アフリカ西部における中期石器時代の長期の持続

 アフリカ西部における中期石器時代(Middle Stone Age、略してMSA)の長期の持続に関する研究(Niang et al., 2023)が公表されました。サハラ砂漠以南のアフリカにおいて、MSAは前期石器時代(Early Stone Age、略してESA)に続き、MSAの後には後期石器時代(Later Stone Age、略してLSA)へと続きます。MSAはアフリカ起源と考えられる現生人類(Homo sapiens)の解剖学および行動的起源を解明するうえでたいへん重要な期間となり、最近刊行されたアフリカ大陸全域のこの期間の考古学的調査結果の概説(関連記事)はたいへん有益です。


●要約

 MSAの技術は、中期更新世においてまずアフリカの北部と東部と南部の考古学的記録に現れます。アフリカ西部のMSA遺跡の欠如により、中期更新世後期におけるアフリカ大陸全域の共有行動とその後の地域的な軌跡の多様性の評価が制約されています。本論文は、15万年前頃となる、セネガルのバルニー(Bargny)における、アフリカ西部沿岸の中期更新世後期のMSAの存在の証拠を提示します。古生態学的証拠から、バルニーはMSA期において水文学的退避地だった、と示唆され、中期更新世の乾燥期において河口域の状況を支えていました。バルニーにおける石器技術は、中期更新世後期においてアフリカ全域で広く共有されていた特徴を示しますが、完新世の開始までアフリカ西部において独自に安定したままでした。本論文は、マングローブを含めてアフリカ西部の環境の持続的居住性が、行動安定性のアフリカ西部の独特な軌跡にどのように寄与しているのか、調べます。


●研究史

 中期更新世(チバニアン、78万~13万年前頃)におけるMSAの出現は、アフリカの先史時代における大きな文化的変化を示しています。30万年前頃となるMSA技術の最初の出現は、化石記録における現生人類の出現とほぼ同時です(関連記事1および関連記事2)。最近於の研究は、現生人類の形態の斑状の出現の地域内および地域間の人口構造のかなりの影響と、人口集団の多様性のその後のパターンを浮き彫りにしました(関連記事1および関連記事2)。先行するアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)技術からMSAの出現への遺構の時空間的に分離的な性質は、文化的進化の類似シナリオを裏づけており、恐らくは、アフリカ東部の他の場所でのMSA技術の出現から約6万年後の、エチオピアのミエソ(Mieso)遺跡におけるアシューリアン人口集団の後期の存続により最良に証明されます。

 MSA技術への移行は、大型両面石器から調整石核縮小および再加工剥片石器一式への、石器縮小慣行の主要な焦点の変化、景観全域の石材の輸送の顕著な増加、オーカー(鉄分を多く含んだ粘土)など考古学的遺物群内の人工遺物の追加の分類の出現により特徴づけられます(関連記事)。中期更新世におけるMSAの初期の出現は、人口統計学的変動の研究を補完する行動と環境両方の適応において、古生態学的状況および地域間の接続性内における行動変化の地域的な軌跡の調査に重要です。

 アフリカ全域でのMSA遺跡の最初の出現は海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)9(337000~30万年前頃)で、モロッコのジェベル・イルード(Jebel Irhoud)遺跡(関連記事)などアフリカ北部、オロルゲサイリエ(Ologesailie)盆地(関連記事)やガデモッタ(Gademotta)層などアフリカ東部、ではカサ・パン(Kathu Pan)遺跡(関連記事)などアフリカ南部ではMIS8(30万~243000年前頃)の最初期段階です。アフリカにおける初期MSAの存在はMIS7(243000~191000年前頃)にはより多くなり、MIS6(191000~13万年前頃)にはさほど多くありませんが(図1)、中期更新世におけるMSAの理解は、アフリカ大陸の最も集中的に研究された地域に大きく偏っています。

