カナリア諸島先住民の人口史

 カナリア諸島先住民の古代ゲノムデータを報告した研究(Serrano et al., 2023)が公表されました。カナリア諸島は大西洋の比較的低緯度に位置していますが、その入植が紀元後と遅かったこともあり、DNAの保存状態はそれなりに良好なようで、古代DNA研究が進められています。カナリア諸島への関心は、古代DNA研究が進められている地域ということもありますが、『イリヤッド』の舞台の一つになったことも大きく影響しており(関連記事)、本論文を読んで改めて、最近少し読み返した『イリヤッド』を、いつか時間を作って最初から精読しよう、と考えています。


●要約

 紀元後3世紀頃に入植したカナリア諸島の先住民人口集団は、アフリカ北部の過去への窓と、島嶼性の影響調査への特有モデルの両方を提供します。この研究は、紀元後3~16世紀となる、7島の40個体のゲノム規模データを生成しました。モロッコ新石器時代人口集団にすでに存在していた構成要素とともに、カナリア諸島先住民はユーラシアにおける青銅器時時代の拡大およびサハラ砂漠を越えた移住と関連する痕跡を示します。島嶼間の遺伝子流動の欠如と、有効人口規模の一定もしくは減少から、人口集団は孤立していた、と示唆されます。一部の人口集団は比較的高い遺伝的多様性を維持し、唯一検出されたボトルネック(瓶首効果)は入植時期と一致していますが、ずっと天然資源の少ない他の島々は島嶼性と孤立の影響を示します。最後に、東西の島嶼間の一貫した遺伝的分化は、以前に考えられていたよりも複雑な入植過程を示します。


●研究史

 アフリカ北部は、大陸間の人口拡散に有利な独特な地理的状況です。シナイ半島は、アフリカ大陸とユーラシアとの間の移住経路を支える陸橋です。北方では、周辺の人口集団の歴史を形成した地中海が文化と経済交易の中心でした。ヒト遺骸への温暖湿潤気候の影響の俣妻、アフリカ北部地域の古代DNAはほとんど研究されてきませんでした。アフリカ北部西方地域の上部旧石器時代から後期新石器時代までの先史時代の3人口集団のみが、これまでに報告されてきました(図1a)。

 アフリカ北部現代人のゲノムプールは、在来の祖先人口集団へのサハラ砂漠以南のアフリカとヨーロッパと中東とコーカサスからも遺伝的流入により形成されてきました。この在来構成要素は、現在のモロッコにあるタフォラルト(Taforalt)遺跡の15000年前頃の上部旧石器時代人口集団と関連する人口集団に由来します。そのゲノム規模の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)は実質的なユーラシア起源と一致しており、以前に提案されたように(関連記事)、旧石器時代のユーラシアからアフリカへの逆移住を示唆しています。

 前期新石器時代後半(7000年前頃)のゲノムは遺伝的にタフォラルト人口集団と類似しており、アフリカ北部における新石器時代革命の最初の段階は、人口入れ替えではなく、在来人口集団による農耕技術の獲得により推進された、と示されます(関連記事)。しかし、新石器時代の後半段階は、後期新石器時代(5000年前頃)のゲノムが在来人口集団と初期ヨーロッパ農耕民との間の混合を示したように、人々の移動により特徴づけられます(関連記事)。

 それにも関わらず、本論文が把握している限りでは、中世後期までアフリカ北部西方で他のゲノム情報は得られていません【最近の研究(関連記事)では、アフリカ北西部の新たな先史時代人のゲノムデータが報告されています】。紀元後7世紀以降、アラビア半島からのイスラム勢力の侵入が、在来人口集団のほとんどの文化的および遺伝的背景を変えて、後期新石器時代から古代までのこの地域のゲノム史の解明が困難になっています。以下は本論文の図1です。
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 アフリカ北部の過去への独特な展望の窓は、カナリア諸島先住民(the indigenous people from the Canary Islands、略してCIP)の研究を通じて呼び出せます。カナリア諸島は大西洋の7つの主要な火山島で構成され、アフリカ北西部沿岸から100kmほど離れています(図1b)。アフリカ北部起源のこの人口集団は、イスラム勢力の侵入の到来前にアフリカ本土から孤立していた可能性が最も高いので、アラブ人による征服の影響前のアフリカ北部西方祖先系統の遺伝的貯蔵を表しています。したがって、もCIPのゲノムデータは、アフリカ北部西方の研究の進んでいない地域の遺伝的歴史の理解に重要です。

