現生人類における行動の複雑さの起源
現生人類(Homo sapiens)の行動の複雑さの起源に関する研究が(Scerri, and Will., 2023)が公表されました。現生人類の起源地がアフリカであることは、今ではほぼ定説になっている、と言えそうですが(関連記事)、その具体的な様相については、アフリカ内における現生人類と非現生人類ホモ属との混合を想定するものや、それを想定しないものなど、さまざまな議論があります(関連記事)。アフリカの環境条件からして、現生人類の起源を解明するうえで重要となる50万~10万年前頃の古代人のゲノムを解析することは困難でしょうから、考古学が重要となります。
本論文は、アフリカの中期石器時代と後期石器時代に関する考古学的研究の進展を整理し、現生人類における行動の複雑さの起源を検証します。本論文は、サハラ砂漠以南のアフリカの中期石器時代(Middle Stone Age、略してMSA)における物質文化の主要な遺跡を網羅しており、この時期のサハラ砂漠以南のアフリカの考古学的知見を把握するのにもたいへん有益だと思います。MSAは前期石器時代(Early Stone Age、略してESA)に続き、MSAの後には後期石器時代(Later Stone Age、略してLSA)へと続くわけですが、その移行はサハラ砂漠以南のアフリカにおいて一様でも同時でもなく、現生人類の起源地であるアフリカの文化的多様性も示されているように思います。以下、敬称は省略します。
●要約
現生人類の行動の起源は、アフリカにおける現生人類により作られた最初の物質文化であるMSAにさかのぼることができます。この広い合意を超えて、現生人類における高度の複雑さの起源とパターンと原因については、まだ議論が続いています。本論文は、最近の調査結果が、(1)現生人類の「一括」、(2)行動の複雑さの漸進的で「汎アフリカ的な」出現、(3)ヒトの脳における変化との直接的関係、という一般的なシナリオを支持し続けるのかどうか、検証します。
本論文の地理的に構造化された見解では、数十年の科学的研究は完全な「現代性の一括」について別々の閾値を見つけることに失敗し続け、その概念は理論的に時代遅れである、と示されます。記録は、複雑な物質文化の大陸規模の漸進的な蓄積ではなく、アフリカのさまざまな地域にわたる多くの革新の非同時的な存在と持続を主に示します。MSAの行動的な複雑さの出現パターンは、空間的に別々で、時間的に違いがあり、歴史的に偶発的な軌跡により特徴づけられる、複雑な寄せ集めと一致します。この考古学的記録は、ヒトの脳における過度に単純化した変化とは直接的な関係がなく、むしろ、不定に現れる同様の認知能力を反映しています。複数の要因の相互作用は、人口構造や人口規模や重要な役割を果たす接続性など人口統計学的過程とともに、複雑な行動の多様な発現を促進する、最も節約的な説明を構成します。
MSAの記録では革新と変異性が強調されてきましたが、長期の停滞と累積的な発展の欠如は、記録における厳密な漸進主義的性質にさらに反論します。本論文は代わりに、アフリカにおけるヒトの深くて多様な起源と、現代人の文化の定義に一般的に用いられる歯止め効果を産み出せる重要な量に達するのに何千年もかかった、動的なメタ個体群【アレル(対立遺伝子)の交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団】と直面しています。本論文は最後に、30万年前頃以降、「現代的な」ヒトの生物学と行動との間のつながりが弱まっていることを指摘します。
●研究史
ヒトの進化の文化的側面は、考古学者と人類学者の関心を、これらの分野が始まって以来集めてきており、現在でも激しい議論の主題となっています。中期更新世移行の大きな脳の人類の行動の複雑さの増加は通常、抽象概念や象徴性や言語の使用、超社会性や利他主義、芸術の製作、文化の蓄積など、現在のヒトの行動の観点(つまり、民族誌的提示)で測定されます。21世紀の変わり目に、これらの行動の起源の場所と時期と様相が新たなモデルにより根本的に形成され、そのモデルは大きな画期的事象をアフリカにおける中期~後期更新世の漸進主義の文脈内における現生人類の発展に位置づけました。
20世紀末の科学者を支配していた、ヨーロッパの氷期における上部旧石器時代「革命」とはかけ離れて、Mcbrearty, and Brooks.,2000では、象徴的な物質文化、地域的な技術的多様化、多様な素材の使用、拡張された社会的交流網、経済的強化の出現が全て、ヨーロッパよりもずっと早い時間枠で、アフリカの現生人類にたどることができるかもしれない、と示されました。具体的には、これらの行動は全てMSAと関連しており、MSAは今では、現生人類と関連する最初の最も長く続いた石器物質文化と知られています(関連記事)。
ヨーロッパにおいては、ヒトの行動の「現代性」が予期において中部旧石器から上部旧石器への移行と確実に関連づけられていた頃に、Mcbrearty, and Brooks.,2000はアフリカとMSAに新たな強い焦点を当てる道を頃目ました。これは、古人類学と遺伝学の研究がアフリカにおける現生人類の深い時間の起源をますます指摘しているのと同様に、ヒトの起源の難問の緊急に必要とされている考古学的断片を提供しました。
この一連の将来の発展を助けた古人類学と古遺伝学と考古学の研究は、MSAを現生人類出現の文化的背景として位置づけることにより顕著な影響を及ぼしてきており、現生人類の行動の起源の解明のために、MSA遺跡群を調査する必要性を明らかにしました。この変化は恐らく、一般的に言えば、1990年代以前には、MSAに関する「有名な」出版物が少なく、アフリカの旧石器時代に関する学者の関心が、おもに前期石器時代(Early Stone Age、略してESA)とLSAにあった、という事実で最も明らかです。
一例として、これを『Journal of Human Evolution(以下、JHE)』誌の50周年記念特別号への寄稿とみなして、本論文は、要約もしくは主要語におけるMSAもしくはその言及に焦点を当てた刊行物について、1972~2020年のオンラインデータベースの単純な調査を実行しました。1972~1980年もしくは1981年と1990年の間では、関連する論文がみつかりませんでした。1991~2000年には、この論題に関する24本の論文があり(合計529本の記事のうち5%)、MSAに最初に焦点を当てた研究の刊行は1991年でした。
この年代区分では、2000年が重要な年であり、24本のうち13本が刊行され、南アフリカ共和国のデ・ケルデス(Die Kelders)遺跡に関する特集号(第38巻第1号)と、Mcbrearty, and Brooks.,2000が含まれます。逆に、2000年代以降、このより高い関心は継続し、JHE誌における主題としてのMSAを扱う論文は、2001~2010年が62本(合計769本の研究論文の8%)、2011~2020年が83本(合計1100本の研究論文の8%)と顕著に増加しました。上位誌の他の標識となる刊行物に加えて、これらのデータから、MSAは旧石器時代考古学とより広くヒトの進化についての研究に関して、不明なものから有名なものへと変化を経た、と示されます。
独創的で将来の発展を助けたMcbrearty, and Brooks.,2000論文の刊行から23年後、現生人類の行動の複雑さの起源は、世界的な研究の中心的主題のままです。しかし、何が変わり、何をより多く分かっているのでしょうか?1世代に相当する考古学的調査は顕著な量の新たなデータを明らかにし、そのデータから、現生人類の行動の起源に関する問題が検討され、この用語の参照対照が今や検討されます。新たな実証的研究は、MSAにおいて起きた顕著な変化をどう最適に理解するのか、という理論的観点の変化も伴っていました。
本論文はまず、初期現生人類の考古学的記録における行動の複雑さの進化をどう最適に見て追跡するのか、といういくつかの最近の論的および概念的発展について概説します。本論文はこの検討に基づいて、さまざまな空間的地域のアフリカの記録から得られた2000年以降の関連する実証的調査結果を再調査します。第三段階では、新たな概念的着想を証拠の時空間的パターンと組み合わせることにより、現生人類の初期段階における行動の複雑さの起源に関する更新された概観が提供されます。
最後に、観察されたパターンの原因となるかもしれない機序が検討され、時空間的に重要な変化とパターンの理解のための人口統計に焦点を当てた、複数の原因を考慮した学際的手法が促進されます。本論文は、考古学的機関と関連する分類的区分に執着する代わりに、アフリカにおける50万~3万年前頃という一般的な時間枠に焦点を当てます。この期間には、現生人類の表現型とMSA記録のほとんどが現れる、ESAとMSAの移行が含まれます。
●概念的変化:現代的な一括と進化シナリオと特性一覧
現代的行動の起源に関する主題をめぐる古人類学的研究は、以下のように分類できます。それは、(1)「アフリカにおける現生人類の行動の一括の組み立て」が起きた様相と場所と年代と理由です、(2)現生人類における行動の複雑さの進化に情報をもたらす考古学的データをどのように最適に概念化して解釈するのか、という理論的議論、(3)特性一覧の認識論敵扱いと検討です。
歴史的に、存在と欠如の二元的枠組み内で見られてきた「文化的現代性」の概念は、現生人類の行動の進化に関する議論を長く支配してきました。この概念は、ヨーロッパの広範な考古学的資料に基づく特性一覧により評価されたように、上部旧石器時代の始まりとネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と「現代的な」ヒトの区別に関する研究から派生しました。当初ほとんどの議論は、現生人類の大きな飛躍もしくは「革命」として把握されることが多い、単一の時点で起きる現代的な「一括」にほとんどの議論が集中していました。リチャード・クライン(Richard Klein)はその後、アフリカに関して類似の見解を定式化し、LSAの起源と一致する、5万~4万年前頃の時点での一括としての、行動の現代性の突然の起源を提案しました。
これら革命モデルへの直接的反応として、Mcbrearty, and Brooks.,2000は、その生物学的起源地であるアフリカ内の現生人類について、現代的一括の増加する集合の長期の漸進的でほぼ累積的な過程という、ひじょうに異なるシナリオを提案しました。2000年以降、特性の単一の「一括」として単一の時点で生じた現生人類の認知と行動の複雑さという概念(時には「文化的現代性」という用語で要約されました)は、そのヨーロッパ中心主義的見解とともに、理論および方法論および実証的根拠に基づいて、ますます批判されるようになってきました。
たとえば、ニコラス・コナード(Nicholas J Conard)は、アフリカにおける単一の中核がない、中期更新世後期および後期更新世に起きた、分散的で異質で多起源のパターンを支持します。さらなるシナリオは、後期更新世における豊富なアフリカ南部の記録(関連記事)への特別な焦点と、ユーラシアの現生人類以外の種も包含する時空間的に複雑なパターンの検討を含んでいます。同時に、最近のモデルは、年代的にいくつかの主要な閾値における「主な」転換ではなく、より多くの変異性や柔軟性や可塑性(関連記事)に焦点を置き始めました。
アフリカの新たな地域がその更新世の過去についてより深く理解されるようになってさえ、記録の漸進主義で多中心的解釈が導き出され続けていますが、推測の基本的手法は、「現代性」にとってある意味で重要と思われる、さまざまな時点における特定の特性の出現に基づいているままです。この手法は、考古学の強みです。人工遺物は、それ自体がヒトの認知的進化の累積的影響の相互依存的現れである、特性と能力の発現として解釈されます。しかし、フランチェスコ・デリコ(Francesco d’Errico)の言葉を借りれば、その基準を選択する喜寿は何でしょうか?
表1は、ヒトの文化と行動の進化をたどることができるかもしれない、2000年以降の重要な研究で言及された主要な特性をまとめています。これらは表面上、以下の特性へと分類できます。それは、(1)集団の自己認識と社会的交流網、(2)個人的で集団内の意思伝達と体系化と共有された信念、(3)社会的結合と相互信頼、(4)計画と確信と実験、(5)生態学的および食性の柔軟性と、専門家の「万能家」になる能力、(6)景観と生態系の制御と改造です。以下は本論文の表1です。
これらの特性の解釈は通常、多数の中範囲の理論もしくは架橋理論に関連づけられており、この方向の研究は2000年以降に重要な概念的進歩を提供してきました。この一連の研究はおもに現実の研究に由来し、現存もしくは最近の狩猟採集民社会に関する民族誌研究だけではなく、現在観察された行動と文化の複雑さについて考古学的相関を確立するための、実験考古学も含みます。さらに、いくつかの研究(関連記事)が、最近のヒトで調べられて推測されたように、考古学的記録で認識されるさまざまな種類の製作物の製作(標準化された形態、新たな素材の使用、熱処理や着柄接着剤を含む複合武器の長期の製作手順などの変化)を、その根底にあるかもしれない認知的な能力や過程と関連づけようと試みてきました。
集団の自己認識と社会的交流網は、コンピュータに基づく社会的連絡網から現代の狩猟採集民まで、現存するヒト社会の特徴で、世界中で民族誌的に記録されています。その確信には、分散した社会的交流網が相互信頼と危険の共同化を促進することで、これは更新世の人工遺物の考古学的解釈に大きな影響を与えた観察です。そうした研究は、遺物群全体の技術的類似性に基づいて仮定することの陥穽も示しました。
たとえば、1983年の研究でも、相互に理解できず、危険性を共有していないカラハリ砂漠のサン人集団が、共有された環境の結果としてその物質文化の90%を共有していた、と示されました。これらの理由から、考古学は社会的交流網が長距離移動と特に尖頭器の形態の標準化の証拠を探す傾向にありました(表1)。原材料の一部の長距離移動は、30万年前頃の少し前から存在します(関連記事)。海洋貝殻の内陸部への移動は、意図的に穿孔の有無にかかわらず、地域的に異なるMSAの尖頭器の形態の標準化にも反映されています。
この見解の背後にある理論は民族誌的研究にあり、それは、尖頭器がその性質により、狩猟のため景観に取り入れられた、と示します。他の狩猟集団と遭遇する可能性が最も高い、したがって象徴的な社会の情報伝達の必要性が生じる場所は、このより広い景観です。したがって、外来のものも含めてさまざまな物質の長距離移動と、尖頭器の形態の標準化の組み合わせは、社会的交流網と危険性の共同化集団が存在した適切な証拠を提示します。(細石刃の)背付き断片やその空間的分散など、他の道具における標準化は同様に、社会的接続性および増加する長距離の社会的結びつきと関連する、根底にある精神的鋳型を反映している、と主張されてきました。
個人および集団内の意思伝達と指示対象の体系化と共有された信念は、複雑な文化の完全に異なる次元を表しており、抽象的思考を必要とします。交流網と象徴的な情報伝達が集団間の協力もしくはその欠如の任意記に焦点を当てているならば、他の一連の証拠は、集団内の意思伝達と共有された信念を示します。たとえば、覆い隠すことなど「副葬品」を伴う意図的埋葬(関連記事)はこれを示唆していますが、死者への感情的愛着を超えた体系的慣行を主張するには、さらなる証拠が必要です。その希少性が「特別な何か」として価値を伝える可能性さえある海洋貝殻のような一連の物の収集など、他の一連理データも、新美声とTAK共有された概念を示します。
最後に、使用された物質と形態と製作における人工遺物の多様性は、創造性とこの種の要求された専門主義の増加を示し、それらは集団内の社会的団結を促進します(たとえば、原材料の収集と剥離、結合と樹脂の製作、木製の柄の製作など)。これには、多作業や増加する作業記憶など、新たな方法で行為の長い手順上の連鎖において自然には見られない物質を組み合わせ、それらを複合接着剤や弓矢一式などに変換する能力が含まれています。
まとめると、これら特性の混合は、集団内戦略として発現することが多い、認知資本の蓄積の適切な証拠を提供します。他の種類の物は、何らかの能力で「象徴的」ではあるものの、その性質上、明確に象徴的か恣意的かではありません。たとえば、恐らくは水の運搬として用いられたダチョウの卵殻(ostrich eggshells、略してOES)の装飾は、水の運搬が遭遇の景観」において行なわれている、と合理的に考えられるならば、集団内の共有された審美性もしくは象徴、個人的様式もしくは象徴的様式の形態を表しているかもしれません。
植生の幅の拡大、生物地理学的障壁の超越、生態的地位の拡大についての証拠には、より多くの集団的行動が存在しており、その全ては、群もしくは人口集団と関連するようになる専門的道具および/もしくは行動を革新する、行動適応性と柔軟性と能力を示しています(関連記事)。この拡大した生態的地位の一部には、制御された燃焼を通じての景観の管理と植物の成長も含まれます。環境と確信と計画を理解するためのさらなる証拠は、さまざまな資源の季節的な利用にも由来します。
まとめると、上述のデータは一般的に、複雑な文化のための能力の出現が、現生人類の形態の最初の現れとともにいつか、あるいはその後で出現した、という理論を裏づけるのに用いられてきました。しかし、過去20年間の研究で現れたこの見解には、いくつかの問題と注意点があります。最も明らかなのは、これらの特性のかなり多くが今ではネアンデルタール人とも関連しているかもしれない、ということです。たとえば、ネアンデルタール人は今では、長距離輸送(関連記事)や死者の埋葬や構造化された生活空間と関わっており、その食性の幅は増加した、と分かってきました。ネアンデルタール人もレヴァントではその尖頭器の形態を標準化しており、明らかに多様な形態の道具を特徴としていました。
これらの発見は、MSAについて用いられた特性一覧に幾分の問題を提起し、現生人類にのみ見られる何かとしての「現代的行動」との見解を損ないました。これは、現生人類のMSAの記録とネアンデルタール人の中部旧石器時代の記録との間に違いがないことを意味しますか?それどころか、表1で一覧に挙げられた発現特性の強度には違いがあり、現生人類での類似の行動の事例は、より広くて強く現れています。弓矢の製作や貝殻の穿孔や景観規模の燃焼など他の行動は、ネアンデルタール人と関連する中部旧石器時代とは対照的に、これまでMSAでのみ知られています。これらの多面的でしばしば漸進的な違いは、現生人類におけるより高次の認知か、複雑な文化の発現の条件がネアンデルタール人と現生人類ではかなり異なっているものの、その理由が現時点では不明なことを示唆します。ネアンデルタール人と現生人類との間の考古学的および推測された認知の違いは、同様に中間的立場を主張します。
しかし、ここでの重要点は、ヒトの認知能力のさまざまな発現は認知それ自体だけではなく、人口動態や継承された(物質的)資源や解剖学的構造や環境など他の要因とも関連している、ということです。つまり、つまりひじょうに異なる表現型につながるかもしれない相互作用と反応です。第二の重要点は、この項の冒頭に戻って、「現代性(単数形での表現)」を示唆するとみなされている考古学的特性がじっさいに、文化的継承と集団学習に由来する集団的行動の反映である、ということです。したがって、考古学的記録で特定された特性は、多くのあり得る表現型の発現の一つや、さまざまな集団行動の表現であり、その両者は状況に依存します。
これに基づいて、現生人類とネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など大きな脳の人類【デニソワ人の脳容量を推定できる化石はまだ発見されていないと思いますが、その下顎などから現生人類やデニソワ人と同程度の脳容量だった可能性は高そうです】の両方にとって、複雑な行動と文化は、現実的な一括ではなく、過小評価されることが多い一般的な能力としてみなせます。これらの刊行物で提案された重要な観点は、実証的に追跡可能な行動の遂行能力と、理論的構成物である認知能力とを区別します。換言すると、行動が能力ではなく適用に関するものなのに対して、認知は能力関するもので、必ずしも適用に関するものではなく、それは状況依存的であり、さまざまな人口統計学および社会および環境の側面に依拠します。
