iron Age、略してIA)にはすでにこの地域に居住していた、というものです。死者の火葬が後期青銅器時代(late Bronze Age、略してLBA)から中世(Middle Ages、略してMA)まで一般的な慣行だったことを考えると、どちらかの仮説の検証は些細なことではありません。
この問題に取り組むため、現在のポーランドの領域の、IAヴィェルバルク(Wielbark)文化と中世スラブ関連文化の代表者の遺伝的構成が決定されました。この研究には、27ヶ所の墓地に埋葬された474個体が含まれます。そのうち197個体で、ゲノム規模データが得られました。IAヴィェルバルク文化関連個体群およびその同時代の個体群とより古いヨーロッパ北部人口集団との間の、密接な遺伝的類似性が見つかりました。さらに、IA個体群には中世人口集団のモデル化に不可欠な遺伝的構成要素がある、と観察されました。
収集されたデータから、ヴィェルバルク文化関連IA人口集団は現在のポーランド地域に北方から到来した意味により形成され、その時期は紀元千年紀の始まりである可能性が最も高く、在来集団と混合した、と示唆されます。本論文で提示された結果は、ヨーロッパ東部および中央部におけるIAと中世との間の遺伝的連続を仮定する仮説と一致します。
●研究史
蛮族の圧力による西ローマ帝国の衰退は、新たに政治的やよび民族的構造の出現につながりました(関連記事)。ローマ帝国の版図における古代からキリスト教への変容の根底にある歴史的出来事と過程は比較的よく認識されていますが、ローマ帝国外、とくに新たに形成されたキリスト教共同体に属さなかった地域で並行して起きた過程はよく理解されておらず、それにはヨーロッパ中央部におけるスラブ人の出現が含まれます。スラブ人の出現の説明に、二つの相反する仮説が立てられました。外来仮説では、スラブ人はヨーロッパのこの地域に6世紀以降に移住した、とされますが、在来仮説では、伝統的に375年(フン人によるヨーロッパ侵略)から568年(ランゴバルド人によるイタリア征服)までとされる大移動期のずっと前に、スラブ人はオーデル川とヴィスワ川の間に居住していた、と仮定されます。
これまでに収集されたデータから、紀元前3700~紀元前1800年頃となる後期新石器時代末には、ヨーロッパ中央部に居住していた人口集団の遺伝的構造は安定しており、紀元前1800~紀元前700年頃となる青銅器時代末まで大きくは変化しないままだった、と示唆されます。主要な3遺伝的構成要素が、その時点においてこの地域に暮らしていた人々のゲノムを構成していました。第一の構成要素は、ヨーロッパに14000年前頃に到来した、中石器時代西方狩猟採集民(Mesolithic western hunter-gatherer、略してWHG)と関連していました(関連記事)。第二の構成要素は、ヨーロッパに8000~7000年前頃に移住した、新石器時代アナトリア半島農耕民(Neolithic Anatolian farmers、略してNAF)と関連していました。第三の構成要素は、5000~4000年前頃にヨーロッパ東部および中央部に拡大した、ヤムナヤ(Yamnaya)文化草原地帯牧畜民(YAM)と関連していました。青銅器時代から中世(MA)までのこの地域に暮らす人口集団での火葬の普及に起因する考古ゲノム研究の代表的な生物学的資料の欠如を考えると、ヨーロッパ中央部の遺伝的構成が鉄器時代(IA)にどのように形成されたのかは、未解決問題となっています。
この研究では、限られた期間において、現在のポーランドに相当する地域において、ヴィェルバルク文化と関連する人口集団内で土葬が支配的な葬儀慣行だった、という事実が利用されました。この人口集団は1~5世紀にかけてヴィスワ川流域に存在し、その後に消滅しました。一部の理論は、ヴィェルバルク文化の出現をゴート人と一般的に呼ばれる人々の移住と関連づけます。考古学的調査結果から、5世紀には、ヴィェルバルク文化関連集団は先行する依然として火葬を行なっていたプシェヴォルスク(Przeworsk)文化と関連する人々とともに暮らしていた、と示唆されています。現在のポーランドの領域におけるヴィェルバルク文化とプシェヴォルスク文化の共存の最終段階は、大移動期と重複しています。その末期後に、この地域の物質文化はより均一になっていき、考古学者はその文化を一般に、最初のポーランド支配王朝が966年に洗礼を受けた時まで死者の火葬を行なっていた、スラブ人と関連づけています。