 現在の放射性炭素年代測定の証拠から、カナリア諸島は紀元後2~5世紀に最初に居住された、と示唆されます。考古学的証拠から、カナリア諸島とアフリカ沿岸との間のその後のつながりはひじょうに限定的で、カナリア諸島はヨーロッパの船員および探検家と紀元後14世紀に接触するまで実質的に孤立したままだった、と示唆されます。ヨーロッパの船員および探検家は最終的に、15世紀にカナリア諸島を征服し、生き残った先住民と混合しました。以前の遺伝学的データは、母系のミトコンドリアDNAおよび父系のY染色体となる片親性遺伝標識(関連記事)とゲノム規模データ(関連記事)を用いて、カナリア諸島先住人口集団明確なアフリカ北部起源を示しました。空間的違いが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の多様性と組成の両方でカナリア諸島の人口集団において観察されており、より多くの天然資源のある島はより高い遺伝的多様性を有しています(関連記事)。

 カナリア諸島を特徴づける巨大な生物地理学的多様性を考えると、最初の入植者は、社会的複雑さと生計慣行と人口統計学的発展の観点ではさまざまな適応過程をもたらした、さまざまな生活戦略を開発するよう駆り立てられ、カナリア諸島の入植を興味深いヒトの植民過程とします。その意味でカナリア諸島は、植民や孤立や他の人口集団との混合など、遺伝的観点からの複雑な人口統計学的過程を研究する、独特な実験室として使用できます。それに基づいて本論文は、アフリカ北部の先史時代に関する情報を得て、孤立と島嶼性がその遺伝的構造をどのように形成したのか、理解するために、ゲノム規模水準で全カナリア諸島先住民人口集団の研究を実行します。

 CIPの以前に刊行されたゲノム規模データには、考古学的情報のないエディンバラ大学解剖博物館に保存されている19世紀の個人的収集品から得られた、テネリフェ(Tenerife)島とグラン・カナリア(Gran Canaria)島の文脈に当てはめられない紀元後7~15世紀の5個体と、紀元後12世紀頃となるグラン・カナリア島のセンドロ(Cendro)遺跡から発見された4個体が含まれています。この研究では、中程度から低網羅率(5.82~0.36倍)のゲノム9点がショットガン配列決定により、別の31個体のゲノム規模データがCIPから溶液内捕獲により生成されました。これらの個体は、主要な7島の23ヶ所の遺跡に分布しており(図1b)、紀元後3~16世紀【以下、明記しない場合の年代は紀元後です】のカナリア諸島先住民の歴史から約1300年間の時間横断区を構成します。

 現代人のDNAからの汚染を回避して監視するための処置が、標本操作中に適用されました。古代DNAは歯もしくは骨から超出され、二重鎖索引付きライブラリに組み込まれ、イルミナ(Illumina)社の次世代配列決定(next-generation sequencing、略してNGS)500で配列決定されました。DNA分解に起因する限界を克服するため、2つの異なる捕獲手法が適用され、ヒト読み取りが強化されました。一方はゲノム全体を標的とし、もう一方は可変部位を標的とします。


●カナリア諸島先住民人口集団の祖先系統推測

 CIPのほとんどの男性個体は、基底部Y染色体ハプログループ(YHg)E1b1b1b1a1(M183*)アフリカ北部系統内に分類され、その出現(3000~2000年前頃)はカナリア諸島の入植に先行します。観察された他のYHgはE1a(M33)や(TM184)やR1b1a1b(M269)やE1b1b1a1(M78)やで、これらはサハラ砂漠以南のアフリカやヨーロッパ新石器時代やアフリカ北部の青銅器時代の拡大と関連づけることができます。

