アナトリア半島とレヴァントの先土器新石器時代B集団の学際的研究

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、アナトリア半島とレヴァントの先土器新石器時代B(Pre-Pottery Neolithic B、略してPPNB)集団のゲノムおよび同位体データを報告した研究(Wang et al., 2023)が公表されました。本論文は、『米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America、略してPNAS)』120巻4号の過去12000年間(ほぼ完新世に相当します)の人類の進化に関する特集(関連記事)に掲載されました。本論文は、ネヴァル・チョリ(Nevalı Çori)遺跡のヒト骨格遺骸から回収された、同位体データ(ストロンチウム87/86、酸素18、炭素13)、新たな放射性炭素年代、ゲノム規模データを組み合わせることにより、アナトリア半島南東部における先土器新石器時代B(Pre-Pottery Neolithic B、略してPPNB)についての統合的な生物考古学的研究を提示します。

 本論文は、新石器時代後のネヴァル・チョリ遺跡とレヴァント南部の後期PPNBとなるバジャ(Ba'ja)遺跡のヒトのゲノム規模データも報告します。組み合わされた同位体と古代DNAのデータは、先史時代のアナトリア半島とレヴァントの人口集団間の研究の間隙を埋めます。本論文の結果は、栽培化および家畜化された資源への依存増加やPPNBレヴァントにおける親族関係の証拠を伴う、アナトリア半島南東部におけるPPNBの第一段階後のヒトの移動性の現象を示唆します。本論文で提示されている同位体と古代DNAの分析を組み合わせたような研究は今後ますます盛んになり、古代の人類社会がより詳しく解明されていくのではないか、と期待されます。


●要約

 PPNB(紀元前九千年紀~紀元前八千年紀)の近東とその周辺における動物の家畜化と植物の栽培化への依存の高まりは、遊動性からより定住的な生活様式への「革命的な」社会的変化と関連づけられることが多くありました。本論文は、ネヴァル・チョリ遺跡とヨルダンの典型的な後期PPNB遺跡であるバジャから回収された骨遺骸の同位体および考古遺伝学的分析に基づいて、生物考古学的手法に基づいて、近東における新石器化の過程への微妙な洞察を得ることができました。ネヴァル・チョリはトルコにあるPPNB初期以降の遺跡で、動物の家畜化と植物の栽培化の最初期の証拠の一部が見られます。

 本論文はさらに、新たに生成された放射性炭素年代とともに、ネヴァル・チョリ遺跡の考古学的層序を提示します。本論文の結果は、ネヴァル・チョリ遺跡から得られたヒト28個体と動物29個体のストロンチウム87/86(87Sr/86Sr)と炭素(δ13C)と酸素(δ18O)の同位体分析に基づいています。87Sr/86Srの結果は、家畜化と栽培化への依存増加時期における移動性の明らかな減少に先行する初期PPNBにおける、移動性および同時代の周辺遺跡とのつながりを示唆します。ネヴァル・チョリ遺跡とバジャ遺跡から得られたヒト6個体のゲノム規模データは、ネヴァル・チョリ遺跡における多様な遺伝子プールを論証し、これは新石器化の初期段階における肥沃な三日月地帯内のつながりと、PPNB期のバジャ遺跡および鉄器時代のネヴァル・チョリ遺跡における近親婚の証拠を裏づけます。


●研究史

 「新石器化」の古典的モデルでは、アジア南西部において、遊動的な狩猟と採集から、PPNにおける動物の家畜化と植物の栽培化への経済的依存の高まりの結果として次第に定住的/牧畜と耕作に基づく生活様式へと、大きな変化があった、と主張されています。肥沃な三日月地帯(Fertile Crescent、略してFC)は「農耕」への初期経路の重要な地域とみなされることが多かったのでものの、この過程はFCにおけるコムギやオオムギや豆類やヤギやヒツジやブタやウシのような家畜および栽培種の野生祖先の分布に大きく依存しており、FCにはレヴァント回廊やアナトリア半島南東部(上メソポタミアの重要部を構成します)やザグロス地域が含まれ、それぞれFCの西翼と北東端と東翼に位置します。それでも、「農耕の起源」に関数数十年の研究にも関わらず、新石器化の根底にある複雑な機序、とくに空間やパターンや定住と狩猟採集および農耕生活様式統合の間の関係への直接的洞察は、充分には理解されていません。とくに、定住と農耕の採用との間の相関は、とくにほぼ定住のレヴァントのナトゥーフィアン(Natufian)狩猟採集共同体の観点で激しく議論されてきました。

 生涯にわたる個体の移動に加えて、新石器化の過程におけるより大規模な移動の重要性も議論されています。PPNAからPPNB段階の初期には、新石器化の過程はFCのより広範な地域を通じての長距離相互作用の証拠により示され、そこでは黒曜石や鉱物や石材のような外来の物質の存在が、増加する儀式/文化的慣行や饗宴を共有していました。後期PPNBのレヴァント南部のバジャ(紀元前7250~紀元前6800年頃)は、「巨大遺跡現象」の典型的な遺跡で、つまり、さまざまなモデル下で説明されてきた、突然の人口集合や集落規模の拡大や社会的分化の増加です。これらのモデルのうち一つでは、家畜化および栽培化された種はアナトリア半島南東部の農耕「故地」から「一括」として拡散した、と主張されています。しかし、後期PPNBのレヴァント南部の植物生産は、在来の管理の長い歴史のある作物の栽培に基づいていた、と示唆する証拠もあります。これらの文化的類似性と交流様式がヒトの遺産やアナトリア半島南東部とレヴァントとの間の人口接続性とどのように関連しているのかは依然として不明で、着想の間接的な拡散、もしくは、より大規模な移動と、交易や結婚や他の要因と関連する個体の移動性のように直接的相互作用が想定されており、これらはFCのさまざまな地域間の相互作用を説明するために提案されています。

