松下憲一『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』

 講談社選書メチエの一冊として、2023年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、中華の形成における北方遊牧民(もしくは狩猟民)の役割を重視し、その具体的事例として鮮卑の拓跋部を取り上げています。これら北方遊牧民の中華支配について通俗的には、野蛮な夷狄による中華の破壊か、未開な遊牧民の中華への同化として語られるのが一般的でしたが、じっさいには、夷狄とされてきた北方遊牧民によるそれまでの中華の取捨選択や、新たな要素を加えた中華が創造されたのではないか、というわけです。より具体的には、本書では拓跋部の歴史が、胡族国家の時代(3世紀半ば~4世紀後半)、胡漢二重体制(4世紀後半~5世紀後半)、中華王朝への転身(5世紀後半~6世紀前半)、胡漢融合(6世紀前半以降)に区分されています。

 1世紀半ば頃にモンゴル高原で匈奴が衰えた後に、鮮卑が登場します。鮮卑に関しては、三国時代に魏の王沈『魏書』にまとまった記録があり、現在では散逸したようですが、『三国志』などで引用された箇所はかなりまとまった内容になっています。鮮卑は烏桓とともに東胡と呼ばれた集団に属し、言語風習が同じで、匈奴が東胡遠く征服した時に遼東の長城外に逃れ、それぞれ鮮卑山と烏桓山に逃げたことが名称の由来になっているようです。鮮卑の領域は、東は遼東半島から西は現在の中華人民共和国内モンゴル自治区バヤンノール市までで、大集会の開催場所から内モンゴル自治区の赤峰市付近が中心地と考えられています。鮮卑は家畜の飼育とともにテンなどを狩り、テンの毛皮は交易品として広く知られていたようです。鮮卑は、吉兆・霊異の漢字表記のようです。本書は鮮卑について、騎馬遊牧民による政治的連合体の名称であり、その構成員は言語や風習が違っても鮮卑になるから、鮮卑全体を指して何系の民族かは問えない、と指摘します。その意味で、匈奴や鮮卑を遊牧民族と呼ぶのは適当ではなく、遊牧集団と呼ぶ方がよい、と本書は指摘します。鮮卑が漢文史料に現れるのは1世紀半ばで、鮮卑は後漢と提携し、100万人匈奴の残留者を配下として、鮮卑と匈奴の融合が進みます。漢文史料に見える別々の部族は、2世紀中頃に檀石槐の下で統合されます。ただ、檀石槐の築いた大国家は息子の代で瓦解します。

 拓跋部の指導者は、3世紀後半以降、遊牧社会の優れた指導者と伝わる神元帝の子孫が世襲していきますが、遊牧社会によくあるように、指導者に相応しい年齢や出自や能力を備えている人物が部族長たちにより選出されます。拓跋部により北魏の前身となる代国が整理室したのは315年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)で、穆帝が西晋から代王の爵位を得たことに由来します。代国の改革では、後趙が手本となりました。4世紀後半の華北における前秦の一時的な覇権期間を挟んで代国は一旦滅亡した後で復興し、386年には国号が代から魏へと変更されます。本書はこの国号変更の一因として、五胡十六国時代には燕や秦といった戦国の七雄を想起させる国号があり、代では知名度が低すぎると考えられたのではないか、と推測します。また本書は国号変更の理由として、東晋に対して自らを中華王朝と示す必要があり、さらに魏から禅譲を受けた西晋の正統性を失わせる目的もあった、と指摘します。

 北魏は後燕を395年に破り(参合陂の戦い)、中華世界への勢力拡大の足掛かりを築きます。それは、鮮卑の後継者としてだけではなく、中華皇帝としての立場でも正統性を得ることになったからです。北魏の後継者選出でよく知られている子貴母死という制度では、後継者の生母は死を賜うことになります。この制度の背景にあったのは、代国時代に母親の政治と後継者選抜への関与があったことですが、本書は別の意図として、後継者の選択権を部族長から奪い、父系子孫へと確実に低位を伝える目的もあった、と指摘します。北魏では部族が解散されず再編され、遊牧民的性格を維持しつつも、それまでの五胡諸国とは異なり、支配部族と服属部族をともに首都近郊に集め、支配集団を形成していきます。

 北魏は太武帝の時代に華北を統一し(5世紀半ば)、遊牧地帯に軸足を置きつつ、農耕地帯を支配する、後の遼や金やモンゴルやダイチン・グルン(大清帝国)の先駆けとなります。太武帝の覇業に貢献した崔浩は、その一族とともに突如として粛清されます。これは、北魏の遊牧民としての「野蛮な」習俗が国書に記載され、その責任者である崔浩が失脚し、族滅となった、と解釈されてきました。本書は、当時の北魏において拓跋部の習俗が「野蛮な」ものとして恥ずかしく思われていたわけではなく、国書の内容を石碑に刻んで公開したことが皇帝への批判にもつながるものだったため、大逆罪として族滅とされた、と推測します。

 このように、遊牧民としての習俗も維持し、一方で漢字文化圏の制度も取り入れた北魏の制度(胡漢二重体制)は、孝文帝の時代に大きく「中華王朝」へと変容していきます(漢化政策)。孝文帝の治世の前半に政治を担当したのが摂政の文明太后で、文明太后が孝文帝の生母との説もありますが、本書は否定的です。文明太后の執政期には、俸禄制の実施や均田法の発布や三長制の実施や部大人制の廃止などの改革が行なわれました。文明太后が490年に死去すると、孝文帝は親政を開始し、さらなる改革を進めていきます。これは、胡語と胡服の禁止など漢化政策と呼ばれていますが、「胡族」を「漢族」にすることが目的ではなく、胡語と胡服の禁止は改革の一部で限定的であり、全体的には胡漢二重体制を中華の皇帝制度による支配体制に一本化するものでした。一方で、孝文帝の改革では運用面において以前のように拓跋部による支配体制が続きました。

 孝文帝の改革により、北魏において六鎮のように北方勢力と対峙する人々と、遷都した洛陽で出世していく人々との間で格差が拡大し、その不満から六鎮の乱が起きるなど、北魏の体制は弱体化し、やがて東西に分裂した後に、東魏は北斉、西魏は北周に取って代わられます。東魏(北斉)と西魏(北周)の相違点として、東魏は「漢人」貴族を抱えていたことから孝文帝の漢化路線を継承し、西魏は軍事力で劣ることから漢人豪族を兵士として取り込んだことが挙げられています。一方で本書は、漢化路線を継承した東魏でも、直ちに胡族体制が否定されたわけではなかったことも指摘されています。本書は、こうした五胡十六国時代から北魏と隋と唐の時代を、「胡族」が単に「漢化」したのではなく、椅子や卓の導入など、「胡族」の習俗と「漢族」の習俗が融合していった、と評価します。また、この時代には、犬が次第に食用とされなくなり、これも北方世界から中華世界への影響だった、と指摘されています。

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