アフリカの人口史
アフリカの人口史に関する総説(Pfennig et al., 2023)が公表されました。最近の発展にも関わらず、アフリカの人口集団は遺伝学的研究において依然としてひじょうに過小評価されており、アフリカ人の遺伝的差異と人口構造に関するより多くの研究が必要です。そうした研究は、現代人の起源についての新たな洞察をもたらすだけではなく、公平な生物医学的研究にも重要で、アフリカを越えて拡張され得る示唆があります。本論文では、混合(ほぼ過去1万年間)がアフリカにおける現在の人口構造をどのように形成してきたのか、最近の遺伝学的研究がアフリカの人口史の再構築において、言語学および考古学をどのように保管しているのか、ということに関する現在の理解の概説が提供されます。アフリカ人の大規模なゲノムデータを報告した最近の研究(関連記事1および関連記事2)とともに、本論文はアフリカ人の遺伝的多様性とその形成過程と起源の理解を深めるのに貢献するでしょう。
●要約
現生人類(Homo sapiens)の祖先の故地として、アフリカには高水準の遺伝的多様性とかなりの人口構造が含まれています。重要なことに、アフリカ人のゲノムは不均一で、複数の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の混合を含んでおり、それぞれの祖先系統がさまざまな進化史を経てきました。本論文はこの再調査で、混合のレンズを通じて集団遺伝学を調べ、複数の人口統計学的事象がいかにアフリカ人のゲノムを形成してきたのか、浮き彫りにします。これらの歴史的事象はそれぞれ、二次的な接触に続く人口集団の分岐の繰り返される全体像を描きます。
本論文は第一に、アフリカにおける遺伝的差異の簡潔に概説し、古代型の「亡霊(ゴースト)」人口集団からの古代の遺伝子移入の証拠を含めて、アフリカ内の深い人口構造を調べます。本論文は第二に、過去1万年間に起きた混合事象の遺伝的遺産を記載します。これは、さまざまな吸着音(click)言語話者であるコイサン人口集団間の遺伝子流動や、アフリカの東部から南部への牧畜の段階的な拡大や、アフリカ大陸全域のバントゥー諸語話者の複数の移住や、中東およびヨーロッパからサヘル地域およびアフリカ北部への混合を含みます。さらに、より最近の混合のゲノムの痕跡はケープ半島とアフリカの離散全体で見つけることができます。本論文は第三に、自然選択がアフリカ大陸全域の遺伝的差異のパターンをどのように形成してきたのか、浮き彫りにし、遺伝子流動が適応的な差異の強力な供給源であることと、選択圧がアフリカ全域で異なることを指摘します。本論文は最後に、建康と疾患についてアフリカにおける人口構造の生物医学的意味を調べ、アフリカにおける遺伝的差異のより倫理的に行なわれる研究を要求します。
●用語集
▲連鎖不平衡(Linkage disequilibrium、略してLD)
さまざまな遺伝子座における2つのアレル(対立遺伝子)の関連性です。
▲有効人口規模(Effective population size、Ne)
理想化された任意交配集団における繁殖個体数です。Neは1集団に作用する遺伝的浮動の強度を決定します。
▲人口構造(Population structure)
亜集団間のアレル頻度における系統的な違いです。
▲混合(Admixture)
比較的短い進化的時間孤立していた2もしくはそれ以上の亜集団の個体の交雑です。
▲出アフリカ(Out-of-Africa、略してOOA)モデル
解剖学的現代人【現生人類(Homo sapiens)】がアフリカで進化し、その後で世界の他地域に移住した、との仮説です。
▲連続創始者効果(Serial founder effect)
集団が連続的に少数の個体により創設されるさいの、遺伝的変異の連続的な喪失です。
▲ハプロタイプ(Haplotype)
共に継承されていく関連する遺伝的多様体の一式です。
▲人口瓶首効果(Population bottleneck)
人口の有効規模を大きく減らす事象で、遺伝的浮動の増加につながります。
▲遺伝的勾配(Genetic cline)
特定の地理的領域にまたがるアレル頻度の段階的変化です。
▲遺伝的祖先系統(Genetic ancestry)
1個体が参照人口集団の特定の祖先からDNAを継承する系譜です。共有された遺伝的祖先系統を有する個体は、遺伝的により類似している傾向があります。
▲主成分(Principal components)
最重要な情報を保存しながら、標本間の分散を最大化し、データの次元を削減する、線形変換により得られる元々のデータ一式に由来する相関性のない変数の一式です。
▲遺伝子流動(Gene flow)
1集団から他の集団への個体およびその遺伝的物質の移動です。
▲遺伝子移入(Introgression)
長い進化的時間孤立していたものの、まだ生殖的に隔離されていない、2もしくはそれ以上の集団の個体の交雑です。
▲完新世(Holocene)
最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の後に、12000年前頃に始まった現在の地質学的時代です。
▲鉄器時代(Iron Age)
人々が鉄と鋼から同靴を作り始めたヒトの先史時代の期間で、アフリカでは4000~1500年前頃です。
▲新石器時代(Neolithic、New Stone Age)
人々がより洗練された石器を使用し始めた時期で、農耕と牧畜の出現につながり、アフリカでは12000~6500年前頃となります。
▲旧石器時代(Paleolithic、略してOld Stone Age)
人々がまず石器を使用し始めたヒト進化の期間で、330万~12000年前頃です。
▲片親性遺伝標識(Uniparental markers)
組換えなしに【Y染色体ではごく一部の領域で組換えがあります】母方もしくは父方のみで伝わる、ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体です。
▲精細なマッピング(Fine-mapping)
関連統計および連鎖不平衡パターンに基づいて原因となる可能性の高い多様体を特定するための、標的のゲノム領域における形質関連多様体の位置を精緻化する過程です。
▲距離による孤立モデル(Isolation-by-distance model)
集団間の遺伝的分化が、空間的に限定された遺伝子流動、つまり距離の増加とともに移住率が減少することに起因して、地理的距離とともにどのように増加するのか、説明する理論的枠組みです。
▲固定指数(Fixation index、略してFST)
2集団の遺伝的分化の程度です。より高いFST値は、より大きな人口構造を示します。
●研究史
アフリカは広範な文化的および言語的多様性を示し、幅広い生計戦略と2000もの話し言葉が含まれます。さらに、アフリカの人口集団は最大の遺伝的多様性を有し、最低水準のLDを示して、最大の長期の有効人口規模を有しており、全てのヒト系統の最も深い分岐時間を示します(関連記事)。これらの理由のため、アフリカは一般的に人類の発祥地と受け入れられており、アフリカの人口史はヒトの進化にとってひじょうに興味深いものです。
アフリカの人口史についての知識のほとんどは考古学および言語学的研究に由来し、それは、アフリカが遺伝学的研究において苦く無視されてきたからです。しかし、考古学および言語学的研究は、人口拡散、つまり人々の移動から文化的拡散を解明することはほとんど不可能です。対照的に、遺伝学的研究は大規模な人口移動の特定が独自に備わっています。過去10年間で、アフリカにおける遺伝的差異の研究の重要性がより認識されるようになり、現代および古代の個体群に関する多数の遺伝学的研究はアフリカにおける複雑な人口構造と人口史を明らかにしてきており、考古学および言語学的研究を補完しました(関連記事1および関連記事2)。
本論文はこの再調査で、アフリカで起きた広範な古代型と先史時代と最近の遺伝子流動を明らかにした、遺伝学的研究に焦点を当てます。本論文はまず、アフリカにおける遺伝的差異を世界的な文脈に置き、古代人と現代人のゲノムから推測されたアフリカの人口構造を簡潔に概説することから始めて、アフリカ大陸における狩猟採集民集団と深い人口構造に焦点を当てます。本論文は次に、より深い過去からより最近の期間まで、この人口構造が古代型および最近の混合によりどのように形成されたのか検討します。本論文の範囲を考えて、全ての人口集団の進化史を包括的には再調査できません。
本論文は代わりに、主要な移住および混合事象の代表的事例に焦点を当てます。本論文は最後に、局所的適応の証拠を簡潔に再調査し、アフリカにおける人口構造生物医学的意味を検討します。本論文はこの観点において、アフリカにおける遺伝的差異のより多くの(責任をもって実行される)研究を、アフリカ大陸での研究能力構築を要求します。本論文が現在の命名慣習に従って人口集団を呼び、特定の人口集団間の混合に言及する場合には、これは必ずしもこれら正確な人口集団の混合を意味せず、むし遺伝的に類似の人口集団の混合を意味していることに要注意です。
●アフリカにおける遺伝的差異のパターン
世界の他地域と比較して、アフリカ人の各ゲノムには、非アフリカ人の各ゲノムよりも25%以上多くの多型があります(関連記事)。さらに、世界水準で稀な多様体(1%未満の頻度)はアフリカの人口集団で一般的である、と頻繁に見つかっており、つまり、アフリカ人にのみ見られる多様体の過剰があります。固有のアフリカ人のアレルの数がより多いことは出アフリカ(OOA)モデルと一致しており、それは、多型のかなり数が連続創始者効果により失われたからです。じっさい、アフリカ外で見られる遺伝的差異は、ほぼアフリカ人の遺伝的多様性の部分集合です。
アフリカ外で見られるアフリカ人の遺伝的差異の部分集合も地域により異なっており、複数の出アフリカ移住が起きた可能性を示唆します(関連記事1および関連記事2)。さらに、アフリカの人口集団はLDのより速い崩壊を示しており、それはより短いハプロタイプにつながります。これには生物医学的関連があり(後述)、ゲノム規模関連研究(genome-wide association studies、略してGWAS)における原因多様体の精細なマッピングの改善を可能とします。それは、原因となる多様体がより少ない他の多様体によりタグ付けされるからです。
出アフリカモデルと一致して、多くの人口集団は、7万~5万年前頃の出アフリカ移住と同時に起きたNeにおける大きな減少を経ました(関連記事)。同時に、アフリカの人口集団はNeにおいて減少を経ましたが、非アフリカ系人口集団よりも大きなNeを一貫して維持しました(関連記事)。したがって、アフリカの人口集団におけるより高い遺伝的多様性とより低いLDは、歴史的により大きなNeを反映しています。
●アフリカにおける深い人口構造
狩猟と採集は、新石器時代(アフリカでは12000~6500年前頃)における農耕と牧畜の導入前には主要な生計戦略でした。現在、少数の伝統的な狩猟採集民集団のみが、小さな共同体とそうした生活を維持しています。一般的に、そうした狩猟採集民は近隣の農耕牧畜集団に統合されたか、あるいは置換され、祖先の遺伝的差異と構造の一部が不明瞭になっている、と推測されています(関連記事)。それにも関わらず、最近の混合を説明する場合、アフリカにおける伝統的な狩猟採集民集団の遺伝学の研究は、長期の人口連続性に起因する深い人口構造の断片を提供できます。アフリカにおける深い人口構造を解明する試みは、混合していない狩猟採集民個体群の古代DNAの出現により、さらに促進されてきました(関連記事1および関連記事2)。
アフリカで残っている伝統的な狩猟採集民集団は、主要な3集団に大別でき、それはコイサン(Khoe-San)人とアフリカ東部狩猟採集民(eastern African hunter–gatherers、略してEAHG)と熱帯雨林狩猟採集民(rainforest hunter–gatherers、略してRHG)です。コイサン人は、コイサン諸語話者のサン人狩猟採集民とコエコエ人(Khoekhoe)牧畜民の総称で、歴史的にアフリカ南部の乾燥地帯に暮らしています。恐らく、コイサン人はその先史時代の大半でアフリカ南部の唯一の住人でした。コエコエ人牧畜民はごく最近に牧畜生活様式を作用し、それは過去1500年間のアフリカ東部牧畜民との混合の後だった可能性が高そうです。
同様に、EAHG集団、たとえば吸着音言語話者であるタンザニアのハッザ人(Hadza)とサンダウェ人(Sandawe)およびエチオピアのチャブ人(Chabu)は伝統的な採食民で、狩猟採集生活様式を最近まで行なっていたか、現在も依然として行なっています。これらEAHG集団集団は、他のアフリカ狩猟採集民集団とよりも相互の方と密接に関連しています。RHG集団は赤道付近のアフリカの遺伝的に多様な人口集団から構成され、さらに細分されることが多く、たとえば、バカ人(Baka)など西部集団と、ムブティ人(Mbuti)など東部集団です(関連記事)。
多くの狩猟採集民集団は完新世においてNeの減少を経ており、現在の調査された人口規模は小さくなっています(関連記事1および関連記事2)。それにも関わらず、アフリカの狩猟採集民は、現在の人口集団で最高水準の遺伝的多様性を有しており、最近の混合を考慮しても、最も深く分岐したヒト系統を表しています。具体的には、コイサン人は全てのヒト系統で最高の遺伝的多様性を示しており、平均異型接合性はマンデンカ人(Mandenka)の1.09×10⁻³と比較して1.154×10⁻³です。その遺伝的多様性は非コイサン人集団との最近の混合を考慮しても有意により高いので、その歴史的により大きなNeを反映しています。
コイサン人につながる系統は、全ての他のヒト系統の基底部に位置し、推定分岐年代は30万~20万年前頃となり、たとえば、最低水準の最近の混合を有するジュホアン人(Ju|’hoansi)は27万±12000年前に分岐しました。その後、ムブティ人(RHG)が22万±1万年前に全ての他のヒト系統から分岐し、第二の基底部系統を形成します(図1)。これらの推定値は、最近の混合が分岐年代推定値を減少させるので、下限を反映しているかもしれません。これらの理由から、地域的な人口連続性を仮定すると、現生人類のアフリカ南部起源が主張されてきたものの、アフリカ東部および/もしくは複数の地理的地域を含むモデルも議論されています。以下は本論文の図1です。
これら異なる狩猟採集民集団間の遺伝的関係は、おもに距離による孤立によってモデル化できます(関連記事)。アフリカ東部のハッザ人とアフリカ南部のコイサン人をつなぐ遺伝的勾配があるようで、それは、アフリカ東部の古代の狩猟採集民のゲノムが、現在のアフリカ南部のサン人およびEAHGと類似性を示すからです(関連記事1および関連記事2)。たとえば、マラウイ(8100~2500年前頃)とタンザニア(1400年前頃)の古代狩猟採集民のゲノムは、サン人関連祖先系統をそれぞれ2/3と1/3の割合で示しており、サン人が以前にアフリカ東部へと広がるより大きな地理的領域に暮らしていたか(関連記事)、現在のサン人をその後で生み出した狩猟採集民集団と混合した(関連記事)、と示唆されます。
追加の東部から南西部の勾配は、アフリカ東部と南部~中央部の古代の狩猟採集民6個体の新たなゲノムの組み込みにより、最近特定されました。これらの個体のうち一部は、主成分空間では古代および現在のアフリカ中央部のRHGとより密節に位置します(関連記事)。これは、まとめてサン人と呼ばれるクー人(!Xoo)およびジュホアン人とムブティ人との間の明確なアレル共有パターンにより示唆されるように、EAHGおよびその祖先系統の一部が基底部アフリカ中央部RHG系統にたどれるアフリカ南部狩猟採集民集団との深い人口構造か、アフリカ南部と東部の採食民間の遺伝子流動を示唆しているかもしれません(関連記事)。しかし一般的に、古代人のゲノムはアフリカの東部と南部と中央部の狩猟採集民集団の深い分岐年代を明らかにしており、わずかな歴史的遺伝子流動が示唆されます(関連記事)。
