師茂樹『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』
岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2021年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。当ブログ開始前に読んだので当ブログでは取り上げていませんが、末木文美士『日本宗教史』(岩波書店、2006年)にて、最澄と徳一の「三一権実諍論(一三権実論争)」が日本宗教史においてたいへん重要だった、との見解を知り、もう10年近く前となる2014年に佐々木恵介『日本古代の歴史4 平安京の時代』(吉川弘文館、2014年)を読み(関連記事)、最澄と徳一の論争は日本思想史上で重要な意味を有している、と改めて認識させられました。そのため、この論争には長く関心を抱いてきましたが、私にとって優先順位が最上位というわけではなかったので、その後はとくに調べていませんでした。そこへ、一昨年この問題を扱った本書が刊行されたので購入したものの、現在そこまで優先順位の高い問題ではないため、後回しにしていましたが、最近になってこの問題について改めて気になり始めて、読むことにしました。
「三一権実諍論(一三権実論争)」とは、三乗説と一乗説のどちらが仮(権)、つまり方便の教えで、どちらが真実(実)なのか、という論争でした。最澄は、一乗が真実で、三乗が方便と主張し、徳一はその逆と主張しました。初期大乗仏教は、それ以前の主流派を「小乗」と貶め、釈迦以外にも複数のブッダが存在すると主張しました。当初の二乗説から、主流派の教義を声聞乗(教えを聞く者たちの道)、ブッダを目指す修行者である菩薩乗、独力で解脱する独覚(縁覚)乗の三乗説が定着し、一般の仏教修行者もブッダになり、釈迦同様に人々を共同する存在になれる、と主張されました。菩薩乗は大乗、声聞乗と独覚乗は小乗とされます。大乗仏教により創られた経典以前には、釈迦は阿羅漢になる道を説いており、ブッダになる方法が説かれなかったのか、という問題が大乗仏教側には発生します。そこで、大乗仏教を代表する経典の一つ『法華経(妙法蓮華経)』では、声聞乗と独覚乗で修行をしている僧侶に対して、目的は阿羅漢ではなくブッダで、小乗の教えを説いたのは大乗に導く方便であり、本当は一つの道しかない、と主張されました(一乗真実説)。
これは漢訳されて漢字文化圏で広く信じられるようになりましたが、大乗仏教では異なる主張もあり、7世紀に玄奘がインドからもたらした唯識派の文献では、すべての衆生(有情)がブッダになれるわけではない、とありました。唯識派では一乗説こそ方便と解釈され、素質により目標が異なる三乗説こそブッダの説いた真理である、と主張されました。修行者の素質の違いは、家柄や血筋などを意味する種姓(ゴートラ)と表現されました。輪廻からの解脱を得る声聞種姓と独覚種姓、それに菩薩としての素質を有し、将来的にはブッダになる菩薩種姓です。これ以外に、複数の素質を有するため目的が不確定の不定性や、どの素質も有していない無性がおり、生ける者を5種に区分する五姓各別説が主張されました。五姓各別説は「一切衆生悉有仏性」という思想と対立し、複数の目的を認める点で三乗真実説と同じ立場で、一乗真実説は「一切衆生悉有仏性」と同じ立場になります。玄奘以降、三乗真実説と一乗真実説の間で論争が起きます。
唐の仏教が日本にもたらされると、この論争も日本に持ち込まれ、唯識派の法相宗と一乗真実説の天台宗との間で論争となり、後者の立場の最澄が前者の立場の徳一に反論したことで、両者の論争が始まりました。同じような論争はその後の日本仏教史でも見られますが、その最初の盛り上がりが最澄と徳一の論争だった、と本書は評価します。ただ本書は、徳一が主張した三乗真実説と、最澄が主張した一乗真実説という二項対立的な把握は単純で、正確ではない、と指摘します。両者の間には中間的な意見や折衷的な意見もあった、というわけです。また本書は、そもそも最澄と徳一の論争を中心に据えた視点だからこそ、その他の立場が折衷的とか周辺的とか評価されるのであり、視点によって対立の構造は変化する、と指摘します。また本書は、最澄と徳一の論争が、最澄による論争史の叙述にかなり規定されていることも指摘し、最澄により提示された論争の構図そのものを見直そうとします。
