ヨーロッパ南東部における農耕社会と牧畜社会の早期の接触

 ヨーロッパ南東部の新石器時代から前期青銅器時代までの古代人135個体のゲノムデータを報告した研究(Penske et al., 2023)が公表されました。完新世のヨーロッパにおいては、新石器時代におけるアナトリア半島からの農耕民、および後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)以降におけるポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からの牧畜民と、2回の大規模な移動があり、現代ヨーロッパ人の遺伝的構成が形成された、と明らかになっています(関連記事)。本論文は、草原地帯の人類集団と農耕民集団との遺伝的接触が、これまでの想定より約1000年早かったことを示します。


●要約

 考古遺伝学研究は、先史時代のユーラシア西部における2回大規模な遺伝的入れ替わり事象を説明してきました。一方は、紀元前7000~紀元前6000年頃に始まった農耕および定住生活様式の拡大と関連しており(関連記事)、もう一方は、紀元前3300年頃に始まったユーラシア草原地帯からの牧畜民集団の拡大と関連しています(関連記事)。これら2回の事象の間の時期には、冶金や車輪および四輪荷車やウマの家畜化(関連記事)など、重要な技術革新に基づく新たな経済の勃興がありました。しかし、紀元前4250年頃となる銅器時代の集落消滅と、牧畜民の広がりとの間に何が起こったかは、よく理解されていないままです。

 本論文はこの問題に取り組むため、ヨーロッパ南東部と黒海地域北西部との間の接触地帯で発見された、この重要な期間の古代人135個体のゲノム規模データを分析しました。その結果、同じ地域の主要な遺跡から出土した新石器時代と銅器時代の集団間には遺伝的連続性が観察された一方で、紀元前4500年頃以降の黒海地域北西部の諸集団には、銅器時代集団と森林/草原地帯集団に由来する祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の混合がさまざまな割合で観察され、予想よりも約1000年早い時期の遺伝的および文化的接触が示唆されました。本論文の提案は、この早期の接触期間における、農耕民と、さまざまな生態地理的地帯からの移行的な狩猟採集民/遊牧民との間の、重要な革新の伝播が、紀元前3300年頃の牧畜民集団の形成と興隆と拡大に不可欠だった、というものです。


●研究史

 紀元前五千年紀と紀元前四千年紀には、重要な技術的および社会的変化がヨーロッパ南東部(southeastern Europe、略してSEE)で起き、それは先史時代の社会を大きく変えました。金属生産は最重要な革新の一つで、銅が採掘されて精錬され、斧や装身具類や小道具の製作に用いられました。紀元前4600~紀元前4300年頃となる黒海沿岸のヴァルナ(Varna)のネクロポリス(大規模共同墓地)の発見は、社会的階層化の前例のない水準を示唆する、大量の金や権力および富の他の象徴を伴い、ヒトの先史時代における社会的不平等の再評価につながりました。SEEにおいて銅器時代(Copper Age、略してCA)に出現した多くの遺丘集落は銅や金や塩の原初的産業利用と関わっており、この高度な社会組織と、社会的・政治的・経済的・職人技的な活動の開花を浮き彫りにします。

 有名な遺丘集落には、グメルニタ(Gumelniţa)文化と関連するルーマニアのドナウ川下流のルーマニアのピエトレレ(Pietrele)の近くのマグラ・ゴルガナ古墳(Mound Măgura Gorgana)や、数世紀続いたカラノヴォ(Karanovo)文化と関連するユナツィテ遺丘(Tell Yunatsite)が含まれくす。紀元前4600年前頃以降、ルーマニア(グメルニタ)とブルガリア北部(コヅァダーメン文化)とトラキア(カラノヴォ)にまたがる、いわゆるグメルニタ・コヅァダーメン(Kodžadermen)・カラノヴォ4複合における物質文化の類似性と継続的発展および原材料の交換は、地域横断的なつながりと比較的安定した政治社会的交流網を示唆します。

 その結果、紀元前4250/4200年頃となる多くの遺丘集落と墓地のほぼ同時の放棄は、謎めいています(図1a・c)。その根底にある状況は不明で、ユナツィテ遺丘の破壊層準により証明されているように、資源の枯渇や土壌の悪化や恐らくは暴力的紛争が関わっていたかもしれません。歴史的には、この終焉は草原地帯からの新たな集団の到来と関連していましたが、この提案には充分な証拠が不足していました。しかし、その後数世紀にわたる植民活動は黒海西部地域全体では稀で、たとえばユナツィテがその千年後の前期青銅器時代(Early Bronze Age、略してEBA)まで再居住されなかったように、「暗黒」の千年紀が示唆されます。以下は本論文の図1です。
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 CAの終焉後、植民活動の中心は森林・草原地域へとさらに北東に移動し、そこでは、いわゆるククテニ・トリピリャ(Cucuteni-Trypillia)複合(紀元前4100~紀元前3800年頃)の大規模遺跡である、何千もの家屋を有する大規模な集落が出現しました。この黒海北西部地域は、CA農耕関連集団と、さまざまな政体地理的条件のその隣接する草原地帯の集団との間の相互作用地帯を表しています。継続的な革新はヒトの移動性と、何千年も前にSEEとコーカサスの南側の地域で行なわれていたような農業生活様式に、これまで適していなかった土地の利用を増加させました。黒海北西部地域とコーカサスの接触地帯から、採食からなか遊牧的な牧畜への漸進的な移が、紀元前六千年紀と紀元前四千年紀にはポントス北部地域でも続き、これは、継続的な革新、家畜の移動、家畜の群の管理の発展、食料加工、酪農の実践、ヒ素を含む銅の合金の開発が契機となりました。