 遺伝的差異を評価するため、まず現代人のデータを使用し、次に古代の個体群を投影して、主成分分析(principal component analysi、略してPCA)が計算されました。参照パネルとしてヒト起源データセットを用いて投影すると、CIPはユーラシア人口集団とともに位置し(図2a)、以前に観察されたように(関連記事1および関連記事2)、後期新石器時代モロッコ人およびアフリカ北部現代人とクラスタ(まとまり)を形成します。主成分(PC)1では、CIPは後期氷期モロッコ人よりもサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団の方と近くでクラスタ化し、サハラ砂漠以南のアフリカのmtDNA(関連記事)およびY染色体系統と一致します。後期新石器時代モロッコ人と比較して、CIPはヨーロッパの中期/後期新石器時代および青銅器時代の人々の方へと動いていますが、後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)アフリカ北部人はアナトリア半島とヨーロッパの前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)個体群の方へと動いています。以下は本論文の図2です。
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 CIPへの祖先人口集団の遺伝的寄与を推定するため、ADMIXTUREを用いて教師なしクラスタ化分析が実行されました(図2b)。K(系統構成要素数)=8で、CIPは3構成要素の混合により構成されるようです。それは、マグレブ古代人および前期新石器時代ヨーロッパ人の寄与と、これら2つの他の構成要素とは対照的に、後期新石器時代モロッコ人では存在しない草原地帯人口集団と関連する構成要素です。カナリア諸島の最初の定住は3世紀頃に起きた、と推定されてきたので、追加の移住の波がその時までにアフリカ北部に到達した、と予測されます。じっさい、アフリカ北部の考古学的記録における鐘状ビーカー(Bell-Beaker、略してBB)土器の存在を考えると、この草原地帯構成要素はアフリカ北部へのヨーロッパ青銅器時代人口集団の拡大と関連しているかもしれません。さらに、この観察された草原地帯構成要素は、それぞれ紀元前9世紀以降と紀元前2世紀以降のカルタゴ人やローマ人など、アフリカ北部西方への地中海文化の拡大とも関連しているかもしれません。

 CIPを適切にモデル化するため、qpAdmを用いて混合モデル化分析が実行されました。その結果、先住民人口集団は、後期新石器時代モロッコ(モロッコ_LNによりモデル化されます)と、旧石器時代/前期新石器時代マグレブ祖先系統の供給源(それぞれモロッコIBもしくはモロッコ_EN)と、ドイツのBB(ドイツ_BB)もしくはロシアの前期青銅器時代(Early Bronze Age、略してEBA)となるヤムナヤ(Yamnaya)文化(ロシア_EBA_ヤムナヤ)である草原地帯祖先系統、あるいはロシアのカレリア(Karelia)の狩猟採集民(hunter-gatherer、略してHG)の供給源、およびサハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統の代理供給源としてのエチオピアのモタ(Mota)洞窟の4500年前頃の古代人1個体を含んで、最適にモデル化される、と示唆されます。したがって、最適モデルを考慮すると、CIP祖先系統はモロッコ_LN(73.3±2.2%)とモロッコ_EN(6.9%±1.0%)とドイツ_BB(13.4±1.8%)とモタ(6.4±1.3%)の混合として説明できます。草原地帯祖先系統がローマ化したベルベル人集団経由で到来したのかどうかも、検証されました。モデルが機能したのは、ローマ人集団とスペインのイビサ(Ibiza)島およびサルデーニャ島のカルタゴ人もしくは中東人(イングランドのローマ人)の影響を含む場合のみでした(関連記事1および関連記事2)。

 カナリア諸島のヒトの入植の時代を考えると、この地域にその後の移住が残した影響への洞察を得るには、カナリア諸島に入植した人々とアフリカ北部現代人との比較も興味深い問題です。アフリカ北部現代人は、教師なし混合分析では、CIPと比較した場合、より低い割合のアフリカ北部古代人の構成要素を示し、これは西方地域から東方地域にかけて減少します(図2b)。歴史的記録から予測されるように、アフリカ北部現代人は過去2000年間にこの地域に到達した追加の移住の波と相関する違いを有しており(図2b)、それには、アラブ人の拡大に起因する可能性が高そうなより大きな近東人の寄与(灰色で示されます)や、奴隷貿易および商業的相互作用と関連する可能性が最も高そうな、サハラ砂漠横断移住に起因するより大きなサハラ砂漠以南のアフリカ人の寄与が含まれます。