農耕民および牧畜民との最近の混合は、伝統的な採食民集団の祖先の差異と人口構造を曖昧にしますが、そのゲノムは依然として、現生人類の深い人口史への片鱗を示しているかもしれません。より古いアフリカ人のゲノム配列決定は、ヒトの起源の新たな複雑さを明らかにする可能性が高そうですが、熱帯気候はサハラ砂漠以南のアフリカにおける古代DNAの解析を複雑にしています。それにも関わらず、古代DNAは最近、18000年前頃の個体から得られました(関連記事)。アフリカにおける深い人口構造(関連記事)と古代DNA研究(関連記事)についての追加の詳細は、先行研究での再調査で見つけられます。
●アフリカにおける古代型(亡霊)遺伝子移入の証拠
古代型人類【非現生人類ホモ属】のゲノムの配列決定により、現生人類がユーラシアで複数回古代型人類と交雑した、と明らかになってきました(関連記事)。現生人類とネアンデルタール人の交雑は、出アフリカ移住後にユーラシア(恐らくはレヴァント)で起きた可能性が最も高いものの(関連記事)、アフリカの人口集団、とくに北東部の人口集団と一部の西部の人口集団も、ネアンデルタール人との混合の兆候を示します(関連記事)。
アフリカ人のゲノムで観察されたネアンデルタール人との混合の兆候は、直接的な混合ではなく、むしろ逆移住してきたヨーロッパ人【ユーラシア人】との混合の結果だった可能性が最も高そうです。これは、ほとんどのネアンデルタール人のハプロタイプがヨーロッパ人と共有されているからです(関連記事)。しかし、アフリカ内における、未知の古代型人類、いわゆる「亡霊(ゴースト)人口集団」との追加の混合事象を裏づける証拠も、増えつつあります(関連記事1および関連記事2)。
アフリカにおける古代型ゴースト人口集団からの遺伝子移入の最初の証拠は、アフリカの人口集団へのS*統計(高度に分岐したハプロタイプを検索する手法)の適用により得られました。そのような特定された推定上の直近の共通祖先(most recent common ancestor、略してTMRCA)の年代は、全ての現代人の系統の最も深い分岐より顕著に古く、ユーラシアの人口集団で見つかった遺伝子移入されたネアンデルタール人のハプロタイプのTMRCAと類似している、と分かりました。これは、遺伝子移入された古代型亡霊系統がネアンデルタール人とほぼ同時に現生人類系統から分岐したことを示唆します。
その後の、人口統計学的モデルをデータに適合させた研究(関連記事)か、模擬実験されたデータを実証的データと比較した研究(関連記事)では、アフリカにおける古代型の混合を含むモデルは一貫して、古代型の混合を含まないモデルより適切にデータを記述する、と分かりました。頼もしいことに、さまざまな手法も同様の人口統計学的シナリオを推測しており、ネアンデルタール人系統と同じ年代の頃(80万~50万年前頃)に分岐した古代型の系統を服喪、最近では3万年前頃となる繰り返しの低水準の混合が含まれます(関連記事)。先行研究(関連記事)では、それぞれのゲノムに占める古代型亡霊系統からの祖先系統の割合は、コイサン人が3.8%(95%信頼区間では1.7~4.8%)、ムブティ人が3.9%(95%信頼区間では1.3~4.9%)、アフリカ西部人口集団が5.8%(95%信頼区間では0.7~9.7%)と推定されています。
さらに、いくつかの遺伝子移入された候補遺伝子が特定されてきました。先行研究では、ムチンと関連する遺伝子MUC7の高度に分岐したハプロタイプが、古代型系統からアフリカ西部現代人【の祖先集団】に遺伝子移入された、と結論づけられました。この唾液タンパク質であるムチンは、以前には喘息に対する保護と関連づけられてきました。しかし、先行研究(関連記事)では、アフリカ西部人のゲノムに、複数の集団遺伝学的統計に基づいて遺伝子移入された断片を特定する新たな統計的手法(ArchIE)を適用した場合、MUC7遺伝子座における遺伝子移入の証拠は見つかりませんでした。その研究では、ArchIEを用いて、アフリカ西部人において恐らくは高頻度で適応的に遺伝子移入された遺伝子の一式が特定され(推定上の遺伝子移入されたアレル頻度の99.9番目の百分位数)、それは、NF1やMTFR2やHSD17B2やKCN1P4やTRPS1です。これらの事例は、アフリカ人のゲノム医療にとって潜在的な古代型との混合の重要性を強調します。
古代型との混合の証拠にも関わらず、深い人口構造がアフリカにおける古代型の亡霊系統からの遺伝子移入の推測を混乱させている、という可能性を除外できません(関連記事1および関連記事2)。たとえば、最近の研究(関連記事)では、2つの「幹(stem)」で構造化されたモデル、つまり進化的時間で遺伝子流動により2つの弱く分化したホモ属人口集団も、アフリカにおける古代型亡霊系統からの遺伝子移入の観察された兆候を説明できる、と明らかにしました。しかし、古代型亡霊系統との混合の可能性は、アフリカ全域の化石記録によっても裏づけられており、現生人類は時空間的に古代型の特徴を示す人類と重複していた、と示唆されます。したがって、現生人類と古代型人類との間の混合機会は充分にありました。
●過去1万年間のアフリカにおいて広がった混合
多くのアフリカの人口集団は遺伝子流動によりつながっているので、考古学および言語学的研究とつながって、現代人と古代人遺骸の遺伝学的研究は、アフリカにおけるヒトの歴史の複雑なパターンを描いてきました。ほとんどの現在のアフリカ人集団は、さまざまな地理的地域の集団とその祖先系統の一部を共有しています(図2)。以下は本論文の図2です。
それにも関わらず、さまざまな遺伝的祖先系統は地理的にクラスタ化する傾向にあり(図3A)、砂漠と熱帯雨林は遺伝子流動の主要な障壁として作用しました(図3B)。以下の項目では、過去1万年間にアフリカの人口構造を形成してきた、主要な移住事象が検討されます。本論文は、より深い過去の混合事象の検討から始めて、現在により近い混合事象へと移ります。以下は本論文の図3です。
●コイサン人集団の微細規模での人口構造と混合
コイサン人は他の全てのヒト系統の基底部に位置し、その推定分岐年代は30万~20万年前頃です(関連記事)。これらの人口集団は伝統的な採食民ですが、一部のコイサン人集団は最近(農耕)牧畜生活様式を採用しました。常染色体遺伝子型決定データとmtDNAを用いた初期の研究は、カラハリ砂漠の北方と南方に暮らすコイサン人集団間の分化を示唆し、カラハリ砂漠は先史時代(つまり、1万年以上前)には、マカディカディ(Makgadikgadi)湖で占められていました。追加の中心的なコイサン人関連祖先系統構成要素は、より大きくてより多様なデータ一式を用いた、より最近の研究で特定されてきました。
注目すべきことに、これら3祖先系統構成要素は地理と相関しているものの、言語学もしくは現在の生計戦略とは相関していません。クン・ホアン語族(Kx`a)話者のジュホアン人およびクー人と、コイサン諸語話者のハイオム人(Hai||om)は、北部コイサン人祖先系統構成要素の代表で、コイサン諸語話者のナマ人(Nama)とツウ語族(Tuu)話者のコマニ人(‡Khomani)とカッレティジェ人(Karretije)は南部コイサン人祖先系統構成要素の代表であり、残りの全てのコイサン人集団は、中央部コイサン人祖先系統構成要素の代表です。興味深いことに、これら3構成要素の対での遺伝的分岐は屡次していると明らかになっており(つまり、類似のFST値)、その分岐年代は25000年前頃(95%信頼区間で32000~18000年前)と推定されました。
コイサン人集団間の遺伝的差異の大半は、距離による孤立モデル下で説明されますが、3つのコイサン人関連祖先系統構成要素間の中程度の混合の証拠があります。形式的な混合検定(f3分析)では、コマニ人(南部構成要素)はター人(Taa)集団(中央部)との混合の有意な証拠を、ジュホアン人(北部)はクー人(北部)および中央部のナロ人(Naro)との混合の有意な兆候を示しました。さらにナロ人(中央部)は、ジュホアン人(北部)およびター人やグイ人(Gui)など中央部コイサン人の構成要素により特徴づけられる別の人口集団との混合の証拠を示しました。しかし、中央部コイサン人構成要素により特徴づけられる人口集団は、北部と南部のコイサン人集団間の混合である有意な証拠を示しませんでした。
SpaceMix分析を用いた先行研究では、ジュホアン人から中央部のホアン人(Hoan)、中央部のグイ人/サーデ人(Xade)からナロ人(中央部)、特定されていないコイサン人集団からナマ人(南部)への、遺伝子流動の追加の証拠が明らかになりました。要注意なのは、これらの検定は特定の人口集団間の混合を決定的に確立しているわけではなく、じっさいの歴史的な遺伝子流動は他の関連する人口集団を含んでいたかもしれない、ということです。この遺伝子流動は、先史時代のマカディカディ湖が干上がった後の過去1万年以内に起きたに違いない、と主張されてきました。しかし、正確な年代測定には全ゲノム配列のより多くの研究が必要です。コイサン人集団の歴史のさらなる再調査は、先行研究で述べられています。
●アフリカ東部と南部における牧畜の複雑な拡大
最近の遺伝学的研究は、8000年前頃のアフリカ北東部への牧畜の導入以降の、アフリカ東部における人口連続性と混合の複雑な全体像を描きます(関連記事)。ケニアとタンザニアの古代の個体群から得られたDNAを用いて、牧畜と農耕は複数段階でアフリカ東部へと広がった、と提案されました(関連記事)。まずアフリカ北東部において、現在のナイル・サハラ語族話者、つまりディンカ人(Dinka)やヌエル人(Nuer)と、アフリカ北部もしくはレヴァントの現代人集団と関連する人口集団との間の混合が、「アフリカ初期北東部牧畜民」の集団を生み出しました。
この集団は次にアフリカ東部へと移動し、在来の採食民と4000年前頃に混合して、エチオピアのモタ(Mota)洞窟の4500年前頃の古代人1個体と関連する集団から約20%の祖先系統を受け取りました(関連記事)。モタ洞窟の4500年前頃の個体は、孤立しており、アフロ・アジア語族話者のアーリ人(Aari)および現在のアフロ・アジア語族話者と遺伝的に類似しています(図4A)。4000年前頃にスーダン北部で暮らしていた牧畜民1個体のケニアおよびタンザニアの古代の個体群との高い遺伝的類似性を考えて、アフリカ東部へのアフリカ北東部牧畜民のこの最初の拡散は急速に起きた、と主張されました(関連記事)。
最後に、この集団はスーダンで2200年前頃、つまり鉄器時代にナイル・サハラ語族話者のディンカ人と関連する人口集団から遺伝子流動の別の波動(関連記事)を受け取りました(図4A)。コンゴ民主共和国やウガンダやボツワナの古代の個体群におけるモタ洞窟個体関連およびディンカ人関連祖先系統のさまざまな量に基づいて、アフリカ東部採食民集団およびナイル・サハラ語族話者集団から「初期アフリカ北東部牧畜民」集団への繰り返しで単方向の遺伝子流動を伴うモデルが、より良好な適合を提供する、と主張されてきました(関連記事)。しかし、現時点で利用可能なデータでは、移動の複数の波と複雑な人口構造との間を区別することは不可能です。以下は本論文の図4です。
考古学的研究と一致して、コイサン人の遺伝学的研究から、牧畜民はアフリカ東部からアフリカ南部へと人口拡散により広がった、と確証されました(関連記事1および関連記事2)。現在牧畜生活様式を行なっているコイサン諸語話者人口集団(ナマ人など)は、アフリカ東部人口集団で見られる高頻度のラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(lactase persistence、略してLP)アレルを有しています。この「アフリカ東部」LP一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)アレルは、ヨーロッパのLPのSNP(1391 °C>T)とは異なっており、アフリカ南部のバントゥー諸語話者集団と異なっています。
コイサン人集団では、この「アフリカ東部」のLPのSNPはナマ人では約35%と最高頻度で見られ、ナマ人におけるアフリカ東部の混合割合約13%よりずっと高く、正の選択を示唆します。興味深いことに、先行研究では、「アフリカ東部」LPアレルはケニアタンザニアの古代の牧畜民個体群ではほぼ存在しない、と明らかにされており、アフリカ東部牧畜民は3000~1000年前頃には乳糖不耐性だった、と示唆されました(関連記事)。しかし、このアレルは、調査された個体数が限られていることに起因して、古代人標本では検出されなかった可能性もあります。
アフロ・アジア語族話者のアフリカ東部人、つまりアムハラ人(Amhara)もしくはオロモ人(Oromo)関連祖先系統とアフリカ南部牧畜民との間の直接的なつながりは、現代のコエコエ語話者牧畜民集団(たとえば、ナマ人)と遺伝的類似性を有するアフリカ南部の1200年前頃の1個体のゲノムにおいて、その祖先系統の約40%がタンザニアのルクマンダ(Luxmanda)遺跡の3100年前頃の牧畜民1個体と関連するユーラシア人混合集団に由来する、と示されたことにより確証されてきました(関連記事)。したがって、この研究では、アフリカ東部牧畜民とのコイサン人集団の混合は少なくとも1200年前頃には起きた、と示唆されます(図4A)。
これと一致して、別の研究では、全ての現代のコイサン人集団は1500~1300年前頃に、混合したアフリカ東部/ユーラシア牧畜民集団から9~30%の遺伝子流動を受け取った、と推定されました(関連記事)。さらに、コイサン人集団へのアフリカ東部牧畜民の寄与は、常染色体よりもX染色体で低く、男性に偏った混合が起きたことを示唆します。全体的にこれらの結果から、アフリカ東部牧畜民はバントゥー諸語話者集団の前にバントゥー諸語話者集団とは関係なくアフリカ南部に到達した、と示唆されます。アフリカにおけるLPの拡大に関する詳細な再調査は、先行研究で示されています。
●バントゥー諸語話者の複数の移動の波
遺伝学的研究では、バントゥー諸語と農耕慣行と鉄器の使用の5000~3000年前頃の拡大は、サハラ砂漠以南におけるアフリカ西部(つまり、現在のナイジェリア東部とカメルーン西部)から他地域への複数の移動の波を伴っていた、と示されました。その結果、バントゥー諸語の拡大は、過去3500年間において、在来の狩猟採集民集団のさまざまな水準の混合および置換に起因する人口構造に広範に寄与しました(関連記事)。
バントゥー諸語話者人口集団(Bantu-speaking populations、略してBSP)の2つの主要な移動経路が仮定されてきました。初期分岐仮説では、BSPは熱帯雨林の北方において初期段階で分岐し、一方の集団が次に熱帯雨林を通って直接的に南方へ移動したのに対して、他の集団はアフリカ大湖沼(Great African Lakes)へと向かって熱帯雨林の北方を東方へと移動した、と示唆されています。対照的に、後期分岐仮説では、BSPは2集団に分岐する前に熱帯雨林を通ってまず南方へと移動し、一方の集団がさらに南方へ、もう一方の集団がアフリカ大湖沼へと向かって東方へ移動した、と指摘されています。
系統言語学と同様に、遺伝学は後期分岐仮説を支持しており、それは、東部BSP(eBSP)と南部~東部BSP(seBSP)が、熱帯雨林の北方の西部BSP(wBSP)とより、熱帯雨林の南方(つまり、アンゴラ)のwBSPの方と遺伝的に近いからです(関連記事)。より広範な地理的および民族言語学的集団を用いたその後の研究では、eBSPとseBSPと南西部BSP(swBSP)がザンビアのバントゥー諸語話者と遺伝的に最も近い、と示されました(関連記事)。まとめると、これらの調査結果から、バントゥー諸語話者はまず熱帯雨林を通ってアンゴラへと南方に移動し、その後で2集団に分岐する前にザンビアへと移動した、と示唆されます(図4B)。
アフリカ西部では、wBSPが在来のRHG集団と非対称的に混合しており、RHG集団はwBSPからより多い量の遺伝子流動を受け取りました(関連記事)。アンゴラのwBSPはBSPの分岐後に800年前頃に起きた混合事象から少量のRHG関連祖先系統を有しているものの(関連記事)、最近の研究は、アンゴラのカビンダ(Cabinda)州のバントゥー諸語話者について1900年前頃とより古い混合年代を推測しました。wBSPから個々のRHG集団への遺伝子流動の量は、さまざまでした。