 ポントス北部地域は、最古の車輪のある乗り物の開発に中心的役割を果たしましたが、コーカサス北部のマイコープ(Maykop、略してMAY)文化は、金属の合金の開発や、大規模な乳製品生産と組み合わされたウマの家畜化(関連記事)や羊毛経済のさらなる発展に重要でした。マイコープ文化には、「高位」個体を示唆し、この期間における社会的不平等と激変を証明する、金属製武器を伴うひじょうに豊富な埋葬があり、そうした社会的エリートはルーマニア南部とブルガリアで発見されました。黒海北西部地域におけるチェルナヴォダ1(Cernavodă I)文化(紀元前4000~紀元前3200年頃)とウサトヴェ(Usatove、略してUSV)文化(紀元前3600/3500~紀元前3200/3100年頃)は、ドナウ川とドニエプル川下流との間の東西の交流において主要な役割を果たしており、これらの形成は、恐らく在来ですが、トリピリャ文化伝統からの強い寄与を受けました。

 ヨーロッパ南東部CA遺丘遺跡と同様に、ポントス北西部地域の大規模遺跡および文化的現象は突然消滅し、紀元前3300年頃に、ヤムナヤ(Yamnaya)文化複合と関連する完全に確立した牧畜民が続きました。西方へのポントス北部地域の牧畜民の拡大は、近年ではヨーロッパの多くの地域で研究されてきましたが、SEEにおける出現と社会への影響はほとんど理解されていません。これは、その後のEBA(紀元前3200~紀元前2500年頃)の考古学的記録が、バルカン半島東部におけるCA集落の消滅以降初めて、植民活動における同時の増加を示唆している限りにおいて、関連しています。ヤムナヤ文化複合と関連する古墳は頻繁に出現し、ドナウ川流域沿いにカルパチア盆地へと紀元前三千年紀に拡大します。対照的に、ユナツィテ遺丘のような遺跡の再植民には、侵入してきた草原地帯集団と関連しない埋葬儀式の集団が関わっていました。

 考古ゲノム研究では、ヨーロッパ南東部CA個体群は、アナトリア半島西部からヨーロッパへと拡大した新石器時代農耕民と類似した遺伝的特性を有しており、それは以前の先農耕牧畜民、つまりヨーロッパ西部狩猟採集民(Western Hunter–Gatherers、略してWHG)とヨーロッパ東部狩猟採集民(Eastern Hunter–Gatherers、略してEHG)および「草原地帯」祖先系統を有しているその後のEBA牧畜民集団の両方とも異なっていた、と示されてきました。よく知られている、ピエトレレやユナツィテなど同時代のCA集落や、ヴァルナのような傑出した埋葬遺跡は、その最盛期の集落密度における遺跡内および遺跡間の遺伝的差異の研究に特有の機会を提供します。しかし、初期の相互作用に続く発展は、その後でヨーロッパ全域での牧畜民とその遺伝的祖先系統の拡大をもたらしましたが、不明なままです。

 重要なことに、SEEとトリピリャ文化の大規模遺跡群と草原地帯との間の接触地帯の紀元前五千年紀と紀元前四千年紀という重要な期間の個体群は、遺伝学的に分析されていませんでした。本論文は、現在のウクライナにおける黒海北西部地域のチェルナヴォダ1文化およびウサトヴェ文化と関連する個体群の研究により、この時空間的な標本抽出の間隙に取り組みます。本論文はさらに、放棄の数世紀後の遺跡の再植民の可能性を受けて、遺丘遺跡であるユナツィテとピエトレレのEBA個体群を分析します。本論文はこれらの個体を、紀元前三千年紀の草原地帯牧畜民と典型的に関連する古墳に埋葬されたブルガリア東部のヤムナヤ文化関連個体群、および黒海北西部地域のウサトヴェ層準の後となる個体群と比較します。

 本論文は合計で、紀元前5400~紀元前2400年頃の8ヶ所の異なる遺跡(図1)の135個体(ゲノム解析が試みら背れたのは216個体)を報告し、その内訳は、新石器時代(Neolithic、略してN)が1個体、CAが95個体、金石併用時代が18個体、EBAが21個体です。全標本は124万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)で濃縮され、その範囲は61000~947000のSNPにわたり、平均SNP網羅率は0.01~3.4倍です。hapROHと補完のため40万のSNPの切断が用いられ、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)分析のため55万以上のSNPが選別されました。本論文は、113点の新たな放射性炭素年代も報告します(図1c)。新たに分類された個体の遺伝的祖先系統と差異を評価するため、まず主成分分析(principal component analysi、略してPCA)が実行され、このPCAは77の異なる人口集団のユーラシア西部現代人1253個体で構築されており、それに古代人のデータが投影されました。