 ヨーロッパ人による征服の影響を理解するためには、カナリア諸島の先住民と現代人の遺伝的構成の比較も重要です。この目的のため、qpAdmを用いて、供給源人口集団としてスペイン人とギニア湾地域のヨルバ人とCIPを考慮して、カナリア諸島現代人がモデル化されました。その結果、カナリア諸島現代人はスペインからの79.7±1.0%、先住民からの17.8±1.3%、サハラ砂漠以南のアフリカからの2.6±0.5%の寄与の混合の結果としてモデル化できる、と示唆されます。この結果は、先住民へのヨーロッパ人による征服と蜀門の大きな影響を論証します。サハラ砂漠以南のアフリカからの寄与は小さいものの、それはカナリア諸島における大西洋横断奴隷貿易の足跡の証拠で、mtDNAの証拠を確証します。


●カナリア諸島内の人口構造

 本論文の大規模なデータセットにより、CIPの島間の人口構造調査が可能になりました。PCA分析は2つの一貫して区別されるクラスタを特定し、全ての西方の島、つまりエル・イエロ(El Hierro)島とラ・パルマ(La Palma)島とラ・ゴメラ(La Gomera)島は、上部旧石器時代および前期新石器時代アフリカ北部人のより近くに位置し、全ての東方の島、つまりグラン・カナリア島とフエルテベントゥーラ(Fuerteventura)島とランサローテ(Lanzarote)島は、古代および現代のヨーロッパ人のより近くでクラスタ化します。例外は、ヨーロッパ人探検家との接触期のテネリフェ島の1個体(CAN.039)と、ラ・パルマ島の1先住民個体です(CAN.035)。

 ADMIXTURE分析も地域間の違いを特定し、西方諸島はより高い割合の在来のアフリカ北部構成要素、および東方諸島よりも少ない草原地帯人口集団と関連する寄与を示します(図2a)。これらの結果は、PCAで観察された結果と相関します。これらの結果は、CIPの東方の人々と西方の人々のクラスタ化を説明でき、最初の集団はより大きな草原地帯からの寄与を有しており、他の集団はアフリカ北部古代人とより類似しています。じっさい、全人口集団および島の人口集団についてヒト起源データセットにおける人口集団と共有される祖先系統の量を考慮して外群f₃統計を実行するとカナリア諸島東方の人々とヨーロッパの新石器時代および青銅器時代人口集団とのアイス打で共有される浮動は、カナリア諸島西方個体群で推測される浮動よりも多い、と観察されます。

 両地域について形式的な混合モデル化を実行すると(図2c)、西方諸島(8.3±1.1%)は東方諸島(4.9±1.1%)より高いモロッコ_ENの寄与を有しています。その値は重複していますが、ドイツ_BB構成要素も地域間でわずかに異なり、西方諸島(11.4±1.9%)は東方諸島(16.0±2.0%)より低い値となっています。各島を単独で分析すると、エル・イエロ島(8.2±1.5%)とテネリフェ島(8.2±1.2%)は最高のモロッコ_ENの寄与を有しています。比較すると、グラン・カナリア島(16.2±2.2%)とランサローテ島(17.9±3.3%)は最高のドイツ_BBからの寄与を有しています。個体水準では、異なる時期の個体についてさえ、混合値は島内では均質です。

 島の遺伝的多様性に関しても、差異が検出されます。Popstatsと大規模ヒトゲノム多様性計画(Human Genome Diversity Project、略してHGDP)データセットを用いて島の人口集団のゲノム規模多様性を推定すると、グラン・カナリア島(0.215±0.008)とテネリフェ島(0.213±0.006)とラ・パルマ島(0.215±0.000)は最高の異型接合性推定値を示し、モロッコの後期新石器時代人口集団と近くなります。対照的に、フエルテベントゥーラ島は最低の異型接合性推定値(0.184±0.003)を示し、ランサローテ島(0.193±0.002)とエル・イエロ島(0.194±0.01)が続きます。ラ・ゴメラ島は中間の値(0.195±0.005)を示します。

