寺西貞弘『天武天皇』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2023年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、天武天皇(大海人皇子)の生涯、および皇親政治と律令制導入の実態を主題とします。天武天皇の生涯については、その前半生に不明な点が多く、年齢も定かではないこと(ただ、『日本書紀』において「天皇」の年齢が不明なのは珍しくなく、とくに『日本書紀』編纂時に近い天皇は、基本的に年齢が不明です)から(関連記事)、兄とされている天智天皇(中大兄皇子)との関係についても、天武の方が年長とか異父兄弟の関係とか兄弟関係にはなかったとか主張する人もいました(関連記事)。本書は年齢や多くの女性との婚姻など、天武の生涯とともに、皇親政治と律令制導入を検証しています。本書は、まず課題を提示し、検証した後でまとめを記載しており、新書であることを意識したのか、非専門家にとって親切な構成になっていると思います。天武朝の外交政策の記述がほとんどなかったのは残念でしたが、それは他の本で調べていけばよいでしょう。
天武の生年については議論がありますが、天智との比較で、『本朝皇胤紹運録』での年齢差や、政治的な初登場時期や、初生子の生年から、10歳ほどの差があり、635年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)頃に生まれたのではないか、と推測されています。天武が天智の娘でも年長の大田と鸕野讚良(持統天皇)を妻としたのは、天智が天武を警戒し、兄弟間の上下関係を明らかにするためだった、と推測されています。百済への救援軍派遣では、天武もその母親である斉明天皇(大王)に従って九州に赴いたと考えられますが、それは、畿内での天武の謀叛を天智が警戒したからではないか、と本書は推測します。
百済への救援軍派遣は大失敗に終わり(663年の白村江の戦い)、その主力軍は国造を中心とする豪族だったので、その不満の矛先は斉明没後に即位せず称制とした天智に向けられた、と本書は指摘します。天武による冠位改正の発布は、自身が表立って豪族に発布できないことを理解していた天智による、やむを得ない選択だった、というわけです。本書は、この間の政治的実績により、天武が天智と共治する偉大な「皇弟」、つまり「大皇弟」と評されるようになったのだろう、と推測します。その後、近江に遷都して即位したことから窺えるように、天智は威勢を回復したことで、不満を抱く豪族に対して矢面に立たせていた天武がもはや不要になったものの、それまでの政治的実績から天武を粗略に扱うわけにもいかず、天武を皇嗣とした、と本書は指摘します。しかし、天智と天武にはそれぞれ支持勢力があり、両者は疑心暗鬼に満ちた関係だった、と本書は評価しています。
天武と最晩年の天智とのやり取り、さらには大友皇子の立場について、大友の太政大臣任官は天智と天武の了解によるもので、蘇我氏や中臣氏や巨勢氏や紀氏といった有力豪族から輩出される議政官を、大友が皇族の立場から統御する意図に基づいており、天武が太政大臣にならなかったのは、天智との共治体制において皇嗣として位置づけられていたからだ、と本書は推測します。つまり天武は、病床の天智に呼び出されたさい、天智の皇后である倭姫が即位し、大友を引き続き太政大臣として任用するよう提案した、というわけです。天武と病床の天智とのやり取りについては、天智が天武の次に大友を即位させるよう要請したので、それを不満に思った天武が辞退した、という瀧浪貞子『持統天皇 壬申の乱の「真の勝者」』の見解(関連記事)が採用されています。本書はこの天武と病床の天智とのやり取りを、不改常典との関連で検討しています。不改常典については長い議論がありますが、本書は、群臣協議が必要だった皇嗣決定を、天皇(大王)自らの意思で決定しようとしたことこそ不改常典であり、それは病床の天智が初めて示したことだった、と推測します。本書は、大友は議政官筆頭であって皇嗣ではなかったので当然即位せず、倭姫の即位も壬申の乱の混乱の中で実現しなかった、と推測します。