ムブティ人とビアカ人(Biaka)が6%未満のwBSP関連祖先系統を有しているのに対して、ベザン人(Bezan)とボンゴ人(Bongo)のゲノムにおけるwBSP関連祖先系統の割合は、それぞれ38.5%と47.5%です。wBSPからRHGへのこの遺伝子流動は、部位頻度範囲のモデルを用いて7000年前頃に起きたと推定されましたが、LDパターンを用いたモデルでは、1000年前未満と推定されました(関連記事)。常染色体とX染色体と片親性遺伝標識の分析でも、wBSPからRHGへのこの遺伝子流動は男性に偏っていた、と示されました。BSPとRHGとの間の相互作用に関する優れた再調査は、先行研究(関連記事)で示されています。
アフリカ東部では、1500~1000年前頃と400~150年前頃の2回の混合事象が、wBSP(約75%の寄与)とエチオピアのアフロ・アジア語族話者人口集団との間で推測されてきました(関連記事)。これらの推定値は、バントゥー諸語話者とアフリカ東部牧畜民との間の混合が800~400年前頃に起きた、と推定した先行研究(関連記事)の推定値とわずかに一致しないものの、ケニアにおける地溝帯の1160年前頃と年代測定された鉄器時代の1個体における71%のバントゥー諸語話者関連祖先系統(関連記事)と一致します。
アフリカ南部では、seBSPは独立した混合事象期間において、コイサン人集団から、たとえばツォンガ人(Tsonga)での1.5%~ツワナ人(Tswana)の20%まで、関連祖先系統を受け取りました。正確な混合年代は人口集団間で異なっており(1700~700年前頃)、北方集団は南方集団より古い年代を示します。しかし、ズールー人(Zulu)における3000年前頃のより古いコイサン人集団との混合を報告した研究もあります。さらに、片親性遺伝標識とX染色体と常染色体のデータは、男性に偏ったseBSPの寄与と女性に偏ったコイサン人の寄与を示唆します。南アフリカ共和国における混合と歯対照的に、seBSPはマラウイとモザンビークでは在来の狩猟採集民人口集団を置換したようで、現在の個体群のゲノムの97%以上はバントゥー諸語の拡大と関連する祖先系統に由来します。全体的に、これはバントゥー諸語話者の複数の移住の波、もしくはコイサン人との混合がすぐには起きなかったことを示唆します。
seBSPとは対照的に、アンゴラのコイサン諸語話者のコエ人(Khwe)とクー人におけるアフリカ西部関連供給源のより最近の混合により示唆されるように、swBSPはアフリカ南部により最近(750年前頃)到達したようです。これは、swBSPがアフリカ西岸沿いに直接的に南方へのさまざまな経路を取ったので、seBSPよりも最近の異なる人口史を有している、と示唆しています(図4B)。
片親性遺伝標識と常染色体遺伝標識に関する遺伝学的研究は当初、BSPは遺伝的にほぼ均質な人々の集団である(つまり、FSTが0.02以下)、と示唆しました。中程度のFST値にも関わらず、BSPの微細規模の人口構造が最近強調されました。先行研究では、モザンビークとアンゴラのeBSPが、ケニア/タンザニアから南アフリカ共和国まで沿岸での関連性の南北の遺伝的勾配を形成する、と示されました。その研究では、遺伝的均一性が東方および南方へと増加することも分かり、連続的な創始者効果、およびバントゥー諸語話者が南アフリカ共和国に到達するまでほとんどなかった在来の人口集団との混合を示唆しました。さらに、別の先行研究では、南アフリカ共和国のseBSP間の微細規模の遺伝的下位構造が地理および言語学とよく相関し、コイサン人との混合のさまざまな水準を考慮した後でさえ持続する、と分かりました。
全体的に、最近の遺伝学的研究は、バントゥー諸語拡大の時空間的に複雑な動態を浮き彫りにし、サハラ砂漠以南の人口集団におけるさまざまな水準の混合と複数の移動の波がありました。標本抽出されたBSPの数や追加の古代人ゲノムとともに標本規模の増加は、BSPにおける、正確な移住経路の解明、主要な事象の年代測定、さらに微細規模の人口構造の解明を可能とするかもしれません。バントゥー諸語話者の人口史の包括的な再調査は、先行研究で述べられています。
●サヘル地域人口集団における牧畜民と農耕民の混合
サヘル/サバンナ地帯は、サハラ砂漠の乾燥化とともに5000年前頃に形成され、とりわけ人口集団を、熱帯雨林の近くへと南方に追いやり、これはこの地帯の南方の境界を区別します。今では、この地域には2つの主要な生計のうち一方を行なう人口集団が暮らしており、その起源は前期完新世(1万年前頃)にさかのぼります。遊牧民、つまりアフリカライブのフラニ人(Fulani)とアフリカ東部のアラブ人は、牧草地と水の供給源のため季節的な移動を必要とする多数のウシを維持しているのに対して、ハウサ(Hausa)人やマンディンカ人(Mandinka)など農耕民人口集団はより定住的です。
遺伝学的分析は一般的に弱い人口構造を明らかにしており、集団間ではなく集団内でほとんどの差異が見つかっています。生計戦略に応じて、片親性遺伝標識のさまざまな分布がサヘル地域で観察されてきました。定住農耕民が言語学ではなく地理に基づいて階層化されているのに対して、アフリカ西部のフラニ人牧畜民にはその逆が当てはまります。さらに、Y染色体ハプログループ(YHg)は遊牧民集団では遺伝的により多様ですが、mtDNAハプログループ(mtHg)は定住農耕民においてより多様です。定住農耕民との低水準の性別の偏った遺伝子流動が、フラニ人のmtDNAの多様性を失わせた、と示唆されてきました。しかし、これは強い人口瓶首効果(ボトルネック)の結果でもあるかもしれません。フラニ人とは対照的に、アラブ人の牧畜民はより高いmtDNAの多様性を有しており、牧畜人口集団への女性の混合のさまざまな水準が示唆されます。
14の民族言語集団を構成する327個体のゲノム規模遺伝子型データの最近の研究は、人口集団の地理的分布とほぼ相関する、サヘル地域における微細規模の人口構造を浮き彫りにしました。サヘル地域中央部および東部のアラブ語話者人口集団は、さまざまな量の中東関連およびアフリカ東部関連の祖先系統に起因する、東西の遺伝的勾配を形成します。中東関連およびアフリカ関連祖先系統構成要素の混合は、スーダンのアラブ人集団では600年前頃と年代測定されました(図4C)。中東関連祖先系統はチャドとスーダンのバッガラ人(Baggara)における約27.6%から、スーダンのラシャアユダ人(Rashaayda)の95.1%までの範囲になる、と明らかになりました。ラシャアユダ人における中東関連祖先系統の高い割合は、中東のmtHg(つまり、R0a2cとJ1b)の高頻度と一致します。
東方のアラビア語話者人口集団とは対照的に、西方のフラニ人集団はアフリカ西部人と最も近いものの、ヨーロッパ関連およびアフリカ東部関連祖先系統の顕著な割合も示します。アフリカ西部集団と1800~300年前頃の異なるヨーロッパの2集団を含む混合事象が、特定されてきました。1800年前頃となる最初の混合事象機関では、ヨーロッパ構成要素がヨーロッパ北西部現代人と最もよく類似しているのに対して、第二の混合の波動である300年前頃の期間には、ヨーロッパ構成要素はヨーロッパ南西部現代人とより密接です。このヨーロッパ関連祖先系統は、たとえばムザブ人(Mozabite)などアフリカ北部人口集団との混合(図4C)を経て、フラニ人へと間接的にもたらされた可能性が高そうです。この混合事象を通じて、フラニ人はLCT遺伝子領域における「ヨーロッパ型」のLP多様体(rs4988235の13910*T)を受け取った可能性が高く、この「ヨーロッパ型」のLP多様体は次に正の選択を受け、フラニ人集団では18~60%の頻度に達しました。
最後に、サヘル地域集団間の混合の少ない量が、mtHgやYHgと同様にゲノム規模遺伝子標識で推測されてきました。フラニ人(および/もしくは他のサハラ砂漠の下位人口集団)とアラブ人の遊牧民との間の限定的な性別の偏った遺伝子流動が示唆されてきており、それは、YHgよりもmtHgの方が多く共有されている、と両集団間で観察されているからで、ほとんどの共有されているmtHgがサハラ砂漠以南起源です。この項目で本論文は、最も多くの混合を経た、サヘル地域における遊牧民人口集団の人口史に焦点を当てました。ニジェール・コンゴ語族話者人口集団を含むサヘル地域の人口集団の人口史の包括的な再調査は、先行研究で述べられています。
●アフリカ北部における継続的で多面的な混合
アフリカ人の遺伝学的研究の多くは、歴史時にサハラ砂漠以南の人口集団に焦点を当ててきており、それは、アフリカ北部の人口集団はサハラ砂漠以南の人口集団とは別に分類され、古典的な遺伝的標識の研究では非アフリカ系人口集団とより密接だからです。しかし、片親性遺伝標識の研究で明かされたのは、(1)mtHgおよびYHg頻度の東西の勾配を伴うアフリカ北部の人口集団における遺伝的異質性、(2)アラブ人とイマジゲン(Imazighen、ベルベル人)との間の分化の欠如、(3)ヨーロッパ関連や中東関連やサハラ砂漠以南のアフリカ関連祖先系統との人口集団の広範な混合についてのおもな証拠、(4)在来のアフリカ北部構成要素です。
ゲノム規模データの研究は、微細規模の人口構造を強調しながら、片親性遺伝標識から推測されるアフリカ北部の人口構造を主に確証しました。先行研究ではまず、アラブ人とベルベル人との間の明確な遺伝的分化が報告されました。この研究では、チュニジアのベルベル人の全ての祖先系統が在来のアフリカ北部人、いわゆるマグレブ人の祖先構成要素に由来するのに対して、アラブ人集団はヨーロッパ関連と中東関連および/もしくはサハラ砂漠以南のアフリカ関連祖先系統を有する、と明らかになりました。しかし、チュニジアのベルベル人はその研究で唯一のベルベル人集団で、その後、祖先系統組成と低い遺伝的多様性と同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)の量の観点では外れ値と分かりました。より多くのベルベル人集団を含むゲノム規模データのその後の研究では、ほとんどのアラブ人とベルベル人の集団は弱く遺伝的に分化している、と確証されました。
マグレブ人の構成要素は、モロッコのタフォラルト(Taforalt)遺跡の15000年前頃の個体群により表され、その祖先系統は、初期完新世中東人、つまりレヴァントのナトゥーフィアン(Natufian)集団関連構成要素(63.5%)と、残りのサハラ砂漠以南のアフリカ関連構成要素の混合として最適にモデル化されます(関連記事)。タフォラルト遺跡個体群の年代と一致して、マグレブ構成要素は中東関連祖先構成要素と38000~18000年前頃に分岐した、と推定され、完新世の前となるアフリカへの逆遺伝子流動が示唆されます。この推定値は、アフリカ北部固有のmtDNA系統(U6系統では44000±21600年前、U6a1系統では13000±5700年前、U6a*系統では13500±3700年前頃)、およびYHg-E1b1b1a1(M78)における、ほとんどの人口集団では15000~12000年前頃、チュニジアのベルベル人では44000~30000年前頃)の推定合着(合祖)年代とほぼ一致します。
さらに、片親性遺伝標識で観察された東西の勾配と一致して、在来のマグレブ構成要素は東方に向かって減少します。モロッコ中央部のイフリンアムロ・モウッサ(Ifri n’Amr or Moussa、略してIAM)遺跡の5000年前頃となる前期新石器時代個体群は、タフォラルト遺跡個体群との高い遺伝的類似性を示し(関連記事)、旧石器時代と前期新石器時代との間の人口連続性が示唆されます【最近の研究(関連記事)では、マグレブ地域における更新世~完新世の人口史がより詳しく解明されています】。
新石器化とアラブ化とサハラ砂漠以南のアフリカからの遺伝子流動は、アフリカ北部人口集団におけるマグレブ構成要素の希釈につながりました(図4D)。新石器化において、アフリカ北部人口集団はヨーロッパの新石器時代集団と混合しました。この混合は3000年前頃となるモロッコのケリフ・エル・ボロウド(Kelif el Boroud、略してKEB)遺跡の後期新石器時代個体群から明らかで、KEB遺跡個体群はIAM集団とヨーロッパ新石器時代集団の混合として最適にモデル化されます(関連記事)。
そのアラブ化は、遺伝的勾配では西方に向かって減少する、最近の中東関連祖先系統を1400年前頃にもたらしました。アラブ人の拡大は、奴隷貿易を通じて、いくらかのサハラ砂漠以南のアフリカ関連祖先系統も導入した、と仮定されてきており、それは、アフリカ西部人口集団との1200年前頃となる混合事象にたどることができる、アフリカ北部人口集団におけるサハラ砂漠以南関連祖先系統により裏づけられます。しかし、サハラ砂漠以南からの遺伝子流動は、過去700年間とより最近に起きた、と推測されており、現在のアフリカ北部人口集団におけるさまざまな程度のサハラ砂漠以南関連祖先系統につながりました。さらに、アメリカ大陸で観察されたパターンと一致して、サハラ砂漠以南からの遺伝子流動も性別に偏って可能性が高く、女性に偏ったサハラ砂漠以南からの寄与と、男性に偏った中東からの寄与がありました。まとめると、これは、アフリカ北部が連続テレビ小説ヒトの移動と混合の深い歴史を有している、と示唆しています。アフリカ北部の人口史も、最近の論文で再調査されました(関連記事)。
●西ケープ州における混合の複雑なパターン
南アフリカ共和国最南端に位置する西ケープ州には、最も多様な混合人口集団の1つ、つまり南アフリカ共和国有色(South African Coloured、略してSAC)人口集団が暮らしており、これはこの地域で最大の民族集団であり、その起源は350年前よりもわずかに古くなります。SAC人口集団は西ケープ州の推定700万人の住民の49%超を表しており、その大半は歴史的に、オランダ人と祖先的に関連する独特な南アフリカ共和国の言語であるアフリカーンス語(Afrikaans)の話者です。混合の複雑な起源は、顕著な歴史的事象に起因し、それは南アフリカ共和国において過去数千年内に起き、バントゥー諸語話者の農耕牧畜民の到来とともに1700年前頃に始まりました。
過去数世紀において、オランダ人とドイツ人とフランス人とその後に続くイギリス人の強奪と支配によるケープのヨーロッパ植民地化は、西ケープ州における複雑な混合パターンに寄与しました。この期間に、奴隷はオランダ東インド会社によりアフリカ東部とマダガスカル島およびその周辺の島々とインドとインドネシアから取引され、コイサン人を含めて居住者と奴隷との混合につながりました。SAC人口集団のゲノム研究から、これらの歴史的事象はSAC人口集団で観察された複雑な5方向混合と相関しており、祖先の寄与はおもに、在来のコイサン人、バントゥー諸語話者のアフリカ人、ヨーロッパ人の子孫集団、アジア南東部とアジア南部の人口集団から起きた、と明らかになりました。さらに、文化的および宗教的慣行が、南アフリカ共和国のさまざまな地域から標本抽出されたSAC個体群における祖先の寄与における高度の異質性に寄与しました。
いくつかの研究はSACにおける性別の偏った遺伝子流動を明らかにしてきており、これは、ほぼ全ての異なる集団間の結婚が、男性の入植者と黒人の自由人女性(男性が奴隷の自由を購入しました)もしくは在来のコイサン人女性との間で行なわれたことを示唆する、歴史的記録を裏づけます。先行研究は片親性遺伝標識を用いて、独特な人口集団固有のmtDNAとYHgの識別子を使用し、可能性の高い祖先の寄与を確証しました。コイサン人の派生的な母系(mtHg)L0dは調査されたSAC集団では68%を表していましたが、ユーラシア系統のmtHg-M・Nは低頻度でしか見られませんでした。対照的に、同じ集団におけるYHg-R・I・G・N・O・Jにより定義された顕著なユーラシア人の父方の寄与(71.4%)があり、ヨーロッパ西部のYHg-R1bは44.4%と優勢でした。mtHgとYHgの類似の分布は、西ケープ州地域のSAC男性の小集団の全ゲノム配列決定データから観察されました。全体的に、これらの調査結果から、最近の混合は性別の偏った遺伝子流動を含んでいた、と論証されます。
