黒田基樹『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚構をはぎ取る』
朝日新書の一冊として、朝日新聞社より2023年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、近年の徳川家康研究の進展を踏まえた一般向けの解説です。最近十数年で家康研究は大きく前進したようで、とくに少年期から羽柴秀吉に従属するまでの政治動向と、秀吉死後から征夷大将軍就任までの政治動向について、研究が著しく進展したそうです。今年(2023年)の大河ドラマは徳川家康を主人公とする『どうする家康』なので、家康に関する研究の進展を把握するために読みました。本書は、家康の征夷大将軍任官までを対象としています。
幼少期から思春期にかけての家康については、今川家の「人質」ではなかった、との近年の見解が改めて示されています。家康は国衆である岡崎松平家の当主で、妻の築山殿は今川家御一家衆の関口氏純の娘なので、今川家の親類衆とみなされ、駿府での居住も当然のことだった、というわけです。ただ、「人質」の定義にもよりますが、婚姻も含めたこうした「優遇」と「人質」であることが相互に排他的とは断定できないように思います。また、家康が幼少期に織田家に人質として送られたのが事実だったのかも、疑問が呈されています。家康の生年については、1542年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)とされてきましたが、1543年説も有力です。
家康の父である松平広忠は、安城松平氏系の岡崎松平家の当主で、安城松平氏の惣領家という立場でした。三河の松平氏一族は、当初から岩津・安城松平氏と大給松平氏と大草松平氏に分立しており、松平広忠は松平氏一族全体の惣領家ではありませんでした。当時、三河には今川家と織田家も侵出し、松平広忠は今川と織田の双方と戦うこともあり、織田家に従属したのか否かは不明ですが、1547年9月には今川家に従属しています。松平広忠は1549年3月に没し、その嫡男である家康(竹千代)が岡崎松平家の家長となりますが、父の死の前にすでに家康が家督を継承していた、との見解もあります。この時点で家康は8歳(数え年、以下、明記しない場合は基本的に数え年です)もしくは7歳で、今川家の保護下に置かれ、駿府に滞在することになりました。その時期は、1549年11月か、1550年6月以前でした。
家康が駿府に滞在していた時、岡崎領は今川家の保護下に置かれましたが、実際の統治や家臣団統制を担ったのは松平家の家老たちでした。今川義元が担ったのは、松平家の家臣に対する所領の給与や安堵、家督相続の安堵、戦功への感状の発給、領国の寺社に対する所領や特権の給与および安堵に限られていました。ただ、岡崎領は織田方との対峙において最前線に位置したので、今川家から譜代家臣や国衆などが岡崎領に派遣されました。ただ本書は、これが戦国大名の従属下にあり、敵対勢力との最前線に位置した国衆としては基本的な在り様だった、と指摘します。家康(竹千代)は駿府で1555年か1556年に元服し、仮名は次郎三郎、実名は元信と名乗りました。この「信」は、岩津・安城松平氏では、始祖の信光をはじめとしてよく見られました。
元信(家康)は1558年7月までには元康と改名し、これは祖父の清康に由来します。家康の結婚は1556年か1557年で、妻の築山殿は家康の2歳ほど上と推測されます(関連記事)。上述のように築山殿の父は関口刑部少輔氏純で、関口刑部少輔は今川家御一家衆での序列は、成立期には4位、当時は5位程度と推測されます。本書はこの時期の家康(元康)を、今川家御一家衆の婿であることから親類衆として扱われていた、と推測します。今川家に従属した国衆の全てが御一家衆と婚姻関係にあったわけではないので、家康は今川家において優遇されていた、と本書は評価します。
家康(元康)は元服を機に岡崎領の統治を始めますが、当初は大伯母(父方祖父の清康の姉)である久が実際には出しており、公文書発給開始の儀式である「判始め」を行なった後に、じっさいに文書を発給するようになったのではないか、と本書は推測します。本書は久を、当主代行の「おんな家長」の立場にあった、と指摘します。今川義元による岡崎領統治が確認できるのも、家康による花押のある公文書発給の前までとなっており、それは1557年5月以前のことだったようです。家康の岡崎領統治はこうして始まりましたが、相変わらず駿府に居住したままでした。本書はこれを、今川家親類衆の立場からは奇異ではない、と指摘します。今川家御一家衆は、国衆として存在していても駿府居住が基本で、この時期の家康は限りなく今川家御一家衆に近い存在だったのだろう、と本書は推測します。この頃の家康の岡崎領統治についてはよく分かっていませんが、家康の判断に家老全員が異議を唱えても家康が聞き入れなかった場合には、家老は関口氏純と朝比奈親徳(今川家の家老)に訴訟し、両者から家康に意見するよう定められていました。
1560年5月、今川義元は尾張へと進軍しますが、この時点での義元は「御隠居様」の立場にあり、嫡男の氏真がすでに1557年1月に家督を継承していました。しかし、義元が非は続き家長権を行使し、氏真は1558年から領国統治を担うようになったものの、その対象は駿河と遠江で、三河と軍事行動に関しては義元の管轄だったようです。そのため、尾張への進軍でも義元が総大将だったわけですが、義元は1560年5月19日に戦死し(桶狭間合戦)、兵糧運搬のために尾張の大高城に入った家康(元康)は、大高城から本拠の岡崎城へと後退します。この時、岡崎城から今川方の在城衆は大挙したようです。
この後しばらく、家康(元康)は織田方と抗争しており、直ちに今川家から自立したわけではありませんでした。しかし、1560年9月に長尾景虎(上杉謙信)が越後から関東の北条家領国へと侵攻してきて、今川家と北条家と武田家は同盟関係にあったので、氏真は自ら北条家への援軍を指揮します。これにより、家康は単独で自軍より強大な織田軍と戦わねばならず、1561年2月頃に織田信長と和睦を締結します。これは今川氏真の了解を得たものではなく、今川家との抗争になる危険性もあり、じっさいそうなりましたが、当時の家康は、今川家よりも織田家との抗争の方が領国確保には脅威と判断したのだろう、と本書は推測します。家康は今川家からの自立を強く意識したのか、1561年3月には将軍の足利義輝と通信しています。1561年4月に、家康は今川家の三河における拠点の一つである牛久保城を攻撃し、これは今川家への明確な敵対行動なので、今川氏真は家康の叛乱と認識し、これ以降松平(徳川)家と今川家との本格的な抗争が続きました。
