性愛的行動によるウイルスの拡散

 性愛的行動によるウイルスの拡散に関する解説(Arbøll, and Rasmussen., 2023)が公表されました。日本語の解説記事もあります。最近の研究では、ヒトの恋愛的で性的な接吻の最初の既知の記録は、アジア南部(インド)の青銅器時代の写本に由来する、と主張されています。しかし、かなりの量の見落とされてきた証拠からこの前提に異議が呈されており、それは、唇への接吻が古代のメソポタミアとエジプトにおいて少なくとも紀元前2500年頃以降に記録されていたからです。この行動は突然もしくは特定の社会で出現したのではなく、数千年にわたって複数の古代文化で行なわれてきたようなので、最近提案されたように、接吻は特定の病原体の拡大を引き起こした突然の生物学的契機とみなせません。ヒト社会における接吻の歴史、および疾患の伝染への二次的の影響のさらなる理解は、古代メソポタミア(現在のイラクとシリア)の資料の事例研究から得ることができます。

 研究では、接吻は一般的に2種類に区分され、つまり親の友好的な接吻と、恋愛的で性的な接吻です。親の友好的な接吻はヒトにおいて時空間的に全体に遍在しているようですが、恋愛的で性的な接吻は文化的に普遍的ではなく、階層化社会で優勢です。研究では、恋愛的で性的な接吻は、つがい関係の個体間の愛着感情を媒介し、性的刺激とそれによる性的関係を促進する、唾液もしくは息で伝わる化学的手がかりを通じて、潜在的な配偶者の適合性を評価する側面の目的で進化した、と示唆されてきました。接吻は、ボノボ(Pan paniscus)における恋愛的で性的な目的の口移しの接吻や、チンパンジー(Pan troglodytes)における社会的関係の管理のための友愛的な接吻など、ヒト以外の他の動物種でも証明されています。これら2種はヒトの最も近縁な現生分類群で、その接吻の刊行は、ヒトの祖先におけるこの行動の存在と進化を示唆しているかもしれません。

 口腔微生物である古細菌のメタノブレウィバクテル属の一種(Methanobrevibacter oralis)の感染を調べた研究では、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が現生人類(Homo sapiens)と10万年以上前に唇に接吻していたかもしれない、との仮説が提示されました(関連記事)。依然として、恋愛的で性的な接吻の出現は不確実ですが、アイン・サクリ(Ain Sakhri)とマルタ(Malta)の2点の先史時代の彫刻は、文字の発明以前の恋愛的で性的な接吻の存在を示唆しているかもしれません。以下は接吻を描いた紀元前1800年頃のメソポタミアの粘土板です。
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 人類の最初の記録された接吻は、古代の中東の資料で見られます。接吻は紀元前2500年頃以降の古代メソポタミアの文書で証明されています。古代メソポタミアは、ユーフラテス川およびティグリス川沿いの地域を構成しており、現在のイラクとシリアをほぼ網羅しています。文字はイラク南部とエジプトで紀元前3200年頃と同時に初めて発明されました。メソポタミアでは、人々は粘土板に楔形文字を書き、楔形文字は紀元前3200~紀元後75年頃にかけて、おもにシュメール語とアッカド語を記録しました。シュメール語の最初期の文章では、接吻は、おそらく性交後の行為として性愛的行為と関連しており、その場所は唇でした。アッカド語では、接吻への言及は異なる2群に細分化できます。一方は、足もしくは地面への接吻行為を通じて服従あるいは敬意を表す、友好的で家族間の愛情を示しており、もう一方は、おもな場所として唇への性愛的行為でした。

 利用可能な何千もの楔形文字文書を考慮すると、恋愛的で性的な接吻が記述されている事例は比較的少ない、と言えるでしょう。それにも関わらず、接吻が古代における恋愛的な親密さの通常の一部と考えられていたことを示す、明確な事例があります。その文書では、接吻は結婚した夫婦が行なうものだった、と示唆されていますが、接吻は未婚者が恋に落ちた時の性的欲望の一部とみなされていました。紀元前1800年頃の文書2点は、とくに意義深いものです。一方は、既婚女性が別の男性からの接吻によりどのようにほぼ堕落したのかを、もう一方は、未婚女性が特定の男性との接吻と性的関係を避けることを誓ったのか、記述しています。

 明らかに、社会は未婚の人々もしくは姦通者間のそうした行為を規制しようとしました。さらに、接吻の性的側面は公的には認められず、聖職者など性的に積極的であることを意図していない個人への接吻は、接吻者の話す能力を奪う、と信じられていました。それでも、母親と子供の間のような、友情と家族愛のトークン(粘土の小塊)には接吻が含まれていたようです。接吻は儀式的状況でも用いられ、そうした儀式では、神の回復を必要とする個人が、恍惚状態の個人や老女や奴隷の少女に接吻できました。

