水ノ江和同『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』
朝日選書の一冊として、朝日新聞出版より2022年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はまず、縄文文化の範囲が現在の日本国の領土とほぼ重なる、と指摘します。つまり、北方は宗谷海峡と択捉海峡まで、伊豆諸島では八丈島ので、九州では対馬島と沖縄県の久米島までとなります。縄文時代にこの範囲を越えて、周辺地域由来と考えられる遺物(考古資料)が日本列島で、逆に周辺地域で日本列島由来と考えられる遺物が発見された場合、「交流」として高く評価されてきました。しかし本書は、そもそも「交流」という用語を使うことに疑問を呈します。縄文時代において、縄文文化の範囲の内外で、それぞれ相手方と考えられる考古資料は必ずしも多くないので、弥生時代以降と同等の「交流」を想起させる用語を使うのは適切ではない、というわけです。本書は、縄文文化の範囲の内外で、それぞれ相手方と考えられる考古資料が発見されている事象を、「交流」ではなく「関係性」や「往き来」という用語で表現します。
次に本書は、縄文時代における海を越えた「往き来」について、これまで高く評価されてきたものの、その理由や経路などについて、考古学的研究に不可欠な形式学的検討が不充分だった、と指摘します。本書はこうした問題意識から、縄文文化とその周辺地域の文化との関係性を重視し、おもに北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島との考古学的な事実関係を検討します。なお。本書における縄文時代の時期区分は、草創期(16000~11000年前頃)→早期(11000~7500年前頃)→前期(7500~5500年前頃)→中期(5500~4200年前頃)→後期(4200~3200年前頃)→晩期(3200~2400年前頃)で、九州北部の玄界灘沿岸部のみ、2800~2400年前頃は弥生時代早期となります。なお、本書は、ユーラシア大陸東端部に位置する、現在のロシア極東から中国東部(東北と華北と華中と華南)を「大陸」と表記しています。
縄文時代と縄文文化の開始については議論がありますが、本書は旧石器時代と縄文時代の違いとして、ナウマンゾウやヘラジカといった大型動物ではなく、シカやイノシシといった動きの速い小型動物を捕獲する飛び道具としての弓矢の出現、竪穴住居の建築などに必要な木材の伐採や加工を可能にした磨製石斧の普及、温暖化による食料獲得の安定化に伴う定住生活、やや遅れるものの魚介類の捕獲増加とそれに伴う貝塚の出現および急増を挙げています。縄文時代の終焉は北海道などを除いて弥生時代の始まりとなりますが、縄文土器と考えられていた「夜臼式土器」と大陸系磨製石器や木製農具が出土し、水田の跡が確認されたことから、縄文時代最終末期にはすでに稲作農耕が始まっていたのか、それとも弥生時代の開始が早まるのか、議論になりました。その後の研究の進展により、福岡県と佐賀県の玄界灘沿岸部意外ではこうした事例が認められず、玄界灘沿岸部に限定して「弥生時代早期」という時代区分の設定が提案されました。縄文文化の世界的な位置づけとしては、新石器時代に一般的に見られる本格的な農耕と牧畜はないものの、食料も含めて資源に恵まれ、多様な装飾品も見られることから、「森林性新石器文化」と位置づける見解もあります。なお、縄文時代には西日本より東日本の方が栄えていた、との見解が有力ですが、本書はこれが研究実績の差から無意識のうちに創出されている可能性を指摘します。
本書は縄文時代における渡海について、縄文文化の島嶼部への拡散の考古資料を検証し、まず南島(元々は大隅諸島と吐噶喇列島と奄美群島を指し、その後は尖閣諸島と大東初頭以外の琉球列島の島々を指すようになります)を対象としますが、縄文文化が及ばない先島諸島は除外しています。南島は縄文時代には亜熱帯性海洋性気候で、動植物の生態は独特でした。南島では、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」の縄文時代から古代に相当する期間は貝塚時代と呼ばれてきました。貝塚時代早期~中期は「本土」の縄文時代に位置づけられ、「本土」の弥生時代に相当するのは貝塚時代後期です。