徳一に関する同時代史料は少なく、本書はまず空海が徳一に宛てた書簡を取り上げています。本書の主題と関係ありませんが、この書簡で空海は徳一を、「大いに法螺を吹いて、万類の仏種を発揮す」と評していますが、「法螺を吹く」が「大言を吐く、虚言を言う」といった否定的意味合いで用いられるようになったのは、戦国時代のことでした(関連記事)。徳一は都(平城京)から東国に移り、815年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)頃には陸奥国にいたようです。当時の陸奥国の範囲は広く、徳一はその中でも現在の会津を拠点としていたようです。徳一の出自は不明で、後世の文献には藤原仲麻呂の息子とありますが、年齢からもその可能性は低い、と本書は推測します。徳一がどの寺院で学んだのか定かではなく、本書は徳一に対する最澄の論難から、徳一がどのような仏教の系譜に位置づけられるのか、当時の人々にとって不明だった可能性も指摘します。徳一が東国に赴いた理由はよく分かっていませんが、当時、畿内に留まらず東国で布教活動する官僧の事例が少なからず確認されているそうです。
一方の最澄は若い頃に唯識教学の基礎を学んでおり、これが徳一の思想を理解するうえで役立っただろう、と本書は指摘します。最澄は若い頃から多様な思想を学んだようで、その中には天台教学と大きく異なるものもあったものの、後にそれを徳一との論争で使っており、最澄の融通無碍というかご都合主義的な側面を指摘する見解もあるようです。ただ本書は、当時の仏教界には唐や新羅から多様な思想が流入しており、そうした状況が反映されているのであって、単純に三乗と一乗の二項対立的には理解できない、と指摘します。
本書は最澄と徳一の論争を、単に二人の論争としてではなく、当時の仏教界の思想状況に位置づけ、その背景として三論宗と法相宗の対立(空有の論争)も取り上げています。三論宗は龍樹の著作に依拠し、隋代に嘉祥大師吉蔵が大成した教学を研究する学派で、この世界に存在するとされるものは全て空と主張しました。法相宗は上述のように唯識派で、この世界に存在するものはただ「識(表象作用)」のみと主張しました。この世界にあるのは認識するものとされるもので、どちらも識が変化したものであり、識のみが実在(有)する、というわけです。当時、真理は一つであるからこそ、複数の宗が併存すべきと考えられ、特定の宗にのみ勢力が偏ることは好ましくない、と考えられていました。最澄も、徳一との論争において、天台宗よりも劣っていると考えていた法相宗も必要と論じています。
徳一との論争を始める前の最澄は、天台宗が公認されたとはいえ、天台宗の年分度者として出家した僧が比叡山に定着せず、法相宗に引き抜かれるなど、厳しい状況にあったようです。そうした中で最澄は817年に東国を訪問しており、上述の官僧による東国布教活動の一環でもあったようです。最澄がこの東国滞在中に、徳一の『仏性抄』に応答したことで、最澄と徳一の論争が始まりました。徳一は最澄に直接的に『仏性抄』を送ってきたわけではなく、直接の対象は最澄と関係の近い道忠教団だったようで、最澄はこれに反論したわけです。この論争は、二人に限って言えば、最澄の死により終わります。本書は、最澄と徳一の論争を、日本に限らずアジア東部大陸部まで視野に入れて、当時の仏教界の思潮に位置づけているものの、その大量の問答は、最澄と徳一の強烈な個性があったからだ、と評価しています。