ヴィェルバルク文化と関連するIA集団のミトコンドリアゲノムの最近の分析から、母系の観点では男性個体が遺伝的にIAスカンジナビア半島南部人と最も近く、その遺伝的歴史は女性で観察されたものとは異なり、女性はヨーロッパ中央部の中期新石器時代集団と最も密接に関連していた、と示されました。これが強く示唆しているのは、ヴィェルバルク文化と関連する人々は新参者で、紀元後の始まりの頃に現在のポーランドの領土に暮らしていた在来人口集団と混合した、ということです。したがって、ヴィェルバルク文化の個体群のゲノムに存在する遺伝的混合を識別し、この混合を中世の同じ地域に暮らす人々のゲノムと比較することにより、外来仮説と在来仮説の両方を検証できます。この情報を考慮し、IAヴィェルバルク文化と中世スラブ人関連文化の代表者の全ゲノム解析が実行されました。
●研究対象集団の説明
大移動期前後のヨーロッパ東部および中央部に居住していた人口集団の生物学的歴史を再構築するため、現在のポーランドの27ヶ所の墓地に埋葬され、放射性炭素年代でIA(紀元前2世紀~紀元後4世紀、ヴィェルバルク文化の5ヶ所の墓地)および中世(10~13世紀、スラブ人関連の22ヶ所の墓地)となる、474個体から採取されたDNA標本が分析されました(図1a・b)。DNAが分離され、以前に説明されているように全ゲノム配列決定が実行されました。全標本で、DNAは古代DNAに特徴的な死後損傷(post-mortem damage、略してPMD)のパターンを示しました。以下は本論文の図1です。
ほとんどの標本で、X染色体とミトコンドリアDNA(mtDNA)両方に基づく他のヒトとの汚染の低水準(それぞれ平均で1.3%と2.2%)が見つかりました。高いX染色体とmtDNAに基づく汚染は、それぞれ2点の標本と15点の標本で検出され、以後の分析から除外されました。したがって、この研究では、IA(134点)と中世(323点)の2集団に区分される457点の標本が含まれました。さらなる分析に適したゲノム規模データは、IA集団で68個体、中世集団で129個体の計197個体で得られ、その具体的な基準は、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とADMIXTUREおよびqpADM分析のため少なくとも1万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)がある個体です。334個体の性別が決定され、IA集団では97個体(男性は45%)、中世集団では237個体(男性は58%)です。mtDNAハプログループ(mtHg)は343個体(IA集団が105個体、中世集団が238個体)で分類され、Y染色体ハプログループ(YHg)は155個体(IA集団が445個体、中世集団が110個体)で分類されました。
●IA集団と中世集団の類似性
研究対象となった古代の人口集団とヨーロッパに暮らす現在の人口集団の遺伝的構造を比較するため、IA集団と中世集団の個体群で得られたゲノム規模データが、ユーラシア西部現代人の遺伝的差異を説明する対応データセット(ヒト起源データセット)と比較されました。PCAでは、IAと中世両方の個体群がヨーロッパ中央部および東部に暮らす個体群とより多く重複していた、と示されました。IA個体群はヨーロッパ北西部に暮らす人々の方へと動いていましたが、MA個体群はヨーロッパ東部および中央部に暮らす人々の方とより多く重複していました。
IAおよび中世人口集団の遺伝的構造についてより多く学ぶため、参照データセット(ヒト起源データセット)としてユーラシア西部とアフリカの現代人を用いて、各研究対象個体について別々に教師なしADMIXTURE 分析が実行されました(図1d)。研究対象の各個体について、9の推定人口集団、つまりK(系統構成要素数)= 9でその関連が評価されました。IA個体群のDNAに存在する主要な遺伝的構成要素がヨーロッパ北西部現代人で最大化される遺伝的構成要素だったのに対して、中世個体群DNAは平均して、ヨーロッパ東部および中央部現代人のゲノムで最大化される遺伝的構成要素の最高の寄与を有していた、と分かりました。
PCAとADMIXTUREの結果は、Fst(2集団の遺伝的分化の程度を示します)係数によりさらに裏づけられ、Fstは、ヨーロッパ北西部現代人と中世個体群との間よりも、ヨーロッパ北西部現代人とIA個体群との間の方でより小さな遺伝的距離を示しました。この分析は、IA集団の多くの個体が、現在のヨーロッパ中央部および東部人口集団において高頻度で観察される遺伝的構成要素の高い割合(20%超)により特徴づけられる、中世集団の個体群と類似した遺伝的構造を有していることも明らかにしました。6個体の事例では、これはかなりの割合(40%超)でした(図1d)。ヨーロッパ北西部の古代の人口集団(IAもしくは中世)において類似のヨーロッパ東部の遺伝的構成要素は観察されず、この構成要素は現在のヨーロッパ北部人口集団においてひじょうに低水準で検出されました。IA集団と類似の遺伝的構成は、ハンガリーのスゾラッド(Szolad)に暮らす人口集団と関連する6世紀のランゴバルド人の移住期の数点の標本(ハンガリー_スゾラッド_大移動期)と、ウクライナの4世紀のチェルニャコヴォ(Chernyakhov)文化と関連する1個体で見つかりました。
