5万年以上前となるネアンデルタール人の線刻
5万年以上前となるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の線刻を報告した研究(Marquet et al., 2023)が公表されました。本論文は、フランスのロワール渓谷に位置するラ・ロッシュ・コタール(La Roche-Cotard、略してLRC)洞窟の壁面の線刻の年代が5万年以上前であることと、それがネアンデルタール人の所産であることを示します。確かに、フランスでも地中海より大西洋の方にずっと近いLRC洞窟とその周辺地域で、5万年以上前の現生人類(Homo sapiens)遺骸も、現生人類の所産と考えられる人工遺物も発見されていないでしょうが、54000年前頃にフランス地中海地域で現生人類遺骸が発見されていること(関連記事)は気になります。LRC洞窟で発見された石器は典型的なムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)でしたから、LRC洞窟の5万年以上前の壁面の線刻がネアンデルタール人の所産である可能性はきわめて高そうですが、このネアンデルタール人集団の祖先が以前にはもっと南方に存在し、遭遇した現生人類集団から線刻などの文化を継承した可能性は、低そうとはいえ無視してはならないようにも思います。
●要約
本論文は、57000±3000年前となる、フランス中部のLRC遺跡の洞窟壁面のネアンデルタール人による線刻を報告します。LRC洞窟は、ヒトの居住後、寒冷期の堆積物により完全に塞がれ、そのため19世紀の発見と20世紀初頭の最初の発掘まで、立ち入りが妨げられました。洞窟の閉鎖時期は、洞窟の内部周辺から採取された堆積物に由来する、50点の光刺激ルミネッセンス(Optically Stimulated Luminescence、略してOSL)年代に基づいています。LRC洞窟内で見つかった空間的に構造化されて非具象的な痕跡の人為的起源は、化石生成論と痕跡学と実験での証拠を用いて確証されました。洞窟の閉鎖は現生人類(Homo sapiens)のこの地域への到来のずっと前に起きており、LRC洞窟内の全ての人工遺物は典型的なムステリアン石器です。ヨーロッパ西部では、ムステリアン石器はネアンデルタール人に特有とされています。本論文は、LRC洞窟の線刻はネアンデルタール人の抽象的模様の明確な事例である、と結論づけます。
●研究史
1980年代以降、多くの発見がネアンデルタール人の行動の多様性の証拠を提供してきました。しかし、ネアンデルタール人の所産とされる象徴的作品は少なく、たとえば、骨もしくは岩への線刻(関連記事)やさまざまに変形された貝殻(関連記事1および関連記事2)や羽毛および猛禽類の爪の使用の可能性(関連記事)が含まれます。顔料の使用もこの分類の範疇かもしれませんが、顔料には実用的機能があったかもしれません(関連記事)。
他の活動は、石と骨で作られた複雑な物体や、洞窟内の建築物に代表される地下環境の流用など、明らかな同等のない事例により表されます。フランス南西部のブルニケル(Bruniquel)洞窟では、入口から300m以上の場所に位置する大きな空洞で、多くの石筍が意図的に破壊されて地下に置かれ、他のより小さな構造と関連する、大きな楕円形の構造を形成します。これらの構造物では、火の痕跡が見つかりました。ウラン-トリウム(U-Th)年代測定により、この高度に構造化された建築構造の年代は17万年前頃とされました(関連記事)。象徴的行動(埋葬を含みます)の他の兆候は、議論になっています(関連記事1および関連記事2)。まとめると、ネアンデルタール人の象徴的活動はその後の期間とはかなり異なっているようです。
機能的解体痕とは異なる、稀な記号的痕跡が、他の中部旧石器時代遺跡の骨の断片や岩や洞窟二次生成物や貝殻で観察されてきました。線刻されたギガンテウスオオツノジカの指骨が、ドイツのアインホルンヘーレ(Einhornhöhle)において、47000年以上前となる考古学的層序内で見つかりました。この骨は両面に異なるよく構造化された線刻があり、意図的と主張されています(関連記事)。クロアチアのクラピナ1(Krapina I)遺跡では、ムステリアン石器と関連するワシの8点の爪および1点の指骨とネアンデルタール人の骨が発見されました(関連記事)。ワシの指骨と4点の爪は解体痕を示しており、爪は、装飾的使用を示唆しているかもしれない、焼けた部位とオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)の残留物と繊維と磨かれた領域を示します。
