新石器時代のアフリカ北西部におけるイベリア半島とレヴァントからの遺伝的影響
新石器時代のアフリカ北西部におけるイベリア半島とレヴァントからの遺伝的影響を報告した研究(Simões et al., 2023)が公表されました。近年の古代ゲノム研究の飛躍的な進展により、世界各地での新石器時代への移行の様相が次第に明らかになってきました(関連記事)。その結果窺えるのは、新石器時代への移行の様相は世界各地で異なっており、いくつかの傾向は見られるものの、広い地域を一括して論じるのは難しい、ということです。本論文は、アフリカ北西部の新石器時代における人類集団の移動と混合をこれまでよりもさらに詳しく解明しており、新石器時代の移行に関する重要な地域別の事例が新たに付け加えられたことになります。
●要約
アフリカ北西部では、7400年前頃に生活様式が採食から食料生産へと移行しましたが、何がこの変化を引き起こしたのかは不明なままです。考古学的データは、以下のように相反する見解を支持しており、それは、(1)ヨーロッパ新石器時代の農耕民移民がアフリカ北部に新しい生活様式を持ち込んだ、もしくは、(2)在来の狩猟採集民が技術革新を採り入れた、というものです。後者の見解は、考古遺伝学的データによっても裏づけられています(関連記事)。
本論文は、9個体のゲノムの配列決定(ゲノム網羅率は45.8~0.2倍)により、続旧石器時代から中期新石器時代までのマグレブの重要な年代および考古遺伝学的間隙を埋めました。重要なことに、上部旧石器時代から続旧石器時代を経て、一部のマグレブ新石器時代農耕民集団への、8000年にわたる人口の連続性と孤立が明らかになりました。しかし、最初期の新石器時代の状況で発見された遺骸は、その大半がヨーロッパ新石器時代祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を示しました。
本論文は、農耕がヨーロッパからの移民によりもたらされ、その後で在来集団によって急速に採用された、と提案します。中期新石器時代には、レヴァントからの新たな祖先系統がマグレブに現れ、これはこの地域における牧畜の到来と同時期で、後期新石器時代におけるこれら3祖先統全てが混合しました。本論文の結果は、アフリカ北西部での新石器化における祖先系統の変化を示しており、これは恐らく、他地域で観察されたものよりも多面的な過程での、不均一的な経済および文化的景観を反映しています。
●研究史
広大なサハラ砂漠と肥沃な近東と地中海の間の中心に位置するアフリカ北部の地理的位置は、この地域における複雑なヒトの歴史をもたらしました。化石記録は、長期の人類とヒトの存在を示唆しますが(関連記事)、過去10万年間の連続性は、記録の断片的な性質のため推測できません。15000年前頃の後期更新世において、モロッコで発掘された採食民の遺骸は、現在のレヴァントの採食民とサハラ砂漠以南の人口集団との中間の明確な遺伝的構成を示します(関連記事)。アフリカ北部の現代人はおもにユーラシアの人口集団と関連があり、これは恐らく「アフリカへの逆」移住により起きました。
考古学的記録と考古ゲノム学的データから、(ヨーロッパの採食民と遺伝的に異なる)新石器時代の農耕民がレヴァント北部およびアナトリア半島から地中海初頭やイタリア半島やイベリア半島へと拡散した、と示されます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。地中海沿岸経路考古学的記録では長く、ヨーロッパにおける新石器時代拡大の重要な部分として認識されてきました。地中海西部では、インプレッサ土器(Impressed Wares)技術、さらにはカルディウム(Cardial)層準が、ヨーロッパ本土海岸と東証部に沿って拡大し、イベリア半島へと到達し、両現象は較正年代で7550年前頃【以下、明記しない場合は基本的に較正年代です】にはイベリア半島に存在しました。
いくつかの研究は、イースタン・リフ(Eastern Rif)遺跡やイフリ・オウダデーン(Ifri Oudadane)遺跡などアフリカ北西部とイベリア半島における7550年前頃の同時の出現を裏づけますが、土器や栽培化された穀類や家畜の査証の証拠は、モロッコ北部において7350年前頃と、約2世紀遅れてカフ・タート・エル・ガール(Kaf Taht el-Ghar、略してKTG)遺跡で見つかっています。前期新石器時代の物質文化と最初の家畜化された哺乳類および栽培化された豆類はイベリア半島とのつながりを示唆しますが、これらのつながりの程度と遺産は不明なままです。
しかし、アフリカ北西部に位置するモロッコ中央部のイフリンアムロ・モウッサ(Ifri n’Amr o’Moussa、略してIAM)遺跡で発見された前期新石器時代農耕民の最初のゲノム解析は、ヨーロッパ新石器時代農耕民との混合の痕跡を示しません。代わりに、この地域における上部旧石器時代以降の長期の人口連続性が示されます(関連記事)。この結果は、アフリカ北西部における新石器時代への移行は、IAMなどで見られるように、技術革新を採用した在来の続旧石器時代共同体により始まった、という仮説と一致します。IAMには、地中海西部の新石器時代ヨーロッパで存在した土器と類似しているインプレッサ・カルディウム的土器や、たとえば7500年前頃オオムギ(Hordeum vulgare)の粒など、栽培化された穀物がありました。このパターンは、アナトリア半島初期農耕民の西方および北方への人口拡散新により農耕がもたらされた、と確立しているヨーロッパと著しく対照的な、新石器化の仮定を示唆します。
アフリカ北西部の局所的発展もしくは文化変容は、野生植物や土器の利用など資源管理戦略を発展させていった(関連記事)、次第に定住化していった続石器時代集団の兆候により、さらに裏づけられます。急速な気候変化は遊動的な牧畜を促進し、ウシがサハラ砂漠では独立して家畜化された、と仮定されてきましたが、放射性炭素年代は、7000~6000年前頃の、恐らくは近東からの南西方向でのサハラ砂漠における牧畜の漸進的な導入を示唆します。
ヨーロッパ地中海地域における新石器時代への移行に関する古ゲノム研究が豊富な一方で(関連記事1および関連記事2)、アフリカ北部は、前期および後期新石器時代それぞれ1ヶ所ずつの遺跡からヒトの遺伝的データを生成した、単一の研究(関連記事)にのみ焦点が当てられてきており、新石器時代への移行事象の年代にかなりの間隙が残っています。IAM遺跡が、新石器時代の生活様式、およびヨーロッパの新石器時代祖先系統の欠如を示していることは明らかですが、これが独立した発展なのか、アフリカ北西部もしくは地中海全域の他集団からの感化に由来したのか、不明なままです。したがって、この地域の新石器化に関わる時系列と過程、アフリカ北部におけるさまざまな経済の性質と動態、より広いヨーロッパ新石器時代で担われたかもしれないその役割は、研究が不足したままで、議論の余地があります。
