マチュ・ピチュ住民の遺伝的起源

 マチュ・ピチュ(Machu Picchu)遺跡で発見された人々のゲノムデータを報告した研究(Salazar et al., 2023)が公表されました。マチュ・ピチュは世界的にたいへん有名で人気があるインカ帝国期の遺跡で、多くの観光客が訪れていますが、その住民の遺伝的起源についてはほとんど分かっていません。本論文は、マチュ・ピチュ遺跡で埋葬された人々のゲノムデータを報告し、インカ帝国全域およびアマゾン地域の集団との遺伝的関連を示しています。こうした研究は、文献や考古学的データだけでは見えにくいインカ帝国の構造を解明していく手がかりになり、他の遺跡でも同様の研究が進展していくのではないか、と期待されます。


●要約

 マチュ・ピチュは元々、1420~1532年にインカ帝国皇帝のパチャクテク(Pachacuti)の領地内において宮殿として機能していました。この研究の前には、マチュ・ピチュで暮らして死亡した人々、そうした人々がどこから来たのか、あるいはインカの首都であるクスコ(Cusco)の住民とどのように関連していたのかについて、ほとんど知られていませんでした。この研究は、インカ帝国の皇室に仕えた家臣もしくは従者と考えられる、マチュ・ピチュに埋葬された34個体と、比較の目的でクスコの34個体について、ゲノム規模データを生成しました。歴史学および考古学のデータを用いて、古代DNAの結果を説明すると、マチュ・ピチュの家臣団集団はひじょうに異質で、インカ帝国全域およびアマゾン地域の集団と関連する遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を示す、と結論づけられます。この結果は、さまざま遺伝的背景の人々がともに、暮らし、繁殖して、埋葬された、マチュ・ピチュにおける多様な家臣集団を示唆しています。


●研究史

 マチュ・ピチュは恐らく西半球において最もよく知られている遺跡で、2020年の【新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の】世界的流行の前には、世界中から100万人以上の旅行者を引きつけました。最近数十年間では、マチュ・ピチュの印象はペルー国家の象徴およびラテンアメリカの先住民の歴史的業績の象徴として用いられてきました。その高い知名度にも関わらず、マチュ・ピチュの機能とその住民の日常生活については、最近までほとんど知られていませんでした。これらの空白は、16および17世紀のスペイン人の記述におけるマチュ・ピチュへの言及の欠如と、インカがその歴史の記録に用いた結び目のある紐の記録(quipu、キープ)の解読に現代の研究者が失敗したためでした。しかし、過去20年間にわたって学者は、考古学的な野外調査と実験室研究への新たな科学的技術の適用の結果として、マチュ・ピチュ遺跡を理解し始めました。実験室研究への新たな科学的技術は、マチュ・ピチュの古代人口集団の食性および健康と関連する重要な結果と、マチュ・ピチュで行なわれた日常活動への洞察をもたらしました。

 考古学者と歴史学者の間では今や、マチュ・ピチュは皇帝パチャクテクの系統(もしくは「panaca」と呼ばれる王族)に属する王族の領地の一部だった、という合意があります。パチャクテクはインカ帝国もしくはタワンティン・スウユ(Tahuantinsuyu、4地域から構成される世界という意味)を設立したとされる支配者でした。マチュ・ピチュの中核にある記念碑建築物はじっさい、パチャクテクの王室領内に位置する地方宮殿の遺構です。

 王室領はインカ皇帝により、支配者とその死後には支配者のミイラに供物を捧げる表向きの目的のため永続的に維持された高貴な系統のための土地だった、と主張されました。多くの場合、これら王室領は征服を記念して設立され、マチュ・ピチュはパチャクテクによるウルバンバ渓谷(Urubamba Valley)の征服を記念するために建てられたかもしれません。パチャクテクの系統の皇帝と構成員は、これら地方領地内に建てられた精巧な宮殿に季節限定で居住しましたが、家臣の従者は宮殿の施設を維持するために残されました。ウルバンバ渓谷は王室領にとって好適地で、マチュ・ピチュとピサック(Pisac)とオリャンタイタンボ(Ollantaytambo)と他の数十ヶ所は、排水区域で確認されてきました。チェクオック(Cheqoq)など一部の王室領には宮殿がありませんでしたが、トウモロコシ栽培や土器製作や塩採掘など王族(panaca)にとって経済的役割を果たしました。