 PPNAおよびPPNB期において、T型の柱(T-shaped pillars、略してTSP)の謎めいた様式がアナトリア半島南東部に出現して反映し、初期の新石器化過程の象徴的部分とみなされてきました。TSP自体はヒトを表していると考えられており、頭と腕と帯や腰巻きのような衣服を表す低い浮き彫りがあり、ヘビやサソリやオーロックスやガゼルなどさまざまな動物模様と、低い浮き彫りと高い浮き彫りでの幾何学的パターンで装飾されることが多くあります。ネヴァル・チョリ遺跡はTSP社会の重要な代表的遺跡の一つで、その発掘は栽培化されたヒトツブコムギの最古の出現を記録しているだけではなく、森林生息地と(ウシ属やイノシシ属やシカ属など)開けた景観(ヒツジ属やヤギ属やガゼル属)に暮らす多数の動物の骨も回収されました。ネヴァル・チョリ遺跡における発掘では、一連のPPNBの5層が明らかになり、つまり第1層~第5層で、燧石インダストリーと建築遺跡に基づいて第1層は最古となります。ネヴァル・チョリ遺跡の近く(半径約60km以内)にあるギョベクリ・テペ(Göbekli Tepe)は、このTSP社会の儀式的中心と考えられていることで有名であり、その遺跡のうち多くは未発掘かハッラーン平原(Harran Plain)の沖積層の下に埋まっています。

 ギョベクリ・テペ遺跡における前期および中期PPNB建築段階のより新しい層(第2層)は、ネヴァル・チョリ遺跡のそれ以前の段階の居住と約300年間部分的に同時代で、両者はより小さな柱(2m未満、ギョベクリ・テペのPPNAとの比較)、長方形の意志の建物、模造石の床により特徴づけられます。しかし、ネヴァル・チョリ遺跡とギョベクリ・テペ遺跡との間の関連性と動的な相互作用の可能性、およびより広範な社会的状況については、さらなる調査が必要です。

 TSP社会の社会組織と生計戦略は、農耕の最初期段階の採食民の生活様式の文化的変容と相互作用をより深く理解するのに重要です。農耕の起源に焦点を当てたFCの生計に関する多くの研究がありますが、移動性への直接的どうさつはずっと少なくなっています。それにも関わらず、ヒトの移動性の様式と程度は、その文化および社会組織に強く影響を及ぼし、このFC地域全体の農耕拡散の議論の中心となってきました。しかし、物質文化に基づくヒトの移動性の特定は、深刻な課題を示してきました。

 学際的な生物考古学的手法、とくに考古遺伝学および⁸⁷Sr/⁸⁶Srとδ¹⁸Oの同位体分析は、過去の移動性の調査の強力な手法としてますます機能してきました(関連記事)。現時点でアナトリア半島南東部の参照に利用可能な唯一のストロンチウム同位体データセットは、PPNA期のティグリス川上流地域のキョルティック・テぺ(Körtik Tepe)遺跡で生成されており、ヒトの移動性調査(ストロンチウム同位体および考古遺伝学的データ)を目的とする生物考古学的データセットは、ユーフラテス川上流のTSP社会では欠けています。

 さらに、古代DNA研究は、レヴァントとアナトリア半島北西部~中央南部と遠くザグロス地域の人口集団間の新石器時代以降の遺伝的分化の漸進的現象を記録してきており(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、それによってFC内の広範な時空間的規模の遺伝的混合に光が当てられています。これらの地域間に地理的に位置するアナトリア半島南東部は、新石器化の最初期段階以降の移動性パターンのさらなる解明にとって重要な失われた環です。

 このデータ不足を克服するため、新石器時代最初期の重要な遺跡の一つ、つまりネヴァル・チョリから得られた、ヒトおよび非ヒト動物遺骸の統合的な生物考古学的分析が実行されました。本論文は、部分段階のPPNB1(紀元前8700~紀元前8300年頃)とPPNB2(紀元前8300~紀元前7900年頃)とPPNB3(紀元前7900~紀元前7500年頃)とその後の期間から発掘されたヒト28個体に属する44点の大臼歯エナメル質から得られた、⁸⁷Sr/⁸⁶Srとδ¹⁸Oとδ¹³Cのデータを報告します。

 ネヴァル・チョリ遺跡は、そこで回収された骨および穀物資料の記録された炭素14(¹⁴C)データと新たに報告された炭素14(¹⁴C)データに基づいて、ハラフ(Halaf)文化(紀元前5500~紀元前5000年頃)と前期青銅器時代1(Early Bronze Age I、略してEBA1、紀元前2900~紀元前2800年頃)と鉄器時代(Iron Age、略してIA、紀元前1200~紀元前30年頃)と最終的にはローマ帝国期(Roman Imperial period、略してRI、紀元後1~3世紀)にヒトが居住していた、と推測されました。PPNBからRIの居住層の分布範囲は、以下の通りです。PPNBの前期(1)と中期(2)と後期(3)の層は23点の標本(13個体)、ハラフ文化は3点の標本(2個体)、EBA1は9点の標本(6個体)、IAは8点の標本(5個体)、RIは2点の標本(2個体)です。

