ピクト人のゲノムデータ

 ピクト人のゲノムデータを報告した研究(Morez et al., 2023)が公表されました。本論文は、中世初期スコットランド(300~900年頃)のピクト期と関連する個体群がから配列決定された、2点の高品質の常染色体ゲノムと8点のミトコンドリアゲノムを報告します。本論文は、ピクト人のゲノムとブリテン島に暮らしていた鉄器時代の人々との間の遺伝的類似性を論証し、これは在来起源という現在の考古学的理論を裏づけます。常染色体ゲノムは、ピクト人のゲノムと現在のヨーロッパ人との間で共有されるハプロタイプの検出も可能としました。本論文の結果は、比例してより高程度のハプロタイプ共有、したがってピクト人のゲノムとスコットランド西部やウェールズやアイルランド島北部やノーサンブリアの個体群との間の遺伝的類似性を論証します。

 鉄器時代のスコットランドにおける遺伝的構造も検出され、おそらくは遺伝的浮動と小さな人口規模の組み合わせに駆動されており、それはオークニー諸島の現代人でも検出されます。最後に、ランデン・リンクス(Lundin Links)墓地の7点のmtDNAから、これらの個体は直接的な母系祖先を有してない、と示され、ピクト期における集団間の、人々もしくは少なくとも女性の交流を示唆しているかもしれず、ピクト人は母系社会だった、との以前の見解に異議を唱えます。全体的に本論文の結果から、ハプロタイプと組み合わされた高品質の古代人のゲノムは、過去2000年間の人口構造と移住への新たな洞察の取得に多くの情報をもたらす、と示されます。


●要約

 中世初期スコットランドのピクト人の起源と祖先について、長年の疑問があります。それは部分的には、外来の中世起源との神話、謎めいた象徴と碑文、乏しい文献証拠によるものです。3世紀後半に初めて言及されたピクト人はローマに抵抗し、ブリテン島北部において広大な領域を支配する強力な王国を形成するようになりました。9世紀と10世紀には、ゲール人との言語と文化と自己認識が支配的になり、ピクト王国はスコットランドの中世の王国の前身であるアルバ王国へと変容しました。

 これまで、ピクト人のゲノムの包括的分析が刊行されておらず、ブリテン島に居住している他の文化集団との生物学的関係は未解決になっています。本論文は、5~7世紀のスコットランド中央部および北部で発見されたピクト人2個体の高品質のゲノム(網羅率が2.4倍と16.5倍)を提示し、この2個体は以前に刊行された古代人および現代人8300個体のゲノムで補完され、ともに分析されました。本論文は、アレル(対立遺伝子)頻度とハプロタイプに基づく手法を用いて、ピクト人のゲノムをブリテン島の鉄器時代遺伝子プール内に堅固に位置づけて、地域的な生物学的類似性を論証できました。ピクト人集団内の人口構造の存在も論証され、オークニー諸島のピクト人は本土の同時代人と遺伝的に異なっていました。

 現代人のゲノムで同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)を調べると、本土ピクト人のゲノムとスコットランド西部とウェールズとアイルランド島北部とノーサンブリアに暮らす現代人との間のの広範な類似性が観察されますが、イングランドの他地域やオークニー諸島やスコットランド東部の人々のゲノムとの類似性はより少なく、これらの地域にはピクトランドの政治的中心が位置していました。先ヴァイキング期オークニー諸島のピクト人は、スコットランドとウェールズとアイルランド島北部の現代人と共有される高度なIBDを証明しており、過去2000年間のオークニー諸島におけるかなりの遺伝的連続性が論証されます。ランデン・リンクス(Lundin Links)のピクト人墓地(7個体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)多様性の分析は、直接的な共通の女性祖先の欠如を明らかにしており、より広範な社会組織影響があります。全体的に、本論文はピクト人の遺伝的類似性および人口構造と、イギリスの古代と現在の集団間の直接的関係への新たな洞察を提供します。


●研究史

 イギリスの現在の人口集団の遺伝的起源は広範に研究されてきており、ヨーロッパ西部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を反映する、3つの深い遺伝的祖先系統の混合として広くモデル化できます。それは、ヨーロッパ西部中石器時代狩猟採集民祖先系統、アナトリア半島新石器時代農耕民に由来する初期ヨーロッパ農耕民祖先系統、後期新石器時代草原地帯関連祖先系統です(関連記事)。

