上田信『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』
講談社選書メチエの一冊として、2023年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は鄭舜功が著した『日本一鑑』を取り上げ、「外から」見た戦国時代の日本の様相を叙述しています。こうした「外国(人)」史料が貴重なのは、自身の文化に由来する日本の(習俗なども含めて広い意味での)文化への無理解や偏見があるとしても、当時の日本社会では常識とされ、同時代の文献にはほとんど記載されなかったのに、その後そうした常識が変わったり廃れてしまったりして、後世の人間には理解しにくくなったような事象も、取り上げられることがあるからです。戦国時代については、そうした意味でキリスト教の宣教師を中心に「ヨーロッパ人」の残した文献が重視されてきましたが、本書は、日本ではあまり知られていないだろう(恥ずかしながら私も知りませんでした)明の鄭舜功が著した『日本一鑑』を取り上げ、これまで戦国時代に関心のある私のような一般層にはあまり知られていなかったような事象も紹介しており、たいへん有益でした。本書が『日本一鑑』を重視するのは、「ヨーロッパ人」よりも明というか「中国人」の方が、当時は「日本人」との接触の蓄積がずっと多く、それだけ日本社会への理解も深いだろう、という理由です。以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。
本書はまず、戦国時代を日本史の文脈だけではなくより広い規模で位置づけるため、モンゴル帝国衰退後のユーラシア史を概観します。大元ウルスでは14世紀半ばには経済が混乱し、大元ウルスを北方に追いやって中華地域を支配した明では、貨幣経済が壊滅していたため、現物徴収と労働力徴用で社会を立て直そうとして、国外との交易では民間の取引を抑制しました。明は周辺諸勢力の君主との間の朝貢関係の枠内に交易を限定します。しかし、明は海域を統制できず、西日本の武士や商人や漁民が明の沿岸を襲撃し、明は朝貢以外の人々の往来を禁止します(海禁)。明は日本から大量の刀を輸入し、それはモンゴル高原からの軍事侵攻に対して日本刀が有効な武器だったからでした。京都武家政権(室町幕府)は足利義満が実権を握っていた頃に明から冊封され、朝貢貿易を始めます。この朝貢貿易を伴う日明関係で重要な役割を果たしたのは、中国の大内氏と管領の細川氏でした。こうした日本と明との関係は、1520~1530年代に石見で銀山の開発が進み、ユーラシア大陸部から新たな精錬法が導入され、銀の産出量が増大すると、大きく変わります。すでに明では15世紀半ば以降、銀で徴収する税制へとじょじょに変わっており、銀の需要が増え始めていたところへ、日本産の銀が流入するようになり、日明間の密貿易が増加したわけです。
そうした状況の中、鄭舜功は1556年に日本に渡ります。当時、嘉靖大倭寇で明が緊迫した情勢にある中、鄭舜功は無位無官の身でしたが、日明間の緊張緩和というか具体的には倭寇禁圧を志して日本にわたり、半年間日本に滞在して情報を収集して帰国したものの、その功績は認められず、投獄されます。当時の明では、鄭舜功『日本一鑑』の他にも日本に関する著作があり、倭寇対策として日本への関心が高まったようです。ただ本書は、そうした日本関連の著作には、日本を仮想敵国として日本の兵器や戦術などの対策を詳述したものもあり、日本(人・社会)を理解しようとする視点は欠如していた、と指摘します。その意味で、日本(人・社会)を深く考察しようとして観察した『日本一鑑』は貴重である、というわけです。
鄭舜功が日本へと渡る前に日明関係に大きな影響を与えたのは、1523年の寧波事件でした。その前提となるのは、京都武家政権が弱体化して朝貢を行なえなくなったため、細川氏と大内氏が代行するようになったことでした。細川氏と大内氏との朝貢貿易の利害関係の対立に起因して起きたのが、大内側が細川側を襲撃した寧波事件でした。これは明にとって大きな衝撃となり、激昂して惨殺するような「日本人」との印象が定着しました。寧波事件の結果、日明間の朝貢貿易は停滞します。その結果、民間の密貿易が活発になり、嘉靖大倭寇につながるわけですが、『日本一鑑』では日明間の密貿易の始まりに琉球が関わっていた、とあります。
鄭舜功は、現在の安徽省南部から浙江省東部にまたがる徽州の出身と自認していました。徽州地域では朱子学が受容され、その風水論が定着しており、鄭舜功はそうした風土の影響を受けました。鄭舜功は生没年不詳で、どのような経緯が日本に関心を抱いたのかなど、不明点が多いようです。鄭舜功が日本に渡った動機については、任官目的との指摘もありますが、本書はそれだけではなく侠気もあったのではないか、と推測します。鄭舜功は日本への航海中にトビウオを詳しく観察したようで、その博物学的な好奇心が窺えます。鄭舜功は日本に到着した後、政治工作を開始し、豊後の戦国大名である大友氏と接触し、さらに足利将軍家の権威失墜の情報を得て、京都の天皇との交渉を企図します。鄭舜功の畿内での交渉相手は、当時畿内で強大な勢力を誇り、現在では戦国最初の「天下人」とも評価されている三好長慶(関連記事)でした。ただ鄭舜功は、倭寇禁圧の使者として競合相手となった蔣洲が先に帰国したことに焦り、1556年12月下旬には帰国の途につきます。上述のように、帰国した鄭舜功は、その功績を認められないばかりか投獄されます。