 アフリカ全域で、かなりの変化が後期更新世以降のMSAで見られ、斑状の様相で現れており、文化的進化の地域かされた軌跡を反映しています。これらに含まれるのは、他の石器縮小戦略(狩猟武器への焦点や、石器の熱処理など)、死者の埋葬(関連記事)や有機物質の使用(関連記事)や顔料(関連記事)とビーズと複雑な幾何学模様(関連記事)の製作など物質的活動の大幅な精緻化、砂漠や高地(関連記事)や熱帯林(関連記事)や沿岸など広範な生息地での居住です。アフリカ西部などよく理解されていない地域におけるMSAの古さを確証することは、類似の行動の初期の出現の評価、文化的革新および変化のその後の地域化されたパターンの評価に用いられる基準の提供、MSA人口集団が異なる生態学的環境にどのように関わって適応したのか、という調査に重要です。以下は本論文の図1です。
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 アフリカ西部のMSAの年代学は、最近やっと注目され始めました(関連記事)。アフリカ西部におけるMSAの初期段階はさほど明らかになっていないままで、わずかな事例は、コートジボワールのアンヤマ(Anyama)遺跡のサンゴアン(Sangoan)インダストリー(関連記事)の期間が254000年前頃以降、中期更新世の存在を示唆しているかもしれないマリのオウンジョウゴウ(Ounjougou)がそれ以降です。アフリカ大陸の他地域とは対照的に、アフリカ西部における直接的に年代測定されたMSAの存在は後期更新世に限定されており、ラヴィン・ブランク1(Ravin Blanc 1)遺跡の初期MSA遺物群の年代は128000~124000年前頃で、MIS5(13万~71000年前頃)の開始以降のこの地域におけるMSAの存在を示唆します。

 アフリカ西部におけるMSA遺跡の大半の年代はMIS4(71000~59000年前頃)~MIS2(28000~11000年前頃)で、アフリカ全域で最も新しいMSAの存在は、完新世の開始となる11000年前頃のセネガルのサクソムヌンヤ(Saxomununya)遺跡で報告されました(関連記事)。アフリカ西部のMSA遺跡は通常、主要な河川流域と関連する現在のサヘル地域もしくはサバンナ生息地で見つかります。サルーム(Saloum)川三角州の端に位置するセネガルのティエマッサス(Tiémassas)遺跡のMSAの存在は注目すべき例外ですが、古環境の直接的代理は通常存在しません。

 ラヴィン・ブランク1遺跡について先行研究では、ルヴァロワ(Levallois)を有する粗雑な両面石器の関連が、アシューリアン後の伝統的なインダストリー、つまりサンゴアンと関連しているのか、もしくは単純に初期MSA伝統かもしれない前例のない技術を示しているのかどうか、疑問が呈されました。文化進化のこれら代替的なパターン間の解決には、アフリカ西部の堅牢に年代測定された中期更新世のMSA遺物群の識別が必要です。現代の住民と後期更新世の人口集団の両方で、アフリカ西部にはかなりの人口集団の多様性があることを考えると、アフリカ西部における初期MSAの評価は、生物学的構造と行動多様性と生態学的適応の間の関係の解明に役立つかもしれません。

 アフリカ西部における初期MSAの存在を調べるため、ダカールの東方に約30kmとなる、現代の海岸から1.9km離れた採石場に位置する、セネガルのバルニー遺跡が再調査されました(北緯14度7分、西経17度2分)。バルニー遺跡は現在、南方のギニアの森林地帯と、北方のサヘル短草サバンナとの間の、森林と背の高い草のサバンナでほぼ構成される移行帯であるスーダン植生帯内に位置しています(図1b)。この地域の沿海および沿岸植生には、河口帯のギニアマングローブと、砂丘や沿岸平野の環境における塩性低木林が含まれます。

 バルニー遺跡の現代の環境は、塩性湿地や古代の河道から1km未満に位置する塩性低木林です。現在、この地域の平均年間降水量は400~500mmです。バルニー遺跡に石器時代の物質が存在することは、1941年に最初に報告され、開地表面遺跡と考えられました。1975年に行なわれた発掘では、25cmの浅い層序が報告されました。この研究は、バルニー遺跡の新たな調査を行ない、大規模なMSA石器群を年代層序学的および古生態学的環境内に位置づけることができました。本論文はバルニー1と命名された遺跡の調査結果を記載し、それをより広範な古人類学的文脈内に位置づけます。