 ブリテンおよびアイルランド諸島(ブリテン島とアイルランド島と関連するより小さな島々を指します)におけるより最近の人口統計学的変化の理解も、古代人のゲノムの大規模な配列決定により拡張されてきており、中期青銅器時代におけるヨーロッパ本土からブリテン島南部への広範な遺伝子流動が明らかになり、この遺伝子流動はブリテン島の南北の鉄器時代集団間の遺伝的分化をもたらしました(関連記事)。

 ウェールズとコーンウォールとデボンとアイルランド島西部における現在の遺伝的多様性は、おそらく鉄器時代にすでに存在していた長期の遺伝的構造を示唆しますが、とくにスコットランドの古代人標本の欠如は、この仮説の直接的検証の能力を制約し、より古い祖先系統の「孤立地帯」が長期にわたって孤立した人口集団において地域的に残存したかもしれません(関連記事)。

 ブリテンおよびアイルランド諸島では、鉄器時代から中世初期にかけて複雑な文化的転換がありました。ローマは43~410年にかけてスコットランド南部までブリテン島の一部を占領しましたが、ローマ期のブリテン島の単一の古代DNA研究は、この占領がヨーロッパ辺土からのほとんど検出できない遺伝子流動をもたらした、と示唆します(関連記事)。

 ユーラシア西部と中央部にわたる長距離移住の複数事象(関連記事1および関連記事2および関連記事3)が西ローマ帝国崩壊前後の古代末期(関連記事)に激化しました。ブリテン島では、スカンジナビア半島とネーデルラントとドイツの一部に起源のある可能性が高い、アングル人とサクソン人とドイツ語話者が、ブリテン島の南部~東部と中央部におもに定住し、鉄器時代からの遺伝的祖先系統を有する在来の人口集団との広範な混合の遺伝学的証拠があります(関連記事)。

 800年頃に始まるいわゆる「ヴァイキング時代」には、スカンジナビア半島人がイングランド北部および東部の「デーンロウ(Danelaw)」や、アイルランド島の沿岸部地域やブリテン島西部に定住し、4世紀近くにわたってアイルランド島とブリテン島西部および北部の住民との混合につながりました(関連記事)。さらに、局所的で文化的に異なる集団が、主要なアングロ・サクソンの定住の前となるローマ期末の頃にブリテン島に居住していました。

 ウェールズ語祖語やラテン語を話すブリトン人はフォース湾の南の島に居住し、ダルリアタ(Dál Riata)王国のゲール人はスコットランドのアーガイル(Argyll)とヘブリディーズ(Hebrides)諸島南部を占拠し、ピクト人はフォース湾の北側のブリテン島の他地域に暮らしていました。これらの集団間および集団内の遺伝的多様性は、よく分かっていません。とくに、スコットランドのゲノムの欠如は、遺伝的構造が鉄器時代と中世初期との間にどのように変わったのか、理解する能力を制約します。

 ブリテン島の千年紀に存在した人々では、ピクト人(300~900年頃)は最も謎めいた集団の一つです。その独特な文化的特徴(ピクト人の表象など)と直接的な文字の乏しさは、ピクト人の起源と生活様式と文化といわゆる「ピクト人の表象」に関する多くのさまざまな仮説をもたらしました。王の一覧と解読困難なオガム文字(ogham)およびアルファベットの碑文以外には、文献証拠はその隣人であるローマ人とその後のゲール人やブリトン人やアングロ・サクソン人にのみ由来します。この不足は、この期間の少ない集落とさらに少ない墓地という疎らな考古学的記録によりさらに悪化します。

 現代では、ピクト人の起源に関する認識は、文化的および政治的偏見によりさまざまで、ピクト人とその言語をドイツやゲールやブリトンやバスクやイリュリアとみなします。1950年代には、ピクト人は非インド・ヨーロッパ語族言語と古代ガリア語と似たケルト語を話していた、とのジャクソン(Kenneth Hurlstone Jackson)の主張が影響を及ぼしました。現在の合意は、ピクト人が、コーンウォール語とウェールズ語とブルトン語が派生した近隣のブリトン人の言語に最も近いケルト語を話していた、というものです。