 王族にはヤナコーナ(yanacona)と呼ばれる人々が仕えており、ヤナコーナは民族的に非インカ人で、インカ王族の日用品やそのミイラやその客人の世話のため、永続的に新たな土地に移住させられました。ヤナコーナは、一般の人々と比較して名誉と考えられており、これは、王族や奢侈品などの物質的利益への近さに現れています。ヤナコーナは、王室領の創設者の死後でさえ、インカ皇帝により征服された土地から連行されたか、他の王族により贈り物として捧げられました。男性だったヤナコーナは、アクリャ(aclla)として知られる女性階級から妻を迎えたようで、アクリャとは、民族集団から切断され、特別な施設で教育された、「選ばれた女性」でした。

 マチュ・ピチュには年間を通じて、数百人の永住的な家臣(ヤナコーナとそのアクリャ)が住んでおり、最大数の季節には、さらに多くの家臣やインカ王族の構成員やその客人が滞在したでしょう。無傷の建築物から判断すると、マチュ・ピチュにおいて一度に750人以上が暮らしていた可能性は低そうです。

 宮殿を訪れたインカのエリート個体は首都のクスコに埋葬されましたが、ヤナコーナとそのアクリャは通常、宮殿の壁の外にある墓地に埋葬されました。同位体と骨学と遺物の研究から、この従者集団にはかなりの多様性があった、と示唆されますが、これらの研究は、住民がどこから来たのか、それぞれどのように関連していたのか、その地位的敵および民族的背景が生活および埋葬様式にどのように影響を及ぼしたのか、という問題の回答は検定的でした。本論文は、マチュ・ピチュの宮殿周辺に埋葬された個体群の大規模な標本の古代DNA解析を提示し、これらの問題に答え始めます。本論文はさらに、比較の目的で、マチュ・ピチュと同年代になる、インカの首都クスコおよびその近隣の遺跡で発掘された個体群の古代DNAの結果を提供します。は暮らして埋葬された。これらの標本は、マチュ・ピチュのヤナコーナ集団の顕著なゲノム組成と、クスコ住民のかなりのゲノムの変異性を浮き彫りにします。


●マチュ・ピチュの住民

 マチュ・ピチュは、ウルバンバ川を見下ろす尾根上の海抜2430mの地点にあり、アンデス山脈の東斜面となるペルー南部に位置します(図1A)。ウルバンバ/ビルカノータ(Vilcanota)排水区域は、豊かな土地や良好な気候や首都への近さのため、多くのインカの支配者により地方宮殿の好適地でした。クスコから75kmに位置するマチュ・ピチュは、乾季(5月~10月)にはとくに魅力的だったでしょう。支配者とその家族および客人は、マチュ・ピチュの熱帯気候および植生と、冬季にはクスコで発生する夜の霜がないことを高く評価したでしょう。歴史的な記述によると、インカ王族は王室領で広範な活動を行ない、その中には、広場での饗宴や歌や踊り、王室領の宮殿周辺の森林地帯での狩猟が含まれており、スペインの年代記も、天上の出来事や神聖な地理や農耕の豊穣と関連した、インカの司祭により行なわれた多くの宗教的儀式を記載しています。インカ帝国皇帝および/もしくはその代理人も、マチュ・ピチュを訪れたさいにはこれらの儀式に参加したでしょう。以下は本論文の図1です。
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 26個体の人骨と歯の標本に基づくマチュ・ピチュ遺跡からの骨学的収集に関する最近の放射性炭素研究では、マチュ・ピチュは1420~1532年頃に居住されていた、と結論づけられました。その後、同じ加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)測定が、ベイズ単一相モデルを用いて解析され、得られた確率は、1400~1435年から1470~1520年頃(95.4%)の居住を示唆しています。

 1912年のエール大学ペルー科学探検隊による発掘は、少なくとも174個体の遺骸を含む107ヶ所の埋葬を記載しています。これら単純な埋葬には複数個体が含まれる場合もあり、大きな丸石の下もしくは自然の張り出しの下の保護された粗い石壁を備えた浅い玄室にありました。多くの埋葬には副葬品が欠けていたか、少ない土器もしくは他の人工遺物しか含まれていませんでした。土器の多くは、ペルー北岸やチチカカ周辺地域やチャチャポヤス(Chachapoyas)の、地方のインカもしくは非インカ様式でした。対照的に外来の土器は、マチュ・ピチュ遺跡において埋葬以外の状況では稀か存在しません。死者は、さまざまな種類の頭蓋変形の証拠も示し、クスコもしくはウルバンバではなく、チチカカ湖や沿岸と関連した形態が含まれました。骨格および共伴した副葬品の性質から調査者は、マチュ・ピチュでエリートに仕えた家臣や従者の遺骸は埋葬洞穴に収められた、と仮定しました。