●層序

 石器とさらなる分析のための堆積物を回収するため、標本人口遺物が含まれる堆積物で1.75×1mの試掘坑の発掘前に、既存の区画を洗浄し、緩やかに起伏した石灰岩で構成される現地の岩盤を露出させた採石場の穴状遺構内の堆積物系列が調査されました。遺跡現地で6点の主要な堆積物単位が特定され、実験室での分析を通じてさらに解明されました(図2)。上部の層序単位(単位1)は暗褐色がかった灰色の沈泥砂の現代の表土で、景観全体で広く水平に現れ、中間の灰色がかった沈泥砂である単位2の上に位置しており、これらが組み合わさると、最上部の1mの堆積物に広がります。鋭い接触が、時に石灰石の小さな砂(直径約5mm)中間の灰色がかった沈泥砂で構成されるその下の堆積物(単位3)で観察されます。さらなる鋭い接触は表面の約2.2m下の単位4で観察され、これは、通常は35cmの厚さで、淡い茶色が勝った灰色の沈泥砂を支えている石灰石の小さな砂(直径5~10mm)の細かい砂利です。以下は本論文の図2です。
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 石灰石の小さな砂の存在は、岩盤を構成する場所のすぐ近くの地元の石灰岩源の浸食により最適に説明されます。堆積物の質感と色の変化は、単位5および単位6との表面の約2.5m下の堆積の下部段階との鋭い接触を示し、単位5は時に石灰石の小さな砂と石器を伴う淡い橙色の沈泥砂で、単位6は、稀に石灰石の小さな砂と燵岩の半ば角ばった断片で構成されるか、石灰石の岩盤の下にある砕屑物に支えられた、淡い橙色の沈泥砂です。単位5および6における微細堆積物の際立った橙色は、鉄砕屑堆積物から浸食された生成物の移送のためかもしれず、この鉄砕屑堆積物は、沿岸の他の石灰石堆積物を覆っていると分かっているものの、遺跡のすぐ近くでは明らかではありません。


●地質年代学

 単位1(0.45m)と単位3(1.9m)と単位4(2.6m)と単位4および5の境界面(2.8m)と単位5(3.1m)から、年代測定のため標本5点が回収されました。単一の部分標本層において粗い石英粒子が光刺激ルミネッセンス(Optically Stimulated Luminescence、略してOSL)で年代測定され、全標本は良好なルミネッセンス特性、高速成分の優占するOSL痕跡、低水準の同等量(De)過分散、高いDe再現性を有していました。OSL年代測定の結果は表1に示されています。

 OSLの結果から、MSAの存在の証拠を保全していた単位5と関連する河床堆積はMIS6の後半に始まった、と示唆されます。堆積物はおもに、フェリクリート(酸化鉄で膠結された礫岩)層の浸食に由来していました。上に位置する単位4についてMIS5を示唆する年代が得られた一方で、2標本間の年代逆転の存在は、単位4の年代に注意すべきことを意味します。堆積学および地球化学的に、単位4は内部で変動しており、他の単位とは顕著に異なります。野外観察から、呼格的高い炭酸塩含有量は堆積後の土壌生成もしくは地下水起源ではない、と示唆されます。代わりに、野外観察から、地元の石灰石が侵食し、沈泥砂と同時に単位4内部に砕屑物として堆積した、と判断され、これは年代逆転が、OSL線量率に影響する時間経過に伴う、未修正の変化する炭酸塩含有量により説明できないことを意味します。現代の地表は、完新世初期に確立したようです。


●古生態学

 現在のバルニー遺跡の植生は、アカシア・セヤル(Acacia seyal)やカロトロピス・プロケラ(Calotropis procera)などの種が優占し、低木がほとんどない草原で構成されています。過去の植生再構築のため、微小植物遺骸(植物化石と花粉)について堆積物標本が評価されました。24点の標本の対象部分集合から、古生態学的分析に適した植物化石の濃度が得られました。多量の植物の微小化石は密節に、主要な4堆積単位に続きます。単位1と2と3には、微小化石はより少なく、保存状態が悪いものの、単位4と5と6は、堆積学で観察されたより多くの有機物含有量および堆積物分類と一致して、微小化石堆積物と保存状態の増加段階を示します(図2)。

 花粉濃度は大きく変動し、その保存状態は悪く、定量的分析の有用性は制約されますが、局所的に分布する湿地指標(ガマ科やヒルギダマシ属)の存在と、ジェット気流で到来した地域的な花粉(マツ科)は、重要な方法で植物化石の結果の状況を説明します。現代の表面標本との比較を用いて、バルニー遺跡の植物化石の代表性が評価されました。主成分分析(principal component analysi、略してPCA)と最小方形弦距離の両方から、堆積した植物化石の痕跡は現代のアフリカ西部の植生おびの植物化石の兆候の包絡曲線内に収まる、と示されます。草と水の圧力の指標と草の組成も用いて、バルニー遺跡における過去の植生被覆が特徴づけられました。