 さらに、29点の非ヒト動物標本でストロンチウムと炭素と酸素の同位体測定が実行され、そのほとんどはPPNB期のネヴァル・チョリ遺跡から回収されたガゼルとヒツジ/ヤギとブタで、地元の生物学的に利用可能なストロンチウムの特定と、生計戦略の変化の可能性の調査を目的としています。PPNB期のネヴァル・チョリ遺跡とバジャ遺跡のヒトのゲノム規模データも生成され、近東の栽培化と家畜化の多中心的発展の状況における、地域を超えた人口移動の証拠が調べられました。

 ネヴァル・チョリ遺跡から35個体とバジャ遺跡から24個体を標本抽出した後で、厳しい保存条件のため、PPNB期の3個体(NEV009、BAJ020、BAJ022)でゲノム規模データの回収に成功しました。近東全域の他の初期集団とのネヴァル・チョリ遺跡とバジャ遺跡から得られた集団遺伝学の超地域的比較が、FCの北西翼内、より広くはアジア南西部全体内のつながりについて、より多くの洞察を得るために実行されました。標本抽出された全個体の詳細な状況および骨学的情報とメタゲノム配列決定評価は、補足データセットに示されています。


●ヒト遺骸のストロンチウム同位体分析

 図1Bと図2Aでは、実線間の範囲が、より局所的な範囲を提供すると予測される考古学的動物相のエナメル質として、ブタ(6個体)とキツネ(1個体)の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比に基づいて計算された、ネヴァル・チョリ遺跡の生物学的に利用可能な地元のストロンチウム痕跡(0.707818~0.708052、平均±2標準偏差)を示しています。結果として得られた範囲は、ウルファ(Urfa)地域の地質学的背景と一致しており、ウルファ地域では、石灰岩の万般がストロンチウム同位体祖先に大きく寄与しています。本論文は、ネヴァル・チョリの局所的基準外となるあらゆるデータを「地元外」の値として定義します。しかし、文化的観でこれが何を意味するのかは、異なる可能性があります。たとえば、完全に定住的ではない人々にとって、地元外の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比はさまざまな地質学的状況にわたるより広範な居住範囲の使用を反映しているかもしれません。

 PPNBの第1期には、7個体のうち6個体が地元外の値を示しますが、PPNBの第2~3期には6個体のうち1個体のみが地元外で、その後の期間(ハラフ文化期からRI)には地元外の個体はいませんでした。ネヴァル・チョリ遺跡の結果をより広い地域内で文脈化するため、ギョベクリ・テペ遺跡における生物学的に利用可能な⁸⁷Sr/⁸⁶Srの地元の値が用いられ、この値は先行研究の値から引用され、ガゼルの骨とエナメル質に基づいて0.708025~0.708255と決定されました。野生動物として、家畜化されたことのないガゼルの値はより分散する傾向にあるので、より控えめな地元の範囲について、平均±2標準偏差(standard deviation、略してSD)の代わりに平均±1SDが用いられ、これは、ガゼルの⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比の元々の研究など他の研究でも適用されていました。以下は本論文の図1です。
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 ネヴァル・チョリ遺跡のヒトのエナメル質標本の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比の範囲は、0.707856~0.708259でした(44個体)。ネヴァル・チョリ遺跡住民における移動性の明らかな減少は、各期間の地元外個体の数から明らかなように、PPNB第1期~第2期の移行に起きました。PPNB第1期の地元外個体のうち、個体NEV001は⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比で最大の差異を示し、最低値は第一大臼歯(M1)で測定されましたが、これは、その個体の母親がネヴァル・チョリ遺跡と同等の地質学的な場所で妊娠および授乳期を過ごした、と示唆しています。一方、NEV001個体は第二大臼歯(M2)では地元外の値を、第三大臼歯(M3)では地元の値を示します(図1B)。同様に、個体NEV004は⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比で個体内差異を示しており、M2は地元外、M3は地元ですが、M1は欠けています。以下は本論文の図2です。
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 NEV001とNEV004の両個体は移動性の類似のパターンを示唆しており、子供期後期(3~7歳頃)にはギョベクリ・テペ地域周辺で活動していたようで、その生涯において後にネヴァル・チョリに戻りました。さらに、個体NEV002のM1とM2の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比はともにギョベクリ・テペ地域の範囲と高度に一致し、個体NEV002は12~15歳頃に死亡した、という事実があり、個体NEV002はネヴァル・チョリ外で生まれ、この地域で暮らしていたものの、他の同時代の個体と区別する埋葬慣行の兆候や区別はない、と示唆されます。


●ヒト遺骸の安定同位体分析

 ⁸⁷Sr/⁸⁶Srについて測定された全ての歯のエナメル質は、δ¹³Cとδ¹⁸Oでも分析されました。44個体の一致する¹³Cおよび¹⁸O値が、PPNB~RI期の範囲の28個体全てで生成されました。δ¹³C値は全て−14‰と−11‰の間の範囲に収まり、これは顕著な通時的差異のないC3資源への全体的な依存を示唆します。これは、遺跡の主要な作物がコムギ(コムギ属種)と豆類(たとえば、ヒラマメ属やエンドウ属)である考古学的証拠は、自然の植生と一致しており、家畜化された動物にとって草(graze)と枝葉(browse)がおもにC3植物で構成されており、比較的低い値によっても恐らく示唆される森林に覆われた生息地が使用されたことを浮き彫りにします。

 本論文の結果は、ネヴァル・チョリ遺跡の人々がC3植物に大きく菜食的に食性で暮らしていた、とするコラーゲン資料の以前に刊行されたδ¹³Cデータと一致します。新たに刊行されたモデル化研究は、植物の生物量の寄与を一部の個体では最大90%(平均87%)と定量化しました。この全体的な植物への依存は、PPNB初期段階に続く、家畜化および栽培化された資源への依存度増加と移動性の現象との間の、密接で明らかな関連性の説明に役立つかもしれません。