本論文はでは、続旧石器時代から中期新石器時代にまたがる、現在のモロッコの4ヶ所の遺跡のヒト遺骸の時系列が調査されます。それは、イフリ・オウベリッド(Ifri Ouberrid、略してOUB)の続旧石器時代遺跡、IAMとKTGの前期新石器時代遺跡、スヒラット・ロウアジ(Skhirat-Rouazi、略してSKH)の中期新石器時代墓地で、その地域の以前に刊行された遺伝的データ(関連記事1および関連記事2)が共分析されました。これら4ヶ所の遺跡から発掘された9個体のゲノムの配列決定により、アフリカ北西部における新石器時代への移行は、地中海ヨーロッパからの新石器時代農耕民の移住により誘発された、と論証できます。
現代のモロッコで発見された古代人9個体からゲノム配列データが生成され(表1)、そのゲノム網羅率の範囲は45.75~0.017倍で、1倍以上の網羅率の5個体と、9倍以上の網羅率の3個体が含まれます。年代順に、データは1000年以上にわたり、後期続旧石器時代(1個体)と前期新石器時代(5個体)と中期新石器時代(3個体)が網羅されています。KTG(4個体)とIAM(1個体)という2ヶ所の前期新石器時代遺跡が調べられ、IAMでは、新たに生成された1個体のゲノムデータと、以前に報告された個体のゲノムデータ(関連記事)がともに分析されました(図1aおよびb)。以下は本論文の図1です。
DNAライブラリは、骨と歯から抽出されたDNAで生成され、その後イルミナ(Illumina)社のプラットフォームでショットガン配列決定されました。全てのライブラリは古代DNAから予測される脱アミノ化パターンを示し、その中には短い断片規模や読み取り末端でのシトシンの脱アミノ化が含まれます。汚染推定値は核ゲノムとミトコンドリアゲノムの両方で一般的に低く、例外は10~16%の核ゲノムの汚染を示した個体skh003です(表1)。アフリカ北西部の古代の個体と、他の古代および現在のユーラシア西部およびアフリカの人口集団との関係を評価するため、本論文のデータが、アフリカと中東とヨーロッパの関連する古代人および現代人の集団とともに分析されました。
●8000年間の人口連続性
モロッコのタフォラルト(Taforalt、略してTAF)遺跡の上部旧石器時代の人々から、OUB遺跡の続旧石器時代を経てIAM遺跡の前期新石器時代まで、アフリカ北西部住民において15000年間持続し(図1c・d)、恐らくはさらにさかのぼるだろう、独特な遺伝的構成の持続が観察されます。続旧石器時代の個体oub002は、年代が7660~7506年前頃で、遺伝的にはTAF個体群(15086~14046年前頃)およびIAMの前期新石器時代個体群(7316~6679年前頃)とひじょうに類似しています(図1)。Oub002のゲノムは、続旧石器時代の少なくとも7000年間にわたる、アフリカ北西部における地中海全域の実質的な遺伝子流動を伴わない顕著な人口連続性を論証しており(図1cおよびd)、上部旧石器時代に見つかるマグレブの遺伝的祖先系統をIAMの前期新石器時代個体群と結びつけます。
マグレブ系統は著しく低い遺伝的多様性(関連記事1および関連記事2)と、長くて頻繁に見られる同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してRoH)を示しており(図2b)、これは恐らく長期の孤立の結果です。個体oub002の45.8倍の網羅率のゲノムの調査により、アフリカ北西部の古代人は深刻な人口ボトルネック(瓶首効果)を経た、と示されます。7万~6万年前頃まで、個体oub002の有効人口規模(Ne)はユーラシア人口集団と類似のパターンに従い、比較的小さな有効人口規模が5万年前頃に達しており(図2c)、マグレブ系統がアフリカから移住してきた人口集団と関連していることと一致します。以下は本論文の図2です。
興味深いことに、ユーラシアとアフリカ北部の現代人は、新石器時代ユーラシアの人口集団と同様に、3万年前頃まで有効人口規模が約5000に留まっていたものの、マグレブ系統の有効人口規模は減少し続け、最終氷期の盛期において、50000~27000年前頃に最低点に達します。顕著に類似したパターンは、ルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡個体により表される中石器時代のヨーロッパ西部狩猟採集民(western hunter-gatherers、略してWHG)で観察されおり、その低い多様性測定は、小さな人口規模に起因する社会の同族関係と自己接合性の高水準と考えられてきました(関連記事)。
●ヨーロッパ農耕民による新石器化の誘発
IAM遺跡では、新石器時代一括を表す多数の人工遺物が確認されてきました。しかし、IAMで暮らしている人々は在来のマグレブ祖先系統を示しており、それ以前の(上部旧石器時代および続旧石器時代)アフリカ北西部集団の子孫だった、と示されてきました(図1c・d)。これら2点の観察は、モロッコにおける新石器化の最初の段階が、地中海全域での接触に基づいて技術革新を採用した在来の人口集団により推進された、という見解を裏づけます。
ジブラルタル海峡近くのアフリカ北部地中海沿岸に位置する前期新石器時代のKTG遺跡は、IAM遺跡に先行し、部分的に重複します(表1)。KTG遺跡では新石器時代の遺物群が見つかっており、多様な栽培化された穀類や家畜化された哺乳類やカルディウム土器が含まれます。IAM遺跡の人々とは対照的に、KTG遺跡の人々は遺伝的にヨーロッパの前期新石器時代人口集団と類似しています(図1c・dおよび図3a)。興味深いことに、KTG遺跡の4個体全員は、在来のアフリカ北部集団との混合(15.4~27.4%)を示し、混合のf4検定(KTG個体、地中海前期新石器時代個体;TAF個体、ムブティ人)での有意に正の値と一致します。
さらに、KTG遺跡個体群におけるWHG祖先系統の低い割合が確認され、WHG祖先系統を有する前期新石器時代ヨーロッパ人の観察と一致します(関連記事)。KTG遺跡の人々の人口史のモデルは、アナトリア半島新石器時代祖先系統72±4.4%と、WHG祖先系統10±2.6%とマグレブ祖先系統18±3.3%で、データと一致します。まとめると、これらの結果はKTG遺跡農耕民のヨーロッパ新石器時代起源を示唆しており、その祖先はアナトリア半島からヨーロッパを通って拡散し、地中海を渡ってアフリカ北部へ到達する前に、ヨーロッパ南西部への経路でヨーロッパの狩猟採集民と混合しました。余は狩猟採集民祖先系統の存在は、前期新石器時代の移民がアナトリア半島もしくはレヴァントからアフリカ北部の地中海沿岸のみを通った、という可能性を除外します。