 単位1と2との植物化石は、短い草から長い草の植物化石のより高い比率である、水の圧力のより強い兆候を示し、サヘル地域およびサハラ地域の植生帯の現代の標本と類似しています。この区画から回収された花粉は、塩性低木(ヒユ科)の強い代表性を示すだけではなく、バルニー遺跡の1km以内に位置する汽水性湿地で一般的なガマ(ガマ科)やスゲ(カヤツリグサ科)の花粉も含んでいます。これは、MIS3末から完新世の開始までにわたる乾燥状態の地域的パターンと一致します。水の圧力と短い草の指標は、単位4および5では低い値で密に制約されています。

 これらの標本から得られた植物化石は、年間降水量が500mm以上の、サヘルおよびスーダンの植生のより湿潤な種類から得られ表面標本と類似しています。低い草の圧力値は単位6でも持続しますが、短い草の指標値は極端に違いが大きくなっています。低いミス圧力と短い草の指標は、ジェット機量循環の強化や少ない降水量やサヘルとサハラの境界の南進と関連している、MIS6で予測される状態と一致しません。これらの単位の花粉には、ジェット気流活動によりもたらされる種類(マツ科)や、典型的な塩性マングローブ分類群(ヒルギダマシ属やガマ科)が含まれます。堆積学的結果個により裏づけられ、植物化石と花粉の兆候は、バルシン遺跡において河口状態がMIS6の後半には持続し、恐らくは、バルニー遺跡の周辺の現代の景観で一般的な局所的な、水文地質学的条件と春の活動により支えられたことを示唆します。


●石器技術

 石器群(772点)が単位5から回収され、これは石器縮小の全段階を表しており、バルニー遺跡での活動が刺殺されます(図3)。人工遺物は発掘された堆積物では均一に分布しており、単位5が曝露している景観全体において断面で視認され、この地点における上の堆積物での存在を示唆する証拠はありませんでした。地元の石灰石から得られた高品質の燵岩が用いられ、人工遺物の大半(98%)が製作され、単位6内で下に位置する岩盤とさまざまな形態の砕屑物でバルニー遺跡に直接存在し、より遠い場所からバルニー遺跡に輸送されたことを示唆する、砂岩と石英から作られた人工遺物は稀です。人工遺物群は、石核と原形全体にわたってルヴァロワ式縮小戦略の優占を示唆しており、関連する石核管理の存在と、削片群(非目的製作物)表面の代表性制と関連する裁断要素により裏づけられます。以下は本論文の図3です。
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 尖頭器および石刃製作を含む単方向ルヴァロワ体系が存在しますが、求心性ルヴァロワ剥離戦略が優占し、優先的で繰り返しの縮小体系全体で明らかです。片面円盤状剥離は稀ですが、4点の石核と6点の疑似ルヴァロワ尖頭器の存在から明らかです。縮小活動の高密度は、石核から剥片の顕著な存在(15点)と石核から剥片の断片(6点)において明らかで、単極で直交性で求心的な傷跡が存在します。形式的ない石核縮小は、複数の打面石核および断片(27点)と単一の打面石核および断片(6点)の存在から明らかです。再加工人工遺物はひじょうに稀で、7点の掻器から構成されます。この石器群は、MSA石器技術の地域的および大陸的両方の表現の特徴です。


●考察

 バルニー遺跡におけるこの研究は、15万±6000年前頃となる、セネガルの海岸線から約22km以内の河口および半乾燥環境の近くにおけるMSAの存在の証拠を記録し、初めてアフリカ西部のMSAの年代を中期更新世にまで拡張します。バルニー1遺跡の類型技術的組成がMIS6りの他の23ヶ所のMSA遺物群と比較され、その中には、アフリカ北部のベンズ洞窟(Benzú Cave)やハウア・フテア(Haua Fteah)やイフリ・ナンマル(Ifri n'Ammar)やラファス岩陰(Grotte du Rhafas)、もアフリカ東部のヘルト(Herto)やマーモネット・ドリフト(Marmonet Drift)、アフリカ南部のボーダー洞窟(Border Cave)やフロリスバッド(Florisbad)やピナクル・ポイント(Pinacle Point)やワンダークレーター(Wonderkrater)などが含まれます(図4)。以下は本論文の図4です。
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 ルヴァロワ式剥片技術は他のMIS6におけるMSA石器群の最も一貫した診断的特徴で、石器群の74%を占め、それに続くのが、石器群の70%の石刃と、65%の求心的縮小手法で、バルニー1遺跡において優占的な縮小手法と一致します。再加工された尖頭器は他のMIS6基の石器群において最も一般的な(78%)道具で、バルニー遺跡では欠けており(ただ、ルヴァロワ式尖頭器製作は存在します)、石器群の52%を占める掻器と、他の重い石器などがあり、さらに疎らに出現します。バルニー1遺跡の石器群は、MIS6のアフリカ全域の初期MSA石器群における類型技術的多様性のパターンの典型で、ルヴァロワ式や他の放射状に向けられた縮小手法に焦点が手あられており、精巧な再加工された道具一式は欠如しています。