 ヒト標本のδ¹⁸O値は−7.3‰~−1.7‰まで広く変わり、その値は経時的より高くなっていきます。ネヴァル・チョリ遺跡で得られた以前に刊行されたδ¹⁸O値の範囲は−8.6‰~−6.4‰で、例外は−5.55‰と極度に高い外れ値です。したがって、後者のデータセットは新たなデータと部分的に重複しており、本論文におけるPPNB第1期と一致しますが(−7.3‰~−4.3‰)、前提的にはより低くなります。これは恐らく、PPNBのごく初期に集中していたように見える以前の標本抽出の限定的な時間範囲と年代に起因しますが、具体的な年代測定は提供されませんでした。

 本論文で提示されたδ¹⁸Oデータについて、分散分析(analysis of variance、略してANOVA)とテューキー(Tukey)公正有意差(Honestly Significant Difference、略してHSD)検定が適用され、PPNB第1期および第2期の値はPPNB後の個体群と異なっており、とくにPPNB第1期の個体についてはその測定された違いが、EBA1とは−3.9‰、ハラフ文化期とは−5‰、IAとは−4.8‰、RIとは4.6‰になる、と示唆されました。しかし、PPNB第3期の個体群とPPNB後の個体群との間では、明確な区別は論証されず、同位体の意味のある違いはPPNBの下位段階の個体群から推測できません。

 経時的なδ¹⁸O値の変化は、気候変化もしくは人為的変化(たとえば、移動パターンやさまざまな標高からの飲料用水源)のような、さまざまな要因が連動しているかもしれません。しかし、PPNBからその後の期間の新たに報告されたδ¹⁸O値の増加は、地中海東部地域において古環境記録で記載された完新世のδ¹⁸O増加と一致しており、これにはトルコのアナトリア半島南部中央のインセス洞窟(Incesu Cave)や、レヴァント南部のソレク洞窟(Soreq Cave)から得られた洞窟二次生成物特性や、トルコ北部のソフュラー洞窟(Sofular Cave)から得られた石筍の二次生成物特性が含まれます。非ヒト大型哺乳類とヒトのエナメル質の体内水分の¹⁸O比は、飲料水(drinking water、略してdw)の同位体値(δ¹⁸Odw)と体系的に関連しています。より大きな時間規模では、この地域において温暖化傾向があるようで、PPNB後のδ¹⁸Odw値と一般的に一致する−8‰~−6‰の範囲の年間平均降水量δ¹⁸O値により表されるように、次第に現代の環境に近づいてきました。


●PPNB期の非ヒト動物の同位体分析

 第一に、上述のように、おもにブタとキツネを用いて、これらの動物が動物考古学的同定に基づいてこの時期ら集落と密接に統合されていた、という生態学的理解に関するこの研究での地元の⁸⁷Sr/⁸⁶Srの基準が表されます。第二に、26点の一致するδ¹³Cおよび酸素δ¹⁸Oデータと28点の⁸⁷Sr/⁸⁶Srデータが、ネヴァル・チョリ遺跡のさまざまなPPNB部分段階から回収された非ヒト動物29個体から新たに生成されました。上述の分類群(ブタとキツネ)とは対照的に、より広範な景観のヒトの利用と狩猟のより適切な指標として、ガゼルが用いられました。

 哺乳類のδ¹⁸Oとδ¹³Cのデータの散布図は、個体NC0289およびNC0518がC4食物を摂取していた、と明らかにします。温帯ユーラシア全域のC4植物の広範な分布の証拠はひじょうに少なく、C3資源が地元の植生では優勢でした。しかし、温暖地域の砂丘や塩性湿地や攪乱された砂地の群生におけるC4植物の顕著な被覆が見つかりました。夏の高温と強い光と栄養の乏しい土壌の地中海とイラン・トゥーラーン(現在のトルクメニスタンとウズベキスタンとタジキスタン)とヒルカニア(Hyrcanian)の生態系は、C4植物にとって適した生息地です。したがって、アナトリア半島とレヴァントの乾燥地域全体を広く移動したガゼルにとって利用可能なC4食資源が存在した可能性は高そうです。

 本論文におけるヒト個体群での有意なC4兆候の欠如は、ガゼル個体群でのC4植物を消費する個体の低頻度か、放牧と狩猟の季節的側面に由来する全体的なガゼルの限定的な消費に起因する可能性が高そうです。上述のように、ネヴァル・チョリ遺跡の住民が植物に基づく食性におもに依存していた、という事実の観点では、狩られた非ヒト動物は特別な饗宴/行事にのみ用いられたかもしれません。層序ごとにクラスタ化する(まとまる)ネヴァル・チョリ遺跡のガゼルの箱髭図から、PPNB第2期の差異は全ての同位体でPPNB第1期より低いの、と示されることは注目に値し、これはPPNB第1期から第2期にかけての食肉資源の集水域の縮小を示唆しているかもしれません。

 さらに、ネヴァル・チョリ遺跡から得られたガゼルの⁸⁷Sr/⁸⁶Srデータは、より高い平均値と、一般的に変動性が大きいPPNAおよび前期~中期PPNBのギョベクリ・テペ遺跡とは異なっています。しかし、地質の局所的偶然性のため、変動性は2つの石灰岩に基づく場所間で必ずしも直接的に比較できないことに注意すべきです。これら二つの事実は両方とも、経時的な狩猟採経済への依存度低下とともに、PPNAからPPNBへの狩猟民の移動性現象を示唆しているかもしれません。