 マチュ・ピチュのほとんどの埋葬は遺跡の周辺沿いで見つかっており(図1B)、4クラスタ(まとまり)に分類され、1号~4号墓地と呼ばれます。埋葬土器、骨格形態および頭蓋変形、炭素(C)および窒素(N)の安定同位体と、鉛(Pb)ストロンチウム(Sr)と酸素(O)の同位体に関する追加の研究は、マチュ・ピチュ埋葬集団における高度な多様性を論証し、埋葬された個体群はヤナコーナとそのアクリャだった、との解釈と一致します。しかし、埋葬内容などの文化的識別子は、個体の故地の指標ではなく、遺跡で獲得されたかもしれません。個体自身の同位体手法には、これらの個体の由来する祖先地域の決定において限界があります。たとえば、高度なSr同位体の変動性と、地域的および汎地域的同位体地図では、推測に限界があります。インカの専門家であるトレンセ・N・ダルトロイ(Terence N. D'Altroy)は、利用可能な証拠全ての再検討後、マチュ・ピチュにおける領地複合の人々はおもにクスコの南側の地域出身である、と結論づけたものの、より具体的な特定は躊躇しました。

 この研究は、マチュ・ピチュに埋葬された個体群および/もしくはその祖先の起源をさらに解明し、その遺伝的歴史と多世代関係の可能性に光を当てるために、行なわれました。この目的のため、1912年に発掘されたマチュ・ピチュの4ヶ所の墓地区域全てに由来する34個体から、ゲノム規模の古代DNAデータが生成されました。標本は、頭蓋改変様式と同位体を調べた上述の先行研究により生成されたデータとの比較を最適化するために、選択されました。クスコ南部地域の現代の都市であるクスコとカナマルカ(Kanamarka)の近隣に位置するウルバンバ渓谷で発見された36個体について、さらにゲノム規模データが生成されました。歯からDNAが抽出され、120万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)の標的一式で濃縮されました。各個体のDNAデータは、低い核およびミトコンドリアDNA(mtDNA)汚染率と古代DNAに特徴的な損傷率を示します。これらのデータは、南アメリカ大陸の利用可能な刊行された古代人および現代人のゲノムとともに分析されました。さらに、ウルバンバ渓谷およびクスコの遺跡に埋葬された15個体と、マチュ・ピチュに埋葬された26個体について放射性炭素年代が生成され、その全ては遺伝学的分析に含められました。


●インカ帝国期に先行するウルバンバ渓谷とクスコの祖先系統と遺伝的な人口構造

 先スペイン期と現在のゲノム多様性の研究から、アンデス中央部およびその連接地域における地域的な遺伝的下部構造は少なくとも2000年間持続してきた、と示唆されています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。これにより、その期間においてより広範な地理的領域と関連するゲノム祖先系統の特定が可能になり、たとえば先行研究(関連記事)の命名法に従うと、ペルー北部沿岸やペルー南部高地やチチカカ盆地です(図1A)。この研究の前には、16世紀の記録が、インカの都市クスコと、皇帝ワイナ・カパック(Huayna Capac)に属するウルバンバの王室領であるユカイ(Yucay)の残りのヤナコーナにおける民族多様性を記録していますが、この主張は、限定的なゲノム規模の古代DNAがウルバンバ渓谷とクスコの個体群で報告されてきたので、評価できません。

 ウルバンバ渓谷のオリャンタイタンボ(Ollantaytambo)遺跡(1040~1380年頃)とクスコのサン・セバスティアン(San Sebastian)遺跡(1300~1400年頃)に埋葬された本論文の標本の個体群から得られた放射性炭素年代により、これらの埋葬はインカ帝国の拡大とマチュ・ピチュの建設に先行する、と示唆されます。これらの個体は皇帝パチャクテクの統治前にクスコ地域に居住していた集団に由来しますが、個体数は限られているものの、インカの製作と占領のため起きたかもしれない遺伝的変化の調査を可能とする、情報源の1つかもしれません。f4検定を用いて集団内の遺伝的均質性を確証後に、各遺跡の個体はオリャンタイタンボ_後期中間期(Late Intermediate Period、略してLIP)およびセバスティアン_LIPと名前の集団に統合されました。f4形式(ムブティ人、X;オリャンタイタンボ_LIP、サンセバスティアン_LIP)の統計的検定から、オリャンタイタンボ遺跡の個体群はサン・セバスティアン遺跡の個体群よりも、祖先系統集団ペルー南部高地の古代の個体群と多くのアレル(対立遺伝子)を有意に共有している、と示唆されます。