PCAの解像度を高めるため、IAおよび中世個体群から得られたゲノムデータが、以下の現在のヨーロッパ中央部および東部とスカンジナビア半島の5人口集団で生成された類似のデータと比較されました。それは、ヨーロッパ東部、ヨーロッパ北西部、バルト海地域、フィンランド、ノルウェーです(図2a)。その結果も、IAと中世の人口集団の明確な分離を示しました。IA個体の大半はヨーロッパ北西部およびノルウェーの人口集団と同じPCA空間を占めていましたが、中世個体の大半はヨーロッパ東部および中央部現代人とともに位置しており、一部の個体はノルウェーの人口集団の近くか、ドイツおよびスラブ人口集団が相互に隣接するPCA図の区画に位置しました。以下は本論文の図2です。
研究対象とされた個体のほとんどの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)特性がヨーロッパ北西部もしくはヨーロッパ東部および中央部の現代人で観察されたものと類似していたことを考慮して、これら現在の人口集団がIAと中世の各個体の教師有ADMIXTURE分析で参照(K=2)として用いられました(図2b)。IA個体群は最高の割合のヨーロッパ北西部祖先系統を、中世個体群は最高の割合のヨーロッパ東部および中央部祖先系統を有していました。PCAとADMIXTUREの結果は、f₄形式(ヨーロッパ東部および中央部人、ヨーロッパ北西部人、X、ムブティ人)のf₄統計によりさらに裏づけられ、ここでXはIAおよび中世集団の研究対象の古代の個体を示します(図2c)。この検定では、IAおよび中世集団の個体群が、それぞれヨーロッパ北西部とヨーロッパ東部および中央部の現代人と有意により多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた、と示されました。
研究対象となった個体群の正確な表現型は不明ですが、髪や皮膚や目の色と関連する遺伝子座における推定された人口集団規模のアレル頻度から、両集団の個体群は平均して、金髪で、肌の色が明るく、青色の目だった、と示唆されました。
研究対象の人口集団と他のヨーロッパ古代人との間の関係を判断するため、類似のPCAと教師有ADMIXTURE分析が実行されました。その結果、IA個体群と中世個体群の遺伝的祖先系統は類似しており、BA(青銅器時代)後のヨーロッパで典型的だった、と論証されました。つまり、ヨーロッパ人全員に共通する3つの主要な遺伝的構成要素(WHGとNAFとYAM)が等しく、研究対象の両集団の個体群のゲノムに寄与しました。上述の調査結果から、IAと中世の人口集団間で観察された遺伝的差異は、IAに起きた可能性が最も高い局所的な人口統計学的過程から生じた、と示唆されます。
●IA集団の遺伝的歴史
IAおよび中世集団と、その現在の人口集団との関連に焦点を当てた以前の分析は、どの古代の人口集団がIA集団の遺伝的構成に寄与したのかについて、明確な回答を提供できませんでした。この問題を調べるため、在来のIA人口集団を表すだろう外れ値の、IA集団内での特定が試みられました。そうした個体は、ヴィェルバルク文化と関連する侵入者と混合した人口集団のモデル化に使用できるかもしれません。残念ながら、この手法のどれも、外れ値の特定はできませんでした。
IA集団の歴史へのより深い洞察を得るため、IA集団が個々の遺跡に応じて3つの部分集合に区分されました。それは、IA_プルスク_グダニスク(Pruszcz_Gdanski)とIA_コバレフコ(Kowalewko)とIA_マスウォメンチ(Maslomecz)です。1ヶ所の遺跡IA_ガスキ(Gaski)は分析から除外されました。IA_ガスキはプシェヴォルスク文化と関連しているとされる2個体により表されていました。しかし、両個体ともプシェヴォルスク文化の慣行に従って埋葬されておらず、低網羅率の配列決定データしか得られませんでした。考古学および歴史学の調査結果に基づいて、ヴィェルバルク文化関連のIA個体群は、在来のIA人口集団との混合を有するヨーロッパ北部の移民人口集団と予測されました。
移民の起源をより詳しく知るため、f₄形式(IA_X、MA、検証人口集団、ヨルバ人)のf₄統計が計算され、IA_XはIA_プルスク_グダニスクかIA_コバレフコかIA_マスウォメンチ、MA(中世)は研究対象の中世集団で、検証人口集団は、中世集団に先行するか同時代の459の以前に特定された古代の人口集団の1つです。本論文の予測によると、IA_XはMAと比較して、古代ヨーロッパの北部人口集団(デンマーク_IA、ノルウェー_IA、スウェーデン_IA)や北西部人口集団(イングランド_サクソン、アイルランド_ヴァイキング)ヨーロッパ、およびハンガリー_スゾラッド_大移動期人口集団と有意により多くのアレル(対立遺伝子)を共有します。