イベリア半島前期新石器時代(全体的および地域的両方で)は、KTG遺跡個体群におけるヨーロッパ祖先系統の差異的な供給源人口集団と分かり、それに続くのがシチリア島のステンティネッロ(Stentinello)前期新石器時代個体群です。これは、地中海ヨーロッパ沿岸のカルディウム土器(Cardial Ware)関連集団における遺伝的分化の低水準と一致しており、インプレッサ土器農耕民が地中海西部全域を急速に拡大した、と示す直接的な放射性炭素年代により確証されました。
ヨーロッパの農耕民がイベリア半島からモロッコへと渡ったのかどうか、あるいは、シチリア島とチュニジアの海峡を通って、その後に拡大のマグレブへの経路が続くような地中海のそれ以前の横断があったのかどうか、議論されてきました。KTG遺跡農耕民の祖先としてのシチリア島とイベリア半島の前期新石器時代農耕民の直接的比較は、イベリア半島新石器時代起源のより強い証拠を提供しますが、シチリア島農耕民からのある程度の寄与を除外できません。
遺伝的データは、アフリカ北西部における新石器時代への移行に関する考古学的証拠の最も節約的な説明、つまりイベリア半島新石器時代農耕民によるイベリア半島南部からの横断と一致します。イベリア半島南部とタンギタナ(Tangitana)半島との間の地理的な近さは、この観察を補強しますが、マグレブ東部とチュニスの関連する遺跡における初期の栽培化・家畜化要素の信頼できる考古学的証拠の欠如は、パンテッレリーア(Pantelleria)島からの土器と黒曜石のある遺跡を含めて、シチリア島とチュニスの横断仮説を傷つけます。興味深いことに、アフリカ北部からの遺伝子流動は、4500年前頃以降とずっと後の地中海ヨーロッパの個体群でしか見つかりませんでした(関連記事1および関連記事2)。
KTG遺跡の様々な個体は、わずかに年代が異なります。KTG遺跡のより早期の個体(7429~7267年前頃のktg001とktg005では約25%)では、マグレブ祖先系統の割合が、その後の個体(7247~6945年前頃のktg004とktg006では約13%)よりも2倍以上と分かりました(図1d)。これは、f4検定(KTG初期、KTG後期;イベリア半島新石器時代、ムブティ人)の有意に負の値により示される、ヨーロッパ新石器時代祖先系統の増加と一致します。
初期KTG遺跡個体におけるマグレブ祖先系統の約1/4の割合から、初期KTG遺跡個体は集団間の交雑の少なくとも第二世代を表している、と示唆されます。イベリア半島もしくはシチリア島の前期新石器時代個体とTAF遺跡個体を混合供給源として使用し、祖先系統共分散パターンと連鎖不平衡減衰に基づく2つの手法を用いて、混合の年代が推定されました。両手法の年代は過去6~13世代内の接触を示し、集団間の混合が数百年間にわたって起きたことを示唆しており、これは7500~7400年前頃における最初の接触を示した土器様式の分析と一致します。
KTG遺跡農耕民は、ほとんどの前期新石器時代ヨーロッパ人口集団よりもわずかに低い遺伝的多様性水準と高いRoHを有しています(図2a・b)。KTG遺跡の人々が有しているマグレブ祖先系統は、顕著により低い多様性と、より広範なRoHを示し、恐らくは全体的な多様性減少の要因です。考古学的証拠から、前期新石器時代の農耕はマグレブ西端の「飛び地」に限定されており、それは恐らく南方への気候制約に起因する、と示唆されます。これは、こうした集団が最初の創始者効果から回復する可能性を制約したかもしれません。
全体的に、アフリカ北西部におけるさまざまな集団間の局所的な相互作用の遺伝的パターンは、ヨーロッパで見られるものと類似しています。つまり、農耕民は在来の採食民の祖先系統を単方向の混合過程で同化しました。新石器時代の特定の要素を採用した狩猟採集民共同体の事例が、ヨーロッパでは記載されてきました(関連記事1および関連記事2)。しかし、アフリカ北西部の新石器化過程は、外来の農耕共同体(KTG遺跡)との少なくとも300年間の共存にも関わらず、(IAM遺跡個体により表される)遺伝的に混合していない在来の人口集団の顕著な存続を含んでおり、依然として新石器時代様式のいくつかの要素を外来の農耕共同体から採用していました。IAM遺跡とKTG遺跡における考古学的調査結果が、集団間の着想の交換を示し、採食共同体の文化変容過程を裏づけるのに対して、本論文の遺伝的データから、遺伝子の交換は単方向的だった、と示されます。
●レヴァント祖先系統の流入
別の異なる祖先系統が、中期新石器時代にアフリカ北西部にもたらされました。SKH遺跡の全個体は、新石器時代と銅器時代のレヴァントやプトレマイオス朝エジプトや現代の近東の人口集団の個体群で最大化される遺伝的構成要素を高い割合で示します(図1d)。SKH遺跡個体群の祖先系統は、レヴァント新石器時代人口集団(約76.4±4.0%)とTAF遺跡個体群により表される在来のアフリカ北西部人(約23.6±4.0%)の2方向混合としてモデル化できます。ヨーロッパの新石器時代(たとえばイベリア半島)の追加の供給源人口集団が追加される場合、このモデルは却下されます。
この新石器時代レヴァント祖先系統は新石器時代において地中海のヨーロッパ側では観察されてこなかったので、恐らくはレヴァントからアフリカ北部への人々の独立した拡大を表しています。レヴァントからアフリカ東部への移住は、サハラ砂漠の牧畜の拡大と関連している、標本抽出されていないアフリカ北東部人口集団の推定される子孫である、4000年前頃の新石器時代牧畜民個体群で確認されてきました(関連記事)。SKH遺跡個体とアフリカ東部の新石器時代牧畜民の両方で、レヴァント祖先系統は在来しの祖先系統と混合しています(図1d)。このレヴァント祖先系統の到来は、アシュカール土器(Ashakar Ware)とウキに分類されるSKH遺跡の副葬品のような、縄目模様(「輪転曲線」もしくは波線)により特徴づけられることが多い、モロッコ北部における新たな土器伝統の出現と一致します。同時に、ウシの牧畜が現在のサハラ砂漠地帯で拡大しつつあり、アフロ・アジア語族言語がアフリカ北部全体で広がりました。
