ヨーロッパへの初期現生人類の3回の主要な拡散

 石器技術の比較から更新世における現生人類(Homo sapiens)のレヴァントからヨーロッパへの3回の主要な拡散を推測した研究(Slimak., 2023)が公表されました。ヨーロッパにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の絶滅と現生人類の拡散には高い関心が寄せられており、長きにわたる議論があります(関連記事)。2010年代には、現生人類が45000年前頃にヨーロッパへと拡散し、ネアンデルタール人は現生人類と2600~5400年間ほど共存した後で絶滅した、との見解が有力になりましたが、近年の諸研究からは、そうした見解は単純化されており、もっと複雑な経緯をたどった、と示唆されます(関連記事)。本論文は、現生人類のヨーロッパへの拡散と、ネアンデルタール人との関係が複雑だったことを具体的に石器技術の比較から指摘しており、たいへん注目されます。以下、敬称は省略します。


●要約

 ネロニアン(Neronian、ネロン文化)は、フランス地中海地域のローヌ渓谷中部で認識されている石器伝統で、今では現生人類と直接的に関連づけられており、その年代は確実に54000年前頃で、ヨーロッパにおける現生人類の到来を約1万年さかのぼらせます。ネアンデルタール人の領域への現生人類の侵入、およびネロニアンとレヴァントの初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)との間に起きた関係は、ユーラシア西部における最初の現生人類の移住と最初の上部旧石器の性質を定義する概念の妥当性に疑問を呈します。

 マンドリン洞窟(Grotte Mandrin)と地中海東部、とくにクサール・アキル(Ksar Akil、Ksâr ‘Akil)遺跡の考古学的層序の石器技術間の直接的な比較分析から、最初のレヴァントの上部旧石器時代の主要な3段階が、ヨーロッパ西部においてひじょうに正確に技術的および年代的に対応しており、それはローヌ渓谷からフランコ・カンタブリア地域までで認識される、と示唆されます。これら地中海を越えた技術的つながりは、55000~42000年前頃のヨーロッパへの現生人類拡大の3つの異なる波を示唆します。これらの要素は、地中海東部地域とヨーロッパにおける並行した考古学的変化をたどる、ヨーロッパにおける上部旧石器時代の最初の瞬間の起源と構造と発展についての独創的な論題を裏づけます。


●研究史

 フランスのマンドリン洞窟の54000年前頃(95.4%の確率で較正年代では56800~51700年前頃)のネロニアンインダストリーが、最近になって現生人類の所産とされ(関連記事)、これはヨーロッパにおける現生人類の到来が1万年ほどさかのぼる、と示唆するだけではなく、初めて、ネアンデルタール人と現生人類の人口集団間の相互作用の具体的証拠が特定の地域で論証されました。5つの層序が、世界で現在認識されている現生人類と古代型人類との間の相互作用の唯一の事例と、これら2人口集団間の厳密な同時代性を記録する、ムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)の人工遺物とネアンデルタール人の歯を明らかにした、ネロニアンの上に位置します。

 マンドリン洞窟では、先行するネアンデルタール人の居住と現生人類の到来が最大で1年隔てられており、これら2人口集団間のあり得た相互作用の性質に近づくことを可能にします。しかし、最初の上部旧石器(UP)に関する問題は明らかに、これら例外的な考古学的記録にのみ限定されません。最初のUPについての以前に維持されていた理論の顕著な年代学的および地理学的転換は、55000~40000年前頃のヨーロッパとより広くユーラシア西部におけるこれらヒト社会の構造そのものの再考へと導きます。ネアンデルタール人の領域へのこの現生人類の侵入、およびネロニアンとレヴァントのIUPとの間で起きた関係は、ユーラシア西部における最初の現生人類の移住と最初のUPの性質そのものを定義する概念の妥当性に疑問を呈します。

 マンドリン洞窟のデータは最初のUPの構造の再考を促すのはこの規模でのことであり、UPは最も顕著な特徴が20世紀前半以来変わらないままの期間です。本論文は、地中海の東西の沿岸間で確証できているつながりの構造を検討し、予期せぬ技術的つながりと、現生人類がヨーロッパへと植民したさいのその社会の顕著な均質性を強調します。これは今や、ヨーロッパ大陸への3回の異なる移住の波の存在を示唆している可能性が高いようです。したがって本論文の仮説は、レバノン沿岸のクサール・アキル遺跡の層序で認識された最初のUPインダストリーの全てには、ヨーロッパ西部において技術的および年代的に正確に相当するインダストリー(関連記事)がある、というものです。

 本論文は、クサール・アキル遺跡の北部前期アハマリアン(Northern Early Ahmarian、北部前期アハマル文化、略してNEA)インダストリーがプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian、先オーリニャック文化)に相当する、というほぼ満場一致で認められた相関が間違っている、とも仮定します。クサール・アキル遺跡の技術的連続性の正確な分析により、最初のUPの全体的な技術的および歴史的構造と、ヨーロッパ西部のいわゆる移行期インダストリーの重要撫の明確な表現に影響を及ぼす、より広範な立場を擁護できるようになります。

 ネロニアンが現生人類の所産であること、その初期の年代、ヨーロッパ西部地中海のムステリアン層序の中間における挿入は、そうした歴史的複雑さの把握を可能とする、人類学的枠組みについての基本的な問題を提起します。これらの問題のうち、ネロニアンの起源についての質問がすぐに浮かび上がります。マンドリン洞窟を除いて、他のネロニアン遺跡はムーラ4(Moula IV)やネロン1(Néron I)やマラス1(Maras 1)やフィギエ(Figuier 1)など少なく、その全ては、十字鍬でずっと前に発掘された小規模な遺物群があり、ローヌ渓谷中部の限定的な地域内にあります。

 しかし、マンドリン洞窟の層序では局所的および通時的に、ネロニアン(E層)とその上のプロトオーリナシアン(B1層)との間でかなり顕著な技術的連続性が記録されています。技術的に、連続性のこの過程は明確に示されており、石器製作における硬い(鉱物)からより柔らかい有機物の打撃の使用の変化と、調整打面の使用から真っすぐで摩耗した打面への変化により要約できます。したがって、他の技術的特性は、これら2つの一式を根本的に区別できません。これら2つの石器群は、その技術的構造、製作目的、掌へと再加工する圧力により作られる腹面で交互の再加工を含む素材の変化の具体的特徴、得られた石器の機能において顕著に類似しています。したがって、現生人類の所産であるネロニアンは、技術的および歴史的に祖型プロトオーリナシアンもしくはプロトオーリナシアン0として理解できます。