ただ、この貝塚時代が縄文文化に位置づけられるのか、20世紀後半に議論があり、今でも貝塚時代早期~中期を縄文時代と位置づけることは定着していないようです。本書は、日本列島の島嶼部には多様な縄文文化があることを指摘し、貝塚時代を多様な縄文文化の一つと位置づけます。九州島から沖縄本島までの距離は約530kmですが、好天時には島影を次々と目視でき、九州島から沖縄本島まで渡海できます。久米島から先島諸島の最東端である宮古島までの距離は約220kmなので、好天時でも島影を目視できないため、縄文時代の人々(縄文人)は先島諸島の存在を知ることができなかっただろう、と本書は推測し、じっさい先島諸島には縄文文化の痕跡はまったくない、と指摘します。縄文時代において日本列島内での航海はとくに前期中葉以降に盛んだったようで、黒曜石や貝の採取などが目的でしたが、沖ノ島などについては、現時点で渡海の目的は不明です。大陸と日本列島との間の経路については、北方のサハリンや朝鮮半島や東シナ海や沖縄や日本海といった経路が想定されてきましたが、本書は、これまで大陸から日本列島という一方通行のみに議論が偏り、その逆方向が軽視される傾向にあった、と指摘します。
日本列島と大陸との関係で本書が重視する考古資料は玦状耳飾です。縄文時代早期末葉~中期中葉にかけて見られる玦状耳飾が日本列島の独自起源なのか、それとも大陸起源なのか、という議論は、縄文文化をアジア東部においてどう位置づけるのか、という問題とも関わってくるからです。これに関しては長い議論がありましたが、出現期の製作遺跡が北陸沿岸部に集中することから、対馬海流を介した中華地域からの伝来説が主流となります。さらに、中国でも起源地は江南なのか東北なのか、といった問題も議論されました。本書はこの長きにわたる議論について、日本列島全体での編年研究と、大陸との類似性に関して形式や年代や製作技法や伝来経路の検討が不充分で、日本列島に近接する現在のロシア極東や朝鮮半島との関係性については未検討と指摘し、改めてこれらの問題を検証します。玦状耳飾は縄文時代早期末葉に北海道から九州まで、まず環形が一斉に出現し、北陸で最も出土数が多く、製作遺跡も集中しますが、現時点で北陸が他地域に先行することを示す直接的証拠はない、と本書は指摘します。玦状耳飾が大陸から日本列島にどの経路で到来したかも、現時点で確定は困難なようです。
上述のように、縄文文化の北方の境界は宗谷海峡と択捉海峡で、本書は北海道とサハリン、さらにはアムール川下流域(本書ではまとめて「ロシア極東」とされます)までを比較します。行政目的の発掘調査が多い北海道の考古資料は、ほぼ学術目的の発掘に限定されるロシア極東よりもはるかに多いものの、近年では比較研究が着実に進みつつあるようです。宗谷海峡を挟んで縄文時代の北海道とロシア極東との間のまとまった往き来が確認されているのは、縄文時代早期後葉の1回だけです。北海道の縄文文化の外来要素としては、東部で見られる縄文時代早期後葉の石刃鏃文化が注目されてきました。石刃鏃文化の構成要素には、環状石製品や篦状垂飾や小玉などの石製装身具と擦切石斧があります。現在では、以前には石刃鏃文化の構成要素と考えられた条痕文土器が、石刃鏃文化以前の北海道に存在することなど、北海道とサハリンのつながりが以前の想定よりも薄かった、との見解が有力になりつつあります。石刃鏃文化の集落構造が北海道西部および南部や東北と類似していることなどからも、石刃鏃文化は縄文時代早期後葉の一時期だけ北海道東部に伝来し、根づくことはなかった、というわけです。
縄文文化の南西の境界は九州と朝鮮半島との間となります。縄文時代の九州と朝鮮半島との関係は、曽畑式土器と朝鮮半島の櫛目文土器との類似性や、結合式釣針が対馬海峡西水道を挟んで曽畑式土器の出現以降に、朝鮮半島の東および南海岸と西北九州に集中して分布することなどから注目され、結合式釣針は1970年代~1980年代には、縄文時代における漁撈民の「交流の証」とされました。その後、21世紀にはそうした見解の見直しが進みます。朝鮮半島には九州由来の考古資料が、九州には朝鮮半島由来の考古資料が少なく、相手側の考古資料の出土を過大評価してきたのではないか、というわけです。本書はこうした状況を、「交流」ではなく「往き来」と評価します。