 しかし依然として、未解読の碑文と他の単語から、一部のピクト人は未知の言語を話しており、恐らくそれはケルト人の前の人口集団に由来する、との主張もあります。この理論は、ブリテン島南部における後期青銅器時代の移住がケルト語もしくはケルト語関連の言語をこの地域にもたらしたかもしれない、と主張する最近の調査結果により支持されていますが、これらの移住はブリテン島北部にはそれほど影響を及ぼさなかったようです(関連記事)。したがって、ピクト人がともかくその隣人と根本的に異なっていたのかどうか、という問題が残っています。

 中世には、ピクト人はトラキア(エーゲ海の北方)やスキタイ(ヨーロッパ東部)やブリテン島の北側の島々からの移民とみなされていました。しかし、アイルランド島の記述とノーサンブリアの学者であるベーダ(Bede)は、ブリテン島での定住の前に、ピクト人はまず、その継承が女系を通じているという状況で、アイルランド島で妻を得た、と付け加えました。これは、ピクト人が母系形態を実践しており、その継承とおそらくは相続が直接的に男系を通じてではなく、姉妹の息子に行なわれた、という理論の起源です。

 しかし、この慣行の最初の出所である731年に書き終わったベーダの「イングランド人の教会史」は、そうした慣行は継承が争われている場合に限られていた、と述べています。今では起源伝説はピクト人の自己認識を強化し、王座が母親を通じている、と主張していた特定の王を正当化する意図だった、と主張されています。それにも関わらず、8世紀半ば以前に、少なくともピクト人の1王朝において、父親から息子への継承がなかったことへのあり得る説明の一つとして、母系は残っています。

 本論文は、ピクトランド南部のファイフ(Fife)にあるランデン・リンクス(Lundin Links)と、ピクトランド北部のイースター・ロス(Easter Ross)にあるバリントア(Balintore)という、ピクト期の2ヶ所の墓地で発掘された個体群から配列決定された古代人2個体の全ゲノム(網羅率は2.4倍と16.5倍)の分析を通じて、ピクト人の遺伝的多様性への新たな洞察の提供を目的とします。本論文は、鉄器時代とローマ期と中世初期のイングランドの個体群(関連記事)を含めて中間から高い網羅率の刊行された古代人ゲノムとともに、二倍体の遺伝子型を補完し、これらを以前に補完された鉄器時代後期(ピクト期)とヴァイキング期のオークニー諸島の古代人のゲノム(関連記事)とともに分析しました。

 本論文は、アレル(対立遺伝子)頻度とハプロタイプに基づく手法を用いて、ピクト人とその近隣の現代および古代の人口集団との間の遺伝的関係の決定を目的とします。さらに本論文は、ランデン・リンクス墓地の7個体のミトコンドリアゲノムを用いて、あり得る結婚後の居住慣行、つまり母方居住(女性族内婚)に起因する女性の移動性の違いが、この高位の被葬者だったかもしれない墓地における遺伝的多様性をどのように形成した可能性があるのか調べ、ピクト人のエリートの相続制度の理解の意味を論じます。


●標本

 ピクトランドの北方と南方をそれぞれ表す、イースター・ロスのバリントア墓地から1個体、ファイフのランデン・リンクス墓地から7個体のDNAが回収されました(図1)。バリントア墓地の1個体(BAL003)とランデン・リンクス墓地の1個体(LUN004)からは、それぞれ16.5倍と2.4倍の網羅率で配列決定されました(表1)。ランデン・リンクス墓地の7個体からは、その後の分析に充分な網羅率のミトコンドリアDNA(mtDNA)が配列決定されました(表1)。ランデン・リンクス墓地の10個体とバリントア墓地の3個体の年代は、放射性炭素年代測定では5~7世紀でした。これらの個体の生存期間はピクト期で、700年頃にはピクト人の領域だった可能性が高い地域にあるので、本論文ではこれらの個体はピクト人と呼ばれます。性別決定は遺伝学と形態学で一致します。以下は本論文の図1です。
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●片親性遺伝標識の分析

 標本群で観察されたmtDNAハプログループ(mtHg)はヨーロッパ北部~西部の現代人において一般的で、8個体のうち3個体で下位クレード(単系統群)J1c3が確認されました。父系となるY染色体の観点では、LUN004がY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1b1a1a2c1a1a(DF49)に分類されました。YHg-R1b1a1b1a1a2c1a1a(DF49)はおもにイギリスとアイルランドに分布しており、草原地帯関連祖先系統とともに、銅器時代に鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化の人々によりブリテン島にもたらされた、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312/S116)の下位クレードです。銅器時代には、YHg-R1bの派生的なハプログループがブリテン島新石器時代で優勢だったYHg-I2aをほぼ置換し(関連記事)、例外はYHg-I2aが青銅器時代まで存続したオークニー諸島です(関連記事)。YHg-R1bの下位クレードは鉄器時代以降、ブリテン島とヨーロッパ西部においてひじょうに一般的です。