家康(元康)と今川氏真の戦いは三河全域に及び、家康の三河制圧は必ずしも順調ではありませんでした。この間、家康の嫡男である竹千代(信康)は駿府にいましたが、殺害されていません。本書は、今川家御一家衆の関口氏純の孫である竹千代(信康)を家康に代わる岡崎松平(徳川)家の当主として擁立する構想が氏真にはあったのではないか、と推測します。家康は今川家との戦いで劣勢にあり、1563年3月には竹千代(信康)と織田信長の娘(五徳)との婚約が成立した、と伝わっています。これが事実ならば、家康は織田との同盟強化により苦境を乗り切ろうとした、と考えられます。この時点では、松平(徳川)家と織田家は対等な同盟関係だったようです。今川氏真は1563年6月に三河へと進軍し、岡崎松平家では重臣の酒井忠尚が叛乱するなど、家康にとって苦境が続きますが、氏真は1563年7月には北条家への援軍のため小田原に向かいます。本書はこれを、家康にとって幸運だった、と評価しています。この1563年6月~10月までの間に、松平元康は実名を家康と改め、今川家からの自立をさらに鮮明にします。
こうして一旦は苦境を脱した家康ですが、1563年10月には三河の名族である吉良義昭や、他の松平一族が家康に敵対し、その鎮圧のために一向宗寺院に軍事負担を課したところ、激しい反発を受けて、「三河一向一揆」が始まり、家康の譜代家臣の一向宗門徒の中には、一向一揆側に寝返る者さえいました。しかし、家康にとって幸運なことに、1563年12月に遠江西部の国衆が今川家に叛乱し、今川の大軍が三河に侵攻することはありませんでした。今川家から支援を得られなかったことで、一向一揆側は籠城し、家康は一向一揆を個別に攻略できました。家康は叛乱勢力を服属させるか国外追放し、西三河の他の松平一族など有力者を譜代家臣として編成することに成功して、国衆を従属させていきました。こうして、家康は戦国大名権力として成長していきます。家康は、酒井忠次と石川家成(後にその甥の石川数正)という二人の寄親を通じて、家臣団を統制します。家康は1566年には、苗字(名字)を松平から徳川に改めています。これは、家臣に編成した三河の松平一族との政治的地位の差別化を意図していました。同時に、家康は源姓から藤原姓に改めていますが、これは、叙位任官を近衛前久に申請してもらったことで、その氏人(藤原氏の一員)という体裁が取られたからでした。
三河を制圧していき、戦国大名権力として成長していった家康は、1568年12月以降に、武田信玄と協同して今川家領国へと侵攻します。この時、家康がすでに経略していた地域に武田軍が侵攻し、1569年1月までに家康は信玄に抗議します。家康は1569年2月には今川氏真が退去した懸河城を包囲し、同年5月9日には、氏真およびその義兄で氏真を支援する北条氏政と和睦し、懸河城は開城となります。この時、駿河に侵攻した信玄は駿府を攻略したものの、今川家を支援する北条軍の攻勢により、駿府周辺を確保しただけで、同年4月末には一旦甲斐に帰国します。この状況で家康が今川氏真および北条氏政と和睦したことを、信玄は契約違反行為と認識し、織田信長に、家康に意見するよう、要請しています。信玄は家康を信長の配下と認識しており、それ故に家康の(信玄から見て)裏切り行為について、信長に問い質したわけです。
じっさい、家康は将軍である足利義昭への奉公として織田信長に命じられ、1570年には上洛しており、その途中で信長の本拠である岐阜城に参向した、と伝わっています。これは、家康と信長の関係の変化を示すものとして重要になります。家康は信長に従って越前にまで攻め込みますが、浅井長政の離反により敗退し、遠江の新たな本拠地である見付城へと帰った、と推測されます。しかし、同年6月には信長の意見に従って本拠を浜松に移しており、信長との間に明確な上下関係が見られます。同月に浅井長政を攻めるために北近江に出陣した信長に家康も従い、朝倉と浅井の軍勢に勝利しています(姉川合戦)。さらに同年8月、信長がいわゆる三好三人衆を攻めるために摂津に進軍すると、家康も従軍します。この戦いで大坂本願寺が足利義昭と織田信長に対して蜂起し、信長は同年9月には京都に帰陣し、家康も同様と考えられます。
こうした1570年の家康の軍事行動は、将軍である足利義昭への支援という形ではあったものの、実際の軍事行動は全て信長の管轄下にありました。1571年8月、家康の嫡男の竹千代は元服し、実名は信康とされました。信康の苗字は徳川ではなく松平で、家康は関ヶ原合戦後にやっと子供の一部に徳川苗字を認めるようになります。信康の「信」は織田信長からの偏諱で、家康は信長に対して従属誓約の起請文を明確に出したわけではありませんが、この偏諱は徳川家が織田家の配下に位置していたことを明確に示しています。その後、信長が1575年11月に将軍相当の官位に就任し、名実ともに「天下人」となったことで、家康が信長に従属する立場になったことは明確になりました。この前後で、信長から家康への書状は、対等な相手に対するものから明確に配下に対するものへと変わり、家康から信長への書状は、目上に対する形という点では変わらなかったものの、宛先が信長から家臣へと変わっています。この「織田政権」での家康の地位は、織田家一門衆と同等とされました。これは、信康が信長の娘である五徳の夫だったこともありますが、信康が殺害され、五徳が織田家に戻っても、信長は家康を織田一門の大名として処遇し続けました。