 しかし、E層の下にあるF層のローヌ渓谷キーナムステリアン(Rhodanian Quina Mousterian)とE層のネロニアンとの間には技術的連続性の証拠がなく、E層は、2つのインダストリーが重なり、層序的混合を除外できる唯一の層です。この主張はネロニアンとプロトオーリナシアンの起源、およびこれらの技術的でんとうの構造化を記録するかていに疑問を呈します。ネロニアンとプロトオーリナシアンとの間のつながりが注目されますが、そうした発展の正確な様相は不明確なままで、ネロニアンの在来起源はローヌ渓谷中部からは見つけられませんでした。


●上部旧石器時代の起源の再考:地中海の旅

 クサール・アキル遺跡の層序は、地中海東部の旧石器時代社会の理解において重要な位置を占めています。クサール・アキル遺跡はベイルートの北東10kmに位置し、レバノン山の麓の沿岸平野を見渡しています。クサール・アキル遺跡では多くの考古学的発掘が行なわれてきており、中部旧石器時代から続旧石器時代までの22.6mの考古学的堆積物が明らかになっており、中部旧石器時代(MP)と上部旧石器時代(UP)の間の移行に関して、ユーラシアで現在認識されている最も完全な記録を構成します。これらの考古学的層位は、フランクリン・ユーイング(Franklin Ewing)が率いた1937~1938年と1947~1948年に行なわれた2回の発掘段階より達成されました。

 1969~1975年のジャック・ティキシアー(Jacques Tixier)の発掘は、層序の上部と、本論文では直接的に関係しないUPのその後の数段階のみでした。クサール・アキル遺跡の層序は36の主要な考古学的単位に細分されてきました。本論文の検討は、31のMPおよびUP考古学的単位に限定されます。それは、底部から上部まで、第36層から第26層の中期および後期MP、IUPを含む第25層から第21層、前期上部旧石器時代(Early Upper Paleolithic、略してEUP)の最初期段階と関連する第20層から第16層です。これらの層序の連続は、UPの起源の技術的および生物学的側面を具体的に扱える独特な状況の一部を形成します。

 ヨーロッパと地中海のレヴァントの考古学的記録の間のつながりは、20世紀初期以来検討されてきました。オーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)が最初のヨーロッパのUPを表していた、と認識されると、1969年のロンドンでの会議中に例証されたように、同じオーリナシアンがレヴァント地域で同時に存在し、フランソワ・ボルド(François Bordes)は「厳密な意味でのオーリナシアン」という用語を、1937~1938年の発掘のクサール・アキル遺跡第9層と第10層(1947~1948年の発掘の第10c層~第10ia層)の遺物群に採用しました。

 ヨーロッパにおいて、オーリナシアンのこの形態に先行する構成要素が1960年代に提案されたならば、1970年代末にこれらの見解がほぼ決定的に放棄されるまで、多くの中傷者がそうしたインダストリーの存在自体に疑問を呈したでしょう。この仮説は、1990年代の変わり目まで再び勢いを増しませんでした。このプロトオーリナシアンの認識と初期オーリナシアンに先行する年代的位置づけは最終的に、地中海の東西沿岸間の相関を生み出すのに役立ちました。これらはすぐに正式なものになり、ヨーロッパのプロトオーリナシアンとレヴァントの前期アハマリアンとの間の厳密な技術的および文化的一致の存在が示唆されます。これらの相関はクサール・アキル遺跡の参照層序にほぼ依拠しており、これは地中海東部の最初のUPの全段階を記録しているだけで、レヴァントとヨーロッパのUP遺物群間の直近の一連の形式化された比較からは除外されています。これらの歴史地理的詳細は、地中海全域のこれら提案されたつながりの現実性の理解に不可欠です。

 IUPという用語の使用は、アフリカ北部からアジア中央部高地までの広範な地域で認識されたさまざまな起源の収集物をまとめているので、ひじょうに多様な技術的現実を含んでいます。この点で、正確な技術・文化的価値を有していない一般的な用語であるIUPを、ひじょうに正確な技術的現実を指すクサール・アキル遺跡のIUPと区別することが必要です。そして、クサール・アキル遺跡は研究史におけるその位置づけのため、旧世界の最初のUPインダストリーの大部分とともにまとめる名称であり、正確な技術的もしくは文化的つながりの示唆がない広義のIUPと比較して、狭義のIUPの決定で模式層序として用いられるべきです。以後、IUPという用語の本論文での使用は、クサール・アキル遺跡の層序に記録されているように、狭義のものです。

 マンドリン洞窟の考古学的記録をより大きなユーラシアの状況に位置づけるため、マサチューセッツ州ケンブリッジのハーヴァード大学のピーボディ(Peabody)考古学・民族学博物館に登録された、1947~1948年のユーイングのクサール・アキル遺跡発掘での収集の第36層から第13層までの17809点の石器全ての分析が、2016~2019年に行われました(全ての関連する規則に従った記載された研究について、許可は必要ありません)。この特定の収集物の層序学的細分化は、1937~1938年の発掘よりもずっと正確で(おもにロンドンの大英博物館により精選されています)、完全な層序を含んでいるので、この収集物は本論文では最重要となります。

 たとえば、1937~1938年の発掘の第9層は厚さがほぼ2mで、1947~1948年には6亜単位(a~f)に細分化されており、各考古学的単位間で記録された技術的変化が詳しく述べられています。現在の基準に相当していませんが、それにも関わらず、発掘中には最小の考古学的要素に大きな注意が払われました。何度も移転されて収集物の大半が失われた1937~1938年の一連の発掘と比較して、ハーヴァード大学の1947~1948年の収集物はあまり論じられてきませんでした。層序学的に最も正確で発掘手法に関して最も正確であるにも関わらず、ハーヴァード大学の収集物はあまり研究されてきませんでした。

 本論文は、クサール・アキル遺跡の第36層から第18層にわたる21単位に焦点を当てました。合計17809点の石器断片が分析され、138の異なる技術的および類型論的分類に区別され、これらのインダストリーの主要な特殊性が説明されました。これらの収集物はロール・メッツ(Laure Metz)博士により、写真撮影され、技術的に描かれ、機能的に分析もされました。本論文でその要素を提示する目的は、本質的に書誌学的根拠に基づいて、UPの最初の瞬間に関するヨーロッパとレヴァントの間の関係について提案されたもので、これらのデータを定性的観点に置くことです。したがって、この提示は、おもに第25層から第18層に焦点を当てます。

