「在日」にとっての古代史とは何であったのか
表題の論文(李., 2022)を読みました。本論文は、高松塚古墳の壁画発見の大々的報道(1972年3月21日)を契機とする、いわゆる「古代史ブーム」において、金達寿氏と李進熙氏が果たした役割に焦点を当てるとともに、韓国の学界状況も解説しており、不勉強な私にとってはたいへん有益でした。過去の韓国の学界状況について、韓国の代表的な古代史研究者である李基東氏から著者が直接的に話を聞いたとのことで、この点でも本論文は貴重です。
1970年代の韓国の学界では、古代日本の帰化人(渡来人)問題や古代日朝関係史や朝鮮半島南部支配問題(任那日本府問題)について、ほとんど関心の対象ではなかったそうです。伽耶もしくは任那を本格的に取り上げた論文や本も、1970年代後半までなく、金廷鶴氏の『任那と日本』(小学館、1977年)がその嚆矢となるそうですが、同書は日本語で発表され、朝鮮語では発表されず、韓国や日本の伽耶研究史でもほとんど引用されていない、と指摘します。
本論文は、金達寿氏や李進熙氏など1970年代における在日の問題提起が、日本での「古代史ブーム」の最中における「在日の古代史」として、当時の日本社会の文脈に大きく依拠しており、在日の問題意識に支えられていたので、当時の韓国の学界では必ずしも受容される文脈がなかった、と指摘します。金達寿氏や李進熙氏などの見解は、戦後日本社会でも根強く残っていた「皇国史観の残滓」や「朝鮮に対する先入観」や「侵略史観の土壌」への対抗として、「東アジアの視野にたって古代日本の実像を考え」ようとしていた日本の「市民」に受け入れられ、それは多分に日本社会の文脈に沿ったものだった、というわけです。ただ本論文は、金達寿氏や李進熙氏の見解が韓国の非専門家層には広く受け入れられており、韓国において報道が学界に及ぼした影響も指摘します。
一方、北朝鮮においては戦前の日本人研究者の学説に対する徹底的な批判が行なわれ、金錫亨氏により、紀元後3世紀末以降に朝鮮半島から日本列島に渡った移民が各地に分国を形成し、故国と連携を維持しつつ、諸勢力が統合され帝紀、7世紀前半に大和朝廷が成立した、との見解が提示されました。日本が朝鮮半島に「進出」して朝鮮半島の一部(任那など)を支配したのではなく、その逆で、日本列島こそ朝鮮半島起源の人々の分国(コロニー)があった、というわけです。古代日本による朝鮮半島(の一部の)支配を裏づける根拠とされてきた広開土王(好太王)碑についても、韓国では読み直しが進み、渡海したのは倭ではなく高句麗だった、と主張されました。
金錫亨氏の学説そのものは、実証性に問題があるとして日本の学界では斥けられましたが、これにより古代日朝関係史の再検討が活発になり、金達寿氏は1970年以降、「帰化人」を「渡来人」と訂正するよう提唱し、これは日本社会に大きな影響力を有した、と言えるでしょう。李進熙氏は、韓国における広開土王碑文の読み直しを問題にせず、広開土王碑文が近代において日本の陸軍参謀本部により改竄された、と主張しました。こうした金達寿氏や李進熙氏の主張が当時の在日を大いに鼓舞するところはあった、と本論文は指摘します。ただ本論文は、こうした日本の通説を転倒させた仮説の「反動」が大きかったことも指摘します。
金達寿氏と李進熙氏に代表される「在日の古代史」は1990年代後半以降急速に色褪せていき、現在の視点から問題となるのは、日本列島の古代における「文明化」について、当時の歴史的状況を具体的に考慮することなく一方的に朝鮮半島からの渡来人の役割のみを強調すれば、近代における日本による朝鮮半島の植民地支配の正当化につながるかもしれない、と本論文は指摘します。歴史認識や歴史観をめぐる問題の複雑さが、日本列島と朝鮮半島に関しても当てはまる、と言えるでしょう。
本論文は広開土王碑文改竄説をやや詳しく取り上げ、韓国の学界の問題点を指摘します。それは、韓国の歴史学界では、戦前日本の研究を否定すれば真実が現れる、といった単純化がまかり通っているのではないか、というものです。歴史研究に対する判断能力を有するとは思えない国会(これは韓国に限らないでしょうが)を「市民」が動かし、研究者の長年の成果を否定し、それらの廃棄物を処分することが現実に起こっており、そうした陰謀論に基づく古代史への発想が歴史研究を隘路に陥れているのではないか、というわけです。上述のように、1970年代の日本における「在日の古代史」への韓国の学界の反応は鈍かったものの、一般層には広く浸透しており、それがやがて歴史研究を制約するところもあったようです。本論文はその具体例として、広開土王碑文改竄説を取り上げます。