上述のように、家康は武田信玄と協同して今川領に攻め込んだものの、今川氏真およびその支援者にして義兄でもある北条氏政と和睦したことを、信玄から契約違反行為と責められました。すでにその前に、信玄が駿府付近で放棄した今川方と和睦したことを家康が契約違反と責めており、今川家と勝手に和睦しないことが武田家と徳川家とのも間で決められていたようです。しかし家康は、信玄から契約違反と責められても関係を改善する意思はなかったようで、武田家との対決も視野に入れてか、1569年2月には上杉輝虎(謙信)に前年受け取った書状に返事を出しています。ただ、徳川家と武田家が直ちに本格的に軍事衝突したわけではなく、その同盟関係は表面的には継続し、1570年4月には家康の家臣から信玄の家臣へと同盟継続への尽力を訴えた書状が送られています。しかし、これを最後に両家の同盟関係は確認されず、家康は上杉家との同盟交渉を進めていきます。この時点で、上杉家は北条家および織田家と同盟関係にありました。1570年10月には徳川家と上杉家の同盟が成立し、これは明らかに対武田家対策でした。家康は、信長に武田家の同盟を破棄させようとも考えていました。家康のこの行為を、信玄は深く恨んでいたようです。ただ、信玄は北条家との抗争があったので徳川領に本格的に攻め込みませんでした。
この状況は、1571年10月に北条氏康が没し、北条家が上杉家との同盟を破棄して武田家と同盟したことにより、大きく変わります。1572年9月、信玄は徳川領へ向けて進軍を開始します。信玄は朝倉家や浅井家や大坂本願寺などとも連携し、徳川家だけではなく織田家とも敵対します。織田信長は、これを信玄の裏切りと認識し、武田家を強く恨んだようです。家康は、上杉家および北条家と連携して武田家を追い詰めるつもりでしたが、武田家と北条家の同盟が復活し、織田軍は畿内とその周辺で敵対勢力と対峙するようになっており、上杉家は北条家および越中方面での軍事行動を強いられ、孤立した状況で武田軍の侵攻に対処することになりました。遠江に侵攻してきた武田軍は、高天神城や二俣城などを攻略し、進軍開始から2ヶ月も経たないうちに徳川領の半分を制圧します。織田信長が徳川へと送った援軍は3000人ほどで、武田軍に対しての劣勢は否めませんでした。1572年12月22日、徳川軍は武田軍に大敗しますが(三方原合戦)、偶発的な小競り合いから本格的な合戦に至った、と本書は推測します。しかし、武田軍の進撃はこの後で鈍り、本書は信玄の病状悪化が原因だろう、と指摘します。武田軍は1573年2月17日に三河の野田城を攻略しますが、その後、同年3月に信玄は甲斐へと向かい、その途上、同年4月12日に没します。これにより、家康は窮地から脱しました。信玄の病状が悪化せず、そのまま進軍していたら、徳川家の存立が危機に陥ったかもしれない、と本書は指摘します。
しかし、1573年4月に武田信玄が没しても徳川家にとって武田家は相変わらず脅威で、1575年には長篠合戦の直前に、武田軍を岡崎城に引き入れ、岡崎城を武田方にしようと企てた大岡弥四郎事件が起きており、その結果、家康の嫡男で岡崎城主である松平信康の家老の一人である石川春重がその後で切腹させられ、松平氏一族の親宅が失脚していることから、大岡弥四郎の単独謀議ではなく、信康家臣団中枢による謀叛事件と考えられています。この謀叛は、武田軍が奥三河へと徳川領に侵攻してきた時に起きました。信玄没後すぐ、家康は武田軍に制圧された三河の旧領奪還に動き、武田軍にとって三河における拠点だった長篠城も攻略しています。しかし、信玄の跡を継いだ武田勝頼は直ちに反撃し、1574年には遠江の高天神城を奪取しています。1575年、勝頼は三河へと進軍し、これは織田信長に攻撃されていた大坂本願寺への側面支援でした。大岡弥四郎たちによる謀叛は未然に防がれましたが、これは武田軍が優勢との判断より、石川春重や大岡弥四郎が自らの存立維持のために起こした、と本書は推測し、この謀叛が盛行していた可能性は充分にあり、謀叛が密告により発覚したのは家康にとって幸運だった、と本書は指摘します。さらに本書は、武田家による調略が家康の正妻にして信康の生母である築山殿にも及んでいた可能性を指摘します。この時、三河へと侵攻してきた武田軍は長篠城に向かい、家康は徳川家の危機として織田信長に援軍を要請し、信長は嫡男の信忠とともに三河に出陣してきて、5月21日、武田軍に大勝します(長篠合戦)。その後、家康は武田家に奪われた旧領を奪回していきます。
大岡弥四郎事件から4年後の1579年8月4日、家康は岡崎城主である嫡男の信康を「逆心」のため追放して幽閉し、その生母で家康の正妻である築山殿も幽閉します。同月29日には築山殿は自害し、同年9月15日には信康が自害させられます。この事件は江戸時代に成立した『三河物語』により、信康の正妻である五徳の父親の織田信長の命により、家康は信康を切腹させた、と長く考えられてきました。しかし現在では、信康の処罰は家康が信長に従属していたため、信長に申請して信長から了解を得たにすぎない、と考えられています。本書はこの事件の遠因として、上述の1575年に起きた大岡弥四郎事件を挙げ、築山殿が武田家に内通し、信康家臣団中枢とともに謀叛を画策した、と推測しています。本書は、1575年時点で築山殿は徳川家が武田家に滅ぼされることを懸念し、その対策として武田家に内通し、信康を武田家の従属下で存立させようとしたのではないか、と推測します。こうした行動は戦国時代には珍しくなく、築山殿にとって夫の家康よりも息子の信康の方がはるかに大切だったのだろう、というわけです。上述のように、大岡弥四郎たちによる謀叛は未然に防がれ、信康の家老の一人である石川春重は切腹させられ、大岡弥四郎も処刑されていますが、恐らくは多くの信康家臣団がこの謀叛に参加しており、その全員を処罰しては信康家臣団が崩壊してしまうので、武田家との抗争の最中にあって謀叛の中心的人物だけが処罰され、築山殿の内通も家康は不問に付したのだろう、と本書は推測します。こうして家康と築山殿の間で信頼関係は失われ、築山殿は家康の嫡男である信康の生母という立場に特化し、信康に決定的に依拠するようになっただろう、と本書は指摘します。この状況で、信康と五徳とが不和となり、信康について不行状が記録されるようになります。信康と五徳の不和について本書は、政治的地位は両者の父親の力関係を反映して五徳の方が上だったのに、信康がそれを蔑ろにしたからではないか、と推測しています。五徳は信康への腹いせに信康の不行状を十ヶ条にまとめて信長に送り、信長はその内容を酒井忠次と大久保忠世に尋問し、1578年1月頃に築山殿の武田家内通を知ったのではないか、と本書は推測します。これを受けて家康は、1578年9月に、岡崎城下に居住していた三河衆を本拠に帰還させます。これは岡崎城主としての信康と三河衆の関係を切断させるためで、家康はこの時点で信康を危険視していたようです。