●新石器時代と銅器時代の祖先系統

 本論文のデータセットにおける最古の個体であるピエトレレ遺跡のPIE039は、PCA空間では他の新石器時代SEE個体の予測範囲内に収まり、PIE039は他の個体と外群f₃統計によると類似性を共有しています(図1bおよび図2)。f₄形式(検証対象、PIE039;狩猟採集民、ムブティ人)のf₄統計が用いられ、検証対象はさまざまな新石器時代集団で、遺伝的に最も類似した新石器時代集団が特定され、次にその集団が定量的な祖先系統モデル化の在来の代理として用いられました。その結果、ソポト(Sopot)文化個体により表されるハンガリー_LN_ソポトとブルガリアのマラク・プレスラヴェッツ(Malak Preslavets)遺跡個体により表されるマラク・プレスラヴェッツ_Nが全ての狩猟採集民(Hunter–Gatherer、略してHG)と比較してPIE039と最も対称的に関連している、と分かったので、この2個体はSEE1集団に統合され、これを近位qpAdmモデル化の単一供給源として用いることができ、共有された局所的祖先系統が確証されました。以下は本論文の図2です。
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 PCA空間では、ユナツィテ遺跡(YUN)やヴァルナ遺跡(VAR)やピエトレレ遺跡(PIE)やペトコ・カラヴェロヴォ遺丘遺跡(Tell Petko Karavelovo、略してPTK)の年代的により新しいヨーロッパ南東部CA個体群が、アナトリア半島とSEEの刊行されている新石器時代個体群とも重なる、密集したクラスタ(まとまり)を形成します(図1b)。さらに、外群f₃統計はこの地域におけるCAを通じての局所的な遺伝的均一性を示唆します(図2)。しかし、ヨーロッパ南東部CA集団は、ほとんどの刊行されている新石器時代個体と比較して、主成分(PC)1およびPC2の両方でEHG/WHG勾配に向かってわずかに動いています。

 遠位qpAdmモデル化(図3a)は、主要なトルコ_N的祖先系統に加えて、EHGやコーカサス狩猟採集民(Caucasus Hunter–Gatherers、略してCHG)やWHG的に祖先系統の最小量を確証します。この祖先系統構成は新石器時代にすでに存在しており、f₄統計(検証対象、CA;HG、ムブティ人)により確証され、新石器時代集団はHG集団と比較してヨーロッパ南東部CA個体群とクレードを形成します。これにより、各ヨーロッパ南東部CA集団の最適な新石器時代の代理を特定し、祖先系統における微妙な違いを説明できるようになります。近位qpAdmモデル化にそれぞれの局所的に先行する新石器時代集団を用いると、ヨーロッパ南東部CA集団を単一の供給源モデルとしてモデル化でき(図3d)、局所的規模での遺伝的連続性が示唆されます。以下は本論文の図3です。
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 外れ値個体PIE060はPCAではWHG/EHGクラスタへとさらに動いており、この種類の祖先系統の過剰が示唆され、それはf₄形式(SEE_N、PIE060;HG、ムブティ人)のf₄統計により確証できます。qpAdmでの祖先系統モデル化は2方向モデルを裏づけ(図3d)、SEE_N(約65%)と鉄門(Iron Gates)遺跡_HGもしくはハンガリーのKO1個体(約35%)です。局所的なHG祖先系統としてSEE_Nと鉄門_HGとの間の混合時期を決定するためにDATESを用いると、16.3±13.4世代の混合推定値が得られ、1世代28年と仮定すると、PIE060の平均放射性炭素年代(¹⁴C)の81~832年前頃に相当します。平坦崩壊曲線は最近の混合年代との解釈を裏づけ、PIE060がHGとの最近の接触を伴いピエトレレ遺跡外の共同体から来た、と示唆しています。じっさい、同様に多量のHG祖先系統を有する個体は、約70km離れたマラク・プレスラヴェッツと約140km離れたジュリュニツァ(Dzhulyunitsa)という近隣遺跡で報告されてきました。

 常染色体データと一致して、Y染色体とミトコンドリアDNAの系統は、PIE060を含めて男性数個体が典型的なY染色体ハプログループ(YHg)C1aおよびI2aを有しているにも関わらず、これまでに研究されてきたほぼ全ての新石器時代およびCA集団において一般的です。ピエトレレ遺跡の男性29個体では異なる主要な7系統(I2a1、C1a、G2a、H2、T1a、J2a、R1b-V88)があり、ヴァルナ遺跡では男性15個体のうち6個体(I2a1、I2a2、G2a、T1a、E1b1、R1b-V88)、ユナツィテ遺跡では6男性6個体のうち4個体(C1a、G2a、H2、J2a)となり、ヨーロッパ南東部CAにおけるY染色体多様性はヨーロッパ中央部/西部より高かった、と示されます(関連記事)。

 READを用いてヨーロッパ南東部CAの各遺跡における遺伝的近縁性を検証すると、合計で3組の1親等と2組の2親等の関係のみが検出されました。同時代のヨーロッパ南東部CA遺跡間のつながりと、より遠い遺伝的近縁性について具体的に検証するため、全ての遺跡内および遺跡間の個体間で共有されるIBD兆候が調べられました。最大で4親等~5親等の遺跡間のつながりの証拠は見つからず、2組の個体(PIE003とVAR010、およびYUN005とVAR030)のみが、5親等~7親等程度の関係を示す、20 cM(センチモルガン)以上の少なくとも2ヶ所の塊を共有していました。正規化合計と共有された塊の数を統合すると、ピエトレレ遺跡と比較して、ユナツィテとヴァルナにおいて遺跡内水準でより高い出自の近縁性が見つかり、これは、それぞれ350~400年間にわたる遺丘と集落の埋葬でのより短い使用での、家屋の破壊層準と埋葬地遺跡の構造により説明できます。