 さらに、qpWaveモデル化から、オリャンタイタンボ_LIPとペルー南部高地は祖先系統の1供給源と一致する、と明らかになります。しかし、サン・セバスティアン遺跡の個体群は、qpADM を用いると、80±8%のペルー南部高地古代人祖先系統と、チチカカ盆地古代人集団と関連する20±8%の祖先系統間の2方向混合として最適にモデル化されます。これは予測されており、クスコ渓谷とチチカカ盆地にはインカ帝国のずっと前に文化的および経済的つながりがあったからです。結論がおもに土器様式に基づいていながら、クスコおよびチチカカ湖地域の先スペイン期の社会がインカ帝国の出現前に2000年以上強いつながりを維持していた、とルイス・ランブレラス(Luis Lumbreras)とチャールズ・スタニッシュ(Charles Stanish)の両者は別々に観察しており、ペルーとボリビア北部の南部高地における長距離の黒曜石交換の研究と一致します。


●マチュ・ピチュの埋葬集団へのゲノムの洞察

 中央および南アメリカ大陸のより広い状況におけるマチュ・ピチュとクスコの個体群の遺伝的多様性と類似性を調べるため、参照としてこれらの地域の現代人のゲノムを用いて主成分分析(principal component analysi、略してPCA)が実行され、この研究で得られたゲノムと他の刊行された古代人のゲノムがこれら2軸に投影されました(図2)。その結果、マチュ・ピチュの個体群はアンデス高地のだけではなくペルーの北部から南部の個体群はともクラスタ化する(まとまる)、と分かりました。さらに、マチュ・ピチュの6個体(MP3a、MP4b、MP4d、MP4e、MP4f、MP61)はペルー中央部および北西部のアマゾン地域およびエクアドルコロンビアのアマゾン地域の現代の個体群と固まります。以下は本論文の図2です。
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 f3統計を用いて計算された共有された遺伝的浮動の個体の特性は、PCAで観察された遺伝的類似性の多様体を反映しており、一部の個体(たとえば、MP3a、MP4b、MP4d、MP4e、MP4f、MP61、MP107b)はアマゾン北西部もしくは南西部地域の集団と最も多い遺伝的浮動を共有し、一部の個体(MP9b、MP31a、MP63、MP78)はエクアドルとコロンビア南部の現代のケチュア(Kichwa)語族話者への明確な遺伝的牽引を示します。したがって、充分なデータ(10万以上のSNP)が得られたマチュ・ピチュの個体群(30個体)のほとんどは、本論文の統計的解像度の限界までf4統計(図3)を用いて、ウルバンバ渓谷の先インカ期住民(オリャンタイタンボ_LIP)もしくはインカ帝国の首都であるクスコの帝国以前の住民と比較すると、他地域の沿岸もしくは高地アンデス祖先系統および近隣の熱帯林祖先系統群と過剰なアレルを共有しています(図1)。以下は本論文の図3です。
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 qpWaveとqpADMを用いて、マチュ・ピチュの家臣のいずれかが、地域的なアンデス祖先系統クラスタおよび非アンデス南アメリカ大陸祖先系統クラスタ(関連記事)を表す集団のどれかとの同じ祖先人口集団の共有として、もしくは2者の2方向混合としてモデル化できるのかどうか、検証されました(図4)。統計的解像度の限界まで検証すると、30個体のうち17個体が上述の地域的な祖先系統群の1つと共有される単一の祖先供給源と関連しているかもしれない、と分かりました(図4)。これらの個体のうち6個体(20%)は全て生物学的に女性で、ペルー北部および中央部西方アマゾン地域の現代人集団と関連する祖先系統を示します。追加の検定から、これらの個体は、ペルー北西部アマゾン地域に暮らす集団とよりも、マチゲンカ人(Matsigenka)やシピボ人(Shipibo)やピロス人(Piros)やアシャニンカ人(Ashaninka)など、ペルー中央部アンデス地域の東山麓沿いに暮らす集団とより多くの浮動を共有している、と示唆されます。アシャニンカ人はマチュ・ピチュと地理的に最も近い現在の熱帯林集団の一つで、ウルバンバ下流排水区域およびマチュ・ピチュの北方に位置するフニン(Junín)およびウカヤリ(Ucayali)県の低地に暮らしています(図1)。以下は本論文の図4です。
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 マチュ・ピチュの4個体(男性3個体と女性1個体)は、ペルー北部および中央部沿岸の先スペイン期および現代の個体群と関連する祖先系統を示します。男性1個体はサンセバスティアン_LIPと同じ祖先系統を共有しており、クスコ地域を表しているのに対して、6個体のみがウルバンバ渓谷の祖先住民(オリャンタイタンボ_LIP)と関連する祖先系統およびより広くペルー南部高地祖先系統群を示します。これは、これら6個体が地元民だったことを必ずしも意味しません。それは、地域的な祖先系統クラスタペルー南部高地には、アヤクーチョ(Ayacucho)およびワンカベリカ(Huancavelica)の個体群が含まれており、この一群の一部の個体は、ナスカ(Nasca)排水区域の上流のオリャンタイタンボの西方最大260kmの遺跡で見つかったからです(図1)。