家康は、信康が武田家に内通していなかったとしても、築山殿が信康とともに武田家に内通するつもりだったことから、信長への忖度として築山殿と信康を処罰することに決めたのだろう、と本書は推測します。それでも、築山殿と信康が処罰されたのはこの時点から約1年後で、それは、この時期には武田家との攻防が膠着状態に陥っており、信康の処罰による徳川家の軍事力低下を恐れたからだろう、と本書は指摘します。家康が築山殿と信康の処罰を決断したのは1579年6月頃で、その背景には同年4月に長丸(徳川秀忠)が生まれ、武田家と北条家の同盟が解消しそうだったことがあるまではないか、と本書は推測します。また本書は、家康が築山殿と信康を処罰した背景に、徳川家臣団における三河衆と浜松衆との間の対立の可能性を指摘します。本書は、家康は築山殿と信康を自害させるつもりはなかったものの、築山殿は自らの意思で自害し、信康は幽閉先の二俣城に徳川軍が集結した状況で不穏の事態を防ぐため、自害を命じたのだろう、と推測します。
武田家は北条家との同盟解消などで不利な状況に陥りますが、それでも家康が遠江の旧領の大半を回復したのは1581年で、1582年初頭の時点でも、武田家は徳川家単独で対抗するには大敵でした。しかし、1582年2月に織田軍が美濃から武田領国の信濃へと侵攻し、家康も呼応して駿河に侵攻すると、武田家は同年3月にはあっさり滅亡します。家康は織田信長から駿河一国を与えられますが、同年6月2日の本能寺の変で信長が横死し、旧武田領国の甲斐と信濃と上野をめぐって、徳川家と北条家と上杉家が争うことになります(天正壬午の乱)。この結果、家康は三河と遠江と駿河に加えて甲斐と信濃の大半も領国化し、有力大名に成長しますが、これは家康の独断ではなく、織田家の了解を得て進められました。この時点での家康は、織田政権に従属する織田一門大名の立場にあったわけです。しかし、織田政権では内乱が続き、織田信孝および柴田勝家と織田信雄および羽柴秀吉との対立では、家康は後者を支持しています。1583年、織田信孝と柴田勝家が相次いで羽柴秀吉に攻め滅ぼされますが、その後で織田信雄と羽柴秀吉の関係が悪化し、家康は織田信雄に与して羽柴秀吉と対立します。本書は、信雄が織田家当主で、徳川領と隣接する地域を領国としていたことを、信雄に与した理由として挙げています。家康は1584年、信雄とともに秀吉の侵攻に対峙し、家康は局地戦で勝利を収めたものの(長久手合戦)、全体的には劣勢で、家康と信雄から秀吉に人質を差し出す形で1584年11月には和睦が成立します。この時、秀吉は信雄に対しては対等性を示しましたが、家康に対しては自身が上位者であることを明確に示しています。家康は秀吉になかなか出仕しませんでしたが、信濃では国衆の大半が秀吉方につき、1585年11月には徳川家において秀吉との外交を担っていた家老の石川康輝(数正)が、家康の対秀吉強硬路線により家中での政治的立場を失って、出奔します。これは家康にとって大きな衝撃となり、秀吉はこれを外交関係の断絶とみなしましたが、同月29日の畿内を中心とする大地震(天正地震)により、秀吉が大打撃を受ける中で、家康は秀吉への従属を決断し、秀吉は家康討伐を断念します。家康は秀吉への従属に伴い、秀吉の妹の朝日(南明院殿)と結婚します。朝日は家康にとって築山殿に続く二人目の正妻でした。朝日の前夫は、一揆の攻撃により城を失い、秀吉により朝日と離婚させられていたようで、家康との結婚のために離婚させられたわけではなさそうです。
羽柴秀吉の妹との結婚もあり、羽柴(豊臣)政権における家康の立場は、他の旧戦国大名や旧織田家臣よりも上位にありました。家康が秀吉に出仕した直後の1586年11月時点で、家康の官位は織田信雄の次となる従三位権中納言で、秀吉の実弟である秀長と同等でした。家康は織田政権においてすでに、信長との姻戚関係(信康の死により解消されますが)もあって高い政治的地位にありました。1590年に信雄が失脚し、1591年に秀長が死去したことで、家康は羽柴政権において単独で諸大名筆頭に位置し、秀吉の死去まで変わりませんでした。領国規模でも、家康は羽柴政権の諸大名を上回り筆頭でした。家康は秀吉死後に「五大老」の筆頭として政務運営に関わりますが、秀吉に出仕した時から羽柴政権の政務に関わっており、とくに東国政策では重要な任務を委ねられ、関東と奥羽の大名や国衆が羽柴政権に従属するよう、働きかけていました。北条家の滅亡に伴い、家康は旧北条領国へと転封となりますが、これは家康が北条家への取次を担当していたにも関わらず、北条家の従属を実現できず開戦に至ったからで、家康は戦争により荒廃した旧北条領国の復興を担わされた、と本書は指摘します。ただ、これにより徳川領の石高はほぼ倍増の240万石となり、秀吉から親類大名筆頭の家康への配慮でもあったようです。朝日が死亡し、一時的に徳川家との姻戚関係が断絶しても、秀吉は家康とその嫡男である秀忠への厚遇を続け、秀吉の後継者とされた秀頼を家康と秀忠が補佐するよう、構想していました。
1598年8月15日に羽柴秀吉が死去し、後継者の秀頼は幼少だったので、「五大老・五奉行」により羽柴政権は運営され、家康は「五大老」筆頭として政務運営に関わりました。「五大老」で家康とともに別格的な地位にあった前田利家は、1599年閏3月3日に没し、その直後に羽柴家譜代家臣の内部抗争が生じ、「五奉行」の一人である石田三成が失脚します。同月13日に家康は伏見城西の丸に入り、家康が「天下人」になった、と同時代人に評されるようになりましたが、家康は他の大老や「四奉行(石田三成が失脚したため)」と協調して政務を担当していました。家康の地位が大きく変わったのは同年9月に大坂城西の丸に入ったことで、秀頼の後見人として天下を統治するようになった、と同時代人にみなされています。本書はこれについて、不在の「天下人」を実質的に代行した、と指摘します。ただ、家康はあくまでも「天下の家老」であり、「主人」ではない、とみなされていました。家康は自身の体制に反発したり、そう予想されたりする存在に従属を迫っていき、そうした過程で起きたのが1600年の関ヶ原合戦でした。これに大勝した家康は反対勢力を一掃し、一気に覇権を確立します。関ヶ原合戦後も家康は秀頼を主人とし、出仕し続けましたが、それは1603年2月4日が最後で、その直後の同月12日に家康は征夷大将軍に任官しています。これを機に家康は、すでに名目的になっていた秀頼との主従関係を最終的に解消した、と本書は評価します。家康は征夷大将軍任官後の1603年3月23日、大坂城西の丸から伏見城へ移り、ここが「天下の政庁」となります。家康は諸大名の大坂屋敷の妻子も伏見に移居させ、家康を主宰者とする新政権が誕生した、と本書は評価します。