qpAdmを使用して、IA集団に先行するか同時代の古代の人口集団がIA_X時の単一の祖先系統供給源であり得るのかどうかも、検証されました。以前の結果と一致して、IA_X各人口集団について、有効な1方向モデルは、供給源としてデンマーク_IAかスウェーデン_後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)かスコットランド_オークニー_IAで生成できる、と分かりました。少なくとも2つのIA_X人口集団についての有効な1方向モデルも、ノルウェー_IAかスウェーデン_青銅器時代(Bronze Age、略してBA)かスコットランド_オークニー_中期青銅器時代(middle Bronze Age、略してMBA)で生成されました。全てのIA_Xの3人口集団も、1供給源としてウクライナ_スキタイでの有効な1方向モデルが得られました。この観察は、ウクライナ_スキタイが古代ヨーロッパ北部人口集団(スウェーデン_IA、スウェーデン_LN、デンマークLN)と密接な遺伝的類似性を有する、という以前の報告(関連記事)を裏づけます。しかし、モデル競合検定では、デンマーク_IAはIA_X人口集団にとってウクライナ_スキタイよりも祖先系統の適切な供給源である、と示され、これは考古学的データと一致します。
さらに、qpAdmを適用し、各IA_X人口集団の祖先供給源について2方向定量モデルが検証されました。最初の仮定に従って、IA_X人口集団がヨーロッパ北部IA移民と在来のIA人口集団の混合である、というモデルが検討されました。スカンジナビア半島古代人祖先系統の供給源として、以前に特定されたデンマーク_IAもしくはノルウェー_IA人口集団が用いられ、在来祖先系統の供給源として、以下の人口集団の1つが用いられました。それは、ポーランド_前期青銅器時代(early Bronze Age、略してEBA)_ウーニェチツェ(Únětice)文化、チェコ_EBA_ウーニェチツェ、リトアニア_BA、ラトビア_BAです。これらの人口集団は在来のIA遺伝的祖先系統の最近似値で、それは、BAからIAまでの期間の標本がこの地域では利用できないからです。
IA_X人口集団が古代スカンジナビア半島人口集団(90~95%)と在来の代理(5~10%)の混合であることを示す、複数の有効な2方向モデルが得られました。デンマーク_IAおよびチェコ_EBA_ウーニェチツェとのモデルは、以下のIA_Xの3人口集団全てで妥当でした。それは、IA_プルスク_グダニスクとIA_コバレフコとIA_マスウォメンチです。いくつかの有効なモデルも、デンマーク_IA+ポーランド_EBA_ウーニェチツェかリトアニア_BAかエストニア_IAで生成されました。f₄統計とqpAdmモデルの両方が、IA_X人口集団と、その同時代の集団およびより古いヨーロッパ北部人口集団と間の密接な遺伝的類似性を裏づけました。
●IAと中世との間の遺伝的連続
既述のように、IA集団はヨーロッパ北部からの移民と在来のIA人口集団で構成されていた可能性が最も高そうです。在来のIA人口集団は、究対象の中世集団の祖先を含んでいる(遺伝的連続仮説)か、在来の中世人口集団と遺伝的に関連していないかもしれません(遺伝的断絶仮説)。IAから中世期までの現在のポーランドの領域内での遺伝的な連続もしくは断絶これらの仮説を検証するため、中世(MA)集団を形成する個々の人口集団(MA_X人口集団)が、研究対象のIA集団と比較して、遺伝的に動いているのかどうか、またどのように動いているのか、調べられました。この目的のため、f₄形式(MA_X、IA、検証人口集団、ヨルバ人A)のf₄統計が計算され、検証人口集団は上述の459の古代の人口集団の1つです。
その結果、MA_X人口集団はIA集団よりも古代ヨーロッパ北西部人口集団(イングランド_サクソンか、ドイツ_中世か、ノルウェー_IAか、デンマーク_IA)とのアレル共有が少なかった、と示されました。同時に、MA_X人口集団はIAと比較して、ラトビア_BAやエストニア_BAやリトアニア_BAの方とより多くのアレルを共有していました。この分析は、中世集団もIA集団も、在来のIA人口集団の最適な利用可能な代理であるポーランド_EBA_ウーニェチツェもしくはチェコ_EBA_ウーニェチツェに向かって、有意により多く動いていなかったことも明らかにしました。