 標本の偏りを説明するため、ランサローテ島とフエルテベントゥーラ島の標本規模を模倣して、より適切に特徴づけられた島の人口集団の異型接合性推定が個々の組み合わせで実行されました。異型接合性推定値でいくらかの差異が観察されましたが、テネリフェ島とグラン・カナリア島の平均値と中央値はエル・イエロ島とラ・ゴメラ島で観察された値より高く(図3a)、テネリフェ島とラン・カナリア島の組み合わせは、ランサローテ島とフエルテベントゥーラ島で観察された値と同じくらい低い値を示しませんでした。少なくとも2個体のいる遺跡を調べると、mtDNAを用いて推測されたように、エル・イエロ島のプンタ・アズル(Punta Azul)遺跡が最低の異型接合性値を示します。興味深いことに、本論文の分析から、島の人口集団はその遺伝的組成と遺伝的多様性値の両方で区別されていた、と示されます。以下は本論文の図3です。
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●カナリア諸島古代人のゲノム史

 カナリア諸島先住民人口集団における親の近縁性と親族関係を調べるため、hapROHと大規模HGDPデータセットを用いて、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)の存在の推定も実行されました(図3b)。分析されたカナリア諸島の全個体(22個体)で、4 cM(センチモルガン)以上のROHが検出されます。この結果に基づくと、ほとんどの先住民個体は、ゲノムの20~60 cM がより短い4~8 cMのROH断片で構成されています。親の近縁性のこの比較的高い水準は、最近の履歴のROHの兆候で、小さな人口規模を示唆します。

 ひじょうに小さく孤立した人口集団と近親婚の兆候である、合計50cM超の20cM超のROH断片(sROH>20cM)を有する個体群も調べられました。合計ROHが100cM超でこの長いROH閾値を超える古代人5個体が特定されました。それは、テネリフェ島の1個体と、最小の島および/もしくはより生態学的制約の多い島(ラ・ゴメラ島とエル・イエロ島とフエルテベントゥーラ島)の4個体です。この5個体は全員、カナリア諸島の先住民期間の最終段階(12世紀以降)に由来し、その後の数世紀における孤立の影響を示唆しているかもしれません。

 とくに、50cM超のsROH>20cMは世界規模の古代DNA記録ではひじょうに稀で(関連記事)、分析された古代の個体の3%のみがこの特徴を満たしており、注目すべきことに、そのうち20%はマルタ島(関連記事)などの島嶼部に位置しています。最初のヨーロッパの文字記録は先住民人口集団における同じ集団の構成員間の結婚に対する厳格な規則を報告しましたが、本論文の結果は、おそらくは小さな人口規模と隠れた近縁性に起因する散発的な近親婚を示唆します。

 先住民における増加する出自近縁性を考慮し、hapROHを用いてカナリア諸島の有効人口規模(Ne)が推定されました(図4a)。カナリア諸島の全人口について、Neが411個体(95%信頼区間で371~460個体)で維持されており、これは、グラン・カナリア島とテネリフェ島で古代人のゲノムのみを考慮して以前に報告された値よりわずかに低くなります。各島の先住民人口集団の観点では、フエルテベントゥーラ島(Ne=75、95%信頼区間で56~101)とランサローテ島(Ne=151、95%信頼区間で106~221)には、最小Neの人口集団があり、それに続くのがエル・イエロ島の人口集団(Ne=205、95%信頼区間で163~263)です。しかし、ランサローテ島とフエルテベントゥーラ島からは2個体のみしか標本抽出しておらず、これらの個体が代表的ではないかもしれないため、これらの島の実際のNe値はより大きい可能性がある、ということを考慮しなければなりません。

