繁田信一『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』
角川選書の一冊として、角川学芸出版より2006年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はおもに『小右記』に基づいて、王朝時代の天皇の一般的にはあまり知られていないだろう具体的な振る舞いと心境を叙述していきます。一条天皇については、これまで概説などで読んでいても忘れていたかもしれませんが、藤原道隆・伊周父子との確執について詳しく叙述されており、なかなか興味深い内容でした。伊周は、いかに一条天皇が愛する中宮定子の兄とはいえ、あまりにも強引な振る舞いが目立ち、一条天皇に忌避されたのも無理はないように思います。伊周は、父と叔父の道兼の死後、藤原道長との政争に敗れますが、本書はこれを、一条天皇が伊周を完全に見限っていたからだ、と指摘します。
円融天皇については、舅でもある藤原兼家への不信感が強調されています。一方で兼家の側は、懐仁親王(一条天皇)を産んだ自分の娘(詮子)を一向に皇后に立てようとしない円融天皇に対して、強い不信感を抱くようになり、円融天皇と兼家との関係は険悪でした。本書は、円融天皇に兼家に対する悪感情を植えつけたのは、兼家の兄である兼通だっただろう、と推測しています。円融天皇がそう信じた背景には、兼家が円融天皇の兄である冷泉天皇を婿としており、すでに王子(居貞親王)がいたからでした。兼家は自分を廃して居貞親王(三条天皇)を即位させるのではないか、と円融天皇は警戒していたわけです。兼家との対立により、円融天皇は朝廷において孤立することになり、退位を余儀なくされます。
上述のように円融天皇の妃ではあったものの皇后に立てられなかった詮子はその後、息子の懐仁親王(一条天皇)が即位すると皇太后の地位を与えられ、さらには上皇に准ずる扱い(女院)を受けるようになります(東三条院)。どちらも異例の事態でしたが、朝廷の実権を掌握する藤原兼家とその後継者である道隆の意向が押し通ったわけです。しかし、東三条院は兄の道隆を嫌っており、道隆の思惑通りには動かず、弟の道長に肩入れし、道長の政権獲得を後押しします。それを道長もよく認識していたことから、道長は東三条院の無理押しをたびたび聞き入れていたようです。
花山法皇は巡礼をめぐって一条天皇と対立しますが、この一連のやり取りはなかなか興味深く、一条天皇の家臣に対する酷薄さが窺えます。一方で、花山法皇はかなり放埓な人物だったようで、その従者たちの振る舞いを苦々しく思っていた人は多かったようです。本書は、花山法皇の抑え役となったのが藤原実資で、花山法皇は藤原実資を相談役として改心したかもしれないものの、それまでの言動から一条天皇を初めとして朝廷要人には警戒されており、それが巡礼をめぐる一条天皇との対立につながった、と指摘します。
藤原道長の娘である彰子は一条天皇に入内し、後に二人の天皇(後一条天皇と後朱雀天皇)の生母となり、朝廷において敬われましたが、入内時には数え年で12歳にすぎず、かなりの孤独感と緊張を味わっていただろう、と本書は推測します。一条天皇が上述の中宮定子を寵愛していたことはよく知られているでしょうが、本書は、その頃に一条天皇は中宮定子以外に藤原顕光の娘である元子にも執心しており、妊娠中の元子を呼び出したくらいで、彰子が一条天皇の寵姫になるのは難しかった、と指摘します。本書は、数え年で14歳にして立后された彰子が、天皇の正妻としての覚悟を決めたのは、定子の産んだ敦康親王を養子に迎えてからだろう、と推測します。彰子が後に天皇となる二人の皇子を出産後、道長にとって敦康親王は邪魔者となり、敦康親王には即位の可能性がなくなったため、彰子は父と対立するようになり、安易に父の意向に従わないことから、「賢后」と称せられるようになります。本書はその要因として、彰子の人柄が地味で、自己の権力をいたずらに誇示しなかったからだろう、と推測します。
三条天皇は即位時に数え年36歳で、当時としては異例の「高齢」での即位だった、と本書は指摘します。そもそも、36歳の時点で天皇位にあること自体、当時では稀なことでした。三条天皇と藤原道長が険悪な関係だったことは比較的よく知られているように思いますが、本書はその前提として、即位前の居貞親王(三条天皇)にとって、藤原道長はきわめて厄介な人物だと思い知らされる機会が多かったことを指摘します。三条天皇と道長の関係が決定的に悪化したのは、三条天皇が道長の娘である妍子を中宮としていたにも関わらず、道長の娘ではない娍子を皇后としたからでした。妍子の入内以前より、三条天皇と娍子との間には4人の皇子がいました。道長との対峙を決意した三条天皇ですが、眼病を患い、道長からの圧力には逆らえず退位し、息子たちが即位することもありませんでした。