 本論文は残りの13個体について、2方向混合モデルを適合させました。多くの場合、複数の競合モデルが観察され、いくつかはアンデス供給源が適合しましたが、非アンデス供給源はさほど問題がありませんでした。SNPの数が少ない場合の明確なアンデス供給源の決定の困難さは、アンデス地域集団間の低い遺伝的分化により最適に説明され、そのほとんどはごく最近の祖先系統を共有しています(関連記事)。男性5個体は、北部高地と南部高地もしくは南部高地とチチカカ盆地など、アンデス供給源間の混合としてモデル化されました(図3)。他の全個体については、最高の裏づけのあるモデルは、アンデスと非アンデスの供給源間の混合を示唆します(図4)。

 個体群のうち2個体についてモデルは、上述のアマゾン祖先系統の6個体についての祖先系統と密接に関連するペルーアマゾン地域の供給源(30~37%)との、アンデス中央部祖先系統(63~70%)の混合を示唆します。しかし、最適なモデルが、アンデス祖先系統(30~40%)と、チャネ人(Chane)やグアラニー人(Guaraní)やカリティアナ人(Karitiana)やシャヴァンテ人(Xavánte)など、アマゾン南東部およびボリビアとブラジルとアルゼンチンとパラグアイのグランチャコ(Gran Chaco)地域の集団と関連する祖先系統(60~70%)の混合だった、2個体もいます。観察された混合が、インカ期の混合事象ではなく、ボリビアのアンデス地域の東坂の集団など、標本抽出されていない地域の祖先系統を反映していることは、除外できません。考古学および民族誌的資料は、ボリビアのアンデス地域の山麓におけるインカとチャネ人の祖先との間の相互作用を確証し、両モデルが妥当となります。

 4個体(女性3個体と男性1個体)は、現在のエクアドル東部のケチュア語族話者と祖先系統を共有するゲノム供給源と、ペルー北部沿岸の祖先系統との間の混合としてモデル化できます(図4)。追加の検定から、これらの個体は遺伝的に均質と示唆されたので、これらの個体はまとめられ、統計的能力が増強され、46±6%のエクアドル東部ケチュア語族話者関連祖先系統と、54±6%のペルー北部沿岸祖先系統の混合を考慮したモデルが、最高のP値をもたらす、と分かりました。しかし、他のアンデス供給源(北部高地と中央部沿岸)を考慮する代替的なモデルも、同様に裏づけられます。エクアドル高地もしくはエクアドル沿岸に暮らす古代人もしくは現代人の刊行されたゲノムはなく、観察された混合が最近の混合事象を示唆しているのかどうか、あるいはエクアドルのどこかの標本抽出されていない集団の遺伝的祖先系統を反映しているのかどうか、評価する能力を制約します。上述の事例と同様に、エクアドルの人口集団とインカとの間の集中的な相互作用が、代替案を可能とします。

 本論文の結果に基づくと、マチュ・ピチュは、条件付き異型接合性として測定した場合、アンデス地域の現在の農村よりも遺伝的にかなり多様でした(図3)。マチュ・ピチュのヤナコーナでは、南方の境界を表しているチリ中央部/アルゼンチン西部を除いて、インカ帝国を構成する全地域を表す遺伝的祖先系統が観察されます。この観察は、マチュ・ピチュの埋葬に関する以前の分析と一致し、その分析では、多くの個体は地元ではない同位体痕跡(SrとO)もしくは文化的指標を示し、在来の文化伝統と関連する指標を示さなかった、と示唆されました。