正直なところ、私の仏教思想の理解がたいへんお粗末なので、本書を読んでも最澄と徳一の論争を的確に把握して評価することはできず、今後また本書を再読する必要がありますが、釈迦の「真意」を「解釈」して論破しようとする姿勢は、前近代社会に広く通ずるものがあるようにも思います。日本でも大きな話題になったユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(柴田裕之訳、河出書房新社、2016年、原書の刊行は2011年)では、世界の重要な事柄について、すでに神や賢者によりすべて示されている、とする伝統的な知的観念とは異なり、進んで無知であることを認めた科学革命の画期性が指摘されています(関連記事)。ただ、そうした前近代の論争が、すでに神や賢者によりすべて示されている「真理」に基づく形態をとりながら、実質的に新たな解釈や世界観を提示していることも珍しくなかったのでしょう。しかし、世界の重要な事柄はすでに神や賢者によりすべて示されている、との大前提が強い制約となり、飛躍的な革新をもたらしにくかった側面も多分にあるとは思います。
「三一権実諍論(一三権実論争)」とは、三乗説と一乗説のどちらが仮(権)、つまり方便の教えで、どちらが真実(実)なのか、という論争でした。最澄は、一乗が真実で、三乗が方便と主張し、徳一はその逆と主張しました。初期大乗仏教は、それ以前の主流派を「小乗」と貶め、釈迦以外にも複数のブッダが存在すると主張しました。当初の二乗説から、主流派の教義を声聞乗(教えを聞く者たちの道)、ブッダを目指す修行者である菩薩乗、独力で解脱する独覚(縁覚)乗の三乗説が定着し、一般の仏教修行者もブッダになり、釈迦同様に人々を共同する存在になれる、と主張されました。菩薩乗は大乗、声聞乗と独覚乗は小乗とされます。大乗仏教により創られた経典以前には、釈迦は阿羅漢になる道を説いており、ブッダになる方法が説かれなかったのか、という問題が大乗仏教側には発生します。そこで、大乗仏教を代表する経典の一つ『法華経(妙法蓮華経)』では、声聞乗と独覚乗で修行をしている僧侶に対して、目的は阿羅漢ではなくブッダで、小乗の教えを説いたのは大乗に導く方便であり、本当は一つの道しかない、と主張されました(一乗真実説)。
これは漢訳されて漢字文化圏で広く信じられるようになりましたが、大乗仏教では異なる主張もあり、7世紀に玄奘がインドからもたらした唯識派の文献では、すべての衆生(有情)がブッダになれるわけではない、とありました。唯識派では一乗説こそ方便と解釈され、素質により目標が異なる三乗説こそブッダの説いた真理である、と主張されました。修行者の素質の違いは、家柄や血筋などを意味する種姓(ゴートラ)と表現されました。輪廻からの解脱を得る声聞種姓と独覚種姓、それに菩薩としての素質を有し、将来的にはブッダになる菩薩種姓です。これ以外に、複数の素質を有するため目的が不確定の不定性や、どの素質も有していない無性がおり、生ける者を5種に区分する五姓各別説が主張されました。五姓各別説は「一切衆生悉有仏性」という思想と対立し、複数の目的を認める点で三乗真実説と同じ立場で、一乗真実説は「一切衆生悉有仏性」と同じ立場になります。玄奘以降、三乗真実説と一乗真実説の間で論争が起きます。
唐の仏教が日本にもたらされると、この論争も日本に持ち込まれ、唯識派の法相宗と一乗真実説の天台宗との間で論争となり、後者の立場の最澄が前者の立場の徳一に反論したことで、両者の論争が始まりました。同じような論争はその後の日本仏教史でも見られますが、その最初の盛り上がりが最澄と徳一の論争だった、と本書は評価します。ただ本書は、徳一が主張した三乗真実説と、最澄が主張した一乗真実説という二項対立的な把握は単純で、正確ではない、と指摘します。両者の間には中間的な意見や折衷的な意見もあった、というわけです。また本書は、そもそも最澄と徳一の論争を中心に据えた視点だからこそ、その他の立場が折衷的とか周辺的とか評価されるのであり、視点によって対立の構造は変化する、と指摘します。また本書は、最澄と徳一の論争が、最澄による論争史の叙述にかなり規定されていることも指摘し、最澄により提示された論争の構図そのものを見直そうとします。