円融天皇については、舅でもある藤原兼家への不信感が強調されています。一方で兼家の側は、懐仁親王(一条天皇)を産んだ自分の娘(詮子)を一向に皇后に立てようとしない円融天皇に対して、強い不信感を抱くようになり、円融天皇と兼家との関係は険悪でした。本書は、円融天皇に兼家に対する悪感情を植えつけたのは、兼家の兄である兼通だっただろう、と推測しています。円融天皇がそう信じた背景には、兼家が円融天皇の兄である冷泉天皇を婿としており、すでに王子(居貞親王)がいたからでした。兼家は自分を廃して居貞親王(三条天皇)を即位させるのではないか、と円融天皇は警戒していたわけです。兼家との対立により、円融天皇は朝廷において孤立することになり、退位を余儀なくされます。
上述のように円融天皇の妃ではあったものの皇后に立てられなかった詮子はその後、息子の懐仁親王(一条天皇)が即位すると皇太后の地位を与えられ、さらには上皇に准ずる扱い(女院)を受けるようになります(東三条院)。どちらも異例の事態でしたが、朝廷の実権を掌握する藤原兼家とその後継者である道隆の意向が押し通ったわけです。しかし、東三条院は兄の道隆を嫌っており、道隆の思惑通りには動かず、弟の道長に肩入れし、道長の政権獲得を後押しします。それを道長もよく認識していたことから、道長は東三条院の無理押しをたびたび聞き入れていたようです。
花山法皇は巡礼をめぐって一条天皇と対立しますが、この一連のやり取りはなかなか興味深く、一条天皇の家臣に対する酷薄さが窺えます。一方で、花山法皇はかなり放埓な人物だったようで、その従者たちの振る舞いを苦々しく思っていた人は多かったようです。本書は、花山法皇の抑え役となったのが藤原実資で、花山法皇は藤原実資を相談役として改心したかもしれないものの、それまでの言動から一条天皇を初めとして朝廷要人には警戒されており、それが巡礼をめぐる一条天皇との対立につながった、と指摘します。
藤原道長の娘である彰子は一条天皇に入内し、後に二人の天皇(後一条天皇と後朱雀天皇)の生母となり、朝廷において敬われましたが、入内時には数え年で12歳にすぎず、かなりの孤独感と緊張を味わっていただろう、と本書は推測します。一条天皇が上述の中宮定子を寵愛していたことはよく知られているでしょうが、本書は、その頃に一条天皇は中宮定子以外に藤原顕光の娘である元子にも執心しており、妊娠中の元子を呼び出したくらいで、彰子が一条天皇の寵姫になるのは難しかった、と指摘します。本書は、数え年で14歳にして立后された彰子が、天皇の正妻としての覚悟を決めたのは、定子の産んだ敦康親王を養子に迎えてからだろう、と推測します。彰子が後に天皇となる二人の皇子を出産後、道長にとって敦康親王は邪魔者となり、敦康親王には即位の可能性がなくなったため、彰子は父と対立するようになり、安易に父の意向に従わないことから、「賢后」と称せられるようになります。本書はその要因として、彰子の人柄が地味で、自己の権力をいたずらに誇示しなかったからだろう、と推測します。
三条天皇は即位時に数え年36歳で、当時としては異例の「高齢」での即位だった、と本書は指摘します。そもそも、36歳の時点で天皇位にあること自体、当時では稀なことでした。三条天皇と藤原道長が険悪な関係だったことは比較的よく知られているように思いますが、本書はその前提として、即位前の居貞親王(三条天皇)にとって、藤原道長はきわめて厄介な人物だと思い知らされる機会が多かったことを指摘します。三条天皇と道長の関係が決定的に悪化したのは、三条天皇が道長の娘である妍子を中宮としていたにも関わらず、道長の娘ではない娍子を皇后としたからでした。妍子の入内以前より、三条天皇と娍子との間には4人の皇子がいました。道長との対峙を決意した三条天皇ですが、眼病を患い、道長からの圧力には逆らえず退位し、息子たちが即位することもありませんでした。
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