 しかし、hapROHを用いての個体ごとの同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)分析は、低水準の父方の出自の近縁性を示唆しており、これは比較的大きな有効人口規模を示し、初期農耕社会全体での以前の観察と一致します。これらの調査結果は、グメリンタ(Gumelniţa)・コヅァダーメン・カラノヴォ4複合の、集落密度と、密接な遺伝的つながりではなく広く拡大した文化的つながりを反映しており、SEE遺丘遺跡群の地域横断的な重要性と一致します。


●金石併用時代における初期の接触

 紀元前4500~紀元前3500年頃以降となるウクライナの金石併用時代(Eneolithic、略してEL)個体群(ウクライナ_EL)は、チェルナヴォダ1およびウサトヴェ文化と関連しており、新石器時代とCAのSEE個体群と刊行されているコーカサス北部(関連記事)およびロシア西部のフヴァリンスク(Khvalynsk)遺跡のEL草原地帯個体群との間で、PCA空間では遺伝的勾配を形成します。これは、考古学的記録で記載されている文化的相互作用と一致して、CA農耕民関連集団とEL草原地帯集団との間の混合の可能性を示唆しています。この観察された勾配は、約1000の広範な年代にわたる発展を反映しています(図1c)。新たに報告された¹⁴C年代の一部は、草原地帯EL遺跡で一般的単数貯蔵効果により影響を受けている可能性があるので、報告された年代よりも数世紀新しいかもしれません。しかし、この可能性を考慮すると、約500年の相殺は、依然としてウクライナEL個体のほとんどを紀元前四千年紀に位置づけるので、ヤムナヤ関連草原地帯牧畜民の拡大よりかなり早くなります。

 チェルナヴォダ1文化と関連しているカルタル(Kartal、略してKTL)遺跡個体群(紀元前4150~紀元前3400年頃)は遺伝的にひじょうに異質で、5個体(カルタルA)は「草原地帯EL」/「草原地帯マイコープ」個体群と前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)集団との間で勾配を形成しますが、他の3個体(カルタルB)はEN集団のより近くに位置します。マジャキー(Majaky、略してMAJ)遺跡の同時代の5個体は遺伝的により均一で、「カルタル勾配」の中間で後期ELウサトヴェ文化遺跡の4個体(USV/UBK)とともに位置します。PC2におけるウクライナEL個体群の位置と、その¹⁴C年代との間の相関について検証されましたが、見つかりませんでした。SEEから草原地帯にかけてのCAとELとの間の遺伝的類似性の大規模な変化は、地理的に地図化した場合、外群f₃統計でも明確に可視化されます(図2)。

 ウクライナEL個体群を形式的に特徴づけるため、完新世の4「礎石」人口集団、つまりトルコ_NとWHGとEHG/シベリア西部狩猟採集民(Western Siberian Hunter–Gatherers、略してWSHG)とCHGと共有された祖先系統の過剰について検証されました。これには、f₄形式(検証対象、ウクライナEL;4基本人口集団、ムブティ人)のf₄統計が用いられ、3検証人口集団で条件付けされました。第一に、有意に負のf4統計値により示唆されるように、ウクライナEL個体群はトルコ_Nと比較して全てのHG集団との過剰な類似性を示します。第二に、草原地帯ELで条件付けすると、ウクライナELの、トルコ_Nに対する過剰な類似性と、CHGおよびWHGに対する対称的な関連性が観察されますが、草原地帯EL集団はより多くのEHG/WSHG祖先系統を有しています。草原地帯経由で黒海北部をコーカサス北部地域ともつなぐ文化的影響に基づいて、コーカサス北部集団の影響の可能性も検証されます。コーカサスEL/マイコープを検証対象として用いると、EHGとWHGとトルコ_Nに対するウクライナELの過剰な類似性が観察されますが、コーカサスのEL/マイコープはCHGとより多くの浮動を共有しています。

 考古学的記録は、黒海北西部地域を後期CA農耕民集団と草原地帯集団との間の相互作用地帯と特定します。そうした初期の相互作用は、現在のモルドヴァのククテニ・トリピリャ複合と関連する個体群におけるヤムナヤ関連祖先系統を報告した先行研究(関連記事)で仮定されています。しかし、これらのデータの再分析では、この兆候はとくにEHGの多い祖先系統の増加によってのみ説明できる、と分かりました。

 混合の明確な兆候を示す、仮定される相互作用地帯のチェルナヴォダ1およびウサトヴェ文化と関連する個体群の役割を特徴づけるため、f₄統計(草原地帯EL/コーカサスEL/マイコープ、ウクライナEL;検証対象、ムブティ人)を用いて、多様な祖先系統供給源の寄与が形式的に検証され、ここでの検証対象はSEEとアナトリアのCA農耕民集団を表します。草原地帯ELに関して、全てのウクライナEL個体は全ての検証されたCA集団との過剰な類似性を示します。コーカサスEL/マイコープに関して、USVとMAJとKTL_BとKTL003とKTL008のみがウクライナのトリピリャ文化個体群と浮動を共有しています。

