落合淳思『古代中国 説話と真相』

 筑摩選書の一冊として、筑摩書房より2023年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書では「説話」が、「歴史上事実として伝えられたが、実際らには事実ではないもの」という意味で用いられています。本書は、説話を事実として信じてしまえば、説話をどれだけ詳しく研究しても科学的な社会研究にはならず、作り話からは社会の実態を明らかにすることはできないので、説話と事実を区別することはひじょうに重要になる、との問題意識から、現代日本社会でもよく知られているような、「酒池肉林」や「臥薪嘗胆」など古代中国関連の説話を検証しています。対象となる時代は、新石器時代(紀元前6000~紀元前2000年頃)から秦王朝(紀元前3世紀)までとなり、説話と歴史の実態を対照させ、説話の創作理由を検証します。歴史学の門外漢としては、説話と事実を区別できず、ただ歴史資料の内容を垂れ流すだけの質の低い中国史研究者もおり、日本には少ないが中国や欧米では多い、との本書の指摘について的確な判断はできませんが、誇張されているのではないか、との疑問が残ります。

 古代中国の説話のうち、春秋時代までの説話はおもに戦国時代に、戦国時代の説話はおもに戦国時代後期から前漢代に作られた、と本書は指摘します。戦国時代以降に説話が多く作られるようになった理由として挙げられているのが、知識人階層の飛躍的増加です。春秋時代までは支配階層が家柄により決まる貴族制社会だったのに、戦国時代には高位の世襲貴族の多くが没落し、大きな権力を得た君主個人により登用された官僚層が、新興の知識人階層でした。何百年にもわたる貴族制が終わり、新たな社会が始まった中で、どのような社会制度が最適なのか、知識人による議論が活発化し、当時の知識人は自分の学説を過去の有名人に仮託して発表した、というわけです。一方で、官僚になれない知識人も多く、就職活動の一環として自説を遊説する者も現れ、これも説話増加の一因になりました。あまりにも荒唐無稽な説話は早くから疑問視されて否定されたものの、多少とも現実性のある説話は生き残り、各種歴史資料に引用されることで、後世において「史実」と信じられた、と本書は指摘します。

 三皇五帝は夏より前の時代とされており、そのまま受け取れば新石器時代となります。しかし、長江流域が黄河流域の文化に同化したのは戦国時代以降で、天下や天子といった用語からも、後世の観念で語られており、新石器時代の実態を反映していない、と本書は指摘します。本書は、新石器時代における集落規模の拡大は戦争が原因で、それに伴い階層化が進んだ、と指摘します。また本書によると、現代中国では、新石器時代の前期から中期までは母系社会だったが、後期には「文明」の発達により父系社会に転換した、との言説があるそうで、本書はこれを、現代中国が国是とする唯物史観に則ったものと指摘します。しかし、文化人類学によると、群を形成する哺乳類には母系社会が多いものの、人類の「原始社会」は必ずしも母系ではなく、地域ごとに比率は異なるものの父系社会が母系社会よりも多く、双系社会も多く見られ、現代人にとって最近縁の現生分類群であるチンパンジー属が父系的な社会を形成することから、人類も何百万年もの間、父系社会が一般的だった可能性が高いだろう、と本書は指摘します。本書は、高度な「文明」の発展が男女平等思想を生み出したのであり、男女平等を本当に実現しようとするならば、ありもしない「原始共産制」ではなく、より「高度な文明」によってしか達成されない、と指摘します。唯物史観により今でも広く浸透しているように思われる、「原始社会」は母系制だった、との観念については、近年のさまざまな知見からも無理がある、と私は確信しており(関連記事)、この点で私見は本書の見解の方にずっと近くなっています。

 『史記』などの文献に見える「夏王朝」は、二里頭文化の研究の進展により考古学的に証明された、との見解が、今では中国だけではなく日本でも有力かもしれません。しかし本書は、文献に見える「夏王朝」と実在した二里頭文化は大きく異なる、と指摘します。領域は、「夏王朝」が東は山東省や安徽省、南は湖北省や湖南省の一部、西は陝西省や甘粛省や四川省の一部にまでまたがるのに対して、二里頭文化の範囲は河南省を中心として山西省や陝西省の一部だけと推定されています。その中心地も、「夏王朝」が山西省なのに対して、二里頭文化は河南省です。さらに、「夏王朝」の事蹟とされる大規模な治水事業は、二里頭文化の時点では不可能で、可能になったのは西周以降でした。中国で最初の王朝と呼べる存在は二里頭文化に実在したものの、それは文献に見える「夏王朝」とはまったくの別物だった、というわけです。本書は、各地の情報や技術が集積されたことにより、中国史上最初の王朝が二里頭文化で成立したのではないか、と推測します。また本書は、二里頭文化の前後で生産体制の大きな変化が見られないことからも、唯物史観の欠点は明らかである、と指摘します。なお、殷代の甲骨文字に「春」と「秋」はあっても「夏」はなく、この点でも「夏王朝」の命名の後代性は明らかである、と本書は指摘します。