このように鄭舜功の日本での滞在期間は半年程度でしたが、その日本社会の観察には興味深いものがあります。上述の寧波事件と倭寇の影響もあって、当時明において「日本人」は凶暴との印象が定着していましたが、鄭舜功の報告はそうした「日本人」像の修正を迫るもので、秩序を重んじて善良なところも報告されました。日本では女性が多く、男が多く生まれると殺される、とも鄭舜功は報告していますが、本書は、戦乱の世で相対的に男性の死亡率が高いことや、女性の外出が少ない明と、女性の外出が相対的に多い日本との比較から、鄭舜功には日本では女性が多い、と見えたのかもしれない、と推測します。礼儀などの面で鄭舜功は日本社会を高く評価していますが、明との貿易を求めていた大友義鎮(宗麟)から「国客」として丁重に遇されたので、多少割り引く必要があるかもしれない、とも本書は指摘します。
本書はまず、戦国時代を日本史の文脈だけではなくより広い規模で位置づけるため、モンゴル帝国衰退後のユーラシア史を概観します。大元ウルスでは14世紀半ばには経済が混乱し、大元ウルスを北方に追いやって中華地域を支配した明では、貨幣経済が壊滅していたため、現物徴収と労働力徴用で社会を立て直そうとして、国外との交易では民間の取引を抑制しました。明は周辺諸勢力の君主との間の朝貢関係の枠内に交易を限定します。しかし、明は海域を統制できず、西日本の武士や商人や漁民が明の沿岸を襲撃し、明は朝貢以外の人々の往来を禁止します(海禁)。明は日本から大量の刀を輸入し、それはモンゴル高原からの軍事侵攻に対して日本刀が有効な武器だったからでした。京都武家政権(室町幕府)は足利義満が実権を握っていた頃に明から冊封され、朝貢貿易を始めます。この朝貢貿易を伴う日明関係で重要な役割を果たしたのは、中国の大内氏と管領の細川氏でした。こうした日本と明との関係は、1520~1530年代に石見で銀山の開発が進み、ユーラシア大陸部から新たな精錬法が導入され、銀の産出量が増大すると、大きく変わります。すでに明では15世紀半ば以降、銀で徴収する税制へとじょじょに変わっており、銀の需要が増え始めていたところへ、日本産の銀が流入するようになり、日明間の密貿易が増加したわけです。
そうした状況の中、鄭舜功は1556年に日本に渡ります。当時、嘉靖大倭寇で明が緊迫した情勢にある中、鄭舜功は無位無官の身でしたが、日明間の緊張緩和というか具体的には倭寇禁圧を志して日本にわたり、半年間日本に滞在して情報を収集して帰国したものの、その功績は認められず、投獄されます。当時の明では、鄭舜功『日本一鑑』の他にも日本に関する著作があり、倭寇対策として日本への関心が高まったようです。ただ本書は、そうした日本関連の著作には、日本を仮想敵国として日本の兵器や戦術などの対策を詳述したものもあり、日本(人・社会)を理解しようとする視点は欠如していた、と指摘します。その意味で、日本(人・社会)を深く考察しようとして観察した『日本一鑑』は貴重である、というわけです。
鄭舜功が日本へと渡る前に日明関係に大きな影響を与えたのは、1523年の寧波事件でした。その前提となるのは、京都武家政権が弱体化して朝貢を行なえなくなったため、細川氏と大内氏が代行するようになったことでした。細川氏と大内氏との朝貢貿易の利害関係の対立に起因して起きたのが、大内側が細川側を襲撃した寧波事件でした。これは明にとって大きな衝撃となり、激昂して惨殺するような「日本人」との印象が定着しました。寧波事件の結果、日明間の朝貢貿易は停滞します。その結果、民間の密貿易が活発になり、嘉靖大倭寇につながるわけですが、『日本一鑑』では日明間の密貿易の始まりに琉球が関わっていた、とあります。
鄭舜功は、現在の安徽省南部から浙江省東部にまたがる徽州の出身と自認していました。徽州地域では朱子学が受容され、その風水論が定着しており、鄭舜功はそうした風土の影響を受けました。鄭舜功は生没年不詳で、どのような経緯が日本に関心を抱いたのかなど、不明点が多いようです。鄭舜功が日本に渡った動機については、任官目的との指摘もありますが、本書はそれだけではなく侠気もあったのではないか、と推測します。鄭舜功は日本への航海中にトビウオを詳しく観察したようで、その博物学的な好奇心が窺えます。鄭舜功は日本に到着した後、政治工作を開始し、豊後の戦国大名である大友氏と接触し、さらに足利将軍家の権威失墜の情報を得て、京都の天皇との交渉を企図します。鄭舜功の畿内での交渉相手は、当時畿内で強大な勢力を誇り、現在では戦国最初の「天下人」とも評価されている三好長慶(関連記事)でした。ただ鄭舜功は、倭寇禁圧の使者として競合相手となった蔣洲が先に帰国したことに焦り、1556年12月下旬には帰国の途につきます。上述のように、帰国した鄭舜功は、その功績を認められないばかりか投獄されます。
このように鄭舜功の日本での滞在期間は半年程度でしたが、その日本社会の観察には興味深いものがあります。上述の寧波事件と倭寇の影響もあって、当時明において「日本人」は凶暴との印象が定着していましたが、鄭舜功の報告はそうした「日本人」像の修正を迫るもので、秩序を重んじて善良なところも報告されました。日本では女性が多く、男が多く生まれると殺される、とも鄭舜功は報告していますが、本書は、戦乱の世で相対的に男性の死亡率が高いことや、女性の外出が少ない明と、女性の外出が相対的に多い日本との比較から、鄭舜功には日本では女性が多い、と見えたのかもしれない、と推測します。礼儀などの面で鄭舜功は日本社会を高く評価していますが、明との貿易を求めていた大友義鎮(宗麟)から「国客」として丁重に遇されたので、多少割り引く必要があるかもしれない、とも本書は指摘します。
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