壬申の乱における天武の計画性の有無について古くから議論になってきましたが、本書が重視するのは、大友が官僚機構を利用して軍事動員したのに対して、天武は一貫して私的紐帯に依存していた、ということです。本書は壬申の乱の政治的意義について、官僚機構を活用できた大友に対して、一貫して私的紐帯に依存していた天武が勝ったことから、天武が天智とともに築き上げてきた官僚機構の脆弱さを示した、と評価しています。そのため、壬申の乱で勝ち即位した天武にとって、律令制の導入と強固な官僚機構の構築が重要な政治的目標になった、というわけです。
本書は天武朝を、678年までの前半と679年以降の後半に区分します。天武朝前半には、高位の人物の処罰が目立ち、官僚統制への強い志向が窺えます。天武朝後半には、前半には見られなかった鸕野讚良皇女の政治への関与が見えるようになり、この頃には天武の諸妃の中で鸕野讚良皇女が特別な存在だった、と本書は指摘します。天武朝においても改革が進められており、旧来の立礼から唐風の立礼への移行が命じられていますが、これは孝徳朝においても勧められていたことで、在来の慣習が根強かったことを示唆しています。天武没後すぐに起きた大津皇子事件について、鸕野讚良皇女が実子の草壁の競合相手である大津を陥れた、との見解が有力かもしれませんが、本書は、大津に能動的な謀叛の動きがあった、と指摘します。ただ本書は、大津の謀叛に関わったとされながら、処分が漢代だった人物には、鸕野讚良皇女に近い者もおり、大津を陥れようとした鸕野讚良皇女の策略はあっただろう、と推測しています。
天武朝は「皇親政治」の時代だった、と評価されています。ではそもそも、天武朝における「皇親」はどう定義されていたのか、本書は検証します。まず本書は、天武朝において鸕野讚良皇女が初めて政治に関わるのは679年の吉野の盟約であり、鸕野讚良皇女はこの時に皇后に立てられ、その息子である草壁皇子の処遇も格段に上昇した、と推測します。天智朝と比較しての天武朝の特徴として、本書は諸王の活動が目立つことを指摘します。本書は、諸王でありながら諸王位ではなく臣下の冠位を授けられた美濃王の事例から、天皇より5世までが皇親とされつつ、じっさいには天皇より5世の子供も王を名乗れた令制下と同様に、天武朝にも天皇(大王)の子孫であり慣習的に王を名乗りながら、社会的にはもはや皇親ではない人々がおり、美濃王や額田姫王はそうした人々だった、と推測します。本書は、皇親と臣下の境界を明確化するために施行されたのが685年の48階冠位制であり、この課題はその前年の八色の姓の制定により実質的に解決されていて、天武朝には令制と同じく天皇から5世の子孫までが皇親と考えられていただろう、と指摘します。
天武朝には、天智朝とは異なり大臣が置かれず、「皇親政治」の時代とされていますが、本書は、天武朝において皇親が高位を優先的に占めていたわけではなかったことから、実質的な皇親政治は持統朝以降との見解も取り上げています。一方で本書は、天武朝の記事ではそれ以前とは異なり多くの皇親が職務とともに記載されるようになり、皇親が政治に携わる時代だったことも指摘します。ただ本書は、天武朝において皇親の多くが務めたのは臨時の官もしくは地方派遣官で、皇親が政治の中心的担い手だったとは言えない、と評価しています。一方で、大豪族はある程度の発言権を有しており、公卿として処遇されていただろう、と本書は推測します。本書は、天武朝において皇親は豪族との力関係の変遷にともなって扱われ方が変化しており、皇親政治と一概には言えない、と評価しています。天武朝における大津皇子の位置づけについては、「朝政を聡く」とは単に後世の参議のような立場で国政に参画したことを意味しており、他の天武の皇子と同様に21歳になったので自動的に政治に参加したのだろう、と本書は推測します。本書は、天武朝において成長して21歳になり政治に関わるようになった天武の皇子が増えていき、その意味では皇親政治の時代と言えるものの、大臣のような大きな権限を有していなかった、と評価しています。本書は、天武天皇から持統天皇へと引き継がれた皇親政策とは、皇親を特別扱いするものではなく、皇親を冠位制度に整然と序列化するものであり、「皇親政治」とは、皇親を官僚化する過程で生じた一時的現象だった、と指摘します。こうした動向に伴い、それまで宮都から離れて居住することもあった皇親が宮都に居住するようになった、と本書は指摘します。