 さらに、グラン・カナリア島の人々は最高のNe推定値(Ne=460、95%信頼区間で470~697)を有しており、ラ・パルマ島(Ne=395、95%信頼区間で312~611)とテネリフェ島(Ne=285、95%信頼区間で323~490)の人口集団がそれら続き、本論文の異型接合性推定値と一致します。驚くべきことに、ラ・ゴメラ島は全ての島で2番目に大きいNe推定値(Ne=429、95%信頼区間で292~664)です。しかし、ラ・ゴメラ島については、カナリア諸島のより速い居住段階の1個体(9世紀のCAN.027)と、その後の期間(12~14世紀)の2個体がありますが、フエルテベントゥーラ島とランサローテ島とエル・イエロ島の個体は全員、後期居住段階(12世紀以降)に由来します。有効人口規模が経時的に減少したならば、この違いはNe推定値に影響を及ぼすかもしれません。分析から個体CAN.027を除くと、ラ・ゴメラ島についてより減少したNe(Ne=281、95%信頼区間で180~473)推定値が得られ、低い異型接合性値の他の島で観察された値とより一致します。以下は本論文の図4です。
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 1300年の横断区の周辺でNeがどのように推展開したのか調べると、カナリア諸島全体の標本が含まれる場合、経時的なNe値減少が観察されます(図4a)。しかし、個体の由来を考慮すると、Neのこの減少は特定の島々でのみ観察されます。ROH分析と一致して、Neの減少はエル・イエロ島とラ・ゴメラ島とランサローテ島の後期居住期間の個体が含まれていることに起因します(図4a)。ラ・ゴメラ島の9世紀の個体(CAN.027)を、当時の人口集団の近親交配水準を代表するとみなすと、ラ・ゴメラ島とランサローテ島とフエルテベントゥーラ島とエル・イエロ島については、経時的な近親交配水準の急増が検出されます。逆に、(より大きな標本規模となる)グラン・カナリア島とテネリフェ島の個体群を独立して検証すると、Ne値は先住民居住期間の全体で安定したままです。

 分化した移住パターンが経時的な遺伝的浮動の影響の違いに起因するのかどうか判断するため、IBDseqを用いて同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)である共有ゲノム断片が詳しく調べられました。IBD共有に基づくCIPの遺伝的クラスタ化は、カナリア諸島における区別された3集団を示します。それは、エル・イエロ島の個体群を含む集団と、残りの西方諸島の個体群を含む集団と、東方諸島の個体群を含む集団です。エル・イエロ島の個体群は、IBDにおけるゲノムの高い割合を共有するので別のクラスタを形成し(図4b)、これは恐らく、孤立と小さな有効人口規模に由来する近親婚に起因します。

 西方クラスタでは、ラ・ゴメラ島とラ・パルマ島の個体群がテネリフェ島と分離し、各島も自身のクラスタに位置します。東方クラスタでは、ランサローテ島の1個体がフエルテベントゥーラ島の1個体とともに位置づけられ、両者はグラン・カナリア島の個体CAN.008およびCAN.017との分離されたクラスタの一部です(図4b)。グラン・カナリア島の残りの個体は、遺跡ごとにクラスタ化します。個体CAN.049とCAN.050とCAN.051はセンドロ遺跡に属し、全て12世紀頃と年代測定されています。個体Gun005とGun008はともに10世紀頃で、個人的収集品に由来し、恐らくは同じ遺跡で発見されましたが、その考古学的文脈の喪失のため知ることは不可能です。この分析は、遺伝的近縁性における主因が東西の島間、および地域内の島間の広範な移住ではないことを示唆しており、それは、島の人口集団が他の島よりも自身と多くのIBDを共有しているからです。

 人口規模が過去にどのように変化したのか評価するため、ASCENDを用いて、島の異なる人口集団におけるNe減少の時間と強度(ボトルネックもしくは創始者効果)が推定されました(図4c)まず、カナリア諸島全体の人口集団が検討され、紀元前720年頃(95%信頼区間で紀元前944~紀元前440年)に起きた共有創始者事象が観察され、紀元前11世紀~紀元前5世紀と一致します。この人口減少は低~中程度の強度(95%信頼区間で1.7~2.0)で起きており、大陸の人口集団で見られる創始者事象に匹敵します。

 島嶼部人口集団は、小さな創始者人口規模に起因して、より極端な創始者事象を経る傾向にあります。創始者効果の強度と時期を考えると、ボトルネック(瓶首効果)はカナリア諸島への到来前に大陸の創始者人口集団の時間に影響を及ぼしたかもしれない、と提案されます。西方人口集団は1世紀末頃(95%信頼区間で紀元前184~紀元後208年)に起きたボトルネック/創始者効果を共有していますが、東方個体群は紀元前1世紀と紀元前7世紀の間(95%信頼区間で紀元前793~紀元前121年)のより早い事象を共有しています(図4c)。それにも関わらず、東西両地域のボトルネック事象の強度(それぞれ3.1%と2.7%)は島嶼部で予測される強度に匹敵します。島の入植と関連するボトルネックを検出する最適な手法は、島の人口集団を個別に分析することで、それは島の各人口集団が独立した創始者事象を経たからです。グラン・カナリア島については、紀元前4世紀および紀元後2世紀と一致するNe減少事象が観察され、強度(95%信頼区間で3.7~4.7%)および時間範囲では潜在的な東方のボトルネックと類似しています。