広開土王碑文改竄説自体は、1980年代以降の日本と中国での研究により、今では否定されています。しかし、広開土王碑文改竄説については、著者が韓国で複数の中堅の古代史研究者に確認したところ、第一線で活躍している一部の研究者を除いて、ほとんどの研究者や一般国民は改竄説を信じているそうで、本書は李進熙氏の広開土王碑文改竄説が、日程陰謀論を増幅させ、とりかえしがつかない問題をもたらしてしまった、と評価しています。一方で、金廷鶴氏は『任那と日本』において、広開土王碑に関する南北朝鮮の学界での再解釈にも、李進熙氏による改竄説にも疑問を呈していました。
本論文は、広開土王碑文改竄説を主張する韓国の研究者の心理として、改竄を認めなければ、戦前からの日本の学界における仮説を認めることになるのではないか、との危機意識があるのだろう、と推測します。本論文は、広開土王碑には、高句麗側の功名な修辞が駆使されており、韓国と北朝鮮の研究者の多くはそれを認めようとしない、と指摘します。広開土王碑は単に広開土王の聖徳を誇る記念碑ではなく、広開土王が新たに創設した墓守人制度について詳しく述べ、その遵守を求めた法令文書であり、広開土王の軍事的功績を顕彰するため、その前には高句麗にとっての危機が強調された、というわけです。広開土王碑から倭による朝鮮半島における強大な支配を直ちに読み取ることには問題があり、そうした解釈を始めたのは、同時代の国際情勢を投影した近代日本で、そうした解釈を前提としてそれを民族主義的に読み替えるために、朝鮮半島でも無理な解読が行なわれた、と本論文は指摘します。
以上、本論文の内容についてざっと見てきました。現在でも韓国では、第一線で活躍している一部の研究者を除いて、ほとんどの研究者に広開土王碑文改竄説が信じられているのは意外でした。歴史は民族主義と相互補完的なところが多分にあり、歴史学の研究者といえどもそうした枠組みを相対化するのはなかなか容易ではないことも改めて窺えます。本論文は基本的に文献史学の問題を扱っていますが、日本列島と朝鮮半島に関しては、いわゆる先史時代も民族主義的観点から語られことが多いように思われ、私のような凡人が民族主義的観点を相対化するのは容易ではありません。
この問題については、古人類学的観点から最近取り上げましたが(関連記事)、改めて考えると、私見は日本と南北朝鮮両方の民族主義にとって都合が悪いとともに、それを都合よく利用することもできるでしょう。私見が日本と南北朝鮮の民族主義に与える影響は事実上皆無でしょうから、その点での責任はほとんど考えていませんが、学術的成果を民族主義的観点からご都合主義的に利用するようなことは、日本でも(おそらく南北朝鮮でも)珍しくありません。私の見識と能力ではなかなか困難ですが、私もそうした誤りをできるだけ少なくするよう、心がけねばなりません。
参考文献:
李成市(2022)「「在日」にとっての古代史とは何であったのか」『抗路』第10号P98-115(抗路舎)
1970年代の韓国の学界では、古代日本の帰化人(渡来人)問題や古代日朝関係史や朝鮮半島南部支配問題(任那日本府問題)について、ほとんど関心の対象ではなかったそうです。伽耶もしくは任那を本格的に取り上げた論文や本も、1970年代後半までなく、金廷鶴氏の『任那と日本』(小学館、1977年)がその嚆矢となるそうですが、同書は日本語で発表され、朝鮮語では発表されず、韓国や日本の伽耶研究史でもほとんど引用されていない、と指摘します。
本論文は、金達寿氏や李進熙氏など1970年代における在日の問題提起が、日本での「古代史ブーム」の最中における「在日の古代史」として、当時の日本社会の文脈に大きく依拠しており、在日の問題意識に支えられていたので、当時の韓国の学界では必ずしも受容される文脈がなかった、と指摘します。金達寿氏や李進熙氏などの見解は、戦後日本社会でも根強く残っていた「皇国史観の残滓」や「朝鮮に対する先入観」や「侵略史観の土壌」への対抗として、「東アジアの視野にたって古代日本の実像を考え」ようとしていた日本の「市民」に受け入れられ、それは多分に日本社会の文脈に沿ったものだった、というわけです。ただ本論文は、金達寿氏や李進熙氏の見解が韓国の非専門家層には広く受け入れられており、韓国において報道が学界に及ぼした影響も指摘します。
一方、北朝鮮においては戦前の日本人研究者の学説に対する徹底的な批判が行なわれ、金錫亨氏により、紀元後3世紀末以降に朝鮮半島から日本列島に渡った移民が各地に分国を形成し、故国と連携を維持しつつ、諸勢力が統合され帝紀、7世紀前半に大和朝廷が成立した、との見解が提示されました。日本が朝鮮半島に「進出」して朝鮮半島の一部(任那など)を支配したのではなく、その逆で、日本列島こそ朝鮮半島起源の人々の分国(コロニー)があった、というわけです。古代日本による朝鮮半島(の一部の)支配を裏づける根拠とされてきた広開土王(好太王)碑についても、韓国では読み直しが進み、渡海したのは倭ではなく高句麗だった、と主張されました。