●ブリテン島古代人におけるアレル頻度に基づくゲノムの類似性

 ピクトランドの個体群の人口集団の類似性を調べるため、現代ヨーロッパ人と新たに補完されたゲノムと先行研究(関連記事)で補完された古代人のゲノムで構成されるデータセットで、主成分分析(principal component analysi、略してPCA)とADMIXTURE分析が実行されました。PCAでは、ブリテン島の古代の個体群は4人の祖父母がブリテン島に暮らしていた現代の個体群と大まかに一致する、と示されます(図2A)。しかし、BAL003とLUN004は現代ウェールズ人クラスタ(まとまり)内に収まるものの、BAL003は現在のスコットランド人とオークニー諸島人とイングランド人とアイルランド島北部人のクラスタと顕著により近く、ピクトランドの個体ではある程度の遺伝的分化が示唆されることに要注意です。以下は本論文の図2です。
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 イングランドの鉄器時代とローマ期の個体群は、現代のイングランド人とアイルランド島北部人とスコットランド人とウェールズ人のクラスタに広がっています。鉄器時代とヴァイキング期のオークニー諸島の古代人4個体は、現在のウェールズとアイルランド島北部とスコットランドの人口集団と一致します。しかし、ヴァイキング期のオークニー諸島人(VK204とVK205)は、ブリテン人とスカンジナビア半島人との中間で、これらの個体におけるブリテン島的祖先系統とスカンジナビア半島的祖先系統との間の混合の証拠を見つけた以前の結果(関連記事)と一致します。イングランドの中世初期個体群は、現代のイングランド人とスカンジナビア半島人の中間で、これはイングランドの鉄器時代集団とヨーロッパ北部/中央部の移民との間のさまざまな程度の混合(関連記事)と一致します。これらの結果は、BAL003とLUN004のゲノムの疑似半数体分析と一致し、ヨーロッパ西部現代人との広範な類似性を示しますが、解像度がずっと改善されました。


●ハプロタイプから推測される中世初期ブリテン島における遺伝的構造

 ハプロタイプに基づく手法は、人口集団の下部構造の検出において、伝統的な関連していない一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)手法より性能が優れている、と示されてきました。ハプロタイプ情報により提供される追加の能力を使用するため、補完された二倍体データセットでFineSTRUCTUREクラスタ化分析と同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)分析が実行されました。

 本論文の分析から、ランデン・リンクス墓地とバリントア墓地の個体のゲノムは、イングランドの鉄器時代とローマ期、およびオークニー諸島の後期鉄器時代からヴァイキング期の個体群のゲノムとともに遺伝的クラスタを形成する、と示されます。このうち例外は、イングランドの鉄器時代とローマ期の個体群では6DT3個体で、IBD分析に基づくとヨーロッパ西部/中央部もしくはスカンジナビア半島の個体群との強い遺伝的類似性を代わりに示し、オークニー諸島の後期鉄器時代からヴァイキング期の個体群ではVK204とVK205で、かなりのスカンジナビア半島的祖先系統を有していました(図3)。このクラスタには、ブリテン島とアイスランドとスカンジナビア半島のヴァイキング期の個体群も含まれています。後者はスカンジナビア半島で埋葬された個体群に相当しますが、その両親はブリテン島的遺伝子プールに由来し、先行研究(関連記事)の結果と一致します。以下は本論文の図3です。
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 外群f3統計に基づくと、鉄器時代から中世のオークニー諸島とスコットランドとイングランドの個体群は、相互に対称的に関連しています。しかし、LUN004ではなくBAL003は、イングランドの中世初期個体群との4 cM(センチモルガン)超のIBD共有の複数事例を示し、これはPCAでの相対的位置にも反映されており、かなりの共有された祖先系統と、それらの標本と遺伝的に類似した供給源からの恐らくは最近の遺伝子流動が示唆されます。したがって、ピクトランドの個体は均質な遺伝的集団ではなく、代わりに同時代の遺伝的祖先系統の複雑な混合とみなされるべきである、と示唆されます。