 注目すべきことに、コーカサスEL/マイコープとヨーロッパ南東部CAでの全てのf4対称検定は、WHG/EHGへのウクライナELの追加の誘引を示唆していることで、鉄門HGもしくはウクライナ_Nが最高の類似性を示します。このWHG/EHGへの類似性は、草原地帯ELを用いると存在せず、コーカサスからの遺伝子流動の可能性を含むシナリオが、WHG/EHG的な祖先系統のある追加の供給源を必要としている、と示唆されます。それは、この祖先系統が、ヨーロッパ南東部CAもしくはコーカサスのマイコープ文化集団により充分には表されていないからです。

 遠位qpAdmモデル化を用いると、KTL001とKTL007とMAJとUSVについてはトルコ_NとEHGとCHGとWHGの4方向混合への裏づけが見つかりましたが、KTL003とKTL006とKTL008は3供給源(トルコ_NとEHGとCHG)で代替的にモデル化でき、KTL_B個体群はトルコ_N(約40%)とCHG(約28%)とWHG(約12%)でのみモデル化できます。近位modelで追跡し、時間的および地理的により近い集団の寄与の可能性を調べると(図3e)、ウクライナEL個体群は、農耕民関連祖先系統供給源としてのVAR_CAもしくはウクライナ_トリピリャ文化と、混合したEHGとCHGの祖先系統の供給源として草原地帯ELの2方向モデルとしてモデル化できる、と分かりました。

 考古学的研究は草原地帯ELとマイコープ文化集団の文化的寄与を示唆しているので、コーカサスの北側の集団とその後の西方に拡大した集団との間の混合を含む、代替的なシナリオについてとくに検証されました。qpAdmモデル化において供給源として関連祖先系統とさまざまなHGおよびヨーロッパ南東部CA関連集団の両方を用いると(図3e)、ヨーロッパ南東部CA供給源を除いて、KTL001はじっさいに草原地帯EL(約32%)とコーカサスEL/マイコープ(約46%)とウクライナ_N採食民(約22%)の3方向混合としてモデル化できる、と分かりました。対照的に、MAJとUSVはVAR_CAもしくはウクライナ_トリピリャ文化(約50%)と草原地帯EL(約35%)と第三の少ない構成要素であるEL/マイコープ文化(約15%)としてモデル化できます。KTL_Bは同じモデルとなりますが、VAR_CA構成要素がより高く(約73%)、草原地帯EL祖先系統の少ない寄与(約10%)があります。

 供給源として草原地帯ELを除外する代替的なシナリオの調査では、KTL008について、YUN_CA(約17%)とコーカサスEL/マイコープ文化(約60%)とKO1(約23%)で、よく適合したモデルが見つかりました。さらに、KTL_Bはウクライナ_トリピリャ文化(約82%)と第二供給源としてのコーカサスEL/マイコープ文化(約18%)でモデル化でき、これはKTL_Bの遠位qpAdm結果におけるEHG祖先系統の省略と一致します(図3e)。

 最後に、ヨーロッパ南東部CAもしくはコーカサスのマイコープ文化関連集団、あるいは両者によりもたらされた農耕民関連祖先系統間を区別できるのかどうか、検証するために、定数として草原地帯ELを維持しながら、外群として各供給源を交互に繰り返しました。その結果、ほんどのKTL個体(KTL_Bを除きます)について、コーカサスEL/マイコープ文化ではなく、ヨーロッパ南東部CAからの遺伝的寄与への強い裏づけが見つかり、KTL個体群は草原地帯ELとVAR_CAとしてモデル化できます(図3e)。同じモデルはMAJについて裏づけられますが、USVでは却下され、マイコープ文化関連祖先系統がUSVには必要と示唆されます。じっさい、追加の供給源としてのマイコープ文化個体群と外群としてのVAR_CAでの競合モデルでは、USVについてはよく適合した4方向混合モデルが、MAJについてはモデルの改善が得られましたが、残りのKTL個体についてのモデルは却下されます。これは、在来のヨーロッパ南東部CAと草原地帯ELとコーカサスEL/マイコープ文化とHG関連供給源を含む、USVとMAJについての代替的な混合史への強い裏づけを提供し、KTL個体群とは異なる組み合わせです。

 MAJとUSVについて示された遺伝的祖先系統における類似性はIBD分析の結果でも観察され、MAJ023とUSV006との間の4~6親等の関係が見つかり、これはマジャキー遺跡とウサトヴェ遺跡の地理的近さを反映しています。ウクライナELについての正規化された合計と共有された塊の数は、他の遺跡と比較してのUSVにおけるより高い出自近縁性を示しますが、USVとMAJ、およびUSVとKTLの間でもそれぞれ示されており、ウサトヴェ遺跡(USV)とマジャキー遺跡(MAJ)とカルタル遺跡(KTL)の相対的な年代重複と一致します(図1c)。しかし、先行するCAおよび異質なKTL個体群との比較では、ROHはMAJとUSVについてのわずかに上昇した両親の出自金絵運勢を示唆しており、ウサトヴェ遺跡関連集団におけるより小さな有効人口規模が示唆されます。