幼少期から思春期にかけての家康については、今川家の「人質」ではなかった、との近年の見解が改めて示されています。家康は国衆である岡崎松平家の当主で、妻の築山殿は今川家御一家衆の関口氏純の娘なので、今川家の親類衆とみなされ、駿府での居住も当然のことだった、というわけです。ただ、「人質」の定義にもよりますが、婚姻も含めたこうした「優遇」と「人質」であることが相互に排他的とは断定できないように思います。また、家康が幼少期に織田家に人質として送られたのが事実だったのかも、疑問が呈されています。家康の生年については、1542年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)とされてきましたが、1543年説も有力です。
家康の父である松平広忠は、安城松平氏系の岡崎松平家の当主で、安城松平氏の惣領家という立場でした。三河の松平氏一族は、当初から岩津・安城松平氏と大給松平氏と大草松平氏に分立しており、松平広忠は松平氏一族全体の惣領家ではありませんでした。当時、三河には今川家と織田家も侵出し、松平広忠は今川と織田の双方と戦うこともあり、織田家に従属したのか否かは不明ですが、1547年9月には今川家に従属しています。松平広忠は1549年3月に没し、その嫡男である家康(竹千代)が岡崎松平家の家長となりますが、父の死の前にすでに家康が家督を継承していた、との見解もあります。この時点で家康は8歳(数え年、以下、明記しない場合は基本的に数え年です)もしくは7歳で、今川家の保護下に置かれ、駿府に滞在することになりました。その時期は、1549年11月か、1550年6月以前でした。
家康が駿府に滞在していた時、岡崎領は今川家の保護下に置かれましたが、実際の統治や家臣団統制を担ったのは松平家の家老たちでした。今川義元が担ったのは、松平家の家臣に対する所領の給与や安堵、家督相続の安堵、戦功への感状の発給、領国の寺社に対する所領や特権の給与および安堵に限られていました。ただ、岡崎領は織田方との対峙において最前線に位置したので、今川家から譜代家臣や国衆などが岡崎領に派遣されました。ただ本書は、これが戦国大名の従属下にあり、敵対勢力との最前線に位置した国衆としては基本的な在り様だった、と指摘します。家康(竹千代)は駿府で1555年か1556年に元服し、仮名は次郎三郎、実名は元信と名乗りました。この「信」は、岩津・安城松平氏では、始祖の信光をはじめとしてよく見られました。
元信(家康)は1558年7月までには元康と改名し、これは祖父の清康に由来します。家康の結婚は1556年か1557年で、妻の築山殿は家康の2歳ほど上と推測されます(関連記事)。上述のように築山殿の父は関口刑部少輔氏純で、関口刑部少輔は今川家御一家衆での序列は、成立期には4位、当時は5位程度と推測されます。本書はこの時期の家康(元康)を、今川家御一家衆の婿であることから親類衆として扱われていた、と推測します。今川家に従属した国衆の全てが御一家衆と婚姻関係にあったわけではないので、家康は今川家において優遇されていた、と本書は評価します。
家康(元康)は元服を機に岡崎領の統治を始めますが、当初は大伯母(父方祖父の清康の姉)である久が実際には出しており、公文書発給開始の儀式である「判始め」を行なった後に、じっさいに文書を発給するようになったのではないか、と本書は推測します。本書は久を、当主代行の「おんな家長」の立場にあった、と指摘します。今川義元による岡崎領統治が確認できるのも、家康による花押のある公文書発給の前までとなっており、それは1557年5月以前のことだったようです。家康の岡崎領統治はこうして始まりましたが、相変わらず駿府に居住したままでした。本書はこれを、今川家親類衆の立場からは奇異ではない、と指摘します。今川家御一家衆は、国衆として存在していても駿府居住が基本で、この時期の家康は限りなく今川家御一家衆に近い存在だったのだろう、と本書は推測します。この頃の家康の岡崎領統治についてはよく分かっていませんが、家康の判断に家老全員が異議を唱えても家康が聞き入れなかった場合には、家老は関口氏純と朝比奈親徳(今川家の家老)に訴訟し、両者から家康に意見するよう定められていました。
1560年5月、今川義元は尾張へと進軍しますが、この時点での義元は「御隠居様」の立場にあり、嫡男の氏真がすでに1557年1月に家督を継承していました。しかし、義元が非は続き家長権を行使し、氏真は1558年から領国統治を担うようになったものの、その対象は駿河と遠江で、三河と軍事行動に関しては義元の管轄だったようです。そのため、尾張への進軍でも義元が総大将だったわけですが、義元は1560年5月19日に戦死し(桶狭間合戦)、兵糧運搬のために尾張の大高城に入った家康(元康)は、大高城から本拠の岡崎城へと後退します。この時、岡崎城から今川方の在城衆は大挙したようです。
この後しばらく、家康(元康)は織田方と抗争しており、直ちに今川家から自立したわけではありませんでした。しかし、1560年9月に長尾景虎(上杉謙信)が越後から関東の北条家領国へと侵攻してきて、今川家と北条家と武田家は同盟関係にあったので、氏真は自ら北条家への援軍を指揮します。これにより、家康は単独で自軍より強大な織田軍と戦わねばならず、1561年2月頃に織田信長と和睦を締結します。これは今川氏真の了解を得たものではなく、今川家との抗争になる危険性もあり、じっさいそうなりましたが、当時の家康は、今川家よりも織田家との抗争の方が領国確保には脅威と判断したのだろう、と本書は推測します。家康は今川家からの自立を強く意識したのか、1561年3月には将軍の足利義輝と通信しています。1561年4月に、家康は今川家の三河における拠点の一つである牛久保城を攻撃し、これは今川家への明確な敵対行動なので、今川氏真は家康の叛乱と認識し、これ以降松平(徳川)家と今川家との本格的な抗争が続きました。