一例として、抽象的思考や心の理論や言語などの証拠としての芸術と象徴に焦点を当てることは理解できますが、その欠如はそうしたヒトの特性の欠如を必ずしも反映していません。残念ながら、直接的に観察できるのは行動の反映だけで、利用可能なその能力の大半は、発現されないか考古学的に不可視のままです。これは、考古学的記録における複雑な認知のさまざまな適用を見る視点が、とくにネアンデルタール人の記録との強い類似点が存在する場合には、本当に現代的認知が現れる時なのかどうか、という問題を提起します。
複雑な認知の理解が白黒の問題ではなく、むしろ頻度や強度や特定の軌跡や歴史的偶発や相互作用の問題ならば、特性一覧は役に立つのでしょうか?あるいは、特性一覧は事後的に現代性一括の内容の特定を助長しているのでしょうか?上述のように、表1で一覧に挙げられた特性は、恐らく(現代的な)行動および認知の複雑さにさえ意味のあるつながりを提供できるかもしれませんが、さまざまな側面やその発現を示しているかもしれません。
実用的な注意点では、複雑な行動と関連している特性の検討は、迅速な評価も可能として、研究者は、考古学の強みを発揮する、意義の直接的に観察および測定および定量化できる構成要素への記録へと分解できます。そのため、全ての考古学的評価はこれまで、ある種(暗黙的もしくは明示的)の特性一覧に依拠してきており、これは科学分野の性質に根差しています。しかし、どの特性と考古学的発見が重要とみなされるのかは、古人類学的議論とほぼ同じように変わるかもしれず、特性はずっと複雑になり、多くの場合は複数の要素で構成されます(表1)。
したがって、それは、念頭に置くと、中心的重要性であるそうした特性に基づく推論です。たとえば、一部の特性は元々、当時の支配的な理論と関連して重要とみなされました。石刃はかつて「現代性」の重要な構成要素とみなされ、それは単に、石刃が上部旧石器時代において一般的だったからでした。しかし、石刃製作は、たとえば石材容積を最大化する必要性など他の要因とも関連している可能性があり、たとえば、繰り返しのルヴァロワ(Levallois)剥片の製作よりも石刃製作が計画の深さを必要とするのかどうか、議論となる可能性があります。したがって、上部旧石器におけるその優勢の観点における石刃が特別な意義を有している、という主張はやや循環的であり、じっさい石刃は今では、アフリカ全域のMSA石器群の頻繁な要素として認識されています。
本論文はこれらの問題を念頭に置いて、アフリカのさまざまな地域のMSAにおける行動の複雑さに関する知識の状況を再調査します。本論文は、考古学的発見の特異的な種類の有無や、特定の特性の事前に定義された一括を指す「文化的現代性」の分類的な定義に焦点を当てることを控えます。本論文は代わりに、考古学的記録にさまざまに現れる発見的な装置として、表1に一覧が挙げられた多様な特性の形態で関連する実証的データを検討し、ヒトの集団的行動や文化の複雑さを共に構成するさまざまな異なる側面に関して、さらなる推測を可能とします。本論文は、これらの特性が指していることや、複雑な文化の程度を発現する過程に有利である多様な変数の相互作用、およびこれが「現代的なヒトの行動の出現」について意味することを理解しようとする観点に従います。以下では、実証的証拠が再調査されます。
●始まり:ESA/MSAの移行の石器技術
現生人類と「一括」概念についての以前の思考の根底には、MSA自体があります。MSAは1928年にアストリー・ジョン・ヒラリー・グッドウィン(Astley John Hilary Goodwin)により定義され、ESA(およびアフリカの近隣地域の下部旧石器時代)に続く時代で、その最新段階はすでに、ヴィクトリア・ウエスト(Victoria West)と「祖型」ルヴァロワ石核の事例など、石器技術の複雑さと洗練のより大きな程度によって示され始めました。
ESAとは異なり、MSAには豊富な10cm 以上の長さとなる両面もしくは片面を調整した大型の切断用石器(large cutting tool、略してLCT)が欠けており、調整石核からの打撃による剥片の製作に焦点が当てられており、そのうち一部はその後、以前には考古学的記録で見られなかったさまざまな形態へと再加工されました。MSAの出現は石器の概念化と製作、およびその製作者の一般的な行動能力における顕著な変化とみなされてきました。
木の柄に石の先端を取り付けること(関連記事)とともに、MSA自体が、化石記録における一貫してより大きな絶対的容量、とくに相対的な脳の大きさの兆候を示します。考古学的記録は、より速い速度の技術的変化と関連する時空間両方に制約された、物質文化の特有の差異の証拠を示します。この地域的で時間的な多様性は恐らく、初期現生人類メタ個体群の拡大と多様な環境への適応の程度を反映しています。
実証的証拠の以下の提示では、単一の分析単位としてのアフリカが、更新世でも関連していた、大陸の大きな規模や、その巨大な地理的および気候的および環境的変異性を隠していることを考慮して、地理的に明示的に手法を提供します。最近の古人類学的および遺伝学的研究も、中期更新世後期および後期更新世における現生人類の単一の汎混合祖先人口集団ではなく、時空間的構造が存在した、と示唆してきました(関連記事1および関連記事2)。
アフリカ大陸の多くの区分が可能ですが、本論文は大まかに、アフリカ大陸を南部と東部と北部と中央部と西部に区分する、国連の地理計画(2019年)に従いします。更新世に適用するさいにはある程度恣意的ですが、この区分は、明示的で、類似の気候により影響を受ける可能性が高い隣接地域を包含し、MSAの記録の研究史にある程度従う、という利点があります。現代の地理的および気候的意味では、アフリカ北部はおもにサハラ地域により定義されます。アフリカ西部は北方がサハラ砂漠、東方が中央熱帯雨林に囲まれています。アフリカ中央部地域は熱帯雨林により特徴づけられます。アフリカ東部は、その高地の地域と、湖水およびが線回廊などさまざまな生息地の斑状により提起が去れます。アフリカ南部は、北西と北方中央が砂漠と熱帯雨林に囲まれ、その独特な気候体系により定義されます。
MSAへの移行はすでに、地理的距離に根ざしているとように見える物質文化の多様性の程度を特徴としています。中期更新世までに、いくつかの変化が考古学的記録で観察されます。それ以前に、アフリカにおける180万~30万年前頃のアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)のほとんどについては、その石器群は石核石器と両面石器群が優占し、地理的に大きく広がっており、経時的には相対的に変化が少なかったです。
地域的な類型技術的な区別のパターンが容易に見えない一方で、柔らかい槌の打撃によってより高頻度形成された、向上した洗練さと対称性のある、より小さくて薄い握斧など、一部の局所化された空間的構造と時間的変化が、中期更新世には観察されてきました。これらの剥片の一部は再加工されて削器や抉入石器や鋸歯縁に変えられ、MSAで優占する形態の先駆けとなりました。後期アシューリアンまでに、遺跡群は円盤状石核から得られた剥片の使用増加の証拠を示します。剥片と鉈状石器から製作された握斧の卵形の形態は、ひじょうに稀になります。
アシューリアンの終焉は、キャップ・シャトリエ(Cap Chatelier)遺跡では20万年前頃を超えており、かなりの程度MSAと重なります。この石器群は予め決めた剥片と、剥片の小さく薄い両面の多様な一式と、ひじょうに少ない鉈状石器の製作により特徴づけられます。この後期アシューリアンは、移行的インダストリー(関連記事)として定義づけることさえでき、技術的貯蔵を表している、とかつては考えられており、そこからMSAがモロッコのジェベル・イルード(Jebel Irhoud)遺跡で出現した、と考えられていましたが、ジェベル・イルード遺跡は今では315000年前頃と年代測定されています(関連記事)。
アフリカ東部では、50万~20万年前頃となる後期もしくは末期アシューリアンが、微細な石材の選択、より小さくより薄くてより対称的な握斧でのより強力な両面形成、ルヴァロワ手法の最初の発生により特徴づけられます。最初のMSAはアフリカ北部と同じくらい古く、320000~305000年前頃です(関連記事)。しかし、アシューリアン石器群はアフリカ東部地域では中期更新世末まで同時代に存続していたようで、エチオピアのミエソ(Mieso)遺跡では21万年前頃となるルヴァロワ剥片や尖頭器や石刃と関連する握斧および鉈状石器が伴い、ヘルト上部層(Upper Herto Member)では16万年前頃の握斧の表面採集がありました。
ケニアのカプサリン層(Kapthurin Formation)における研究では、さまざまな遺跡で尖頭器とルヴァロワ技術で地層間に挟まる握斧の複雑なパターンが見つかり、さまざまな技術の同時代の使用と、285000年前頃以前となる最初のMSA技術の起源の両方が示唆されます。全体的に、この地域におけるMSA出現の状況はアフリカ北部と一致しており、技術はひじょうに類似しており、調整石核と再加工された尖頭器を特徴とします(関連記事)。同時に、標本規模の違いもしくはより顕著な地域的伝統を反映しているかもしれない、さまざまな石器の種類の頻度と再加工技術に違いもあります。たとえば、オロルゲサイリー層(Olorgesailie Formation)とカプサリン層における初期MSAは石刃石核や剥片と道具での基底部の薄化を特徴とします(関連記事)。
アフリカ南部では、ESAからMSAへの移行期の遺跡群は、後期更新世と比較してずっと少なくなっています。この地域の後期アシューリアンでは、ヴィクトリア・ウエスト石核の出現がありますが、その他の点ではアフリカ東部および北部と類似しています。いわゆるフォーレスミス(Fauresmith)文化はESAとMSAとの間の移行的インダストリーで、年代は50万~30万年前頃とあまり定かではなく、ルヴァロワ的石核や石刃や尖頭器と関連する、小型握斧の少なさにより特徴づけられます(関連記事)。アフリカ南部らおける最後のLCTは、中期更新世末にデュイネフォンテイン(Duinefontein)遺跡に現れます。興味深いことに、カサ・パン (Kathu Pan)遺跡には、50万~30万年前頃にさかのぼるかもしれない、石刃技術の石器や着柄尖頭器や顔料の製作の証拠がありますが(関連記事)、その年代は議論になっており、意義なく受け入れられてはいません。
アフリカ西部および中央部におけるMSAへの以降については、さほど知られていません。ESAの人工遺物はさまざまな生態学的地帯で記録されてきており、人類にとって適した退避地を含んでいたかもしれない熱帯森林における、進化過程の記録の必要性を浮き彫りにします(関連記事)。ESAからMSAへの「移行期」インダストリーはまだ報告されていませんが、これは、こうしたさほど記録されていない地域への注目の高まりとともに変わる可能性があります確かに、中期更新世のMSAの年代は今では、アフリカの西部と中央部の両方で知られています。
MSAへの移行は顕著な変化を表していますが、それは明確に、後期アシューリアンの洗練と複雑さの増加に根ざしており、じっさい、さまざまなアフリカの地域においてアシューリアンと重複しています。これらの進歩はMSA「革命」の概念をやわらげ、後期アシューリアン/初期MSAの移行の複雑なパターンを強調し、その製作者は両方、最初の現生人類だったかもしれません。アシューリアン末における複雑な重複のパターンは、世界的な減少だった可能性さえあります。
●発展:中期更新世後期と後期更新世におけるMSAの石器技術
アフリカにおける初期MSAは、その後数千年にわたって実質的に変化しませんでしたが、他の行動や技術が構築される基盤となります。アフリカ北部では、は30万年前頃のジェベル・イルード、25万年前頃のベンズ洞窟(Benzú Cave)、ともに22万年前頃となるサイ島遺跡 8-B-11(Sai Island Site 8-B-11)やハルガ・オアシス(Kharga Oasis)、17万年前頃となるイフリ・ナンマル(Ifri n'Ammar)などの初期MSA遺跡は違いがあるものの、おもに剥片に基づき、地元の石材が重視され、ルヴァロワおよび/もしくは円盤状技術や高い割合の削器や尖頭器や鋸歯縁があり、一部の事例では、石核斧など頑丈な道具がありました。
有茎のアテリアン(Aterian、アテール文化)石器のその後の革新は、13万年前頃の最終間氷期に広く出現しました。多くの古典的なMSAの形態は、薄化など他の基底部の改変とともに、先端から側面と末端の再加工された道具へと、基部の有茎で製作されました。MSAの多くの典型的な形態は、基部のステムやタング、ポイントからサイドやエンドのレタッチツールに加え、シンニングなどの基部の改変を伴って製造されている。これに加えて、薄化と押し出しなど他の基部の改変は、着柄との一般的で集中的な関係を示します。有茎石器群も、ほぼサハラ砂漠の現在の範囲およびアフリカ北部の沿岸と後背地域に相当する広大な範囲に広がっていましたが、他地域では完全に欠けています。西部砂漠とナイル川を越えると、他のMSA石器群の形態が優占します。純粋に技術的な変化に加えて、アテリアンもしくは有茎石器群も、外来の石材の長距離輸送や、押圧剥離の可能性や、弓や技術の存在を示唆しているかもしれない小さな尖頭器を特徴としています。
アフリカ東部では、MSA石器技術は時空間的な差異の寄せ集めを示し、長期の相対的な均質性も明らかであるにも関わらず、重要な構成要素として変異性がよく強調されます。研究は経時的な尖頭器の平均的な多さの一般的な減少を示してきましたが、形式的に時間的もしくは空間的に定義された特定の「診断手法」はありません。北部および北西部の近接したアテリアンと類似しているものはなく、ガデモッタ(Gademotta)層(276000年前頃頃)とクルクレッティ(Kulkuletti)層(276000±4000年以上前)の「扁平斧形尖頭器」が例外かもしれません。
石材の長距離輸送は、黒曜石露頭の証拠となる地球化学的痕跡のため、アフリカとウエブにおいて熱心に研究されてきました。50km超となる黒曜石の遺跡と産地までの輸送距離は、すでにこの地域の最初のMSAで知られており、その後葉距離が最大200kmまで伸びます(関連記事)。アフリカ東部MSA特有の特徴は、両面尖頭器の変動的な存在で、これはほとんどの遺跡からこの地域で見られ、中期更新世後期から完新世の開始にまで及んでいます。この地域の最初のMSA尖頭器の一部は、体系的な扁平斧除去もしくは槍の先端として高速で発射される投射器として解釈されてきました。弓矢技術の兆候はこの地域でまだ提示されていませんが、そうした証拠が将来明らかになる可能性もあるようです。
アフリカの他地域とは異なり、MSAからLSAへの初期の移行は71000年前頃までに起きていた可能性があるか(関連記事)、その期間に用いられた定義に基づくと5万~4万年前頃にはより高頻度で観察されました。いずれにしても、小さく背付きの断片と非石器物質文化の多様化の増加が、この地域でより一般的に海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)3以降のMSAを特徴づけ、アフリカの他地域では古典的なMSAの時間枠内によく収まる初期の年代のため、本論文では言及の価値があります。
アフリカ南部では、中期更新世MSAは、アシューリアン要素なしでいわゆる「初期MSA」として28万~13万年前頃に現れます。初期MSAはたいへん変化に富んでいるものの、再加工の形態がほとんどなく、地元の石材に焦点を当てた、ほぼ剥片に基づく石器群を含んでいますが、一部の遺跡は大型石刃と両面尖頭器を特徴とします。南アフリカ共和国のフロリスバッド(Florisbad)におけるこれら石器群の最古級(28万年前頃)は、同じ遺跡の頭蓋と類似の年代で、この頭蓋を初期現生人類と解釈する研究者もいます。アフリカ南部におけるこれら初期MSAの道具の一部が、最近発見されたホモ・ナレディ(Homo naledi)の遺骸により制作された、との提案(関連記事)は、これらホモ・ナレディの化石が今まであらゆる石器と関連していないので、推測に留まっています。
後期更新世の考古学的記録(12万~3万年前頃)は、遺跡および人工遺物密度の顕著な増加を示し、技術変化の速度は上がり、時間的および時には空間的にほぼ分離される多くの技術複合の基礎を形成します。MIS5以降、石器群は時に柔らかくて有機物の槌で製作された大型で標準化された石刃、背付き断片と小石刃(関連記事)、さまざまな地域的および時間的表現のある注意深く形成された単面および両面の尖頭器の製作の頻繁な証拠を示し、両面尖頭器は押圧剥離でも製作されました(関連記事)。小さく背付きの断片とその着柄の痕跡は、すでに6万年前頃には弓矢技術の起源を反映しているものとして、解釈されてきました。
MSAの人々は、複合式の道具や武器での使用のため、オーカー(鉄分を多く含んだ粘土)や植物素材の両方を特徴とすることが多い複合接着剤を製作していました。高品質の外来石材、および潜在的には他の天然素材の頻繁な輸入と使用(関連記事)は、後期更新世の大半にわたる現象で、ボツワナでは珪質礫岩が最大で200km超運ばれました。MIS6に始まってMIS3まで続いた、珪質礫岩の熱処理の豊富な証拠もあります(関連記事)。
まだ充分には研究されていませんが、いくつかの新たなデータが2000年以降にアフリカ中央部および西部から得られ、それはよく理解されていない地域における重要な参照点を提供します。アフリカ中央部では、中期更新世後期のMSA考古学は、ツイン・リバーズ(Twin Rivers)とカランボ滝(Kalambo Falls)において現時点で最古の推定年代は大まかに27万~17万年前頃となるルペンバン(Lupemban)文脈内でのアフリカ中央部における、精巧に作られた大型披針形尖頭器の両面形成と、小さな背付き断片の両方を特徴とします。石器の長距離輸送は稀ですが、ムンブワ洞窟群(Mumbwa Caves)ではMIS5eにおいて最大200kmになる、と記録されています。MIS4では再度、アフリカ中央部において両面披針形尖頭器の存在のいくつかの証拠があります。
アフリカ西部から現れてきた新たなデータは、この地域は中期更新世末から更新世終末と完新世の境界にまでわたって、MSAの長い持続を特徴としており、たとえばセネガルでは12000年前頃まで、ほぼ同時代のLSA石器群とともに存続していた、と論証します(関連記事)。アフリカ西部比較的よく研究されている遺跡(つまりセネガル)では、急速な変化率を伴う石核縮小と石器群両方に関して高い変異性の兆候と、より長期の安定性の地域の両方が得られました。MIS5移行、粗く形成された両面石器が、より典型的なMSA形態とともに見つかっており、削器と抉入石器が含まれます。他の種類の小さな両面葉状尖頭器はアフリカ西部で知られていますが、MIS4~2の間のみで、少なくとも1ヶ所の遺跡では押圧剥離による製作についていくつかの証拠があります。
●生態学的柔軟性と社会的複雑さの指標:MSAの非石器考古学資料
上述の要約から理解できるように、その石器技術により定義されるMSAは、複雑な行動の全部を網羅する多くの変化を特徴としており、複雑な行動の多くはすでに、MSAにおいて特定される前に1990年代に上部旧石器時代における「現生人類の行動」の図表作成に用いられた「特性一覧」と一括を形成していました。新たな革新もそれ以降特定されてきており、熱処理、押圧剥離、着柄様式、新たな道具形態、複雑な補強材が含まれ、これらの全ては、計画と記憶と協力と意思伝達の形態と作業の専門化を伝えていて、それは、これらが全て、さまざまな物質と処理の使用も含む、製作の一連の段階を必要とするからです。原材料の長距離輸送も、ある種の交換網の存在と、恐らくは価値と審美性と儀式の概念さえ示唆します。とくに石器の価値はその豊富さにあり、そうした複雑な行動が比較的広がっていたことを論証します。重要なことに、MSA石器群はそれ以前には観察されていなかった複雑な行動を証明する他の非石器遺物群とも関連しており、本論文はこれを、生態学的柔軟性と社会的複雑さの概念と関連して考察します(表1)。
2000年以降の考古学的研究は、MSAが生計と食性の幅と占めていた生態的地位の種類における新規の柔軟性を特徴とする、というかなりの証拠を明らかにしてきました。初期MSA以降には、細かく砕くことを通じての植物の処理と多様な資源の利用について、証拠があります。後者はアフリカの南北両方における沿岸景観の居住と海洋資源の利用の強化から、広範な獲物となる動物までに及び、大型で危険な種が含まれ、これはMSAの人々が有能で洗練された狩猟民だったことを示します。