さらに、qpAdmを用いて、MA_X人口集団がIA_X人口集団での有効な1方向モデルを形成するのかどうか、検証されました。そうしたモデルは、全てのMA_X人口集団により少なくとも1つのIA_X人口集団で形成されました。有効な1方向モデルを形成したMA_X人口集団は、IA_マスウォメンチとが全て、IA_コバレフコとが10、IA_プルスク_グダニスクとが9でした。これらの分析から、IA_XおよびMA_X人口集団は密接に関連していたので、IAから中世への遺伝的連続を裏づけた、と示されました。
MA_X人口集団の類似の1方向qpAdmモデル化も、MA集団に先行するか同時代の327の古代の人口集団で実行されました。その結果、デンマーク_IAとノルウェー_IAとイングランド_ノーフォーク_アングロサクソンとアイルランド_ヴァイキングとポーランド_ヴァイキングも、MA_X人口集団のいくつかの有効なモデルを形成した、と論証されました。これらの結果から、ヨーロッパ北部人の遺伝的構成要素は研究対象のMA集団に強い存在を有している、と示唆されました。
遺伝的連続性の仮説をさらに検証するため、qpAdmを用いて、IA_X人口集団かデンマーク_IAかノルウェー_IAと推定される在来集団の代理である人口集団(ポーランド_EBA_ウーニェチツェか、チェコ_EBA_ウーニェチツェか、リトアニア_BA)からのMA_X人口集団の起源の2方向モデルが検証されました。その結果、IA_マスウォメンチ+ポーランド_EBA_ウーニェチツェもしくはチェコ_EBA_ウーニェチツェが、がIA_マスウォメンチに寄与した祖先系統の78~92%を有する全ての検証されたMA_X人口集団で有効なモデルをもたらした、と論証されました。IA_コバレフコとIA_プルスク_グダニスクも有効な2方向モデルを生成しましたが、全てのMA_X人口集団で有効なモデルをもたらしたわけではありませんでした。ほとんどの場合、IA_コバレフコはポーランド_EBA_ウーニェチツェと適合しましたが(8つのうち3つ)、IA_プルスク_グダニスクはリトアニア_BAと適合しました(8つのうち6つ)。
2方向qpAdmモデルは、IAとMAの集団間の密接な遺伝的関係のさらなる証拠を提供しました。この関連性は、ヨーロッパ北部祖先系統と在来のIA祖先系統両方の連続により起きているかもしれません。しかし、以前の分析は、在来のIAの連続を直接的に検証しませんでした。在来のIA人口集団の遺伝的連続があったのならば、次に、IA_X人口集団を、MA_X人口集団と、北方から現在のポーランドの領域を通ってヨーロッパ南部に移住した侵入者と示されたハンガリー_スゾラッド_大移動期の混合としてモデル化できるはずです。じっさい、全てのIA_X人口集団はMA_X人口集団とハンガリー_スゾラッド_大移動期の混合としてモデル化できる、と分かりました。
●片親性遺伝標識分析
男系と女系の観点から研究対象の人口集団の遺伝的構造への洞察を得るため、片親性遺伝標識(母系のmtDNADNAと父系のY染色体)のハプログループが決定され、IAとMA(中世)両期間の集団における発生パターンが比較されました。検出されたYHg(合計155)は、Y染色体系統発生儒の以下の主要な枝に属していました。それは、E、F、G2a、I1、I2a、J2a、J2、N1a、R1a、R1bです(図3a)。IAおよびMA集団におけるYHg頻度は、有意に異なっていました。IA集団ではYHg-I1/I1aが最高頻度でしたが、MA集団ではYHg-R1aが優勢でした(図3c)。YHg-I1/I1aとYHg-R1aの頻度は、IAとMAとの間で大きな変化を経ました。YHg-I1/I1aがIAの41.3%からMAには3.5%に減少したのに対して、YHg-R1aの頻度はIAの8.6%からMAの57.5%に増加しました。IAのYHg-I1個体群では、最高頻度はL118変異(41.3%)で観察され、これはスカンジナビア半島とフィンランドの現代人で一般的です。
IA集団で特定されたYHg-R1aの4個体では、2個体が変異S198(YHg-R1a1a1b1a)とその下流の変異M458(YHg-R1a1a1b1a1a)を有していました。MA集団では、YHg-R1aの男性の70.8%が変異S198を、44.6%が変異M458を有していました。YHg-R1a1a1b1a(S198)系統とその下流のクレード(単系統群)、とくにYHg-R1a1a1b1a1a(M458)はも、現在のヨーロッパ東部および中央部のスラブ人集団において一般的です。MA集団では、変異S204を有するYHg-R1a(R1a1a1b1a2)も高頻度(23.1%)で観察され、これはIA集団では検出されませんでした。
