坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2004年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。今となってはかなり古いと言えますが、碩学が1936~1937年を日本の分岐点と考えて詳しく検証しているとのことなので、私にとって今でも得るものは多いのではないか、と思って読みました。本書はまず、1931~1932年の危機と、1936~1937年の危機を対比します。「戦争(満洲事変)」に始まって「テロ(五・一五事件)」に終わった前者に対して、後者は「テロ(二・二六事件)」に始まって「戦争(日中戦争)」で終わった、というわけです。危機の深刻さは、大恐慌による倒産と失業と農村の窮乏の分だけ、前者が深刻だったかもしれないものの、終点が「戦争」だったことでは、後者の方が日本の運命にとって決定的だった、と本書は指摘します。
ただ本書は、「平和と民主主義」を目指す勢力という観点で、前者の危機の方が強く、後者の方が弱かったわけではない、とも指摘します。前者において、政党勢力が「テロと侵略」の軍ファシズム勢力に対して後退を続け、満洲事変による「既成事実」を追認したのに対して、後者では、日中戦争直前までの政党勢力は公然と「テロと侵略」に反対し、そのための内閣樹立を目指しながら敗北した、というわけです。本書は、「平和と民主主義」の守りに徹した前者に対して、その復活を目指して攻勢に転じたうえで敗北した後者、という視点で1936~1937年における日本の分岐点を検証します。
1936~1937年の危機の前提として、本書は指導層の二極分裂を指摘します。天皇機関説事件もそうした文脈で把握されていますが、本書は、天皇機関説の代表的な論者である美濃部達吉は、議会軽視の「円卓巨頭会議」を提唱しており、政党内閣制だけではなく議会制度の否認にもつながるものだったので、政友会の「機関説排撃、責任政治の確立」という新方針にも一理はあった、と指摘します。美濃部達吉を議会制民主主義の擁護者と把握する図式は美濃部自身が否定していた、というわけです。ただ本書は、政友会の久原房之助たちの陸軍皇道派との提携は、議会制民主主義の観点では擁護できない、と指摘します。
こうした状況で1936年を迎え、大きな政治的動向としては、まず衆院選がありました。衆院は1月21日に解散となり、選挙は2月20日と決まります。つまり、二・二六事件は衆院選の直後に起きたわけですが、本書は、戦後の研究ではこの同時性があまり重視されていなかったのに対して、野坂参三など当時の人々はそれに気づいていた、と指摘します。野坂は、衆院選の結果が反ファシスト人民戦線樹立の可能性の充分な成熟を示した、と当時指摘していました。ただ本書は、野坂の反ファシスト人民戦線構想では、民政党と社会大衆党との間の大きな溝が理解されていなかった、とも指摘します。二・二六事件の意義について、本書は「天皇側近」もしくは「重臣」の影響力喪失を挙げます。
この二・二六事件を境に、「下からのファシズム」は後退し、「上からのファシズム」が日本の政治を支配した、との見解が有力であるものの、議会勢力も二・二六事件直前の衆院選で自信を回復し、幣原外交の伝統を有する民政党は衆院選で大勝したことにより、戦争と侵略への反対が強まった、と本書は指摘します。一方で本書は、戦争に反対する勢力が社会改革には冷淡で、社会改革に積極的だった社会大衆党が陸軍と通ずる「広義国防論」を主張していたことに、「平和」と「改革」が両立しない葛藤を見出だします。
また本書の指摘で重要なのは、この時期の言論の自由で、二・二六事件から戒厳令解除までの5ヶ月間ほどを除けば、一般向け(とはいっても実質的には一定以上の知識層が対象だったでしょうが)雑誌で、「反ファッショ人民戦線」についても特集が組まれたり、陸軍がソ連を、海軍がアメリカ合衆国を仮想敵とするような軍備増強は無謀だ、との記事が掲載されたりするくらいの状況でした。一方で本書は、こうした「日本版人民戦線」構想には国民運動が伴わず、共産党だけではなく反資本主義を堅持する社会主義政党の参加も困難で、民政党と政友会の連合によってしか成立し得なかった、とも指摘します。ただ本書は、1937年1月の宇垣一成の組閣失敗までは、「平和」のための「日本版人民戦線内閣」が成立する可能性も指摘します。