MSAでは植物の利用が以前に考えられていたよりも広く行なわれていて、アフリカ南部では例外的によく保続された記録があり、草の種子の食事での利用(関連記事)、地中植物の調理と消費(関連記事)、20万年前頃までに現れた寝具および虫に対する忌避物質としてのスゲの使用(関連記事)が、後期更新世へとよく続いていた、と論証されます。新たな素材も、人々の技術的一覧に組み込まれました。さまざまな種類の形式の骨器が、アフリカ北部と南部において初めて、新たに狩猟武器(関連記事)の一部としてだけではなく、家庭用の道具としても現れ、一部は衣類製作における毛皮の除去と関連していたかもしれません。
MSA遺跡群も、ESA遺跡群よりもずっと広範に分布しており、Mcbrearty, and Brooks.,2000により強調されているように、水源に縛られていません。装飾されたダチョウの卵のアフリカ南部における発見は、少なくとも後期更新世においては、遺跡の空間的パターン化の違いを部分的に説明できるかもしれない、水の貯蔵技術の存在を示唆する、と主張されてきました。水の運搬のような実用的な物の装飾も、さほど検討されてこなかった、日常的なものと象徴的な物の共進化と融合を示しています。
それにも関わらず、この食性の幅と島嶼部から低地熱帯林まで多様な環境の定着の増加は、現代的行動の痕跡の一つとして記載されています(Mcbrearty, and Brooks.,2000)。最近の発見はこの生態学的柔軟性を高地環境へと拡張し(関連記事)、ヒトに固有の「万能家で専門家の生態的地位」の現れと一般的に特徴づけられています(関連記事)。そうした生態的地位の拡大と環境の多様性は、アフリカ南部のMSAについては定量的にも記録されてきました。他の行動は、環境への適応と同様に、環境の制御と改変の試みを証明します。9万年前頃以降のマラウイにおける広範な燃焼の証拠があり、植生組成に影響を及ぼし、野火の発生を制御し、恐らくは狩猟採集民の収益を変えました。
広範な生態的地位構築の別の事例は、開地のMSA状況で知られている、長期の調達や石材の叩き割りと輸送で構成される、人為的な景観の生成に関するものです(関連記事)。そうした物質的に豊かな景観は、遊動的な狩猟採集民の集団にとっと外来の原材料の貯蔵地として機能し、繰り返される人類の訪問と経時的な物質の投入を通じて、より広範な調和体系における自身の位置づけを守りました。ますます「文化化された」景観に関する同じ主張は、叩き割った岩の累積的な増成を伴う、岩陰や洞窟景観における焦点の場所に当てはまります。エジプトの燵岩に関して少なくとも10万年前頃から、オーカーに関して3万年以上前から知られている採掘活動は、景観における半永久的変化への永続する原因となるMSAのヒトの能力をさらに証明します。
社会的複雑さは今では、いくつかの独立した一連の証拠から同様に明らかです。MSA遺物群は自然と意図的両方で穿孔された海洋貝殻と関連しており、この貝殻は、個人的装飾品と、その特定の製作方法に基づく共有された社会的規範を表しています。穿孔された海洋貝殻は、アフリカ北部のMSAではとくに豊富で、14万~8万年前頃となる合計9ヶ所の遺跡に由来し、ムシロガイ属(Nassarius)の貝殻が選好されていました。アフリカ南部では、MSAの貝殻製ビーズはこれまで、MIS4でしか見つかっていません。
アフリカ東部におけるイモガイ属種(Conus sp.)の海洋貝殻のビーズについては、最初で単一の事例は、67000~63000年前頃となるケニアの湿潤な沿岸森林地帯に位置するパンガ・ヤ・サイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡に由来します。確実なのは、穿孔された貝殻はずっと遠い海岸から収集されて輸送された、ということで、珍しい石以外の何かに焦点を当てた、局所的な交換網を示唆します。
MSAの人々は、ビーズの製作に他の素材も使っており、とくに高頻度なのはアフリカ東部のMSAにおける5万年前頃までにさかのぼるOES(ダチョウの卵殻)のビーズで(関連記事)、アフリカ南部におけるMIS3の文脈から報告されている穴を開けた骨の数と事例はより少なくなっています。OESのビーズ形態における類似の方法の製作と変異性は、社会的集団へのつながりと人々の間の交換の両方を伝えています(関連記事)。
顔料の収集と使用は、アフリカ全域の多数の遺跡から報告されてきており(図1)、アフリカ中央部および東部ではすでに32万~20万年前頃に始まっており(関連記事)、オーカーの処理はアフリカ東部の後期更新世においてひじょうに高頻度でした(関連記事)。アフリカ北部は、サイ島における黄色と赤色の顔料の使用を示していますが、MIS5にはより高頻度になります。アフリカ南部では、MIS8~7における顔料使用の斑状の証拠があり、MIS6には増加し、MIS5~3には継続的行動としてずっと高頻度になります。
顔料の使用は、10万年前頃となる絵の制作に関する2点のオーカー処理の道具一式として、および、30万年前頃にさかのぼる塗装された石板の形態でのアポロ11号(Apollo 11)洞窟のMSAからの壁面芸術(parietal art)の唯一の証拠として、年代測定されたオーカーのクレヨンの「線描」や深く刻んだ模様など、芸術もしくは儀式を示唆する他の一連の証拠と関連しています。南アフリカ共和国の300km超離れたディープクルーフ岩陰(Diepkloof Rockshelter)遺跡とクリプドリフトシェルター(Klipdrift Shelter)遺跡から発見された、線刻されたOES上の抽象的模様の類似のパターンは、MIS5/4における長期の接続および意思伝達体系の存在を示唆します。
OES断片への直線の線刻の類似の慣行が、ゴダ・ブティチャ(Goda Buticha)遺跡で発見されました(43000~34000年前頃)。稀ですが、小さな穴を掘り、副葬品が備わった証拠のある最古となる既知のヒトの埋葬は、ボーダー洞窟(Border Cave)とパンガ・ヤ・サイディ洞窟に由来し(関連記事)、これらの埋葬は、悲痛や共有された集団の価値や潜在的には信念体系さえについての機序の処理を示唆している可能性が高そうです。この現象に関連しているのは、早ければ12万年前頃となるレヴァントの豊富な現生人類の埋葬で、これらは一般的に、アフリカからの移民の人口集団とみなされています。以下は本論文の図1です。
社会的な境界と集団も、利用可能なデータに現れるかもしれません。たとえば、アフリカ北部のさまざまな地域で一般的なアテリアンの有茎石器群の種類は、サハラ中央部の1ヶ所の遺跡でともに見つかっており、これら精巧な種類の石器(つまり、葉状尖頭器)の事例は全て、同じ外来の石材で作られました。当ての境界のある地理的性質と、アテリアンが主要な河川を渡っていないように見える事実も、文化的もしくは社会的選択および制約により部分的に説明できるかもしれませんが、これは論証がずっと困難です。
アフリカ南部MSAにおける技術複合間で特有な石器の時空間的パターン化は、情報の継続的な交換を伴う、境界化した集団を描いているかもしれません。OESビーズのストロンチウム同位体分析の研究では、長距離の交換を特定でき、33000年前頃となるその後のMSAにまでさかのぼる、アフリカ南部における何百km²にもわたる大規模な生物群系を越えた社会的交流網の存在を示唆します。アフリカ東部および南部のより最近の研究は、アフリカ東部起源で50000~33000年前頃に南方へと拡大した可能性が高い卵殻製ビーズを伴う、そうした大規模な社会的交流網の存在を確証しているかもしれません(関連記事)。
まとめると、2000年以降のMSAからの実証的データに関する本論文の再調査は、Mcbrearty, and Brooks.,2000で提示された現代的行動の痕跡と一致し、それに追加する、石器と非石器の物質文化の広範な新たな証拠を提供します(表1)。これらの特性は、初期現生人類の生態学的柔軟性や象徴的行動や経済および社会組織や技術的革新や標準化に関する推測を可能として、包括的ではないものの部分的には、認知能力の背景にある向上に起因する可能性が高そうです。新たなデータは、これらの特性の多くのアフリカ起源との主張を強化し、抽象的線刻や植物の寝具や熱処理や複合接着剤など、さまざまな地域のMSAにも起源がある、新たな革新を提供しました。本論文は次項で、現在の実証的データが、初期現生人類における文化的進化のパターンの理解のため、どのように最適に見て解釈できるのか、ということについて、新たな視点を検討します。
●記録のパターン:MSAにおける文化的進化の複雑な寄せ集めの推測
上述のように、現代的行動の起源に関する優勢なモデルは、革命から漸進主義的なモデルへと移行し、漸進主義的モデルでは、考古学的記録における「段階的」(Mcbrearty, and Brooks.,2000)変化が、現生人類における進化的行動の複雑さに関して、歯止め効果との見解もしくは累積的文化との見解と関連していました。しかし、このモデルの漸進主義的側面は、これまでに再調査された実証的証拠と適合するでしょうか?
行動の複雑さの漸進主義的出現との考察の根底にあるのは、MSAそれ自体です。歴史的に、MSAは純粋に石器の観点で定義され、ESAとLSAというすでに存在した分類間の第三の期間として挿入されました。MSAの技術は、ESAの握斧や他の大型石核石器、およびLSAの細石器が欠けているなど、ESAでもLSAでもありませんでした。そうではないものについて部分的に定義され、MSAをより積極的に特徴づける試みには、刻面や収束剥片の出現、および、これらの剥片で作られたさまざまなより小さい大きさの種類の石器(とくに単面および両面尖頭器)を伴う、剥片に基づくインダストリーなどの特性が含まれていました。
現在、MSAの特徴は、ルヴァロワ技法など、調整石核からの予め決めた大きさと形を伴うさまざまな原形の制作で構成されます。高水準の分類単位とその多くの問題に関するもっと継続的で永続的な批判があり、現在ほとんどの先史時代研究者は、上述の石器定義と緩やかに関連する、中期更新世後期および後期更新世の遺物群を記載するため、MSAを時間的な段階の記述的省略表現として用いています。
MSAの分類と評価は、後期更新世の前後のMSA間の一般的な違いによりさらに混乱します。大まかに言えば、最終間氷期の後に、上述のように貝殻製ビーズや装飾されたOESのような非石器要素とともに、MSAの基盤はさまざまな道具の種類と石器製作の手法の出現によって、より豊かになり、より多様化しました。しかし、上述の実証的証拠の再調査により、MSAを2つの異なる段階に単純に区別することも、変化の速度、急な地位的差異、累積的文化の驚くべき欠如を伝える停滞のひじょうに長い期間により、間違いと示されます。
Mcbrearty, and Brooks.,2000や他の多くの再調査は、以前にはヨーロッパの旧石器時代においてヒト革命を見ていた状況から現れました。したがって、それらの再調査は当然のことながら、経時的なMSAの考古学的記録内の新たな特徴の出現に焦点を当て、その消滅もしくは全体的な地理的拡大へはさほど焦点を当てず、しばしばアフリカを分析の1単位として扱いましたが、それは首尾一貫した生物地理学的現実ではなく、たとえば、アフリカ北東部はアフリカ南部よりもアラビア半島の方とより多くの共通点がありました。
この全体像は、分析のこの単位を分解し始めると変わりますが、記録のより安定した構成要素にも注目します。たとえば、30万年前頃に初めて出現したMSAの一般的な石器要素が、一見すると変化せずに何千年も継続したことも事実で、これはそうした人工遺物が認知能力の有用な反映ではないことを示唆しているかもしれません。しかし、それは生物学的足場ではなく、文化的足場に基づくその後の発展とともに、大きな認知変化が可能とした基本的水準の発現を示しているかもしれません。
大陸規模でアフリカのさまざまな地域を見ると、MSAの記録は、平凡で普遍なものの異常な長期の存続とともに、重要な技術的および社会的革新の出現と消滅と再発明が分散しているようてす。LSA(もしくは上部旧石器時代)までは、どの時点でも、実質的で長期の持続的な累積的変化はなく、LSAの一部でさえ、寄せ集め的な構造を保持しています(関連記事)。累積的文化の唯一の事例が時空間的に不連続であり、想像できないほどの長期の停滞により特徴づけられるならば、これは「漸進主義的見解」と一致し、行動は真に「現代的」であり得るのでしょうか?
本論文で提示された再調査は、アフリカのMSAにおける技術的変化の時間的パターンが、アフリカ全域でほぼ漸進的な累積もしくはますます増加する集合体(Mcbrearty, and Brooks.,2000)の一つであるよりも複雑であることを示唆します。Mcbrearty, and Brooks.,2000は当初、漸進的過程が各地域で同様に展開する一方向の軌跡を意味する必要はない、という予想を明確に述べましたが、その結果の提示において明示的な空間的手法を採用せず、それはデータのほとんどがその時点で単にまだ発見されていなかったからでした。
2000年以降、とくに非石器物質文化に関して、もっと多くの時間的観点を提供した、光刺激ルミネッセンス(Optically Stimulated Luminescence、略してOSL)や熱ルミネッセンス(Thermoluminescence、略してTL)や電子スピン共鳴法(electron spin resonance、略してESR)やウラン系列法など発見物の時間計測制御の進歩と組み合わされた、新発見を伴うMSA研究の指数関数的増加がありました。結果として、Mcbrearty, and Brooks.,2000と本論文の発見物間の違いはほぼ、考古学的発見物と提示されたデータの多様な方法のより高品質で高解像度の組み合わせに由来するようです。
MSAにおけるより高解像度の文化的進化のパターンを得るためのより有用な分析戦略は、アフリカをさまざまな分析地域に分解し、本論文で行なわれたように、各地域のさまざまな選択された特性の有無の時間的パターンを記録することです。この手法の結果得られるパターンは、多くの革新の有無と時期と持続がしばしば地域間で非同時的であり、それは複雑な寄せ集めとして最適に特徴づけることができる、と示します。文化的変化の複数の経路はアフリカのさまざまな地域で起きますが、現生人類の文化的進化に関する汎アフリカ的軌跡は見つかりませんでした。複雑な物質文化の漸進的もしくは直線的蓄積ではなく、さまざまなアフリカの地域は、時にはアフリカ南部などより小さな地域内でさえ、行動の複雑さを示唆する連続的特性と不連続的特性の混合、および技術の寄せ集めを示します。
これらのデータは、大陸規模で方向性があり単線的な文化的変化のモデルではなく、さまざまな地域において、より高度に文脈化され、時間的に変わりやすく、歴史的に偶発的な軌跡を示唆し、本論文の一方の著者であるマヌエル・ウイル(Manuel Will)は以前に、「文化的進化の複雑な景観」との概念下で検討しました。これらのパターンの根底にある永続的行動は、とくに石器技術と生計で見つけることができますが、非石器物質文化はもっと変わりやすくて断続的な傾向があります。本論文の観察は、アフリカにおけるMSA「一括」としばしばみなされるものは、むしろ特徴と地域的差異と共通の基盤上の単純な累積の欠如である、と述べた先行研究と一致します。代わりに、アフリカの大半を結びつけているものは、MSAの一般的な構成要素であり、それは、顔料の使用、物質の着柄もしくは長距離輸送、後期更新世の開始を伴う複雑な物質文化の出現(およびその後の消滅)の動態における一般的な(非直線的)増加など、MSAの始まりに近い一部の革新の初期の開始です。
現在のデータに基づくと、行動の複雑さの事例により証明されるヒトの認知能力の発現は、確かに多中心的です。アフリカからのこの増え続ける物的証拠を考慮すると、30万~3万年前頃の期間は、複数の地域における、複数の時間的に多様な非直線的軌跡により最適に特徴づけることができます。このモデルの要素は、「革命」の物語だけではなく、初期現生人類の文化的進化の厳密に漸進的で直線的な軌跡のシナリオも却下する最近の理論的発展と適合します。そうした概念は、歴史的偶発性や認知能力や行動の柔軟性や環境状況や経路依存性への焦点とともに、文化的変化の非方向性敵パターンを支持します。
文化的進化の複雑なパターンは、現代的な形態学的特徴の汎アフリカ的拡大を主張する古人類学者により長く行なわれてきた観察により補完されているようです。しかし、アフリカにおける文化的データのパターン化は、新たな革新が累積的に構築され得る漸進的な足場ではなく、非直線的でより寄せ集め的であるようです。たとえば、MSAの大きな文化的革新の持続は殆ど若しくは全くないようで、革新の蓄積が長期にわたって安定的ではないことを示唆します。じっさい、多くの革新は、多様な着柄の改変もしくは貝殻製ビーズの製作など、さまざまな時と場所で再発明されています。アフリカ北部のアテリアンなど文化的隆盛期の期間内でさえ、MIS5における革新の最初の期間の後に、顕著な停滞があります。
上述のパターンは、生物学に由来する適応度景観の概念との類推経由で最良に視覚化できます。複雑で他次元の適応度景観として行動と文化と認知の実績を見ることは、生物学的体系に関するシューアル・ライト(Sewall Wright)の研究に依拠しています。シューアル・ライトの複雑な景観は、いくつかの適応的頂点とさまざまな高さの渓谷を特徴としており、それは局所的な適応度の最大値と最小値に対応します。最近、考古学者は、多様な影響の結果としてのより高度の行動の複雑さについて、さまざまな頂点があるこの概念を採用してきました。この手法は、文化的進化のパターンは、の空間的に感受性が強く、複数の要因に影響を受け、歴史的には人口集団の最初の条件に左右される(経路依存性)、と主張します。
これをアフリカのMSAに適用すると、さまざまな地域の別々の人口集団を、特定の地質学的・社会的・環境的・生物学的・人口統計学的要因により影響を受ける「大陸規模」の適応度景観に追加することは、ひじょうに複雑な空間的局所分布を作り出すでしょう。この局所分布だけに基づくと、同等の物質文化に反映された単一の最適で安定した汎アフリカ的適応は、例外となるはずです。ほとんどの期間において、初期現生人類は、地域により劇的に異なる局所的で最適以下の適応度状態に直面しました。時間の変化は、さまざまな外部もしくは内部の刺激のため、大陸全体で非同時的であることが多くありました。
要因がさまざまな地域で同様に作用したより珍しい期間は、広く同等の解決や文化的変化の類似パターンをもたらしたかもしれません。接続された集団間の情報伝達も、地域内における文化的変化のより均質な兆候をもたらす類似の適応的頂点に達する誘引として、機能するかもしれません。同時にこの状況は、より大きな空間規模での人口集団の下位構造との仮定に基づくと、人口集団もしくは社会的交流網の境界におけるより多くの分岐を生み出します。地域間の軌跡における違いも、慣性効果により増幅され得るもので、その後の決定の経路を制約して形成する、過去の物質的解決の差次的な蓄積が伴います。
上述の文化的進化の複雑なパターン、派生的な形態学的特徴のパターン化をある程度反映しています。MSAの始まりには、これらの解剖学的特徴も10万~4までは寄せ集め的に進化し、その頃に現在の人口集団を定義する特徴の集合が、単一の個体群で見つかり始めます(関連記事)。祖先的な形態学的特徴も、完新世移行期への古典的MSAの持続(関連記事)とよく似て、末期更新世までは存続しています。同時に、形態と認知との間の関係は、直接的な環境の選択圧からの自立性増加とともに進行する現生人類の最初の出現後に分離するようです。
環境媒介の文化的および他の体外の手段がより強調されることは、行動の選択の指数関数的増加と、より頻繁な生態的地位構築で明らかになり、時には環境的変化と文化的変化との間の不一致が、MSAですでに観察されています。この過程は、一見すると際限なく多数のさまざまな社会的・経済的・技術的方法での特定の環境状況への対応能力において最高度に達し、現代のヒトで見られる行動の「超可塑性」と文化的多様性を示します。
「漸進的」が経時的な直線的様式での厳密な蓄積を意味するのならば、これは、その明確な認知能力にも関わらず、MSAの考古学的記録では裏づけられません。代わりに、MSAの基盤上での革新と停滞と喪失の鋸歯状パターンが見られ、これはさまざまな方法とさまざまな時に現れます。アフリカ大陸全域の時空間に投影すると、このパターン化は複雑な景観の寄せ集め的な外観となります(図1)。何がこのパターン化を説明するのでしょうか?