 クリストファー・バーグマン(Christopher A. Bergman)と大沼克彦により指摘されているように、定性分析はこれら13層序単位内における連続性の明確な印象を与え、1単位から別の単位へとじょじょに現れる技術的発展を示します。したがって、技術体系に基づくと、完全にEUP単位により重なったIUP単位を区別することは不可能なようです。しかし、IUPの第23層~第22層の単位をEUPの第16層~第17層の単位とひかくすれば、技術的特性がひじょうに明確に現れます。第25層における少ない人工遺物数(33点)と典型的なMPおよびUP技術の組み合わせから、それが発掘中の混合の産物ある、と示唆されます。

 クサール・アキル遺跡の技術的記録のこれら定性分析から浮かび上がる印象は、第26層と第24層との間、正確にはMPとUPの遺物群間の突然の変化です(図1~6)。以下は本論文の図1です。
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 層序単位間の深刻な混合が記録されていないだけではなく、技術的な石器体系の観点から、この層序は局所的にMPとUPとの間の連続性の可能性を示していない、と推測できます。以下は本論文の図2です。
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 同時に、MP末とUP開始との間で見られる技術的変化は、IUPの出現に関する問題がこの層序からは記録できないことを意味します。以下は本論文の図3です。
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 これらのデータから示唆されるのは、クサール・アキル遺跡は比較的長期にわたる考古学的堆積物の欠如を示しており、第26層と第24層の単位を分離しているか(在来の技術的基盤からIUPの出現に必要な時間)、IUPはこの地域に侵入した、ということです(関連記事)。以下は本論文の図4です。
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 しかし、クサール・アキル遺跡の層序がユーラシアにおけるUPの開始の理解にとって基本的とみなせるならば、その層序は発展の段階の全てを記録していないかもしれません。以下は本論文の図5です。
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 この地理的範囲では、イスラエルのボーカー・タクチット(Boker Tachtit)遺跡が、このUPの出現の最初の段階のいくつかを示しているかもしれません。これら初期段階は、両極削片群からの大量の尖頭器獲得を中心に体系化されていたかもしれず、これは、ヨーロッパ中央部のボフニチアン(Bohunician)ですでに指摘されてきた技術的類似性です。以下は本論文の図6です。
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 これらのデータは、クサール・アキル遺跡で記録された最古の段階に先行する第四の技術的時間の可能性を示唆し、時空間的に、UP開始における尖頭器体系の起源に疑問を提起します。その体系の起源は、地中海レヴァントとアジア中央部との間の地理的領域により広く求められるかもしれません。同時に、クサール・アキル遺跡の模式層序内では、IUPからEUPへと呼び起こす連続性の明確な過程が、具体的な技術的および層序学的現実で刻まれていることに、すぐ気づきます。これは、ユーラシア規模での独特な解像度での、UPの最初の瞬間の構造、経時的なこれら技術的過程の発展の理解を可能にするはずです。


●マンドリン洞窟

 ユーイング師の発掘からのクサール・アキル遺跡のインダストリーの分析により、UPの発展中における3つの異なる段階の存在の認識が可能になります。この段階は、以前に提案された枠組みと、特にNEAおよびその上に位置するインダストリーとの関係について、部分的にしか重複していません。いずれにしても、3つの異なる段階は、クサール・アキル遺跡の第25層から第18層で浮き彫りにできる技術体系の構造における連続性の過程を超えて、明確に区別できます。第1段階は、単極のルヴァロワ(Levallois)尖頭器です(IUP、図7)。以下は本論文の図7です。
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 第2段階は、おもに両極ラミナール(laminar)削片群【laminarとは長さが幅の2倍以上となる本格的な石刃で(関連記事)、以下ではラミナールと訳します】から作られた背付き尖頭器です(EUP/NEA)。第3段階は、単極収束削片群に由来する直線的な鋭い小石刃です(第18層およびその上)。20年近く満場一致で使われてきた、クサール・アキル遺跡の前期アハマリアンの第二段階とプロトオーリナシアンとの間の相関は、最終的に破棄されねばなりません。これらの体系は、技術的にも専門的にも類型論的にも重なっていません。

 しかし、レヴァントとヨーロッパ西部との間には、明確な東西の相関を確立できます。この相関では、プロトオーリナシアンに相当するものを第18層のインダストリーで容易に認識できます。この提案は、門脇誠二たちの先行研究(関連記事)に近いものの、その先行研究は、クサール・アキル遺跡の第9層~第11層、およびクサール・アキル遺跡の層序のより新しい単位との相関を提案しました。その研究は、南部前期アハマリアン(Southern Early Ahmarian、略してSEA)がNEAよりも新しく、SEAとNEAに層序の重ね合わせはないことと、プロトオーリナシアンは年代的にSEAら先行することも提案しました。本論文の提案は、これらのインダストリーの一般的な技術構造の観点から、クサール・アキル遺跡の第9層~第11層は、プロトオーリナシアンと技術的に匹敵する同遺跡の最古のインダストリーを表しておらず、本論文は同遺跡のプロトオーリナシアンを早ければ第13層に位置づける、というものです。

 ここで本論文は、クサール・アキル遺跡のこの時間・文化的崩壊の第3段階/SEA/プロトオーリナシアンに先行して、この層序の他の2つの技術的段階もヨーロッパの記録において直接的並行がある、と提案します。単極の収束尖頭器と小型尖頭器の製作に完全に基づくネロニアンは、技術的にはレヴァントの第1段階/IUPの完全な複製を表しています。珍重された尖頭器の技術的体系と製作目的と形態と形態計測さえ、厳密に同一です(関連記事)。同時に、ロール・メッツによる機能的分析を通じて決定された尖頭器の使用から、クサール・アキル遺跡の第25層から第21層の尖頭器とマンドリン洞窟E層の尖頭器は同じ機能的分類内に厳密に収まる、と示されます(関連記事)。