●大西洋横断奴隷貿易後のアフリカ人の離散における混合
大西洋横断隷貿易の結果として、1250万人以上が16世紀~19世紀にアフリカからアメリカ大陸へ強制的に移住させられ、最大規模の現在のアフリカ人の離散(ディアスポラ)をもたらしました。ヨーロッパ的祖先系統およびアメリカ大陸先住民的祖先系統の人口集団とのその後の混合は時空間的に複雑で、アメリカ大陸における混合人口集団の最近のアフリカ人的祖先系統のさまざまな量につながりました。アフリカ人関連祖先系統はイギリス領カリブ海(約75%)とアメリカ合衆国(約71%)において最高で、南アメリカ大陸(約11~12%)と中央アメリカ大陸(メキシコを含めて約8%)において最低です。
残りの祖先系統はおもにヨーロッパ的なものに分類され、一部の人口集団ではアメリカ大陸先住民集団からのわずかな寄与があります。さらに、より多くの男性がアメリカ大陸に追放されたにも関わらず、アメリカ大陸における遺伝子プールへのアフリカ人の寄与は女性に偏っている可能性が高いのに対して、ヨーロッパ人の寄与は男性に偏っている可能性が高そうです。しかし、性別の偏りの程度は、X染色体と常染色体の祖先系統の割合から正確に特定することは困難で、それは、とりわけ複雑な人口史からの混乱に起因します。
大西洋横断奴隷貿易の歴史的記録とほぼ一致して、アメリカ大陸の混合人口集団の遺伝学的研究では、アフリカ祖先系統のほとんどはアフリカの西部~中央部にたどることができ、たとえば、ナイジェリアのヨルバ人(Yoruba)もしくはエサン(Esan)人と類似しており、より低い割合では、たとえボツワナのムブクシュ人(Mbukushu)および/もしくはケニアのルヒヤ人(Luhya)的なアフリカ南部~東部的祖先系統と類似している、と示されました。しかし、これらアフリカ祖先系統の分布はアメリカ大陸のさまざまな人口集団間で異なり、アフリカ西部/中央部関連祖先系統は、たとえばアメリカ合衆国などアメリカ大陸北部でより一般的ですが、アフリカ南部~東部関連祖先系統は、たとえばブラジルなどアメリカ大陸南部でより一般的です。
アメリカ大陸における、アフリカ的祖先系統のさまざまな供給源と、さまざまなアフリカ供給源人口集団の混合のさまざまな時期は、航海の経路に影響を及ぼした、地理と当時の変化する地政学に起因するかもしれません。興味深いことに、アフリカにおける寄与した祖先系統それぞれの間で見られる分化と比較して、アメリカ大陸における混合したゲノムで見つかるアフリカ的祖先系統間では分化が少なくなっています。アメリカ大陸における混合人口集団の大西洋の観点での人口史のより詳細な再調査は、先行研究で述べられています。
●アフリカ人のゲノムにおける局所的適応の証拠
環境は時空間により変われます。このため、アフリカの人口集団は選択圧の不均一な混合を経てきました。それにも関わらず、アフリカの人口集団は、適応的変異の影響力のある供給源として機能できる遺伝子流動を介してつながっています。選択のアフリカの綿密な調査に関わる特定の遺伝子は、用いられた手法と調べられた人口集団により異なりますが、いくつかの共通の主題が生じます。調節DNAは、アフリカ人のゲノムにおける適応の頻繁な標的であるようです。さらに、アフリカにおける選択の多くの注目すべき事例は、生理か食性か病原体圧力と関わっています。
一つの重要な進化的課題は、高地の砂漠環境など極限状態への生理的応答を含んでいます。アフリカでは、エチオピア高地は海抜1500mで、頂上の高さは海抜4550mになります。たとえば、アマハラ人(Amahara)はエチオピア高地における低気圧と低酸素に過去5000年間適応してきました。興味深いことに、エチオピア高地で見られる特有の適応的変異は、チベット高原やアンデス高原で観察されてきたものとは異なります。アムハラ人の高地で暮らす個体群と低地で暮らす個体群を比較した選択の綿密な調査は、ヘモグロビン水準と関連するSNPであるrs10803083を含む、多くの適応的遺伝子座を示唆してきました。それは、低酸素への応答と概日周期に関わる遺伝子であるBHLHE41や、哺乳類の酸素恒常性で中心的役割を果たす遺伝子であるEGNL1です。興味深いことに、EGNL1は、タンザニアの伝統的な採食民である吸着音語話者のサンダウェ人の選択の綿密な調査にも関わってきました。これは、適応的なEGLN1ハプロタイプの利点が、高地条件を超えて広がるかもしれない、と示唆します。
アフリカでは、乾燥した砂漠環境も進化的課題を提示しています。たとえば、頻繁な旱魃にも関わらず、コマニ・サン人は何千年もカラハリ砂漠で暮らしてきました。複数の統計を組み合わせて一掃の事後確率を生成する手法であるSWIF(r)を用いて研究者は、コマニ・サン人における選択の潜在的な標的として、アディポネクチンや肥満指数(body mass index、略してBMI)や代謝と関連する複数の遺伝子を特定してきました。
極限状態への適応の別の事例は、低身長に進化した(成人の平均身長が160cm未満)RHG集団です。選択下にあったいくつかの候補遺伝子座が特定されてきており、それらはRHG集団の低身長と関わっている可能性が高く、それは、そうした遺伝子座が、骨の合成(たとえば、EHB1やPRDM5)、筋肉の発達(たとえば、OBSCNやCOX10)、脳下垂体腺における成長ホルモンの合成と分泌(たとえば、HESX1やASB14)と重複しているからで、RHGの低身長がいくつかの遺伝子座における正の選択を通じて進化した、と示唆されます。興味深い事例は、骨形成の部位におけるエフリン受容体であるEPHB1です。RHG集団と農耕民集団は異なるハプロタイプでほぼ固定されており、紛然な選択的一掃が示唆されます。この遺伝子座における選択圧は、非同義多様体が見つかっていないので、制御的性質のようです。さらに、推定上の選択された領域も、生殖や甲状腺の機能や免疫特性などと関連する、身長と無関係な遺伝子も含んでいます。
食性はアフリカ全域で異なり、これらの違いは、代謝の変化や有害な生体異物の解毒や嗅覚および味覚受容体の変化などを通じて、自然選択について充分な機会を提供してきました。食性適応と収斂進化の教科書的事例にはLPが含まれ、アフリカの牧畜民の研究は、LCTおよびMCM6遺伝子近傍の適応的な調節多様体を特定してきました。しかし、ケニア(G-14010、rs145946881)とスーダン(G-13907、rs41525747)におけるLPをもたらす特定の変異は、ヨーロッパ北部(T-13910、rs4988235)および中東(G-13915、rs41380347)で見つかったLP変異とは異なっています。LPの選択の年代はアフリカでは同様に異なっており、マサイ人(Maasai)の牧畜民におけるLPの強い選択は、ヨーロッパにおけるLPの選択よりも最近起きたようです。デンプン質の食べ物を分解する能力も、選択の標的だったようです。唾液アミラーゼ遺伝子のかなりのコピー数の差異がアフリカと非アフリカ系の人口集団に存在し、ほとんどのヒトは2個~15個のコピーを有しています。興味深いことに、塊茎が豊富な食性のタンザニアのハッザ人は、低デンプン質食性の人口集団よりも多いアミラーゼ遺伝子のコピー数を有する傾向にあります。食性の違いも恐らく、アフリカの人口集団における嗅覚受容体と味覚知覚遺伝子の進化の加速に寄与してきました。
アフリカの人口集団への最も強い選択圧の一部には、病原体および免疫への応答が含まれ、マラリアほどヒトのゲノムに影響を及ぼしてきた疾患はありません。毎年、この熱帯性疾患のためアフリカでは50万人以上が死亡しており、その多くは5歳未満の子供を含んでいます。サハラ砂漠以南のアフリカでは、マラリア耐性への強い選択が、ダッフィー(Duffy)血液型のほぼ固定化をもたらし、グルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠乏や鎌状赤血球症を増加させています。この選択はおもに完新世に起きており、進化的観点からは比較的最近の現象になっています。じっさい、アフリカ中央部における主要な鎌状赤血球ハプロタイプはバントゥー諸語の拡大に先行するようで、祖先組換え図はこの変異(rs334)が7300年前頃に起きた、と推測します。さらに、カーボベルデでは過去20世代において混合がマラリアへの適応を促進した、という遺伝学的証拠もあり、ダッフィ抗原ケモカイン受容体(DARC)遺伝子座で作用する選択係数はs=0.08と高くなっています。
アフリカにおいて選択の主要な標的となってきた追加の感染症には、HIV-1やトリパノソーマ症(アフリカ睡眠病)や天然痘や結核があります。しかし、免疫応答と関連する多くの遺伝子はひじょうに多面発現性で、たとえば、主要組織適合複合体(major histocompatibility complex、略してMHC)、HLA(Human Leukocyte Antigen、ヒト白血球型抗原)遺伝子、アポリポタンパク質L1(APOL1)などがあり、最近の適応の主因を突き止める試みを複雑にしています。たとえば、APOL1の2つのハプロタイプ(G1とG2)はトリパノソーマ症感染から保護しますが、アフリカ祖先系統人口集団における腎臓疾患の危険性増加とも関連しています。本論文は最後に、免疫関連遺伝子への自然選択がアフリカ人の離散(ディアスポラ)全体にも広がっていることに注目します。具体的には、ラテンアメリカ人のゲノムは、アフリカ系のMHC/HLAが豊富で、これは遺伝子流動の進化的利点と一致いるパターンです。
●アフリカにおける人口構造の生物医学的意味
精密医療の中心的前提は、祖先の差異が疾患の過程で重要な役割を果たすことです。このため、生物医学分野は多様な人口集団のゲノム差異の深い理解から恩恵を受けます。アフリカの人口集団における遺伝的差異の調査は、その高い遺伝的多様性と低水準のLDのためとくに有望で、それぞれ、関連する原因多様体の蓄積を増加させ、原因多様体を絞り込むことを可能とします。これらの理由のため、潜在的に適応した遺伝子を含めてアフリカにおけるより細かい人口構造の研究は、複雑な特性の遺伝学の理解を深めるかもしれません。そうした研究は、大量の洞察力に富むデータを生み出し、そうしたデータは医学的に関連する遺伝子座を明らかにし、遺伝的多様体の病原性の解釈を支援し、全ての人口集団にとって精密医療を進歩させます。疾患危険性や治療反応に影響を及ぼす社会文化的要因との相互作用の知識とともに、この理解は、遺伝的検証の製作さの改善および/もしくは治療上の応答の評価により、臨床的配慮を改善することができます。
遺伝的構造の理解の深化は、人口集団間の疾患危険性の違いの説明に役立つことができます。この重要な一例には、SAC人口集団においてとくに深刻な感染を有する疾患である結核が含まれます。局所的な祖先系統と人口集団固有の高密度の遺伝子型データを活用して、4番染色体長腕領域2帯域2(chromosome 4q22)上の新規のSNP(rs28647531)はSAC人口集団において結核感受性と関連していました。これは、バントゥー諸語話者のアフリカ祖先系統について、局所的祖先系統を補正しながら、SNPの少数派アレル効果を示しました。この事例は、混合したアフリカの人口集団が、均一な人口集団と比較して、祖先系統特有の疾患危険性をより深く理解する有望な機会である、と示しています。しかし、多方向混合の人口集団についての参照人口集団の選択は、生物医学的研究において繊細かつ重要かもしれません。たとえば、人口集団特有の組換え図は、混合人口集団における遺伝子型と表現型の相関の検出と、さらに全ての人口集団と関連する精密医療の分野を進める可能性を有しています。
さらに複数の研究も、治療の結果を効率的に方向づける祖先系統を含めることの重要性を示します。これらの研究では、患者の人口統計学的な医療および遺伝学的情報が、臨床的な意思決定もしくは遺伝的相談に利用出来る、と示されてきました。たとえば、患者のコメディケーション(一つの薬の副作用を軽減するため、他の薬を併用すること)や年齢や遺伝的変異や祖先系統は、抗凝血性のワルファリンの投与量推測に一派的に用いられています。遺伝的および祖先系統関連の情報が、適切な投与量の正確な決定に重要な役割を果たしている、と示されてきました。しかし、抗凝血性のワルファリンの投与量の情報をもたらすアメリカ合衆国食品医薬品局(Food and Drug Administration、略してFDA)の承認検査は、アフリカ人にあまり関連していない遺伝的多様体を調べています。たとえば、調べられた多様体の一つである、シトクロムP450酵素CYP2C9関連遺伝子のrs1799853は、アフリカ人では稀なので、アフリカ大陸における遺伝薬理学的有用性は限定的です。まとめると、これらの事例から、アフリカの人口集団の異質な混合史は、生物医学的研究における重要な考慮次項で、集団遺伝学の深い理解が、治療の選択に情報をもたらすかもしれない機能的注釈づけを改善できる、と示されます。
●ゲノム研究におけるさらなる多様性の必要性
本論文で記載されているにも関わらず、本論文は主要な移動事象の過程における混合事象の概要を提供しただけで、たとえば、バントゥー諸語話者の拡大です。しかし、多くの興味深い混合事象が、これら移動回廊に沿って起きた可能性が高そうです。
アフリカの集団遺伝学的研究は、ヨーロッパと比較して依然として初期段階にあるので、アフリカ大陸における多様な人口集団の配列の継続的な試みの拡大の必要が必須です。そうしてやって、アフリカ大陸におけるヒトの遺伝的差異の全体像と微細規模の人口構造を把握できるようになるでしょう。次に重要なのは、遺伝学が臨床への応用への方法を見つけるにつれて、アフリカにおけるこのまだ発見されていない遺伝的差異の生物医学的意味と人口構造を理解し、アフリカの人口集団とヨーロッパの祖先系統との間の健康不平等性を軽減することです。
たとえば、12人口集団から得た180個体のアフリカの狩猟採集民のゲノムに関する最近の研究(関連記事)は、530万の新規の遺伝的多様体を発見し、そのうち78%は人口集団固有で、その多くは機能的に関連すると予測されています。この人口集団固有の遺伝的変異がどのように複雑な特性に影響を及ぼすのか理解することは、多遺伝子得点の文脈ではとくに重要です。高い遺伝的多様性は、アフリカにおける多遺伝子得点の一般化可能性の低さにつながっており、それは、研究コホート(特定の性質が一致する個体で構成される集団)との距離に応じて制度が低下するからです。
さらに、先行研究(関連記事)により設定されたデータにおける「病原性の可能性が高い」ClinVar多様体の29%(154点のうち44点)は、アフリカ人のデータ一式において一般的だったものの(頻度が0.05超)、アフリカ外では稀でした(頻度が0.01未満)。低頻度が病原性決定に使用さ釣れる特徴であることを考えると、これは、多様体の病原性の現在の分類が、研究コホートにおける多様性の欠如により混乱していることを示唆します。全体的に、これらの事例は、臨床応用のための、アフリカにおける遺伝的差異と人口構造の調査の重要性を強調します。
しかし同時に、意図せぬ集団の危害を避けるために倫理的指針と基準が遵守されることは、保証されるべきです。これは、利益が危険性を上回るよう保証するため、倫理的・法的・社会的問題や結果の意思伝達に関する共同体の利害関係者の有意義な関与を必要とします。最後に、生きている被験者へ適用される同じ倫理的厳密さが古代DNAに拡張される必要があることも必須です。
研究コホートにおける多様性の欠如は、ゲノム科学者にも拡張されます。アフリカ大陸でのより多様な科学者と研究能力の構築は、より優れた研究につながるだけではなく、研究コホートにおける多様性の欠如への対処にも役立つかもしれません。まとめると、ゲノム研究において周縁化された集団の現在の提示不足が是正されなければ、既存の不公平は悪化する可能性が高そうです。
参考文献:
Pfennig A. et al.(2023): Evolutionary Genetics and Admixture in African Populations. Genome Biology and Evolution, 15, 4, evad054.