 西方では、テネリフェ島の人口集団が西方地域全体より強烈な事象(95%信頼区間で3.7~4.7%)を経たかもしれませんが、それは他の島の人口集団で観察されたものと同じ期間(95%信頼区間で紀元前66~紀元後242年)です。最後に、エル・イエロ島の人口集団は7世紀~12世紀に強いボトルネック事象を経た、と観察され、これは本論文に含まれる個体群が生きていた数世代前です(図4c)。この事象の強度は10%程度で、前に調べられた残りの事象よりもかなり大きくなります。放射性炭素年代では、エル・イエロ島も3世紀に居住された、と示唆されているので、このボトルネック事象はエル・イエロ島の最初の入植後の強い人口規模減少を証明します。


●考察

 本論文はCIPの49個体のゲノム規模データを分析し、これには新たに生成された40点の標本と、以前に刊行された研究からの9点の全ゲノム配列決定データが含まれます。このより大きなデータセットで、アフリカ北部の先史時代に光が当てられました。1世紀頃にカナリア諸島に入植したCIPのデータから、アフリカ北部人口集団は主要な4祖先構成要素で構成されていた、と示唆されます。まず、後期新石器時代モロッコ人で観察されたように、カナリア諸島先住民はアフリカ北部の旧石器時代/前期新石器時代およびヨーロッパ前期新石器時代両方の構成要素を有しています。しかし、アフリカ北部の旧石器時代/前期新石器時代構成要素の寄与は、モロッコのケフ・エル・バラウド(Kef El Baroud)遺跡個体群よりも先住民の方で大きく、ヨーロッパ新石器時代移住の影響はアフリカ北部地域において均質ではなかった、と確証されます。さらに、先住民は草原地帯構成要素の存在を示しており、恐らくは青銅器時代もしくは鉄器時代におけるアフリカ北部への地中海北部人口集団の移住と関連しています。最後に、地位さんサハラ砂漠以南のアフリカ構成要素が検出され、これは、現代人のDNAデータから推測されるそうした遺伝子流動に先行する、1世紀の前にすでにアフリカ北部におけるサハラ砂漠横断移住が存在したことを示唆しています。

 本論文のカナリア諸島先住民のデータセットによって、海洋諸島と孤立した環境へのヒト拡散の変化の理解し始めることもできました。ROH分析に基づくと、全個体は比較的小さな人口規模の兆候を示し、最初の創始者効果に起因する可能性が高そうです。カナリア諸島内では、島の人口集団はその遺伝的構成と多様性の両方に関して異質である、と観察されます。mtDNAで観察されたように、西方と東方の島々は区別され、大陸により近い東方の島々はヨーロッパからの先史時代人口集団とのより大きな類似性を有していますが、西方の島々はアフリカ北部の先史時代個体群の方とより類似しています。じっさい、qpAdmモデル化では、これら2構成要素の寄与は東西の2地域でわずかに異なる、と確定されます。

 放射性炭素年代と組み合わせると、これらの違いは先住民の入植期の開始以降存在し、変わらないままだったようです。大陸により近い東方の島々は、西方の島々と比較して、アルファベット碑文のより多様な大系と岩絵の差異を指名ことは、言及に値します。リビア・ベルベル語の記録は全島で見られますが、ランサローテ島とフエルテベントゥーラ島では、カナリア諸島の他地域には存在しない、いわゆるラテン・カナリアアルファベットに属する碑文が作成されました。

 地域間の差異別の事例は、グラン・カナリア島にのみイチジク(Ficus carica)の木が存在することで、入植者の文化的および生物学的背景のいくらかの違いが紀元千年紀の開始以降存在した、と示唆されます。しかし重要なのは、本論文のデータセットは3世紀から16世紀にわたっているものの、個体のほとんどは10世紀後の年代で、人口集団が元々異なっていたのかどうか(東西2地域はある程度異なるアフリカ北部人口集団により入植されたのか)、あるいは非対称的な移住が入植段階の開始時点で起きたのかどうか判断するには、入植初期のより多くのデータが必要だろう、と注意することです。