 両方の事例で、尖頭器はおもに機械的推進力(投槍および/もしくは弓)を通じて用いられた投射尖頭器です。形態計測の幅と厚さの分析から、ネロニアンとIUPの尖頭器は区別できない、と示されます(図8)。地中海の両端に位置していますが、これらの技術体系間はここでは区別できません。レヴァントにおける放射測定手法は依然として議論の余地のある結果を提供しますが、レヴァントのIUPの開始はマンドリン洞窟のネロニアンと同時代である、と考えるあらゆる理由があることも分かりました。ネロニアンが、この地域への外来者でネアンデルタール人の領域に一定期間居住した現生人類集団により作られたことも分かりました(関連記事)。以下は本論文の図8です。
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 これらのデータ全てにより、2つの文化的集団、つまり(クサール・アキル遺跡で認識されている)レヴァントの狭義のIUPとネロニアンが、じっさいには1つだった、との推測が可能になります。クサール・アキル遺跡IUPの年代の問題は明らかに異なるモデルを生み出しましたが、ここでのデータは、マリョレイン・ボッシュ(Marjolein D. Bosch)たちの先行研究(関連記事)により提案されたモデルと一致しており、その先行研究では、IUPから得られた年代は下限年代を表す、と結論づけられました。クサール・アキル遺跡におけるIUP開始の実際の年代は依然として不明ですが、ボッシュはクサール・アキル遺跡の第22層と、したがってIUPの最も新しい層を46000年以上前と年代測定し、IUPは第25層で始まったので、46000年前頃よりかなり古くなります。

 他の種類の証拠に焦点を広げるならば、たとえばクサール・アキル遺跡では大量に存在するもののマンドリン洞窟E層では欠如している貝殻からは、ネロニアンをIUPと別々に扱うことはできず、IUPにおける軟体類の貝殻は、穿孔されていてもいなくても、ほぼ沿岸部の遺跡群でのみ認識されています。象徴的価値のある物を製作するための骨もしくは歯の変容も、ネロニアンでは充分に証明されています(関連記事)。ネロニアンにおける現生人類の歯の証拠も、ネロニアンと本論文で提示されたIUPとの間の相関を裏づけます。

 ヨーロッパ西部の層序で記録された、クサール・アキル遺跡ではそれぞれ、第25層~第21層と第13層(あるいは第14層からさえ)~第9層に相当する、第1段階と第3段階がありします。したがって、初期レヴァントIUPの2つの最重要点は、ネロニアンとその後のオーリナシアンを通じて、ヨーロッパ西部における直接的でひじょうに正確な模倣を見つけます。クサール・アキル遺跡の第21層から第16層となる第2段階についてはどうでしょうか?ヨーロッパ西部では、本質的に両極の削片群により得られて、背付き尖頭器を得るのに向けられた、小さな石刃の削片群を中心に構成されたUPの最初の段階はあるでしょうか?

 シャテルペロニアン(Châtelperronian、シャテルペロン文化)の起源およびその前後のインダストリーとの技術的関係についての議論は20世紀初頭に始まり、20世紀を通じて続きました。現在では2つの学派が対抗しており、一方は、シャテルペロニアンをムステリアンの在来インダストリーに実際の起源がない完全なUPとみなし(関連記事)、もう一方は、先行する在来のムステリアンの発展から生じた局所的産物とみなします。この議論では、シャテルペロニアンと他の初期UP複合の範囲外に位置するムステリアン収集物における背付き尖頭器もしくは尖った石刃の欠如が仮定されているように、背付き尖頭器の問題が中心的位置を占めています。

 この問題に関して、証明はとくに脆弱と考えることができます。それは、ムステリアンについて、証明が「細長い背付き石刃/尖頭器」に焦点を当てているからで、この分類は、そうした研究者の手法を通じて、技術的にあらゆする形態的に細長い裏づけを包含し、具体的に狭義の石刃削片群から生じた製作物を包含していないからです。研究者は、シャテルペロニアン尖頭器とは技術的および類型論的に異なる特徴(自然、自然面、背付き背面)のこの集合を比較考量するために、このこれらの原形を背付きや自然面や背付き(débordant)のあらゆる形に類型論的に関連づけてもいません。しかし、シャテルペロニアン尖頭器は、この定義と非常に部分的にしか重複しないその技術的および類型論的性質に関して、充分に制限された原形です。

 シャテルペロニアン尖頭器は、技術的には石刃削片群からのみ得られた真の石刃に関するもので、その後に、突然の再加工のさまざま形態もしくは真の切断で鋭利にされます。この尖頭器だけで、シャテルペロニアンとムステリアンにおける在来のインダストリーとの間のこれらの比較が、関連する技術的体系の観点から歯かなり表面的に留まっている側面にほぼ基づいており、存在する正確な技術的構造ではなく、おもに形態的特性に基づいている、という事実を浮き彫りにします。

 一方、真の背付き尖頭器は、NEAの技術的体系の構造的要素の1つを正確に表しています。より正確には、シャテルペロニアンのように、背付き背面と関連する真の石刃のみで、それ故に関連する背付き尖頭器の定義技術的および類型論的に厳密であるならば、これらの技術的に充分に包含される製作物は、ユーラシア西部規模ではNEA以外の他のインダストリーを体系化しておらず、NEAはこれまで、プロトオーリナシアンのレヴァントの相当する分化の1つと完全に解釈されてきました。

 クサール・アキル遺跡遺物群の分析は、技術的および類型論的にシャテルペロニアンの尖頭器と区別できない尖頭器の顕著な数を示します。これら背付き尖頭器インダストリーの製作者である現生人類は、クサール・アキル遺跡の第16層/第18層で見つかっています。これらの遺物群が早くも1947年にユーイング師により分類され、それが後の研究では消えたことは、注目に値します。そうした遺物群は層序学的に、ネロニアンと技術的に類似したIUPと、プロトオーリナシアンと技術的に類似した第14層~第9層の遺物群の間に位置していました。

 シャテルペロニアンの製作者である人類の特定は不確実なままで、それは、こうした特定が、たとえばアルシ・スュル・キュール(Arcy sur Cure)遺跡など、層序学的不確実性に悩まされているより古い発掘のデータに依拠したままだからです。現生人類は、マンドリン洞窟E層のネロニアン/IUP(関連記事)、クサール・アキル遺跡のEUP、ブルガリアのバチョキロ(Bacho Kiro)洞窟(関連記事)、ヨーロッパのプロトオーリナシアン(関連記事)で生物学的に認識されています。したがって、クサール・アキル遺跡の最初のUPの主要な3段階は、ヨーロッパ西部において同時代のインダストリーに類似したものがあり、それはローヌ渓谷からフランコ・カンタブリア地域までにかけて認識されている、と浮き彫りにできます。