人骨では、切開された前頭骨には35点の解体痕があります(クラピナ3号前頭骨)。イタリア北部のフマネ洞窟(Grotta di Fumane)では、較正年代で44800~44200年前頃の層序にて、鳥の骨が長短いずれかの人為的な線条を示し、横断線の痕跡が燧石製の道具で翼の骨につけられており、大きな羽毛の意図的除去が示唆されます。ヒトによる改変は、明確な非実利的使用を示唆します(関連記事)。さらに、着色された化石海洋性貝殻がフマネ洞窟のムステリアン層で発見されました(関連記事)。
クリミアのネアンデルタール人の遺跡であるザスカルナヤ6(Zaskalnaya VI、Kolosovskaya)岩陰では、平行な刻み目群がワタリガラスの骨の主軸で確認されました。このネアンデルタール人の意図は、等距離の刻み目を残すことにあったようで、それは実用的使用だけではなく、情報作成のためでもありました。(関連記事)。スペインのカルタヘナ(Cartagena)の「航空機洞窟(Cueva de los Aviones)」のムステリアン遺跡では、海洋性貝殻の使用と関連する、さまざまな種類の象徴的発見かもしれない発見があります。それは、(1)円錐突起の穿孔された殻のある貝殻と、(2)殻の窪み内の赤鉄鉱着色料の痕跡のある貝殻です(関連記事1および関連記事2)。
スペインのムルシア(Murcia)のアントン洞窟(Cueva Antón)でも、着色料が貝殻で観察されました。ゴラン高原のクネイトラ(Quneitra)は、ネアンデルタール人と解剖学的現代人(現生人類)というヒトの両種が共存した地域に位置し、8cmの長さのルヴァロワ(Levallois)燧石石核の破片の皮質表面は、自然的でも屠殺の痕跡でもない切開された線を示します。この5万年前頃の線刻は、意図的な線刻と考えられる、真っすぐの並行線と半円の同心線で構成されています。ジブラルタルのゴーラム洞窟(Gorham's Cave)では、ムステリアン層が、恐らくは石器で作られ、幾何学模様を作るために繰り返しの注意深い溝により、恐らくは石器で作られた、深くて広い痕跡を含む岩盤表面に覆われていました。実用的起源は除外され、このパターンは抽象概念についてのネアンデルタール人の能力を証明する、と考えられています(関連記事)。
イベリア半島のアルダレス洞窟(Cueva de Ardales)とマルトラビエソ(Maltravieso)洞窟とラパシエガ(La Pasiega)洞窟といった遺跡(関連記事)では、図形制作の一部(石筍の天井の赤い印や手形や長方形の痕跡)が、方解石外皮の上のU-Th年代測定により、ネアンデルタール人の所産とされました(関連記事)。しかし、ネアンデルタール人の所産との判断は議論になっており、科学界で重大な議論を引き起こしました(関連記事)。
上述の特定された発見のほんどには、ムステリアン石器インダストリーの要素も見られる考古学的層序で発見された物質が含まれます。必然的に、U-Thや熱ルミネッセンス(Thermoluminescence、略してTL)やOSLで年代測定されることがほとんどです。放射性炭素年代測定は、年代範囲が限られているので、選択肢に挙げられることは稀です。本論文は最後に、これらの事例のうち、洞窟もしくは岩陰の壁面に、連続もしくは構造化された図形制作の証拠がない、という観察に注目します。
LRC洞窟第1空洞の壁面では、一見すると体系だった指の痕跡(指の溝彫り)の最初の観察が、1976~1978年、次に2008年の野外調査中に行なわれました(全て本論文の筆頭著者が率いました)。さらに疎らに見られるオーカーの反転が確認されました。他の種類の痕跡も存在し、それは、(1)動物の爪により残された痕跡、(2)恐らくは動物の毛皮との繰り返しの接触を通じてのひじょうに脆い壁面の平滑化、(3)金属製の道具の打撃による多数の容易に認識できる痕跡です。(3)の痕跡は、おそらく1912年の発掘の結果です。洞窟の訪問は1976年まで、もしくは1978~2008年まで滅多になく、現代の落書きは1992年の1点だけです。