家康(元康)と今川氏真の戦いは三河全域に及び、家康の三河制圧は必ずしも順調ではありませんでした。この間、家康の嫡男である竹千代(信康)は駿府にいましたが、殺害されていません。本書は、今川家御一家衆の関口氏純の孫である竹千代(信康)を家康に代わる岡崎松平(徳川)家の当主として擁立する構想が氏真にはあったのではないか、と推測します。家康は今川家との戦いで劣勢にあり、1563年3月には竹千代(信康)と織田信長の娘(五徳)との婚約が成立した、と伝わっています。これが事実ならば、家康は織田との同盟強化により苦境を乗り切ろうとした、と考えられます。この時点では、松平(徳川)家と織田家は対等な同盟関係だったようです。今川氏真は1563年6月に三河へと進軍し、岡崎松平家では重臣の酒井忠尚が叛乱するなど、家康にとって苦境が続きますが、氏真は1563年7月には北条家への援軍のため小田原に向かいます。本書はこれを、家康にとって幸運だった、と評価しています。この1563年6月~10月までの間に、松平元康は実名を家康と改め、今川家からの自立をさらに鮮明にします。
こうして一旦は苦境を脱した家康ですが、1563年10月には三河の名族である吉良義昭や、他の松平一族が家康に敵対し、その鎮圧のために一向宗寺院に軍事負担を課したところ、激しい反発を受けて、「三河一向一揆」が始まり、家康の譜代家臣の一向宗門徒の中には、一向一揆側に寝返る者さえいました。しかし、家康にとって幸運なことに、1563年12月に遠江西部の国衆が今川家に叛乱し、今川の大軍が三河に侵攻することはありませんでした。今川家から支援を得られなかったことで、一向一揆側は籠城し、家康は一向一揆を個別に攻略できました。家康は叛乱勢力を服属させるか国外追放し、西三河の他の松平一族など有力者を譜代家臣として編成することに成功して、国衆を従属させていきました。こうして、家康は戦国大名権力として成長していきます。家康は、酒井忠次と石川家成(後にその甥の石川数正)という二人の寄親を通じて、家臣団を統制します。家康は1566年には、苗字(名字)を松平から徳川に改めています。これは、家臣に編成した三河の松平一族との政治的地位の差別化を意図していました。同時に、家康は源姓から藤原姓に改めていますが、これは、叙位任官を近衛前久に申請してもらったことで、その氏人(藤原氏の一員)という体裁が取られたからでした。
三河を制圧していき、戦国大名権力として成長していった家康は、1568年12月以降に、武田信玄と協同して今川家領国へと侵攻します。この時、家康がすでに経略していた地域に武田軍が侵攻し、1569年1月までに家康は信玄に抗議します。家康は1569年2月には今川氏真が退去した懸河城を包囲し、同年5月9日には、氏真およびその義兄で氏真を支援する北条氏政と和睦し、懸河城は開城となります。この時、駿河に侵攻した信玄は駿府を攻略したものの、今川家を支援する北条軍の攻勢により、駿府周辺を確保しただけで、同年4月末には一旦甲斐に帰国します。この状況で家康が今川氏真および北条氏政と和睦したことを、信玄は契約違反行為と認識し、織田信長に、家康に意見するよう、要請しています。信玄は家康を信長の配下と認識しており、それ故に家康の(信玄から見て)裏切り行為について、信長に問い質したわけです。
じっさい、家康は将軍である足利義昭への奉公として織田信長に命じられ、1570年には上洛しており、その途中で信長の本拠である岐阜城に参向した、と伝わっています。これは、家康と信長の関係の変化を示すものとして重要になります。家康は信長に従って越前にまで攻め込みますが、浅井長政の離反により敗退し、遠江の新たな本拠地である見付城へと帰った、と推測されます。しかし、同年6月には信長の意見に従って本拠を浜松に移しており、信長との間に明確な上下関係が見られます。同月に浅井長政を攻めるために北近江に出陣した信長に家康も従い、朝倉と浅井の軍勢に勝利しています(姉川合戦)。さらに同年8月、信長がいわゆる三好三人衆を攻めるために摂津に進軍すると、家康も従軍します。この戦いで大坂本願寺が足利義昭と織田信長に対して蜂起し、信長は同年9月には京都に帰陣し、家康も同様と考えられます。
こうした1570年の家康の軍事行動は、将軍である足利義昭への支援という形ではあったものの、実際の軍事行動は全て信長の管轄下にありました。1571年8月、家康の嫡男の竹千代は元服し、実名は信康とされました。信康の苗字は徳川ではなく松平で、家康は関ヶ原合戦後にやっと子供の一部に徳川苗字を認めるようになります。信康の「信」は織田信長からの偏諱で、家康は信長に対して従属誓約の起請文を明確に出したわけではありませんが、この偏諱は徳川家が織田家の配下に位置していたことを明確に示しています。その後、信長が1575年11月に将軍相当の官位に就任し、名実ともに「天下人」となったことで、家康が信長に従属する立場になったことは明確になりました。この前後で、信長から家康への書状は、対等な相手に対するものから明確に配下に対するものへと変わり、家康から信長への書状は、目上に対する形という点では変わらなかったものの、宛先が信長から家臣へと変わっています。この「織田政権」での家康の地位は、織田家一門衆と同等とされました。これは、信康が信長の娘である五徳の夫だったこともありますが、信康が殺害され、五徳が織田家に戻っても、信長は家康を織田一門の大名として処遇し続けました。
上述のように、家康は武田信玄と協同して今川領に攻め込んだものの、今川氏真およびその支援者にして義兄でもある北条氏政と和睦したことを、信玄から契約違反行為と責められました。すでにその前に、信玄が駿府付近で放棄した今川方と和睦したことを家康が契約違反と責めており、今川家と勝手に和睦しないことが武田家と徳川家とのも間で決められていたようです。しかし家康は、信玄から契約違反と責められても関係を改善する意思はなかったようで、武田家との対決も視野に入れてか、1569年2月には上杉輝虎(謙信)に前年受け取った書状に返事を出しています。ただ、徳川家と武田家が直ちに本格的に軍事衝突したわけではなく、その同盟関係は表面的には継続し、1570年4月には家康の家臣から信玄の家臣へと同盟継続への尽力を訴えた書状が送られています。しかし、これを最後に両家の同盟関係は確認されず、家康は上杉家との同盟交渉を進めていきます。この時点で、上杉家は北条家および織田家と同盟関係にありました。1570年10月には徳川家と上杉家の同盟が成立し、これは明らかに対武田家対策でした。家康は、信長に武田家の同盟を破棄させようとも考えていました。家康のこの行為を、信玄は深く恨んでいたようです。ただ、信玄は北条家との抗争があったので徳川領に本格的に攻め込みませんでした。