https://doi.org/10.1093/gbe/evad054
●要約
現生人類(Homo sapiens)の祖先の故地として、アフリカには高水準の遺伝的多様性とかなりの人口構造が含まれています。重要なことに、アフリカ人のゲノムは不均一で、複数の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の混合を含んでおり、それぞれの祖先系統がさまざまな進化史を経てきました。本論文はこの再調査で、混合のレンズを通じて集団遺伝学を調べ、複数の人口統計学的事象がいかにアフリカ人のゲノムを形成してきたのか、浮き彫りにします。これらの歴史的事象はそれぞれ、二次的な接触に続く人口集団の分岐の繰り返される全体像を描きます。
本論文は第一に、アフリカにおける遺伝的差異の簡潔に概説し、古代型の「亡霊(ゴースト)」人口集団からの古代の遺伝子移入の証拠を含めて、アフリカ内の深い人口構造を調べます。本論文は第二に、過去1万年間に起きた混合事象の遺伝的遺産を記載します。これは、さまざまな吸着音(click)言語話者であるコイサン人口集団間の遺伝子流動や、アフリカの東部から南部への牧畜の段階的な拡大や、アフリカ大陸全域のバントゥー諸語話者の複数の移住や、中東およびヨーロッパからサヘル地域およびアフリカ北部への混合を含みます。さらに、より最近の混合のゲノムの痕跡はケープ半島とアフリカの離散全体で見つけることができます。本論文は第三に、自然選択がアフリカ大陸全域の遺伝的差異のパターンをどのように形成してきたのか、浮き彫りにし、遺伝子流動が適応的な差異の強力な供給源であることと、選択圧がアフリカ全域で異なることを指摘します。本論文は最後に、建康と疾患についてアフリカにおける人口構造の生物医学的意味を調べ、アフリカにおける遺伝的差異のより倫理的に行なわれる研究を要求します。
●用語集
▲連鎖不平衡(Linkage disequilibrium、略してLD)
さまざまな遺伝子座における2つのアレル(対立遺伝子)の関連性です。
▲有効人口規模(Effective population size、Ne)
理想化された任意交配集団における繁殖個体数です。Neは1集団に作用する遺伝的浮動の強度を決定します。
▲人口構造(Population structure)
亜集団間のアレル頻度における系統的な違いです。
▲混合(Admixture)
比較的短い進化的時間孤立していた2もしくはそれ以上の亜集団の個体の交雑です。
▲出アフリカ(Out-of-Africa、略してOOA)モデル
解剖学的現代人【現生人類(Homo sapiens)】がアフリカで進化し、その後で世界の他地域に移住した、との仮説です。
▲連続創始者効果(Serial founder effect)
集団が連続的に少数の個体により創設されるさいの、遺伝的変異の連続的な喪失です。
▲ハプロタイプ(Haplotype)
共に継承されていく関連する遺伝的多様体の一式です。
▲人口瓶首効果(Population bottleneck)
人口の有効規模を大きく減らす事象で、遺伝的浮動の増加につながります。
▲遺伝的勾配(Genetic cline)
特定の地理的領域にまたがるアレル頻度の段階的変化です。
▲遺伝的祖先系統(Genetic ancestry)
1個体が参照人口集団の特定の祖先からDNAを継承する系譜です。共有された遺伝的祖先系統を有する個体は、遺伝的により類似している傾向があります。
▲主成分(Principal components)
最重要な情報を保存しながら、標本間の分散を最大化し、データの次元を削減する、線形変換により得られる元々のデータ一式に由来する相関性のない変数の一式です。
▲遺伝子流動(Gene flow)
1集団から他の集団への個体およびその遺伝的物質の移動です。
▲遺伝子移入(Introgression)
長い進化的時間孤立していたものの、まだ生殖的に隔離されていない、2もしくはそれ以上の集団の個体の交雑です。
▲完新世(Holocene)
最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の後に、12000年前頃に始まった現在の地質学的時代です。
▲鉄器時代(Iron Age)
人々が鉄と鋼から同靴を作り始めたヒトの先史時代の期間で、アフリカでは4000~1500年前頃です。
▲新石器時代(Neolithic、New Stone Age)
人々がより洗練された石器を使用し始めた時期で、農耕と牧畜の出現につながり、アフリカでは12000~6500年前頃となります。
▲旧石器時代(Paleolithic、略してOld Stone Age)
人々がまず石器を使用し始めたヒト進化の期間で、330万~12000年前頃です。
▲片親性遺伝標識(Uniparental markers)
組換えなしに【Y染色体ではごく一部の領域で組換えがあります】母方もしくは父方のみで伝わる、ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体です。
▲精細なマッピング(Fine-mapping)
関連統計および連鎖不平衡パターンに基づいて原因となる可能性の高い多様体を特定するための、標的のゲノム領域における形質関連多様体の位置を精緻化する過程です。
▲距離による孤立モデル(Isolation-by-distance model)
集団間の遺伝的分化が、空間的に限定された遺伝子流動、つまり距離の増加とともに移住率が減少することに起因して、地理的距離とともにどのように増加するのか、説明する理論的枠組みです。
▲固定指数(Fixation index、略してFST)
2集団の遺伝的分化の程度です。より高いFST値は、より大きな人口構造を示します。
●研究史
アフリカは広範な文化的および言語的多様性を示し、幅広い生計戦略と2000もの話し言葉が含まれます。さらに、アフリカの人口集団は最大の遺伝的多様性を有し、最低水準のLDを示して、最大の長期の有効人口規模を有しており、全てのヒト系統の最も深い分岐時間を示します(関連記事)。これらの理由のため、アフリカは一般的に人類の発祥地と受け入れられており、アフリカの人口史はヒトの進化にとってひじょうに興味深いものです。
アフリカの人口史についての知識のほとんどは考古学および言語学的研究に由来し、それは、アフリカが遺伝学的研究において苦く無視されてきたからです。しかし、考古学および言語学的研究は、人口拡散、つまり人々の移動から文化的拡散を解明することはほとんど不可能です。対照的に、遺伝学的研究は大規模な人口移動の特定が独自に備わっています。過去10年間で、アフリカにおける遺伝的差異の研究の重要性がより認識されるようになり、現代および古代の個体群に関する多数の遺伝学的研究はアフリカにおける複雑な人口構造と人口史を明らかにしてきており、考古学および言語学的研究を補完しました(関連記事1および関連記事2)。
本論文はこの再調査で、アフリカで起きた広範な古代型と先史時代と最近の遺伝子流動を明らかにした、遺伝学的研究に焦点を当てます。本論文はまず、アフリカにおける遺伝的差異を世界的な文脈に置き、古代人と現代人のゲノムから推測されたアフリカの人口構造を簡潔に概説することから始めて、アフリカ大陸における狩猟採集民集団と深い人口構造に焦点を当てます。本論文は次に、より深い過去からより最近の期間まで、この人口構造が古代型および最近の混合によりどのように形成されたのか検討します。本論文の範囲を考えて、全ての人口集団の進化史を包括的には再調査できません。
本論文は代わりに、主要な移住および混合事象の代表的事例に焦点を当てます。本論文は最後に、局所的適応の証拠を簡潔に再調査し、アフリカにおける人口構造生物医学的意味を検討します。本論文はこの観点において、アフリカにおける遺伝的差異のより多くの(責任をもって実行される)研究を、アフリカ大陸での研究能力構築を要求します。本論文が現在の命名慣習に従って人口集団を呼び、特定の人口集団間の混合に言及する場合には、これは必ずしもこれら正確な人口集団の混合を意味せず、むし遺伝的に類似の人口集団の混合を意味していることに要注意です。
●アフリカにおける遺伝的差異のパターン
世界の他地域と比較して、アフリカ人の各ゲノムには、非アフリカ人の各ゲノムよりも25%以上多くの多型があります(関連記事)。さらに、世界水準で稀な多様体(1%未満の頻度)はアフリカの人口集団で一般的である、と頻繁に見つかっており、つまり、アフリカ人にのみ見られる多様体の過剰があります。固有のアフリカ人のアレルの数がより多いことは出アフリカ(OOA)モデルと一致しており、それは、多型のかなり数が連続創始者効果により失われたからです。じっさい、アフリカ外で見られる遺伝的差異は、ほぼアフリカ人の遺伝的多様性の部分集合です。
アフリカ外で見られるアフリカ人の遺伝的差異の部分集合も地域により異なっており、複数の出アフリカ移住が起きた可能性を示唆します(関連記事1および関連記事2)。さらに、アフリカの人口集団はLDのより速い崩壊を示しており、それはより短いハプロタイプにつながります。これには生物医学的関連があり(後述)、ゲノム規模関連研究(genome-wide association studies、略してGWAS)における原因多様体の精細なマッピングの改善を可能とします。それは、原因となる多様体がより少ない他の多様体によりタグ付けされるからです。
出アフリカモデルと一致して、多くの人口集団は、7万~5万年前頃の出アフリカ移住と同時に起きたNeにおける大きな減少を経ました(関連記事)。同時に、アフリカの人口集団はNeにおいて減少を経ましたが、非アフリカ系人口集団よりも大きなNeを一貫して維持しました(関連記事)。したがって、アフリカの人口集団におけるより高い遺伝的多様性とより低いLDは、歴史的により大きなNeを反映しています。
●アフリカにおける深い人口構造
狩猟と採集は、新石器時代(アフリカでは12000~6500年前頃)における農耕と牧畜の導入前には主要な生計戦略でした。現在、少数の伝統的な狩猟採集民集団のみが、小さな共同体とそうした生活を維持しています。一般的に、そうした狩猟採集民は近隣の農耕牧畜集団に統合されたか、あるいは置換され、祖先の遺伝的差異と構造の一部が不明瞭になっている、と推測されています(関連記事)。それにも関わらず、最近の混合を説明する場合、アフリカにおける伝統的な狩猟採集民集団の遺伝学の研究は、長期の人口連続性に起因する深い人口構造の断片を提供できます。アフリカにおける深い人口構造を解明する試みは、混合していない狩猟採集民個体群の古代DNAの出現により、さらに促進されてきました(関連記事1および関連記事2)。
アフリカで残っている伝統的な狩猟採集民集団は、主要な3集団に大別でき、それはコイサン(Khoe-San)人とアフリカ東部狩猟採集民(eastern African hunter–gatherers、略してEAHG)と熱帯雨林狩猟採集民(rainforest hunter–gatherers、略してRHG)です。コイサン人は、コイサン諸語話者のサン人狩猟採集民とコエコエ人(Khoekhoe)牧畜民の総称で、歴史的にアフリカ南部の乾燥地帯に暮らしています。恐らく、コイサン人はその先史時代の大半でアフリカ南部の唯一の住人でした。コエコエ人牧畜民はごく最近に牧畜生活様式を作用し、それは過去1500年間のアフリカ東部牧畜民との混合の後だった可能性が高そうです。
同様に、EAHG集団、たとえば吸着音言語話者であるタンザニアのハッザ人(Hadza)とサンダウェ人(Sandawe)およびエチオピアのチャブ人(Chabu)は伝統的な採食民で、狩猟採集生活様式を最近まで行なっていたか、現在も依然として行なっています。これらEAHG集団集団は、他のアフリカ狩猟採集民集団とよりも相互の方と密接に関連しています。RHG集団は赤道付近のアフリカの遺伝的に多様な人口集団から構成され、さらに細分されることが多く、たとえば、バカ人(Baka)など西部集団と、ムブティ人(Mbuti)など東部集団です(関連記事)。
多くの狩猟採集民集団は完新世においてNeの減少を経ており、現在の調査された人口規模は小さくなっています(関連記事1および関連記事2)。それにも関わらず、アフリカの狩猟採集民は、現在の人口集団で最高水準の遺伝的多様性を有しており、最近の混合を考慮しても、最も深く分岐したヒト系統を表しています。具体的には、コイサン人は全てのヒト系統で最高の遺伝的多様性を示しており、平均異型接合性はマンデンカ人(Mandenka)の1.09×10⁻³と比較して1.154×10⁻³です。その遺伝的多様性は非コイサン人集団との最近の混合を考慮しても有意により高いので、その歴史的により大きなNeを反映しています。
コイサン人につながる系統は、全ての他のヒト系統の基底部に位置し、推定分岐年代は30万~20万年前頃となり、たとえば、最低水準の最近の混合を有するジュホアン人(Ju|’hoansi)は27万±12000年前に分岐しました。その後、ムブティ人(RHG)が22万±1万年前に全ての他のヒト系統から分岐し、第二の基底部系統を形成します(図1)。これらの推定値は、最近の混合が分岐年代推定値を減少させるので、下限を反映しているかもしれません。これらの理由から、地域的な人口連続性を仮定すると、現生人類のアフリカ南部起源が主張されてきたものの、アフリカ東部および/もしくは複数の地理的地域を含むモデルも議論されています。以下は本論文の図1です。
これら異なる狩猟採集民集団間の遺伝的関係は、おもに距離による孤立によってモデル化できます(関連記事)。アフリカ東部のハッザ人とアフリカ南部のコイサン人をつなぐ遺伝的勾配があるようで、それは、アフリカ東部の古代の狩猟採集民のゲノムが、現在のアフリカ南部のサン人およびEAHGと類似性を示すからです(関連記事1および関連記事2)。たとえば、マラウイ(8100~2500年前頃)とタンザニア(1400年前頃)の古代狩猟採集民のゲノムは、サン人関連祖先系統をそれぞれ2/3と1/3の割合で示しており、サン人が以前にアフリカ東部へと広がるより大きな地理的領域に暮らしていたか(関連記事)、現在のサン人をその後で生み出した狩猟採集民集団と混合した(関連記事)、と示唆されます。
追加の東部から南西部の勾配は、アフリカ東部と南部~中央部の古代の狩猟採集民6個体の新たなゲノムの組み込みにより、最近特定されました。これらの個体のうち一部は、主成分空間では古代および現在のアフリカ中央部のRHGとより密節に位置します(関連記事)。これは、まとめてサン人と呼ばれるクー人(!Xoo)およびジュホアン人とムブティ人との間の明確なアレル共有パターンにより示唆されるように、EAHGおよびその祖先系統の一部が基底部アフリカ中央部RHG系統にたどれるアフリカ南部狩猟採集民集団との深い人口構造か、アフリカ南部と東部の採食民間の遺伝子流動を示唆しているかもしれません(関連記事)。しかし一般的に、古代人のゲノムはアフリカの東部と南部と中央部の狩猟採集民集団の深い分岐年代を明らかにしており、わずかな歴史的遺伝子流動が示唆されます(関連記事)。
農耕民および牧畜民との最近の混合は、伝統的な採食民集団の祖先の差異と人口構造を曖昧にしますが、そのゲノムは依然として、現生人類の深い人口史への片鱗を示しているかもしれません。より古いアフリカ人のゲノム配列決定は、ヒトの起源の新たな複雑さを明らかにする可能性が高そうですが、熱帯気候はサハラ砂漠以南のアフリカにおける古代DNAの解析を複雑にしています。それにも関わらず、古代DNAは最近、18000年前頃の個体から得られました(関連記事)。アフリカにおける深い人口構造(関連記事)と古代DNA研究(関連記事)についての追加の詳細は、先行研究での再調査で見つけられます。
●アフリカにおける古代型(亡霊)遺伝子移入の証拠