本論文は以下で、指で溝をつけることについて、「線刻(engravings)」という用語を使います。それは、「線刻」が一般的に、道具もしくは指での物質の意図的除去と定義されているからです。本論文は、物質のこの除去が、偶然的でも実用的でもなく、むしろ意図的で細だと示します。2008年に、指の痕跡が古代の痕跡と認識されました(刊行されていない報告)。LRC洞窟の壁面のこれら多くの痕跡の最初の記載と調査は2013年に、2016年以降はエリック・ロバート(Eric Robert)の監督下で行なわれています。本論文の主要な目的は、(1)痕跡の詳細な記載の提供、(2)その人為的起源の証明、(3)そうした痕跡がネアンデルタール人の所産であることの、間接的な絶対年代測定による証明です。
●分析
LRC洞窟はフランスのトゥーレーヌ(Touraine)地域のロワール渓谷の標高100mの高原地帯(北緯47度20分13秒、統計0度25分51秒)に位置し、今では森林と農地に覆われています(図1)。以下は本論文の図1です。
LRC洞窟は4ヶ所の主要な空洞(LRC洞窟第1~4主空洞)に区分されています(図2A)。以下は本論文の図2です。
LRC洞窟では、とくに第3および第4主空洞において大型哺乳類の遺骸が発見されています。主要な4空洞の全てから発見された骨の一部には、解体痕など人為的痕跡が見られ、焼けた遺骸や道具製作に用いられた遺骸もあります。人類に利用されたのはおもに温暖期の大型哺乳類で、ウシ属のバイソンやオーロックス、ウマ類やアカシカなどです。LRC洞窟は閉鎖前には、最初に肉食動物(ホラアナライオンやクマ)が、次にヒトが、最後にハイエナが占拠していました。ヒトの頻繁な利用は主要な4空洞で発見された石器により証明されており、LRC洞窟の内外で発見されたのはムステリアン石器のみで、その後の資料は見つかりませんでした。ヨーロッパのムステリアンは一般的に、ネアンデルタール人の所産と考えられています。線刻は第1主空洞で確認されており、a~hの8区画に分類されています(図9)。以下は本論文の図9です。
これらの線刻はその分布や配置や距離などにより、動物の爪痕などと区別された人為的と確認されます。これらの線刻は注意深く壁面につけられた意図的な模様だった、と考えられます。これらの線刻のうち、たとえば区画dは、長さ70cm、高さ50cmです(図11)。この区画dについては、5本の線(図11の1・2・11・12・13)から、一種の統一感があるように見え、11の区画に分類された線刻の中でも意図的に構成されているようだ、と評価されています。以下は本論文の図11です。
年代は、まず放射性炭素年代測定では、限外濾過処理を経なかった標本以外の全てで、4万年前頃かそれ以上古い年代値が得られました。第2および第4主空洞の標本には、放射性炭素年代測定では限界となる45000年以上前の値が得られたものもあり、LRC洞窟が閉鎖された実際の年代は、放射性炭素年代測定の限界を超えている、と示唆されます。じっさい、OSL年代からは、LRC洞窟の閉鎖年代は51000年以上前(95%信頼区間)もしくは57000±3000年前(68%信頼区間)と推定されます。これ以降、20世紀初頭まで、ヒトも他の大型動物もLRC洞窟を利用することはできませんでした。
●考察
OSL年代測定から、LRC洞窟が閉鎖されたのは少なくとも51000年以上前となり、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)より前(45000年以上前)に現生人類がヨーロッパ西部に到来した、という証拠はまだ証明されていない(関連記事)、と考えられることから、LRC洞窟の線刻は現生人類の所産ではない、と考えられます【冒頭で述べたように、フランス地中海地域では54000年前頃の現生人類の存在が確認されています】。したがって、57000±3000年前より古そうなLRC洞窟の線刻は、ネアンデルタール人の所産と確定されます。
LRC洞窟の壁面の図形作品は、空間的配置に見られるように、意図的な創造過程を示しています。これは、LRC洞窟の線刻の最も顕著な側面の一つです。上述のように、ネアンデルタール人と関連する図形の証拠はほとんどなく、その数少ないものも、壁ではなく移動可能な物体(小石や石板や骨)に刻まれたものです。対照的に、LRC洞窟の線刻は、それとは異なる何かを証明しています。それは、壁面上で、および洞窟全体との関連の両方で、空間的に体系化された、思慮深い行為の頻繁な繰り返しです。そうした線刻の体系化された配置の背後にある意図は分かりません。