●変化の原因と機序
これまで、現生人類の文化的進化の根底にある行動の変化の動因は、本論文ではほとんどわきに置かれていました。過去20年間に現れたモデルは、潜在的原因として、環境および気候変化(関連記事)、食性要因、遺伝的変異(関連記事)により引き起こされたかもしれない認知の変化、人口動態や意思伝達網や社会的構造の変化を、さまざまに引用してきました。行動の複雑さとの関連を認識しながら過去の世代におけるMSAのパターン化を説明する最も傑出した解釈は通常、より生物学に基づく認知の枠組みと、人口規模および空間分布に基づく人口統計学的見解とに分かれています。以下、変化の原因と機序が具体的に検証されます。
●行動の複雑さとヒトの脳における変化
生物学に基づく認知の枠組みは、複雑な行動の能力を、遺伝性の生物学的変化のある種形態により引き起こされる、現生人類の進化の軌跡に沿って分離後に起きたものとみなします。これは通常、より大きな認知の複雑さを引き起こした、神経変異の観点で組み立てられます。そうしたモデルでは通常、前後の明確な違いを伴う急激な変換があり、ヒトが行動的に「現代的」であると識別される時点を明確に示せます。リチャード・クライン(Richard Klein)によると、アフリカ内での行動的現代性の突然の起源は、現生人類に排他的に、5万~4万年前頃と遅い時点で起きました。それは、脳における神経学的変化(たとえば言語能力)を引き起こした遺伝的変異によりはじくり、それはアフリカにおいてMSA/LSAの移行で見られる行動的革新の反映を促進し、これは次にユーラシアへともたらされます。
このモデルはこの分野内と、とくに分野外で頻繁に引用されていることに見られるように、ひじょうに影響力がありますが、それと関連するさまざまな問題があります。一例として、5万~4万年前頃で提案されている時期までに、現生人類はすでに別々の人口集団に分岐しており、この変異がさまざまな現生人類系統で独立して起きたか、人口集団がアフリカから拡散し、さらにその変異を有する個体群による世界規模の植民の波で拡散したことを意味しますが、その証拠はありません。少なくとも同じくらい重要ですが、そうした痕跡を探した最近の研究では、MIS3に起きたヒトゲノムにおける革命変化の神経学的基盤(関連記事)も遺伝学的基盤(関連記事)もみつかりませんでした。
最後に、本論文で提示されたMSAの考古学的記録に現れた文化的革新のパターンは、このモデルを否定します。MSAの記録は、特定の時点で見える明らかな中断もしくは革命なしに、その当初の頃からすでに始まる一連の革新を示します。代わりに、さまざまな複雑な行動はずっと昔にさかのぼることができ、さまざまな地域および時点で(再)発明されました(たとえば、ビーズ加工や骨器や抽象的記号)。
他の学者は、MSAの始まりと現生人類の表現型の起源で、螻蛄婆の基本的な認知はすでに整っていた、と主張してきました。そうしたシナリオでは、中期更新世後期に現生人類の起源とともに観察される(比較的)大きな脳サイズの増加は、現在通常見られる行動の基盤を築きました。しかし繰り返すと、ヒトの脳と認知における変化の直接的な因果関係だけでは不充分で、それは、30万年前頃の考古学的記録における行動の複雑さにおいて指数関数的増加もしくは「革命」が観察されないからです(少なくとも、後期更新世に見られる水準ではありません)。
この不一致を説明できるかもしれないのは、現生人類の起源に由来する複雑な行動の能力をそうした能力の適用と区別することで、現代的行動が完全に発現するにはその上に他の要素が必要だったかもしれません(後述)。ヒトの脳を行動の複雑さと関連づける他の手法も、検討されてきました。単なる絶対的もしくは相対的な脳の大きさの代わりに、脳の発生や組織化や神経接続の変化がより重要で(関連記事)、これに関して将来の研究の方法かもしれません。しかし、これらの変化のいくつかの追跡は困難で、関連する化石頭蓋の小規模な標本に依拠しており、本論文で見られるパターンと関連づけるのも困難です。
●行動の複雑さとヒトの人口動態
最近現れたモデルでは、ヒトの進化に見られる行動と生物学的な斑状は大なり小なり人口動態と全体的なメタ個体群の規模の結果かもしれない、と示唆されてきました。Mcbrearty, and Brooks.,2000はすでに、MSA/LSAの移行における人口規模と人口密度の影響の可能性を検討し、MSAはアシューリアンよりずっと広範に分布しており、保存の偏りだけでこれを説明できる可能性は低い、という事実を強調しました。一般的な理論的観点からは、人口構造や人口密度や相互接続性を含めた人口統計学的側面だけではなく、文化的伝達の変わりやすい経路も、文化的異形の出現と消滅や、差次的な取り込みと分散など、最近の文化的変化のパターンを説明する重要な変数を構成します。
人口統計学的変数と文化的複雑さとの間の関係に関する数学的モデルは、有益な文化的に継承された技術の蓄積と保持に関する人口規模と社会的相互接続性の増加の正の効果を報告してきました。ニコール・クレアンザ(Nicole Creanza)のより最近のモデルは、単純な数の増加と同じ影響のある、移住もしくは交流による人口集団の相互作用の重要な役割を裏づけます。マット・グローヴ(Matt Grove)も、人口密度は文化伝達に対してより高水準の遊動性と同じ影響を与えた、と示し、両方の要因の考慮が重要な役割を果たしている、と指摘しました。これらの手法は、相互接続性と仲介者の数が文化的な複雑さと変化の制御に重要な役割を果たす、と明らかにした、複雑系理論と類似の着想を共有しています。簡単に言うと、累積的文化が盛行するには、特定の認知能力と適切な社会的環境が必要で、後者は物理的環境や生態系や気候にも影響を与受けます。
これらの見解は最近では、MSAと現生人類の起源に適用されてきました。アダム・パウエル(Adam Powell)は、メタ個体群内でのいわゆる現代的行動の出現をモデル化し、複雑な文化の出現と維持は、安定した文化伝達に必要な人口密度と移住パターンと相互作用の臨界水準の到達に依存している、と主張しました。換言すると、人口統計学的転換点に達した後には、人口密度は充分に高くなり、長期にわたって文化的に伝達される情報の維持に成功し、その期間には革新の蓄積速度は喪失速度を顕著に上回ります。したがって、より低い人口密度とより少ない相互接続性の社会は、最終的に長期の時間規模では革新を失うでしょう。集団規模の縮小はヒトの社会をさらに、社会的崩壊や消滅など重大な危険性に曝してきたかもしれません。
このモデルの刊行以降、MSAの研究数の増加は、観察された文化的変化の変わりやすいパターンとの潜在的動因として、人口統計学的要因を訴えてきました。最も明示的な事例の一つでは、アレックス・マッケイ(Alex Mackay)たちは、MIS5~2のアフリカ南部のMSA石器記録における地域内の類似性と差異のパターンを、変わりやすい人口集団の相互作用と文化的伝達に帰しています。
本論文はこれらの理論的観察と特定のモデルを、MSAで観察された革新の複雑な斑状のパターン化と関連づけることができます。組み合わせると、これらの観察とモデルは、複雑な行動の基本的な認知能力はMSAの始まりまでには備わっていた可能性が高く、人口統計学的変数における変化は、考古学的記録で明らかなように、変わりやすく同時代ではない革新の一部や、さまざまなアフリカの地域にわたるさまざまな特性の保持と喪失(表1)を説明できるかもしれない、と示唆します。
さまざまな社会・技術領域における頻繁で多くの革新は、MSAを通じての現生人類の根底にある創造性と認知能力を論証します。しかし、人口密度が低く、集団間の相互作用の水準低下を伴う顕著な人口構造の時代は、伝達の失敗もしくは集団の局所的消滅に起因する、革新の繰り返しの喪失につながったかもしれません。そうした解釈では、集団間のとてつもない数もしくは接続を通じて達成された有効な文化的人口密度の臨海閾値は、MSA末の後に長期にわたって達成されたようで、それはLSAと上部旧石器時代とより広く完新世で見られる文化的変化のより一貫して指数関数的なパターンを可能とします。
アフリカ大陸全体の水準では、これらの人口統計学的仮説は推測に留まっており、アフリカの一部地域でのみ、関連する考古学的データと厳密な定量的研究により裏づけられています(関連記事)。より大きな時空間的規模でのそうした説明的シナリオの分析的検証は、MSAの実証的記録との直線的関わりにおいて、複数の人口統計学的および非人口統計学的要因を含む、さらなるモデル化を必要するでしょうし、させに適切に更新世における情報交換網と人口規模を再構築するには、新たな手法が必要です。MSAの記録における革新の出現は、作業の専門化の増加した証拠とともに、独立している可能性は低そうです。社会学や経済学の研究は長く、より大きな人口を有する社会が労働のより専門化と分業化を可能として、専門化と分業化は両方とも集団の持つ情報の総体を増やす、と示唆してきました。
これらの考察は、現生人類の生物文化的進化のより広範な全体像にどのように当てはまりますか?一般的に、新たな人口統計学的手法は汎アフリカ的な構造化されたメタ個体群と一致し、このメタ個体群は、「基本的なMSA」など普遍的に共有される特性の連続性を保証し、その局所的で緩やかにのみつながっている繁殖集団(deme、遺伝的つながりのある集団)は、さまざまな場所と時における革新の変わりやすい出現と消滅の状況でした。じっさい、遺伝的および化石の情報とともに、この文化的データは、現生人類の生物学と行動は構造化されたメタ個体群に起源があった、との提案に用いられてきました(関連記事)。
より新しい遺伝的データから合理的に推測できることは、これらの推測を補完します。具体的には、アフリカにおける初期現生人類集団間の分岐は漸進的だったようで、完全な系統樹的な分岐ではなく、数万年あるいは数十万年にさえわたる長期の遺伝子流動が伴いました(関連記事)。この混合の漸進的性質は、少ない移住および全体的に小さいメタ個体群の規模と一致し、革新とその拡大の勢いを弱らせたものの、全ての繁殖集団に共通する要素は持続しました。
そうした人口統計学的モデルも、中部旧石器時代のネアンデルタール人が数や多様性や文化的革新の頻度で現生人類集団よりわずかに遅れていた理由を、純粋に認知的なモデルよりも適切に説明できるかもしれず、文字通りに特性一覧を解釈することの欠陥を示しています。考古学と遺伝学の証拠は、初期現生人類と比較してネアンデルタール人について、より小さな全体的なメタ個体群規模とより高い割合の近親交配を示唆しており(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、氷期状況に続く構造の崩壊が、混合していない形でのネアンデルタール人の消滅に寄与した要因だった可能性が高そうです。
MSAと中部旧石器時代における複雑な行動と物質文化は、成長と累積的発展を維持するための人口集団の臨界密度が必要でした。要するに、アフリカのMSAで見られる空間的不均質性は、さまざまな水準の認知能力にまったく左右されないかもしれませんが、社会的な人口統計学的構造や集団間の接続性や文化的伝達の仮定の変化により大半を説明できるかもしれません。
人口動態がここで見られる文化的進化のパターンの根底にあるならば、何が人口規模と人口密度とつながりの増加を説明するのでしょうか?本論文の範囲を超えますが、人口統計学的変化は、正のフィードバックループを活性化した、さまざまな生態学的もしくは社会的要因から生じるかもしれません。MSAの人々の生態的地位の幅が広がったこと(関連記事)は、新たな生息地への拡大を可能としたかもしれません。より変わりやすい環境と関連して、より多様な食性が食料不足を緩和し、死亡率と絶滅率を低下させ、人口規模を押し上げたかもしれません。集団間の相互接続性を高めた社会的組織化の新たな方法は、原材料の長距離輸送においてMSAの始まりですでに見ることができますが(関連記事)、後期更新世にまでさかのぼるOESのビーズ(関連記事)により示唆される、長期の交流網および/もしくは移住網など、MSAの末に向かって増加した可能性が高そうです。
最後に、考古学的記録における「革命」の目立って明らかな欠如が残され、それは、現生人類の行動には深いアフリカの起源がある、というMcbrearty, and Brooks.,2000の主要な論題を支持します。しかし、より最近のデータも、漸進的出現と安定した一括の観点でこれを見ることは、もはや主張できないことも強調しました。じっさい、「一括」という概念はMcbrearty, and Brooks.,2000に先行し、ヨーロッパの上部旧石器時代の概念化と関連している可能性があります。
代わりに新たな研究が示唆するのは、少ない人口など人口統計学的変数が、現代的な知性、つまり革新やその喪失や再発明の変わりやすい発現の促進に重要な役割を果たした、ということです。結局のところ、多くの「ヒトの革命」は、ヒトの人口規模が、局所的水準での喪失を超越し、文化が真に累積的になることを可能とする臨界量に達するのに充分なほど成長できた時点でのみ、見つけることができます。最近の歴史における文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】の喪失や崩壊でさえ、人類が、認知能力に何の影響も及ばされずに「後退」することがいかに容易に起きるのか、示してきました。
●将来の展望
ヒトの文化的進化に関する理論的視点の発展に多くの進歩があり、最近の学術は一括もしくは現代性の概念から離れて進んでおり、変異性や柔軟性や可塑性の理解に焦点を当てるだけではなく、より広範囲の原因となる潜在的な機序にも関わるようになっています。とはいえ、多くのモデルは依然として、単一の因果関係的説明を追及しており、生物学か環境か認知か人口度歌のいずれかにのみ焦点を当てています。しかし、複数の要因があるかもしれず、その機序は、とくにヒトの行動と文化のような複雑な体系では、つねに階層的で独立しているとは限りません。契機と動因も、さまざまな時空間規模で根本的に異なる方法で(相互)作用するか、アフリカのさまざまな地域において非同時的な方法で連続的に適用さえできるかもしれません(たとえば環境変化)。さらに、ヒトの(進化的)歴史においてひじょうに広く見られる経路依存性と偶発性の原理は、人口集団内の小さな最初の変化でさえ、ヒト社会の複雑さと接続性に起因して、定性的にさまざまで予期せぬ結果をもたらすかもしれない、と予測します。
文化的進化をモデル化した最近の研究では、人口統計学と環境両方の媒介変数を見ることにより、最初のモデルが拡張されました。結果として、そうした研究は、文化的特性の獲得と喪失についての指数関数的で断続的な変化だけではなくより複雑な軌跡も含まれる考古学的パターンを反映した、文化的進化のより現実的なパターンを作成できました。これらの調査結果から、大規模な文化的変化は人口規模や環境変化や確率論的な文化的喪失や人口集団の分化の複雑な相互作用により駆動されたかもしれないものの、道具の発明率を決定する一般的な認知能力にも依存していたかもしれない、と示唆されます。
これらの要因に、生態的地位構築の形態で環境のヒトによる改変が、モデル化の観点から追加できるだけではなく、すでにMSAにさかのぼり、その後に加速している証拠によっても裏づけられます。文化的進化のモデルは、ヒトの食性や解剖学的構造や生物学や社会構造により設定される制約と可能性も考慮すべきで、たとえば、認知や社会や文化での遺伝的構成と神経解剖学における変化の反応です。しかし重要なことに、本論文の観察は、考えられる全ての因果関係の機序が、MSAにおける文化的変化の理解に等しく関連しているわけではない、と示唆します。
環境と直接的な選択圧からヒトの分離と自立性の増加は、現生人類の継続中の文化的進化におけるこれまで以上に重要になりつつある物質文化への依存度の高まりを伴う、人口動態や社会構造や技術に駆動された反応などの要因を示唆します。現生人類における複雑な行動の性質と普及が、ネアンデルタール人の記録で観察されるものとは対照的に、最適に見ることができるのは恐らく、これらの仮定の強化と、人口動態とのフィードバックループの増幅にあります。
本論文で示されたように、人口動態と文化的伝達と多次元の適応度景観の新たな理論的レンズは、複雑な実証的記録とさらに深く及ぶ解釈との間の有用な橋渡しを提供できます。そうした手法は、広大なアフリカ大陸内の、地理的に情報をもたらす視点と、さまざまな人口統計学と行動の軌跡の高い可能性の認識を必要とします。したがって、現生人類の行動の進化に関する新たなモデルは、空間的に明示的で、環境と生物学と人口統計学と物質と社会的な要因を考慮すべきです。これらの要因は相互作用し、いくつかの規模で複雑な因果関係の交流網を形成します。そうした手法は、より広くホモ属の生物文化的進化に関する新たな理論の中心的見解と一致しており、そうした理論では、進化的経路を駆動する、世代間情報伝達の複数の相互作用する経路役割が強調されます。
21世紀のアフリカにおける現生人類の文化的進化の機序と軌跡に関する全体論的視点の提供は、学際的で汎アフリカ的な実証的データと、微妙で注意深く調整された理論的シナリオの、詳細な定量的観察とモデル化の両方を必要とするでしょう。過去が将来の道標ならば、次の20年間の研究は、さらに予期せぬ発見と新たな手法を提供するでしょうし、そうした発見と手法は、現生人類の行動の複雑さの起源に関する現在のモデルの改善に役立ち、ヒトになることの全体像に詳細を加えるでしょう。著者2人はこの精神において、本論文の寄与とMcbrearty, and Brooks.,2000の永続的遺産との関連を見てきました。
参考文献:
Mcbrearty S, and Brooks AS.(2000): The revolution that wasn't: a new interpretation of the origin of modern human behavior. Journal of Human Evolution, 39, 5, 453-563.