天武朝の官制については、太政官の管轄下になかった宮内官の権限の大きさが指摘されており、天武朝以降と比較して内廷と外廷が未分化だった、と評価されています。こうした官制は浄御原令により大きく変わり、宮内官は宮内省と中務省に分けられ、太政官の管轄に置かれます。本書は、浄御原令により大臣の権限と義務が明記されるまで、大きな権限の大臣を天武天皇が任命できなかったのではないか、と推測しています。都については、天武は複都制とともに、後の藤原京への遷都も構想していた、と本書は推測します。天武朝では地方制度の整備も進み、本書は、天武が中央官司でも地方組織でも巨大な存在を好まなかった、と指摘します。
本書は律令制への起点を推古朝に見ていますが、推古朝の改革は遣隋使の必要性から生じた外交的なもので、内政面には及ばなかった、と評価しています。その後、推古朝の冠位十二階では対象外とされた大豪族も冠位制に組み込まれていき、単行法令の積み重ねで律令制への移行が進められ、白村江の戦いでの大敗を契機に律令制導入の必要性が強く認識された、と本書は概観します。ただ本書は、白村江の戦い後の天智朝には律令制定の余裕はなく、近江令は制定されなかった、と推測します。天武朝に始まった律令の制定事業は、天武没後の689年に浄御原令が施行されたことで、一定の成果を見せます。浄御原令は現存しておらず、その具体的内容全てを確定できませんが、かなり成熟した法典だっただろう、と本書は推測します。浄御原令と大宝令との違いについては、行幸の規定では大きく、その背景として天皇親政の未成熟を本書は想定しています。
天武朝には、仏教が全国に飛躍的に普及しました。本書は、天智朝末期に天武が天智の提案を断り出家し、それが許されたことから、天智朝の時点で仏教が一定以上浸透していた、と指摘します。こうした天智朝の状況が、天武朝における仏教の普及と仏教政策の前提になったようです。天武朝では仏教統制が進められ、本書は天武朝の仏教政策を、国家による僧尼の管理と、国家官人との関係明示に分類しています。天智朝においては出家者に対する制約はなく、天武はそれを利用して近江朝廷から離れ、その後に決起して壬申の乱に勝利し即位したことから、仏教界の統制を急務と考えたのだろう、と本書は推測します。
天武の生年については議論がありますが、天智との比較で、『本朝皇胤紹運録』での年齢差や、政治的な初登場時期や、初生子の生年から、10歳ほどの差があり、635年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)頃に生まれたのではないか、と推測されています。天武が天智の娘でも年長の大田と鸕野讚良(持統天皇)を妻としたのは、天智が天武を警戒し、兄弟間の上下関係を明らかにするためだった、と推測されています。百済への救援軍派遣では、天武もその母親である斉明天皇(大王)に従って九州に赴いたと考えられますが、それは、畿内での天武の謀叛を天智が警戒したからではないか、と本書は推測します。
百済への救援軍派遣は大失敗に終わり(663年の白村江の戦い)、その主力軍は国造を中心とする豪族だったので、その不満の矛先は斉明没後に即位せず称制とした天智に向けられた、と本書は指摘します。天武による冠位改正の発布は、自身が表立って豪族に発布できないことを理解していた天智による、やむを得ない選択だった、というわけです。本書は、この間の政治的実績により、天武が天智と共治する偉大な「皇弟」、つまり「大皇弟」と評されるようになったのだろう、と推測します。その後、近江に遷都して即位したことから窺えるように、天智は威勢を回復したことで、不満を抱く豪族に対して矢面に立たせていた天武がもはや不要になったものの、それまでの政治的実績から天武を粗略に扱うわけにもいかず、天武を皇嗣とした、と本書は指摘します。しかし、天智と天武にはそれぞれ支持勢力があり、両者は疑心暗鬼に満ちた関係だった、と本書は評価しています。