本書は、曽畑式土器の出現に朝鮮半島が関わっている可能性はきわめて低い(若しくはほぼない)と指摘しつつも、曽畑式土器には、土器の外面全体の文様や胎土への滑石の混入など、西日本の縄文土器や朝鮮半島の土器にも系譜をたどれない特徴があり、その出現系譜はまだ不明である、と問題を提起します。朝鮮半島南海岸では、在来の土器と明らかに異なる縄文土器が確認されてきており、九州の「縄文人」が持ち込んだ、と考えられてきました。しかし、よく調べると九州の縄文土器と似ているものの異なる土器も一定数存在しており、九州から朝鮮半島に到来した「縄文人」が、経時的に記憶が曖昧化していく中で製作した独自の縄文土器だろう、と推測します。本書はこうした土器を「九州系縄文土器」と呼びます。九州における朝鮮半島系の考古資料はほぼ対馬島に限られ、対馬島北西部では、朝鮮半島の新石器時代早期の隆起文土器などが多数を占め、縄文時代前期の西唐津式土器や曽畑式土器がごく少ない遺跡もあります。こうした朝鮮半島系土器の形式変化が連続的であることから、一定期間継続的に居住していた、と推測されます。しかし、対馬島におけるほぼ完全に朝鮮半島新石器時代系と言える遺跡は現時点で2ヶ所だけで、周辺の縄文時代遺跡からは、朝鮮半島系土器はほとんど出土していません。本書はこの考古学的証拠の解釈は難問としつつ、朝鮮半島には存在しない黒曜石の収集および搬出拠点として存在した可能性も指摘します。結合式釣針については、朝鮮半島では新石器時代の早期と前期(九州の縄文時代前期)に限定され、九州では縄文時代後期初頭~中葉にほぼ限られ、主体となる年代が異なることや、技術的な違いから、共通性の乏しさが指摘されています。本書は、九州の結合式釣針の起源が東日本にある、と推測しています。
本書はこれらの知見を踏まえて、縄文時代における九州と朝鮮半島との関係は縄文時代早期末葉から後期中葉まで長期にわたるものの、断続的と指摘します。朝鮮半島で出土した最多の九州系縄文土器は、縄文時代後期初頭の坂の下式土器です。縄文時代後期初頭には、関東の称名寺式土器や関西の中津式土器の系統とされる磨消縄文と呼ばれる文様が、北海道南部から九州北部にまで分布し、九州では大珠や土偶や仮面形貝製品が出現するなど、大きな動きが見られ、西北九州に出現した鈴桶技法による黒曜石製の剥片鏃が朝鮮半島からも出土することから、画期となった縄文時代後期初頭において、日本列島の大きな動きの余波として、九州から朝鮮半島への往き来もそれ以前より活発になったのだろう、と推測します。ただ本書は、全体的には、九州と朝鮮半島との間の「往き来」の回数自体は決して多いとは言えないだろう、と指摘します。本書は、弥生時代以降の九州と朝鮮半島との関係の下地・前段階となる交流が縄文時代にもすでにあった、との潜在的意識が考古学者にあり、縄文時代の九州と朝鮮半島との「交流」が過大評価されてきたのではないか、と指摘します。確かに、縄文時代の九州と朝鮮半島との間に「往き来」は間違いなくあったものの、互いの文化に影響を及ぼすほどの「交流」には明らかに遠く及ばない、というわけです。
本書は、縄文時代の日本列島において島嶼部への航海が活発だったことと、それとは対照的に、同じような距離の航海だったにも関わらず、日本列島とサハリンや朝鮮半島との関係がずっと低調だった要因として、「文化圏と言葉」を挙げています。日本列島全体では、さまざまな地域性が存在しながらも、同じ技術や約束事で縄文土器が作られており、その継承には言葉による説明が必要だった、と本書は指摘します。九州から南島、とくに沖縄本島に至る航海にはかなりの危険が伴いますが、時期による差はあれども、南島では断続的に九州の縄文文化が伝わり、影響を及ぼしていました。本書はその理由として、言葉によるある程度の意思疎通があった、と想定し、南島は大枠では縄文文化圏だった、と指摘します。一方、縄文時代において、北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島では、言葉による意思疎通はほとんどできていなかった、と本書は推測します。この「文化圏と言葉」の関係性は、日本列島が海により隔絶していた旧石器時代には存在していた、と本書は推測します。「縄文人」は、日本列島の各島嶼部には、思疎通可能な共通の言葉を有している人々がいるものの、サハリンや朝鮮半島にはそうした人々がいないと知っていた、というわけです。一方、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した稲作農耕文化は、目で見るだけでは伝わらないので、言葉の壁を超えて意思疎通できる通訳が現れた、というわけです。ただ本書は、こうした縄文時代の日本列島とその周辺地域との関係性で説明の難しい考古資料、具体的には玦状耳飾や結合式釣針や装身具文様があることも指摘し、今後の課題としています。