この状況は、1571年10月に北条氏康が没し、北条家が上杉家との同盟を破棄して武田家と同盟したことにより、大きく変わります。1572年9月、信玄は徳川領へ向けて進軍を開始します。信玄は朝倉家や浅井家や大坂本願寺などとも連携し、徳川家だけではなく織田家とも敵対します。織田信長は、これを信玄の裏切りと認識し、武田家を強く恨んだようです。家康は、上杉家および北条家と連携して武田家を追い詰めるつもりでしたが、武田家と北条家の同盟が復活し、織田軍は畿内とその周辺で敵対勢力と対峙するようになっており、上杉家は北条家および越中方面での軍事行動を強いられ、孤立した状況で武田軍の侵攻に対処することになりました。遠江に侵攻してきた武田軍は、高天神城や二俣城などを攻略し、進軍開始から2ヶ月も経たないうちに徳川領の半分を制圧します。織田信長が徳川へと送った援軍は3000人ほどで、武田軍に対しての劣勢は否めませんでした。1572年12月22日、徳川軍は武田軍に大敗しますが(三方原合戦)、偶発的な小競り合いから本格的な合戦に至った、と本書は推測します。しかし、武田軍の進撃はこの後で鈍り、本書は信玄の病状悪化が原因だろう、と指摘します。武田軍は1573年2月17日に三河の野田城を攻略しますが、その後、同年3月に信玄は甲斐へと向かい、その途上、同年4月12日に没します。これにより、家康は窮地から脱しました。信玄の病状が悪化せず、そのまま進軍していたら、徳川家の存立が危機に陥ったかもしれない、と本書は指摘します。
しかし、1573年4月に武田信玄が没しても徳川家にとって武田家は相変わらず脅威で、1575年には長篠合戦の直前に、武田軍を岡崎城に引き入れ、岡崎城を武田方にしようと企てた大岡弥四郎事件が起きており、その結果、家康の嫡男で岡崎城主である松平信康の家老の一人である石川春重がその後で切腹させられ、松平氏一族の親宅が失脚していることから、大岡弥四郎の単独謀議ではなく、信康家臣団中枢による謀叛事件と考えられています。この謀叛は、武田軍が奥三河へと徳川領に侵攻してきた時に起きました。信玄没後すぐ、家康は武田軍に制圧された三河の旧領奪還に動き、武田軍にとって三河における拠点だった長篠城も攻略しています。しかし、信玄の跡を継いだ武田勝頼は直ちに反撃し、1574年には遠江の高天神城を奪取しています。1575年、勝頼は三河へと進軍し、これは織田信長に攻撃されていた大坂本願寺への側面支援でした。大岡弥四郎たちによる謀叛は未然に防がれましたが、これは武田軍が優勢との判断より、石川春重や大岡弥四郎が自らの存立維持のために起こした、と本書は推測し、この謀叛が盛行していた可能性は充分にあり、謀叛が密告により発覚したのは家康にとって幸運だった、と本書は指摘します。さらに本書は、武田家による調略が家康の正妻にして信康の生母である築山殿にも及んでいた可能性を指摘します。この時、三河へと侵攻してきた武田軍は長篠城に向かい、家康は徳川家の危機として織田信長に援軍を要請し、信長は嫡男の信忠とともに三河に出陣してきて、5月21日、武田軍に大勝します(長篠合戦)。その後、家康は武田家に奪われた旧領を奪回していきます。
大岡弥四郎事件から4年後の1579年8月4日、家康は岡崎城主である嫡男の信康を「逆心」のため追放して幽閉し、その生母で家康の正妻である築山殿も幽閉します。同月29日には築山殿は自害し、同年9月15日には信康が自害させられます。この事件は江戸時代に成立した『三河物語』により、信康の正妻である五徳の父親の織田信長の命により、家康は信康を切腹させた、と長く考えられてきました。しかし現在では、信康の処罰は家康が信長に従属していたため、信長に申請して信長から了解を得たにすぎない、と考えられています。本書はこの事件の遠因として、上述の1575年に起きた大岡弥四郎事件を挙げ、築山殿が武田家に内通し、信康家臣団中枢とともに謀叛を画策した、と推測しています。本書は、1575年時点で築山殿は徳川家が武田家に滅ぼされることを懸念し、その対策として武田家に内通し、信康を武田家の従属下で存立させようとしたのではないか、と推測します。こうした行動は戦国時代には珍しくなく、築山殿にとって夫の家康よりも息子の信康の方がはるかに大切だったのだろう、というわけです。上述のように、大岡弥四郎たちによる謀叛は未然に防がれ、信康の家老の一人である石川春重は切腹させられ、大岡弥四郎も処刑されていますが、恐らくは多くの信康家臣団がこの謀叛に参加しており、その全員を処罰しては信康家臣団が崩壊してしまうので、武田家との抗争の最中にあって謀叛の中心的人物だけが処罰され、築山殿の内通も家康は不問に付したのだろう、と本書は推測します。こうして家康と築山殿の間で信頼関係は失われ、築山殿は家康の嫡男である信康の生母という立場に特化し、信康に決定的に依拠するようになっただろう、と本書は指摘します。この状況で、信康と五徳とが不和となり、信康について不行状が記録されるようになります。信康と五徳の不和について本書は、政治的地位は両者の父親の力関係を反映して五徳の方が上だったのに、信康がそれを蔑ろにしたからではないか、と推測しています。五徳は信康への腹いせに信康の不行状を十ヶ条にまとめて信長に送り、信長はその内容を酒井忠次と大久保忠世に尋問し、1578年1月頃に築山殿の武田家内通を知ったのではないか、と本書は推測します。これを受けて家康は、1578年9月に、岡崎城下に居住していた三河衆を本拠に帰還させます。これは岡崎城主としての信康と三河衆の関係を切断させるためで、家康はこの時点で信康を危険視していたようです。家康は、信康が武田家に内通していなかったとしても、築山殿が信康とともに武田家に内通するつもりだったことから、信長への忖度として築山殿と信康を処罰することに決めたのだろう、と本書は推測します。それでも、築山殿と信康が処罰されたのはこの時点から約1年後で、それは、この時期には武田家との攻防が膠着状態に陥っており、信康の処罰による徳川家の軍事力低下を恐れたからだろう、と本書は指摘します。家康が築山殿と信康の処罰を決断したのは1579年6月頃で、その背景には同年4月に長丸(徳川秀忠)が生まれ、武田家と北条家の同盟が解消しそうだったことがあるまではないか、と本書は推測します。また本書は、家康が築山殿と信康を処罰した背景に、徳川家臣団における三河衆と浜松衆との間の対立の可能性を指摘します。本書は、家康は築山殿と信康を自害させるつもりはなかったものの、築山殿は自らの意思で自害し、信康は幽閉先の二俣城に徳川軍が集結した状況で不穏の事態を防ぐため、自害を命じたのだろう、と推測します。