 ADMIXTURE分析で実装された、関連づけられていない手法も、PCAの結果(図2A)と一致する僅かではあるものの検出可能な遺伝的構造を明らかにしますが、FineSTRUCTURE分析では証明されません。祖先系統構成要素の割合が、BAL003とLUN004とイングランドの鉄器時代およびローマ期個体群では類似していますが、とオークニー諸島の後期鉄器時代および混合していないヴァイキング期個体群はこの集団とは区別されます(図2B)。これらの個体群は、スカンジナビア半島からの移民によりまずもたらされた可能性が高い、灰色と緑色の祖先系統構成要素の欠如を示します。それは、こうした構成要素がまずVK204とVK205で観察され、次にオークニー諸島現代人で観察されるからです。これらの構成要素は、ノルウェーとデンマークの現代人にも高い割合であります。

 スカンジナビア半島的混合のないオークニー諸島の鉄器時代とヴァイキング期の個体群は、BAL003とLUN004よりも、オークニー諸島現代人と多くの遺伝的浮動を共有しており、補完に起因するアレル頻度の偏りを割けるため、古代の疑似半数体でこれは計算されました。この結果は、過去2000年間のオークニー諸島における共有された遺伝的浮動の相対的に高い割合を確証し、本論文のADMIXTURE図の解釈を裏づけます。それにも関わらず、LUN004と後期鉄器時代もしくはヴァイキング期のオークニー諸島人との間で共有されるIBD(1 cM超と4 cM超と6 cM超)の多い相対的な数から、オークニー諸島とスコットランドもしくはLUN004にも祖先系統をもたらしたスコットランド外の供給源との間の遺伝子流動が起きた可能性は高い、と論証されます。

 鉄器時代のオークニー諸島人とヴァイキング期の混合していないオークニー諸島人も赤色の祖先系統構成要素を最高度で示しており(図2B)、この赤色構成要素はこの研究に含まれている人口集団からの直接的な遺伝子流動に由来することとは一致せず、代わりに、オークニー諸島におけるさほど多様ではない鉄器時代前の祖先系統、および/もしくはボトルネック(瓶首効果)や創始者効果など強い遺伝的浮動を反映している可能性が高そうです。

 じっさい、最近の研究(関連記事)では、オークニー諸島の青銅器時代人口集団はブリテン島本土の同時代人とは異なっており、それは小さな祖先の人口規模の結果としての強い遺伝的浮動のためで、これは短い同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)の相対的に多い数の観察から推測された、と示されています。その最近の研究によると、青銅器時代オークニー諸島人口集団は、新石器時代祖先系統と関連するYHg-I2も保持していましたが、鐘状ビーカー文化の拡大と関連するYHg-R1bが、ブリテン諸島の他地域ではYHg-I2をほぼ置換しました。

 さらに、オークニー諸島現代人はブリテン諸島の他地域とはスカンジナビア半島人との広範な混合のため異なっていますが、最近のゲノム研究では、遺伝的浮動も重要な役割を果たした、と示されています(関連記事)。これは、オークニー諸島現代人における共有されたIBD断片(1~6 cM)の高い割合を示す本論文の結果と一致しており、オークニー諸島現代人がほとんどのヨーロッパの現代の人口集団と比較して、小規模か遺伝的に孤立していた人口集団に典型的である、最近の共通の遺伝的祖先を高い割合で有してるいことを意味します。

 後期鉄器時代とヴァイキング期のオークニー諸島の古代人3個体も、小さな人口集団の子孫である個体群に典型的な、1.5cM未満となる小さな同型接合性(Homozygosity-By-Descent、略してHBD)の最大数を示しました。オークニー諸島古代人の1個体(VK201)は、全ての古代の個体群で観察された最長となり、小さな人口規模もしくは近親婚を示唆する、長いHBD断片(9.5cM超)を証明しました。全体的に、これらのデータは知陽気な小さな人口規模を示唆しており、それはオークニー諸島現代人で観察される広範な遺伝的浮動に寄与した可能性が高そうです。したがって、後期鉄器時代と中世初期におけるオークニー諸島とスコットランドの人口集団間の遺伝的分化は、遺伝的浮動のさまざまな程度により部分的に説明できるかもしれません。


