仁藤敦史『女帝の世紀 皇位継承と政争』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2006年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、7~8世紀に多かった「女帝」について、「中継ぎ」などといった通説を検証し、改めて日本史に位置づけます。本書はまず、現代の皇位継承問題と絡めて、女帝の子を親王とする大宝律令の規定から、女系での皇位継承が古代には認められていた、と主張しますが、女性皇族(王族)の婚姻規制(王族以外の男性との婚姻の禁止)が、「女帝」が頻出した奈良時代までは厳しかったこと(関連記事)から、かなり疑問が残ります。天皇(大王)位継承者は原則として出生時に皇族(王族)だった者に限られ、皇族(王族)は基本的に父系で定義されるからこそ、そうした女性皇族(王族)の婚姻規制があった、と考える方が節約的だと思います。平安時代になって、女帝がほぼ現実的な選択肢でなくなったこと(称徳天皇と道鏡の問題とともに、皇后から即位した女性が珍しくなかった時代から、藤原氏出身の皇后が現実的な選択肢になった時代へと移行したことも大きかったのでしょう)と、女性皇族の婚姻規制が前代までより緩やかになったことも、皇位継承が基本的に父系の枠組みにあった、との想定と整合的でしょう。

 いきなり本書に批判的な見解を述べましたが、奈良時代までの政治史を、皇位継承のみに収斂させ、他氏を排斥していった藤原氏中心の陰謀史観により語るような、通俗的な歴史像ではなく、国家政策の観点から検証する、という本書の観点には強く同意します。道鏡事件については、当時はまだ「皇緒」に対する多様な選択肢が存在し、その極端な事例だった、と指摘されています。「臣下」の即位を禁忌とするのは、当時において必ずしも自明ではなく、むしろ道鏡事件を契機に支配層に強く意識されるようになったのではないか、というわけです。本書は古代の皇位継承について論点となる「不改常典」について、男子による直系継承の規定ではなく、天智から天武(大海人)への譲位の意思表示を先例としており、「先帝の意志」による皇位継承法と推測しています。

 7~8世紀に多かった「女帝」の嚆矢となるのは推古で、推古は異母兄の敏達のサキキとして、石姫の死後は最上位の立場にあり、敏達存命中には政治関与の記載はないものの、敏達没後にその殯を主催したり崇峻を次期大王に指名したりと、実質的に大王を代行しており、その延長線上に即位があった、と指摘されています。本書は、推古が蘇我馬子と聖徳太子に政治を委ねた形式的君主ではなく、主体性を発揮していた、と評価します。次の女帝である皇極(斉明)については、その卓越した資質が群臣に評価されて即位した、と評価されています。皇極の譲位と重祚(斉明)に関して、本書は外交政策の対立があった、と推測しています。本書は、唐・新羅派の孝徳と、従来の親百済路線を重視した皇極およびその息子の天智(中大兄)との対立を想定しますが、そうすっきりと割り切れるのか、今後も考えていきたい問題ではあります。

 本書は「女帝」の時代の終焉について、双方的な親族関係の希薄化が大きな背景としてある、と指摘し、直接的理由として、嵯峨朝において太上天皇および皇太后の尊号宣下により王の終身制が否定され、重祚の可能性がなくなり、それと連動して皇太后天皇としての即位の可能性がなくなったことを挙げています。本書は、女帝が頻出した背景にある王統譜観念では、天智系と天武系の対立よりも、両者を一系と把握する意識が強かったことを指摘し、その傍証として、「天武系」天皇は平安時代初期においても国忌の対象者から排除されていなかったことと、『続日本紀』において「前王統」の称徳朝までではなく、桓武朝の途中までが対象とされたことを挙げています。

 本書はこの「女帝」の時代において、白村江の戦いを重視し、その敗戦が王権による律令化を前提とした急速な軍国政策の採用と、王権の忠実な官僚となった藤原氏の台頭をもたらした一方で、壬申の乱の功臣が天武皇親や東国地方豪族の重用につながり、聖武による天皇権力強化の桎梏となった、との見通しを提示します。この歴史的背景において、「壬申年の功臣」の子孫たる長屋王の排除は必然となり、その後に藤原氏中心の体制が構築されていった、というわけです。長屋王の失脚を皇位継承問題に単純化しない視点は、なかなか興味深いと思います。

この記事へのコメント