本論文の分析から、レヴァント関連構成要素も、ケーフ・エル・バロウド(Kehf el Baroud、略してKEB)遺跡の個体群で後期新石器時代においてマグレブで、およびカナリア諸島の1000年前頃のグアンチェス人(Guanches)で残っていた(関連記事1および関連記事2)、と示されます(図1c・d)。これらの遺跡の個体群は、主成分分析(principal component analysi、略してPCA)空間では、古代レヴァント人口集団の方へと動いています(図1c)。これは、中期および後期新石器時代のヨーロッパで記載されてきた狩猟採集民祖先系統の漸進的な増加(関連記事1および関連記事2および関連記事3)とは対照的に、アフリカ北西部で起きた複雑な人口統計学的過程を浮き彫りにします。
KEB遺跡の後期新石器時代個体群は、前期および中期新石器時代のアフリカ北西部においてすでに存在した祖先系統の混合としてモデル化でき、中期新石器時代と後期新石器時代との間にこの地域へとかなりの移住の波がなかったことを示唆しています。
●まとめ
現代のアフリカ北西部における複雑な人口構造は、アラブ人の拡大などさまざまな歴史的事象と関連づけられてきました。しかし、本論文の詳細な年表と高解像度のゲノムデータは、マグレブにおけるこれら先史時代の過程の新たな理解を提供し、新石器時代に起源がある豊富で多様な遺伝的基盤を明らかにします。まず、アフリカ北西部の人口集団は上部旧石器時代以来の、少なくとも15000年前頃から7500年前頃までの遺伝的連続性と孤立を示し、この孤立の期間は、農耕慣行をもたらしたヨーロッパ前期新石器時代集団の移住により中断されました。したがって、イベリア半島南部とアフリカ北西部との間の比較的短い地理的距離(現在の距離はジブラルタル海峡を挟んでわずか13km)と、両地域が新石器時代の何千年も前に採食民により居住されていた、という事実にも関わらず、地中海を横断しての遺伝子流動は、前期新石器時代までは確立されていませんでした。
新たに到来した人々は、新たな生活様式と農耕慣行と家畜化と土器伝統をもたらし、それらはその後、在来の人口集団により採用されました。本論文の結果から、アフリカ北西部の新石器化の過程は移民のヨーロッパ新石器時代人により引き起こされたものの、在来の集団(少なくともIAM遺跡の分析された個体)がこれらの刊行の一部を新たな到来者との混合なしに採用した、と示されます。2つの遺伝的に異なる集団が、この地域では近接して共存しました。興味深いことに、文化的および技術的知識が、おもにヨーロッパ新石器時代農耕民から在来の集団(たとえば、IAM遺跡個体群)に伝わったようであるものの、遺伝的祖先系統は在来の集団からKTG遺跡の個体群など侵入してきた農耕民へとのみ流動しました。さらに、中期新石器時代には、東方起源の新たな祖先系統がアフリカ北西部で検出されます。この祖先系統は新たな移住集団を示唆しており、在来の集団と混合したサハラ砂漠の牧畜民と関連している可能性があります(図3c)。以下は本論文の図3です。
新石器時代におけるアフリカ北西部へのさまざまな移住混合の波は、その地域に不均一な経済および文化的景観をもたらしたかもしれません。つまり、イベリア半島から侵入してきた農耕民や、農耕慣行を採用した採食民や、在来の人々と混合した東方の牧畜民を含んでいた、集団の寄せ集めです。これらの集団のほとんどは、ヨーロッパの同時代の人口集団よりも減少した有効人口規模と低い多様性を示しており(図2)、人口規模は新石器時代を通じて控えめなままだった、と示唆されます。これらのパターンは恐らく、孤立の期間により引き起こされ、その孤立は現在マグレブで見られる明確な遺伝的祖先系統に寄与したかもしれません。氷期の最近の研究では、アフリカ北西部は戦士時代を通じて多様な一連の集団の故地であり続けた、と示唆されており、この地域を、考古ゲノム学的手法で研究された世界で最も独特な場所の一つにしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
考古学:北西アフリカにおける農耕の起源
新石器時代にイベリア半島とレバントから北西アフリカに移住してきた人々が農耕をもたらした可能性があることが、古代ゲノムデータの解析から示唆された。このことを報告する論文が、今週号のNatureに掲載される。今回の研究は、北西アフリカにおける農耕の起源に関する長年の論争を解決する上で役立つと考えられる。
今から約7400年前、北西アフリカの現生人類の生活様式が、狩猟採集から農耕を中心とする生活様式に移行したが、こうした変化をもたらした機構については、はっきりしたことが分かっていない。これについては2つの仮説があり、北西アフリカのコミュニティーでは、近隣集団との混合なしに農耕が採用され、農耕については近隣集団から学習したとする説と、イベリア半島から北西アフリカに移住した集団が地元の住民集団と混合し、あるいは置き換わって、その結果として農耕が導入されたとする説がある。
今回、Mattias Jakobssonらは、この論点の解明に役立てるため、これまでに試料の採取が行われていなかったモロッコの3カ所の考古学的遺跡(約7600~5700年前のものとされる)で採取された9個体のゲノムの塩基配列解読を行った。その結果、農耕は、新石器時代前期にイベリア半島から移住してきた人々によって導入されたという結論が示された。Jakobssonらは、この移住者が、新しいやり方、家畜、陶器の伝統をもたらし、それを地元のマグレブ人集団が素早く取り入れたという説を提案している。新石器時代中期には、さらなる移住の波が起こり、レバントからの移住者が牧畜を持ち込んだ。その後、これら3つの系統(マグレブ系、ヨーロッパ系、レバント系)が融合した。このシナリオは、他の地域に関するシナリオとは異なっており、例えば、ヨーロッパとサハラ以南のアフリカについては、地元の狩猟採集民が移住してきた農耕民に置き換わったか、同化したというシナリオが示されている。
同時掲載のNews & Viewsでは、Louise HumphreyとAbdeljalil Bouzouggarが、今回の研究で、モロッコについてこれまでに考えられていたものよりも複雑で動的なヒト集団の移住と混合のパターンが示唆されたと述べている。
古代DNA:アフリカ北西部の新石器時代はイベリアとレバントからの移民によって開始された
古代DNA:アフリカ北西部の多面的な新石器化
今回、アフリカ北部のマグリブ地方で発掘された終末期旧石器時代から中期新石器時代の9人の遺骸について、ゲノム塩基配列の解読が行われ、この地域の新石器化が、ヨーロッパとレバントからの移住者と在来集団の間の混合を介した多面的な過程で起こったことが明らかになった。
参考文献:
Simões LG. et al.(2023): Northwest African Neolithic initiated by migrants from Iberia and Levant. Nature, 618, 7965, 550–556.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-06166-6
●要約
アフリカ北西部では、7400年前頃に生活様式が採食から食料生産へと移行しましたが、何がこの変化を引き起こしたのかは不明なままです。考古学的データは、以下のように相反する見解を支持しており、それは、(1)ヨーロッパ新石器時代の農耕民移民がアフリカ北部に新しい生活様式を持ち込んだ、もしくは、(2)在来の狩猟採集民が技術革新を採り入れた、というものです。後者の見解は、考古遺伝学的データによっても裏づけられています(関連記事)。
本論文は、9個体のゲノムの配列決定(ゲノム網羅率は45.8~0.2倍)により、続旧石器時代から中期新石器時代までのマグレブの重要な年代および考古遺伝学的間隙を埋めました。重要なことに、上部旧石器時代から続旧石器時代を経て、一部のマグレブ新石器時代農耕民集団への、8000年にわたる人口の連続性と孤立が明らかになりました。しかし、最初期の新石器時代の状況で発見された遺骸は、その大半がヨーロッパ新石器時代祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を示しました。
本論文は、農耕がヨーロッパからの移民によりもたらされ、その後で在来集団によって急速に採用された、と提案します。中期新石器時代には、レヴァントからの新たな祖先系統がマグレブに現れ、これはこの地域における牧畜の到来と同時期で、後期新石器時代におけるこれら3祖先統全てが混合しました。本論文の結果は、アフリカ北西部での新石器化における祖先系統の変化を示しており、これは恐らく、他地域で観察されたものよりも多面的な過程での、不均一的な経済および文化的景観を反映しています。
●研究史
広大なサハラ砂漠と肥沃な近東と地中海の間の中心に位置するアフリカ北部の地理的位置は、この地域における複雑なヒトの歴史をもたらしました。化石記録は、長期の人類とヒトの存在を示唆しますが(関連記事)、過去10万年間の連続性は、記録の断片的な性質のため推測できません。15000年前頃の後期更新世において、モロッコで発掘された採食民の遺骸は、現在のレヴァントの採食民とサハラ砂漠以南の人口集団との中間の明確な遺伝的構成を示します(関連記事)。アフリカ北部の現代人はおもにユーラシアの人口集団と関連があり、これは恐らく「アフリカへの逆」移住により起きました。
考古学的記録と考古ゲノム学的データから、(ヨーロッパの採食民と遺伝的に異なる)新石器時代の農耕民がレヴァント北部およびアナトリア半島から地中海初頭やイタリア半島やイベリア半島へと拡散した、と示されます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。地中海沿岸経路考古学的記録では長く、ヨーロッパにおける新石器時代拡大の重要な部分として認識されてきました。地中海西部では、インプレッサ土器(Impressed Wares)技術、さらにはカルディウム(Cardial)層準が、ヨーロッパ本土海岸と東証部に沿って拡大し、イベリア半島へと到達し、両現象は較正年代で7550年前頃【以下、明記しない場合は基本的に較正年代です】にはイベリア半島に存在しました。
いくつかの研究は、イースタン・リフ(Eastern Rif)遺跡やイフリ・オウダデーン(Ifri Oudadane)遺跡などアフリカ北西部とイベリア半島における7550年前頃の同時の出現を裏づけますが、土器や栽培化された穀類や家畜の査証の証拠は、モロッコ北部において7350年前頃と、約2世紀遅れてカフ・タート・エル・ガール(Kaf Taht el-Ghar、略してKTG)遺跡で見つかっています。前期新石器時代の物質文化と最初の家畜化された哺乳類および栽培化された豆類はイベリア半島とのつながりを示唆しますが、これらのつながりの程度と遺産は不明なままです。
しかし、アフリカ北西部に位置するモロッコ中央部のイフリンアムロ・モウッサ(Ifri n’Amr o’Moussa、略してIAM)遺跡で発見された前期新石器時代農耕民の最初のゲノム解析は、ヨーロッパ新石器時代農耕民との混合の痕跡を示しません。代わりに、この地域における上部旧石器時代以降の長期の人口連続性が示されます(関連記事)。この結果は、アフリカ北西部における新石器時代への移行は、IAMなどで見られるように、技術革新を採用した在来の続旧石器時代共同体により始まった、という仮説と一致します。IAMには、地中海西部の新石器時代ヨーロッパで存在した土器と類似しているインプレッサ・カルディウム的土器や、たとえば7500年前頃オオムギ(Hordeum vulgare)の粒など、栽培化された穀物がありました。このパターンは、アナトリア半島初期農耕民の西方および北方への人口拡散新により農耕がもたらされた、と確立しているヨーロッパと著しく対照的な、新石器化の仮定を示唆します。
アフリカ北西部の局所的発展もしくは文化変容は、野生植物や土器の利用など資源管理戦略を発展させていった(関連記事)、次第に定住化していった続石器時代集団の兆候により、さらに裏づけられます。急速な気候変化は遊動的な牧畜を促進し、ウシがサハラ砂漠では独立して家畜化された、と仮定されてきましたが、放射性炭素年代は、7000~6000年前頃の、恐らくは近東からの南西方向でのサハラ砂漠における牧畜の漸進的な導入を示唆します。
ヨーロッパ地中海地域における新石器時代への移行に関する古ゲノム研究が豊富な一方で(関連記事1および関連記事2)、アフリカ北部は、前期および後期新石器時代それぞれ1ヶ所ずつの遺跡からヒトの遺伝的データを生成した、単一の研究(関連記事)にのみ焦点が当てられてきており、新石器時代への移行事象の年代にかなりの間隙が残っています。IAM遺跡が、新石器時代の生活様式、およびヨーロッパの新石器時代祖先系統の欠如を示していることは明らかですが、これが独立した発展なのか、アフリカ北西部もしくは地中海全域の他集団からの感化に由来したのか、不明なままです。したがって、この地域の新石器化に関わる時系列と過程、アフリカ北部におけるさまざまな経済の性質と動態、より広いヨーロッパ新石器時代で担われたかもしれないその役割は、研究が不足したままで、議論の余地があります。