古代型人類【非現生人類ホモ属】のゲノムの配列決定により、現生人類がユーラシアで複数回古代型人類と交雑した、と明らかになってきました(関連記事)。現生人類とネアンデルタール人の交雑は、出アフリカ移住後にユーラシア(恐らくはレヴァント)で起きた可能性が最も高いものの(関連記事)、アフリカの人口集団、とくに北東部の人口集団と一部の西部の人口集団も、ネアンデルタール人との混合の兆候を示します(関連記事)。
アフリカ人のゲノムで観察されたネアンデルタール人との混合の兆候は、直接的な混合ではなく、むしろ逆移住してきたヨーロッパ人【ユーラシア人】との混合の結果だった可能性が最も高そうです。これは、ほとんどのネアンデルタール人のハプロタイプがヨーロッパ人と共有されているからです(関連記事)。しかし、アフリカ内における、未知の古代型人類、いわゆる「亡霊(ゴースト)人口集団」との追加の混合事象を裏づける証拠も、増えつつあります(関連記事1および関連記事2)。
アフリカにおける古代型ゴースト人口集団からの遺伝子移入の最初の証拠は、アフリカの人口集団へのS*統計(高度に分岐したハプロタイプを検索する手法)の適用により得られました。そのような特定された推定上の直近の共通祖先(most recent common ancestor、略してTMRCA)の年代は、全ての現代人の系統の最も深い分岐より顕著に古く、ユーラシアの人口集団で見つかった遺伝子移入されたネアンデルタール人のハプロタイプのTMRCAと類似している、と分かりました。これは、遺伝子移入された古代型亡霊系統がネアンデルタール人とほぼ同時に現生人類系統から分岐したことを示唆します。
その後の、人口統計学的モデルをデータに適合させた研究(関連記事)か、模擬実験されたデータを実証的データと比較した研究(関連記事)では、アフリカにおける古代型の混合を含むモデルは一貫して、古代型の混合を含まないモデルより適切にデータを記述する、と分かりました。頼もしいことに、さまざまな手法も同様の人口統計学的シナリオを推測しており、ネアンデルタール人系統と同じ年代の頃(80万~50万年前頃)に分岐した古代型の系統を服喪、最近では3万年前頃となる繰り返しの低水準の混合が含まれます(関連記事)。先行研究(関連記事)では、それぞれのゲノムに占める古代型亡霊系統からの祖先系統の割合は、コイサン人が3.8%(95%信頼区間では1.7~4.8%)、ムブティ人が3.9%(95%信頼区間では1.3~4.9%)、アフリカ西部人口集団が5.8%(95%信頼区間では0.7~9.7%)と推定されています。
さらに、いくつかの遺伝子移入された候補遺伝子が特定されてきました。先行研究では、ムチンと関連する遺伝子MUC7の高度に分岐したハプロタイプが、古代型系統からアフリカ西部現代人【の祖先集団】に遺伝子移入された、と結論づけられました。この唾液タンパク質であるムチンは、以前には喘息に対する保護と関連づけられてきました。しかし、先行研究(関連記事)では、アフリカ西部人のゲノムに、複数の集団遺伝学的統計に基づいて遺伝子移入された断片を特定する新たな統計的手法(ArchIE)を適用した場合、MUC7遺伝子座における遺伝子移入の証拠は見つかりませんでした。その研究では、ArchIEを用いて、アフリカ西部人において恐らくは高頻度で適応的に遺伝子移入された遺伝子の一式が特定され(推定上の遺伝子移入されたアレル頻度の99.9番目の百分位数)、それは、NF1やMTFR2やHSD17B2やKCN1P4やTRPS1です。これらの事例は、アフリカ人のゲノム医療にとって潜在的な古代型との混合の重要性を強調します。
古代型との混合の証拠にも関わらず、深い人口構造がアフリカにおける古代型の亡霊系統からの遺伝子移入の推測を混乱させている、という可能性を除外できません(関連記事1および関連記事2)。たとえば、最近の研究(関連記事)では、2つの「幹(stem)」で構造化されたモデル、つまり進化的時間で遺伝子流動により2つの弱く分化したホモ属人口集団も、アフリカにおける古代型亡霊系統からの遺伝子移入の観察された兆候を説明できる、と明らかにしました。しかし、古代型亡霊系統との混合の可能性は、アフリカ全域の化石記録によっても裏づけられており、現生人類は時空間的に古代型の特徴を示す人類と重複していた、と示唆されます。したがって、現生人類と古代型人類との間の混合機会は充分にありました。
●過去1万年間のアフリカにおいて広がった混合
多くのアフリカの人口集団は遺伝子流動によりつながっているので、考古学および言語学的研究とつながって、現代人と古代人遺骸の遺伝学的研究は、アフリカにおけるヒトの歴史の複雑なパターンを描いてきました。ほとんどの現在のアフリカ人集団は、さまざまな地理的地域の集団とその祖先系統の一部を共有しています(図2)。以下は本論文の図2です。
それにも関わらず、さまざまな遺伝的祖先系統は地理的にクラスタ化する傾向にあり(図3A)、砂漠と熱帯雨林は遺伝子流動の主要な障壁として作用しました(図3B)。以下の項目では、過去1万年間にアフリカの人口構造を形成してきた、主要な移住事象が検討されます。本論文は、より深い過去の混合事象の検討から始めて、現在により近い混合事象へと移ります。以下は本論文の図3です。
●コイサン人集団の微細規模での人口構造と混合
コイサン人は他の全てのヒト系統の基底部に位置し、その推定分岐年代は30万~20万年前頃です(関連記事)。これらの人口集団は伝統的な採食民ですが、一部のコイサン人集団は最近(農耕)牧畜生活様式を採用しました。常染色体遺伝子型決定データとmtDNAを用いた初期の研究は、カラハリ砂漠の北方と南方に暮らすコイサン人集団間の分化を示唆し、カラハリ砂漠は先史時代(つまり、1万年以上前)には、マカディカディ(Makgadikgadi)湖で占められていました。追加の中心的なコイサン人関連祖先系統構成要素は、より大きくてより多様なデータ一式を用いた、より最近の研究で特定されてきました。
注目すべきことに、これら3祖先系統構成要素は地理と相関しているものの、言語学もしくは現在の生計戦略とは相関していません。クン・ホアン語族(Kx`a)話者のジュホアン人およびクー人と、コイサン諸語話者のハイオム人(Hai||om)は、北部コイサン人祖先系統構成要素の代表で、コイサン諸語話者のナマ人(Nama)とツウ語族(Tuu)話者のコマニ人(‡Khomani)とカッレティジェ人(Karretije)は南部コイサン人祖先系統構成要素の代表であり、残りの全てのコイサン人集団は、中央部コイサン人祖先系統構成要素の代表です。興味深いことに、これら3構成要素の対での遺伝的分岐は屡次していると明らかになっており(つまり、類似のFST値)、その分岐年代は25000年前頃(95%信頼区間で32000~18000年前)と推定されました。
コイサン人集団間の遺伝的差異の大半は、距離による孤立モデル下で説明されますが、3つのコイサン人関連祖先系統構成要素間の中程度の混合の証拠があります。形式的な混合検定(f3分析)では、コマニ人(南部構成要素)はター人(Taa)集団(中央部)との混合の有意な証拠を、ジュホアン人(北部)はクー人(北部)および中央部のナロ人(Naro)との混合の有意な兆候を示しました。さらにナロ人(中央部)は、ジュホアン人(北部)およびター人やグイ人(Gui)など中央部コイサン人の構成要素により特徴づけられる別の人口集団との混合の証拠を示しました。しかし、中央部コイサン人構成要素により特徴づけられる人口集団は、北部と南部のコイサン人集団間の混合である有意な証拠を示しませんでした。
SpaceMix分析を用いた先行研究では、ジュホアン人から中央部のホアン人(Hoan)、中央部のグイ人/サーデ人(Xade)からナロ人(中央部)、特定されていないコイサン人集団からナマ人(南部)への、遺伝子流動の追加の証拠が明らかになりました。要注意なのは、これらの検定は特定の人口集団間の混合を決定的に確立しているわけではなく、じっさいの歴史的な遺伝子流動は他の関連する人口集団を含んでいたかもしれない、ということです。この遺伝子流動は、先史時代のマカディカディ湖が干上がった後の過去1万年以内に起きたに違いない、と主張されてきました。しかし、正確な年代測定には全ゲノム配列のより多くの研究が必要です。コイサン人集団の歴史のさらなる再調査は、先行研究で述べられています。
●アフリカ東部と南部における牧畜の複雑な拡大
最近の遺伝学的研究は、8000年前頃のアフリカ北東部への牧畜の導入以降の、アフリカ東部における人口連続性と混合の複雑な全体像を描きます(関連記事)。ケニアとタンザニアの古代の個体群から得られたDNAを用いて、牧畜と農耕は複数段階でアフリカ東部へと広がった、と提案されました(関連記事)。まずアフリカ北東部において、現在のナイル・サハラ語族話者、つまりディンカ人(Dinka)やヌエル人(Nuer)と、アフリカ北部もしくはレヴァントの現代人集団と関連する人口集団との間の混合が、「アフリカ初期北東部牧畜民」の集団を生み出しました。
この集団は次にアフリカ東部へと移動し、在来の採食民と4000年前頃に混合して、エチオピアのモタ(Mota)洞窟の4500年前頃の古代人1個体と関連する集団から約20%の祖先系統を受け取りました(関連記事)。モタ洞窟の4500年前頃の個体は、孤立しており、アフロ・アジア語族話者のアーリ人(Aari)および現在のアフロ・アジア語族話者と遺伝的に類似しています(図4A)。4000年前頃にスーダン北部で暮らしていた牧畜民1個体のケニアおよびタンザニアの古代の個体群との高い遺伝的類似性を考えて、アフリカ東部へのアフリカ北東部牧畜民のこの最初の拡散は急速に起きた、と主張されました(関連記事)。
最後に、この集団はスーダンで2200年前頃、つまり鉄器時代にナイル・サハラ語族話者のディンカ人と関連する人口集団から遺伝子流動の別の波動(関連記事)を受け取りました(図4A)。コンゴ民主共和国やウガンダやボツワナの古代の個体群におけるモタ洞窟個体関連およびディンカ人関連祖先系統のさまざまな量に基づいて、アフリカ東部採食民集団およびナイル・サハラ語族話者集団から「初期アフリカ北東部牧畜民」集団への繰り返しで単方向の遺伝子流動を伴うモデルが、より良好な適合を提供する、と主張されてきました(関連記事)。しかし、現時点で利用可能なデータでは、移動の複数の波と複雑な人口構造との間を区別することは不可能です。以下は本論文の図4です。
考古学的研究と一致して、コイサン人の遺伝学的研究から、牧畜民はアフリカ東部からアフリカ南部へと人口拡散により広がった、と確証されました(関連記事1および関連記事2)。現在牧畜生活様式を行なっているコイサン諸語話者人口集団(ナマ人など)は、アフリカ東部人口集団で見られる高頻度のラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(lactase persistence、略してLP)アレルを有しています。この「アフリカ東部」LP一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)アレルは、ヨーロッパのLPのSNP(1391 °C>T)とは異なっており、アフリカ南部のバントゥー諸語話者集団と異なっています。
コイサン人集団では、この「アフリカ東部」のLPのSNPはナマ人では約35%と最高頻度で見られ、ナマ人におけるアフリカ東部の混合割合約13%よりずっと高く、正の選択を示唆します。興味深いことに、先行研究では、「アフリカ東部」LPアレルはケニアタンザニアの古代の牧畜民個体群ではほぼ存在しない、と明らかにされており、アフリカ東部牧畜民は3000~1000年前頃には乳糖不耐性だった、と示唆されました(関連記事)。しかし、このアレルは、調査された個体数が限られていることに起因して、古代人標本では検出されなかった可能性もあります。
アフロ・アジア語族話者のアフリカ東部人、つまりアムハラ人(Amhara)もしくはオロモ人(Oromo)関連祖先系統とアフリカ南部牧畜民との間の直接的なつながりは、現代のコエコエ語話者牧畜民集団(たとえば、ナマ人)と遺伝的類似性を有するアフリカ南部の1200年前頃の1個体のゲノムにおいて、その祖先系統の約40%がタンザニアのルクマンダ(Luxmanda)遺跡の3100年前頃の牧畜民1個体と関連するユーラシア人混合集団に由来する、と示されたことにより確証されてきました(関連記事)。したがって、この研究では、アフリカ東部牧畜民とのコイサン人集団の混合は少なくとも1200年前頃には起きた、と示唆されます(図4A)。
これと一致して、別の研究では、全ての現代のコイサン人集団は1500~1300年前頃に、混合したアフリカ東部/ユーラシア牧畜民集団から9~30%の遺伝子流動を受け取った、と推定されました(関連記事)。さらに、コイサン人集団へのアフリカ東部牧畜民の寄与は、常染色体よりもX染色体で低く、男性に偏った混合が起きたことを示唆します。全体的にこれらの結果から、アフリカ東部牧畜民はバントゥー諸語話者集団の前にバントゥー諸語話者集団とは関係なくアフリカ南部に到達した、と示唆されます。アフリカにおけるLPの拡大に関する詳細な再調査は、先行研究で示されています。
●バントゥー諸語話者の複数の移動の波
遺伝学的研究では、バントゥー諸語と農耕慣行と鉄器の使用の5000~3000年前頃の拡大は、サハラ砂漠以南におけるアフリカ西部(つまり、現在のナイジェリア東部とカメルーン西部)から他地域への複数の移動の波を伴っていた、と示されました。その結果、バントゥー諸語の拡大は、過去3500年間において、在来の狩猟採集民集団のさまざまな水準の混合および置換に起因する人口構造に広範に寄与しました(関連記事)。
バントゥー諸語話者人口集団(Bantu-speaking populations、略してBSP)の2つの主要な移動経路が仮定されてきました。初期分岐仮説では、BSPは熱帯雨林の北方において初期段階で分岐し、一方の集団が次に熱帯雨林を通って直接的に南方へ移動したのに対して、他の集団はアフリカ大湖沼(Great African Lakes)へと向かって熱帯雨林の北方を東方へと移動した、と示唆されています。対照的に、後期分岐仮説では、BSPは2集団に分岐する前に熱帯雨林を通ってまず南方へと移動し、一方の集団がさらに南方へ、もう一方の集団がアフリカ大湖沼へと向かって東方へ移動した、と指摘されています。
系統言語学と同様に、遺伝学は後期分岐仮説を支持しており、それは、東部BSP(eBSP)と南部~東部BSP(seBSP)が、熱帯雨林の北方の西部BSP(wBSP)とより、熱帯雨林の南方(つまり、アンゴラ)のwBSPの方と遺伝的に近いからです(関連記事)。より広範な地理的および民族言語学的集団を用いたその後の研究では、eBSPとseBSPと南西部BSP(swBSP)がザンビアのバントゥー諸語話者と遺伝的に最も近い、と示されました(関連記事)。まとめると、これらの調査結果から、バントゥー諸語話者はまず熱帯雨林を通ってアンゴラへと南方に移動し、その後で2集団に分岐する前にザンビアへと移動した、と示唆されます(図4B)。
アフリカ西部では、wBSPが在来のRHG集団と非対称的に混合しており、RHG集団はwBSPからより多い量の遺伝子流動を受け取りました(関連記事)。アンゴラのwBSPはBSPの分岐後に800年前頃に起きた混合事象から少量のRHG関連祖先系統を有しているものの(関連記事)、最近の研究は、アンゴラのカビンダ(Cabinda)州のバントゥー諸語話者について1900年前頃とより古い混合年代を推測しました。wBSPから個々のRHG集団への遺伝子流動の量は、さまざまでした。
ムブティ人とビアカ人(Biaka)が6%未満のwBSP関連祖先系統を有しているのに対して、ベザン人(Bezan)とボンゴ人(Bongo)のゲノムにおけるwBSP関連祖先系統の割合は、それぞれ38.5%と47.5%です。wBSPからRHGへのこの遺伝子流動は、部位頻度範囲のモデルを用いて7000年前頃に起きたと推定されましたが、LDパターンを用いたモデルでは、1000年前未満と推定されました(関連記事)。常染色体とX染色体と片親性遺伝標識の分析でも、wBSPからRHGへのこの遺伝子流動は男性に偏っていた、と示されました。BSPとRHGとの間の相互作用に関する優れた再調査は、先行研究(関連記事)で示されています。