 ウクライナELの男性6個体から得られたY染色体の証拠は、寄与した各供給源からの系統を反映しており、YHg-G2aはおそらく新石器時代の遺産ですが、YHg-I2a1の3個体は一般的に在来のウクライナ新石器時代もしくはHG集団に分類できます。KTL005とMAJ009のYHgはそれぞれR1b1a1(P297)R1b1a1b(M269)で、後者は前者の派生系統です。重要なことに、YHg-R1b1a1b1b(Z2103)もしくはR1b1a1bの直接の祖先系統は観察されず、これらは草原地帯に起源があり、YHg-R1b1a1bは草原地帯関連祖先系統の拡大と関係しています。


●青銅器時代における遺伝的祖先系統

 本論文におけるEBA個体群は、PCA空間では2つの対照的な遺伝的祖先系統クラスタに(図1b)、外群f₃統計(図2)ではさまざまな遺伝的類似性により特徴づけられます。紀元前三千年紀前半のYUN個体群と個体PIE078はヨーロッパ南東部CA集団と類似していますが、ブルガリアのボヤノヴォ(Boyanovo、略してBOY)遺跡_EBAとMAJ_EBA個体群は、ヤムナヤ文化複合と一般的に関連する「草原地帯祖先系統」クラスタ内に収まります。外れ値2個体(BOY019とYUN041)は、その間の空間に収まります。興味深いことに、YUN_EBAの個体PIE078はYHg-I2aでHG遺産が示唆されますが、BOY/MAJ_EBAの男性は、ヤムナヤ関連祖先系統の特徴的な証明であるYHg-R1b1a1b1bもしくは派生系統を有しています。

 これらの観察に基づいて、f₄統計(CA、EBA;HG、ムブティ人)の使用により、CAの先行住民と比較しての、YUN_EBAとPIE078におけるHG関連集団への追加の誘引について検証され、有意な負の結果で、YUNとPIEのEBA個体群における過剰なHG祖先系統が確証されました。対照的に、MAJ_EBAとBOY_EBAとBOY019とYUN041について、f₄統計(検証対象、EBA、VAR_CA、ムブティ人)を用いて、ヤムナヤ関連集団と比較したさいの、VAR_CAにより表される農耕民関連集団への追加の誘引について検証されました。その結果、外れ値個体YUN041のみが、他のEBA集団とよりもVAR_CAの方と高い類似性を有しています。基本人口集団での遠位qpAdmは、2つの主要なEBAクラスタの対照的な祖先系統を確証します。PIE078とYUN_EBAはトルコ_NとCHGとWHGでモデル化できますが(図3c)、MAJ_EBAとBOY_EBAとBOY019とYUN041は追加の供給源としてEHG祖先系統を必要とします(図3c)。

 次に、以下の4供給源からの起用の可能性についての検証により、ヤムナヤ関連EBA草原地帯牧畜民集団の明らかに均一性が調べられました。その4供給源とは、混合したトルコ_N/CHG/EHG祖先系統の代理としてのウクライナEL、HG関連集団としてのウクライナN、先ヤムナヤ遺伝的基盤としての草原地帯EL、混合したトルコ_N/CHG関連コーカサス南部祖先系統の代理としてのコーカサスEL/マイコープ文化で、これらは先行研究(関連記事)により提案されており、先行するEL期についての本論文の結果により直接的に裏づけられています。

 第一に、4基本人口集団に関して、f₄形式(草原地帯EL/コーカサスEL/マイコープ文化、EBA;基本人口集団、ムブティ人)のf₄統計の使用により、てのヤムナヤ関連個体と草原地帯EL/コーカサスEL/マイコープ文化との間の共有された浮動について検証されました。草原地帯ELと比較すると、ヤムナヤ文化コーカサスを除いて、全てのEBA個体はトルコ_Nとの過剰な類似性を示します。さらに、コーカサスEL/マイコープ文化と比較すると、全てのEBA個体はWHGおよびEHG/WSHGとの浮動を共有しており、YUN041のみがトルコ_Nに関しても有意です。第二に、f₄形式(草原地帯1、草原地帯2;検証対象、ムブティ人)のf₄統計が用いられ、検証対象にはウクライナNとウクライナELとコーカサスEL/マイコープ文化と草原地帯ELが含まれました。その結果、外れ値個体ウクライナ_オゼラ(Ozera)遺跡_EBA_ヤムナヤを除いて、全てのf₄統計値が有意ではなく、ウクライナとブルガリアの個体群を含めて全てのヤムナヤ関連個体は遺伝的にひじょうに類似している、と示唆されます。

 微妙な兆候を解明するために、同じ理論的根拠と供給源を近位qpAdmモデル化に適用すると(図3f)、BOY_EBAとヤムナヤ_サマラ(Samara)の個体は、草原地帯ELとコーカサスEL/マイコープ文化とウクライナNの3方向混合としてモデル化できる、と分かりました。要注意なのは、同じ3供給源が(ヨーロッパ南東部CA祖先系統に加えて)先行するUSVとMAJのウクライナEL個体群に寄与したことで、類似の過程が紀元前四千年紀における草原地帯での3祖先系統の形成につながった、と示唆されます。じっさい、BOY_EBAとMAY_EBAとヤムナヤ_サマラは草原地帯ELとKTL001(ヨーロッパ南東部CA祖先系統が欠けています)の2方向混合でもモデル化できる、と分かりました。