一方で、これらの痕跡は具象的ではありませんが、それはこの期間の他の図形作品と同様です。本論文が把握している限りでは、この期間に人類が具象的芸術を制作していた、疑問の余地なく学界で受け入れられている事例はありません。これはヨーロッパとアジア西部ではネアンデルタール人により示されており、たとえばクリミア半島(関連記事)やバルカン半島やゴラン高原のクネイトラやドイツ北部のアインホルンヘーレ(関連記事)で、アフリカ南部の現生人類(関連記事)も同様です。LRC洞窟の線刻は明らかに意図的ですが、それが象徴的思考を表しているのかどうか、確定はできません(図18)。それにも関わらず、ネアンデルタール人と、象徴的、さらには審美的領域との間の関係の理解は、過去20年間に顕著に変わっており、LRC洞窟で保存されていた痕跡は、ネアンデルタール人の行動の知識への新しくひじょうに重要な寄与となります。以下は本論文の図18です。
LRC洞窟は、先史時代の図形制作の記録にも貢献しています。LRC洞窟の線刻は南アフリカ共和国で発見された現生人類による図形とほぼ同年代ですが、フランス南部のアルデシュ(Ardèche)県ヴァロン=ポン・ダルク(Vallon-Pont d’Arc)にあるショーヴェ=ポン・ダルク洞窟(Chauvet-Pont d'Arc Cave)の傑作(関連記事)など、海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)3~2のヨーロッパ上部旧石器時代の具象的図形や、最近発見されたスラウェシ島の洞窟の45000年以上前の具象的図形(関連記事)には先行します。
本論文は、LRC洞窟の線刻が明らかに51000年以上前の所産と論証しました。この期間は様式3の技術に相当し(関連記事)、ネアンデルタール人の「支配領域」とされるヨーロッパの中部旧石器時代、地中海東部の同時代の分化(現生人類とネアンデルタール人が共存して相互作用したレヴァント・ムステリアン)、マグレブのムステリアン、サハラ砂漠以南のアフリカの中期石器時代(現生人類のみが存在していました)を含んでいます(図18)。
LRC洞窟の図形作品がネアンデルタール人の所産であることは、この今では消滅した人類への賛辞であり、ヒトの生物学的および文化的進化におけるネアンデルタール人の役割は、大きく見直されつつあります。文化の観点では、今やネアンデルタール人の多くの活動について理解が深まり、精巧で組織化された社会的行動が証明されており、そうした行動は地中海の南側にいた同時代の現生人類との間で明らかな違いが示されていません。
参考文J献:
Marquet J-C, Freiesleben TH, Thomsen KJ, Murray AS, Calligaro M, Macaire J-J, et al. (2023) The earliest unambiguous Neanderthal engravings on cave walls: La Roche-Cotard, Loire Valley, France. PLoS ONE 18(6): e0286568.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0286568
●要約
本論文は、57000±3000年前となる、フランス中部のLRC遺跡の洞窟壁面のネアンデルタール人による線刻を報告します。LRC洞窟は、ヒトの居住後、寒冷期の堆積物により完全に塞がれ、そのため19世紀の発見と20世紀初頭の最初の発掘まで、立ち入りが妨げられました。洞窟の閉鎖時期は、洞窟の内部周辺から採取された堆積物に由来する、50点の光刺激ルミネッセンス(Optically Stimulated Luminescence、略してOSL)年代に基づいています。LRC洞窟内で見つかった空間的に構造化されて非具象的な痕跡の人為的起源は、化石生成論と痕跡学と実験での証拠を用いて確証されました。洞窟の閉鎖は現生人類(Homo sapiens)のこの地域への到来のずっと前に起きており、LRC洞窟内の全ての人工遺物は典型的なムステリアン石器です。ヨーロッパ西部では、ムステリアン石器はネアンデルタール人に特有とされています。本論文は、LRC洞窟の線刻はネアンデルタール人の抽象的模様の明確な事例である、と結論づけます。
●研究史
1980年代以降、多くの発見がネアンデルタール人の行動の多様性の証拠を提供してきました。しかし、ネアンデルタール人の所産とされる象徴的作品は少なく、たとえば、骨もしくは岩への線刻(関連記事)やさまざまに変形された貝殻(関連記事1および関連記事2)や羽毛および猛禽類の爪の使用の可能性(関連記事)が含まれます。顔料の使用もこの分類の範疇かもしれませんが、顔料には実用的機能があったかもしれません(関連記事)。