 ラヴィン・ブランク1、ファレメ(Falémé)川流域、セネガル川下流域、ガンビア川流域、オウンジョウゴウ、ビリミ(Birimi)、ビルマ(Bilma)、ティエマッサスなど、アフリカ西部の年代測定されたMSA石器群のより広範な文脈に位置づけて、バルニー遺跡で得られた結果は時間枠を拡張し、この期間には安定した持続的な石器縮小慣行一式が続き、それは中期更新世後期から完新世の開始にまで及びます(図4)。バルニー1およびラヴィン・ブランク1遺跡におけるルヴァロワ式や石刃や円盤状縮小や再加工の道具一式は、MIS5の最初期に出現し、この地域における初期MSAを特徴づけます。

 これらの類似性を考えると、ラヴィン・ブランク1遺跡における両面石器の稀な存在が、別々の移行的インダストリーを示唆している可能性は低いようです。縮小技術や求心性手法(円盤状と放射状、67%)やルヴァロワ式手法(54%)を記録している24ヶ所の年代測定された遺跡は、アフリカ西部MSA石器群の持続的特徴として現れ、さまざまな遺跡で見られ、この地域の最も新しいMSA石器群に残存しています。石刃製作はバルニー1およびラヴィン・ブランク1遺跡の両方に存在しますが、この地域のMSA石器群全体では低頻度(33%)で見られます。両極縮小は同様に低頻度(29%)で現れますが、MIS4および3の石器群でのみ見られます。アフリカ西部では重い石器は疎らに現れ、石器群の約23%で見られます。

 再加工された石器はアフリカ西部のMSA石器群31ヶ所のうち17ヶ所で報告されており、その半分には単一の石器様式が含まれます。再加工された尖頭器(65%)と掻器は最も一般的な石器の種類で、他の種類の石器はより疎らにしか、および明確な時間的もしくは空間的パターンなしで現れます。バルニー1遺跡において初期MSA石器群に現れる石核縮小パターンは、アフリカ西部の後期MSA技術の一貫した部分を形成しますが、アフリカ大陸の他地域とは対照的に、後期更新世における石器縮小手法もしくは再加工された道具一式の精緻化は限定的なようです。じっさい、アフリカ西部において顕著に密接な類似性が、バルニー1遺跡における最古、サクソムヌンヤ(Saxomununya)遺跡における最新のMSA石器群で観察できます。

 過去20万年間にかなりの変動が地域および大陸規模の気候と古生態学の記録で観察でき、バルニー1遺跡の現地代理記録は、この変動が局所的水準でどのように現れるのか制約する、重要な手段を提供します。地域的な貝用記録で明らかな、乾燥したサハラおよびサヘル地域の植生の限界におけるかなりの流動にも関わらず、過去15万年間の河口状態の発展は、沿岸部の水文地質学的過程の結果かもしれません。低いMIS6の海面のため、広大な沿岸平原が乏しい地形の起伏とともに露出し、そこでは湧水流が河口系複合を支えていたかもしれません。

 後期更新世における現代的な景観過程の確立は、より乾燥した種類のスーダン森林に匹敵する、堆積物環境の転換および植生群の出現において明らかです。局所的な堆積環境の変化以外では、バルニー1遺跡から得られた証拠は、気候モデル出力と一致しており(図4)、気候変化の範囲への局所的制約を示唆します。アフリカにおけるヒトの退避地に関する最近の研究は、セネガルとガンビアとマリ西部(以後はセネガンビア退避地と呼ばれます)における、後期更新世全体にわたっての永続的居住を可能とする、居住地適合性の可能性を浮き彫りにしてきました。

 こうした見解は、248~1403mmの降水量閾値と民族誌的類推に基づいており、アフリカ東部のMSA記録に関する最近の調査により裏づけられます。この提案された退避地の分布は、アフリカ西部における既知のMSAの存在の分布および年代と一致します。バルニー遺跡における最古のMSAの存在からサクソムヌンヤ遺跡における最新のMSAの存在までの時間枠を網羅するこの分析を拡張すると、MIS6中期(16万年前頃)から完新世までの、このセネガンビア退避地では248~1403mmの降水量閾値の持続的存在が裏づけられます。これは、バルニー1遺跡およびこの地域全体の記録と一致します。この退避地は、熱帯乾生灌木生息地が優占していたようで、他の生態学的により多様な退避地(アフリカの北部や東部や南部)との接続は限定的です。