●ブリテン島全体の遺伝的連続性の分析

 ピクト人のデータにより、ブリテン島全体の鉄器時代/中世初期の横断区の入手と、その期間の人々のゲノムと現代人のゲノムとの間でのハプロタイプ共有のパターンの調査が可能になります。イングランドとスコットランドの鉄器時代とローマ期の個体群(例外は個体6DT3)は、オークニー諸島を含むスコットランドとアイルランド島北部とウェールズの現代人の方と、本論文の分析に服負ける他のヨーロッパのどの人口集団とよりも、1cM超のIBD断片を多く共有しており(数と長さ両方の観点で)、PCA分析(図2A)で観察された構造と一致します。I0777個体を除いて全ての中世初期個体が現代デンマーク人の方と、他の現在の人口集団とよりも多くのIBDを共有していることも示され(図3)、現代のデンマーク人とこれらの個体の祖先との間の遺伝的連続性が示唆されます。

 本論文の分析は、イングランドの中世初期個体群とブリテン島全体の現代人との間の、南東と北西の勾配に沿った、高いIBD共有も明らかにしました(図4)。このパターンから、アングロ・サクソン人の移住と関連する大陸部ヨーロッパ北部祖先系統は、イングランド南部および東部から拡大し、その後で在来人口集団との混合が続いた、と示唆され、これは先行研究(関連記事)と一致するシナリオです。BAL003とLUN004は、後期鉄器時代のオークニー諸島およびイングランドの個体群と同様に、スコットランド西部とウェールズとアイルランド島北部の現代人と高い割合のIBD断片を共有しています(図4)。

 しかし、これらの個体とは異なり、LUN004と、それよりも程度は小さいもののBAL003は、現在のスコットランド東部の人口集団標本とのIBD断片の共有がより少なくなっています(図4)。先行研究(関連記事)は以前に、スコットランドの東西間の遺伝的構造は、西部のゲール語話者のダルリアタ王国の人々と東部のピクト人との間の分離の結果かもしれない、と示唆しましたが、これは本論文で提示された結果と表面的には矛盾しています。代わりに、スコットランドにおける現在の遺伝的構造は、単一のモデルにまとめることができないより複雑な人口統計学的過程に起因するかもしれません。以下は本論文の図4です。
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 鉄器時代および中世初期と現在のスコットランドの人口集団間でのIBD共有の観察されたパターンを説明できるかもしれない、二つの排他的ではない過程を本論文は提案します。一方は、鉄器時代のオークニー諸島およびイングランド的な祖先系統を(恐らくは独立して)もたらした移民からのかなりの混合で、これは部分的にスコットランド東部の中世初期の遺伝子プールを置換しました。じっさい、その後の数世紀(1100~1300年頃)に、スコットランド東部は、フォース湾やフランスやネーデルラントからかなりの移民を受け入れました。このシナリオでは、BAL003とLUN004はピクト期のスコットランドに存在したより広範な祖先系統の適切な代表です。

 あるいは、BAL003とLUN004は、自身(もしくはそり直接的祖先)がスコットランド西部とウェールズとアイルランド島北部から移住したものの、スコットランド東部においては在来集団との混合を経てその後の世代には実質的に寄与しなかったので、そうした地域の現代人とより多くのIBD断片を共有しています。このシナリオは、スコットランド中世初期の男女両方の東西の生涯の移動に関する新たな全体像と一致します。そうしたモデルでは、じっさいに依然として発見されていない東部ピクト期祖先系統の「孤立地帯」があり、そうした祖先系統はBAL003とLUN004の有していた祖先系統とは異なっており、スコットランド東部の現在の人口集団に顕著に寄与したかもしれません。これらの個体の歯の酸素およびストロンチウム同位体分析は、これをさらに特徴づける、と期待されます。重要なことに、偶然性が、そうした小さな標本規模におけるIBD共有のパターンに影響を及ぼした可能性が高いことも強調されます。じっさい、IBD共有における高度のバラツキは、中世初期の個体群と鉄器時代集団で、またそれより程度は劣るものの、BAL003とLUN004で観察されています。