http://dx.doi.org/10.1006/jhev.2000.0435
Scerri ML, and Will M.(2023): The revolution that still isn't: The origins of behavioral complexity in Homo sapiens. Journal of Human Evolution, 179, 103358.
https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2023.103358
本論文は、アフリカの中期石器時代と後期石器時代に関する考古学的研究の進展を整理し、現生人類における行動の複雑さの起源を検証します。本論文は、サハラ砂漠以南のアフリカの中期石器時代(Middle Stone Age、略してMSA)における物質文化の主要な遺跡を網羅しており、この時期のサハラ砂漠以南のアフリカの考古学的知見を把握するのにもたいへん有益だと思います。MSAは前期石器時代(Early Stone Age、略してESA)に続き、MSAの後には後期石器時代(Later Stone Age、略してLSA)へと続くわけですが、その移行はサハラ砂漠以南のアフリカにおいて一様でも同時でもなく、現生人類の起源地であるアフリカの文化的多様性も示されているように思います。以下、敬称は省略します。
●要約
現生人類の行動の起源は、アフリカにおける現生人類により作られた最初の物質文化であるMSAにさかのぼることができます。この広い合意を超えて、現生人類における高度の複雑さの起源とパターンと原因については、まだ議論が続いています。本論文は、最近の調査結果が、(1)現生人類の「一括」、(2)行動の複雑さの漸進的で「汎アフリカ的な」出現、(3)ヒトの脳における変化との直接的関係、という一般的なシナリオを支持し続けるのかどうか、検証します。
本論文の地理的に構造化された見解では、数十年の科学的研究は完全な「現代性の一括」について別々の閾値を見つけることに失敗し続け、その概念は理論的に時代遅れである、と示されます。記録は、複雑な物質文化の大陸規模の漸進的な蓄積ではなく、アフリカのさまざまな地域にわたる多くの革新の非同時的な存在と持続を主に示します。MSAの行動的な複雑さの出現パターンは、空間的に別々で、時間的に違いがあり、歴史的に偶発的な軌跡により特徴づけられる、複雑な寄せ集めと一致します。この考古学的記録は、ヒトの脳における過度に単純化した変化とは直接的な関係がなく、むしろ、不定に現れる同様の認知能力を反映しています。複数の要因の相互作用は、人口構造や人口規模や重要な役割を果たす接続性など人口統計学的過程とともに、複雑な行動の多様な発現を促進する、最も節約的な説明を構成します。
MSAの記録では革新と変異性が強調されてきましたが、長期の停滞と累積的な発展の欠如は、記録における厳密な漸進主義的性質にさらに反論します。本論文は代わりに、アフリカにおけるヒトの深くて多様な起源と、現代人の文化の定義に一般的に用いられる歯止め効果を産み出せる重要な量に達するのに何千年もかかった、動的なメタ個体群【アレル(対立遺伝子)の交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団】と直面しています。本論文は最後に、30万年前頃以降、「現代的な」ヒトの生物学と行動との間のつながりが弱まっていることを指摘します。
●研究史
ヒトの進化の文化的側面は、考古学者と人類学者の関心を、これらの分野が始まって以来集めてきており、現在でも激しい議論の主題となっています。中期更新世移行の大きな脳の人類の行動の複雑さの増加は通常、抽象概念や象徴性や言語の使用、超社会性や利他主義、芸術の製作、文化の蓄積など、現在のヒトの行動の観点(つまり、民族誌的提示)で測定されます。21世紀の変わり目に、これらの行動の起源の場所と時期と様相が新たなモデルにより根本的に形成され、そのモデルは大きな画期的事象をアフリカにおける中期~後期更新世の漸進主義の文脈内における現生人類の発展に位置づけました。
20世紀末の科学者を支配していた、ヨーロッパの氷期における上部旧石器時代「革命」とはかけ離れて、Mcbrearty, and Brooks.,2000では、象徴的な物質文化、地域的な技術的多様化、多様な素材の使用、拡張された社会的交流網、経済的強化の出現が全て、ヨーロッパよりもずっと早い時間枠で、アフリカの現生人類にたどることができるかもしれない、と示されました。具体的には、これらの行動は全てMSAと関連しており、MSAは今では、現生人類と関連する最初の最も長く続いた石器物質文化と知られています(関連記事)。
ヨーロッパにおいては、ヒトの行動の「現代性」が予期において中部旧石器から上部旧石器への移行と確実に関連づけられていた頃に、Mcbrearty, and Brooks.,2000はアフリカとMSAに新たな強い焦点を当てる道を頃目ました。これは、古人類学と遺伝学の研究がアフリカにおける現生人類の深い時間の起源をますます指摘しているのと同様に、ヒトの起源の難問の緊急に必要とされている考古学的断片を提供しました。
この一連の将来の発展を助けた古人類学と古遺伝学と考古学の研究は、MSAを現生人類出現の文化的背景として位置づけることにより顕著な影響を及ぼしてきており、現生人類の行動の起源の解明のために、MSA遺跡群を調査する必要性を明らかにしました。この変化は恐らく、一般的に言えば、1990年代以前には、MSAに関する「有名な」出版物が少なく、アフリカの旧石器時代に関する学者の関心が、おもに前期石器時代(Early Stone Age、略してESA)とLSAにあった、という事実で最も明らかです。
一例として、これを『Journal of Human Evolution(以下、JHE)』誌の50周年記念特別号への寄稿とみなして、本論文は、要約もしくは主要語におけるMSAもしくはその言及に焦点を当てた刊行物について、1972~2020年のオンラインデータベースの単純な調査を実行しました。1972~1980年もしくは1981年と1990年の間では、関連する論文がみつかりませんでした。1991~2000年には、この論題に関する24本の論文があり(合計529本の記事のうち5%)、MSAに最初に焦点を当てた研究の刊行は1991年でした。
この年代区分では、2000年が重要な年であり、24本のうち13本が刊行され、南アフリカ共和国のデ・ケルデス(Die Kelders)遺跡に関する特集号(第38巻第1号)と、Mcbrearty, and Brooks.,2000が含まれます。逆に、2000年代以降、このより高い関心は継続し、JHE誌における主題としてのMSAを扱う論文は、2001~2010年が62本(合計769本の研究論文の8%)、2011~2020年が83本(合計1100本の研究論文の8%)と顕著に増加しました。上位誌の他の標識となる刊行物に加えて、これらのデータから、MSAは旧石器時代考古学とより広くヒトの進化についての研究に関して、不明なものから有名なものへと変化を経た、と示されます。
独創的で将来の発展を助けたMcbrearty, and Brooks.,2000論文の刊行から23年後、現生人類の行動の複雑さの起源は、世界的な研究の中心的主題のままです。しかし、何が変わり、何をより多く分かっているのでしょうか?1世代に相当する考古学的調査は顕著な量の新たなデータを明らかにし、そのデータから、現生人類の行動の起源に関する問題が検討され、この用語の参照対照が今や検討されます。新たな実証的研究は、MSAにおいて起きた顕著な変化をどう最適に理解するのか、という理論的観点の変化も伴っていました。
本論文はまず、初期現生人類の考古学的記録における行動の複雑さの進化をどう最適に見て追跡するのか、といういくつかの最近の論的および概念的発展について概説します。本論文はこの検討に基づいて、さまざまな空間的地域のアフリカの記録から得られた2000年以降の関連する実証的調査結果を再調査します。第三段階では、新たな概念的着想を証拠の時空間的パターンと組み合わせることにより、現生人類の初期段階における行動の複雑さの起源に関する更新された概観が提供されます。
最後に、観察されたパターンの原因となるかもしれない機序が検討され、時空間的に重要な変化とパターンの理解のための人口統計に焦点を当てた、複数の原因を考慮した学際的手法が促進されます。本論文は、考古学的機関と関連する分類的区分に執着する代わりに、アフリカにおける50万~3万年前頃という一般的な時間枠に焦点を当てます。この期間には、現生人類の表現型とMSA記録のほとんどが現れる、ESAとMSAの移行が含まれます。
●概念的変化:現代的な一括と進化シナリオと特性一覧
現代的行動の起源に関する主題をめぐる古人類学的研究は、以下のように分類できます。それは、(1)「アフリカにおける現生人類の行動の一括の組み立て」が起きた様相と場所と年代と理由です、(2)現生人類における行動の複雑さの進化に情報をもたらす考古学的データをどのように最適に概念化して解釈するのか、という理論的議論、(3)特性一覧の認識論敵扱いと検討です。
歴史的に、存在と欠如の二元的枠組み内で見られてきた「文化的現代性」の概念は、現生人類の行動の進化に関する議論を長く支配してきました。この概念は、ヨーロッパの広範な考古学的資料に基づく特性一覧により評価されたように、上部旧石器時代の始まりとネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と「現代的な」ヒトの区別に関する研究から派生しました。当初ほとんどの議論は、現生人類の大きな飛躍もしくは「革命」として把握されることが多い、単一の時点で起きる現代的な「一括」にほとんどの議論が集中していました。リチャード・クライン(Richard Klein)はその後、アフリカに関して類似の見解を定式化し、LSAの起源と一致する、5万~4万年前頃の時点での一括としての、行動の現代性の突然の起源を提案しました。
これら革命モデルへの直接的反応として、Mcbrearty, and Brooks.,2000は、その生物学的起源地であるアフリカ内の現生人類について、現代的一括の増加する集合の長期の漸進的でほぼ累積的な過程という、ひじょうに異なるシナリオを提案しました。2000年以降、特性の単一の「一括」として単一の時点で生じた現生人類の認知と行動の複雑さという概念(時には「文化的現代性」という用語で要約されました)は、そのヨーロッパ中心主義的見解とともに、理論および方法論および実証的根拠に基づいて、ますます批判されるようになってきました。
たとえば、ニコラス・コナード(Nicholas J Conard)は、アフリカにおける単一の中核がない、中期更新世後期および後期更新世に起きた、分散的で異質で多起源のパターンを支持します。さらなるシナリオは、後期更新世における豊富なアフリカ南部の記録(関連記事)への特別な焦点と、ユーラシアの現生人類以外の種も包含する時空間的に複雑なパターンの検討を含んでいます。同時に、最近のモデルは、年代的にいくつかの主要な閾値における「主な」転換ではなく、より多くの変異性や柔軟性や可塑性(関連記事)に焦点を置き始めました。
アフリカの新たな地域がその更新世の過去についてより深く理解されるようになってさえ、記録の漸進主義で多中心的解釈が導き出され続けていますが、推測の基本的手法は、「現代性」にとってある意味で重要と思われる、さまざまな時点における特定の特性の出現に基づいているままです。この手法は、考古学の強みです。人工遺物は、それ自体がヒトの認知的進化の累積的影響の相互依存的現れである、特性と能力の発現として解釈されます。しかし、フランチェスコ・デリコ(Francesco d’Errico)の言葉を借りれば、その基準を選択する喜寿は何でしょうか?
表1は、ヒトの文化と行動の進化をたどることができるかもしれない、2000年以降の重要な研究で言及された主要な特性をまとめています。これらは表面上、以下の特性へと分類できます。それは、(1)集団の自己認識と社会的交流網、(2)個人的で集団内の意思伝達と体系化と共有された信念、(3)社会的結合と相互信頼、(4)計画と確信と実験、(5)生態学的および食性の柔軟性と、専門家の「万能家」になる能力、(6)景観と生態系の制御と改造です。以下は本論文の表1です。
これらの特性の解釈は通常、多数の中範囲の理論もしくは架橋理論に関連づけられており、この方向の研究は2000年以降に重要な概念的進歩を提供してきました。この一連の研究はおもに現実の研究に由来し、現存もしくは最近の狩猟採集民社会に関する民族誌研究だけではなく、現在観察された行動と文化の複雑さについて考古学的相関を確立するための、実験考古学も含みます。さらに、いくつかの研究(関連記事)が、最近のヒトで調べられて推測されたように、考古学的記録で認識されるさまざまな種類の製作物の製作(標準化された形態、新たな素材の使用、熱処理や着柄接着剤を含む複合武器の長期の製作手順などの変化)を、その根底にあるかもしれない認知的な能力や過程と関連づけようと試みてきました。
集団の自己認識と社会的交流網は、コンピュータに基づく社会的連絡網から現代の狩猟採集民まで、現存するヒト社会の特徴で、世界中で民族誌的に記録されています。その確信には、分散した社会的交流網が相互信頼と危険の共同化を促進することで、これは更新世の人工遺物の考古学的解釈に大きな影響を与えた観察です。そうした研究は、遺物群全体の技術的類似性に基づいて仮定することの陥穽も示しました。
たとえば、1983年の研究でも、相互に理解できず、危険性を共有していないカラハリ砂漠のサン人集団が、共有された環境の結果としてその物質文化の90%を共有していた、と示されました。これらの理由から、考古学は社会的交流網が長距離移動と特に尖頭器の形態の標準化の証拠を探す傾向にありました(表1)。原材料の一部の長距離移動は、30万年前頃の少し前から存在します(関連記事)。海洋貝殻の内陸部への移動は、意図的に穿孔の有無にかかわらず、地域的に異なるMSAの尖頭器の形態の標準化にも反映されています。
この見解の背後にある理論は民族誌的研究にあり、それは、尖頭器がその性質により、狩猟のため景観に取り入れられた、と示します。他の狩猟集団と遭遇する可能性が最も高い、したがって象徴的な社会の情報伝達の必要性が生じる場所は、このより広い景観です。したがって、外来のものも含めてさまざまな物質の長距離移動と、尖頭器の形態の標準化の組み合わせは、社会的交流網と危険性の共同化集団が存在した適切な証拠を提示します。(細石刃の)背付き断片やその空間的分散など、他の道具における標準化は同様に、社会的接続性および増加する長距離の社会的結びつきと関連する、根底にある精神的鋳型を反映している、と主張されてきました。
個人および集団内の意思伝達と指示対象の体系化と共有された信念は、複雑な文化の完全に異なる次元を表しており、抽象的思考を必要とします。交流網と象徴的な情報伝達が集団間の協力もしくはその欠如の任意記に焦点を当てているならば、他の一連の証拠は、集団内の意思伝達と共有された信念を示します。たとえば、覆い隠すことなど「副葬品」を伴う意図的埋葬(関連記事)はこれを示唆していますが、死者への感情的愛着を超えた体系的慣行を主張するには、さらなる証拠が必要です。その希少性が「特別な何か」として価値を伝える可能性さえある海洋貝殻のような一連の物の収集など、他の一連理データも、新美声とTAK共有された概念を示します。
最後に、使用された物質と形態と製作における人工遺物の多様性は、創造性とこの種の要求された専門主義の増加を示し、それらは集団内の社会的団結を促進します(たとえば、原材料の収集と剥離、結合と樹脂の製作、木製の柄の製作など)。これには、多作業や増加する作業記憶など、新たな方法で行為の長い手順上の連鎖において自然には見られない物質を組み合わせ、それらを複合接着剤や弓矢一式などに変換する能力が含まれています。
まとめると、これら特性の混合は、集団内戦略として発現することが多い、認知資本の蓄積の適切な証拠を提供します。他の種類の物は、何らかの能力で「象徴的」ではあるものの、その性質上、明確に象徴的か恣意的かではありません。たとえば、恐らくは水の運搬として用いられたダチョウの卵殻(ostrich eggshells、略してOES)の装飾は、水の運搬が遭遇の景観」において行なわれている、と合理的に考えられるならば、集団内の共有された審美性もしくは象徴、個人的様式もしくは象徴的様式の形態を表しているかもしれません。
植生の幅の拡大、生物地理学的障壁の超越、生態的地位の拡大についての証拠には、より多くの集団的行動が存在しており、その全ては、群もしくは人口集団と関連するようになる専門的道具および/もしくは行動を革新する、行動適応性と柔軟性と能力を示しています(関連記事)。この拡大した生態的地位の一部には、制御された燃焼を通じての景観の管理と植物の成長も含まれます。環境と確信と計画を理解するためのさらなる証拠は、さまざまな資源の季節的な利用にも由来します。
まとめると、上述のデータは一般的に、複雑な文化のための能力の出現が、現生人類の形態の最初の現れとともにいつか、あるいはその後で出現した、という理論を裏づけるのに用いられてきました。しかし、過去20年間の研究で現れたこの見解には、いくつかの問題と注意点があります。最も明らかなのは、これらの特性のかなり多くが今ではネアンデルタール人とも関連しているかもしれない、ということです。たとえば、ネアンデルタール人は今では、長距離輸送(関連記事)や死者の埋葬や構造化された生活空間と関わっており、その食性の幅は増加した、と分かってきました。ネアンデルタール人もレヴァントではその尖頭器の形態を標準化しており、明らかに多様な形態の道具を特徴としていました。
これらの発見は、MSAについて用いられた特性一覧に幾分の問題を提起し、現生人類にのみ見られる何かとしての「現代的行動」との見解を損ないました。これは、現生人類のMSAの記録とネアンデルタール人の中部旧石器時代の記録との間に違いがないことを意味しますか?それどころか、表1で一覧に挙げられた発現特性の強度には違いがあり、現生人類での類似の行動の事例は、より広くて強く現れています。弓矢の製作や貝殻の穿孔や景観規模の燃焼など他の行動は、ネアンデルタール人と関連する中部旧石器時代とは対照的に、これまでMSAでのみ知られています。これらの多面的でしばしば漸進的な違いは、現生人類におけるより高次の認知か、複雑な文化の発現の条件がネアンデルタール人と現生人類ではかなり異なっているものの、その理由が現時点では不明なことを示唆します。ネアンデルタール人と現生人類との間の考古学的および推測された認知の違いは、同様に中間的立場を主張します。
しかし、ここでの重要点は、ヒトの認知能力のさまざまな発現は認知それ自体だけではなく、人口動態や継承された(物質的)資源や解剖学的構造や環境など他の要因とも関連している、ということです。つまり、つまりひじょうに異なる表現型につながるかもしれない相互作用と反応です。第二の重要点は、この項の冒頭に戻って、「現代性(単数形での表現)」を示唆するとみなされている考古学的特性がじっさいに、文化的継承と集団学習に由来する集団的行動の反映である、ということです。したがって、考古学的記録で特定された特性は、多くのあり得る表現型の発現の一つや、さまざまな集団行動の表現であり、その両者は状況に依存します。
これに基づいて、現生人類とネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など大きな脳の人類【デニソワ人の脳容量を推定できる化石はまだ発見されていないと思いますが、その下顎などから現生人類やデニソワ人と同程度の脳容量だった可能性は高そうです】の両方にとって、複雑な行動と文化は、現実的な一括ではなく、過小評価されることが多い一般的な能力としてみなせます。これらの刊行物で提案された重要な観点は、実証的に追跡可能な行動の遂行能力と、理論的構成物である認知能力とを区別します。換言すると、行動が能力ではなく適用に関するものなのに対して、認知は能力関するもので、必ずしも適用に関するものではなく、それは状況依存的であり、さまざまな人口統計学および社会および環境の側面に依拠します。