他の活動は、石と骨で作られた複雑な物体や、洞窟内の建築物に代表される地下環境の流用など、明らかな同等のない事例により表されます。フランス南西部のブルニケル(Bruniquel)洞窟では、入口から300m以上の場所に位置する大きな空洞で、多くの石筍が意図的に破壊されて地下に置かれ、他のより小さな構造と関連する、大きな楕円形の構造を形成します。これらの構造物では、火の痕跡が見つかりました。ウラン-トリウム(U-Th)年代測定により、この高度に構造化された建築構造の年代は17万年前頃とされました(関連記事)。象徴的行動(埋葬を含みます)の他の兆候は、議論になっています(関連記事1および関連記事2)。まとめると、ネアンデルタール人の象徴的活動はその後の期間とはかなり異なっているようです。
機能的解体痕とは異なる、稀な記号的痕跡が、他の中部旧石器時代遺跡の骨の断片や岩や洞窟二次生成物や貝殻で観察されてきました。線刻されたギガンテウスオオツノジカの指骨が、ドイツのアインホルンヘーレ(Einhornhöhle)において、47000年以上前となる考古学的層序内で見つかりました。この骨は両面に異なるよく構造化された線刻があり、意図的と主張されています(関連記事)。クロアチアのクラピナ1(Krapina I)遺跡では、ムステリアン石器と関連するワシの8点の爪および1点の指骨とネアンデルタール人の骨が発見されました(関連記事)。ワシの指骨と4点の爪は解体痕を示しており、爪は、装飾的使用を示唆しているかもしれない、焼けた部位とオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)の残留物と繊維と磨かれた領域を示します。
人骨では、切開された前頭骨には35点の解体痕があります(クラピナ3号前頭骨)。イタリア北部のフマネ洞窟(Grotta di Fumane)では、較正年代で44800~44200年前頃の層序にて、鳥の骨が長短いずれかの人為的な線条を示し、横断線の痕跡が燧石製の道具で翼の骨につけられており、大きな羽毛の意図的除去が示唆されます。ヒトによる改変は、明確な非実利的使用を示唆します(関連記事)。さらに、着色された化石海洋性貝殻がフマネ洞窟のムステリアン層で発見されました(関連記事)。
クリミアのネアンデルタール人の遺跡であるザスカルナヤ6(Zaskalnaya VI、Kolosovskaya)岩陰では、平行な刻み目群がワタリガラスの骨の主軸で確認されました。このネアンデルタール人の意図は、等距離の刻み目を残すことにあったようで、それは実用的使用だけではなく、情報作成のためでもありました。(関連記事)。スペインのカルタヘナ(Cartagena)の「航空機洞窟(Cueva de los Aviones)」のムステリアン遺跡では、海洋性貝殻の使用と関連する、さまざまな種類の象徴的発見かもしれない発見があります。それは、(1)円錐突起の穿孔された殻のある貝殻と、(2)殻の窪み内の赤鉄鉱着色料の痕跡のある貝殻です(関連記事1および関連記事2)。
スペインのムルシア(Murcia)のアントン洞窟(Cueva Antón)でも、着色料が貝殻で観察されました。ゴラン高原のクネイトラ(Quneitra)は、ネアンデルタール人と解剖学的現代人(現生人類)というヒトの両種が共存した地域に位置し、8cmの長さのルヴァロワ(Levallois)燧石石核の破片の皮質表面は、自然的でも屠殺の痕跡でもない切開された線を示します。この5万年前頃の線刻は、意図的な線刻と考えられる、真っすぐの並行線と半円の同心線で構成されています。ジブラルタルのゴーラム洞窟(Gorham's Cave)では、ムステリアン層が、恐らくは石器で作られ、幾何学模様を作るために繰り返しの注意深い溝により、恐らくは石器で作られた、深くて広い痕跡を含む岩盤表面に覆われていました。実用的起源は除外され、このパターンは抽象概念についてのネアンデルタール人の能力を証明する、と考えられています(関連記事)。
イベリア半島のアルダレス洞窟(Cueva de Ardales)とマルトラビエソ(Maltravieso)洞窟とラパシエガ(La Pasiega)洞窟といった遺跡(関連記事)では、図形制作の一部(石筍の天井の赤い印や手形や長方形の痕跡)が、方解石外皮の上のU-Th年代測定により、ネアンデルタール人の所産とされました(関連記事)。しかし、ネアンデルタール人の所産との判断は議論になっており、科学界で重大な議論を引き起こしました(関連記事)。