●ヒト遺骸の遺伝学的分析

 遺伝学的に分析された全個体は品質管理に合格し、それらには、低い汚染率、30万以上の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)を有する124万遺伝標識での約0.25倍の網羅率が含まれますが、例外は低網羅率の標本であるBAJ020です(約47000のSNP)。データの品質評価の完全な概要は、分子的な性別および片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のハプログループとともに、補足データセット5および6で提供されます。

 人口集団の遺伝的構造の概要を得るため、まず現代のユーラシア西部の85の人口集団から得られたSNP配列データ(ヒト起源、約60万のSNP)を用いて、主成分分析(principal component analysi、略してPCA)が計算されました。次に、本論文のデータおよび関連する他の研究の古代の個体群が、第1および第2主成分(PC)に投影されました(図3)。注目すべきことに、バジャ遺跡とネヴァル・チョリ遺跡(第2層、NEV009)のPPNB期個体は、PC2およびPC1に沿って分離します。バジャ遺跡の個体群はレヴァント南部のPPN期個体群とバジャ遺跡の既知の1標本(BAJ001)により形成されるクラスタ(まとまり)内に収まりますが、NEV009はアナトリア半島狩猟採集民(hunter-gatherer、略してHG)およびPPN期農耕民のクラスタとPPN期および続旧石器時代(Epipaleolithic、略してEP)個体群のレヴァントのクラスタとの間で、PC1に沿って位置します。

 しかし、NEV009はPC2に沿ってこれら2集団から区別でき、前期完新世イラン、つまり新石器時代(Neolithic、略してN)イラン(イラン_N)およびコーカサス(Caucasian、略してC)HG狩猟採集民(CHG)個体群の方へと動いています。前期完新世のアナトリア半島とレヴァント南部とイラン/コーカサスの個体群の中間的位置は、これら人口集団とのさまざまな遺伝的類似性を示唆します。しかし、アナトリア半島(NEV009を含みます)およびレヴァント内の全ての新石器時代個体とイランの個体群との間の距離に基づいて、より高い遺伝的類似性を提案できます。以下は本論文の図3です。
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 ほぼ8000年後、IAおよびRI期のネヴァル・チョリ遺跡の3個体は、それ以前の住民とは対照的に、独特な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)特性を有しています(関連記事)。FCとコーカサス全域にわたる広範な規模での新石器時代後の人口集団の混合と一致して、これら3個体はすべて銅器時代および青銅器時代のアナトリア半島個体群とクラスタ化します。興味深いことに、RI期のローマの一部の他の個体は、ネヴァル・チョリ遺跡のRI期個体と重なります。これら新たなデータは、BAからIAを経てRI期までの遺伝的連続性を示唆しており、アナトリア半島起源の人々が古代ローマの人口集団に寄与した、という主張(関連記事)をさらに裏づけます。

 本論文のPCA経由で特定された祖先系統パターンへのさらなる洞察を得るため、非対称的アレル(対立遺伝子)共有のいくつかのシナリオが検証されました。PPNB期のネヴァル・チョリ遺跡およびバジャ遺跡と他の新石器時代の個体愛氏だの進化的関係を示すため、D統計(外群、検証対象;集団3、集団4)が計算されました。4集団検定として、D統計は検証対象と集団3もしくは集団4との間のアレル共有の過剰を測定し、その場合、統計値はそれぞれ負もしくは正と予測されます。この分析と混合モデル化のため、個体群はまとめられ、および/もしくは遺跡と期間により分類されました。

 BAJ020とBAJ022の他に、「バジャ_PPNB」群は以前に刊行されたBAJ001で構成されます。まとめると、バジャ_PPNBはナトゥーフィアンHGと比較した場合、アナトリア半島個体群と関連する人口集団からの遺伝子流動の証拠を示します。これは、ヨルダンのさらに北方のアイン・ガザル(Ain Ghazal)遺跡のPPN期個体群にも当てはまります。さらに、アナトリア半島個体群との遺伝的類似性は、バジャ遺跡個体群よりもアイン・ガザル遺跡個体群の方で強いかもしれないものの、有意ではありません。

 アナトリア半島個体群の遺伝子プールとのアレルの共有は、ネヴァル・チョリ_PPNB(個体NEV009)の方がレヴァントの人口集団よりも有意に多く、アナトリア半島人口集団における共通祖先系統が示唆されます。しかし、NEV009をアナトリア半島人口集団と対比させると、ヨーロッパ西部HG(western European HG、略してWEHG)とバルカン半島HGの検定では、有意な違いを捕捉できます(図4A)。これら検証人口集団は、ヨーロッパに広まり、プナルバシュ(Pınarbaşı)遺跡のアナトリア半島狩猟採集民および近東現代減とのより高い類似性を示す、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後の系統を表しています。

 一貫して、NEV009も他のアナトリア半島農耕民と比較してプナルバシュ遺跡個体とのアレル共有が少なく、この祖先的なアナトリア半島人口集団との直接的な遺伝的つながりの少なさが示唆されます。逆に、とくにNEV009をプナルバシュ遺跡個体と対比する場合、前期完新世イラン/コーカサスおよびレヴァント個体群とのNEV009の類似性増加の傾向を導き出すことができますが、有意性閾値を下回っています。以下は本論文の図4です。
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 D統計からのさまざまな兆候を特定の混合モデル下でどのように適合させることができるのか、取り組むため、FC内で遺伝的および地理的に遠い供給源から組み合わせを探すqpAdm(遠位モデル化)が実行されました。分析の解像度を高めるため、WEHGとCHGとレヴァント_EP(ナトゥーフィアン)などの人口集団が参照人口集団一式に追加され、これら参照人口集団は標的を供給源人口集団と関連づける足場として機能します。