MA集団における2番目の一般的なYHgはR1bで、その頻度はIA集団で観察されたものと類似しています。YHg-R1bはポーランドのポズナン(Poznan)に位置する2ヶ所のエリート関連の10世紀の埋葬(当時、ポズナンは王の所在地のうちの1ヶ所でした)から発掘された個体群と、墓が13世紀と年代測定され、ヨーロッパ西部からの人々の移住と関連していた、ポーランドのラド(Ląd)の1個体で検出されました。YHg-I1はIA集団において最高頻度で、MA集団においてはより低水準で検出されました。以下は本論文の図3です。
YHg-R1aのIA個体群のゲノムは、ヨーロッパ東部および中央部現代人に特徴的な遺伝的構成要素をさまざまな水準(0~75%)で示していましたが(図3d)、この構成要素はYHg-R1aのMA男性のゲノムでは常に25%超でした。YHg-I1のIA個体群のゲノムはヨーロッパ北西部現代人で観察されたものと類似していましたが、YHg-I1のMA男性のゲノムは、ヨーロッパ東部および中央部の現代人の構成要素が優占していました。
YHg頻度分析の結果とは対称的にIAとMAの集団間における母系遺伝標識(mtHg)の組成における対応する変化は観察されませんでした。優勢な母系であるmtHg-Hの頻度は、IAおよびMA両期間の人口集団においてほぼ一定(それぞれ43.2%と44.4%)のままでした(図3b)。それにも関わらず、mtHg分布の小さな変化が観察され、mtHg-U3aおよびK2aは、IA集団と比較してMA集団においてわずかに減少しています。さらに、IA個体群におけるmtHg-HV0とXとI4aはMA個体群には存在していませんでした。しかし、これらのmtHgは全て、研究対象のIAとMA両集団では稀でした。
いくつかの変化が、mtHg-Hの分布内でも観察されました。mtHg-H5a2およびH5e1a系統はMA集団でのみ見つかっており、この集団では、いくつかのmtHg-H1c系統の頻度がIA集団のそれとの比較で減少しました。同じ現象は他のいくつかのmtHg系統で示され、たとえば、J、T1、T2a、U2e、U4a2、W3です。IA集団と比較してのMA集団における見破棄頻度の最大の増加は、mtHg-U5a1b1e系統で観察されました。さらに、IA集団では、YHg-I1/I1aの男性におけるmtHg-Hの頻度が21%に達し、残りの個体における全体的なmtHg-Hの割合(44%)より低くなっていました。
一般的に、片親性遺伝標識に関する観察は、本論文の全ゲノム解析の結果と一致し、IA集団は古代のヨーロッパ北部人口集団で観察された最高頻度のYHgが優占していた、と示されました。現在のヨーロッパ東部および中央部の人口集団で優勢なYHgは顕著に頻度が低下しましたが、このIA集団において依然として現れました。対称的に、MA集団は現在のヨーロッパ東部および中央部の人口集団において最高火度のYHgが優占します。さらに、片親性遺伝標識分析から、千年紀に現在のポーランドの領域で起きた遺伝的変化は男性の移住に基づいていた、と示唆されました。
●考察
紀元千年紀にヨーロッパ東部および中央部に居住していた人口集団の遺伝的個性に関する報告は、わずか数点しかありません。その大半はmtDNAに基づいています。IAおよび初期中世(MA)にこの地域に居住していた個体の全ゲノム解析は稀で(関連記事1および関連記事2)、現在のポーランドの領域についてはひじょうに限られています。本論文で提示されたIA集団の個体群の全ゲノム解析は、以前の観察や多くの考古学的調査結果とともに一貫して、ヴィェルバルク文化が、現在のポーランドの領域内に拡大し、在来のIA人口集団と混合したヨーロッパ北部からの移民と関連していた、と仮定する以前の仮説を裏づけます。IAおよびMA集団について収集されたデータのほとんどは、ヨーロッパ東部および中央部におけるIAから初期MAにかけての遺伝的連続性を仮定する仮説と一致し、6世紀における東方からの移住はMA集団の遺伝子プールの形成に必要なかった、と示唆しています。しかし、これらのデータに基づくと、大移動期もしくはその後の期間におけるヨーロッパ東部からの追加の移住を除外できません。
f₄統計とqpAdmモデルを含む収集されたデータのほとんどでは、ヴィェルバルク文化関連の人々の遺伝的構成は、デンマーク_IAとノルウェー_IAを含む古代ヨーロッパ北部人口集団と関連していた、と示されました。この結果は、IA_コバレフコとユトランド半島のIA人口集団との間の母系のつながりに関する以前の観察と一致します。本論文ではさらに、ヴィェルバルク文化関連IA人口集団は先行するEBA_ウーニェチツェ人口集団だけに由来していないかもしれない、と示されました。それが意味するのは、ヨーロッパ北部からの移住がIA集団の遺伝子プールの形成に必要だった、ということです。