以上、本書をざっと見てきました。本書は、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土と重なり、その近隣地域、つまり北方ではサハリン、西方では朝鮮半島との間には文化的に大きな影響を残した相互作用はなく、「交流」ではなく「往き来」と評価すべきである、と主張します。これは、縄文文化がほぼ日本列島に限定され、かなり孤立した文化だったことを示しているように思います。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有する状況ではなく、対馬海峡で文化圏を区分できるのではないか、との見解を以前に読んでいたので(関連記事)、本書の見解にはとくに意外ではありませんが、具体的な検証が詳しく、用語の解説もあるので、私にとって本書は大当たりでした。私のような非専門家が縄文時代の日本列島と周辺地域との文化的関係を調べるさいに、本書は長く教科書的な役割を担うことになるでしょう。
本書では古代ゲノム研究は取り上げられていませんが、改めて、遺伝と文化と民族を単純に相関させてはならいない、と痛感します。「縄文人」は、既知の現代人および古代人集団に対して一まとまりを形成する独特な集団で、時空間的に広範囲にわたって遺伝的には均質だった、と考えられます(関連記事)。この「縄文人」的な遺伝的構成要素をさまざまな割合でゲノムに有する個体は、ほぼ日本列島というか縄文文化の範囲に限定されていますが、例外が先島諸島と朝鮮半島南岸で(関連記事)、現在のロシア極東の沿岸部もその例外に含まれるかもしれません(関連記事)。
上述のように、先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と本書は指摘していますが、先島諸島の紀元前9~紀元前6世紀頃の個体は、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なります。考古資料からは先島諸島に縄文文化の影響は見えないものの、言語や精神文化では強い共通性があった、と主張できるかもしれませんが、現時点でかなり苦しいことは否定できないでしょう。先島諸島にいつ「縄文人」的な遺伝的構成の集団が到来したのか、その集団は琉球諸島北部の貝塚時代の集団と言語も含めてどの程度の文化的共通性があったのか、現時点では推測が困難です。やはり、遺伝というかDNAと文化を安易に関連づけてはならないのでしょう(関連記事)。
朝鮮半島南岸では、新石器時代に「縄文人」的な遺伝的構成要素をゲノムに有する個体が確認されており、その中には遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体も存在します。本書の見解を踏まえて、これをどう解釈すべきなのか、現時点では推測の難しいところで、「縄文人」的な遺伝的構成の集団の形成過程とも関わって、さまざまな可能性が考えられます(関連記事)。たとえば、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が朝鮮半島南部で形成され、日本列島へと拡散した場合、朝鮮半島南岸の人類集団において新石器時代を通じて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続した可能性も、一旦消滅して縄文時代の日本列島から到来した可能性も考えられます。あるいは、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島で形成されたものの、その主要な祖先集団の一部が朝鮮半島南岸に留まり、それ故に朝鮮半島南岸の新石器時代人類集団の中には、「縄文人」的な遺伝的構成要素とアジア北東部集団的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体が存在するのかもしれません。この場合、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体は、近い祖先の多くが縄文時代の日本列島に由来するのかもしれません。こうした問題については、そのうち一度まとめるつもりです。