 以前の結果と一致して、紀元前七千年紀後半のアナトリア半島農耕共同体は、プナルバシュ遺跡HGおよびボンクル(Boncuklu)遺跡のPPN期農耕民と比較して、アイン・ガザル遺跡のレヴァント個体群、つまりバルシン(Barcın)およびメンテシェ(Menteşe)遺跡個体群、もしくはイランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡個体群、つまりテペシク・シフトリク(Tepecik Çiftlik)遺跡個体群と関連する追加の祖先系統を必要とします。まったく対照的に、ネヴァル・チョリ遺跡個体群は、プナルバシュ遺跡HGとイラン_Nもしくはレヴァント_PPNの2方向の組み合わせとしてモデル化できません。代わりに、3供給源すべてが必要です。

 注目すべきことに、この3方向混合モデルは、CHGが参照人口集団から除外された場合のみ適切になり、これは同様にCHG的人口集団と関連しているイラン関連供給源の実際の供給源により説明でき、CHGとガンジュ・ダレー遺跡新石器時代個体群がほとんどの事例で内陸混合の供給源として交換可能である、との提案(関連記事)と一致します。さらに、レヴァント個体群との過剰な類似性の有意なD統計の欠如にも関わらず、高いレヴァント個体群の係数(45±15%)は、ネヴァル・チョリ遺跡個体群の小さな標本規模に起因するより低い解像度の結果かもしれません。したがって本論文では、qpAdmモデルの厳密に定量的な解釈ではなく、定性的解釈が採用されます。

 親子関係の洞察を得るため、ソフトウェアhapROHを用いて、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)が推測されました。ROHは両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。PPNB期からRI期にわたるバジャ遺跡とネヴァル・チョリ遺跡の、124万SNPで少なくとも25%の網羅率のある5個体が分析されました(図5)。有効人口規模が減少した人口集団は、過去の遺伝的関連性に起因してより高頻度の短いROHを示します。以下は本論文の図5です。
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 アナトリア半島南部中央のボンクル遺跡のPPN農耕民とイランの一部の初期農耕民は、アナトリア半島北西部の紀元前七千年紀農耕民とは対照的に、小規模の交配要員に相当する短いROHのより高い割合を有しており、これはすでに以前に観察されたパターンです(関連記事)。同様に、4~8cM(センチモルガン)と短い範囲のROHの高水準が、バジャ遺跡の以前に刊行された個体(BAJ001)を含めてPPN期レヴァント個体群内で観察されます。対照的に、PPNB期個体NEV009は、短いROHのより低い水準を示しており、これは、平均的により大きな人口規模を示唆し、その後のアナトリア半島農耕民と同等です。

 興味深いことに、合計で5個体のうち3個体が長い範囲(20cM以上)のROHを示し、最古の個体はPPNB期のBAJ022で、全体的なROHの分布は近い親族結婚間(たとえば、両親がイトコもしくはマタイトコ)の子供と同等です。同様の結論は、IA個体NEV030でも導き出すことができます。しかし、近親婚の最も顕著な証拠はIA個体NEV020から得られ、そのROH長分布は全キョウダイ(両親が同じキョウダイ)の両親のシナリオと一致します。


●最終PPNAにおけるTSP遺構の創設

 ヤンガー・ドライアス(Younger Dryas)後の急速な気候改善とともに、人口と定住の増加がティグリス川流域とユーフラテス川上流で起き、これはヒトの行動と生産的な生計戦略の同時的な変化とも相関していました。その後、より広範な定住分布は明らかに減少しましたが、同時に、ウルファ地域の居住はTSP遺跡の出現により体現されているように増加しました。この定住パターンの変化は、GISP2カリウムデータの波形尖頭により示唆される急速な気候変化間隔に対応する「後期PPNA狩猟民危機」として解釈されてきており、これはTSP共同体の台頭を予告します。

 PPNAから初期PPNBには、ギョベクリ・テペ遺跡が壮大な一枚岩構造により特徴づけられるウルファ地域の儀式の中心地でした。TSPの建造物において開催された仮定的な大規模行事は、周辺の共同体が参加する日常的な集会および饗宴行事の一部だったかもしれません。ギョベクリ・テペ遺跡は、地質学的状況が始新世と中新世の石灰岩の混合物で構成されるウルファ地域の唯一の場所ではなく、その痕跡はネヴァル・チョリ遺跡と区別できます。

 TSPの他の遺跡は、ギョベクリ・テペ遺跡と同様の地質学的状況です。したがって、本論文での「ギョベクリ・テペ」は、それ自体だけではなく、全体としてTSP社会も指しており、PPNAからPPNBのウルファ地域の相互作用的範囲で、カラハン・テペ(Karahan Tepe)遺跡やセフェル・テペ(Sefer Tepe)遺跡やハーベツヴァン・テペシ(Harbetsuvan Tepesi)遺跡などが含まれます(図1A)。ギョベクリ・テペ遺跡の生物学的に利用可能なストロンチウム痕跡により表される地域を考慮すると、この時点より前に、PPNB期ネヴァル・チョリ遺跡の相互作用の範囲はより広範な地域に広がっていたようです。