徳一に関する同時代史料は少なく、本書はまず空海が徳一に宛てた書簡を取り上げています。本書の主題と関係ありませんが、この書簡で空海は徳一を、「大いに法螺を吹いて、万類の仏種を発揮す」と評していますが、「法螺を吹く」が「大言を吐く、虚言を言う」といった否定的意味合いで用いられるようになったのは、戦国時代のことでした(関連記事)。徳一は都(平城京)から東国に移り、815年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)頃には陸奥国にいたようです。当時の陸奥国の範囲は広く、徳一はその中でも現在の会津を拠点としていたようです。徳一の出自は不明で、後世の文献には藤原仲麻呂の息子とありますが、年齢からもその可能性は低い、と本書は推測します。徳一がどの寺院で学んだのか定かではなく、本書は徳一に対する最澄の論難から、徳一がどのような仏教の系譜に位置づけられるのか、当時の人々にとって不明だった可能性も指摘します。徳一が東国に赴いた理由はよく分かっていませんが、当時、畿内に留まらず東国で布教活動する官僧の事例が少なからず確認されているそうです。
一方の最澄は若い頃に唯識教学の基礎を学んでおり、これが徳一の思想を理解するうえで役立っただろう、と本書は指摘します。最澄は若い頃から多様な思想を学んだようで、その中には天台教学と大きく異なるものもあったものの、後にそれを徳一との論争で使っており、最澄の融通無碍というかご都合主義的な側面を指摘する見解もあるようです。ただ本書は、当時の仏教界には唐や新羅から多様な思想が流入しており、そうした状況が反映されているのであって、単純に三乗と一乗の二項対立的には理解できない、と指摘します。
本書は最澄と徳一の論争を、単に二人の論争としてではなく、当時の仏教界の思想状況に位置づけ、その背景として三論宗と法相宗の対立(空有の論争)も取り上げています。三論宗は龍樹の著作に依拠し、隋代に嘉祥大師吉蔵が大成した教学を研究する学派で、この世界に存在するとされるものは全て空と主張しました。法相宗は上述のように唯識派で、この世界に存在するものはただ「識(表象作用)」のみと主張しました。この世界にあるのは認識するものとされるもので、どちらも識が変化したものであり、識のみが実在(有)する、というわけです。当時、真理は一つであるからこそ、複数の宗が併存すべきと考えられ、特定の宗にのみ勢力が偏ることは好ましくない、と考えられていました。最澄も、徳一との論争において、天台宗よりも劣っていると考えていた法相宗も必要と論じています。
徳一との論争を始める前の最澄は、天台宗が公認されたとはいえ、天台宗の年分度者として出家した僧が比叡山に定着せず、法相宗に引き抜かれるなど、厳しい状況にあったようです。そうした中で最澄は817年に東国を訪問しており、上述の官僧による東国布教活動の一環でもあったようです。最澄がこの東国滞在中に、徳一の『仏性抄』に応答したことで、最澄と徳一の論争が始まりました。徳一は最澄に直接的に『仏性抄』を送ってきたわけではなく、直接の対象は最澄と関係の近い道忠教団だったようで、最澄はこれに反論したわけです。この論争は、二人に限って言えば、最澄の死により終わります。本書は、最澄と徳一の論争を、日本に限らずアジア東部大陸部まで視野に入れて、当時の仏教界の思潮に位置づけているものの、その大量の問答は、最澄と徳一の強烈な個性があったからだ、と評価しています。
正直なところ、私の仏教思想の理解がたいへんお粗末なので、本書を読んでも最澄と徳一の論争を的確に把握して評価することはできず、今後また本書を再読する必要がありますが、釈迦の「真意」を「解釈」して論破しようとする姿勢は、前近代社会に広く通ずるものがあるようにも思います。日本でも大きな話題になったユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(柴田裕之訳、河出書房新社、2016年、原書の刊行は2011年)では、世界の重要な事柄について、すでに神や賢者によりすべて示されている、とする伝統的な知的観念とは異なり、進んで無知であることを認めた科学革命の画期性が指摘されています(関連記事)。ただ、そうした前近代の論争が、すでに神や賢者によりすべて示されている「真理」に基づく形態をとりながら、実質的に新たな解釈や世界観を提示していることも珍しくなかったのでしょう。しかし、世界の重要な事柄はすでに神や賢者によりすべて示されている、との大前提が強い制約となり、飛躍的な革新をもたらしにくかった側面も多分にあるとは思います。
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