本論文はでは、続旧石器時代から中期新石器時代にまたがる、現在のモロッコの4ヶ所の遺跡のヒト遺骸の時系列が調査されます。それは、イフリ・オウベリッド(Ifri Ouberrid、略してOUB)の続旧石器時代遺跡、IAMとKTGの前期新石器時代遺跡、スヒラット・ロウアジ(Skhirat-Rouazi、略してSKH)の中期新石器時代墓地で、その地域の以前に刊行された遺伝的データ(関連記事1および関連記事2)が共分析されました。これら4ヶ所の遺跡から発掘された9個体のゲノムの配列決定により、アフリカ北西部における新石器時代への移行は、地中海ヨーロッパからの新石器時代農耕民の移住により誘発された、と論証できます。
現代のモロッコで発見された古代人9個体からゲノム配列データが生成され(表1)、そのゲノム網羅率の範囲は45.75~0.017倍で、1倍以上の網羅率の5個体と、9倍以上の網羅率の3個体が含まれます。年代順に、データは1000年以上にわたり、後期続旧石器時代(1個体)と前期新石器時代(5個体)と中期新石器時代(3個体)が網羅されています。KTG(4個体)とIAM(1個体)という2ヶ所の前期新石器時代遺跡が調べられ、IAMでは、新たに生成された1個体のゲノムデータと、以前に報告された個体のゲノムデータ(関連記事)がともに分析されました(図1aおよびb)。以下は本論文の図1です。
DNAライブラリは、骨と歯から抽出されたDNAで生成され、その後イルミナ(Illumina)社のプラットフォームでショットガン配列決定されました。全てのライブラリは古代DNAから予測される脱アミノ化パターンを示し、その中には短い断片規模や読み取り末端でのシトシンの脱アミノ化が含まれます。汚染推定値は核ゲノムとミトコンドリアゲノムの両方で一般的に低く、例外は10~16%の核ゲノムの汚染を示した個体skh003です(表1)。アフリカ北西部の古代の個体と、他の古代および現在のユーラシア西部およびアフリカの人口集団との関係を評価するため、本論文のデータが、アフリカと中東とヨーロッパの関連する古代人および現代人の集団とともに分析されました。
●8000年間の人口連続性
モロッコのタフォラルト(Taforalt、略してTAF)遺跡の上部旧石器時代の人々から、OUB遺跡の続旧石器時代を経てIAM遺跡の前期新石器時代まで、アフリカ北西部住民において15000年間持続し(図1c・d)、恐らくはさらにさかのぼるだろう、独特な遺伝的構成の持続が観察されます。続旧石器時代の個体oub002は、年代が7660~7506年前頃で、遺伝的にはTAF個体群(15086~14046年前頃)およびIAMの前期新石器時代個体群(7316~6679年前頃)とひじょうに類似しています(図1)。Oub002のゲノムは、続旧石器時代の少なくとも7000年間にわたる、アフリカ北西部における地中海全域の実質的な遺伝子流動を伴わない顕著な人口連続性を論証しており(図1cおよびd)、上部旧石器時代に見つかるマグレブの遺伝的祖先系統をIAMの前期新石器時代個体群と結びつけます。
マグレブ系統は著しく低い遺伝的多様性(関連記事1および関連記事2)と、長くて頻繁に見られる同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してRoH)を示しており(図2b)、これは恐らく長期の孤立の結果です。個体oub002の45.8倍の網羅率のゲノムの調査により、アフリカ北西部の古代人は深刻な人口ボトルネック(瓶首効果)を経た、と示されます。7万~6万年前頃まで、個体oub002の有効人口規模(Ne)はユーラシア人口集団と類似のパターンに従い、比較的小さな有効人口規模が5万年前頃に達しており(図2c)、マグレブ系統がアフリカから移住してきた人口集団と関連していることと一致します。以下は本論文の図2です。
興味深いことに、ユーラシアとアフリカ北部の現代人は、新石器時代ユーラシアの人口集団と同様に、3万年前頃まで有効人口規模が約5000に留まっていたものの、マグレブ系統の有効人口規模は減少し続け、最終氷期の盛期において、50000~27000年前頃に最低点に達します。顕著に類似したパターンは、ルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡個体により表される中石器時代のヨーロッパ西部狩猟採集民(western hunter-gatherers、略してWHG)で観察されおり、その低い多様性測定は、小さな人口規模に起因する社会の同族関係と自己接合性の高水準と考えられてきました(関連記事)。
●ヨーロッパ農耕民による新石器化の誘発
IAM遺跡では、新石器時代一括を表す多数の人工遺物が確認されてきました。しかし、IAMで暮らしている人々は在来のマグレブ祖先系統を示しており、それ以前の(上部旧石器時代および続旧石器時代)アフリカ北西部集団の子孫だった、と示されてきました(図1c・d)。これら2点の観察は、モロッコにおける新石器化の最初の段階が、地中海全域での接触に基づいて技術革新を採用した在来の人口集団により推進された、という見解を裏づけます。
ジブラルタル海峡近くのアフリカ北部地中海沿岸に位置する前期新石器時代のKTG遺跡は、IAM遺跡に先行し、部分的に重複します(表1)。KTG遺跡では新石器時代の遺物群が見つかっており、多様な栽培化された穀類や家畜化された哺乳類やカルディウム土器が含まれます。IAM遺跡の人々とは対照的に、KTG遺跡の人々は遺伝的にヨーロッパの前期新石器時代人口集団と類似しています(図1c・dおよび図3a)。興味深いことに、KTG遺跡の4個体全員は、在来のアフリカ北部集団との混合(15.4~27.4%)を示し、混合のf4検定(KTG個体、地中海前期新石器時代個体;TAF個体、ムブティ人)での有意に正の値と一致します。
さらに、KTG遺跡個体群におけるWHG祖先系統の低い割合が確認され、WHG祖先系統を有する前期新石器時代ヨーロッパ人の観察と一致します(関連記事)。KTG遺跡の人々の人口史のモデルは、アナトリア半島新石器時代祖先系統72±4.4%と、WHG祖先系統10±2.6%とマグレブ祖先系統18±3.3%で、データと一致します。まとめると、これらの結果はKTG遺跡農耕民のヨーロッパ新石器時代起源を示唆しており、その祖先はアナトリア半島からヨーロッパを通って拡散し、地中海を渡ってアフリカ北部へ到達する前に、ヨーロッパ南西部への経路でヨーロッパの狩猟採集民と混合しました。余は狩猟採集民祖先系統の存在は、前期新石器時代の移民がアナトリア半島もしくはレヴァントからアフリカ北部の地中海沿岸のみを通った、という可能性を除外します。