 それに加えて、PPNB第1期におけるネヴァル・チョリ遺跡のヒトの⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比は、ウルファ地域のより広い領域の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr痕跡と一致しており、ウルファ地域では、他のTSP遺跡の個体群は、TSPの人々が頻繁な相互作用と交流網により活動していた全域にわたる混合したストロンチウム摂取の結果である可能性が、ひじょうに高そうです。これは、TSPの儀式の確立が、協調的な狩猟行事や他の文化的慣行に参加させるための、ユーフラテス川上流の人々の統合と組織化への要求の一部だった、という仮説を裏づけます。次に、これら集団的活動はさらに儀式体系を強化し、社会的安定性が強化され、より多くのつながりがこの地域におけるより安定した共同体間で構築されました。

 ネヴァル・チョリ遺跡がFCの北西翼内の失われたつながりを埋める、という評判を考慮すると、遺伝学的水準における人口集団のFCを超えた比較も今や可能です。個体NEV009は、アナトリア半島南部中央のような前期完新世人口集団の子孫だけではなく、FCの南翼および東翼(つまり、レヴァントとイラン)の人口集団にもその祖先系統の一部をたどれる、と示されました。FCの北東翼、つまりマルディン(Mardin)やネムリック9(Nemrik 9)やシャニダール(Shanidar)洞窟やベスタンスール(Bestansur)の個体群から得られた最近のゲノムデータ(関連記事)と比較すると、ネヴァル・チョリ遺跡および近隣のPPN期のチャヨニュ(Çayönü)遺跡(関連記事)両方の個体群は異なっており、それは、他のメソポタミア東部遺跡の個体群のモデル化にレヴァント関連祖先系統を必要としないからです。このパターンは、地理に起因するFC内の下部構造を反映している可能性があり、PPNの開始前にさえ形成されていたかもしれません。

 より多くのデータが得られるにつれて、アナトリア半島のPPNのHGと新石器時代の人口集団は、時期とその起源に関して、統一のモデル下では説明できない、という合意に達します。ネヴァル・チョリ遺跡の個体群とプナルバシュ遺跡のHGを他のPPNおよび新石器時代のアナトリア半島の遺跡の個体群の供給源人口集団として検証すると、そのモデルはPPN期ボンクル遺跡の個体でのみ、イラン_Nもしくはレヴァント(ネヴァル・チョリ遺跡個体群の代わり)でのモデルと比較して適合性が向上しました。バルシンやメンテシェやテペシク・シフトリクなどの遺跡の他集団では、適合性はさほど良好ではありませんでした。

 さらにレヴァントでは、PPN期のアイン・ガザルおよびバジャの両遺跡の個体群は、「ナトゥーフィアン」の先行する人口集団と比較してアナトリア半島人口集団との類似性が増加します。レヴァントとアナトリア半島両方の祖先構成要素の年代的変化は、PPN期におけるFC全体の集中的な相互作用交流網の増加を示唆します。物質文化における共有要素の豊富な記録を考慮すると、レヴァントとアナトリア半島南東部との間の接触は、双方向的な遺伝子流動を通じて確立され、最終的には、北方へはアナトリア半島北西部のバルシンやメンテシェにまで農耕民が達しましたが、そうした痕跡はPPN期のアナトリア半島南部中央(ボンクル遺跡)では見られませんでした。

 全体的に、物質文化と遺伝学におけるこれら多様なつながりは、アナトリア半島とレヴァントと上メソポタミア(メソポタミア北部)との間の相互作用のさまざまな範囲を示します。メソポタミアの人口集団における遺伝的変動性から、アナトリア半島南部から東部の範囲とイラク北部には、レヴァントとアナトリア半島の他地域の他の人口集団にさまざまに寄与したかもしれない、混合した祖先系統のさまざまな生態的地位が含まれていた、と示唆されます。

 別の遺伝学的証拠は、個体NEV009とチャヨニュ遺跡の個体で推定されたROHで、これらの個体はレヴァント南部やイラン西部やアナトリア半島南部中央の同時代の個体群と比較して、より大きな有効人口規模の人口集団に属していた、と示唆されます。これは、上メソポタミアにおけるさまざまに人口動態を裏づけており、それが、祖先系統で観察された遺伝的兆候の多くをもたらした、長距離移動を促進したかもしれません。近隣地域からの追加の遺伝的データが、PPNB期にアナトリア半島南東部が下手全体的な動的変化の調査に重要でしょう。


●TSP遺構の断絶と崩壊

 ネヴァル・チョリ遺跡のヒトと非ヒト動物の⁸⁷Sr/⁸⁶Srは、PPNB第1期と第2期との間の差異を浮き彫りにしており、次第に減少する移動性と狩猟流域を示し、生活様式と生計戦略と社会組織の変化として解釈できるかもしれません。すでに刊行された証拠は、ネヴァル・チョリ遺跡における耕作への依存度増加を示唆しており、PPNB層全てでコムギは形態学的に栽培化されています。同様に、動物考古学的研究から、動物遺骸の生物多様性がアナトリア半島南東部では紀元前九千年紀の末に向かって減少し始めており、それはネヴァル・チョリ遺跡におけるPPNBの第1期/第2期から第3期/第4期への移行に相当し、狩猟採集民の生活様式からの広範な食性/経済の退化と漸進的な移行を示している、と論証されてきました。

 ネヴァル・チョリ遺跡で回収された最も一般的な分類群として、動物遺骸群におけるガゼルの断片はPPNBの第1期/第2期から第3期/第4期にかけて減少していますが、ヒツジとヤギの割合は増加しました。PPNBの第1期/第2期のネヴァル・チョリ遺跡における雌のウシの割合が、PPNA期のギョベクリ・テペ遺跡よりも高いことに要注意です。ネヴァル・チョリ遺跡から回収されたヒツジ属とヤギ属とイノシシ属の遺骸は、部分的には家畜化されたヤギとブタに由来しており、これは、ネヴァル・チョリ遺跡のヒト居住期間におけるその頻度の経時的変化と、この地域の他の遺跡の野生近縁分類群と比較しての顕著により小さな体格により示唆され、人口統計学的特性は、採食民の狩猟制度ではなく、初期新石器時代畜産体系と一致します。一部のヒツジ属とヤギ属とイノシシ属の家畜化状態の追加の証拠は、ネヴァル・チョリ遺跡の初期家畜飼育者が意図的にマメ科植物をこれらの動物に与えていた、と示す窒素15(δ¹⁵N)分析に由来します。