 本論文の結果は、鉄器時代とヴァイキング期と現在のオークニー諸島人の間のかなりのIBD共有も示しており、この地域の経時的な強い遺伝的連続性のアレル頻度に基づく手法を用いての観察を裏づけます。したがって、オークニー諸島とブリテン島との間の顕著な遺伝的分化は、スカンジナビア半島人との混合だけではなく、以前に仮定されたように(関連記事)、少なくとも2000年間にわたって持続した顕著な遺伝的連続性の結果でもあります。BAL003とLUN004とオークニー諸島現代人との間の相対的に低いIBD共有は、オークニー諸島におけるピクト文化の出現が、人口置換と関連していなかったものの、文化の拡散とつながりに主に起因していたことを示唆します。

 イングランド南部および東部の鉄器時代個体群におけるIBD断片は、イングランド北部のより最近のローマ期のブリテン島個体群と比較して、ブリテン島西部および北部に広がっていますが、イングランド北部のより最近のローマ期のブリテン島個体群はブリテン諸島の現代人と実質的なIBDを共有していません(図4)。唯一の例外は個体6DT3で、この個体は、スカンジナビア半島およびヨーロッパ北部的祖先系統を有する、中世初期の2個体(I0159とI0773)と同じ遺伝的人口集団に由来します。個体6DT3は、スカンジナビア半島とベルギーとイギリスの現在の人口集団と、相対的により多くの1 cM超のIBD断片を共有しており(図3)、スカンジナビア半島的祖先系統は中世初期の前にブリテン諸島に広がっていたかもしれない、と示唆されます。

 これらの結果は、IBD断片の検出における欠点の存在のため、注意深く解釈されねばなりません。第一に、偽陽性率(IBD断片に間違って帰属させられたゲノム領域)が、とくに小さなIBD断片で高い、と以前に論証されました。それらは通常、より短いIBD断片の連鎖から間違ってより長いIBD断片へと作成されます。偽陽性率は2cM以下のIBD断片では約10~40%ですが、断片の長さとともに減少し、5cM以下のIBD断片では0%に近くなります。いくつかの要因がこの割合に影響を及ぼすかもしれず、主要なものはデータの品質と人口史です。偽陽性の検出は、遺伝的標識の密度と情報性により異なります。たとえば、多くの稀なアレルを含むゲノムの断片は、IBDとしてより識別しやすくなります。低いSNP密度の領域は、より高い偽陽性率と関連しているでしょう。先行研究も、2cM未満のIBD断片について、人口集団間の偽陽性率の顕著な差異を検出しており、スペインとポルトガルとイタリアは、他のヨーロッパの人口集団よりも有意に高い偽陽性率を示します。先行研究で可能性が高いとされた説明は、IBD検出の演算法がハプロタイプ頻度に基づいているので、偽陽性率は他の標本とより分化している人口集団では増加するはずだ、というものです。この事例では、それらは自身の人口集団内および他のヨーロッパの人口集団との両方で、最小の共通の遺伝的祖先を共有している人口集団です。

 第二の欠点は、fastIBDを用いた先行研究で論証されたように、2cM未満の真の小さなIBDを研修する能力が低いことです。先行研究では、2cM未満のIBD断片の検出能力が50%未満と推定されています。しかし、この研究では、真の1~2cMの断片の検出により強力と示されており、1cMのIBD断片では、fastIBD でのわずか20%に対して40%の検出力に達するRefinedIBDが用いられました。ハプロタイプを壊すかもしれないあり得る一つの理由は遺伝子型決定の誤りですが、本論文はこの問題を克服するため、最大で1つの一致しない0.6cM未満離れている同型接合体を有する断片を統合しました。他には、古代の標本とHapMapデータセットにおける組換え率の違いのより高い可能性や、構造変異の存在などが、IBD検出に影響を及ぼすかもしれません。


●社会組織

 ランデン・リンクス墓地で7点のmtDNAゲノムが回収され、この遺跡に埋葬された個体群に反映されているピクト人の社会組織についての問題に取り組めるようになりました。墓地の使用は比較的短く、約130年間だった可能性が高そうで、発掘された個体は成人でした。mtDNA系統の多様性は高く、直接の母系祖先を共有している個体はいませんでした。角のあるケルン(石塚)から回収された個体群が、ひじょうに遺伝性の骨格の特徴(先天的に欠落した歯、下顎隆起、上腕骨の中隔開口部)の存在に基づいて、家族関係の証拠を示していることは、注目に値します。しかし、mtDNAの得られた2個体(LUN001とLUN009)は母系では関係していません。