 これらの要素は、空間において層準(地理)的に、クサール・アキル遺跡で垂直(層序学的)に記録されたものが見つかるだろう、ヨーロッパにおけるUPの最初の瞬間の起源と構造と発展について、元々の論題の提示を可能とします。しかし、現在知られている考古学的記録の状態では、レヴァントとヨーロッパの考古学的記録を地理的に結びつけることが可能な稀な遺跡の記載のみが可能です。この状況は、ブルガリアのバチョキロ洞窟もしくはテムナタ(Temnata)洞窟などの集合が、東西間の中間的位置として解釈できるとしても、本論文が提案したこの最初のUPの区分の収容な3段階に影響を及ぼします。

 ここで提示されたモデルでは、バチョキリアン(Bachokirian、バチョキロ文化)の要素が最近提案されたように(関連記事)レヴァントIUPに正確には相当せず、むしろEUPの最初の段階の1つ、したがってNEAの開始に相当し、背付き尖頭器の完全な発展に先行するのに対して、シャテルペロニアンはより発展した層、したがって、より新しいEUPのこの同じ段階に相当するようです。したがって、IUPとEUPの完全な発展にそれぞれ対応するクサール・アキル遺跡の第1および第2段階に相当する文化は現在、フランスの地中海と大西洋正面およびイベリア半島という、ヨーロッパの西端でのみ記録されていることになるでしょう。レヴァントの端に位置するトルコのハタイ県(Hatay Province)以外には、アナトリア半島に由来する最初のUPに関するデータが欠如していることに注意すべきです。この重要な地域におけるデータの欠如の意義は、これまでプロトオーリナシアンと前期オーリナシアンに限定されてきた、地中海の相関関係への影響のように、長く認識されてきました。

 地中海北部は、東端と西端で見られる3つの分節化を記録しておらず、少なくとも55000年前頃に始まる両側を結びつける海洋経路の存在が示唆されます。地中海では長距離航海能力の直接的証拠は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の後まで明確には論証されていませんが(関連記事)、ユーラシアの阪大側の東端で、65000年前頃に始まるサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)への移住中には(関連記事)、そうした航海能力は今ではほとんど疑問視されていません。

 クサール・アキル遺跡の層序により、ヨーロッパのプロトオーリナシアンと同一のインダストリー(SEA)の正確な技術的出現の記録が可能になり、これは最初のレヴァントのUPの技術的体系の漸進的発展から生じた3つの連続した技術的段階へと区分できます。つまり、IUPとNEAとSEAです。層序におけるこれらの連続は、ネロニアンとシャテルペロニアンとプロトオーリナシアンという3組の続きがあるヨーロッパ西端との顕著な類似点を有しています。フランスからイベリア半島に至るヨーロッパ西部全域で、次に、地中海東部で経時的に層序学的連続で認識されたものと同じ技術的および文化的構造を有することになるでしょう。放射測定分析は、シャテルペロニアンに対するネロニアンの確実な時間的先行を示しているので(関連記事)、プロトオーリナシアンに対するシャテルペロニアンの最初の段階の時間的先行も合理的に仮定できます。

 再開のために、クサール・アキル遺跡の層序の技術的構造の分析に基づいて、最初のレヴァントのUPの3段階はヨーロッパ全域で厳密な結論を見つける、と本論文は提案します。第1段階はIUPに相当し、尖頭器と石刃があり、6万~5万年前頃の範囲で始まった可能性があり、ヨーロッパではわずか数点の層序でのみ認識されており、ネロニアンやわずかに新しいボフニチアンやウクライナ西部のクレメニシアン(Kremenician)が含まれ、ローヌ渓谷からウクライナまで断続的な空間にわたっています。

 狭義のIUPは、クサール・アキル遺跡の層序(第25層~第21層)で記録されているに、尖頭器と小型尖頭器と単極削片群があり、ネロニアンのあるローヌ渓谷地域でのみ記録されています。広義の、このIUPの異形は、大型尖頭器と両極削片群があり、イスラエルのボーカー・タクチット遺跡の基層でよく証明されています。そのボフニチアンとのつながりは、ギルバート・トステヴィン(Gilbert Tostevin)により正確に取り組まれました。共時的な文化的多様性か、あるいはこのIUPの2つの発展段階に直面しているのかどうか、定義することは現時点で不可能です。

 EUPの第1期とNEAに相当する第2段階は、小さな両極石刃と背付き尖頭器の製作により特徴づけられます。NEAでは、シャテルペロニアンの製作物との特異な技術的対応が見つかります。その地理的分布は第1段階とは明らかに異なり、今やフランスのイベリア半島と大西洋地域に影響を及ぼしています。バチョキリアンは、弱い両極で、ルヴァロワ尖頭器の代表でも背付き尖頭器でも特徴づけられず、クサール・アキル遺跡(第20層~第19層)で記録されているように、NEAの最初の段階に相当するかもしれません。その後、バチョキリアンはヨーロッパ大陸の西部ではシャテルペロニアンよりわずかに早く、クサール・アキル遺跡(第17層~第16層)の背付き尖頭器の完全な発展段階の前のことでしょう。

 第3段階は、EUPの第2期とSEAとプロトオーリナシアンで、単極削片群により得られた長い直接的な小石刃の製作に焦点が当てられています。これらのインダストリーはヨーロッパ西部からレヴァントまでの全ての地域で認識されており、初めて全ユーラシア西部を統合します。UPの開始以降のこれら3段階は、地中海のレヴァント内に傾倒的に起源がある、生物学的に現代的な人口集団の3回の異なった移住の波として解釈できます。レヴァントでは、さまざまな層序が、在来の文化的基盤からの第2および第3段階の漸進的な出現の漸進的出現の記録を可能とします。


●移住からネアンデルタール人との関係までヨーロッパにおける最初の現生人類の分布モデル

 レヴァントの空間ではSEA/プロトオーリナシアンの出現が、3つの明確な段階における出現の認識を可能としているならば、この実態は、元々は単極削片群からより細長いルヴァロワ尖頭器を得ることに焦点を当てた、技術的体系の段階的変化に基づいて体系化されています。ここでは、伝統と、おそらくは広い意味での生物学的人口集団の連続性が示唆されています。ヨーロッパ西部地域において、そうした連続性の記録はできないようです。ネロニアンからシャテルペロニアンを経てプロトオーリナシアンまでの漸進的発展の知覚を可能とするような層序は認識されていません。これら3インダストリー間の中間的な技術的指標を示すと考えることができる、他の収集物は知られていません。