アフリカ東部では、1500~1000年前頃と400~150年前頃の2回の混合事象が、wBSP(約75%の寄与)とエチオピアのアフロ・アジア語族話者人口集団との間で推測されてきました(関連記事)。これらの推定値は、バントゥー諸語話者とアフリカ東部牧畜民との間の混合が800~400年前頃に起きた、と推定した先行研究(関連記事)の推定値とわずかに一致しないものの、ケニアにおける地溝帯の1160年前頃と年代測定された鉄器時代の1個体における71%のバントゥー諸語話者関連祖先系統(関連記事)と一致します。
アフリカ南部では、seBSPは独立した混合事象期間において、コイサン人集団から、たとえばツォンガ人(Tsonga)での1.5%~ツワナ人(Tswana)の20%まで、関連祖先系統を受け取りました。正確な混合年代は人口集団間で異なっており(1700~700年前頃)、北方集団は南方集団より古い年代を示します。しかし、ズールー人(Zulu)における3000年前頃のより古いコイサン人集団との混合を報告した研究もあります。さらに、片親性遺伝標識とX染色体と常染色体のデータは、男性に偏ったseBSPの寄与と女性に偏ったコイサン人の寄与を示唆します。南アフリカ共和国における混合と歯対照的に、seBSPはマラウイとモザンビークでは在来の狩猟採集民人口集団を置換したようで、現在の個体群のゲノムの97%以上はバントゥー諸語の拡大と関連する祖先系統に由来します。全体的に、これはバントゥー諸語話者の複数の移住の波、もしくはコイサン人との混合がすぐには起きなかったことを示唆します。
seBSPとは対照的に、アンゴラのコイサン諸語話者のコエ人(Khwe)とクー人におけるアフリカ西部関連供給源のより最近の混合により示唆されるように、swBSPはアフリカ南部により最近(750年前頃)到達したようです。これは、swBSPがアフリカ西岸沿いに直接的に南方へのさまざまな経路を取ったので、seBSPよりも最近の異なる人口史を有している、と示唆しています(図4B)。
片親性遺伝標識と常染色体遺伝標識に関する遺伝学的研究は当初、BSPは遺伝的にほぼ均質な人々の集団である(つまり、FSTが0.02以下)、と示唆しました。中程度のFST値にも関わらず、BSPの微細規模の人口構造が最近強調されました。先行研究では、モザンビークとアンゴラのeBSPが、ケニア/タンザニアから南アフリカ共和国まで沿岸での関連性の南北の遺伝的勾配を形成する、と示されました。その研究では、遺伝的均一性が東方および南方へと増加することも分かり、連続的な創始者効果、およびバントゥー諸語話者が南アフリカ共和国に到達するまでほとんどなかった在来の人口集団との混合を示唆しました。さらに、別の先行研究では、南アフリカ共和国のseBSP間の微細規模の遺伝的下位構造が地理および言語学とよく相関し、コイサン人との混合のさまざまな水準を考慮した後でさえ持続する、と分かりました。
全体的に、最近の遺伝学的研究は、バントゥー諸語拡大の時空間的に複雑な動態を浮き彫りにし、サハラ砂漠以南の人口集団におけるさまざまな水準の混合と複数の移動の波がありました。標本抽出されたBSPの数や追加の古代人ゲノムとともに標本規模の増加は、BSPにおける、正確な移住経路の解明、主要な事象の年代測定、さらに微細規模の人口構造の解明を可能とするかもしれません。バントゥー諸語話者の人口史の包括的な再調査は、先行研究で述べられています。
●サヘル地域人口集団における牧畜民と農耕民の混合
サヘル/サバンナ地帯は、サハラ砂漠の乾燥化とともに5000年前頃に形成され、とりわけ人口集団を、熱帯雨林の近くへと南方に追いやり、これはこの地帯の南方の境界を区別します。今では、この地域には2つの主要な生計のうち一方を行なう人口集団が暮らしており、その起源は前期完新世(1万年前頃)にさかのぼります。遊牧民、つまりアフリカライブのフラニ人(Fulani)とアフリカ東部のアラブ人は、牧草地と水の供給源のため季節的な移動を必要とする多数のウシを維持しているのに対して、ハウサ(Hausa)人やマンディンカ人(Mandinka)など農耕民人口集団はより定住的です。
遺伝学的分析は一般的に弱い人口構造を明らかにしており、集団間ではなく集団内でほとんどの差異が見つかっています。生計戦略に応じて、片親性遺伝標識のさまざまな分布がサヘル地域で観察されてきました。定住農耕民が言語学ではなく地理に基づいて階層化されているのに対して、アフリカ西部のフラニ人牧畜民にはその逆が当てはまります。さらに、Y染色体ハプログループ(YHg)は遊牧民集団では遺伝的により多様ですが、mtDNAハプログループ(mtHg)は定住農耕民においてより多様です。定住農耕民との低水準の性別の偏った遺伝子流動が、フラニ人のmtDNAの多様性を失わせた、と示唆されてきました。しかし、これは強い人口瓶首効果(ボトルネック)の結果でもあるかもしれません。フラニ人とは対照的に、アラブ人の牧畜民はより高いmtDNAの多様性を有しており、牧畜人口集団への女性の混合のさまざまな水準が示唆されます。
14の民族言語集団を構成する327個体のゲノム規模遺伝子型データの最近の研究は、人口集団の地理的分布とほぼ相関する、サヘル地域における微細規模の人口構造を浮き彫りにしました。サヘル地域中央部および東部のアラブ語話者人口集団は、さまざまな量の中東関連およびアフリカ東部関連の祖先系統に起因する、東西の遺伝的勾配を形成します。中東関連およびアフリカ関連祖先系統構成要素の混合は、スーダンのアラブ人集団では600年前頃と年代測定されました(図4C)。中東関連祖先系統はチャドとスーダンのバッガラ人(Baggara)における約27.6%から、スーダンのラシャアユダ人(Rashaayda)の95.1%までの範囲になる、と明らかになりました。ラシャアユダ人における中東関連祖先系統の高い割合は、中東のmtHg(つまり、R0a2cとJ1b)の高頻度と一致します。
東方のアラビア語話者人口集団とは対照的に、西方のフラニ人集団はアフリカ西部人と最も近いものの、ヨーロッパ関連およびアフリカ東部関連祖先系統の顕著な割合も示します。アフリカ西部集団と1800~300年前頃の異なるヨーロッパの2集団を含む混合事象が、特定されてきました。1800年前頃となる最初の混合事象機関では、ヨーロッパ構成要素がヨーロッパ北西部現代人と最もよく類似しているのに対して、第二の混合の波動である300年前頃の期間には、ヨーロッパ構成要素はヨーロッパ南西部現代人とより密接です。このヨーロッパ関連祖先系統は、たとえばムザブ人(Mozabite)などアフリカ北部人口集団との混合(図4C)を経て、フラニ人へと間接的にもたらされた可能性が高そうです。この混合事象を通じて、フラニ人はLCT遺伝子領域における「ヨーロッパ型」のLP多様体(rs4988235の13910*T)を受け取った可能性が高く、この「ヨーロッパ型」のLP多様体は次に正の選択を受け、フラニ人集団では18~60%の頻度に達しました。
最後に、サヘル地域集団間の混合の少ない量が、mtHgやYHgと同様にゲノム規模遺伝子標識で推測されてきました。フラニ人(および/もしくは他のサハラ砂漠の下位人口集団)とアラブ人の遊牧民との間の限定的な性別の偏った遺伝子流動が示唆されてきており、それは、YHgよりもmtHgの方が多く共有されている、と両集団間で観察されているからで、ほとんどの共有されているmtHgがサハラ砂漠以南起源です。この項目で本論文は、最も多くの混合を経た、サヘル地域における遊牧民人口集団の人口史に焦点を当てました。ニジェール・コンゴ語族話者人口集団を含むサヘル地域の人口集団の人口史の包括的な再調査は、先行研究で述べられています。
●アフリカ北部における継続的で多面的な混合
アフリカ人の遺伝学的研究の多くは、歴史時にサハラ砂漠以南の人口集団に焦点を当ててきており、それは、アフリカ北部の人口集団はサハラ砂漠以南の人口集団とは別に分類され、古典的な遺伝的標識の研究では非アフリカ系人口集団とより密接だからです。しかし、片親性遺伝標識の研究で明かされたのは、(1)mtHgおよびYHg頻度の東西の勾配を伴うアフリカ北部の人口集団における遺伝的異質性、(2)アラブ人とイマジゲン(Imazighen、ベルベル人)との間の分化の欠如、(3)ヨーロッパ関連や中東関連やサハラ砂漠以南のアフリカ関連祖先系統との人口集団の広範な混合についてのおもな証拠、(4)在来のアフリカ北部構成要素です。
ゲノム規模データの研究は、微細規模の人口構造を強調しながら、片親性遺伝標識から推測されるアフリカ北部の人口構造を主に確証しました。先行研究ではまず、アラブ人とベルベル人との間の明確な遺伝的分化が報告されました。この研究では、チュニジアのベルベル人の全ての祖先系統が在来のアフリカ北部人、いわゆるマグレブ人の祖先構成要素に由来するのに対して、アラブ人集団はヨーロッパ関連と中東関連および/もしくはサハラ砂漠以南のアフリカ関連祖先系統を有する、と明らかになりました。しかし、チュニジアのベルベル人はその研究で唯一のベルベル人集団で、その後、祖先系統組成と低い遺伝的多様性と同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)の量の観点では外れ値と分かりました。より多くのベルベル人集団を含むゲノム規模データのその後の研究では、ほとんどのアラブ人とベルベル人の集団は弱く遺伝的に分化している、と確証されました。
マグレブ人の構成要素は、モロッコのタフォラルト(Taforalt)遺跡の15000年前頃の個体群により表され、その祖先系統は、初期完新世中東人、つまりレヴァントのナトゥーフィアン(Natufian)集団関連構成要素(63.5%)と、残りのサハラ砂漠以南のアフリカ関連構成要素の混合として最適にモデル化されます(関連記事)。タフォラルト遺跡個体群の年代と一致して、マグレブ構成要素は中東関連祖先構成要素と38000~18000年前頃に分岐した、と推定され、完新世の前となるアフリカへの逆遺伝子流動が示唆されます。この推定値は、アフリカ北部固有のmtDNA系統(U6系統では44000±21600年前、U6a1系統では13000±5700年前、U6a*系統では13500±3700年前頃)、およびYHg-E1b1b1a1(M78)における、ほとんどの人口集団では15000~12000年前頃、チュニジアのベルベル人では44000~30000年前頃)の推定合着(合祖)年代とほぼ一致します。
さらに、片親性遺伝標識で観察された東西の勾配と一致して、在来のマグレブ構成要素は東方に向かって減少します。モロッコ中央部のイフリンアムロ・モウッサ(Ifri n’Amr or Moussa、略してIAM)遺跡の5000年前頃となる前期新石器時代個体群は、タフォラルト遺跡個体群との高い遺伝的類似性を示し(関連記事)、旧石器時代と前期新石器時代との間の人口連続性が示唆されます【最近の研究(関連記事)では、マグレブ地域における更新世~完新世の人口史がより詳しく解明されています】。
新石器化とアラブ化とサハラ砂漠以南のアフリカからの遺伝子流動は、アフリカ北部人口集団におけるマグレブ構成要素の希釈につながりました(図4D)。新石器化において、アフリカ北部人口集団はヨーロッパの新石器時代集団と混合しました。この混合は3000年前頃となるモロッコのケリフ・エル・ボロウド(Kelif el Boroud、略してKEB)遺跡の後期新石器時代個体群から明らかで、KEB遺跡個体群はIAM集団とヨーロッパ新石器時代集団の混合として最適にモデル化されます(関連記事)。
そのアラブ化は、遺伝的勾配では西方に向かって減少する、最近の中東関連祖先系統を1400年前頃にもたらしました。アラブ人の拡大は、奴隷貿易を通じて、いくらかのサハラ砂漠以南のアフリカ関連祖先系統も導入した、と仮定されてきており、それは、アフリカ西部人口集団との1200年前頃となる混合事象にたどることができる、アフリカ北部人口集団におけるサハラ砂漠以南関連祖先系統により裏づけられます。しかし、サハラ砂漠以南からの遺伝子流動は、過去700年間とより最近に起きた、と推測されており、現在のアフリカ北部人口集団におけるさまざまな程度のサハラ砂漠以南関連祖先系統につながりました。さらに、アメリカ大陸で観察されたパターンと一致して、サハラ砂漠以南からの遺伝子流動も性別に偏って可能性が高く、女性に偏ったサハラ砂漠以南からの寄与と、男性に偏った中東からの寄与がありました。まとめると、これは、アフリカ北部が連続テレビ小説ヒトの移動と混合の深い歴史を有している、と示唆しています。アフリカ北部の人口史も、最近の論文で再調査されました(関連記事)。
●西ケープ州における混合の複雑なパターン
南アフリカ共和国最南端に位置する西ケープ州には、最も多様な混合人口集団の1つ、つまり南アフリカ共和国有色(South African Coloured、略してSAC)人口集団が暮らしており、これはこの地域で最大の民族集団であり、その起源は350年前よりもわずかに古くなります。SAC人口集団は西ケープ州の推定700万人の住民の49%超を表しており、その大半は歴史的に、オランダ人と祖先的に関連する独特な南アフリカ共和国の言語であるアフリカーンス語(Afrikaans)の話者です。混合の複雑な起源は、顕著な歴史的事象に起因し、それは南アフリカ共和国において過去数千年内に起き、バントゥー諸語話者の農耕牧畜民の到来とともに1700年前頃に始まりました。
過去数世紀において、オランダ人とドイツ人とフランス人とその後に続くイギリス人の強奪と支配によるケープのヨーロッパ植民地化は、西ケープ州における複雑な混合パターンに寄与しました。この期間に、奴隷はオランダ東インド会社によりアフリカ東部とマダガスカル島およびその周辺の島々とインドとインドネシアから取引され、コイサン人を含めて居住者と奴隷との混合につながりました。SAC人口集団のゲノム研究から、これらの歴史的事象はSAC人口集団で観察された複雑な5方向混合と相関しており、祖先の寄与はおもに、在来のコイサン人、バントゥー諸語話者のアフリカ人、ヨーロッパ人の子孫集団、アジア南東部とアジア南部の人口集団から起きた、と明らかになりました。さらに、文化的および宗教的慣行が、南アフリカ共和国のさまざまな地域から標本抽出されたSAC個体群における祖先の寄与における高度の異質性に寄与しました。
いくつかの研究はSACにおける性別の偏った遺伝子流動を明らかにしてきており、これは、ほぼ全ての異なる集団間の結婚が、男性の入植者と黒人の自由人女性(男性が奴隷の自由を購入しました)もしくは在来のコイサン人女性との間で行なわれたことを示唆する、歴史的記録を裏づけます。先行研究は片親性遺伝標識を用いて、独特な人口集団固有のmtDNAとYHgの識別子を使用し、可能性の高い祖先の寄与を確証しました。コイサン人の派生的な母系(mtHg)L0dは調査されたSAC集団では68%を表していましたが、ユーラシア系統のmtHg-M・Nは低頻度でしか見られませんでした。対照的に、同じ集団におけるYHg-R・I・G・N・O・Jにより定義された顕著なユーラシア人の父方の寄与(71.4%)があり、ヨーロッパ西部のYHg-R1bは44.4%と優勢でした。mtHgとYHgの類似の分布は、西ケープ州地域のSAC男性の小集団の全ゲノム配列決定データから観察されました。全体的に、これらの調査結果から、最近の混合は性別の偏った遺伝子流動を含んでいた、と論証されます。
●大西洋横断奴隷貿易後のアフリカ人の離散における混合