参考文献:
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
次に本書は、縄文時代における海を越えた「往き来」について、これまで高く評価されてきたものの、その理由や経路などについて、考古学的研究に不可欠な形式学的検討が不充分だった、と指摘します。本書はこうした問題意識から、縄文文化とその周辺地域の文化との関係性を重視し、おもに北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島との考古学的な事実関係を検討します。なお。本書における縄文時代の時期区分は、草創期(16000~11000年前頃)→早期(11000~7500年前頃)→前期(7500~5500年前頃)→中期(5500~4200年前頃)→後期(4200~3200年前頃)→晩期(3200~2400年前頃)で、九州北部の玄界灘沿岸部のみ、2800~2400年前頃は弥生時代早期となります。なお、本書は、ユーラシア大陸東端部に位置する、現在のロシア極東から中国東部(東北と華北と華中と華南)を「大陸」と表記しています。
縄文時代と縄文文化の開始については議論がありますが、本書は旧石器時代と縄文時代の違いとして、ナウマンゾウやヘラジカといった大型動物ではなく、シカやイノシシといった動きの速い小型動物を捕獲する飛び道具としての弓矢の出現、竪穴住居の建築などに必要な木材の伐採や加工を可能にした磨製石斧の普及、温暖化による食料獲得の安定化に伴う定住生活、やや遅れるものの魚介類の捕獲増加とそれに伴う貝塚の出現および急増を挙げています。縄文時代の終焉は北海道などを除いて弥生時代の始まりとなりますが、縄文土器と考えられていた「夜臼式土器」と大陸系磨製石器や木製農具が出土し、水田の跡が確認されたことから、縄文時代最終末期にはすでに稲作農耕が始まっていたのか、それとも弥生時代の開始が早まるのか、議論になりました。その後の研究の進展により、福岡県と佐賀県の玄界灘沿岸部意外ではこうした事例が認められず、玄界灘沿岸部に限定して「弥生時代早期」という時代区分の設定が提案されました。縄文文化の世界的な位置づけとしては、新石器時代に一般的に見られる本格的な農耕と牧畜はないものの、食料も含めて資源に恵まれ、多様な装飾品も見られることから、「森林性新石器文化」と位置づける見解もあります。なお、縄文時代には西日本より東日本の方が栄えていた、との見解が有力ですが、本書はこれが研究実績の差から無意識のうちに創出されている可能性を指摘します。
本書は縄文時代における渡海について、縄文文化の島嶼部への拡散の考古資料を検証し、まず南島(元々は大隅諸島と吐噶喇列島と奄美群島を指し、その後は尖閣諸島と大東初頭以外の琉球列島の島々を指すようになります)を対象としますが、縄文文化が及ばない先島諸島は除外しています。南島は縄文時代には亜熱帯性海洋性気候で、動植物の生態は独特でした。南島では、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」の縄文時代から古代に相当する期間は貝塚時代と呼ばれてきました。貝塚時代早期~中期は「本土」の縄文時代に位置づけられ、「本土」の弥生時代に相当するのは貝塚時代後期です。ただ、この貝塚時代が縄文文化に位置づけられるのか、20世紀後半に議論があり、今でも貝塚時代早期~中期を縄文時代と位置づけることは定着していないようです。本書は、日本列島の島嶼部には多様な縄文文化があることを指摘し、貝塚時代を多様な縄文文化の一つと位置づけます。九州島から沖縄本島までの距離は約530kmですが、好天時には島影を次々と目視でき、九州島から沖縄本島まで渡海できます。久米島から先島諸島の最東端である宮古島までの距離は約220kmなので、好天時でも島影を目視できないため、縄文時代の人々(縄文人)は先島諸島の存在を知ることができなかっただろう、と本書は推測し、じっさい先島諸島には縄文文化の痕跡はまったくない、と指摘します。縄文時代において日本列島内での航海はとくに前期中葉以降に盛んだったようで、黒曜石や貝の採取などが目的でしたが、沖ノ島などについては、現時点で渡海の目的は不明です。大陸と日本列島との間の経路については、北方のサハリンや朝鮮半島や東シナ海や沖縄や日本海といった経路が想定されてきましたが、本書は、これまで大陸から日本列島という一方通行のみに議論が偏り、その逆方向が軽視される傾向にあった、と指摘します。