 ウクライナ_EBA_ヤムナヤについては、草原地帯EL(約75%)とコーカサスEL/マイコープ文化(約14%)と西方供給源としての球状アンフォラ(Globular Amphora)文化(約11%)での3方向モデルへの裏づけが見つかりましたが、草原地帯EL(約65%)とUSV(約35%)の2方向混合でもモデル適合が改善され、紀元前三千年紀における草原地帯牧畜民へのウクライナEL集団の直接的な寄与の可能性が示唆されます。対照的に、草原地帯南部のヤムナヤ_コーカサス個体群は、約76%の草原地帯ELと約26%のコーカサスEL/マイコープ文化の2方向モデルとしてモデル化でき、先行研究(関連記事)の調査結果を確証します。この2方向混合(それぞれ約40%と約60%)はオゼラ遺跡の外れ値個体にも良好な適合モデルを提供し、PCAでの位置と一致しており、コーカサスからの影響を裏づけます。

 PCAにおける重複にも関わらず、これらの結果は微妙な地理的構造を示唆しており、それには局所的な遺伝的階層と、それぞれ西方および南方の接触地帯における近隣集団からの影響が含まれます。個体BOY019は、約63%のUSV祖先系統と約37%の草原地帯EL祖先系統、もしくは約40%のウクライナ_トリピリャ祖先系統と約60%の草原地帯EL祖先系統でモデル化でき、西方接触地帯における近隣2集団間の相互作用、あるいは混合集団の直接的子孫(たとえば、KTL001)が示唆されます。最後に、個体YUN041は約50%の在来のYUN_EBA祖先系統と、約50%のBOY_EBAもしくは別のヤムナヤ関連供給源でモデル化できます。

●考察

 紀元前五千年紀の4ヶ所のCA遺跡(PIEとYUNとPTKとVAR)の内部および全体にわたる遺伝的均一性は、考古学的記録の文化的均一性と一致し、比較的安定した社会政治的交流網の長きにわたる期間と、大規模な文化的および遺伝的変容の欠如を示唆します。遺跡間で共有されたより短いIBD断片は、物質文化で見られる地域を越えたつながりと一致します。CA末にかける集落密度減少につながった理由について、本論文は推測しかできません。先行研究により提案された見解である、草原地帯からの「インド・ヨーロッパ語族」集団の初期の拡大から生じた紛争はあり得るものの、内部の競合とCA集団間の紛争も同様に可能性があります。

 じっさい、ヨーロッパ南東部CA集団のほぼ同一の遺伝的祖先系統を考えると、遺伝学的分析ではあるCA集団が別のCA集団により置換されるような内部紛争は見えないだろうことに要注意です。長期にわたる旱魃もしくは感染症やそれに続く伝染病は、土地を枯渇させ得る別の要因です。じっさい、ペスト菌(Yersinia pestis)の初期の出現の証拠は5000年前頃までさかのぼると奉告されており(関連記事)、過渡的な採食とおよび牧畜と関連する個体群に関して、サルモネラ菌(Salmonella enterica)の出現時期はさらにさかのぼります。歯の体系的な検査にも関わらず、B型肝炎ウイルス(Hepatitis B virus、略してHBV)陽性だった2個体(YUN048とVAR021)を除いて、紀元前五千年紀と紀元前四千年紀のCA個体群では病原体の証拠は見つかりませんでした。VAR021はサルモネラ菌でも陽性でした。

 本論文の主要な調査結果は、SEEのCA農耕集団と現在のウクライナ南部となる草原地帯のEL集団との間の初期の接触と混合を示唆しており、それは恐らく紀元前五千年紀半ばに始まり、その頃に集落密度がさらに北方へと移動し、ドナウ川下流地域を沿岸部草原地帯および森林・草原地帯のククテニ・トリピリャ文化複合集団とつなげました。考古学的証拠から、初期CAグメリンタ文化集団は紀元前五千年紀半ばまでに草原地帯の深くにすでに植民しており、農耕生活様式の要素をもたらしただけではなく、在来のHG集団からの文化的影響も受けた、と示されます。その後に続くチェルナヴォダ1およびウサトヴェ文化は、在来のCA文化とその周辺から強い影響を受けました。紀元前四千年紀には、ポントス北西部地域では草原地帯EL集団との接触が強化されましたが、次にこれらはマイコープ文化などコーカサス北部の集団とも接触し、その全ては本論文で提示されたゲノムデータに反映されています。

 さらに、調べられたウクライナの遺跡の地理的近さにも関わらず、さまざまな混合史を追跡できます。本論文では、銅器時代のグメリンタ・コヅァダーメン・カラノヴォ4複合の以前の分布の北端でドナウ川の三角州に位置するカルタル遺跡の個体群の不均一性が際立っているので、これは紀元前四千年紀の活動の変化する性質と動態を表しています。対照的に、ドナウ川の北方に位置するより均一なマジャキー遺跡およびウサトヴェ文化集団からは、そうした同化過程がすでに起きていた、と示され、森林・草原地帯の移行的な採食民および初期牧畜民と、外来のSEE農耕民関連集団との間の接触と交換は紀元前五千年紀後期にはすでに始まっていた、と示唆されます。