大西洋横断隷貿易の結果として、1250万人以上が16世紀~19世紀にアフリカからアメリカ大陸へ強制的に移住させられ、最大規模の現在のアフリカ人の離散(ディアスポラ)をもたらしました。ヨーロッパ的祖先系統およびアメリカ大陸先住民的祖先系統の人口集団とのその後の混合は時空間的に複雑で、アメリカ大陸における混合人口集団の最近のアフリカ人的祖先系統のさまざまな量につながりました。アフリカ人関連祖先系統はイギリス領カリブ海(約75%)とアメリカ合衆国(約71%)において最高で、南アメリカ大陸(約11~12%)と中央アメリカ大陸(メキシコを含めて約8%)において最低です。
残りの祖先系統はおもにヨーロッパ的なものに分類され、一部の人口集団ではアメリカ大陸先住民集団からのわずかな寄与があります。さらに、より多くの男性がアメリカ大陸に追放されたにも関わらず、アメリカ大陸における遺伝子プールへのアフリカ人の寄与は女性に偏っている可能性が高いのに対して、ヨーロッパ人の寄与は男性に偏っている可能性が高そうです。しかし、性別の偏りの程度は、X染色体と常染色体の祖先系統の割合から正確に特定することは困難で、それは、とりわけ複雑な人口史からの混乱に起因します。
大西洋横断奴隷貿易の歴史的記録とほぼ一致して、アメリカ大陸の混合人口集団の遺伝学的研究では、アフリカ祖先系統のほとんどはアフリカの西部~中央部にたどることができ、たとえば、ナイジェリアのヨルバ人(Yoruba)もしくはエサン(Esan)人と類似しており、より低い割合では、たとえボツワナのムブクシュ人(Mbukushu)および/もしくはケニアのルヒヤ人(Luhya)的なアフリカ南部~東部的祖先系統と類似している、と示されました。しかし、これらアフリカ祖先系統の分布はアメリカ大陸のさまざまな人口集団間で異なり、アフリカ西部/中央部関連祖先系統は、たとえばアメリカ合衆国などアメリカ大陸北部でより一般的ですが、アフリカ南部~東部関連祖先系統は、たとえばブラジルなどアメリカ大陸南部でより一般的です。
アメリカ大陸における、アフリカ的祖先系統のさまざまな供給源と、さまざまなアフリカ供給源人口集団の混合のさまざまな時期は、航海の経路に影響を及ぼした、地理と当時の変化する地政学に起因するかもしれません。興味深いことに、アフリカにおける寄与した祖先系統それぞれの間で見られる分化と比較して、アメリカ大陸における混合したゲノムで見つかるアフリカ的祖先系統間では分化が少なくなっています。アメリカ大陸における混合人口集団の大西洋の観点での人口史のより詳細な再調査は、先行研究で述べられています。
●アフリカ人のゲノムにおける局所的適応の証拠
環境は時空間により変われます。このため、アフリカの人口集団は選択圧の不均一な混合を経てきました。それにも関わらず、アフリカの人口集団は、適応的変異の影響力のある供給源として機能できる遺伝子流動を介してつながっています。選択のアフリカの綿密な調査に関わる特定の遺伝子は、用いられた手法と調べられた人口集団により異なりますが、いくつかの共通の主題が生じます。調節DNAは、アフリカ人のゲノムにおける適応の頻繁な標的であるようです。さらに、アフリカにおける選択の多くの注目すべき事例は、生理か食性か病原体圧力と関わっています。
一つの重要な進化的課題は、高地の砂漠環境など極限状態への生理的応答を含んでいます。アフリカでは、エチオピア高地は海抜1500mで、頂上の高さは海抜4550mになります。たとえば、アマハラ人(Amahara)はエチオピア高地における低気圧と低酸素に過去5000年間適応してきました。興味深いことに、エチオピア高地で見られる特有の適応的変異は、チベット高原やアンデス高原で観察されてきたものとは異なります。アムハラ人の高地で暮らす個体群と低地で暮らす個体群を比較した選択の綿密な調査は、ヘモグロビン水準と関連するSNPであるrs10803083を含む、多くの適応的遺伝子座を示唆してきました。それは、低酸素への応答と概日周期に関わる遺伝子であるBHLHE41や、哺乳類の酸素恒常性で中心的役割を果たす遺伝子であるEGNL1です。興味深いことに、EGNL1は、タンザニアの伝統的な採食民である吸着音語話者のサンダウェ人の選択の綿密な調査にも関わってきました。これは、適応的なEGLN1ハプロタイプの利点が、高地条件を超えて広がるかもしれない、と示唆します。
アフリカでは、乾燥した砂漠環境も進化的課題を提示しています。たとえば、頻繁な旱魃にも関わらず、コマニ・サン人は何千年もカラハリ砂漠で暮らしてきました。複数の統計を組み合わせて一掃の事後確率を生成する手法であるSWIF(r)を用いて研究者は、コマニ・サン人における選択の潜在的な標的として、アディポネクチンや肥満指数(body mass index、略してBMI)や代謝と関連する複数の遺伝子を特定してきました。
極限状態への適応の別の事例は、低身長に進化した(成人の平均身長が160cm未満)RHG集団です。選択下にあったいくつかの候補遺伝子座が特定されてきており、それらはRHG集団の低身長と関わっている可能性が高く、それは、そうした遺伝子座が、骨の合成(たとえば、EHB1やPRDM5)、筋肉の発達(たとえば、OBSCNやCOX10)、脳下垂体腺における成長ホルモンの合成と分泌(たとえば、HESX1やASB14)と重複しているからで、RHGの低身長がいくつかの遺伝子座における正の選択を通じて進化した、と示唆されます。興味深い事例は、骨形成の部位におけるエフリン受容体であるEPHB1です。RHG集団と農耕民集団は異なるハプロタイプでほぼ固定されており、紛然な選択的一掃が示唆されます。この遺伝子座における選択圧は、非同義多様体が見つかっていないので、制御的性質のようです。さらに、推定上の選択された領域も、生殖や甲状腺の機能や免疫特性などと関連する、身長と無関係な遺伝子も含んでいます。
食性はアフリカ全域で異なり、これらの違いは、代謝の変化や有害な生体異物の解毒や嗅覚および味覚受容体の変化などを通じて、自然選択について充分な機会を提供してきました。食性適応と収斂進化の教科書的事例にはLPが含まれ、アフリカの牧畜民の研究は、LCTおよびMCM6遺伝子近傍の適応的な調節多様体を特定してきました。しかし、ケニア(G-14010、rs145946881)とスーダン(G-13907、rs41525747)におけるLPをもたらす特定の変異は、ヨーロッパ北部(T-13910、rs4988235)および中東(G-13915、rs41380347)で見つかったLP変異とは異なっています。LPの選択の年代はアフリカでは同様に異なっており、マサイ人(Maasai)の牧畜民におけるLPの強い選択は、ヨーロッパにおけるLPの選択よりも最近起きたようです。デンプン質の食べ物を分解する能力も、選択の標的だったようです。唾液アミラーゼ遺伝子のかなりのコピー数の差異がアフリカと非アフリカ系の人口集団に存在し、ほとんどのヒトは2個~15個のコピーを有しています。興味深いことに、塊茎が豊富な食性のタンザニアのハッザ人は、低デンプン質食性の人口集団よりも多いアミラーゼ遺伝子のコピー数を有する傾向にあります。食性の違いも恐らく、アフリカの人口集団における嗅覚受容体と味覚知覚遺伝子の進化の加速に寄与してきました。
アフリカの人口集団への最も強い選択圧の一部には、病原体および免疫への応答が含まれ、マラリアほどヒトのゲノムに影響を及ぼしてきた疾患はありません。毎年、この熱帯性疾患のためアフリカでは50万人以上が死亡しており、その多くは5歳未満の子供を含んでいます。サハラ砂漠以南のアフリカでは、マラリア耐性への強い選択が、ダッフィー(Duffy)血液型のほぼ固定化をもたらし、グルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠乏や鎌状赤血球症を増加させています。この選択はおもに完新世に起きており、進化的観点からは比較的最近の現象になっています。じっさい、アフリカ中央部における主要な鎌状赤血球ハプロタイプはバントゥー諸語の拡大に先行するようで、祖先組換え図はこの変異(rs334)が7300年前頃に起きた、と推測します。さらに、カーボベルデでは過去20世代において混合がマラリアへの適応を促進した、という遺伝学的証拠もあり、ダッフィ抗原ケモカイン受容体(DARC)遺伝子座で作用する選択係数はs=0.08と高くなっています。
アフリカにおいて選択の主要な標的となってきた追加の感染症には、HIV-1やトリパノソーマ症(アフリカ睡眠病)や天然痘や結核があります。しかし、免疫応答と関連する多くの遺伝子はひじょうに多面発現性で、たとえば、主要組織適合複合体(major histocompatibility complex、略してMHC)、HLA(Human Leukocyte Antigen、ヒト白血球型抗原)遺伝子、アポリポタンパク質L1(APOL1)などがあり、最近の適応の主因を突き止める試みを複雑にしています。たとえば、APOL1の2つのハプロタイプ(G1とG2)はトリパノソーマ症感染から保護しますが、アフリカ祖先系統人口集団における腎臓疾患の危険性増加とも関連しています。本論文は最後に、免疫関連遺伝子への自然選択がアフリカ人の離散(ディアスポラ)全体にも広がっていることに注目します。具体的には、ラテンアメリカ人のゲノムは、アフリカ系のMHC/HLAが豊富で、これは遺伝子流動の進化的利点と一致いるパターンです。
●アフリカにおける人口構造の生物医学的意味
精密医療の中心的前提は、祖先の差異が疾患の過程で重要な役割を果たすことです。このため、生物医学分野は多様な人口集団のゲノム差異の深い理解から恩恵を受けます。アフリカの人口集団における遺伝的差異の調査は、その高い遺伝的多様性と低水準のLDのためとくに有望で、それぞれ、関連する原因多様体の蓄積を増加させ、原因多様体を絞り込むことを可能とします。これらの理由のため、潜在的に適応した遺伝子を含めてアフリカにおけるより細かい人口構造の研究は、複雑な特性の遺伝学の理解を深めるかもしれません。そうした研究は、大量の洞察力に富むデータを生み出し、そうしたデータは医学的に関連する遺伝子座を明らかにし、遺伝的多様体の病原性の解釈を支援し、全ての人口集団にとって精密医療を進歩させます。疾患危険性や治療反応に影響を及ぼす社会文化的要因との相互作用の知識とともに、この理解は、遺伝的検証の製作さの改善および/もしくは治療上の応答の評価により、臨床的配慮を改善することができます。
遺伝的構造の理解の深化は、人口集団間の疾患危険性の違いの説明に役立つことができます。この重要な一例には、SAC人口集団においてとくに深刻な感染を有する疾患である結核が含まれます。局所的な祖先系統と人口集団固有の高密度の遺伝子型データを活用して、4番染色体長腕領域2帯域2(chromosome 4q22)上の新規のSNP(rs28647531)はSAC人口集団において結核感受性と関連していました。これは、バントゥー諸語話者のアフリカ祖先系統について、局所的祖先系統を補正しながら、SNPの少数派アレル効果を示しました。この事例は、混合したアフリカの人口集団が、均一な人口集団と比較して、祖先系統特有の疾患危険性をより深く理解する有望な機会である、と示しています。しかし、多方向混合の人口集団についての参照人口集団の選択は、生物医学的研究において繊細かつ重要かもしれません。たとえば、人口集団特有の組換え図は、混合人口集団における遺伝子型と表現型の相関の検出と、さらに全ての人口集団と関連する精密医療の分野を進める可能性を有しています。
さらに複数の研究も、治療の結果を効率的に方向づける祖先系統を含めることの重要性を示します。これらの研究では、患者の人口統計学的な医療および遺伝学的情報が、臨床的な意思決定もしくは遺伝的相談に利用出来る、と示されてきました。たとえば、患者のコメディケーション(一つの薬の副作用を軽減するため、他の薬を併用すること)や年齢や遺伝的変異や祖先系統は、抗凝血性のワルファリンの投与量推測に一派的に用いられています。遺伝的および祖先系統関連の情報が、適切な投与量の正確な決定に重要な役割を果たしている、と示されてきました。しかし、抗凝血性のワルファリンの投与量の情報をもたらすアメリカ合衆国食品医薬品局(Food and Drug Administration、略してFDA)の承認検査は、アフリカ人にあまり関連していない遺伝的多様体を調べています。たとえば、調べられた多様体の一つである、シトクロムP450酵素CYP2C9関連遺伝子のrs1799853は、アフリカ人では稀なので、アフリカ大陸における遺伝薬理学的有用性は限定的です。まとめると、これらの事例から、アフリカの人口集団の異質な混合史は、生物医学的研究における重要な考慮次項で、集団遺伝学の深い理解が、治療の選択に情報をもたらすかもしれない機能的注釈づけを改善できる、と示されます。
●ゲノム研究におけるさらなる多様性の必要性
本論文で記載されているにも関わらず、本論文は主要な移動事象の過程における混合事象の概要を提供しただけで、たとえば、バントゥー諸語話者の拡大です。しかし、多くの興味深い混合事象が、これら移動回廊に沿って起きた可能性が高そうです。
アフリカの集団遺伝学的研究は、ヨーロッパと比較して依然として初期段階にあるので、アフリカ大陸における多様な人口集団の配列の継続的な試みの拡大の必要が必須です。そうしてやって、アフリカ大陸におけるヒトの遺伝的差異の全体像と微細規模の人口構造を把握できるようになるでしょう。次に重要なのは、遺伝学が臨床への応用への方法を見つけるにつれて、アフリカにおけるこのまだ発見されていない遺伝的差異の生物医学的意味と人口構造を理解し、アフリカの人口集団とヨーロッパの祖先系統との間の健康不平等性を軽減することです。
たとえば、12人口集団から得た180個体のアフリカの狩猟採集民のゲノムに関する最近の研究(関連記事)は、530万の新規の遺伝的多様体を発見し、そのうち78%は人口集団固有で、その多くは機能的に関連すると予測されています。この人口集団固有の遺伝的変異がどのように複雑な特性に影響を及ぼすのか理解することは、多遺伝子得点の文脈ではとくに重要です。高い遺伝的多様性は、アフリカにおける多遺伝子得点の一般化可能性の低さにつながっており、それは、研究コホート(特定の性質が一致する個体で構成される集団)との距離に応じて制度が低下するからです。
さらに、先行研究(関連記事)により設定されたデータにおける「病原性の可能性が高い」ClinVar多様体の29%(154点のうち44点)は、アフリカ人のデータ一式において一般的だったものの(頻度が0.05超)、アフリカ外では稀でした(頻度が0.01未満)。低頻度が病原性決定に使用さ釣れる特徴であることを考えると、これは、多様体の病原性の現在の分類が、研究コホートにおける多様性の欠如により混乱していることを示唆します。全体的に、これらの事例は、臨床応用のための、アフリカにおける遺伝的差異と人口構造の調査の重要性を強調します。
しかし同時に、意図せぬ集団の危害を避けるために倫理的指針と基準が遵守されることは、保証されるべきです。これは、利益が危険性を上回るよう保証するため、倫理的・法的・社会的問題や結果の意思伝達に関する共同体の利害関係者の有意義な関与を必要とします。最後に、生きている被験者へ適用される同じ倫理的厳密さが古代DNAに拡張される必要があることも必須です。
研究コホートにおける多様性の欠如は、ゲノム科学者にも拡張されます。アフリカ大陸でのより多様な科学者と研究能力の構築は、より優れた研究につながるだけではなく、研究コホートにおける多様性の欠如への対処にも役立つかもしれません。まとめると、ゲノム研究において周縁化された集団の現在の提示不足が是正されなければ、既存の不公平は悪化する可能性が高そうです。
参考文献:
Pfennig A. et al.(2023): Evolutionary Genetics and Admixture in African Populations. Genome Biology and Evolution, 15, 4, evad054.
https://doi.org/10.1093/gbe/evad054
この記事へのコメント