一例として、抽象的思考や心の理論や言語などの証拠としての芸術と象徴に焦点を当てることは理解できますが、その欠如はそうしたヒトの特性の欠如を必ずしも反映していません。残念ながら、直接的に観察できるのは行動の反映だけで、利用可能なその能力の大半は、発現されないか考古学的に不可視のままです。これは、考古学的記録における複雑な認知のさまざまな適用を見る視点が、とくにネアンデルタール人の記録との強い類似点が存在する場合には、本当に現代的認知が現れる時なのかどうか、という問題を提起します。
複雑な認知の理解が白黒の問題ではなく、むしろ頻度や強度や特定の軌跡や歴史的偶発や相互作用の問題ならば、特性一覧は役に立つのでしょうか?あるいは、特性一覧は事後的に現代性一括の内容の特定を助長しているのでしょうか?上述のように、表1で一覧に挙げられた特性は、恐らく(現代的な)行動および認知の複雑さにさえ意味のあるつながりを提供できるかもしれませんが、さまざまな側面やその発現を示しているかもしれません。
実用的な注意点では、複雑な行動と関連している特性の検討は、迅速な評価も可能として、研究者は、考古学の強みを発揮する、意義の直接的に観察および測定および定量化できる構成要素への記録へと分解できます。そのため、全ての考古学的評価はこれまで、ある種(暗黙的もしくは明示的)の特性一覧に依拠してきており、これは科学分野の性質に根差しています。しかし、どの特性と考古学的発見が重要とみなされるのかは、古人類学的議論とほぼ同じように変わるかもしれず、特性はずっと複雑になり、多くの場合は複数の要素で構成されます(表1)。
したがって、それは、念頭に置くと、中心的重要性であるそうした特性に基づく推論です。たとえば、一部の特性は元々、当時の支配的な理論と関連して重要とみなされました。石刃はかつて「現代性」の重要な構成要素とみなされ、それは単に、石刃が上部旧石器時代において一般的だったからでした。しかし、石刃製作は、たとえば石材容積を最大化する必要性など他の要因とも関連している可能性があり、たとえば、繰り返しのルヴァロワ(Levallois)剥片の製作よりも石刃製作が計画の深さを必要とするのかどうか、議論となる可能性があります。したがって、上部旧石器におけるその優勢の観点における石刃が特別な意義を有している、という主張はやや循環的であり、じっさい石刃は今では、アフリカ全域のMSA石器群の頻繁な要素として認識されています。
本論文はこれらの問題を念頭に置いて、アフリカのさまざまな地域のMSAにおける行動の複雑さに関する知識の状況を再調査します。本論文は、考古学的発見の特異的な種類の有無や、特定の特性の事前に定義された一括を指す「文化的現代性」の分類的な定義に焦点を当てることを控えます。本論文は代わりに、考古学的記録にさまざまに現れる発見的な装置として、表1に一覧が挙げられた多様な特性の形態で関連する実証的データを検討し、ヒトの集団的行動や文化の複雑さを共に構成するさまざまな異なる側面に関して、さらなる推測を可能とします。本論文は、これらの特性が指していることや、複雑な文化の程度を発現する過程に有利である多様な変数の相互作用、およびこれが「現代的なヒトの行動の出現」について意味することを理解しようとする観点に従います。以下では、実証的証拠が再調査されます。
●始まり:ESA/MSAの移行の石器技術
現生人類と「一括」概念についての以前の思考の根底には、MSA自体があります。MSAは1928年にアストリー・ジョン・ヒラリー・グッドウィン(Astley John Hilary Goodwin)により定義され、ESA(およびアフリカの近隣地域の下部旧石器時代)に続く時代で、その最新段階はすでに、ヴィクトリア・ウエスト(Victoria West)と「祖型」ルヴァロワ石核の事例など、石器技術の複雑さと洗練のより大きな程度によって示され始めました。
ESAとは異なり、MSAには豊富な10cm 以上の長さとなる両面もしくは片面を調整した大型の切断用石器(large cutting tool、略してLCT)が欠けており、調整石核からの打撃による剥片の製作に焦点が当てられており、そのうち一部はその後、以前には考古学的記録で見られなかったさまざまな形態へと再加工されました。MSAの出現は石器の概念化と製作、およびその製作者の一般的な行動能力における顕著な変化とみなされてきました。
木の柄に石の先端を取り付けること(関連記事)とともに、MSA自体が、化石記録における一貫してより大きな絶対的容量、とくに相対的な脳の大きさの兆候を示します。考古学的記録は、より速い速度の技術的変化と関連する時空間両方に制約された、物質文化の特有の差異の証拠を示します。この地域的で時間的な多様性は恐らく、初期現生人類メタ個体群の拡大と多様な環境への適応の程度を反映しています。
実証的証拠の以下の提示では、単一の分析単位としてのアフリカが、更新世でも関連していた、大陸の大きな規模や、その巨大な地理的および気候的および環境的変異性を隠していることを考慮して、地理的に明示的に手法を提供します。最近の古人類学的および遺伝学的研究も、中期更新世後期および後期更新世における現生人類の単一の汎混合祖先人口集団ではなく、時空間的構造が存在した、と示唆してきました(関連記事1および関連記事2)。
アフリカ大陸の多くの区分が可能ですが、本論文は大まかに、アフリカ大陸を南部と東部と北部と中央部と西部に区分する、国連の地理計画(2019年)に従いします。更新世に適用するさいにはある程度恣意的ですが、この区分は、明示的で、類似の気候により影響を受ける可能性が高い隣接地域を包含し、MSAの記録の研究史にある程度従う、という利点があります。現代の地理的および気候的意味では、アフリカ北部はおもにサハラ地域により定義されます。アフリカ西部は北方がサハラ砂漠、東方が中央熱帯雨林に囲まれています。アフリカ中央部地域は熱帯雨林により特徴づけられます。アフリカ東部は、その高地の地域と、湖水およびが線回廊などさまざまな生息地の斑状により提起が去れます。アフリカ南部は、北西と北方中央が砂漠と熱帯雨林に囲まれ、その独特な気候体系により定義されます。
MSAへの移行はすでに、地理的距離に根ざしているとように見える物質文化の多様性の程度を特徴としています。中期更新世までに、いくつかの変化が考古学的記録で観察されます。それ以前に、アフリカにおける180万~30万年前頃のアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)のほとんどについては、その石器群は石核石器と両面石器群が優占し、地理的に大きく広がっており、経時的には相対的に変化が少なかったです。
地域的な類型技術的な区別のパターンが容易に見えない一方で、柔らかい槌の打撃によってより高頻度形成された、向上した洗練さと対称性のある、より小さくて薄い握斧など、一部の局所化された空間的構造と時間的変化が、中期更新世には観察されてきました。これらの剥片の一部は再加工されて削器や抉入石器や鋸歯縁に変えられ、MSAで優占する形態の先駆けとなりました。後期アシューリアンまでに、遺跡群は円盤状石核から得られた剥片の使用増加の証拠を示します。剥片と鉈状石器から製作された握斧の卵形の形態は、ひじょうに稀になります。
アシューリアンの終焉は、キャップ・シャトリエ(Cap Chatelier)遺跡では20万年前頃を超えており、かなりの程度MSAと重なります。この石器群は予め決めた剥片と、剥片の小さく薄い両面の多様な一式と、ひじょうに少ない鉈状石器の製作により特徴づけられます。この後期アシューリアンは、移行的インダストリー(関連記事)として定義づけることさえでき、技術的貯蔵を表している、とかつては考えられており、そこからMSAがモロッコのジェベル・イルード(Jebel Irhoud)遺跡で出現した、と考えられていましたが、ジェベル・イルード遺跡は今では315000年前頃と年代測定されています(関連記事)。
アフリカ東部では、50万~20万年前頃となる後期もしくは末期アシューリアンが、微細な石材の選択、より小さくより薄くてより対称的な握斧でのより強力な両面形成、ルヴァロワ手法の最初の発生により特徴づけられます。最初のMSAはアフリカ北部と同じくらい古く、320000~305000年前頃です(関連記事)。しかし、アシューリアン石器群はアフリカ東部地域では中期更新世末まで同時代に存続していたようで、エチオピアのミエソ(Mieso)遺跡では21万年前頃となるルヴァロワ剥片や尖頭器や石刃と関連する握斧および鉈状石器が伴い、ヘルト上部層(Upper Herto Member)では16万年前頃の握斧の表面採集がありました。
ケニアのカプサリン層(Kapthurin Formation)における研究では、さまざまな遺跡で尖頭器とルヴァロワ技術で地層間に挟まる握斧の複雑なパターンが見つかり、さまざまな技術の同時代の使用と、285000年前頃以前となる最初のMSA技術の起源の両方が示唆されます。全体的に、この地域におけるMSA出現の状況はアフリカ北部と一致しており、技術はひじょうに類似しており、調整石核と再加工された尖頭器を特徴とします(関連記事)。同時に、標本規模の違いもしくはより顕著な地域的伝統を反映しているかもしれない、さまざまな石器の種類の頻度と再加工技術に違いもあります。たとえば、オロルゲサイリー層(Olorgesailie Formation)とカプサリン層における初期MSAは石刃石核や剥片と道具での基底部の薄化を特徴とします(関連記事)。
アフリカ南部では、ESAからMSAへの移行期の遺跡群は、後期更新世と比較してずっと少なくなっています。この地域の後期アシューリアンでは、ヴィクトリア・ウエスト石核の出現がありますが、その他の点ではアフリカ東部および北部と類似しています。いわゆるフォーレスミス(Fauresmith)文化はESAとMSAとの間の移行的インダストリーで、年代は50万~30万年前頃とあまり定かではなく、ルヴァロワ的石核や石刃や尖頭器と関連する、小型握斧の少なさにより特徴づけられます(関連記事)。アフリカ南部らおける最後のLCTは、中期更新世末にデュイネフォンテイン(Duinefontein)遺跡に現れます。興味深いことに、カサ・パン (Kathu Pan)遺跡には、50万~30万年前頃にさかのぼるかもしれない、石刃技術の石器や着柄尖頭器や顔料の製作の証拠がありますが(関連記事)、その年代は議論になっており、意義なく受け入れられてはいません。
アフリカ西部および中央部におけるMSAへの以降については、さほど知られていません。ESAの人工遺物はさまざまな生態学的地帯で記録されてきており、人類にとって適した退避地を含んでいたかもしれない熱帯森林における、進化過程の記録の必要性を浮き彫りにします(関連記事)。ESAからMSAへの「移行期」インダストリーはまだ報告されていませんが、これは、こうしたさほど記録されていない地域への注目の高まりとともに変わる可能性があります確かに、中期更新世のMSAの年代は今では、アフリカの西部と中央部の両方で知られています。
MSAへの移行は顕著な変化を表していますが、それは明確に、後期アシューリアンの洗練と複雑さの増加に根ざしており、じっさい、さまざまなアフリカの地域においてアシューリアンと重複しています。これらの進歩はMSA「革命」の概念をやわらげ、後期アシューリアン/初期MSAの移行の複雑なパターンを強調し、その製作者は両方、最初の現生人類だったかもしれません。アシューリアン末における複雑な重複のパターンは、世界的な減少だった可能性さえあります。
●発展:中期更新世後期と後期更新世におけるMSAの石器技術
アフリカにおける初期MSAは、その後数千年にわたって実質的に変化しませんでしたが、他の行動や技術が構築される基盤となります。アフリカ北部では、は30万年前頃のジェベル・イルード、25万年前頃のベンズ洞窟(Benzú Cave)、ともに22万年前頃となるサイ島遺跡 8-B-11(Sai Island Site 8-B-11)やハルガ・オアシス(Kharga Oasis)、17万年前頃となるイフリ・ナンマル(Ifri n'Ammar)などの初期MSA遺跡は違いがあるものの、おもに剥片に基づき、地元の石材が重視され、ルヴァロワおよび/もしくは円盤状技術や高い割合の削器や尖頭器や鋸歯縁があり、一部の事例では、石核斧など頑丈な道具がありました。
有茎のアテリアン(Aterian、アテール文化)石器のその後の革新は、13万年前頃の最終間氷期に広く出現しました。多くの古典的なMSAの形態は、薄化など他の基底部の改変とともに、先端から側面と末端の再加工された道具へと、基部の有茎で製作されました。MSAの多くの典型的な形態は、基部のステムやタング、ポイントからサイドやエンドのレタッチツールに加え、シンニングなどの基部の改変を伴って製造されている。これに加えて、薄化と押し出しなど他の基部の改変は、着柄との一般的で集中的な関係を示します。有茎石器群も、ほぼサハラ砂漠の現在の範囲およびアフリカ北部の沿岸と後背地域に相当する広大な範囲に広がっていましたが、他地域では完全に欠けています。西部砂漠とナイル川を越えると、他のMSA石器群の形態が優占します。純粋に技術的な変化に加えて、アテリアンもしくは有茎石器群も、外来の石材の長距離輸送や、押圧剥離の可能性や、弓や技術の存在を示唆しているかもしれない小さな尖頭器を特徴としています。
アフリカ東部では、MSA石器技術は時空間的な差異の寄せ集めを示し、長期の相対的な均質性も明らかであるにも関わらず、重要な構成要素として変異性がよく強調されます。研究は経時的な尖頭器の平均的な多さの一般的な減少を示してきましたが、形式的に時間的もしくは空間的に定義された特定の「診断手法」はありません。北部および北西部の近接したアテリアンと類似しているものはなく、ガデモッタ(Gademotta)層(276000年前頃頃)とクルクレッティ(Kulkuletti)層(276000±4000年以上前)の「扁平斧形尖頭器」が例外かもしれません。
石材の長距離輸送は、黒曜石露頭の証拠となる地球化学的痕跡のため、アフリカとウエブにおいて熱心に研究されてきました。50km超となる黒曜石の遺跡と産地までの輸送距離は、すでにこの地域の最初のMSAで知られており、その後葉距離が最大200kmまで伸びます(関連記事)。アフリカ東部MSA特有の特徴は、両面尖頭器の変動的な存在で、これはほとんどの遺跡からこの地域で見られ、中期更新世後期から完新世の開始にまで及んでいます。この地域の最初のMSA尖頭器の一部は、体系的な扁平斧除去もしくは槍の先端として高速で発射される投射器として解釈されてきました。弓矢技術の兆候はこの地域でまだ提示されていませんが、そうした証拠が将来明らかになる可能性もあるようです。
アフリカの他地域とは異なり、MSAからLSAへの初期の移行は71000年前頃までに起きていた可能性があるか(関連記事)、その期間に用いられた定義に基づくと5万~4万年前頃にはより高頻度で観察されました。いずれにしても、小さく背付きの断片と非石器物質文化の多様化の増加が、この地域でより一般的に海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)3以降のMSAを特徴づけ、アフリカの他地域では古典的なMSAの時間枠内によく収まる初期の年代のため、本論文では言及の価値があります。
アフリカ南部では、中期更新世MSAは、アシューリアン要素なしでいわゆる「初期MSA」として28万~13万年前頃に現れます。初期MSAはたいへん変化に富んでいるものの、再加工の形態がほとんどなく、地元の石材に焦点を当てた、ほぼ剥片に基づく石器群を含んでいますが、一部の遺跡は大型石刃と両面尖頭器を特徴とします。南アフリカ共和国のフロリスバッド(Florisbad)におけるこれら石器群の最古級(28万年前頃)は、同じ遺跡の頭蓋と類似の年代で、この頭蓋を初期現生人類と解釈する研究者もいます。アフリカ南部におけるこれら初期MSAの道具の一部が、最近発見されたホモ・ナレディ(Homo naledi)の遺骸により制作された、との提案(関連記事)は、これらホモ・ナレディの化石が今まであらゆる石器と関連していないので、推測に留まっています。
後期更新世の考古学的記録(12万~3万年前頃)は、遺跡および人工遺物密度の顕著な増加を示し、技術変化の速度は上がり、時間的および時には空間的にほぼ分離される多くの技術複合の基礎を形成します。MIS5以降、石器群は時に柔らかくて有機物の槌で製作された大型で標準化された石刃、背付き断片と小石刃(関連記事)、さまざまな地域的および時間的表現のある注意深く形成された単面および両面の尖頭器の製作の頻繁な証拠を示し、両面尖頭器は押圧剥離でも製作されました(関連記事)。小さく背付きの断片とその着柄の痕跡は、すでに6万年前頃には弓矢技術の起源を反映しているものとして、解釈されてきました。
MSAの人々は、複合式の道具や武器での使用のため、オーカー(鉄分を多く含んだ粘土)や植物素材の両方を特徴とすることが多い複合接着剤を製作していました。高品質の外来石材、および潜在的には他の天然素材の頻繁な輸入と使用(関連記事)は、後期更新世の大半にわたる現象で、ボツワナでは珪質礫岩が最大で200km超運ばれました。MIS6に始まってMIS3まで続いた、珪質礫岩の熱処理の豊富な証拠もあります(関連記事)。
まだ充分には研究されていませんが、いくつかの新たなデータが2000年以降にアフリカ中央部および西部から得られ、それはよく理解されていない地域における重要な参照点を提供します。アフリカ中央部では、中期更新世後期のMSA考古学は、ツイン・リバーズ(Twin Rivers)とカランボ滝(Kalambo Falls)において現時点で最古の推定年代は大まかに27万~17万年前頃となるルペンバン(Lupemban)文脈内でのアフリカ中央部における、精巧に作られた大型披針形尖頭器の両面形成と、小さな背付き断片の両方を特徴とします。石器の長距離輸送は稀ですが、ムンブワ洞窟群(Mumbwa Caves)ではMIS5eにおいて最大200kmになる、と記録されています。MIS4では再度、アフリカ中央部において両面披針形尖頭器の存在のいくつかの証拠があります。
アフリカ西部から現れてきた新たなデータは、この地域は中期更新世末から更新世終末と完新世の境界にまでわたって、MSAの長い持続を特徴としており、たとえばセネガルでは12000年前頃まで、ほぼ同時代のLSA石器群とともに存続していた、と論証します(関連記事)。アフリカ西部比較的よく研究されている遺跡(つまりセネガル)では、急速な変化率を伴う石核縮小と石器群両方に関して高い変異性の兆候と、より長期の安定性の地域の両方が得られました。MIS5移行、粗く形成された両面石器が、より典型的なMSA形態とともに見つかっており、削器と抉入石器が含まれます。他の種類の小さな両面葉状尖頭器はアフリカ西部で知られていますが、MIS4~2の間のみで、少なくとも1ヶ所の遺跡では押圧剥離による製作についていくつかの証拠があります。
●生態学的柔軟性と社会的複雑さの指標:MSAの非石器考古学資料
上述の要約から理解できるように、その石器技術により定義されるMSAは、複雑な行動の全部を網羅する多くの変化を特徴としており、複雑な行動の多くはすでに、MSAにおいて特定される前に1990年代に上部旧石器時代における「現生人類の行動」の図表作成に用いられた「特性一覧」と一括を形成していました。新たな革新もそれ以降特定されてきており、熱処理、押圧剥離、着柄様式、新たな道具形態、複雑な補強材が含まれ、これらの全ては、計画と記憶と協力と意思伝達の形態と作業の専門化を伝えていて、それは、これらが全て、さまざまな物質と処理の使用も含む、製作の一連の段階を必要とするからです。原材料の長距離輸送も、ある種の交換網の存在と、恐らくは価値と審美性と儀式の概念さえ示唆します。とくに石器の価値はその豊富さにあり、そうした複雑な行動が比較的広がっていたことを論証します。重要なことに、MSA石器群はそれ以前には観察されていなかった複雑な行動を証明する他の非石器遺物群とも関連しており、本論文はこれを、生態学的柔軟性と社会的複雑さの概念と関連して考察します(表1)。
2000年以降の考古学的研究は、MSAが生計と食性の幅と占めていた生態的地位の種類における新規の柔軟性を特徴とする、というかなりの証拠を明らかにしてきました。初期MSA以降には、細かく砕くことを通じての植物の処理と多様な資源の利用について、証拠があります。後者はアフリカの南北両方における沿岸景観の居住と海洋資源の利用の強化から、広範な獲物となる動物までに及び、大型で危険な種が含まれ、これはMSAの人々が有能で洗練された狩猟民だったことを示します。