本書は1937年1月の宇垣一成の組閣失敗を、宇垣が関東軍の中国侵略論と参謀本部の対ソ戦論にも批判的だったことから、日本の針路にとって悪い意味で転機になった、と評価します。政友会と民政党は宇垣内閣の成立を企図し、広田内閣末期の国会での「腹切り問答」も、政友会議員の浜田国松が陸軍大臣の寺内寿一を挑発し、広田内閣を瓦解させようとする計画の一環だった、と本書は評価します。一方で社会大衆党は、宇垣内閣の成立に反対しており、本書はこの間の政治状況を、「平和と資本主義」陣営と「戦争と社会主義」陣営に代表させ、宇垣は前者、林銑十郎は後者に支持された、と把握します。本書は、宇垣内閣が成立しなかった一因として、上述の二・二六事件によるは「天皇側近」もしくは「重臣」の影響力喪失を挙げます。「天皇側近」もしくは「重臣」は陸軍に弱腰となり、結局は天皇も宇垣を見捨てた、というわけですが、本書はその前提として、対中戦争間近との認識が天皇とその周囲でも弱く、確かに近いうちに起こるかもしれない対中軍事行動は局地戦で終わる可能性もあった、と天皇やその周囲の認識に一理あったことも指摘します。
宇垣内閣が成立せず、林銑十郎内閣が成立しますが、本書は短期間に終わった林内閣において、石原莞爾に代表される陸軍の一部が「広義国防論」から「狭義国防論」へと転換し、財界と協調的になっていき、陸軍において社会改革への機運が低下していったことを指摘します。この変容を見て、社会大衆党は少なくとも宇垣一成よりは好ましいと考えていた林内閣への批判を強めます。社会大衆党は林内閣での衆院選(1937年4月)で躍進し、議席数をほぼ倍増させます。また当時の言説として、「独裁政治国」の経済的非効率性を指摘した政治評論家の馬場恒吾が注目されます。
1937年4月の衆院選での社会大衆党の躍進や、林内閣が「懲罰」の対象とした二大政党(政友会と民政党)は、議席を減らしつつも総議席数の3/4を超えていることなどから、日本国民は当時まだ民主主義を求め、政治改革を支持していた、と評価します。しかし、この「民主主義の進展」が日中戦争につながったことをどう評価するのかが難問となり、本書も単純明快な回答を提示しているわけではありません。ただ、社会大衆党が衆院選後の1937年5月と6月の各地の市議会議員選挙でも躍進を続けたように、「民主主義の進展」は日中戦争の直前まで続いていた、との本書の指摘は重要だと思います。
この「民主主義の進展」の過程で盧溝橋事件が起き、日中戦争が始まるわけですが、当初は政府も陸軍首脳部も局地戦と考えていたことは、よく知られているでしょう。それは、政府も陸軍首脳も対ソ戦を重視していたことに一因がある、と本書は指摘します。しかし、民間では盧溝橋事件直後においてすでに日中全面戦争を覚悟する見解があることに、本書は注目します。本書は、将来の対ソ戦への備えと国内の民主化の進展は必ずしも矛盾しなかったものの、眼前の対中全面戦争は国内の民主化を圧殺したのではないか、との見通しを提示しています。
ただ本書は、「平和と民主主義」を目指す勢力という観点で、前者の危機の方が強く、後者の方が弱かったわけではない、とも指摘します。前者において、政党勢力が「テロと侵略」の軍ファシズム勢力に対して後退を続け、満洲事変による「既成事実」を追認したのに対して、後者では、日中戦争直前までの政党勢力は公然と「テロと侵略」に反対し、そのための内閣樹立を目指しながら敗北した、というわけです。本書は、「平和と民主主義」の守りに徹した前者に対して、その復活を目指して攻勢に転じたうえで敗北した後者、という視点で1936~1937年における日本の分岐点を検証します。
1936~1937年の危機の前提として、本書は指導層の二極分裂を指摘します。天皇機関説事件もそうした文脈で把握されていますが、本書は、天皇機関説の代表的な論者である美濃部達吉は、議会軽視の「円卓巨頭会議」を提唱しており、政党内閣制だけではなく議会制度の否認にもつながるものだったので、政友会の「機関説排撃、責任政治の確立」という新方針にも一理はあった、と指摘します。美濃部達吉を議会制民主主義の擁護者と把握する図式は美濃部自身が否定していた、というわけです。ただ本書は、政友会の久原房之助たちの陸軍皇道派との提携は、議会制民主主義の観点では擁護できない、と指摘します。
こうした状況で1936年を迎え、大きな政治的動向としては、まず衆院選がありました。衆院は1月21日に解散となり、選挙は2月20日と決まります。つまり、二・二六事件は衆院選の直後に起きたわけですが、本書は、戦後の研究ではこの同時性があまり重視されていなかったのに対して、野坂参三など当時の人々はそれに気づいていた、と指摘します。野坂は、衆院選の結果が反ファシスト人民戦線樹立の可能性の充分な成熟を示した、と当時指摘していました。ただ本書は、野坂の反ファシスト人民戦線構想では、民政党と社会大衆党との間の大きな溝が理解されていなかった、とも指摘します。二・二六事件の意義について、本書は「天皇側近」もしくは「重臣」の影響力喪失を挙げます。