天武と最晩年の天智とのやり取り、さらには大友皇子の立場について、大友の太政大臣任官は天智と天武の了解によるもので、蘇我氏や中臣氏や巨勢氏や紀氏といった有力豪族から輩出される議政官を、大友が皇族の立場から統御する意図に基づいており、天武が太政大臣にならなかったのは、天智との共治体制において皇嗣として位置づけられていたからだ、と本書は推測します。つまり天武は、病床の天智に呼び出されたさい、天智の皇后である倭姫が即位し、大友を引き続き太政大臣として任用するよう提案した、というわけです。天武と病床の天智とのやり取りについては、天智が天武の次に大友を即位させるよう要請したので、それを不満に思った天武が辞退した、という瀧浪貞子『持統天皇 壬申の乱の「真の勝者」』の見解(関連記事)が採用されています。本書はこの天武と病床の天智とのやり取りを、不改常典との関連で検討しています。不改常典については長い議論がありますが、本書は、群臣協議が必要だった皇嗣決定を、天皇(大王)自らの意思で決定しようとしたことこそ不改常典であり、それは病床の天智が初めて示したことだった、と推測します。本書は、大友は議政官筆頭であって皇嗣ではなかったので当然即位せず、倭姫の即位も壬申の乱の混乱の中で実現しなかった、と推測します。
壬申の乱における天武の計画性の有無について古くから議論になってきましたが、本書が重視するのは、大友が官僚機構を利用して軍事動員したのに対して、天武は一貫して私的紐帯に依存していた、ということです。本書は壬申の乱の政治的意義について、官僚機構を活用できた大友に対して、一貫して私的紐帯に依存していた天武が勝ったことから、天武が天智とともに築き上げてきた官僚機構の脆弱さを示した、と評価しています。そのため、壬申の乱で勝ち即位した天武にとって、律令制の導入と強固な官僚機構の構築が重要な政治的目標になった、というわけです。
本書は天武朝を、678年までの前半と679年以降の後半に区分します。天武朝前半には、高位の人物の処罰が目立ち、官僚統制への強い志向が窺えます。天武朝後半には、前半には見られなかった鸕野讚良皇女の政治への関与が見えるようになり、この頃には天武の諸妃の中で鸕野讚良皇女が特別な存在だった、と本書は指摘します。天武朝においても改革が進められており、旧来の立礼から唐風の立礼への移行が命じられていますが、これは孝徳朝においても勧められていたことで、在来の慣習が根強かったことを示唆しています。天武没後すぐに起きた大津皇子事件について、鸕野讚良皇女が実子の草壁の競合相手である大津を陥れた、との見解が有力かもしれませんが、本書は、大津に能動的な謀叛の動きがあった、と指摘します。ただ本書は、大津の謀叛に関わったとされながら、処分が漢代だった人物には、鸕野讚良皇女に近い者もおり、大津を陥れようとした鸕野讚良皇女の策略はあっただろう、と推測しています。
天武朝は「皇親政治」の時代だった、と評価されています。ではそもそも、天武朝における「皇親」はどう定義されていたのか、本書は検証します。まず本書は、天武朝において鸕野讚良皇女が初めて政治に関わるのは679年の吉野の盟約であり、鸕野讚良皇女はこの時に皇后に立てられ、その息子である草壁皇子の処遇も格段に上昇した、と推測します。天智朝と比較しての天武朝の特徴として、本書は諸王の活動が目立つことを指摘します。本書は、諸王でありながら諸王位ではなく臣下の冠位を授けられた美濃王の事例から、天皇より5世までが皇親とされつつ、じっさいには天皇より5世の子供も王を名乗れた令制下と同様に、天武朝にも天皇(大王)の子孫であり慣習的に王を名乗りながら、社会的にはもはや皇親ではない人々がおり、美濃王や額田姫王はそうした人々だった、と推測します。本書は、皇親と臣下の境界を明確化するために施行されたのが685年の48階冠位制であり、この課題はその前年の八色の姓の制定により実質的に解決されていて、天武朝には令制と同じく天皇から5世の子孫までが皇親と考えられていただろう、と指摘します。