 同時に、これらのインダストリーは時間、つまりネロニアンとシャテルペロニアンとプロトオーリナシアンの連続性だけではなく、その空間的分布でも異なっており、それぞれ、ローヌ渓谷中部、大西洋側のフランスとイベリア半島、ヨーロッパ西部に分布していました(図9)。この時空間的連続性は、ばらばらで、ますます広大になっている地理的分布を示します。そして初めて、第3段階のプロトオーリナシアンが、ヨーロッパ西部の空間と地中海のレヴァントを文化的に統合します。以下は本論文の図9です。
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 これら時空間的な特異性には、3回の異なる移住段階の考古学的痕跡として解釈されるあらゆる理由があり、その全ては同じレヴァントの文化的基盤に由来する可能性が高そうです。最初の移住段階は54000年前頃以前と比較的古く、現在はローヌ渓谷でのみ認識されています。ローヌ渓谷は地中海地域をヨーロッパ北部の大草原地帯とつなぐ主要な自然の幹線であることに注意すべきかもしれません。レヴァントの遺跡の分布から証明されるように、IUP集団が地中海の海洋地域に精通している、との観察から始めるならば、この最初の移住段階は地中海沿岸から100km以上離れて移動していないように見えることにも注意すべきかもしれません。

 同時に、マンドリン洞窟の記録から、この地域における約40年間のこれら人口集団の連続的存在を記載でき、ヒトの1世代が複数世代に相当します。この最初の移住段階は、認識できる生物学的もしくは文化的子孫を残さず、明らかにこの地域を放棄しました。放棄の理由が何であれ、この集団の構造と目標に関する重要な要素を解読できます。これらの現生人類はおそらく、斥候の単純な集団ではなく、むしろその転移には、これらの土地に恒久的に居住する根底的な欲求がありました。その集団がこの領域を占拠した期間の長さは、単純な停止とも、未知の領域を探す単純な欲望とも一致しません。

 マンドリン洞窟のネロニアン層からは、ひじょうに若い現生人類の子供の歯が見つかっています(関連記事)。したがって、この集団は、旅の一部かこれら新たな領域内での妊娠なのかどうかはともかく、男女と若い子供で構成されていました。ローヌ川の2ヶ所の土手を熟知し、比較的広大な地域の全ての珪質資源の知識により、ネアンデルタール人の先住集団と、あるいはこれらの領域の予備知識を有している孤立したネアンデルタール人個体群との密接な関係を想像できるようになります。

 その後、シャテルペロニアンは第2の移住段階に相当し、考古学的に明らかになるのは、やっと数千年後の45000年前頃になってからです。スペイン南東部のコヴァ・フォラダダ(Cova Foradada)遺跡のデータから、この第2段階はフランス大西洋地域およびカンタブリア廻縁だけに関係しているのばなく、どのアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)伝統のムステリアンの分布領域からも離れている、イベリア半島地中海地域にまで出現していた、と示されます。アシューリアン伝統ムステリアンは時に、これらのインダストリーの在来の先行とみなされてきました。

 シャテルペロニアンが事実上、現生人類による第2の移住段階に相当し、同じレヴァントの文化的基盤に由来するのならば、第1段階(IUP/ネロニアン)と第2段階(NEA/シャテルペロニアン)との間の重複の欠如は、この第2段階の領域拡大が地理的には実にばらばらに留まっている大西洋と大陸部と地中海という広大な領域に影響を及ぼしたので、一層顕著です。この同じ期間に、ローヌ渓谷はネロニアン後第2期伝統を有するネアンデルタール人集団により占拠されました(関連記事)。

 ヨーロッパへの現生人類の最初の移住があった同じ地理的空間で、ネアンデルタール人集団がもはや以前の領域への接近を許可しなかった、ということはあり得るのでしょうか?マンドリン洞窟周辺の広大な領域へのネアンデルタール人集団の帰還を示す、ネロニアン後の第1期および第2期も、ヨーロッパ西部の主要な移住幹線の1つにおけるネアンデルタール人集団の存続を示唆しているので、これは注目すべきです。これは、この仮説によると、現生人類集団が、数だけではなくヨーロッパ西部全域の広範な領域に入植というやり方で最初の本格的な居住を示したまさにその瞬間に、現生人類の帰還に対する先住の人口集団からの拒否もしくは抵抗をよく示唆しているかもしれません。

 それにも関わらず、第3段階のプロトオーリナシアンは、ヨーロッパ全域と地中海のレヴァントにまでわたる現生人類集団の最初の本格的な層を残しており、ヨーロッパ大陸全域のこれらの集団の文化的および領域的統一を示します。先住のネアンデルタール人集団が現生人類集団に置換されたのは、やっとこの第3段階のことです。この置換過程は、数世代にわたってだけではなく、ヨーロッパ西部規模、およびローヌ渓谷など、ひじょうに地理的に特殊な地域でさえ、少なくとも12000年以上にわたって起きました。

 この地中海を横断する証拠資料の比較分析から、長いだけではなく、非線形でもあった過程が示唆されます。これには、接触の連続的な段階と、よく定義された領域における文化的置換が含まれます。ローヌ渓谷では、これらの接触/置換/排除の過程が、4つの生物学的段階と5つの文化的段階で正確に表れており、最古から最新にかけて、ローヌ渓谷キーナ(ネアンデルタール人)→ネロニアン(現生人類)→ネロニアン後第1期(ネアンデルタール人)→ネロニアン後第2期(ネアンデルタール人)→プロトオーリナシアン(現生人類)となります。煤の分析から、現生人類がマンドリン洞窟に存在した2事例で、ネアンデルタール人の居住と現生人類の居住との間の時間がわずか数季節、おそらくはたった1年と分かっています。