日本列島と大陸との関係で本書が重視する考古資料は玦状耳飾です。縄文時代早期末葉~中期中葉にかけて見られる玦状耳飾が日本列島の独自起源なのか、それとも大陸起源なのか、という議論は、縄文文化をアジア東部においてどう位置づけるのか、という問題とも関わってくるからです。これに関しては長い議論がありましたが、出現期の製作遺跡が北陸沿岸部に集中することから、対馬海流を介した中華地域からの伝来説が主流となります。さらに、中国でも起源地は江南なのか東北なのか、といった問題も議論されました。本書はこの長きにわたる議論について、日本列島全体での編年研究と、大陸との類似性に関して形式や年代や製作技法や伝来経路の検討が不充分で、日本列島に近接する現在のロシア極東や朝鮮半島との関係性については未検討と指摘し、改めてこれらの問題を検証します。玦状耳飾は縄文時代早期末葉に北海道から九州まで、まず環形が一斉に出現し、北陸で最も出土数が多く、製作遺跡も集中しますが、現時点で北陸が他地域に先行することを示す直接的証拠はない、と本書は指摘します。玦状耳飾が大陸から日本列島にどの経路で到来したかも、現時点で確定は困難なようです。
上述のように、縄文文化の北方の境界は宗谷海峡と択捉海峡で、本書は北海道とサハリン、さらにはアムール川下流域(本書ではまとめて「ロシア極東」とされます)までを比較します。行政目的の発掘調査が多い北海道の考古資料は、ほぼ学術目的の発掘に限定されるロシア極東よりもはるかに多いものの、近年では比較研究が着実に進みつつあるようです。宗谷海峡を挟んで縄文時代の北海道とロシア極東との間のまとまった往き来が確認されているのは、縄文時代早期後葉の1回だけです。北海道の縄文文化の外来要素としては、東部で見られる縄文時代早期後葉の石刃鏃文化が注目されてきました。石刃鏃文化の構成要素には、環状石製品や篦状垂飾や小玉などの石製装身具と擦切石斧があります。現在では、以前には石刃鏃文化の構成要素と考えられた条痕文土器が、石刃鏃文化以前の北海道に存在することなど、北海道とサハリンのつながりが以前の想定よりも薄かった、との見解が有力になりつつあります。石刃鏃文化の集落構造が北海道西部および南部や東北と類似していることなどからも、石刃鏃文化は縄文時代早期後葉の一時期だけ北海道東部に伝来し、根づくことはなかった、というわけです。
縄文文化の南西の境界は九州と朝鮮半島との間となります。縄文時代の九州と朝鮮半島との関係は、曽畑式土器と朝鮮半島の櫛目文土器との類似性や、結合式釣針が対馬海峡西水道を挟んで曽畑式土器の出現以降に、朝鮮半島の東および南海岸と西北九州に集中して分布することなどから注目され、結合式釣針は1970年代~1980年代には、縄文時代における漁撈民の「交流の証」とされました。その後、21世紀にはそうした見解の見直しが進みます。朝鮮半島には九州由来の考古資料が、九州には朝鮮半島由来の考古資料が少なく、相手側の考古資料の出土を過大評価してきたのではないか、というわけです。本書はこうした状況を、「交流」ではなく「往き来」と評価します。
本書は、曽畑式土器の出現に朝鮮半島が関わっている可能性はきわめて低い(若しくはほぼない)と指摘しつつも、曽畑式土器には、土器の外面全体の文様や胎土への滑石の混入など、西日本の縄文土器や朝鮮半島の土器にも系譜をたどれない特徴があり、その出現系譜はまだ不明である、と問題を提起します。朝鮮半島南海岸では、在来の土器と明らかに異なる縄文土器が確認されてきており、九州の「縄文人」が持ち込んだ、と考えられてきました。しかし、よく調べると九州の縄文土器と似ているものの異なる土器も一定数存在しており、九州から朝鮮半島に到来した「縄文人」が、経時的に記憶が曖昧化していく中で製作した独自の縄文土器だろう、と推測します。