MSAでは植物の利用が以前に考えられていたよりも広く行なわれていて、アフリカ南部では例外的によく保続された記録があり、草の種子の食事での利用(関連記事)、地中植物の調理と消費(関連記事)、20万年前頃までに現れた寝具および虫に対する忌避物質としてのスゲの使用(関連記事)が、後期更新世へとよく続いていた、と論証されます。新たな素材も、人々の技術的一覧に組み込まれました。さまざまな種類の形式の骨器が、アフリカ北部と南部において初めて、新たに狩猟武器(関連記事)の一部としてだけではなく、家庭用の道具としても現れ、一部は衣類製作における毛皮の除去と関連していたかもしれません。
MSA遺跡群も、ESA遺跡群よりもずっと広範に分布しており、Mcbrearty, and Brooks.,2000により強調されているように、水源に縛られていません。装飾されたダチョウの卵のアフリカ南部における発見は、少なくとも後期更新世においては、遺跡の空間的パターン化の違いを部分的に説明できるかもしれない、水の貯蔵技術の存在を示唆する、と主張されてきました。水の運搬のような実用的な物の装飾も、さほど検討されてこなかった、日常的なものと象徴的な物の共進化と融合を示しています。
それにも関わらず、この食性の幅と島嶼部から低地熱帯林まで多様な環境の定着の増加は、現代的行動の痕跡の一つとして記載されています(Mcbrearty, and Brooks.,2000)。最近の発見はこの生態学的柔軟性を高地環境へと拡張し(関連記事)、ヒトに固有の「万能家で専門家の生態的地位」の現れと一般的に特徴づけられています(関連記事)。そうした生態的地位の拡大と環境の多様性は、アフリカ南部のMSAについては定量的にも記録されてきました。他の行動は、環境への適応と同様に、環境の制御と改変の試みを証明します。9万年前頃以降のマラウイにおける広範な燃焼の証拠があり、植生組成に影響を及ぼし、野火の発生を制御し、恐らくは狩猟採集民の収益を変えました。
広範な生態的地位構築の別の事例は、開地のMSA状況で知られている、長期の調達や石材の叩き割りと輸送で構成される、人為的な景観の生成に関するものです(関連記事)。そうした物質的に豊かな景観は、遊動的な狩猟採集民の集団にとっと外来の原材料の貯蔵地として機能し、繰り返される人類の訪問と経時的な物質の投入を通じて、より広範な調和体系における自身の位置づけを守りました。ますます「文化化された」景観に関する同じ主張は、叩き割った岩の累積的な増成を伴う、岩陰や洞窟景観における焦点の場所に当てはまります。エジプトの燵岩に関して少なくとも10万年前頃から、オーカーに関して3万年以上前から知られている採掘活動は、景観における半永久的変化への永続する原因となるMSAのヒトの能力をさらに証明します。
社会的複雑さは今では、いくつかの独立した一連の証拠から同様に明らかです。MSA遺物群は自然と意図的両方で穿孔された海洋貝殻と関連しており、この貝殻は、個人的装飾品と、その特定の製作方法に基づく共有された社会的規範を表しています。穿孔された海洋貝殻は、アフリカ北部のMSAではとくに豊富で、14万~8万年前頃となる合計9ヶ所の遺跡に由来し、ムシロガイ属(Nassarius)の貝殻が選好されていました。アフリカ南部では、MSAの貝殻製ビーズはこれまで、MIS4でしか見つかっていません。
アフリカ東部におけるイモガイ属種(Conus sp.)の海洋貝殻のビーズについては、最初で単一の事例は、67000~63000年前頃となるケニアの湿潤な沿岸森林地帯に位置するパンガ・ヤ・サイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡に由来します。確実なのは、穿孔された貝殻はずっと遠い海岸から収集されて輸送された、ということで、珍しい石以外の何かに焦点を当てた、局所的な交換網を示唆します。
MSAの人々は、ビーズの製作に他の素材も使っており、とくに高頻度なのはアフリカ東部のMSAにおける5万年前頃までにさかのぼるOES(ダチョウの卵殻)のビーズで(関連記事)、アフリカ南部におけるMIS3の文脈から報告されている穴を開けた骨の数と事例はより少なくなっています。OESのビーズ形態における類似の方法の製作と変異性は、社会的集団へのつながりと人々の間の交換の両方を伝えています(関連記事)。
顔料の収集と使用は、アフリカ全域の多数の遺跡から報告されてきており(図1)、アフリカ中央部および東部ではすでに32万~20万年前頃に始まっており(関連記事)、オーカーの処理はアフリカ東部の後期更新世においてひじょうに高頻度でした(関連記事)。アフリカ北部は、サイ島における黄色と赤色の顔料の使用を示していますが、MIS5にはより高頻度になります。アフリカ南部では、MIS8~7における顔料使用の斑状の証拠があり、MIS6には増加し、MIS5~3には継続的行動としてずっと高頻度になります。
顔料の使用は、10万年前頃となる絵の制作に関する2点のオーカー処理の道具一式として、および、30万年前頃にさかのぼる塗装された石板の形態でのアポロ11号(Apollo 11)洞窟のMSAからの壁面芸術(parietal art)の唯一の証拠として、年代測定されたオーカーのクレヨンの「線描」や深く刻んだ模様など、芸術もしくは儀式を示唆する他の一連の証拠と関連しています。南アフリカ共和国の300km超離れたディープクルーフ岩陰(Diepkloof Rockshelter)遺跡とクリプドリフトシェルター(Klipdrift Shelter)遺跡から発見された、線刻されたOES上の抽象的模様の類似のパターンは、MIS5/4における長期の接続および意思伝達体系の存在を示唆します。
OES断片への直線の線刻の類似の慣行が、ゴダ・ブティチャ(Goda Buticha)遺跡で発見されました(43000~34000年前頃)。稀ですが、小さな穴を掘り、副葬品が備わった証拠のある最古となる既知のヒトの埋葬は、ボーダー洞窟(Border Cave)とパンガ・ヤ・サイディ洞窟に由来し(関連記事)、これらの埋葬は、悲痛や共有された集団の価値や潜在的には信念体系さえについての機序の処理を示唆している可能性が高そうです。この現象に関連しているのは、早ければ12万年前頃となるレヴァントの豊富な現生人類の埋葬で、これらは一般的に、アフリカからの移民の人口集団とみなされています。以下は本論文の図1です。
社会的な境界と集団も、利用可能なデータに現れるかもしれません。たとえば、アフリカ北部のさまざまな地域で一般的なアテリアンの有茎石器群の種類は、サハラ中央部の1ヶ所の遺跡でともに見つかっており、これら精巧な種類の石器(つまり、葉状尖頭器)の事例は全て、同じ外来の石材で作られました。当ての境界のある地理的性質と、アテリアンが主要な河川を渡っていないように見える事実も、文化的もしくは社会的選択および制約により部分的に説明できるかもしれませんが、これは論証がずっと困難です。
アフリカ南部MSAにおける技術複合間で特有な石器の時空間的パターン化は、情報の継続的な交換を伴う、境界化した集団を描いているかもしれません。OESビーズのストロンチウム同位体分析の研究では、長距離の交換を特定でき、33000年前頃となるその後のMSAにまでさかのぼる、アフリカ南部における何百km²にもわたる大規模な生物群系を越えた社会的交流網の存在を示唆します。アフリカ東部および南部のより最近の研究は、アフリカ東部起源で50000~33000年前頃に南方へと拡大した可能性が高い卵殻製ビーズを伴う、そうした大規模な社会的交流網の存在を確証しているかもしれません(関連記事)。
まとめると、2000年以降のMSAからの実証的データに関する本論文の再調査は、Mcbrearty, and Brooks.,2000で提示された現代的行動の痕跡と一致し、それに追加する、石器と非石器の物質文化の広範な新たな証拠を提供します(表1)。これらの特性は、初期現生人類の生態学的柔軟性や象徴的行動や経済および社会組織や技術的革新や標準化に関する推測を可能として、包括的ではないものの部分的には、認知能力の背景にある向上に起因する可能性が高そうです。新たなデータは、これらの特性の多くのアフリカ起源との主張を強化し、抽象的線刻や植物の寝具や熱処理や複合接着剤など、さまざまな地域のMSAにも起源がある、新たな革新を提供しました。本論文は次項で、現在の実証的データが、初期現生人類における文化的進化のパターンの理解のため、どのように最適に見て解釈できるのか、ということについて、新たな視点を検討します。
●記録のパターン:MSAにおける文化的進化の複雑な寄せ集めの推測
上述のように、現代的行動の起源に関する優勢なモデルは、革命から漸進主義的なモデルへと移行し、漸進主義的モデルでは、考古学的記録における「段階的」(Mcbrearty, and Brooks.,2000)変化が、現生人類における進化的行動の複雑さに関して、歯止め効果との見解もしくは累積的文化との見解と関連していました。しかし、このモデルの漸進主義的側面は、これまでに再調査された実証的証拠と適合するでしょうか?
行動の複雑さの漸進主義的出現との考察の根底にあるのは、MSAそれ自体です。歴史的に、MSAは純粋に石器の観点で定義され、ESAとLSAというすでに存在した分類間の第三の期間として挿入されました。MSAの技術は、ESAの握斧や他の大型石核石器、およびLSAの細石器が欠けているなど、ESAでもLSAでもありませんでした。そうではないものについて部分的に定義され、MSAをより積極的に特徴づける試みには、刻面や収束剥片の出現、および、これらの剥片で作られたさまざまなより小さい大きさの種類の石器(とくに単面および両面尖頭器)を伴う、剥片に基づくインダストリーなどの特性が含まれていました。
現在、MSAの特徴は、ルヴァロワ技法など、調整石核からの予め決めた大きさと形を伴うさまざまな原形の制作で構成されます。高水準の分類単位とその多くの問題に関するもっと継続的で永続的な批判があり、現在ほとんどの先史時代研究者は、上述の石器定義と緩やかに関連する、中期更新世後期および後期更新世の遺物群を記載するため、MSAを時間的な段階の記述的省略表現として用いています。
MSAの分類と評価は、後期更新世の前後のMSA間の一般的な違いによりさらに混乱します。大まかに言えば、最終間氷期の後に、上述のように貝殻製ビーズや装飾されたOESのような非石器要素とともに、MSAの基盤はさまざまな道具の種類と石器製作の手法の出現によって、より豊かになり、より多様化しました。しかし、上述の実証的証拠の再調査により、MSAを2つの異なる段階に単純に区別することも、変化の速度、急な地位的差異、累積的文化の驚くべき欠如を伝える停滞のひじょうに長い期間により、間違いと示されます。
Mcbrearty, and Brooks.,2000や他の多くの再調査は、以前にはヨーロッパの旧石器時代においてヒト革命を見ていた状況から現れました。したがって、それらの再調査は当然のことながら、経時的なMSAの考古学的記録内の新たな特徴の出現に焦点を当て、その消滅もしくは全体的な地理的拡大へはさほど焦点を当てず、しばしばアフリカを分析の1単位として扱いましたが、それは首尾一貫した生物地理学的現実ではなく、たとえば、アフリカ北東部はアフリカ南部よりもアラビア半島の方とより多くの共通点がありました。
この全体像は、分析のこの単位を分解し始めると変わりますが、記録のより安定した構成要素にも注目します。たとえば、30万年前頃に初めて出現したMSAの一般的な石器要素が、一見すると変化せずに何千年も継続したことも事実で、これはそうした人工遺物が認知能力の有用な反映ではないことを示唆しているかもしれません。しかし、それは生物学的足場ではなく、文化的足場に基づくその後の発展とともに、大きな認知変化が可能とした基本的水準の発現を示しているかもしれません。
大陸規模でアフリカのさまざまな地域を見ると、MSAの記録は、平凡で普遍なものの異常な長期の存続とともに、重要な技術的および社会的革新の出現と消滅と再発明が分散しているようてす。LSA(もしくは上部旧石器時代)までは、どの時点でも、実質的で長期の持続的な累積的変化はなく、LSAの一部でさえ、寄せ集め的な構造を保持しています(関連記事)。累積的文化の唯一の事例が時空間的に不連続であり、想像できないほどの長期の停滞により特徴づけられるならば、これは「漸進主義的見解」と一致し、行動は真に「現代的」であり得るのでしょうか?
本論文で提示された再調査は、アフリカのMSAにおける技術的変化の時間的パターンが、アフリカ全域でほぼ漸進的な累積もしくはますます増加する集合体(Mcbrearty, and Brooks.,2000)の一つであるよりも複雑であることを示唆します。Mcbrearty, and Brooks.,2000は当初、漸進的過程が各地域で同様に展開する一方向の軌跡を意味する必要はない、という予想を明確に述べましたが、その結果の提示において明示的な空間的手法を採用せず、それはデータのほとんどがその時点で単にまだ発見されていなかったからでした。
2000年以降、とくに非石器物質文化に関して、もっと多くの時間的観点を提供した、光刺激ルミネッセンス(Optically Stimulated Luminescence、略してOSL)や熱ルミネッセンス(Thermoluminescence、略してTL)や電子スピン共鳴法(electron spin resonance、略してESR)やウラン系列法など発見物の時間計測制御の進歩と組み合わされた、新発見を伴うMSA研究の指数関数的増加がありました。結果として、Mcbrearty, and Brooks.,2000と本論文の発見物間の違いはほぼ、考古学的発見物と提示されたデータの多様な方法のより高品質で高解像度の組み合わせに由来するようです。
MSAにおけるより高解像度の文化的進化のパターンを得るためのより有用な分析戦略は、アフリカをさまざまな分析地域に分解し、本論文で行なわれたように、各地域のさまざまな選択された特性の有無の時間的パターンを記録することです。この手法の結果得られるパターンは、多くの革新の有無と時期と持続がしばしば地域間で非同時的であり、それは複雑な寄せ集めとして最適に特徴づけることができる、と示します。文化的変化の複数の経路はアフリカのさまざまな地域で起きますが、現生人類の文化的進化に関する汎アフリカ的軌跡は見つかりませんでした。複雑な物質文化の漸進的もしくは直線的蓄積ではなく、さまざまなアフリカの地域は、時にはアフリカ南部などより小さな地域内でさえ、行動の複雑さを示唆する連続的特性と不連続的特性の混合、および技術の寄せ集めを示します。
これらのデータは、大陸規模で方向性があり単線的な文化的変化のモデルではなく、さまざまな地域において、より高度に文脈化され、時間的に変わりやすく、歴史的に偶発的な軌跡を示唆し、本論文の一方の著者であるマヌエル・ウイル(Manuel Will)は以前に、「文化的進化の複雑な景観」との概念下で検討しました。これらのパターンの根底にある永続的行動は、とくに石器技術と生計で見つけることができますが、非石器物質文化はもっと変わりやすくて断続的な傾向があります。本論文の観察は、アフリカにおけるMSA「一括」としばしばみなされるものは、むしろ特徴と地域的差異と共通の基盤上の単純な累積の欠如である、と述べた先行研究と一致します。代わりに、アフリカの大半を結びつけているものは、MSAの一般的な構成要素であり、それは、顔料の使用、物質の着柄もしくは長距離輸送、後期更新世の開始を伴う複雑な物質文化の出現(およびその後の消滅)の動態における一般的な(非直線的)増加など、MSAの始まりに近い一部の革新の初期の開始です。
現在のデータに基づくと、行動の複雑さの事例により証明されるヒトの認知能力の発現は、確かに多中心的です。アフリカからのこの増え続ける物的証拠を考慮すると、30万~3万年前頃の期間は、複数の地域における、複数の時間的に多様な非直線的軌跡により最適に特徴づけることができます。このモデルの要素は、「革命」の物語だけではなく、初期現生人類の文化的進化の厳密に漸進的で直線的な軌跡のシナリオも却下する最近の理論的発展と適合します。そうした概念は、歴史的偶発性や認知能力や行動の柔軟性や環境状況や経路依存性への焦点とともに、文化的変化の非方向性敵パターンを支持します。
文化的進化の複雑なパターンは、現代的な形態学的特徴の汎アフリカ的拡大を主張する古人類学者により長く行なわれてきた観察により補完されているようです。しかし、アフリカにおける文化的データのパターン化は、新たな革新が累積的に構築され得る漸進的な足場ではなく、非直線的でより寄せ集め的であるようです。たとえば、MSAの大きな文化的革新の持続は殆ど若しくは全くないようで、革新の蓄積が長期にわたって安定的ではないことを示唆します。じっさい、多くの革新は、多様な着柄の改変もしくは貝殻製ビーズの製作など、さまざまな時と場所で再発明されています。アフリカ北部のアテリアンなど文化的隆盛期の期間内でさえ、MIS5における革新の最初の期間の後に、顕著な停滞があります。
上述のパターンは、生物学に由来する適応度景観の概念との類推経由で最良に視覚化できます。複雑で他次元の適応度景観として行動と文化と認知の実績を見ることは、生物学的体系に関するシューアル・ライト(Sewall Wright)の研究に依拠しています。シューアル・ライトの複雑な景観は、いくつかの適応的頂点とさまざまな高さの渓谷を特徴としており、それは局所的な適応度の最大値と最小値に対応します。最近、考古学者は、多様な影響の結果としてのより高度の行動の複雑さについて、さまざまな頂点があるこの概念を採用してきました。この手法は、文化的進化のパターンは、の空間的に感受性が強く、複数の要因に影響を受け、歴史的には人口集団の最初の条件に左右される(経路依存性)、と主張します。
これをアフリカのMSAに適用すると、さまざまな地域の別々の人口集団を、特定の地質学的・社会的・環境的・生物学的・人口統計学的要因により影響を受ける「大陸規模」の適応度景観に追加することは、ひじょうに複雑な空間的局所分布を作り出すでしょう。この局所分布だけに基づくと、同等の物質文化に反映された単一の最適で安定した汎アフリカ的適応は、例外となるはずです。ほとんどの期間において、初期現生人類は、地域により劇的に異なる局所的で最適以下の適応度状態に直面しました。時間の変化は、さまざまな外部もしくは内部の刺激のため、大陸全体で非同時的であることが多くありました。
要因がさまざまな地域で同様に作用したより珍しい期間は、広く同等の解決や文化的変化の類似パターンをもたらしたかもしれません。接続された集団間の情報伝達も、地域内における文化的変化のより均質な兆候をもたらす類似の適応的頂点に達する誘引として、機能するかもしれません。同時にこの状況は、より大きな空間規模での人口集団の下位構造との仮定に基づくと、人口集団もしくは社会的交流網の境界におけるより多くの分岐を生み出します。地域間の軌跡における違いも、慣性効果により増幅され得るもので、その後の決定の経路を制約して形成する、過去の物質的解決の差次的な蓄積が伴います。
上述の文化的進化の複雑なパターン、派生的な形態学的特徴のパターン化をある程度反映しています。MSAの始まりには、これらの解剖学的特徴も10万~4までは寄せ集め的に進化し、その頃に現在の人口集団を定義する特徴の集合が、単一の個体群で見つかり始めます(関連記事)。祖先的な形態学的特徴も、完新世移行期への古典的MSAの持続(関連記事)とよく似て、末期更新世までは存続しています。同時に、形態と認知との間の関係は、直接的な環境の選択圧からの自立性増加とともに進行する現生人類の最初の出現後に分離するようです。
環境媒介の文化的および他の体外の手段がより強調されることは、行動の選択の指数関数的増加と、より頻繁な生態的地位構築で明らかになり、時には環境的変化と文化的変化との間の不一致が、MSAですでに観察されています。この過程は、一見すると際限なく多数のさまざまな社会的・経済的・技術的方法での特定の環境状況への対応能力において最高度に達し、現代のヒトで見られる行動の「超可塑性」と文化的多様性を示します。
「漸進的」が経時的な直線的様式での厳密な蓄積を意味するのならば、これは、その明確な認知能力にも関わらず、MSAの考古学的記録では裏づけられません。代わりに、MSAの基盤上での革新と停滞と喪失の鋸歯状パターンが見られ、これはさまざまな方法とさまざまな時に現れます。アフリカ大陸全域の時空間に投影すると、このパターン化は複雑な景観の寄せ集め的な外観となります(図1)。何がこのパターン化を説明するのでしょうか?