 現生人類の居住に直接的に先行する段階では、これらの集団の知覚できる領域と数十年にわたる洞窟での季節的なネアンデルタール人の居住の繰り返しの範囲を見ることにより、ローヌ渓谷中部のこのひじょうに特異な場所か、まさにこの洞窟か、その周辺で、これらの独特な考古学的記録がネアンデルタール人と現生人類の集団間の直接的な接触存在を示唆するのかどうか、ここでは節約的に尋ねることができます。移民人口集団が先住人口集団の知識から利益を得た可能性があり、現生人類集団内の最も直接的な示唆を理解でき、このかなり広範な領域の資源の正確な知識を可能にします。ネアンデルタール人から現生人類へのこれらの伝達過程の性格な性質は、直接的には知覚できません。現生人類集団内に統合されたネアンデルタール人の教導者の可能性は、最小限の解釈と民族誌での普遍的記録の両方で見ることができます。

 ローヌ渓谷中部の謎が残っており、それは、これまでに認識されていた最初の移住よりも10000~12000年ほど先行するヨーロッパへの現生人類の最初の移住の記録だけではなく、ユーラシアのネアンデルタール人→現生人類→ネアンデルタール人→現生人類という連続的な生物学的置換の発生でもあります。ヨーロッパ本土のおもに北から南に流れる河川幹線の中心部におけるこれらの置換の構造と現生人類の最初の到来は、とても逸話とみなせません。レヴァントの製作物との類似性は、54000年前頃以降すでにしっかりと存在していただろう海洋移動網の存在を示唆します。ローヌ渓谷地域からの第2の移住段階であるNEA/シャテルペロニアンの欠如と、南西と西と北により構成されていることは等しく注目に値し、ネアンデルタール人集団により再度占拠された領域は、もはや現生人類が利用可能ではなかったようです。

 ヨーロッパにおける植民のこのパターンと在来の人口集団の置換は、この1万年間にヨーロッパ西部で記録された文化的事実の重要な部分を説明します。地中海西部のウルツィアン(Ulzzian、ウルツォ文化)とともに、明確に異なる伝統を有する現生人類集団の存在は、これら人口集団の置換過程の文化的豊かさを強調します。これは、第2段階における現生人類とネアンデルタール人との間の関係が何であれ、45000年前頃になるとすぐ、ヨーロッパ西部はすでにさまざまな現生人類集団によりほぼ占拠されていたでしょう。

 同時にこれらのデータから、最後のネアンデルタール人集団は退避地へと後退したのではなく、じっさいには、数千年間の共有がなく、ヨーロッパ大陸の規模で主要な循環軸を占拠していた、と示唆されます。これらの社会の技術的構造からは、現生人類からネアンデルタール人への文化変容の明らかな形態を記載できず、おそらく例外は、尖頭器製作技術と関連する特定の技術的に実際的知識の正確な情報で、これは現生人類の最初期の移住段階において先住民集団により獲得された可能性が充分にあるでしょう。

 最後のネアンデルタール人集団は、数十万年にわたって比較的普遍だったその技術的伝統の担い手であっただけではなく、逆説的に、現生人類により長く放棄されており、これら現生人類集団によるヨーロッパにおける入植の最初の段階に属する技術的伝統の継承者でもあったでしょう。曖昧な保守主義のこの観点から、これら最終的なネアンデルタール人集団は、UPの歴史的構造への転機に達する、最終的にヨーロッパを統一する人口集団の波により、煤の記録により示唆されるようにわずか数季節で置換される、「崇敬」を最終的に得たでしょう。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、レヴァントとヨーロッパの最初期の上部旧石器(UP)技術とその年代の比較から、初期現生人類のヨーロッパへの拡大には主要な3回の波があり、その起源地はレヴァントだった可能性が高い、と指摘しました。本論文は、現生人類が45000年前頃にヨーロッパへと拡散し、ネアンデルタール人は現生人類と2600~5400年間ほど共存した後で絶滅した、との2010年代には有力だったと思われる見解に大きな見直しを迫ることになるわけで、たいへん注目されます。

 本論文は、レヴァントとヨーロッパの最初期のUP技術の顕著な類似性を、以下の3段階に区分します。第1段階はレヴァントのIUP(初期上部旧石器)とヨーロッパのネロニアンやボフニチアンやクレメニシアン、第2段階はレヴァントのEUP(前期上部旧石器)第1期/NEA(北部前期アハマリアン)とヨーロッパのシャテルペロニアン(ウルツィアンも含まれるかもしれません)、第3段階はレヴァントのEUP第2期/SEA(南部前期アハマリアン)とヨーロッパのプロトオーリナシアンです。これらの各段階は初期現生人類のレヴァントからヨーロッパへの拡大とも関連している、というのが本論文の見通しです。

 こうした本論文で提示された石器技術分析と推定年代は、今後さらに時空間的に拡大され、より精緻になっていくことで、一定以上の見直しが必要になってくるかもしれませんが、現時点では検討すべき有力な仮説と言えるように思います。本論文のシャテルペロニアンの位置づけは、シャテルペロニアンをIUPよりも「上部旧石器的」とする最近の見解(関連記事)とも整合的です。第1段階と第2段階の痕跡がヨーロッパでは稀なことについて、本論文は航海による初期現生人類拡大の可能性を示唆します。確かに、発掘が進んでいるヨーロッパでの痕跡の少なさは、航海による面的ではなく点と点の拡大だった、と考えると整合的かもしれません。また、沿岸での拡大の痕跡は現在海中にあり発見されにくいのかもしれません。この点でも、本論文の見解はたいへん注目されます。

 ただ、石器技術とその担い手を常に直接的に結びつけてよいのか、という問題は残るように思います。本論文はシャテルペロニアンの担い手について、慎重に断定していませんが、事実上、現生人類と想定していることは明らかでしょう。確かに、シャテルペロニアンの担い手をネアンデルタール人とする見解について、その根拠となったサン・セザール(Saint-Césaire)遺跡とアルシ・スュル・キュールのトナカイ洞窟(Grotte du Renne)の発掘と解釈には問題がある、との指摘は以前からあります(関連記事)。

 しかし、本論文が指摘するように、考古学的な状況証拠からシャテルペロニアンの担い手は現生人類である可能性が高そうですが、人類遺骸や堆積物のDNA解析などそれを示唆する直接的証拠はまだないように思います。一方、問題が指摘されているとはいえ、シャテルペロニアンの担い手をネアンデルタール人とする見解には直接的証拠があります。この問題は、現代の考古学的基準で新たに発掘された遺跡でシャテルペロニアン層が発見されるまで、解決しないかもしれません。ただ、仮にシャテルペロニアンの少なくとも一部の担い手がネアンデルタール人だとしても、現生人類からの強い影響があった可能性はきわめて高そうです。つまり、ネアンデルタール人が独自に開発したインダストリーではない、というわけです。