 さらに、考古学的記録により証明されているさまざまな文化的影響も、遺伝学的に追跡可能です。本論文の主張は、家畜や革新や技術的発展はこれら相互作用の接触地帯を通って交換され、次に紀元前四千年紀数までに草原地帯において完全に発展した牧畜の確立につながった、というものです。草原地帯への両接触地帯からの遺伝子流動は、台頭するヤムナヤ牧畜民における少量の農耕民関連祖先系統も説明でき、それはヤムナヤ牧畜民を草原地帯EL基盤集団と区別し、広範に拡大する領域/範囲における微妙な地理的構造を説明します。

 本論文で提示されたELにおける初期の混合は紀元前四千年紀の黒海北西部地域に局所的だったようで、SEEの後背地には影響を及ぼしませんでした。じっさい、YUNとPIEの紀元前四千年紀と紀元前三千年紀のEBA個体群は草原地帯的祖先系統の痕跡を示しませんが、代わりに紀元前四千年紀においてヨーロッパで広く観察されるHG祖先系統の復活を示します(関連記事1および関連記事2)。これは、さまざまな非農耕地域、たとえば高地や高台やあるいは密林地帯や湿地帯における残存HG集団の存在と、遺伝的に均一なCAとEBAではなく、祖先系統の寄せ集めを示唆しています。

 わずかいくつかの遺丘遺跡しか在来集団および/もしくはポントス北部地域起源ではなかった侵入してきた集団により再植民されませんでしたが、マジャキー遺跡だけではなくトラキア平原のブルガリア低地のボヤノヴォ遺跡でも、ヤムナヤに文化的および遺伝的に明らかに分類される牧畜民草原地帯からの移民の出現を追跡できます。ヤムナヤ関連集団と比較したさいの、これら2者間の遺伝的祖先系統における微妙な違いは、遺伝的および恐らくは文化的同化の地理的位置とさまざまな段階を説明します。EBAのYUNおよびBOYの外れ値2個体では、EBA遺丘の住民と侵入してきた草原地帯牧畜民との間の時折の混合が見られました。最終的には、「草原地帯祖先系統」の紀元前千年紀の形態は大ハンガリー平原に到達し、そこから多様化して、さらに西方に拡大しました。SEEにおける在来集団と外来集団との間の相互作用は、考古学的に可視的な紛争や、ブリテン島で観察されたようなほぼ完全な常染色体の遺伝的入れ替えや、イベリア半島におけるY染色体系統の置換をもたらしませんでした(関連記事1および関連記事2)。

 本論文で論証された混合勾配の形成期間における黒海周辺での役割における動態の解明には、さらなる統合された考古ゲノム研究が必要です。寄与した集団により共有されたIBDの塊の直接的な追跡を可能とする紀元前五千年紀と紀元前四千年紀の高品質のゲノム規模データは、ユーラシア西部の人口史の理解に重要となるでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:銅器時代の終焉に関する手掛かりとなる古代ゲノムのデータ

 古代人のゲノムデータを解析した研究で、銅器時代の農民とステップ牧畜民の交流が、従来考えられていたよりも1000年早く起こっていた可能性のあることが示唆された。このことを報告する論文が、Natureに掲載される。この知見は、紀元前3300年ごろの銅器時代の終焉と牧畜民集団の拡大を理解する上で役立つ可能性がある。

 これまでに実施された古代ゲノムデータの解析から、西ユーラシアで2つの大きな遺伝的入れ替え(ターンオーバー)現象が起こっていたことが示唆されている。1つが、紀元前7000~6000年ごろの農耕の普及に関連したターンオーバーで、もう1つが、紀元前3300年ごろから始まったユーラシアのステップ出身の牧畜民集団の拡大に起因するターンオーバーだ。この2つの現象の中間の時代である銅器時代は、それまでになかった新しい経済を特徴としており、経済の基盤をなしたものが、冶金、車輪、荷馬車による輸送、馬の家畜化だった。しかし、銅器時代の居住地の消滅(紀元前4250年ごろ)から牧畜民の拡大の間に何が起こったのかは、十分に解明されていない。

 今回、Wolfgang Haakらは、南東ヨーロッパと沿黒海地方北西部地域の8つの遺跡で出土した紀元前5400~2400年の古代人(135人)の遺伝的データを解析した。その結果、新石器時代と銅器時代のヒト集団の間に遺伝的連続性が認められたが、紀元前4500年ごろ以降は、沿黒海地方北西部地域から移ってきた集団の個体が保有する銅器時代の集団とステップ地帯の集団のゲノム塩基配列の量に大きなばらつきのあることが判明した。Haakらは、今回の知見から、これらの集団が文化的な接触をして、混合したのが、これまで考えられていたよりも約1000年早かったことが示唆されたという見解を示し、紀元前3300年頃の牧畜民集団の台頭、形成、拡大には、異なる地理的区域を出身地とする農民や移行期の狩猟民の間での技術移転が不可欠だったという学説を提案している。



人類学:ヨーロッパ南東部における後期銅器時代の農耕社会と牧畜社会との早期の接触

人類学:古代の技術革新を伝えた集団間接触

 今回、考古遺伝学研究によって、ヨーロッパ南東部での後期銅器時代の農耕民集団とユーラシアステップからの牧畜民集団との接触が、予想より約1000年早く起きていたことが明らかにされている。



参考文献:
Penske S. et al.(2023): Early contact between late farming and pastoralist societies in southeastern Europe. Nature, 620, 7973, 358–365.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-06334-8

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