 マチュ・ピチュで観察された多型部位における変異率は、遺跡の居住を通じて一貫して高いままだったようです(図2)。非地域(オリャンタイタンボとクスコ)的な遺伝的祖先系統と地元ではないストロンチウム同位体⁸⁷Sr/⁸⁶Srは、放射性炭素年代の全体にわたって埋葬集団で見られます(たとえば、個体MP63とMP107)。遺伝的多様性推定値と組み合わせると、このパターンから、マチュ・ピチュ共同体へのヤナコーナとそのアクリャの追加は皇帝パチャクテクの死後も続いた、と示唆されます。これは、ヤナコーナが創設者の死後に王室領に贈られた、という歴史的証拠と一致します。それは、王室領を創設した人物のミイラが、王室領の所有者として認識され続け、他系統のミイラおよび客人をもてなす、と期待されたからです。

 生物学的に男女の個体の遺伝的祖先系統を比較すると、有意な違いが観察され、ほとんどの男性個体は高地と関連する祖先系統を示しますが、女性はより多様な非高地祖先系統を示します(図4)。マチュ・ピチュで観察された遺伝的多様性も、ペルー中央部沿岸のチンチャ渓谷(Chincha Valley)からのミトマ(mitimaes、つまりインカ国家により民族集団が強制的に新たな土地に定住させられること)の唯一遺伝学的に研究された共同体について観察された多様性(関連記事)を超えます。このパターンは、マチュ・ピチュの埋葬集団が、ミトマではなくヤナコーナとそのアクリャで構成されていた、との結論と一致します。マチュ・ピチュの最初期居住段階における、アマゾン地域(たとえば、個体MP4b)やエクアドル(たとえば、個体MP9b)やペルー北部(たとえば、個体MP42b)と関連する祖先系統をしめす個体の存在は、インカ帝国の拡大が歴史資料に由来するモデルよりも早くもしくは異なって起きたことを示唆しているかもしれません。この観察は、1945年以降に優勢な歴史年表は、クスコと遠いインカの地方の最近の考古学的証拠の観点では薄弱である、というインカの専門家の間で増えつつある見解と一致しています。

 たとえば、アンデス東部山麓沿いのアシャニンカ人や他のアラワク(Arawakan)語族話者集団と関連する祖先系統を示しス個体群の初期の存在は、興味深いものの予測されています。考古学と民族史と言語学と遺伝学の資料から、この地域の住民はインカの前にさえ近隣の高地と相互作用している、と示唆されており、最近の研究は、紛争と征服が優占するのではなく、インカとこれらの集団との間の補完的関係を示唆しています。この祖先系統を示すマチュ・ピチュで埋葬された全個体は生物学的に女性と決定しており、一部は好意的な個体に妻とし贈られたかもしれない、と示唆され、これは歴史資料で記録されている過程です。

 インカと、カペルー北部沿岸のそれ以前のチムー王国の人口集団とナリス人(Cañaris)などエクアドルの集団との間の関係はより好戦的で、これらの地域の祖先系統を有するマチュ・ピチュの個体群の一部は、金属加工を得意とする技能専門家だったヤナコーナとしての統合により説明できるかもしれません。未完成の金属物体と製作物の残骸の特定により考古学者は金属加工を、マチュ・ピチュに存在したものの、多くの他の王室領では明らかに欠如している活動の一つとして特定できます。


●マチュ・ピチュにおける日常生活への影響

 骨学的分析から、マチュ・ピチュのヤナコーナとそのアクリャは比較的快適な生活を送っていた、と示唆されています。ヤナコーナとそのアクリャは、重労働となる農耕や建設事業には関わっていませんでした。ヤナコーナとそのアクリャは、戦争により頻繁に生じる負傷もしくは他の病状を示さず、子供期の病気や食糧不足により生じる成長障害も見られませんでした。注目すべきことに、ヤナコーナとそのアクリャの多く(67個体)は成熟期(15~49歳)まで生き残り、かなりの人数が老年期(50歳以上)に達しました。上述のように、その多様な民族的背景は、墓における外来の土器や金属製道具の頻繁な存在により示唆されていました。修理の証拠を示した多数の容器から、これら舶来品は恐らくその故地から持ち込まれ、ヤナコーナとそのアクリャにとって特別な意味を持ち続けた、と示唆されます。