 母方の家系に典型的な母方居住制では、少ない女性の結婚後の移住と、多い男性の結婚後の移住が、女性のmtDNAの多様性を減少させます。この結果は、ランデン・リンクス墓地に埋葬された個体群が母方居住を行なっていた可能性は低い、と示唆しています。これは、この墓地がランデン・リンクスに近い共同体の寸描であり、埋葬された個体群が結婚共同体に暮らしていた後に、埋葬のために出生地に戻らなかった、と仮定しています。ストロンチウムや酸素や他の同位体の手法を用いて、ランデン・リンクス墓地個体群の移動史に焦点を当てる進行中の同位体分析は、性別特有の移動性をさらに特徴づけるかもしれません。追加のY染色体分析も、ピクト人社会では父方居住と新居制のどちらがより一般的だったのか、確認するのに役立つでしょう。

 母方居住社会の70%は、母系制度と関連しています。葬儀の扱いが生前の社会組織について語ることができる限り、ランデン・リンクス墓地の共同体が母系継承制を採用していた可能性は低そうです。この解釈は、ピクト人の支配者における母系継承との以前の主張に異議を唱えます。しかし、ランデン・リンクス墓地に埋葬された一部の個体は、社会的地位が高かったかもしれないものの、こうした記念碑に埋葬された人々とピクト人の最上層エリートとの間の関係は不明です。この墓地は高いミトコンドリアの多様性に反映されている、幅広い文化的慣行を証明しており、社会のこの水準におけるピクト人の社会的構造内の比較的高水準の移動性を示唆します。被葬者は、円形および四角の石塚や長い棺で構成される、複雑で独立した墓にまとめられています。

 この複雑さから、社会的慣行が人口集団の遺伝的構造に影響を及ぼすように、遺跡の社会的地位は同様に、人口構造の理解を偏らせるかもしれない、と示唆されます。この場合、標本は全体的なピクト人集団の小さな割合の代表かもしれません。調和していない親族制度(つまり、父方居住社会と、母方居住もしくは母系社会)も、さまざまな形でゲノムに影響を及ぼすかもしれません。親族関係およびmtDNAに基づく調査結果を補強する広範な標本規模と有用な遺伝標識(Y染色体)の欠如は、ピクト人の家系パターンを解明する障害となっています。


●まとめ

 本論文は、ブリテン諸島の古代と現代の人口集団間の遺伝的類似性への新たな洞察を提供し、これは微細規模の進化を直接的に観察する稀な機会です。ピクト期のスコットランドに埋葬された2個体、つまりバリントア墓地のBAL003とランデン・リンクス墓地のLUN004の高品質のゲノムは、ブリテン島の鉄器時代人口集団との密接な遺伝的類似性を明らかにしますが、標本間のいくらかの遺伝的差異の証拠があります。全体的に本論文のデータは、後期鉄器時代と中世初期との間の地域的な連続性を主張する現在の考古学的合意を支持しますが、移住と生涯の移動性および混合の複雑なパターンを伴う可能性が高そうです。

 BAL003とLUN004がオークニー諸島の先ヴァイキング期のピクト人と遺伝的に異なっていることも示され、ピクト人の文化はスコットランドからオークニー諸島へと、直接的な人口移動もしくはスコットランドとオークニー諸島との間の結婚ではなく、主に文化拡散により広がった、と示唆されます。オークニー諸島における鉄器時代と現在の人々の間での強い連続性が検出されましたが、スコットランド東部では中世初期と現代の人々の間で顕著な類似性はさほどありません。これらの関係をさらに解明するには、補完的な手法(たとえば、同位体分析)を用いての生涯の移動性の分析と組み合わせた、イギリスにおける鉄器時代と中世初期のより多くの古代人のゲノムが必要です。

 より局所的な水準では、ランデン・リンクス墓地に埋葬された個体群のmtDNA分析は、おそらく母方居住と矛盾します。この調査結果は、ピクト人の社会がランデン・リンクス墓地の埋葬のように組織されていた、と仮定すると、ピクト人の継承は母系制度に基づいていた、という以前の仮説に異議を唱えます。


参考文献:
Morez A, Britton K, Noble G, Günther T, Götherström A, Rodríguez-Varela R, et al. (2023) Imputed genomes and haplotype-based analyses of the Picts of early medieval Scotland reveal fine-scale relatedness between Iron Age, early medieval and the modern people of the UK. PLoS Genet 19(4): e1010360.
https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1010360

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