 殷王朝について、最後の王である帝辛(紂王)は、酒池肉林の説話で知られるように暴君として長く語られてきました。分裂し混乱していた殷王朝を武丁が再統一した後、王権が強化され、文武丁の改革をその子の帝辛が継承し、当初は文武丁以上の繁栄が窺われますが、帝辛の即位7年目の支配下都市である盂の反乱以降、殷王朝は弱体化し、周により滅ぼされます。なお、殷とは周代に創られた王朝名で、殷までの王朝は一つだけだったので、とくに王朝名は必要なく、本書はこの点も「夏王朝」の非実在性の傍証とします。

 西周は、土地や財物を継続的に獲得することで、支配を拡大して維持していましたが、第4代の昭王が長江流域まで侵攻したものの大敗したようで、これ以降は拡大が停止します。そこで西周は、賜与から冊命(王の命令を冊、つまり文書に記録すること)へと支配戦略を転換し、中小領主層を「官職」に任命するようになります。そのさい、官職を象徴する物品が西周王朝から与えられ、外部からの供給に左右されない体制の構築が試みられました。冊命儀礼による「官職」の概念は終身有効で、当時はすでに担っていた職事や獲得していた権益を公認する程度でしたが、西周王朝と中小領主の双方にとって有益でした。これは世襲的な権益継承者たる貴族の出現につながり、仮想の祖先を共有する集団(氏族)から、実際の血縁をたどれる「宗族」が出現します。本書は、西周王朝内の既得権益の蓄積により大貴族や諸侯が大きな権力を有したことこそ、西周王朝の滅亡原因だった、と指摘します。

 春秋時代の覇者については、「野蛮」視された勢力の攻撃に対して、その時点で「文明国」側の最強の諸侯が任命され、中小諸侯を保護する大勢だったものの、戦国時代になってほとんどの中小諸侯が滅亡し、覇者体制の実態が忘れられたので、斉の桓公が覇者となったことも、名臣である管仲の検索によるものとされた、と本書は指摘します。また、戦国時代には楚なども中原の文化を受け入れ、逆に楚が「野蛮」視された要因でもある王号を中原の大諸侯も称するようになり、「文明」対「野蛮」の構図が失われたことも、覇者に関する創作の一因になったことを、本書は指摘します。本書は春秋時代の覇者のような支配体制と類似したものとして、古代ギリシアのデロス同盟や現代のアメリカ合衆国を挙げています。春秋時代後期における呉の台頭については、貴族制を採用していたため戦車戦を放棄できなかった中原諸侯や楚に対して、呉や越では貴族制が発達しておらず、歩兵戦が発達したから、と本書は推測します。

 本書から改めて、春秋時代から戦国時代への移行期は大変革期だったことが窺えます。これについて以前は、鉄製農具と牛に犂を引かせる農法(鉄器牛耕)が重要と考えられていました。鉄器牛耕により生産が増大したことで、人口が増加し、旧来の体制が解体して、貴族制から官僚制へと移行したことで、専制君主制が成立した、というわけです。しかし本書はこの見解について、生産体制を重視する唯物史観に基づくもので、根拠に乏しい、と指摘します。本書は、鉄器牛耕が戦国時代前期までは普及しておらず、生産増大よりも、貴族の既得権益の蓄積やそれによる内乱や下剋上の結果として君主に権力が集中した、と指摘します。鉄器牛耕の普及は、貴族制の崩壊と専制君主制の出現により、貴族による農村支配から官僚による統治へと移行し、徴兵制が普及したことで、徴兵農民を増やすために人口増加が必要となり、戦国時代中期以降に国家(君主)が主導して鉄器牛耕を普及させたのであって、唯物史観の想定とは逆の順序だった、というわけです。始皇帝については、呂不韋が実父との記事は創作で、呂不韋の失脚には、法家に傾倒した始皇帝と、そうではなかった呂不韋との間の思想的対立もあったかもしれない、と本書は推測します。焚書坑儒については、焚書は事実であるものの、坑儒は創作と指摘されています。


参考文献:
落合淳思(2023)『古代中国 説話と真相』(筑摩書房)

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