金錫亨氏の学説そのものは、実証性に問題があるとして日本の学界では斥けられましたが、これにより古代日朝関係史の再検討が活発になり、金達寿氏は1970年以降、「帰化人」を「渡来人」と訂正するよう提唱し、これは日本社会に大きな影響力を有した、と言えるでしょう。李進熙氏は、韓国における広開土王碑文の読み直しを問題にせず、広開土王碑文が近代において日本の陸軍参謀本部により改竄された、と主張しました。こうした金達寿氏や李進熙氏の主張が当時の在日を大いに鼓舞するところはあった、と本論文は指摘します。ただ本論文は、こうした日本の通説を転倒させた仮説の「反動」が大きかったことも指摘します。
金達寿氏と李進熙氏に代表される「在日の古代史」は1990年代後半以降急速に色褪せていき、現在の視点から問題となるのは、日本列島の古代における「文明化」について、当時の歴史的状況を具体的に考慮することなく一方的に朝鮮半島からの渡来人の役割のみを強調すれば、近代における日本による朝鮮半島の植民地支配の正当化につながるかもしれない、と本論文は指摘します。歴史認識や歴史観をめぐる問題の複雑さが、日本列島と朝鮮半島に関しても当てはまる、と言えるでしょう。
本論文は広開土王碑文改竄説をやや詳しく取り上げ、韓国の学界の問題点を指摘します。それは、韓国の歴史学界では、戦前日本の研究を否定すれば真実が現れる、といった単純化がまかり通っているのではないか、というものです。歴史研究に対する判断能力を有するとは思えない国会(これは韓国に限らないでしょうが)を「市民」が動かし、研究者の長年の成果を否定し、それらの廃棄物を処分することが現実に起こっており、そうした陰謀論に基づく古代史への発想が歴史研究を隘路に陥れているのではないか、というわけです。上述のように、1970年代の日本における「在日の古代史」への韓国の学界の反応は鈍かったものの、一般層には広く浸透しており、それがやがて歴史研究を制約するところもあったようです。本論文はその具体例として、広開土王碑文改竄説を取り上げます。
広開土王碑文改竄説自体は、1980年代以降の日本と中国での研究により、今では否定されています。しかし、広開土王碑文改竄説については、著者が韓国で複数の中堅の古代史研究者に確認したところ、第一線で活躍している一部の研究者を除いて、ほとんどの研究者や一般国民は改竄説を信じているそうで、本書は李進熙氏の広開土王碑文改竄説が、日程陰謀論を増幅させ、とりかえしがつかない問題をもたらしてしまった、と評価しています。一方で、金廷鶴氏は『任那と日本』において、広開土王碑に関する南北朝鮮の学界での再解釈にも、李進熙氏による改竄説にも疑問を呈していました。
本論文は、広開土王碑文改竄説を主張する韓国の研究者の心理として、改竄を認めなければ、戦前からの日本の学界における仮説を認めることになるのではないか、との危機意識があるのだろう、と推測します。本論文は、広開土王碑には、高句麗側の功名な修辞が駆使されており、韓国と北朝鮮の研究者の多くはそれを認めようとしない、と指摘します。広開土王碑は単に広開土王の聖徳を誇る記念碑ではなく、広開土王が新たに創設した墓守人制度について詳しく述べ、その遵守を求めた法令文書であり、広開土王の軍事的功績を顕彰するため、その前には高句麗にとっての危機が強調された、というわけです。広開土王碑から倭による朝鮮半島における強大な支配を直ちに読み取ることには問題があり、そうした解釈を始めたのは、同時代の国際情勢を投影した近代日本で、そうした解釈を前提としてそれを民族主義的に読み替えるために、朝鮮半島でも無理な解読が行なわれた、と本論文は指摘します。
以上、本論文の内容についてざっと見てきました。現在でも韓国では、第一線で活躍している一部の研究者を除いて、ほとんどの研究者に広開土王碑文改竄説が信じられているのは意外でした。歴史は民族主義と相互補完的なところが多分にあり、歴史学の研究者といえどもそうした枠組みを相対化するのはなかなか容易ではないことも改めて窺えます。本論文は基本的に文献史学の問題を扱っていますが、日本列島と朝鮮半島に関しては、いわゆる先史時代も民族主義的観点から語られことが多いように思われ、私のような凡人が民族主義的観点を相対化するのは容易ではありません。
この問題については、古人類学的観点から最近取り上げましたが(関連記事)、改めて考えると、私見は日本と南北朝鮮両方の民族主義にとって都合が悪いとともに、それを都合よく利用することもできるでしょう。私見が日本と南北朝鮮の民族主義に与える影響は事実上皆無でしょうから、その点での責任はほとんど考えていませんが、学術的成果を民族主義的観点からご都合主義的に利用するようなことは、日本でも(おそらく南北朝鮮でも)珍しくありません。私の見識と能力ではなかなか困難ですが、私もそうした誤りをできるだけ少なくするよう、心がけねばなりません。
参考文献:
李成市(2022)「「在日」にとっての古代史とは何であったのか」『抗路』第10号P98-115(抗路舎)
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