●変化の原因と機序
これまで、現生人類の文化的進化の根底にある行動の変化の動因は、本論文ではほとんどわきに置かれていました。過去20年間に現れたモデルは、潜在的原因として、環境および気候変化(関連記事)、食性要因、遺伝的変異(関連記事)により引き起こされたかもしれない認知の変化、人口動態や意思伝達網や社会的構造の変化を、さまざまに引用してきました。行動の複雑さとの関連を認識しながら過去の世代におけるMSAのパターン化を説明する最も傑出した解釈は通常、より生物学に基づく認知の枠組みと、人口規模および空間分布に基づく人口統計学的見解とに分かれています。以下、変化の原因と機序が具体的に検証されます。
●行動の複雑さとヒトの脳における変化
生物学に基づく認知の枠組みは、複雑な行動の能力を、遺伝性の生物学的変化のある種形態により引き起こされる、現生人類の進化の軌跡に沿って分離後に起きたものとみなします。これは通常、より大きな認知の複雑さを引き起こした、神経変異の観点で組み立てられます。そうしたモデルでは通常、前後の明確な違いを伴う急激な変換があり、ヒトが行動的に「現代的」であると識別される時点を明確に示せます。リチャード・クライン(Richard Klein)によると、アフリカ内での行動的現代性の突然の起源は、現生人類に排他的に、5万~4万年前頃と遅い時点で起きました。それは、脳における神経学的変化(たとえば言語能力)を引き起こした遺伝的変異によりはじくり、それはアフリカにおいてMSA/LSAの移行で見られる行動的革新の反映を促進し、これは次にユーラシアへともたらされます。
このモデルはこの分野内と、とくに分野外で頻繁に引用されていることに見られるように、ひじょうに影響力がありますが、それと関連するさまざまな問題があります。一例として、5万~4万年前頃で提案されている時期までに、現生人類はすでに別々の人口集団に分岐しており、この変異がさまざまな現生人類系統で独立して起きたか、人口集団がアフリカから拡散し、さらにその変異を有する個体群による世界規模の植民の波で拡散したことを意味しますが、その証拠はありません。少なくとも同じくらい重要ですが、そうした痕跡を探した最近の研究では、MIS3に起きたヒトゲノムにおける革命変化の神経学的基盤(関連記事)も遺伝学的基盤(関連記事)もみつかりませんでした。
最後に、本論文で提示されたMSAの考古学的記録に現れた文化的革新のパターンは、このモデルを否定します。MSAの記録は、特定の時点で見える明らかな中断もしくは革命なしに、その当初の頃からすでに始まる一連の革新を示します。代わりに、さまざまな複雑な行動はずっと昔にさかのぼることができ、さまざまな地域および時点で(再)発明されました(たとえば、ビーズ加工や骨器や抽象的記号)。
他の学者は、MSAの始まりと現生人類の表現型の起源で、螻蛄婆の基本的な認知はすでに整っていた、と主張してきました。そうしたシナリオでは、中期更新世後期に現生人類の起源とともに観察される(比較的)大きな脳サイズの増加は、現在通常見られる行動の基盤を築きました。しかし繰り返すと、ヒトの脳と認知における変化の直接的な因果関係だけでは不充分で、それは、30万年前頃の考古学的記録における行動の複雑さにおいて指数関数的増加もしくは「革命」が観察されないからです(少なくとも、後期更新世に見られる水準ではありません)。
この不一致を説明できるかもしれないのは、現生人類の起源に由来する複雑な行動の能力をそうした能力の適用と区別することで、現代的行動が完全に発現するにはその上に他の要素が必要だったかもしれません(後述)。ヒトの脳を行動の複雑さと関連づける他の手法も、検討されてきました。単なる絶対的もしくは相対的な脳の大きさの代わりに、脳の発生や組織化や神経接続の変化がより重要で(関連記事)、これに関して将来の研究の方法かもしれません。しかし、これらの変化のいくつかの追跡は困難で、関連する化石頭蓋の小規模な標本に依拠しており、本論文で見られるパターンと関連づけるのも困難です。
●行動の複雑さとヒトの人口動態
最近現れたモデルでは、ヒトの進化に見られる行動と生物学的な斑状は大なり小なり人口動態と全体的なメタ個体群の規模の結果かもしれない、と示唆されてきました。Mcbrearty, and Brooks.,2000はすでに、MSA/LSAの移行における人口規模と人口密度の影響の可能性を検討し、MSAはアシューリアンよりずっと広範に分布しており、保存の偏りだけでこれを説明できる可能性は低い、という事実を強調しました。一般的な理論的観点からは、人口構造や人口密度や相互接続性を含めた人口統計学的側面だけではなく、文化的伝達の変わりやすい経路も、文化的異形の出現と消滅や、差次的な取り込みと分散など、最近の文化的変化のパターンを説明する重要な変数を構成します。
人口統計学的変数と文化的複雑さとの間の関係に関する数学的モデルは、有益な文化的に継承された技術の蓄積と保持に関する人口規模と社会的相互接続性の増加の正の効果を報告してきました。ニコール・クレアンザ(Nicole Creanza)のより最近のモデルは、単純な数の増加と同じ影響のある、移住もしくは交流による人口集団の相互作用の重要な役割を裏づけます。マット・グローヴ(Matt Grove)も、人口密度は文化伝達に対してより高水準の遊動性と同じ影響を与えた、と示し、両方の要因の考慮が重要な役割を果たしている、と指摘しました。これらの手法は、相互接続性と仲介者の数が文化的な複雑さと変化の制御に重要な役割を果たす、と明らかにした、複雑系理論と類似の着想を共有しています。簡単に言うと、累積的文化が盛行するには、特定の認知能力と適切な社会的環境が必要で、後者は物理的環境や生態系や気候にも影響を与受けます。
これらの見解は最近では、MSAと現生人類の起源に適用されてきました。アダム・パウエル(Adam Powell)は、メタ個体群内でのいわゆる現代的行動の出現をモデル化し、複雑な文化の出現と維持は、安定した文化伝達に必要な人口密度と移住パターンと相互作用の臨界水準の到達に依存している、と主張しました。換言すると、人口統計学的転換点に達した後には、人口密度は充分に高くなり、長期にわたって文化的に伝達される情報の維持に成功し、その期間には革新の蓄積速度は喪失速度を顕著に上回ります。したがって、より低い人口密度とより少ない相互接続性の社会は、最終的に長期の時間規模では革新を失うでしょう。集団規模の縮小はヒトの社会をさらに、社会的崩壊や消滅など重大な危険性に曝してきたかもしれません。
このモデルの刊行以降、MSAの研究数の増加は、観察された文化的変化の変わりやすいパターンとの潜在的動因として、人口統計学的要因を訴えてきました。最も明示的な事例の一つでは、アレックス・マッケイ(Alex Mackay)たちは、MIS5~2のアフリカ南部のMSA石器記録における地域内の類似性と差異のパターンを、変わりやすい人口集団の相互作用と文化的伝達に帰しています。
本論文はこれらの理論的観察と特定のモデルを、MSAで観察された革新の複雑な斑状のパターン化と関連づけることができます。組み合わせると、これらの観察とモデルは、複雑な行動の基本的な認知能力はMSAの始まりまでには備わっていた可能性が高く、人口統計学的変数における変化は、考古学的記録で明らかなように、変わりやすく同時代ではない革新の一部や、さまざまなアフリカの地域にわたるさまざまな特性の保持と喪失(表1)を説明できるかもしれない、と示唆します。
さまざまな社会・技術領域における頻繁で多くの革新は、MSAを通じての現生人類の根底にある創造性と認知能力を論証します。しかし、人口密度が低く、集団間の相互作用の水準低下を伴う顕著な人口構造の時代は、伝達の失敗もしくは集団の局所的消滅に起因する、革新の繰り返しの喪失につながったかもしれません。そうした解釈では、集団間のとてつもない数もしくは接続を通じて達成された有効な文化的人口密度の臨海閾値は、MSA末の後に長期にわたって達成されたようで、それはLSAと上部旧石器時代とより広く完新世で見られる文化的変化のより一貫して指数関数的なパターンを可能とします。
アフリカ大陸全体の水準では、これらの人口統計学的仮説は推測に留まっており、アフリカの一部地域でのみ、関連する考古学的データと厳密な定量的研究により裏づけられています(関連記事)。より大きな時空間的規模でのそうした説明的シナリオの分析的検証は、MSAの実証的記録との直線的関わりにおいて、複数の人口統計学的および非人口統計学的要因を含む、さらなるモデル化を必要するでしょうし、させに適切に更新世における情報交換網と人口規模を再構築するには、新たな手法が必要です。MSAの記録における革新の出現は、作業の専門化の増加した証拠とともに、独立している可能性は低そうです。社会学や経済学の研究は長く、より大きな人口を有する社会が労働のより専門化と分業化を可能として、専門化と分業化は両方とも集団の持つ情報の総体を増やす、と示唆してきました。
これらの考察は、現生人類の生物文化的進化のより広範な全体像にどのように当てはまりますか?一般的に、新たな人口統計学的手法は汎アフリカ的な構造化されたメタ個体群と一致し、このメタ個体群は、「基本的なMSA」など普遍的に共有される特性の連続性を保証し、その局所的で緩やかにのみつながっている繁殖集団(deme、遺伝的つながりのある集団)は、さまざまな場所と時における革新の変わりやすい出現と消滅の状況でした。じっさい、遺伝的および化石の情報とともに、この文化的データは、現生人類の生物学と行動は構造化されたメタ個体群に起源があった、との提案に用いられてきました(関連記事)。
より新しい遺伝的データから合理的に推測できることは、これらの推測を補完します。具体的には、アフリカにおける初期現生人類集団間の分岐は漸進的だったようで、完全な系統樹的な分岐ではなく、数万年あるいは数十万年にさえわたる長期の遺伝子流動が伴いました(関連記事)。この混合の漸進的性質は、少ない移住および全体的に小さいメタ個体群の規模と一致し、革新とその拡大の勢いを弱らせたものの、全ての繁殖集団に共通する要素は持続しました。
そうした人口統計学的モデルも、中部旧石器時代のネアンデルタール人が数や多様性や文化的革新の頻度で現生人類集団よりわずかに遅れていた理由を、純粋に認知的なモデルよりも適切に説明できるかもしれず、文字通りに特性一覧を解釈することの欠陥を示しています。考古学と遺伝学の証拠は、初期現生人類と比較してネアンデルタール人について、より小さな全体的なメタ個体群規模とより高い割合の近親交配を示唆しており(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、氷期状況に続く構造の崩壊が、混合していない形でのネアンデルタール人の消滅に寄与した要因だった可能性が高そうです。
MSAと中部旧石器時代における複雑な行動と物質文化は、成長と累積的発展を維持するための人口集団の臨界密度が必要でした。要するに、アフリカのMSAで見られる空間的不均質性は、さまざまな水準の認知能力にまったく左右されないかもしれませんが、社会的な人口統計学的構造や集団間の接続性や文化的伝達の仮定の変化により大半を説明できるかもしれません。
人口動態がここで見られる文化的進化のパターンの根底にあるならば、何が人口規模と人口密度とつながりの増加を説明するのでしょうか?本論文の範囲を超えますが、人口統計学的変化は、正のフィードバックループを活性化した、さまざまな生態学的もしくは社会的要因から生じるかもしれません。MSAの人々の生態的地位の幅が広がったこと(関連記事)は、新たな生息地への拡大を可能としたかもしれません。より変わりやすい環境と関連して、より多様な食性が食料不足を緩和し、死亡率と絶滅率を低下させ、人口規模を押し上げたかもしれません。集団間の相互接続性を高めた社会的組織化の新たな方法は、原材料の長距離輸送においてMSAの始まりですでに見ることができますが(関連記事)、後期更新世にまでさかのぼるOESのビーズ(関連記事)により示唆される、長期の交流網および/もしくは移住網など、MSAの末に向かって増加した可能性が高そうです。
最後に、考古学的記録における「革命」の目立って明らかな欠如が残され、それは、現生人類の行動には深いアフリカの起源がある、というMcbrearty, and Brooks.,2000の主要な論題を支持します。しかし、より最近のデータも、漸進的出現と安定した一括の観点でこれを見ることは、もはや主張できないことも強調しました。じっさい、「一括」という概念はMcbrearty, and Brooks.,2000に先行し、ヨーロッパの上部旧石器時代の概念化と関連している可能性があります。
代わりに新たな研究が示唆するのは、少ない人口など人口統計学的変数が、現代的な知性、つまり革新やその喪失や再発明の変わりやすい発現の促進に重要な役割を果たした、ということです。結局のところ、多くの「ヒトの革命」は、ヒトの人口規模が、局所的水準での喪失を超越し、文化が真に累積的になることを可能とする臨界量に達するのに充分なほど成長できた時点でのみ、見つけることができます。最近の歴史における文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】の喪失や崩壊でさえ、人類が、認知能力に何の影響も及ばされずに「後退」することがいかに容易に起きるのか、示してきました。
●将来の展望
ヒトの文化的進化に関する理論的視点の発展に多くの進歩があり、最近の学術は一括もしくは現代性の概念から離れて進んでおり、変異性や柔軟性や可塑性の理解に焦点を当てるだけではなく、より広範囲の原因となる潜在的な機序にも関わるようになっています。とはいえ、多くのモデルは依然として、単一の因果関係的説明を追及しており、生物学か環境か認知か人口度歌のいずれかにのみ焦点を当てています。しかし、複数の要因があるかもしれず、その機序は、とくにヒトの行動と文化のような複雑な体系では、つねに階層的で独立しているとは限りません。契機と動因も、さまざまな時空間規模で根本的に異なる方法で(相互)作用するか、アフリカのさまざまな地域において非同時的な方法で連続的に適用さえできるかもしれません(たとえば環境変化)。さらに、ヒトの(進化的)歴史においてひじょうに広く見られる経路依存性と偶発性の原理は、人口集団内の小さな最初の変化でさえ、ヒト社会の複雑さと接続性に起因して、定性的にさまざまで予期せぬ結果をもたらすかもしれない、と予測します。
文化的進化をモデル化した最近の研究では、人口統計学と環境両方の媒介変数を見ることにより、最初のモデルが拡張されました。結果として、そうした研究は、文化的特性の獲得と喪失についての指数関数的で断続的な変化だけではなくより複雑な軌跡も含まれる考古学的パターンを反映した、文化的進化のより現実的なパターンを作成できました。これらの調査結果から、大規模な文化的変化は人口規模や環境変化や確率論的な文化的喪失や人口集団の分化の複雑な相互作用により駆動されたかもしれないものの、道具の発明率を決定する一般的な認知能力にも依存していたかもしれない、と示唆されます。
これらの要因に、生態的地位構築の形態で環境のヒトによる改変が、モデル化の観点から追加できるだけではなく、すでにMSAにさかのぼり、その後に加速している証拠によっても裏づけられます。文化的進化のモデルは、ヒトの食性や解剖学的構造や生物学や社会構造により設定される制約と可能性も考慮すべきで、たとえば、認知や社会や文化での遺伝的構成と神経解剖学における変化の反応です。しかし重要なことに、本論文の観察は、考えられる全ての因果関係の機序が、MSAにおける文化的変化の理解に等しく関連しているわけではない、と示唆します。
環境と直接的な選択圧からヒトの分離と自立性の増加は、現生人類の継続中の文化的進化におけるこれまで以上に重要になりつつある物質文化への依存度の高まりを伴う、人口動態や社会構造や技術に駆動された反応などの要因を示唆します。現生人類における複雑な行動の性質と普及が、ネアンデルタール人の記録で観察されるものとは対照的に、最適に見ることができるのは恐らく、これらの仮定の強化と、人口動態とのフィードバックループの増幅にあります。
本論文で示されたように、人口動態と文化的伝達と多次元の適応度景観の新たな理論的レンズは、複雑な実証的記録とさらに深く及ぶ解釈との間の有用な橋渡しを提供できます。そうした手法は、広大なアフリカ大陸内の、地理的に情報をもたらす視点と、さまざまな人口統計学と行動の軌跡の高い可能性の認識を必要とします。したがって、現生人類の行動の進化に関する新たなモデルは、空間的に明示的で、環境と生物学と人口統計学と物質と社会的な要因を考慮すべきです。これらの要因は相互作用し、いくつかの規模で複雑な因果関係の交流網を形成します。そうした手法は、より広くホモ属の生物文化的進化に関する新たな理論の中心的見解と一致しており、そうした理論では、進化的経路を駆動する、世代間情報伝達の複数の相互作用する経路役割が強調されます。
21世紀のアフリカにおける現生人類の文化的進化の機序と軌跡に関する全体論的視点の提供は、学際的で汎アフリカ的な実証的データと、微妙で注意深く調整された理論的シナリオの、詳細な定量的観察とモデル化の両方を必要とするでしょう。過去が将来の道標ならば、次の20年間の研究は、さらに予期せぬ発見と新たな手法を提供するでしょうし、そうした発見と手法は、現生人類の行動の複雑さの起源に関する現在のモデルの改善に役立ち、ヒトになることの全体像に詳細を加えるでしょう。著者2人はこの精神において、本論文の寄与とMcbrearty, and Brooks.,2000の永続的遺産との関連を見てきました。
参考文献:
Mcbrearty S, and Brooks AS.(2000): The revolution that wasn't: a new interpretation of the origin of modern human behavior. Journal of Human Evolution, 39, 5, 453-563.
http://dx.doi.org/10.1006/jhev.2000.0435
Scerri ML, and Will M.(2023): The revolution that still isn't: The origins of behavioral complexity in Homo sapiens. Journal of Human Evolution, 179, 103358.
https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2023.103358
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