 先行研究では、マチュ・ピチュの4ヶ所の墓地は全て、遺跡の居住期間にわたって使用されており、同じ洞穴の複数の埋葬が数十年にわたった、と確証されてきました。本論文の分析から、異なる遺伝的祖先系統の個体群が同じ墓地に埋葬され、一部の事例では、埋葬洞穴4号および42号のように、同じ洞穴に埋葬された、と示されます(図1および図4)。生物学的近縁性について検証すると、1親等の親族が1組だけ見つかり、これは母と娘の組み合わせである可能性が高く、単一の洞穴に埋葬されていました(MP4bとMP4f)。核DNAとmtDNAの両方から、調べられた他の個体は、同じ場所にともに埋葬されている場合でさえ、より密接な家族関係を共有していなかった、と示唆されます。本論文の観察から、家臣の遺伝的祖先系統も祖先の民族性も、埋葬パターンの構築において主因ではない、と示唆され、これは、単一の共通の埋葬慣行一式がマチュ・ピチュでは行なわれていた、という以前の観察と一致する結論です。さらに、これらの調査結果は、人々はマチュ・ピチに、共同体もしくは拡大家族としてではなく、個体として到来した、という結論をいっそう裏づけ、これは歴史的記述に基づいてヤナコーナとそのアクリャについて予測されたパターンです。

 マチュ・ピチュの家臣のゲノム史からさらに、祖先系統もしくは民族性がその日常生活や生殖の選択を制約しなかった、と示唆されます。数人の家臣は、多様な地理と関連する遺伝的祖先系統の混合を示します。一部の事例では、そうした混合パターンは現時点で標本抽出されていない地域集団の祖先系統を反映しているかもしれませんが、他の事例は、マチュ・ピチュにおいて共同体を構成していたさまざまな祖先系統の個体間の交配の結果(たとえば、MP48b、MP50a、MP51、MP77)のようです(図4)。さらに、文化やゲノムや地球化学の痕跡と関連する地理的領域は一部の個体では一致しない、と観察されます。たとえば、個体の生活史の複雑さは、同位体分析とその痕跡の現時点の解釈により示唆されます(図5)。以下は本論文の図5です。
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 母と娘の組み合わせ(MP4bとMP4f)の事例では、両個体ともアマゾン祖先系統で、推定上の母親(個体MP4b)は、アマゾン低地と関連する地元ではないストロンチウム同位体⁸⁷Sr/⁸⁶Sr痕跡を示しており、これはその遺伝的祖先系統と一致します。しかし、娘(個体MP4f)は、より広い高地もしくはアンデス沿岸地域と一致する痕跡を示します。外来の高地ではない祖先系統もしくは混合祖先系統の他の個体は、マチュ・ピチュに来る前に、調べられた歯が形成されて萌出する若い頃(7~17歳)には高地で暮らしていた、と示唆する⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比を示します。

 埋葬分布パターンおよび埋葬分析ととともに、本論文のゲノム解析から、マチュ・ピチュの家臣共同体は多様で、その生活はおもに民族性もしくは地域的背景により体系化されていなかった、と明らかになります。さまざまなゲノム背景の人々が同じ墓地区域に埋葬され、時には同じ洞穴にさえ埋葬されました。時には相互にたいへん遠い地域からの混合したゲノム背景の個体数から判断すると、ヤナコーナとそのアクリャでは、ゲノム背景が配偶者選択と子供を産むさいのおもな決定要因ではなかったようです。もちろんゲノム祖先系統は意識的分類ではなく、単に地域的な繁殖史と他の進化的過程の産物であり、必ずしも経験してきた自己認識を反映していません。

 残念ながら、本論文で報告された分析は、地方の宮殿が建てられたインカの王族とその客人の遺伝的独自性について、何も語りません。これらエリート個体群はクスコに暮らしており、マチュ・ピチュにずっと住んだり、マチュ・ピチュに埋葬されたりすることはなかったでしょう。固有の制約にも関わらず、本論文の非エリート個体群の分析から、ゲノム情報は考古学および民族史の資料と組み合わせて、過去に利用できたものよりもマチュ・ピチュにおける日常生活のより微妙で包括的な見解を明らかにできる、と論証されます。


●マチュ・ピチュの結果の地域的背景

 マチュ・ピチュの結果とは対照的に、ウルバンバ渓谷の他の遺跡とクスコ地域で標本抽出された個体のほとんどはPCAにおいて、ペルー南部高地およびチチカカ盆地の他の先スペイン期および現代の個体群とクラスタ化します(図2)。カナマルカとトロントイ(Torontoy、聖なる谷)の少数の個体は、ペルー北部沿岸の個体群と最も密接で、サクサイワマン(Sacsahuaman)とトロントイの一部の個体はチチカカ盆地の先スペイン期および現代の個体群と最も密接なようです。これらの遺伝的類似性は、f3統計にも反映されています。f4形式(ムブティ人、X;オリャンタイタンボ/サンセバスティアン、ウルバンバ/クスコ)のf4統計を計算すると、それらの遺跡の数個体/集団は、高地、とくにペルー北部高地もしくはチチカカ盆地の他の外来集団と過剰なアレルを共有している、と観察されます。