さらに、f₄統計とqpAdmモデルから、MA人口集団は同じ地域にそれ以前に暮らしていた人々により形成されず、ポーランド_EBA_ウーニェチツェかチェコ_EBA_ウーニェチツェかリトアニア_BAに近似できる、と明らかになりました。ヴィェルバルク文化関連の人々の推定されるヨーロッパ北部の祖先(デンマーク_IAもしくはノルウェー_IAにより近似)も、全てのMA_X人口集団の遺伝的構成を説明できるわけではありません。全てのMA_X人口集団の有効な2方向モデルは、ポーランド_EBA_ウーニェチツェもしくはチェコ_EBA_ウーニェチツェとIA_マスウォメンチでのみ得られました。
IA_マスウォメンチは在来のIA人口集団の最高の混合を有するヨーロッパ北部からの侵入者を表しており、それは、IA_マスウォメンチが現在のポーランドの領域でヴィェルバルク文化関連の人々の移住の最終段階に形成されたからです。それがさらに意味するのは、在来のIA遺伝的構成要素が全MA集団のモデル化に不可欠で、6世紀もしくはそれ以降における東方からの別の移住を必要とせずにMA集団の遺伝的構成を説明可能である、ということです。f₄統計では、MA集団もIA集団もポーランド_EBA_ウーニェチツェもしくはチェコ_EBA_ウーニェチツェへと向かって統計的に有意により動いていなかった、とも論証されました。この観察から、ポーランド_EBA_ウーニェチツェとチェコ_EBA_ウーニェチツェはIAおよびMA人口集団の共通の祖先構成要素だったかもしれない、と示唆されます。しかし、qpAdmモデルでは、IAおよびMA人口集団におけるEBA関連祖先系統は少なかった、と示されました。
上述の結果は、IAからMAにかけての現在のポーランドの領域におけるヨーロッパ北部からの移住と遺伝的連続性を仮定する仮説と一致します。したがって、MA人口集団の祖先系統の大半は先行するIA人口集団、とくにIA_マスウォメンチな由来するかもしれない、と観察されました。MA人口集団はIA人口集団と比較して、ヨーロッパ北部古代人との遺伝的類似性は低く、ヨーロッパ東部古代人との類似性は多くなっています。それでもMA人口集団は、ヨーロッパ北部および北西部古代人との密接な関係を示しており、この関係はヨーロッパ北部人の遺伝的構成要素の連続性を示唆します。それが、MA人口集団の一部のモデル化に、デンマーク_IAを唯一の供給源として使用できた理由です。しかし、MA人口集団へのIA人口集団の高い遺伝的寄与は、共通のヨーロッパ北部祖先系統の連続だけではなく、侵入者とコカ号した在来のIA人口集団の遺伝的連続も示唆します。在来のIA人口集団がMA人口集団と密接に関連しているかもしれない、という可能性は、ハンガリー_スゾラッド_大移動期とMA人口集団の混合としてのIA人口集団のモデル化によりさらに裏づけられ、祖先系統の大半(約80%)はMA人口集団に由来しました。
本論文のY染色体分析は、研究対象のIAとMA両集団間の有意な違いを明らかにしました。IA集団興亜成員の父系の遺伝的構造は、YHg-I1系統が優占していました。多くの識別されたYHg-I1クレードは今では、現在のヨーロッパ北部人口集団において最も一般的なYHgで、28~38%の頻度に達します。YHg-I1頻度の増加は、以前にはブリテン島へのアングロサクソンの移住の文脈で報告されました(関連記事)。これは、ヴィェルバルク文化関連の人々のヨーロッパ北部起源をさらに裏づけます。
YHg-I1の頻度はMA集団において顕著に低下し、YHg-R1aが優占します。YHg-R1a1a1b1a(S198)はMA集団において40%超の頻度を示し、YHg-R1a1a1b1a1a(M458)は最も一般的な系統です。現在、YHg-R1a1a1b1a(S198)とYHg-R1a1a1b1a1a(M458)はヨーロッパ東部および中央部の人口集団において最高頻度です。YHg-R1aの全てのIA集団個体はYHg-R1a1a1b1a1a(M458)系統に属する、と分かりました。これらの結果は、LBAの骨壺墓地(Urnfield)文化と関連する1個体でのYHg-R1a1a1b1a2(S204)系統の検出に関する以前の報告とともに、現在のヨーロッパ東部および中央部の人口集団(ポーランド人とチェコ人とベラルーシ人とウクライナ人)で優勢なYHg-R1a1a1b1a2(S204)が、少なくともLBA以降ヨーロッパ東部および中央部にすでに存在していた、という証拠を強化します。
