川村裕子編『誰も書かなかった 清少納言と平安貴族の謎』
中経の文庫の一冊として、2013年11月にKADOKAWAより刊行されました。電子書籍での購入です。本書は問いと回答の形式で構成されており、著書の『枕草子』は有名であるものの、履歴や人物像についてはさほど知られていない清少納言について、一般向けに基礎知識から分かりやすく伝えよう、との工夫が窺えます。来年(2024年)の大河ドラマの主人公が紫式部で、清少納言の配役もすでに発表されており、この機会に清少納言について調べてみようと考えて本書を読みました。もっとも、本書でも指摘されているように、紫式部と清少納言との間に直接的な面識があったのか定かではありませんし、来年の大河ドラマでは清少納言はあまり重要人物ではないかもしれませんが。
そもそも、清少納言という名称の由来についてよく分かっていないようで、私は一族もしくは夫が少納言だったのかな、くらいに考えていましたが、不明なようです。清少納言の父は清原元輔で、990年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に当時としては異例の長命となる数え年93歳で没しており、清少納言は966年頃に生まれたようです。清原元輔は受領で、その極位は従五位上でしたから、清少納言は中流貴族と言えそうな諸大夫でも下流の家柄出身と言えるかもしれません。清原元輔は当時を代表する歌人で、清少納言の教養は父親の教育の賜物だったのでしょうか。清少納言の最初の夫は橘則光で、982年に息子の橘則長が生まれています。清少納言はその後、則光と離婚し、藤原実方と恋愛関係にあったものの結婚には至らなかったようで、20歳ほど年長と推測される藤原棟世と結婚し、娘(小馬命婦)が生まれます。
本書は平安時代の貴族のさまざまな側面も取り上げており、その具体的な生活は一般層の読者にも興味深いものになっている、と思います。当時、恋愛も含めて貴族の人間関係では和歌が重要な役割を担っており、和歌は苦手だと自認していた清少納言にとっては、やりづらい局面もあったかもしれません。あるいは、清少納言の和歌への苦手意識には、偉大な歌人である父親を間近で見てきたことが大きな原因なのかもしれません。本書は、当時の紙など概説的な歴史書では通常言及されない事項も多く取り上げており、平安時代の貴族を創作で描こうとする人にとっては、有益な一冊になっているかもしれません。
寝殿造については、その言葉が初めて文献に現れるのは江戸時代で、発掘により左右非対称の邸宅が多いことなど、これまで文献から想像されていたものと違った可能性が示唆されています。そうした見解は、20年以上前に読んだ髙橋昌明『武士の成立 武士像の創出』(関連記事)でも言及されていたので意外ではありませんでしたが、通俗的な平安時代貴族像には要注意だと思います。また、当時の貴族の邸宅には池がありましたが、その周囲からばかり土器が出土していることも報告されているそうで、祭祀や呪術行為の痕跡と推測されています。
そもそも、清少納言という名称の由来についてよく分かっていないようで、私は一族もしくは夫が少納言だったのかな、くらいに考えていましたが、不明なようです。清少納言の父は清原元輔で、990年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に当時としては異例の長命となる数え年93歳で没しており、清少納言は966年頃に生まれたようです。清原元輔は受領で、その極位は従五位上でしたから、清少納言は中流貴族と言えそうな諸大夫でも下流の家柄出身と言えるかもしれません。清原元輔は当時を代表する歌人で、清少納言の教養は父親の教育の賜物だったのでしょうか。清少納言の最初の夫は橘則光で、982年に息子の橘則長が生まれています。清少納言はその後、則光と離婚し、藤原実方と恋愛関係にあったものの結婚には至らなかったようで、20歳ほど年長と推測される藤原棟世と結婚し、娘(小馬命婦)が生まれます。
本書は平安時代の貴族のさまざまな側面も取り上げており、その具体的な生活は一般層の読者にも興味深いものになっている、と思います。当時、恋愛も含めて貴族の人間関係では和歌が重要な役割を担っており、和歌は苦手だと自認していた清少納言にとっては、やりづらい局面もあったかもしれません。あるいは、清少納言の和歌への苦手意識には、偉大な歌人である父親を間近で見てきたことが大きな原因なのかもしれません。本書は、当時の紙など概説的な歴史書では通常言及されない事項も多く取り上げており、平安時代の貴族を創作で描こうとする人にとっては、有益な一冊になっているかもしれません。
寝殿造については、その言葉が初めて文献に現れるのは江戸時代で、発掘により左右非対称の邸宅が多いことなど、これまで文献から想像されていたものと違った可能性が示唆されています。そうした見解は、20年以上前に読んだ髙橋昌明『武士の成立 武士像の創出』(関連記事)でも言及されていたので意外ではありませんでしたが、通俗的な平安時代貴族像には要注意だと思います。また、当時の貴族の邸宅には池がありましたが、その周囲からばかり土器が出土していることも報告されているそうで、祭祀や呪術行為の痕跡と推測されています。
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