 クスコの3ヶ所の遺跡、つまりクシカンチャ(Kusicancha)とカサ・コンチャ(Casa Concha)とクォタカッリ(Qotakalli)の7個体は、サン・セバスティアンの初期クスコ個体群と同じ祖先系統を共有しており、qpADMを用いると、後者と同様に、ペルー南部高地(70~80%)とチチカカ盆地(20~30%)の祖先系統間の2方向混合としてモデル化できます。クスコのクサイワマンの主要なインカの儀式中心地の他の4個体は、同じ2祖先系統供給源を示すものの、より高い割合(60%程度)のチチカカ盆地関連祖先系統を示します。

 別の1個体は、混合していないチチカカ盆地関連祖先系統を示します。クスコもしくはその近くの遺跡に由来する17個体のうち13個体は、チチカカ盆地に暮らす集団内で観察されたゲノム祖先系統とのある程度の類似性を示します。サン・セバスティアンと他のクスコの遺跡で観察される祖先系統につながる混合事象の年代測定のための努力は全て、申請できる結果をもたらしませんでした。しかし上述のように、考古学的記録から、クスコとチチカカ盆地との間の相互作用は、すでに中期形成期(紀元前1500~紀元前500年頃)には存在していた、と示唆されます。

 クスコの1個体のみが、ペルー南部高地/オリャンタイタンボ祖先系統を示しますが、他の数個体はペルー北部高地と関連する祖先系統をある程度示します。クスコの南方にあるカナマルカの農村のインカ集落の個体(図1)は全員、ペルー南部高地/オリャンタイタンボ祖先系統を示し、例外は、エクアドルのケチュア語族話者人口集団と関連する祖先系統と、マチュ・ピチュの本論文の標本(たとえば、個体MP63)における家臣数個体で特定されたペルー北部沿岸祖先系統と関連する祖先系統の、同じ混合を共有する1個体です。

 要するに、歴史的記録から予測されるように、インカのクスコの人口集団は多様でした。しかし、マチュ・ピチュの家臣集団がインカ帝国全域からの祖先系統を示すのに対して、クスコ住民の本論文の標本で観察された祖先系統は、ほぼペルー高地およびチチカカ盆地と関連しています(図6)。この対照は、本論文におけるクスコの限定的な標本の結果かもしれません。クスコは、10万人以上の住民がいる複雑な都市中心地でした。クスコ市のより多くの区域からより多くの標本が得られれば、より大きなゲノム多様性の証拠を得られるかもしれない可能性は高そうです。それにも関わらず、これらの違いは、クスコとマチュ・ピチュがタワンティン・スウユ内で有していた異なる構造と機能の現れだった可能性もあります。クスコとマチュ・ピチュ両方におけるゲノム多様性は、ウルバンバ渓谷のパウカルカンチャ(Paucarcancha)やパタリャクタ(Patallacta)など農村の支援集落に暮らす集団の遺伝的構成とはひじょうに対照的で、そうした農村集落では、個体群はオリャンタイタンボの個体群とずっとよく似た、在来祖先系統だったようです。以下は本論文の図6です。
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 歴史的記録が示唆するように、インカの遺跡群の人口統計学的および遺伝学的構造は、帝国内のその機能により決定されましたが、古代DNA解析は、マチュ・ピチュの家臣やクスコの住民に存在したゲノム多様性の程度に関する、より詳しくて微妙な見解を提供します。マチュ・ピチュにおけるインカ帝国全体からの広範なゲノム背景の現れと、それらが生死においてどの程度混合しているのかは、以前には知られていませんでした。森林性のアンデス東部斜面とアマゾン低地の複数地帯からの個体群、とくに女性の強い存在は予期せぬ結果で、それは、インカ帝国の熱帯林集団の役割に関する追加の調査の必要性を示します。


参考文献:
Salazar L. et al.(2023): Insights into the genetic histories and lifeways of Machu Picchu’s occupants. Science Advances, 9, 30, eadg3377.
https://doi.org/10.1126/sciadv.adg3377

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