 島の部分人口集団も、ゲノム規模多様性で違いを示します。エル・イエロ島とラ・ゴメラ島とフエルテベントゥーラ島は、経時的な有効人口規模の減少をもたらす、強い遺伝的浮動の影響を示します。10~12世紀までに、これらの島の一部の個体は、その時点での減少した人口規模で予測されるように、近い親族間の結婚の結果として生まれた、と観察されます。これらの島は低いmtDNA多様性も示しており、特定の系統が部分的もしくは完全に固定しており、強い遺文的浮動と遺伝子流動の欠如との見解を強化します。これらの結果は、こうした島々が孤立し、小さな人口集団により居住されたことと一致します。

 エル・イエロ島については、9世紀頃の強いボトルネックが検出され、ヴァンダル最小気候事象と中世温暖気候事象との間の移行期と一致します。しかし、放射性炭素年代測定から、エル・イエロ島はカナリア諸島の残りの島と同時に居住された、と示唆されるので、このボトルネックは、エル・イエロ島の最初の入植のずっと後の強い人口規模減少を証明しているのでしょう。エル・イエロ島が限定的な資源の島であることを考えると、9世紀の温度と降水量の変化は、天然資源の利用可能性と作物生産に強く影響し、深刻なボトルネックを生じさせた可能性があります。この減少がラ・ゴメラ島とランサローテ島および/もしくはフエルテベントゥーラ島でも起きたのかどうか判断するには、他の島々からのより多くのデータが必要でしょう。

 グラン・カナリア島とラ・パルマ島とテネリフェ島は、完全に異なるシナリオを示します。これらの島では、遺伝的多様性は他の部分人口集団よりも高く、mtDNAおよびゲノム規模データの両方で推測されています。有効人口規模の推定値もより高く、テネリフェ島とグラン・カナリア島については、Ne値が経時的に一定のままです。さらに、検出された創始者効果は提案された入植時期と一致し、追加のボトルネックは先住民の入植期には起きなかった、と示唆されます。これらの結果から、こうした人口集団は比較的大きな規模で経時的に遺伝的多様性を維持できたか、あるいは、考古学的証拠の解釈に基づいてグラン・カナリア島に関して提案されているように孤立していなかった、と証明されます。しかし、IBD推定値、およびテネリフェ島とグラン・カナリア島との間の祖先の寄与における一貫した差異は、両者間の顕著な遺伝子流動と一致しません。この意味で、一定のNe値は研究対象期間内の顕著な移住との見解に反しています。

 島の人口集団の遺伝的多様性の違いは、島の規模やその生態学的多様性や年間降水量の違いの結果として説明できます。グラン・カナリア島とラ・パルマ島とテネリフェ島は中間規模の島で、現在の平均降水量は南部沿岸の100mmから最高地点での800~1000mmまでの範囲となります。そうした条件は、より小さなエル・イエロ島やラ・ゴメラ島やランサローテ島よりも、大きくて多様な人口集団の維持を可能とする資源の、より高い利用可能性を提供します。フエルテベントゥーラ島は、そのより大きな規模にも関わらず、現在は年間約100mmの降水量で、かなりで最も乾燥した島です。歴史的および考古学的記録を考慮すると、テネリフェ島とラ・パルマ島とグラン・カナリア島はカスティーリャ王国の征服開始時に約3万人~6万人の人口を維持できていたものの、他の島は恐らくわずか1000~3000人が居住していた、と推定されてきました。

 全体的に、本論文のデータセットで、アフリカ北部先史時代のより深い理解と、カナリア諸島の複雑な入植過程のより詳細な全体像の作成開始が可能になりました。カナリア諸島では、ヒトの回復力と孤立と多様な島の環境が、その遺伝的景観の分化につながりました。


参考文献:
Serrano JG. et al.(2023): The genomic history of the indigenous people of the Canary Islands. Nature Communications, 14, 4641.
https://doi.org/10.1038/s41467-023-40198-w

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