林尙澤「韓半島新石器時代集落の展開と生業の変化」

 本論文は、2019年7月28日に行なわれた明治大学グローバルホールでの講演の報告です。朝鮮半島の新石器時代はおもに土器の特徴から地理的には東北部と西北部と中西部と中東部と南部に区分され、時期は草創期と早期と前期と中期と後期と晩期に6区分されています。2019年時点で知られている違いの新石器時代集落遺跡は100ヶ所ほどで、本格的な集落遺跡は早期(紀元前6000~紀元前4500年頃)から出現し、後期まで全国的に分布します、が晩期(紀元前2200~紀元前1300年頃)になると急速に減少します。集落遺跡は内陸と海岸に均等に分布していますが、大小の河川の沖積地や自然堤防や低丘陵を主要な立地としています。東海岸地域では海岸と砂丘に集落が分布する事例もあります。集落は5基未満の小規模なものから20基以上の大規模なものまで多様ですが、大半10基未満です。北部地域や西南部地域は遺跡の分布が少なく、調査密度の差によると考えられます。

 草創期の住居址は、済州島の高山里遺跡が唯一の事例とされています。放射性炭素年代測定では、最古級が紀元前7600年頃です。しかし、高山里遺跡では早期隆起文土器段階以降の土器が確認されており、紀元前6000年期以降の年代値も多数測定されています。狭い面積に多数の遺構が重複して確認されていること、すべての遺構内部の土器が単一であること、住居址と竪穴の遺物の出土様相に違いがないこと、早期段階でもこのような大規模な集落遺跡がまったく確認されていないこと、遅い年代の測定値が確認された遺構からも高山里段階の土器と石器のみ出土しており、遅い段階の遺物は確認されていないことなどから、高山里遺跡が草創期なのか、議論になっています。

 議論となっている高山里遺跡を除くと、草創期段階の集落遺跡はまだ確認されていません。早期になると、東北部と西北部と中東部と南部では竪穴住居址が確認されています。前期(紀元前4500~紀元前)には竪穴住居址からなる集落が本格的に確認されるようになります。後期(紀元前3000~紀元前2200年頃)の集落は、平面プランと内部施設から、中期より継続する様相も確認されますが、これとともに長方形住居址が多くなる、という特徴も確認できます。本論文は、集落構造の変化が気候変動およびそれと関連した産業構造の変動による移動性の高まりを反映しているかもしれない、と指摘します。

 本論文はこうした朝鮮半島における新石器時代の進展を、ヨーロッパ(関連記事)など他地域と同様に「新石器化(Neolithization)」の過程として把握します。新石器化の最初の段階では、上部旧石器時代以降に新たな技術体系が確立しました。高山里遺跡により代表される草創期段階(上述のように高山里遺跡が草創期なのか、議論されていますが)に該当しますが、細石器や掻器など上部旧石器伝統の石器が維持されている中で、新たな土器や磨製石斧や磨棒と磨盤や多量の石鏃と石銛が使用されました。多くの石鏃と石銛が見られるように、狩猟への依存度が依然として高い段階ですが、磨棒および磨盤や全面磨研石斧の出現などは、植物食料に対する利用強化の現象としても理解できます。

 新石器化の第二段階については、まず、海水面が安定し、海岸地域に貝塚が本格的に登場する早期に、鰲山里遺跡以外には竪穴住居を形成する集落がまったく確認されておらず、本格的な竪穴住居址集落の段階として理解することは困難で、相対的に移動性が高い段階と考えられます。前期になると初めて明確な竪穴住居が登場します。東北部の西浦項や中東部の鰲山里などでは、方形や長方形などの住居址が発見されていますが、まだ事例は多くなく、集落規模は小さいと考えられています。南海岸地域ではまだ本格的な集落遺跡が確認されておらず、貝 層から野営地と判断される施設が一部確認されているだけです。この段階に海洋資源に対する本格的な利用が強化され、相対的に遺物も豊富であることから、定住集落の存在を想定でき、東北部と中東部の事例が該当します。南部地域ではまだ集落の存在が不明確ですが、季節的居住を含む竪穴住居址の存在を予期できます。

 新石器化の第三段階である前期後半~中期は、朝鮮半島全域における本格的な竪穴住居址のある集落の登場から始まります。中西部地域では大規模集落が確認され、中東部と南部地域からも一定規模以上の集落遺跡が数多く確認されています。このように本格的な集落遺跡が登場する要因として、植物性食料資源の利用強化と初期農耕の導入が大きな役割を果たしていた、と推測されます。ただ本論文は、朝鮮半島の新石器時代について、まだ資料が不明な地域と時期も多いことを指摘します。

 本論文が提示する朝鮮半島の新石器時代は、古代ゲノム研究との関連でも注目されます。朝鮮半島の新石器時代の人類遺骸のゲノムデータは少ないながら報告されており、最古級の個体の年代は紀元前4700年頃となります(関連記事)。この個体のゲノムは、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連構成要素の高い割合と「縄文人(縄文文化関連個体群)」関連構成要素の低い割合でモデル化できます。朝鮮半島の新石器時代には、遺伝的にはほぼ「縄文人」の個体も存在します。

 これらゲノムに「縄文人」関連構成要素を有する新石器時代朝鮮半島の複数個体は、いずれも南岸部で発見されています。「縄文人」の遺伝的構成が形成された時期と場所と具体的過程は不明ですが、朝鮮半島で形成されたのならば、紀元前6000年頃以前に西遼河地域から朝鮮半島へと到来した集団が、朝鮮半島南岸部に存続していた「縄文人」的な遺伝的構成の集団と混合した、とも考えられます。あるいは、「縄文人」的な遺伝的構成が朝鮮半島で形成されたとしても、朝鮮半島では一旦消滅し、朝鮮半島の新石器時代早期以降に日本列島から到来した可能性も考えられます。「縄文人」的な遺伝的構成が日本列島で形成された場合も、同様の過程が考えられます。

 朝鮮半島南岸では、三国時代の伽耶でも人類遺骸のゲノムにおける「縄文人」的構成要素の割合が現代日本人(東京居住者)と同等以上の個体が確認されていることから、新石器時代から三国時代まで、ゲノムにおける「縄文人」的構成要素の割合が現代日本人と同等以上の集団が存続していた、という可能性も指摘されています(関連記事)。ただ、この間の朝鮮半島南岸の人類のゲノム解析結果が公表されていないようなので、三国時代の伽耶の個体のゲノムにおける「縄文人」的構成要素の割合が新石器時代から三国時代まで存続したのか、断定はできないと思います。つまり、朝鮮半島南岸の個体群において、新石器時代以後に一度はゲノムにおける「縄文人」的構成要素がほぼ駆逐され、古墳時代の日本列島から改めてもたらされた可能性も考えられる、というわけです。それはともかく、朝鮮半島の新石器時代は現代日本人の形成過程の考察において重要な情報をもたらしてくれると考えられるので、今後も少しずつ調べていくつもりです。


参考文献:
林尙澤(2019)「韓半島新石器時代集落の展開と生業の変化」
https://www.meiji.ac.jp/cip/researcher/6t5h7p00000ixpa5-att/material_2019_Kurishima.pdf

この記事へのコメント