 ネヴァル・チョリ遺跡とは対照的に、PPNB期のこの重要な転換点におけるギョベクリ・テペ遺跡での農耕発展の証拠はなく、恐らくは競合する信念体系に起因します。たとえば、耕作と家畜化は、伝統的な狩猟採集の心性もしくは生活様式に抵触する禁忌だったのかもしれません。さまざまな社会には時に、根本的に異なる価値体系、もしくは、たとえば水からの圧力など環境と資源から圧力があったかもしれません。そうした圧力は、灌漑線戦略なしでの農耕の発達を制約したか、あるいは単純に、景観と社会体系のさまざまな部分として使用されたのでしょう。不安定な動物性タンパク質の供給は人々に、混合生計パターンを行なうよう動機づけたかもしれません。

 狩猟採集と農耕の両方は、危険性緩衝戦略として機能し、記念碑的建造物の建設がネヴァル・チョリ遺跡ではPPNB第2期および第3期まで続いた、という事実に反映されているように、TSPの儀式体系が急速に崩壊しなかったことも示唆しているかもしれません。ストロンチウム同位体結果によると、ギョベクリ・テペ遺跡や他のTSP共同体の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr の範囲に収まるPPNB第1期後の個体(たとえば、NEV008やNEV003やNEV017)も存在し、これらの個体は、TSPにより示される伝統的な信念体系と社会的交流網を、耕作と家畜化により投資し、より定住的になっていったネヴァル・チョリ遺跡の他の構成員とともに関わり続けたのかもしれません。

 しかし全体的には、PPNB第1期で見られる高い移動性はネヴァル・チョリ遺跡において次第に減少し、混合生計における狩猟の割合も、定住的な農耕が優勢になるまでに次第に減少していき、PPNB第1期末を重要な転換点と示しています。生計としての農耕が次第に狩猟と採集の影を薄くしていくにつれて、より多くの住民が、巨大でより定住的な共同体内で食料を得られるようになりました。これは恐らく、TSP体系間の結合を弱め、ギョベクリ・テペ遺跡は最終的に放棄される前に主要な儀式の中心地としての名声のある地位を失いました。儀式建造物は、PPNB期末のネヴァル・チョリ遺跡では、もはや一般には見られませんでした。

 一方、新石器化の過程は、さまざまな社会経済的共同体間の分散的交流網につながりました。この新規の社会構造は、より広範な地域の後期新石器時代における自治共同体出現の道を開きました。共同体内の家族関係に焦点を当てた研究(関連記事)の別の方向性は、レヴァント南部の後期新石器時代における共同体内の組織へのさらなる洞察を提供します。バジャ遺跡の近親婚により生まれた個体の存在は、社会的慣行を示唆するには標本規模が小さすぎますが、後期PPNB(紀元前7500~紀元前7000年頃)の近隣のバスタ(Basta)遺跡内の形態学的分析と一致し、広範な社会的族内婚を裏づけます。将来より多くの遺伝的データが、この族内婚現象は文化的選好に由来する、という事実を統計的に裏づけるならば、それは後期新石器時代の比較的自治的で閉鎖的な共同体内における内部の結束強化の方法だった、と示唆される可能性が高いでしょう。


●まとめ

 FC全域の新石器化の根底にある動的な過程へのより多くの洞察に寄与するため、本論文はPPNB期におけるネヴァル・チョリ遺跡とバジャ遺跡で回収されたヒトと非ヒト動物の骨での生物考古学的分析を統合しました。本論文の同位体データの結果とネヴァル・チョリ遺跡の新たに統合された時間規模に基づくと、移動性の現象と栽培化および家畜化への依存度増加はPPNBの最初の部分段階となる期紀元前8300年頃までに起き、この頃には、ギョベクリ・テペ遺跡とその根底にある生活および関連する世界観の体からの明らかな社会的分離が進みました。PPNB初期段階後の移動性と生計の新たな様式の結果としてギョベクリ・テペ遺跡は中新世を失い、TSP現象下で以前にはつながっていた遺跡群の独立が高まったようです。

 移動性と社会組織の様式における局所的変容にも関わらず、ネヴァル・チョリ遺跡とバジャ遺跡のPPNB期ヒト個体群のゲノム規模データは、この期間におけるFC内の長距離のつながりの証拠を提供します。PPNB後期のバジャ遺跡における近親婚の証拠は、PPN社会が内部ではどのように組織化されていたのか、という問題を提起し、文化的非有働と社会的慣行の意味での族内婚の可能性に関する追加の将来の分析を必要とします。FCと新石器時代内/新石器時代を超えての、社会内/社会間両方の同位体と遺伝学を介したヒトの移動性調査のこれら二重の側面は、近東における新石器化の過程への微妙な洞察を得るための、縦列型分子分析の可能性を浮き彫りにします。


参考文献:
Wang X. et al.(2023): Isotopic and DNA analyses reveal multiscale PPNB mobility and migration across Southeastern Anatolia and the Southern Levant. PNAS, 120, 4, e2210611120.
https://doi.org/10.1073/pnas.2210611120

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