イベリア半島前期新石器時代(全体的および地域的両方で)は、KTG遺跡個体群におけるヨーロッパ祖先系統の差異的な供給源人口集団と分かり、それに続くのがシチリア島のステンティネッロ(Stentinello)前期新石器時代個体群です。これは、地中海ヨーロッパ沿岸のカルディウム土器(Cardial Ware)関連集団における遺伝的分化の低水準と一致しており、インプレッサ土器農耕民が地中海西部全域を急速に拡大した、と示す直接的な放射性炭素年代により確証されました。
ヨーロッパの農耕民がイベリア半島からモロッコへと渡ったのかどうか、あるいは、シチリア島とチュニジアの海峡を通って、その後に拡大のマグレブへの経路が続くような地中海のそれ以前の横断があったのかどうか、議論されてきました。KTG遺跡農耕民の祖先としてのシチリア島とイベリア半島の前期新石器時代農耕民の直接的比較は、イベリア半島新石器時代起源のより強い証拠を提供しますが、シチリア島農耕民からのある程度の寄与を除外できません。
遺伝的データは、アフリカ北西部における新石器時代への移行に関する考古学的証拠の最も節約的な説明、つまりイベリア半島新石器時代農耕民によるイベリア半島南部からの横断と一致します。イベリア半島南部とタンギタナ(Tangitana)半島との間の地理的な近さは、この観察を補強しますが、マグレブ東部とチュニスの関連する遺跡における初期の栽培化・家畜化要素の信頼できる考古学的証拠の欠如は、パンテッレリーア(Pantelleria)島からの土器と黒曜石のある遺跡を含めて、シチリア島とチュニスの横断仮説を傷つけます。興味深いことに、アフリカ北部からの遺伝子流動は、4500年前頃以降とずっと後の地中海ヨーロッパの個体群でしか見つかりませんでした(関連記事1および関連記事2)。
KTG遺跡の様々な個体は、わずかに年代が異なります。KTG遺跡のより早期の個体(7429~7267年前頃のktg001とktg005では約25%)では、マグレブ祖先系統の割合が、その後の個体(7247~6945年前頃のktg004とktg006では約13%)よりも2倍以上と分かりました(図1d)。これは、f4検定(KTG初期、KTG後期;イベリア半島新石器時代、ムブティ人)の有意に負の値により示される、ヨーロッパ新石器時代祖先系統の増加と一致します。
初期KTG遺跡個体におけるマグレブ祖先系統の約1/4の割合から、初期KTG遺跡個体は集団間の交雑の少なくとも第二世代を表している、と示唆されます。イベリア半島もしくはシチリア島の前期新石器時代個体とTAF遺跡個体を混合供給源として使用し、祖先系統共分散パターンと連鎖不平衡減衰に基づく2つの手法を用いて、混合の年代が推定されました。両手法の年代は過去6~13世代内の接触を示し、集団間の混合が数百年間にわたって起きたことを示唆しており、これは7500~7400年前頃における最初の接触を示した土器様式の分析と一致します。
KTG遺跡農耕民は、ほとんどの前期新石器時代ヨーロッパ人口集団よりもわずかに低い遺伝的多様性水準と高いRoHを有しています(図2a・b)。KTG遺跡の人々が有しているマグレブ祖先系統は、顕著により低い多様性と、より広範なRoHを示し、恐らくは全体的な多様性減少の要因です。考古学的証拠から、前期新石器時代の農耕はマグレブ西端の「飛び地」に限定されており、それは恐らく南方への気候制約に起因する、と示唆されます。これは、こうした集団が最初の創始者効果から回復する可能性を制約したかもしれません。
全体的に、アフリカ北西部におけるさまざまな集団間の局所的な相互作用の遺伝的パターンは、ヨーロッパで見られるものと類似しています。つまり、農耕民は在来の採食民の祖先系統を単方向の混合過程で同化しました。新石器時代の特定の要素を採用した狩猟採集民共同体の事例が、ヨーロッパでは記載されてきました(関連記事1および関連記事2)。しかし、アフリカ北西部の新石器化過程は、外来の農耕共同体(KTG遺跡)との少なくとも300年間の共存にも関わらず、(IAM遺跡個体により表される)遺伝的に混合していない在来の人口集団の顕著な存続を含んでおり、依然として新石器時代様式のいくつかの要素を外来の農耕共同体から採用していました。IAM遺跡とKTG遺跡における考古学的調査結果が、集団間の着想の交換を示し、採食共同体の文化変容過程を裏づけるのに対して、本論文の遺伝的データから、遺伝子の交換は単方向的だった、と示されます。
●レヴァント祖先系統の流入
別の異なる祖先系統が、中期新石器時代にアフリカ北西部にもたらされました。SKH遺跡の全個体は、新石器時代と銅器時代のレヴァントやプトレマイオス朝エジプトや現代の近東の人口集団の個体群で最大化される遺伝的構成要素を高い割合で示します(図1d)。SKH遺跡個体群の祖先系統は、レヴァント新石器時代人口集団(約76.4±4.0%)とTAF遺跡個体群により表される在来のアフリカ北西部人(約23.6±4.0%)の2方向混合としてモデル化できます。ヨーロッパの新石器時代(たとえばイベリア半島)の追加の供給源人口集団が追加される場合、このモデルは却下されます。
この新石器時代レヴァント祖先系統は新石器時代において地中海のヨーロッパ側では観察されてこなかったので、恐らくはレヴァントからアフリカ北部への人々の独立した拡大を表しています。レヴァントからアフリカ東部への移住は、サハラ砂漠の牧畜の拡大と関連している、標本抽出されていないアフリカ北東部人口集団の推定される子孫である、4000年前頃の新石器時代牧畜民個体群で確認されてきました(関連記事)。SKH遺跡個体とアフリカ東部の新石器時代牧畜民の両方で、レヴァント祖先系統は在来しの祖先系統と混合しています(図1d)。このレヴァント祖先系統の到来は、アシュカール土器(Ashakar Ware)とウキに分類されるSKH遺跡の副葬品のような、縄目模様(「輪転曲線」もしくは波線)により特徴づけられることが多い、モロッコ北部における新たな土器伝統の出現と一致します。同時に、ウシの牧畜が現在のサハラ砂漠地帯で拡大しつつあり、アフロ・アジア語族言語がアフリカ北部全体で広がりました。
本論文の分析から、レヴァント関連構成要素も、ケーフ・エル・バロウド(Kehf el Baroud、略してKEB)遺跡の個体群で後期新石器時代においてマグレブで、およびカナリア諸島の1000年前頃のグアンチェス人(Guanches)で残っていた(関連記事1および関連記事2)、と示されます(図1c・d)。これらの遺跡の個体群は、主成分分析(principal component analysi、略してPCA)空間では、古代レヴァント人口集団の方へと動いています(図1c)。これは、中期および後期新石器時代のヨーロッパで記載されてきた狩猟採集民祖先系統の漸進的な増加(関連記事1および関連記事2および関連記事3)とは対照的に、アフリカ北西部で起きた複雑な人口統計学的過程を浮き彫りにします。