本書はこうした土器を「九州系縄文土器」と呼びます。九州における朝鮮半島系の考古資料はほぼ対馬島に限られ、対馬島北西部では、朝鮮半島の新石器時代早期の隆起文土器などが多数を占め、縄文時代前期の西唐津式土器や曽畑式土器がごく少ない遺跡もあります。こうした朝鮮半島系土器の形式変化が連続的であることから、一定期間継続的に居住していた、と推測されます。しかし、対馬島におけるほぼ完全に朝鮮半島新石器時代系と言える遺跡は現時点で2ヶ所だけで、周辺の縄文時代遺跡からは、朝鮮半島系土器はほとんど出土していません。本書はこの考古学的証拠の解釈は難問としつつ、朝鮮半島には存在しない黒曜石の収集および搬出拠点として存在した可能性も指摘します。結合式釣針については、朝鮮半島では新石器時代の早期と前期(九州の縄文時代前期)に限定され、九州では縄文時代後期初頭~中葉にほぼ限られ、主体となる年代が異なることや、技術的な違いから、共通性の乏しさが指摘されています。本書は、九州の結合式釣針の起源が東日本にある、と推測しています。
本書はこれらの知見を踏まえて、縄文時代における九州と朝鮮半島との関係は縄文時代早期末葉から後期中葉まで長期にわたるものの、断続的と指摘します。朝鮮半島で出土した最多の九州系縄文土器は、縄文時代後期初頭の坂の下式土器です。縄文時代後期初頭には、関東の称名寺式土器や関西の中津式土器の系統とされる磨消縄文と呼ばれる文様が、北海道南部から九州北部にまで分布し、九州では大珠や土偶や仮面形貝製品が出現するなど、大きな動きが見られ、西北九州に出現した鈴桶技法による黒曜石製の剥片鏃が朝鮮半島からも出土することから、画期となった縄文時代後期初頭において、日本列島の大きな動きの余波として、九州から朝鮮半島への往き来もそれ以前より活発になったのだろう、と推測します。ただ本書は、全体的には、九州と朝鮮半島との間の「往き来」の回数自体は決して多いとは言えないだろう、と指摘します。本書は、弥生時代以降の九州と朝鮮半島との関係の下地・前段階となる交流が縄文時代にもすでにあった、との潜在的意識が考古学者にあり、縄文時代の九州と朝鮮半島との「交流」が過大評価されてきたのではないか、と指摘します。確かに、縄文時代の九州と朝鮮半島との間に「往き来」は間違いなくあったものの、互いの文化に影響を及ぼすほどの「交流」には明らかに遠く及ばない、というわけです。
本書は、縄文時代の日本列島において島嶼部への航海が活発だったことと、それとは対照的に、同じような距離の航海だったにも関わらず、日本列島とサハリンや朝鮮半島との関係がずっと低調だった要因として、「文化圏と言葉」を挙げています。日本列島全体では、さまざまな地域性が存在しながらも、同じ技術や約束事で縄文土器が作られており、その継承には言葉による説明が必要だった、と本書は指摘します。九州から南島、とくに沖縄本島に至る航海にはかなりの危険が伴いますが、時期による差はあれども、南島では断続的に九州の縄文文化が伝わり、影響を及ぼしていました。本書はその理由として、言葉によるある程度の意思疎通があった、と想定し、南島は大枠では縄文文化圏だった、と指摘します。一方、縄文時代において、北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島では、言葉による意思疎通はほとんどできていなかった、と本書は推測します。この「文化圏と言葉」の関係性は、日本列島が海により隔絶していた旧石器時代には存在していた、と本書は推測します。「縄文人」は、日本列島の各島嶼部には、思疎通可能な共通の言葉を有している人々がいるものの、サハリンや朝鮮半島にはそうした人々がいないと知っていた、というわけです。一方、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した稲作農耕文化は、目で見るだけでは伝わらないので、言葉の壁を超えて意思疎通できる通訳が現れた、というわけです。ただ本書は、こうした縄文時代の日本列島とその周辺地域との関係性で説明の難しい考古資料、具体的には玦状耳飾や結合式釣針や装身具文様があることも指摘し、今後の課題としています。