 この地域全体の長期にわたる接続性の欠如は、他の人口集団との孤立の長期段階と顕著な古代型人類からの遺伝子移入を強調する、アフリカ西部の現在の人口集団の遺伝学的研究(関連記事)と一致します。同様に、この地域における唯一の更新世化石の研究は、この地域における複雑な人口集団の下部構造の可能性を浮き彫りにします。セネガンビア退避地の持続的な居住可能性と限定的な地域間の人口統計学的接続は、15万~1万年前頃のこの地域で観察された長期の文化的連続性を裏づけているかもしれません。

 15万年前頃のバルニー遺跡におけるMSAの存在から、セネガンビア退避地の居住は、MIS5における新たな生息地、とくにサハラの隣接した乾燥景観全体へのより広範な拡大と、アフリカ東部から西部における湿潤性の大きな変化を伴うアフリカ全域の地域間の気候パターンの主要な変化の両方に先行する、と浮き彫りになります。これは、アフリカ西部の居住の長期性と、この地域にMSA人口集団が存在した気候変条件の範囲の両方の理解にとって、またそこから人口統計学的拡大を調べるための、重要な基準となります。しかし、北方もしくは南方への直接の景観間の接続に関する証拠は限定的なままです。

 有舌尖頭器の個別の事例はティエマッサス遺跡で見つかっており、そこではMSAの存在がMIS4~2にわたっており、伝統的に、サハラ全域のMIS5の拡大、つまりアテリアン(Aterian、アテール文化)拡大の重要な化石指標でした。南方への森林地域のMSAの存在に関する理解は、技術と年代学の観点ではあまり知られていないままで、比較の範囲を制約します。考古学的記録は、長期の人口集団の連続性と限定的な地域間の接触を示唆する遺伝学および化石記録を裏づけます。この地域における人口統計学的圧力の欠如は、適応的な革新の範囲を制約したかもしれず、これはバルニー遺跡の15万年前頃からサクソムヌンヤ遺跡(関連記事)の1万年前頃までのMSAの存在という、この地域における広範な技術的連続性と一致します。

 熱帯アフリカにおける更新世人口集団への海岸線の重要性は、これまで調査がひじょうに限定的でした。かなりの研究が、他地域の海岸および海洋の利用のパターンについて行なわれており、そうした研究では、より広範な生計パターンへの早期の重要性と統合を論証しています。そうした研究は、海岸近くの洞窟遺跡に関する広範な調査から恩恵を受けていますが、熱帯アフリカでは、石器時代考古学者による同等の規模の調査を共有しているアフリカ東部のような地域でさえ、内陸部の遺跡が主要な焦点でした。ケニア沿岸部のパンガ・ヤ・サイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡は、沿岸資源との長期の関わりの証拠を提供しますが、アフリカ北部および南部のより集中的な記録とは異なります。アフリカ西部では、バルニー遺跡の居住はティエマッサス遺跡の証拠を補完し、MIS6~2におけるセネガル沿岸に近い繰り返しの居住を示唆しますが、これらの記録はまだ沿岸資源との明確な関わりを示していません。

 ヒルギダマシ属の残存個体群は依然として、北緯19度までアフリカ西部沿岸に分布する低頻度の氾濫僻地で汽水域マングローブを占めています。マングローブは生息域の不均一性が高く、生存資源を利用しやいので、更新世採食民人口集団にとって集中地点となったかもしれません。これらの資源の利用への適応は、アフリカ西部における人口拡大の新たな軸を開いたかもしれません。アフリカ西部石器時代への研究の関心の加速は、そうした提案の検証の手段を提供します。新たなデータが現れるにつれて、少なくとも中期更新世末以降、アフリカ西部は行動および生物学的多様性の供給源だったかもしれず、後期更新世を通じてヒト進化の地域的に異なるパターンを可能にした、ということを考慮しなければなりません。


参考文献:
Niang K. et al.(2023): Longstanding behavioural stability in West Africa extends to the Middle Pleistocene at Bargny, coastal Senegal. Nature Ecology & Evolution, 7, 7, 1141–1151.
https://doi.org/10.1038/s41559-023-02046-4

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