KEB遺跡の後期新石器時代個体群は、前期および中期新石器時代のアフリカ北西部においてすでに存在した祖先系統の混合としてモデル化でき、中期新石器時代と後期新石器時代との間にこの地域へとかなりの移住の波がなかったことを示唆しています。
●まとめ
現代のアフリカ北西部における複雑な人口構造は、アラブ人の拡大などさまざまな歴史的事象と関連づけられてきました。しかし、本論文の詳細な年表と高解像度のゲノムデータは、マグレブにおけるこれら先史時代の過程の新たな理解を提供し、新石器時代に起源がある豊富で多様な遺伝的基盤を明らかにします。まず、アフリカ北西部の人口集団は上部旧石器時代以来の、少なくとも15000年前頃から7500年前頃までの遺伝的連続性と孤立を示し、この孤立の期間は、農耕慣行をもたらしたヨーロッパ前期新石器時代集団の移住により中断されました。したがって、イベリア半島南部とアフリカ北西部との間の比較的短い地理的距離(現在の距離はジブラルタル海峡を挟んでわずか13km)と、両地域が新石器時代の何千年も前に採食民により居住されていた、という事実にも関わらず、地中海を横断しての遺伝子流動は、前期新石器時代までは確立されていませんでした。
新たに到来した人々は、新たな生活様式と農耕慣行と家畜化と土器伝統をもたらし、それらはその後、在来の人口集団により採用されました。本論文の結果から、アフリカ北西部の新石器化の過程は移民のヨーロッパ新石器時代人により引き起こされたものの、在来の集団(少なくともIAM遺跡の分析された個体)がこれらの刊行の一部を新たな到来者との混合なしに採用した、と示されます。2つの遺伝的に異なる集団が、この地域では近接して共存しました。興味深いことに、文化的および技術的知識が、おもにヨーロッパ新石器時代農耕民から在来の集団(たとえば、IAM遺跡個体群)に伝わったようであるものの、遺伝的祖先系統は在来の集団からKTG遺跡の個体群など侵入してきた農耕民へとのみ流動しました。さらに、中期新石器時代には、東方起源の新たな祖先系統がアフリカ北西部で検出されます。この祖先系統は新たな移住集団を示唆しており、在来の集団と混合したサハラ砂漠の牧畜民と関連している可能性があります(図3c)。以下は本論文の図3です。
新石器時代におけるアフリカ北西部へのさまざまな移住混合の波は、その地域に不均一な経済および文化的景観をもたらしたかもしれません。つまり、イベリア半島から侵入してきた農耕民や、農耕慣行を採用した採食民や、在来の人々と混合した東方の牧畜民を含んでいた、集団の寄せ集めです。これらの集団のほとんどは、ヨーロッパの同時代の人口集団よりも減少した有効人口規模と低い多様性を示しており(図2)、人口規模は新石器時代を通じて控えめなままだった、と示唆されます。これらのパターンは恐らく、孤立の期間により引き起こされ、その孤立は現在マグレブで見られる明確な遺伝的祖先系統に寄与したかもしれません。氷期の最近の研究では、アフリカ北西部は戦士時代を通じて多様な一連の集団の故地であり続けた、と示唆されており、この地域を、考古ゲノム学的手法で研究された世界で最も独特な場所の一つにしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
考古学:北西アフリカにおける農耕の起源
新石器時代にイベリア半島とレバントから北西アフリカに移住してきた人々が農耕をもたらした可能性があることが、古代ゲノムデータの解析から示唆された。このことを報告する論文が、今週号のNatureに掲載される。今回の研究は、北西アフリカにおける農耕の起源に関する長年の論争を解決する上で役立つと考えられる。
今から約7400年前、北西アフリカの現生人類の生活様式が、狩猟採集から農耕を中心とする生活様式に移行したが、こうした変化をもたらした機構については、はっきりしたことが分かっていない。これについては2つの仮説があり、北西アフリカのコミュニティーでは、近隣集団との混合なしに農耕が採用され、農耕については近隣集団から学習したとする説と、イベリア半島から北西アフリカに移住した集団が地元の住民集団と混合し、あるいは置き換わって、その結果として農耕が導入されたとする説がある。
今回、Mattias Jakobssonらは、この論点の解明に役立てるため、これまでに試料の採取が行われていなかったモロッコの3カ所の考古学的遺跡(約7600~5700年前のものとされる)で採取された9個体のゲノムの塩基配列解読を行った。その結果、農耕は、新石器時代前期にイベリア半島から移住してきた人々によって導入されたという結論が示された。Jakobssonらは、この移住者が、新しいやり方、家畜、陶器の伝統をもたらし、それを地元のマグレブ人集団が素早く取り入れたという説を提案している。新石器時代中期には、さらなる移住の波が起こり、レバントからの移住者が牧畜を持ち込んだ。その後、これら3つの系統(マグレブ系、ヨーロッパ系、レバント系)が融合した。このシナリオは、他の地域に関するシナリオとは異なっており、例えば、ヨーロッパとサハラ以南のアフリカについては、地元の狩猟採集民が移住してきた農耕民に置き換わったか、同化したというシナリオが示されている。
同時掲載のNews & Viewsでは、Louise HumphreyとAbdeljalil Bouzouggarが、今回の研究で、モロッコについてこれまでに考えられていたものよりも複雑で動的なヒト集団の移住と混合のパターンが示唆されたと述べている。
古代DNA:アフリカ北西部の新石器時代はイベリアとレバントからの移民によって開始された
古代DNA:アフリカ北西部の多面的な新石器化
今回、アフリカ北部のマグリブ地方で発掘された終末期旧石器時代から中期新石器時代の9人の遺骸について、ゲノム塩基配列の解読が行われ、この地域の新石器化が、ヨーロッパとレバントからの移住者と在来集団の間の混合を介した多面的な過程で起こったことが明らかになった。
参考文献:
Simões LG. et al.(2023): Northwest African Neolithic initiated by migrants from Iberia and Levant. Nature, 618, 7965, 550–556.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-06166-6
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