 本論文は、近年急速に進展している古代ゲノム研究との関連でもたいへん注目されます。昨年公表された研究(関連記事)は、粗い分析規模であることを認めつつも、遺伝学と考古学を統合し、初期現生人類のアフリカからの拡散と分岐に関する仮説を提示しました。その研究では、IUP(本論文の第2段階に相当し、本論文とはやや異なる定義のIUPと言えそうです)の拡大と、現代人ではヨーロッパ集団よりもアジア東部集団の方と遺伝的に近い初期現生人類集団、UP(本論文の第3段階に相当すると言えそうです)と、現代人ではユーラシア西部系集団と遺伝的に近い初期現生人類集団が結びつけられました。さらにその研究では、中部旧石器(MP)でもIUPでもUPでもない石器技術と、出アフリカ系現生人類集団でも非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団と早期に分岐した初期現生人類集団とが結びつけられました。

 本論文の知見を最近の古代ゲノム研究と組み合わせると、まだかなり粗い解像度で、今後大きな見直しが必要になるかもしれないものの、興味深い初期現生人類の拡散史が浮かび上がってきます。本論文の第2段階には、ブルガリアのバチョキロ洞窟の初期現生人類集団が含まれます。ヨーロッパへと拡大したこの集団は現代人ではヨーロッパ集団よりもアジア東部集団の方と遺伝的に近く(関連記事)、ヨーロッパの後期更新世~完新世の狩猟採集民の包括的な古代ゲノム研究(関連記事)を踏まえると、本論文の第3段階にヨーロッパにおいて遺伝的影響が顕著に低下し、新石器時代のアナトリア半島からヨーロッパへの農耕民の拡大と、後期新石器時代~青銅器時代にかけてのユーラシア草原地帯集団の拡大により、その遺伝的痕跡は現代ではほぼ消滅した、と考えられます。

 本論文の第3段階にヨーロッパへと拡散した現生人類集団は、ヨーロッパの狩猟採集民の主要な祖先となり、新石器時代には、アナトリア半島からヨーロッパへの農耕民の拡大により、その遺伝的影響は劇的に低下しました。ただ、後期新石器時代~青銅器時代にかけてヨーロッパに拡散して大きな遺伝的影響を残したユーラシア草原地帯集団の主要な祖先は、この第3段階にヨーロッパに拡大した現生人類集団かもしれないので、その意味では、青銅器時代以降には第3段階にヨーロッパへと拡散した現生人類集団の遺伝的影響が「復活した」とも言えるでしょうか。

 よく分からないのが、本論文の第1段階にヨーロッパへと拡散した初期現生人類集団の遺伝的構成です。おそらくこの初期現生人類集団も、遺伝的にはアフリカ系現代人とよりも非アフリカ系現代人の方と近縁なのでしょうが、出アフリカ現生人類系統の中でどこに位置づけられるのか、不明です。その手がかりとなるのは、上述の昨年公表された研究(関連記事)で、MPでもIUPでもUPでもない石器技術と結びつけられた、出アフリカ系現生人類集団でも非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団と早期に分岐した初期現生人類集団です。

 この集団は具体的には、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる、成人女性1個体により表されます(関連記事)。ズラティクン個体は直接的に年代測定されたわけではないため、その年代は曖昧で、さらに関連する石器技術の分類も曖昧ですが、45000年以上前と推測されています。これは本論文の第2段階に相当し、この推定年代が正しければ、第2段階にヨーロッパへと拡散した初期現生人類には、遺伝的にも文化(石器技術)的にも大きく異なる集団が存在したのかもしれません。ズラティクン個体から、出アフリカ初期現生人類集団は初期に大きく遺伝的に分岐していったと考えられ、第1段階と第2段階にヨーロッパへと拡散した現生人類集団は、ズラティクン個体により表される集団と同様に、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団と早期に分岐したのかもしれません。

 本論文は、現生人類とネアンデルタール人の関係の点でも注目されます。本論文は、マンドリン洞窟(とその周辺地域)において、ネアンデルタール人(キーナムステリアン)→現生人類(ネロニアン)→ネアンデルタール人(ネロニアン後第1期および第2期)→現生人類(プロトオーリナシアン)という人類集団の交替があったことを指摘します。ネロニアンの担い手と考えられる初期現生人類集団は、この地域から撤退したか絶滅したと考えられ、ネロニアンの現生人類集団に弓矢技術があった、との最近の知見(関連記事)を踏まえると、投射技術により現生人類がネアンデルタール人よりも優位に立ち、ネアンデルタール人は絶滅に追い込まれた、との有力な見解には疑問が呈されます(関連記事)。

 最近、マンドリン洞窟のネロニアン後第2期の、トラン(Thorin)と呼ばれるネアンデルタール人遺骸のゲノムデータが報告され、本論文の著者も関わっています(関連記事)。トランは遺伝的には長期にわたって孤立していたネアンデルタール人系統を表しており、初期現生人類との少なくとも近い過去での混合の痕跡を示していません。6万~5万年前頃にローヌ渓谷でネアンデルタール人と現生人類が遭遇した可能性は高そうですが、敵対的な関係だったのか、接合前もしくは接合後隔離があったのか、交配自体が少なかったのか、交雑第1世代は生まれても何らかの理由で適応度が低かったのか、分かりませんが、トランに代表されるネアンデルタール人系統に現生人類からの近い過去における遺伝的影響は確認されず、これはヨーロッパの他の後期ネアンデルタール人も同様です(関連記事)。

 視点を現生人類に移すと、バチョキロ洞窟の初期現生人類集団には、非アフリカ系現代人全員の共通祖先のネアンデルタール人との混合以外に、追加のネアンデルタール人との混合が確認されたのに対して(関連記事)、ズラティクン個体により表される初期現生人類集団には、ネアンデルタール人との追加の混合の痕跡は確認されませんでした(関連記事)。現生人類とネアンデルタール人との関係は時空間的に多様だったようで、一律に判断することはできないでしょう。研究が進むにつれて、人類進化史はますます複雑になっているようで、少しでも追いついていきたいものです。


参考文献:
Slimak L (2023) The three waves: Rethinking the structure of the first Upper Paleolithic in Western Eurasia. PLoS ONE 18(5): e0277444.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0277444

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