武田家は北条家との同盟解消などで不利な状況に陥りますが、それでも家康が遠江の旧領の大半を回復したのは1581年で、1582年初頭の時点でも、武田家は徳川家単独で対抗するには大敵でした。しかし、1582年2月に織田軍が美濃から武田領国の信濃へと侵攻し、家康も呼応して駿河に侵攻すると、武田家は同年3月にはあっさり滅亡します。家康は織田信長から駿河一国を与えられますが、同年6月2日の本能寺の変で信長が横死し、旧武田領国の甲斐と信濃と上野をめぐって、徳川家と北条家と上杉家が争うことになります(天正壬午の乱)。この結果、家康は三河と遠江と駿河に加えて甲斐と信濃の大半も領国化し、有力大名に成長しますが、これは家康の独断ではなく、織田家の了解を得て進められました。この時点での家康は、織田政権に従属する織田一門大名の立場にあったわけです。しかし、織田政権では内乱が続き、織田信孝および柴田勝家と織田信雄および羽柴秀吉との対立では、家康は後者を支持しています。1583年、織田信孝と柴田勝家が相次いで羽柴秀吉に攻め滅ぼされますが、その後で織田信雄と羽柴秀吉の関係が悪化し、家康は織田信雄に与して羽柴秀吉と対立します。本書は、信雄が織田家当主で、徳川領と隣接する地域を領国としていたことを、信雄に与した理由として挙げています。家康は1584年、信雄とともに秀吉の侵攻に対峙し、家康は局地戦で勝利を収めたものの(長久手合戦)、全体的には劣勢で、家康と信雄から秀吉に人質を差し出す形で1584年11月には和睦が成立します。この時、秀吉は信雄に対しては対等性を示しましたが、家康に対しては自身が上位者であることを明確に示しています。家康は秀吉になかなか出仕しませんでしたが、信濃では国衆の大半が秀吉方につき、1585年11月には徳川家において秀吉との外交を担っていた家老の石川康輝(数正)が、家康の対秀吉強硬路線により家中での政治的立場を失って、出奔します。これは家康にとって大きな衝撃となり、秀吉はこれを外交関係の断絶とみなしましたが、同月29日の畿内を中心とする大地震(天正地震)により、秀吉が大打撃を受ける中で、家康は秀吉への従属を決断し、秀吉は家康討伐を断念します。家康は秀吉への従属に伴い、秀吉の妹の朝日(南明院殿)と結婚します。朝日は家康にとって築山殿に続く二人目の正妻でした。朝日の前夫は、一揆の攻撃により城を失い、秀吉により朝日と離婚させられていたようで、家康との結婚のために離婚させられたわけではなさそうです。
羽柴秀吉の妹との結婚もあり、羽柴(豊臣)政権における家康の立場は、他の旧戦国大名や旧織田家臣よりも上位にありました。家康が秀吉に出仕した直後の1586年11月時点で、家康の官位は織田信雄の次となる従三位権中納言で、秀吉の実弟である秀長と同等でした。家康は織田政権においてすでに、信長との姻戚関係(信康の死により解消されますが)もあって高い政治的地位にありました。1590年に信雄が失脚し、1591年に秀長が死去したことで、家康は羽柴政権において単独で諸大名筆頭に位置し、秀吉の死去まで変わりませんでした。領国規模でも、家康は羽柴政権の諸大名を上回り筆頭でした。家康は秀吉死後に「五大老」の筆頭として政務運営に関わりますが、秀吉に出仕した時から羽柴政権の政務に関わっており、とくに東国政策では重要な任務を委ねられ、関東と奥羽の大名や国衆が羽柴政権に従属するよう、働きかけていました。北条家の滅亡に伴い、家康は旧北条領国へと転封となりますが、これは家康が北条家への取次を担当していたにも関わらず、北条家の従属を実現できず開戦に至ったからで、家康は戦争により荒廃した旧北条領国の復興を担わされた、と本書は指摘します。ただ、これにより徳川領の石高はほぼ倍増の240万石となり、秀吉から親類大名筆頭の家康への配慮でもあったようです。朝日が死亡し、一時的に徳川家との姻戚関係が断絶しても、秀吉は家康とその嫡男である秀忠への厚遇を続け、秀吉の後継者とされた秀頼を家康と秀忠が補佐するよう、構想していました。
1598年8月15日に羽柴秀吉が死去し、後継者の秀頼は幼少だったので、「五大老・五奉行」により羽柴政権は運営され、家康は「五大老」筆頭として政務運営に関わりました。「五大老」で家康とともに別格的な地位にあった前田利家は、1599年閏3月3日に没し、その直後に羽柴家譜代家臣の内部抗争が生じ、「五奉行」の一人である石田三成が失脚します。同月13日に家康は伏見城西の丸に入り、家康が「天下人」になった、と同時代人に評されるようになりましたが、家康は他の大老や「四奉行(石田三成が失脚したため)」と協調して政務を担当していました。家康の地位が大きく変わったのは同年9月に大坂城西の丸に入ったことで、秀頼の後見人として天下を統治するようになった、と同時代人にみなされています。本書はこれについて、不在の「天下人」を実質的に代行した、と指摘します。ただ、家康はあくまでも「天下の家老」であり、「主人」ではない、とみなされていました。家康は自身の体制に反発したり、そう予想されたりする存在に従属を迫っていき、そうした過程で起きたのが1600年の関ヶ原合戦でした。これに大勝した家康は反対勢力を一掃し、一気に覇権を確立します。関ヶ原合戦後も家康は秀頼を主人とし、出仕し続けましたが、それは1603年2月4日が最後で、その直後の同月12日に家康は征夷大将軍に任官しています。これを機に家康は、すでに名目的になっていた秀頼との主従関係を最終的に解消した、と本書は評価します。家康は征夷大将軍任官後の1603年3月23日、大坂城西の丸から伏見城へ移り、ここが「天下の政庁」となります。家康は諸大名の大坂屋敷の妻子も伏見に移居させ、家康を主宰者とする新政権が誕生した、と本書は評価します。
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