母系ハプログループ分析は、紀元千年紀にヨーロッパ東部および中央部で起きた人口統計学的過程の別の側面を明らかにしました。IA集団とMA集団におけるmtHg頻度のパターン間の有意な違いの欠如から、大移動期の前後にヨーロッパ東部および中央部に居住していた人口集団は類似の母系の遺伝的構造を有していた、と示されます。この結果は、IAとMAとの間のヨーロッパ東部および中央部の人口集団におけるmtHg系統の連続性に関するいくつかの以前の報告と一致します。MtHg頻度の全体的なパターンはIAおよびMA両集団においてほぼ同じでしたが、IA集団では存在しないかひじょうに低頻度だった、現在のヨーロッパ東部人口集団(ウクライナ人とロシア人)にかなり特異的ないくつかの系統(H5a2、H5e1a、H1c、U4a2、U5a1b1e)が見つかりました。MtHg-H5a2とH5e1aとU5a1b1eの増加から、大移動期の後にヨーロッパの東部から中央部への人々の少なくともいくらかの移動があった、と示唆されます。しかし、この観察は、本論文で研究対象とされたIA集団のより小さな標本規模によっても説明できるかもしれません。
上記を考慮すると、紀元千年紀の開始と末にYHg頻度のパターンで観察された違いと、mtHg特性の安定性は、この期間に特有の男性優位で家父長的な社会構造の産物である、と推測できます。通常、男性は移住し、女性は地元にいました【次の説明からも、これは母系社会が一般的だったことではなく、征服を伴うような移住では男性主体の場合が多かったことを意味しているのではないか、と思います】。この現象は、IA集団におけるYHg-R1aの低い発生率も説明できるかもしれません。比較的少数の男性移民が在来共同体を征服できる、と示す多くの事例(たとえば、南北アメリカ大陸の植民史)が歴史にはあります。したがって、IA集団におけるYHg-R1aの個体数の少なさは、在来のIA人口集団におけるYHg-R1aの低頻度を必ずしも意味しません。しかし、これは、男性移民が支配する共同体からの地元男性の排除の自然現象を示唆しているのかもしれません。
本論文は、中世人口集団の祖先がIAにおいて現在のポーランドの領域に暮らしていた、という証拠のいくつかの断片を提供します。しかし、さらなる解明を必要とするいくつかの側面があります。まず、YHg-R1aのMA人口集団の祖先がどのようにいつ出現したのか、ということです。YHg-R1a1a1(M417)が現在のポーランドの領域で優勢になった時期は、縄目文土器(Corded Ware)文化(紀元前3000~紀元前2300年頃)の拡大と関連しています(関連記事)。その後、縄目文土器文化は、YHg-R1aがひじょうに稀だった人口集団と関連していた、ウーニェチツェ文化(紀元前2300~紀元前1600年頃)に置換されました。それからIAまで、この地域には多くの考古学的文化があり、そこでは火葬が主流の埋葬慣行となったので、遺伝的データが利用できません。
本論文では、IAおよびMA人口集団がウーニェチツェ文化と関連する人々から遺伝的祖先系統をわずかな割合しか継承しなかった、と示されました。したがって、YHg-R1aを有する在来のIA人口集団の祖先は、BAに復活したか、BAもしくはIAに東方から到来するかの、どちらかでなければならなかったでしょう。現時点では、本論文の結果に基づいて、IA後の移住の追加の波を明確に除外できないことに要注意です。したがって、YHg-R1aの頻度増加の一因は、大移動期後の湯は東部からの移住の可能性もあります。
可能性は低いようですが、IAにおいて現在のポーランドの領域における中世人口集団の祖先の存在を仮定しない、別のシナリオを除外できません。MA一つの可能性は、IAおよびMAの両期間におけるヨーロッパ北部からの移住の多くの波です。このシナリオによると、中世人口集団は、在来のIA人口集団と類似した遺伝的構成要素を有する個体群の移住の結果として生じたかもしれません。この場合、移民は在来のIA人口集団の直接的子孫ではないでしょう。
別のシナリオは、減少する遺伝的多様性の条件下で相互に類似したIAおよびMA人口集団を形成した、ボトルネック(瓶首効果)の発生を想定できるかもしれません。IAおよび中世両人口集団が、まだ研究されていない共通の祖先人口集団を有していた、という可能性もあります。この共通祖先系統は、IAにおける現在のポーランド地域の中世人口集団の祖先の直接的存在なしに、IAおよび中世両人口集団間遺伝的類似性を説明できるかもしれません。確かに、上述のシナリオの検証を妨げる基本的な制約が、ウーニェチツェ文化の消滅とIAの開始との間の時期に暮らしていた人々の、およびプシェヴォルスク文化に属する人々からの古代DNAの不足です。
参考文献:
Stolarek I. et al.(2023): Genetic history of East-Central Europe in the first millennium CE. Genome Biology, 24, 173.
https://doi.org/10.1186/s13059-023-03013-9
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