この二・二六事件を境に、「下からのファシズム」は後退し、「上からのファシズム」が日本の政治を支配した、との見解が有力であるものの、議会勢力も二・二六事件直前の衆院選で自信を回復し、幣原外交の伝統を有する民政党は衆院選で大勝したことにより、戦争と侵略への反対が強まった、と本書は指摘します。一方で本書は、戦争に反対する勢力が社会改革には冷淡で、社会改革に積極的だった社会大衆党が陸軍と通ずる「広義国防論」を主張していたことに、「平和」と「改革」が両立しない葛藤を見出だします。
また本書の指摘で重要なのは、この時期の言論の自由で、二・二六事件から戒厳令解除までの5ヶ月間ほどを除けば、一般向け(とはいっても実質的には一定以上の知識層が対象だったでしょうが)雑誌で、「反ファッショ人民戦線」についても特集が組まれたり、陸軍がソ連を、海軍がアメリカ合衆国を仮想敵とするような軍備増強は無謀だ、との記事が掲載されたりするくらいの状況でした。一方で本書は、こうした「日本版人民戦線」構想には国民運動が伴わず、共産党だけではなく反資本主義を堅持する社会主義政党の参加も困難で、民政党と政友会の連合によってしか成立し得なかった、とも指摘します。ただ本書は、1937年1月の宇垣一成の組閣失敗までは、「平和」のための「日本版人民戦線内閣」が成立する可能性も指摘します。
本書は1937年1月の宇垣一成の組閣失敗を、宇垣が関東軍の中国侵略論と参謀本部の対ソ戦論にも批判的だったことから、日本の針路にとって悪い意味で転機になった、と評価します。政友会と民政党は宇垣内閣の成立を企図し、広田内閣末期の国会での「腹切り問答」も、政友会議員の浜田国松が陸軍大臣の寺内寿一を挑発し、広田内閣を瓦解させようとする計画の一環だった、と本書は評価します。一方で社会大衆党は、宇垣内閣の成立に反対しており、本書はこの間の政治状況を、「平和と資本主義」陣営と「戦争と社会主義」陣営に代表させ、宇垣は前者、林銑十郎は後者に支持された、と把握します。本書は、宇垣内閣が成立しなかった一因として、上述の二・二六事件によるは「天皇側近」もしくは「重臣」の影響力喪失を挙げます。「天皇側近」もしくは「重臣」は陸軍に弱腰となり、結局は天皇も宇垣を見捨てた、というわけですが、本書はその前提として、対中戦争間近との認識が天皇とその周囲でも弱く、確かに近いうちに起こるかもしれない対中軍事行動は局地戦で終わる可能性もあった、と天皇やその周囲の認識に一理あったことも指摘します。
宇垣内閣が成立せず、林銑十郎内閣が成立しますが、本書は短期間に終わった林内閣において、石原莞爾に代表される陸軍の一部が「広義国防論」から「狭義国防論」へと転換し、財界と協調的になっていき、陸軍において社会改革への機運が低下していったことを指摘します。この変容を見て、社会大衆党は少なくとも宇垣一成よりは好ましいと考えていた林内閣への批判を強めます。社会大衆党は林内閣での衆院選(1937年4月)で躍進し、議席数をほぼ倍増させます。また当時の言説として、「独裁政治国」の経済的非効率性を指摘した政治評論家の馬場恒吾が注目されます。
1937年4月の衆院選での社会大衆党の躍進や、林内閣が「懲罰」の対象とした二大政党(政友会と民政党)は、議席を減らしつつも総議席数の3/4を超えていることなどから、日本国民は当時まだ民主主義を求め、政治改革を支持していた、と評価します。しかし、この「民主主義の進展」が日中戦争につながったことをどう評価するのかが難問となり、本書も単純明快な回答を提示しているわけではありません。ただ、社会大衆党が衆院選後の1937年5月と6月の各地の市議会議員選挙でも躍進を続けたように、「民主主義の進展」は日中戦争の直前まで続いていた、との本書の指摘は重要だと思います。
この「民主主義の進展」の過程で盧溝橋事件が起き、日中戦争が始まるわけですが、当初は政府も陸軍首脳部も局地戦と考えていたことは、よく知られているでしょう。それは、政府も陸軍首脳も対ソ戦を重視していたことに一因がある、と本書は指摘します。しかし、民間では盧溝橋事件直後においてすでに日中全面戦争を覚悟する見解があることに、本書は注目します。本書は、将来の対ソ戦への備えと国内の民主化の進展は必ずしも矛盾しなかったものの、眼前の対中全面戦争は国内の民主化を圧殺したのではないか、との見通しを提示しています。
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