 社会的および性的行動における重要性を超えて、接吻という行為は歴史を通じて、経口的に伝染する微生物の移動の促進に、二次的で意図的ではない役割を果たしたかもしれません。感染症は歴史の始まり以降存在しており、病原体と宿主との間でたえず進化的な軍拡競争が展開してきました。古代DNA抽出の技術における最近の進歩は、単純ヘルペスウイルス(herpes simplex virus、略してHSV)1型(HSV-1)やエプスタイン・バーウイルスやヒトパルボウイルスB19など、古代人の遺骸における広範な病原体ゲノムの検出を可能としました。これらの病原体は、唾液などさまざまな感染経路を通じてヒトに感染するかもしれず、接吻のあらゆる行為が、感染拡大の潜在的な手段となります。数千年前のヒト遺骸に由来する微生物のゲノムの確認から、接吻により伝染する生物が有史時代さらには先史時代に存在したかもしれない、と示唆されます。

 最近の興味深い研究では、紀元後253~1700年頃のヒト骨格の歯の試料に由来するHSV-1ゲノムが提示されました。その研究では、青銅器時代にHSV-1の優勢な系統に変化があった、と発見され、この変化はHSV-1の水平伝播の追加経路により起き、恋愛的で性的な接吻など、移住により引き起こされた新たな文化的慣行の導入と関連しているかもしれない、と示唆されました。この事例を考えると、HSV-1を示唆する症状は、古代メソポタミアの疾患の症状を記録する、かなりの量の医学写本に含まれていたかもしれません。この資料は、症状を現代の疾患の症状と関連づけることにより特定の疾患の古代の記述を解釈する遡及的診断の使用のさいに、慎重に取り組むべきですが、古代の医学文献がさまざまな文化的および宗教的概念の影響を受けていたことは、無視できません。したがって、保存された文章を文字通りに読むことはできない、と強調されるべきです。

 古代の医学文献に記載されているブシャーヌ(bu’šānu)と呼ばれる疾患は、ジフテリアなど多くの他の現代の疾患に加えて、HSV-1感染を反映しているかもしれない、と提案されてきましたん。ブシャーヌ病は、おもに口と咽頭の中や周囲に位置し、その名称自体、「悪臭を放つ」を意味する動詞に由来しました。これらの疾患のさまざまな記述が存在し、いくつかにはブブトゥ(bubu’tu)という症状が含まれています。ブシャーヌがHSV-1感染症を含んでいるかもしれない、という解釈は、ブブトゥが「小水泡」として解釈できる、という観察におもに基づいていますが、「膿疱」や「腫物」という訳語が主流です。口の中もしくは周辺の小水泡は、HSV-1感染症の主要な兆候の一つです。

 古代メソポタミアにおいて、ヒトがどのように疾患に罹ったのか、という見解は現代の理解と異なっており、メソポタミアの人々はブシャーヌもしくは一般的に感染症の拡大を接吻が原因とは考えませんでした。それにも関わらず、特定の文化的および宗教的要因により、この慣行の部分的な社会的規制が開始されました。そうした親密な関係の規制には、病原体拡大の減少という認識されていない利点があったかもしれません。それでも、伝染性疾患の経験は、体液を介した感染を避ける他の現実的手段をもたらした可能性があるようです。紀元前1775年頃の手紙によると、宮殿の後宮(ハーレム)にいる女性は、障害を引き起こす感染症に罹っていました。感染を避けるため、全員が感染した女性の杯から飲むことや寝台で眠ることや椅子に座ることを避けるよう指示されました。

 古代メソポタミアの資料から、性交や家族や友情と関連する接吻は、紀元前三千年紀後半以降の古代中東の中心部では日常生活の通常の一部だった、と示唆されます。したがって、接吻は単一の地域にのみ由来し、そこから拡大した習慣とみなされるべきではありません。さらに、メソポタミアの資料から、恋愛的で性的な接吻は、紀元前1500年頃のインドの言及よりもずっと以前に広範な地理的領域で知られており、接吻の歴史に関する以前の観察とは対照的である、と示されます。

 恋愛的で性的な接吻の古代の文化的拡散の説明は困難で、多くの独立した起源があったようです。一部の社会は恋愛的で性的な接吻を行なっていたかもしれませんが、それはほとんどの古代文化で知られていたはずで、ほぼ普遍的なものだった、と示唆できます。この観察を裏づける文字の証拠資料は、階層化されて福津佐那社会に由来しており、その発見が複雑な国家水準の社会で見られる行動の典型にすぎないのかどうか、という問題が残ります。証拠から、接吻は古代において一般的な慣行で、HSV-1など経口感染微生物【ウイルスは一般的には生物とされておらず、病原体と解釈すべきでしょうか】の拡大への不断の影響を表しているかもしれない、と示唆されます。したがって、接吻が他の同時代の社会において、直接的な行動の適応として発生し、それがうっかり疾患伝染を加速させた、という可能性は低そうです。最後に、疾患伝染の媒介としての接吻に関する議論は、社会的相互作用を通じての歴史的な疾患伝染の全体像を提示するための、学際的手法の利点を示しています。


参考文献:
Arbøll TP, and Rasmussen SL.(2023): The ancient history of kissing. Science, 380, 6646, 688–690.
https://doi.org/10.1126/science.adf0512

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