天武朝には、天智朝とは異なり大臣が置かれず、「皇親政治」の時代とされていますが、本書は、天武朝において皇親が高位を優先的に占めていたわけではなかったことから、実質的な皇親政治は持統朝以降との見解も取り上げています。一方で本書は、天武朝の記事ではそれ以前とは異なり多くの皇親が職務とともに記載されるようになり、皇親が政治に携わる時代だったことも指摘します。ただ本書は、天武朝において皇親の多くが務めたのは臨時の官もしくは地方派遣官で、皇親が政治の中心的担い手だったとは言えない、と評価しています。一方で、大豪族はある程度の発言権を有しており、公卿として処遇されていただろう、と本書は推測します。本書は、天武朝において皇親は豪族との力関係の変遷にともなって扱われ方が変化しており、皇親政治と一概には言えない、と評価しています。天武朝における大津皇子の位置づけについては、「朝政を聡く」とは単に後世の参議のような立場で国政に参画したことを意味しており、他の天武の皇子と同様に21歳になったので自動的に政治に参加したのだろう、と本書は推測します。本書は、天武朝において成長して21歳になり政治に関わるようになった天武の皇子が増えていき、その意味では皇親政治の時代と言えるものの、大臣のような大きな権限を有していなかった、と評価しています。本書は、天武天皇から持統天皇へと引き継がれた皇親政策とは、皇親を特別扱いするものではなく、皇親を冠位制度に整然と序列化するものであり、「皇親政治」とは、皇親を官僚化する過程で生じた一時的現象だった、と指摘します。こうした動向に伴い、それまで宮都から離れて居住することもあった皇親が宮都に居住するようになった、と本書は指摘します。
天武朝の官制については、太政官の管轄下になかった宮内官の権限の大きさが指摘されており、天武朝以降と比較して内廷と外廷が未分化だった、と評価されています。こうした官制は浄御原令により大きく変わり、宮内官は宮内省と中務省に分けられ、太政官の管轄に置かれます。本書は、浄御原令により大臣の権限と義務が明記されるまで、大きな権限の大臣を天武天皇が任命できなかったのではないか、と推測しています。都については、天武は複都制とともに、後の藤原京への遷都も構想していた、と本書は推測します。天武朝では地方制度の整備も進み、本書は、天武が中央官司でも地方組織でも巨大な存在を好まなかった、と指摘します。
本書は律令制への起点を推古朝に見ていますが、推古朝の改革は遣隋使の必要性から生じた外交的なもので、内政面には及ばなかった、と評価しています。その後、推古朝の冠位十二階では対象外とされた大豪族も冠位制に組み込まれていき、単行法令の積み重ねで律令制への移行が進められ、白村江の戦いでの大敗を契機に律令制導入の必要性が強く認識された、と本書は概観します。ただ本書は、白村江の戦い後の天智朝には律令制定の余裕はなく、近江令は制定されなかった、と推測します。天武朝に始まった律令の制定事業は、天武没後の689年に浄御原令が施行されたことで、一定の成果を見せます。浄御原令は現存しておらず、その具体的内容全てを確定できませんが、かなり成熟した法典だっただろう、と本書は推測します。浄御原令と大宝令との違いについては、行幸の規定では大きく、その背景として天皇親政の未成熟を本書は想定しています。
天武朝には、仏教が全国に飛躍的に普及しました。本書は、天智朝末期に天武が天智の提案を断り出家し、それが許されたことから、天智朝の時点で仏教が一定以上浸透していた、と指摘します。こうした天智朝の状況が、天武朝における仏教の普及と仏教政策の前提になったようです。天武朝では仏教統制が進められ、本書は天武朝の仏教政策を、国家による僧尼の管理と、国家官人との関係明示に分類しています。天智朝においては出家者に対する制約はなく、天武はそれを利用して近江朝廷から離れ、その後に決起して壬申の乱に勝利し即位したことから、仏教界の統制を急務と考えたのだろう、と本書は推測します。
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