以上、本書をざっと見てきました。本書は、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土と重なり、その近隣地域、つまり北方ではサハリン、西方では朝鮮半島との間には文化的に大きな影響を残した相互作用はなく、「交流」ではなく「往き来」と評価すべきである、と主張します。これは、縄文文化がほぼ日本列島に限定され、かなり孤立した文化だったことを示しているように思います。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有する状況ではなく、対馬海峡で文化圏を区分できるのではないか、との見解を以前に読んでいたので(関連記事)、本書の見解にはとくに意外ではありませんが、具体的な検証が詳しく、用語の解説もあるので、私にとって本書は大当たりでした。私のような非専門家が縄文時代の日本列島と周辺地域との文化的関係を調べるさいに、本書は長く教科書的な役割を担うことになるでしょう。
本書では古代ゲノム研究は取り上げられていませんが、改めて、遺伝と文化と民族を単純に相関させてはならいない、と痛感します。「縄文人」は、既知の現代人および古代人集団に対して一まとまりを形成する独特な集団で、時空間的に広範囲にわたって遺伝的には均質だった、と考えられます(関連記事)。この「縄文人」的な遺伝的構成要素をさまざまな割合でゲノムに有する個体は、ほぼ日本列島というか縄文文化の範囲に限定されていますが、例外が先島諸島と朝鮮半島南岸で(関連記事)、現在のロシア極東の沿岸部もその例外に含まれるかもしれません(関連記事)。
上述のように、先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と本書は指摘していますが、先島諸島の紀元前9~紀元前6世紀頃の個体は、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なります。考古資料からは先島諸島に縄文文化の影響は見えないものの、言語や精神文化では強い共通性があった、と主張できるかもしれませんが、現時点でかなり苦しいことは否定できないでしょう。先島諸島にいつ「縄文人」的な遺伝的構成の集団が到来したのか、その集団は琉球諸島北部の貝塚時代の集団と言語も含めてどの程度の文化的共通性があったのか、現時点では推測が困難です。やはり、遺伝というかDNAと文化を安易に関連づけてはならないのでしょう(関連記事)。
朝鮮半島南岸では、新石器時代に「縄文人」的な遺伝的構成要素をゲノムに有する個体が確認されており、その中には遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体も存在します。本書の見解を踏まえて、これをどう解釈すべきなのか、現時点では推測の難しいところで、「縄文人」的な遺伝的構成の集団の形成過程とも関わって、さまざまな可能性が考えられます(関連記事)。たとえば、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が朝鮮半島南部で形成され、日本列島へと拡散した場合、朝鮮半島南岸の人類集団において新石器時代を通じて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続した可能性も、一旦消滅して縄文時代の日本列島から到来した可能性も考えられます。あるいは、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島で形成されたものの、その主要な祖先集団の一部が朝鮮半島南岸に留まり、それ故に朝鮮半島南岸の新石器時代人類集団の中には、「縄文人」的な遺伝的構成要素とアジア北東部集団的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体が存在するのかもしれません。この場合、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体は、近い祖先の多くが縄文時代の日本列島に由来するのかもしれません。こうした問題については、そのうち一度まとめるつもりです。
参考文献:
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
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