上述の特定された発見のほんどには、ムステリアン石器インダストリーの要素も見られる考古学的層序で発見された物質が含まれます。必然的に、U-Thや熱ルミネッセンス(Thermoluminescence、略してTL)やOSLで年代測定されることがほとんどです。放射性炭素年代測定は、年代範囲が限られているので、選択肢に挙げられることは稀です。本論文は最後に、これらの事例のうち、洞窟もしくは岩陰の壁面に、連続もしくは構造化された図形制作の証拠がない、という観察に注目します。
LRC洞窟第1空洞の壁面では、一見すると体系だった指の痕跡(指の溝彫り)の最初の観察が、1976~1978年、次に2008年の野外調査中に行なわれました(全て本論文の筆頭著者が率いました)。さらに疎らに見られるオーカーの反転が確認されました。他の種類の痕跡も存在し、それは、(1)動物の爪により残された痕跡、(2)恐らくは動物の毛皮との繰り返しの接触を通じてのひじょうに脆い壁面の平滑化、(3)金属製の道具の打撃による多数の容易に認識できる痕跡です。(3)の痕跡は、おそらく1912年の発掘の結果です。洞窟の訪問は1976年まで、もしくは1978~2008年まで滅多になく、現代の落書きは1992年の1点だけです。
本論文は以下で、指で溝をつけることについて、「線刻(engravings)」という用語を使います。それは、「線刻」が一般的に、道具もしくは指での物質の意図的除去と定義されているからです。本論文は、物質のこの除去が、偶然的でも実用的でもなく、むしろ意図的で細だと示します。2008年に、指の痕跡が古代の痕跡と認識されました(刊行されていない報告)。LRC洞窟の壁面のこれら多くの痕跡の最初の記載と調査は2013年に、2016年以降はエリック・ロバート(Eric Robert)の監督下で行なわれています。本論文の主要な目的は、(1)痕跡の詳細な記載の提供、(2)その人為的起源の証明、(3)そうした痕跡がネアンデルタール人の所産であることの、間接的な絶対年代測定による証明です。
●分析
LRC洞窟はフランスのトゥーレーヌ(Touraine)地域のロワール渓谷の標高100mの高原地帯(北緯47度20分13秒、統計0度25分51秒)に位置し、今では森林と農地に覆われています(図1)。以下は本論文の図1です。
LRC洞窟は4ヶ所の主要な空洞(LRC洞窟第1~4主空洞)に区分されています(図2A)。以下は本論文の図2です。
LRC洞窟では、とくに第3および第4主空洞において大型哺乳類の遺骸が発見されています。主要な4空洞の全てから発見された骨の一部には、解体痕など人為的痕跡が見られ、焼けた遺骸や道具製作に用いられた遺骸もあります。人類に利用されたのはおもに温暖期の大型哺乳類で、ウシ属のバイソンやオーロックス、ウマ類やアカシカなどです。LRC洞窟は閉鎖前には、最初に肉食動物(ホラアナライオンやクマ)が、次にヒトが、最後にハイエナが占拠していました。ヒトの頻繁な利用は主要な4空洞で発見された石器により証明されており、LRC洞窟の内外で発見されたのはムステリアン石器のみで、その後の資料は見つかりませんでした。ヨーロッパのムステリアンは一般的に、ネアンデルタール人の所産と考えられています。線刻は第1主空洞で確認されており、a~hの8区画に分類されています(図9)。以下は本論文の図9です。
これらの線刻はその分布や配置や距離などにより、動物の爪痕などと区別された人為的と確認されます。これらの線刻は注意深く壁面につけられた意図的な模様だった、と考えられます。これらの線刻のうち、たとえば区画dは、長さ70cm、高さ50cmです(図11)。この区画dについては、5本の線(図11の1・2・11・12・13)から、一種の統一感があるように見え、11の区画に分類された線刻の中でも意図的に構成されているようだ、と評価されています。以下は本論文の図11です。
年代は、まず放射性炭素年代測定では、限外濾過処理を経なかった標本以外の全てで、4万年前頃かそれ以上古い年代値が得られました。第2および第4主空洞の標本には、放射性炭素年代測定では限界となる45000年以上前の値が得られたものもあり、LRC洞窟が閉鎖された実際の年代は、放射性炭素年代測定の限界を超えている、と示唆されます。じっさい、OSL年代からは、LRC洞窟の閉鎖年代は51000年以上前(95%信頼区間)もしくは57000±3000年前(68%信頼区間)と推定されます。これ以降、20世紀初頭まで、ヒトも他の大型動物もLRC洞窟を利用することはできませんでした。
●考察
OSL年代測定から、LRC洞窟が閉鎖されたのは少なくとも51000年以上前となり、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)より前(45000年以上前)に現生人類がヨーロッパ西部に到来した、という証拠はまだ証明されていない(関連記事)、と考えられることから、LRC洞窟の線刻は現生人類の所産ではない、と考えられます【冒頭で述べたように、フランス地中海地域では54000年前頃の現生人類の存在が確認されています】。したがって、57000±3000年前より古そうなLRC洞窟の線刻は、ネアンデルタール人の所産と確定されます。
LRC洞窟の壁面の図形作品は、空間的配置に見られるように、意図的な創造過程を示しています。これは、LRC洞窟の線刻の最も顕著な側面の一つです。上述のように、ネアンデルタール人と関連する図形の証拠はほとんどなく、その数少ないものも、壁ではなく移動可能な物体(小石や石板や骨)に刻まれたものです。対照的に、LRC洞窟の線刻は、それとは異なる何かを証明しています。それは、壁面上で、および洞窟全体との関連の両方で、空間的に体系化された、思慮深い行為の頻繁な繰り返しです。そうした線刻の体系化された配置の背後にある意図は分かりません。
一方で、これらの痕跡は具象的ではありませんが、それはこの期間の他の図形作品と同様です。本論文が把握している限りでは、この期間に人類が具象的芸術を制作していた、疑問の余地なく学界で受け入れられている事例はありません。これはヨーロッパとアジア西部ではネアンデルタール人により示されており、たとえばクリミア半島(関連記事)やバルカン半島やゴラン高原のクネイトラやドイツ北部のアインホルンヘーレ(関連記事)で、アフリカ南部の現生人類(関連記事)も同様です。LRC洞窟の線刻は明らかに意図的ですが、それが象徴的思考を表しているのかどうか、確定はできません(図18)。それにも関わらず、ネアンデルタール人と、象徴的、さらには審美的領域との間の関係の理解は、過去20年間に顕著に変わっており、LRC洞窟で保存されていた痕跡は、ネアンデルタール人の行動の知識への新しくひじょうに重要な寄与となります。以下は本論文の図18です。
LRC洞窟は、先史時代の図形制作の記録にも貢献しています。LRC洞窟の線刻は南アフリカ共和国で発見された現生人類による図形とほぼ同年代ですが、フランス南部のアルデシュ(Ardèche)県ヴァロン=ポン・ダルク(Vallon-Pont d’Arc)にあるショーヴェ=ポン・ダルク洞窟(Chauvet-Pont d'Arc Cave)の傑作(関連記事)など、海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)3~2のヨーロッパ上部旧石器時代の具象的図形や、最近発見されたスラウェシ島の洞窟の45000年以上前の具象的図形(関連記事)には先行します。
本論文は、LRC洞窟の線刻が明らかに51000年以上前の所産と論証しました。この期間は様式3の技術に相当し(関連記事)、ネアンデルタール人の「支配領域」とされるヨーロッパの中部旧石器時代、地中海東部の同時代の分化(現生人類とネアンデルタール人が共存して相互作用したレヴァント・ムステリアン)、マグレブのムステリアン、サハラ砂漠以南のアフリカの中期石器時代(現生人類のみが存在していました)を含んでいます(図18)。
LRC洞窟の図形作品がネアンデルタール人の所産であることは、この今では消滅した人類への賛辞であり、ヒトの生物学的および文化的進化におけるネアンデルタール人の役割は、大きく見直されつつあります。文化の観点では、今やネアンデルタール人の多くの活動について理解が深まり、精巧で組織化された社会的行動が証明されており、そうした行動は地中海の南側にいた同時代の現生人類との間で明らかな違いが示されていません。
参考文J献:
Marquet J-C, Freiesleben TH, Thomsen KJ, Murray AS, Calligaro M, Macaire J-J, et al. (2023) The earliest unambiguous Neanderthal engravings on cave walls: La Roche-Cotard, Loire Valley, France. PLoS ONE 18(6): e0286568.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0286568
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